2012年01月

2012年01月30日

良弁の滝(伊勢原市・大山山麓)

良弁の瀧※大山良辧瀧(版画)。

  前回(2012.1.29)、「大山阿夫利神社・大山不動(神奈川県伊勢原市)の麓にあった「良弁の瀧」の瀧口が龍頭だったことを思い出した(次回記す)」と記した。

  大山は、かつては大山修験の山岳で、山容厳しく、頂上や中腹に大山阿夫利神社各社や大山不動(雨降山大山寺)がある。

  雨降山大山寺は、明治の神仏分離の波を被ったが、もとは、天平勝宝4年(西暦752年)に良弁(東大寺初代別当)が建立した、阿夫利神社の神宮寺(本尊不動明王)/聖武天皇勅願寺であったという。

  私たちが泊った大山山麓の先導師旅館「かめ井」の下方に、良弁が大山寺を開創したときに、心垢を清めたという「良弁の滝(瀧)」(大山良辧瀧)と、良弁自作の良弁僧正座像(42歳時と幼児期)を納めた「良弁堂」(開山堂)ある。

  「良弁の滝(瀧)」の滝口(瀧口)を見上げたとき、大きく口を開いた龍の口と「龍頭」が目に入った。
  この「龍の口」から滝水が流れ落ち、滝壷で水垢離ができるようになっていたが、私たちが訪れたときは、一滴の滝水(岩清水)も落ちていなかった。
  江戸時代、この「良弁の滝」と、近くにある「愛宕の滝」は、大山詣での参詣者たちが「大滝で根性骨の丸洗い」をしたところだったと聞いていたが、この日は、なぜか「愛宕の滝」の方も滝水が落ちていなかった。
 (つづく→「大山先導師旅館(伊勢原市)」)。
 (次回→「龍神露天風呂、龍国寺、龍の人名など」)

(参考)
 2010.5.27「多礼の孔大寺神社(7)〜付記(大山阿夫利神社) 」。
 2010.6.16「いい旅夢気分〜丹沢・大山の旅を観た」。
 2010.11.2「舎利蔵へ(8)~産神は天降天神社」。

追記→2012.4.19「大山山麓・良弁の滝と権田公園(「陽炎の辻」を観て3)」。  

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2012年01月29日

龍頭・瀧口・蛇口(手水鉢)

  前回(2012.1.24)、「枝木の竜(?)〜大分八幡宮にて」で、「蛇頭(或は竜頭)」という言葉を使った。
  「竜頭(龍頭)」といえば、手水鉢に付いている「蛇口」が緑色の「鋳物の龍頭」になって、その「龍口」から水道水が出ている神社を時々見かけることがある。
  もともと日本では、水道の「蛇口」は、「龍口」と言われていたこともあるようで、オーソドックスな蛇口の形は「龍頭」を想像させる。

  「AQUAS5」などによると、「蛇口の由来(語源)」は、日本では、水を守護する神が龍(龍神)だったので、「龍口」という言葉が生まれ、それが後に「蛇口」となったらしい。

  これまで、手水鉢の「蛇口」が「龍頭・龍口のデザイン」になっているところを時々見かけているが、さほど関心なく見過ごしてきているので、それがどこどこにあったかについては、すぐには思い出せない。
  もちろんカメラに納めたこともないが、これからは、注意して観察しておこう。

  そういえば、「(滝)」も、「三ズイに龍(竜)」と書くので、瀧は「龍神」(八大龍王)に守護されているのだろう。
  各地の瀧行場には「不動明王像」が祀られていることが多いが、不動明王は「龍神」(八大龍王)の本地仏なのだろうか(諸説あり、ここでは述べない)。

  今回、本稿で八大龍王や高龗神・闇龗神を祀る龗神社(旧八龍神社)や尾上神社(龗神社)について述べたが、ふと、八大龍王とも言う高龗神・闇龗神を祀る「大山阿夫利神社・大山不動尊」(神奈川県伊勢原市)を参拝したとき、その麓にあった「良弁の瀧(滝)」の「瀧口」が「龍頭」だったことを思い出した(→次回)。

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2012年01月26日

大分八幡宮の裏山(飯塚市)

  以前(2011.10.9)、「飯塚壇の上の史跡(高校郷土部80年)」で、大分八幡宮(全国の八幡宮の元宮、裏山は禁裏か)と記したが、前回(2012.1.24)、「枝木の竜(?)〜大分八幡宮にて」に、「大分八幡宮
は筑紫王府(宗家)の君の霊(古墳)を祀るために建てられた宮ではなかったのか」と記したように、裏山にはご神体の古墳がある。

  実は、この裏山を越えた後方に広がる台地に、九州筑紫王朝の太傳(だいぶ)府の禁裏があったのではないかと想像していたのである。しかし、現在、同台地は開発されて大型住宅団地になっており、開発時に発掘調査が行われたものかどうか調べていないので、確かなことは分からない。

  去る1/15に、遅い初詣で、久しぶりに大分(だいぶ)八幡宮を訪れて驚いたことがあった。

  以前から大分八幡宮の頂上(古墳)は、神殿の右後方、「大神宮」(鳥居あり)の上方にあるとは思っていたが、実際に、それを確認したことはなかった。
  それは、「大神宮」の鳥居をくぐると、以前は、急斜面の裏山の中腹まである石段を上った位置に古石祠が鎮座し、その上方は樹木が茂り、これ以上登る道もなかったので、これより上は禁足地になっているのだと思っていたので、ここより上に上ったことがなかったからである。
  ところが、今回訪れたとき、この古石祠はなく、その上に新しい石段が設けられ、周りの樹木は切り払われ、さらにその先は頂上付近まで上れる山道が設けられていたのに驚いたのだ。

  なお、「大神宮」の鳥居の右後方にも、もう一つ中腹まで上る新しい石段と、同中腹に新しい御影石の石祠が設けられていた。こちら側には、これより上に上る石段や道はないが、この上方にあたるところに、古石祠が祭られている。この古石祠は、以前、上記中腹に鎮座していたものを移設したものか。
  この頂上の杜の前にある古石祠にお神酒を供えて参拝したが、この杜が、「大神宮」とされている古墳ではないかと思う。

  「大神宮」の祭神は、大物主命(天照国照彦饒速日命)だと考えられなくもないが、実際は、大分八幡宮建立時期と伝えられる奈良時代(8世紀初期)よりは遥かに古い(5世紀頃の)ご神体で、坐太傳府筑紫君(九州筑紫王朝宗家大神)ではなかったのかと思う。

  なお、創建当時の大分八幡宮は、この裏山に建立されていたというが、それだけ古くからこの裏山が神聖地であることが意識されていたということであり、実際の創建時期は、上記の建立時期より遥かに古く、裏山の古墳も5世紀頃のものだと思う。
 (つづく→「ショウケ越・神功皇后と筑紫太傳(大分八幡宮)」)

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2012年01月25日

沼田鈴子さんを偲ぶ会(歌)の映像観た

  Eメールを開いたら、某氏が撮影した「沼田鈴子さんを偲ぶ会(2012.1.22)」の映像(you tube)が入っていた。
  広島県民文化センターで井口小学校合唱団の子供たちが、中村里美&伊藤茂利さんらとともに「アオギリの木の下であなたを想う(アオギリにたくして)」と歌う映像だった。

  昨年(2011.7.13)、「アオギリの語り部・沼田鈴子さん逝く(広島)」を記したが、沼田鈴子さんは、広島市の平和記念公園のアオギリの木の下で、松葉づえをつきながら、自らの被爆体験を多くの子どもたちに語り続けた人だった。
  それだけに、子供たちが、沼田鈴子さんを偲び、「アオギリの木の下であなたを想う」と、悲しくも美しい声で歌う歌声は心を打つ。

  この歌「アオギリにたくして」は、「被爆アオギリ ワシントンへ渡る(2010秋)」(you tube)のなかに、シンガーソングライターの中村里美さんが被爆アオギリの苗がワシントンに渡り植樹されたことの報告を兼ねて、病床の沼田鈴子さんを尋ねたとき、沼田鈴子さんに捧げる歌として歌った歌としても記録されている。聴いていると、被爆体験と平和運動に一生を捧げた沼田鈴子さんの気持が伝わってくる。
  (※→「中村里美&伊藤茂利 アオギリにたくして」)

  また、you tubeには「ヒロシマ被爆者証言:沼田鈴子(2007.5.24)」も投稿されているが、この録画は、被爆体験者とは思えないほど明るく温和な沼田鈴子さんの性格がよく分かる貴重な映像だと思う。

  沼田鈴子さんは、昨年(2011)7/12永眠され、広島原爆被爆体験の語り部が次々と亡くなっていく時代となった。
  近年の近隣諸国の政治、軍事状況を見ていると、いつまでも平和な時代が続くとは思えないような気がしてならない。危惧するところでもある。

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2012年01月24日

枝木の竜(?)〜大分八幡宮にて

6木枝(大分八幡)  去る1/15、大分(だいぶ)八幡宮(飯塚市大分)に遅い初詣に行った。

  同宮を訪れたとき、百度参りで拝殿前と楼門の間を往復している男性を見かけたが、ほかに人出はなかった。

  鎮霊社入口付近を歩いていたとき、突然、同行していたZが、「あの木の枝、竜(龍)に見えませんか」と言った。
  指差す方を見上げたら、真新しい切り口の見える枝木が目に入った(※上の画像)。

  割と高い位置にあり、ここだけ剪定したとは考えられないので、多分、その部分にも伸びていた枝の一部が折れて、その痕が蛇頭(或は竜頭)のような形になったのだろう。
  そして、横にくねるように伸びる太枝を合わせると、Zの目には、この枝が竜(龍)体に見えたのだろう。

  「う〜ん、そういえば、そのようにも見えるね」

  考えてみると、今年の干支「辰」にかこつけて、昨年末から「龍(竜)神」のことなどを立て続けに本ブログに書いていたので、それを読んでいたZも、すっかり「龍神」にはまってしまったようだ。

9境内水路(大分八幡)  それはともかく、大分八幡宮境内には湧水池があり、その水は山間から流れ来る清流に合流して境内を横切っている(※左の画像)。

  この湧水池を龍神池、清流は清瀧・青龍=四神の一、宮の杜は龍神の杜であったと考えれば、今も当地には龍神がおられるのかも知れない。
  特に、この杜に連なる丘陵を、山間の穀倉地のなかに横たわる「龍体」に見立てて、この杜の一角に大分八幡宮が造営されたのではないのかとも想像した。

  なお、私は、大分(だいぶ)の地は、5世紀頃、筑紫(九州)王朝の倭王武(武王)が開いた「三司(三公)」<太宰(だざい)府・太傅(だいぶ)府・太保(だいほ)府>の一つである「太傅府」の都が開かれた地であるとの説を支持している。
  そして、大分八幡宮は筑紫王府(宗家)の君の霊(古墳)を祀るために建てられた宮ではなかったのかと思っており、当地が、中国風に考えて、龍宮であったと思ってもおかしくはないような気がする。
  (つづく→大分八幡宮の裏山)

 ※前回→「吉野山の龍王院(能天大神)・金龍の滝など」。
 ※次回→「龍頭・瀧口・蛇口(手水鉢)」。

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2012年01月22日

2012秘仏蔵王権現ご開帳(吉野山・蔵王堂)

仁王の掌1 ※左の画像は、平成大修理が発願されている金峯山寺仁王門(国宝)を護る仁王像(奈良県吉野山)。

  以前(2010.11.10)「吉野山・仁王の手フォト」、及び(2010.12.8)「吉野山・仁王の手フォト575殿堂入り発表」を記したが、この仁王像が鎮座する「金峯山寺仁王門の平成大修理」が発願されたようだ。

  この「仁王門大修理勧進・金峯山寺(蔵王堂)秘仏本尊特別ご開帳」の時期は、本年(2012)3/31(土)~6/7(木)の間で、その案内チラシ・ポスターを受取った。

  その趣旨を要約すると次のようだ。
  「金峯山寺・仁王門(国宝)は、寺内で現存する最古の建造物(延元3年(1338)再建〜南北朝動乱期に高師直が吉野山に攻め込んだときにも焼失を免れ、平成16年ユネスコ世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構造物の一つに指定された。
  明治時代の解体修理以後二度の修理を経て今回平成の大修理を発願した。
  この仁王門大修理勧進のために、今後10年間毎年一定期間のみ本堂蔵王堂(国宝)の日本最大秘仏本尊金剛蔵王大権現3体(重要文化財)のご開帳を行う」という。

  




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2012年01月21日

「蔵王一仏信仰」(金峯山寺管長巡錫)

  前回、(2012.1.17)「金峯山寺管長巡錫行」で、去る1/14午後、金峯山修験本宗・総本山金峯山寺五條覚堯管長猊下、田中利典宗務総長一行が拙道場に来訪され本尊供養を賜ったことを記した。

  このとき、五條覚堯管長猊下から「蔵王一仏信仰」の法話を頂いた。この「蔵王一仏信仰」について、以下に書き留めておくことにする。
  「蔵王」とは、総本山金峯山寺(奈良県吉野山・国宝蔵王堂)のご本尊「金剛蔵王権現」のことで、「金剛蔵王権現」のお名は、「金剛」と「」と「」と「権現」を合体したお名である。

  つまり、密教曼荼羅における「金剛界」(金剛)と「胎蔵界」(蔵)を統一する「法王」(王)が仮の姿で今生に顕現(権現)された、そのお姿が修験道の本尊「金剛蔵王権現」なのである。

  「金剛界」と「胎蔵界」を統一する「法王」とは、言うまでもなく「大日如来」であり、それ故に「金剛蔵王権現」は、「金剛胎蔵王如来」とも呼称されている。

  宇宙を支配する「大日如来」は、「お釈迦様」(釈迦如来)として地上に現れて、「観音菩薩」「彌勒菩薩」「地蔵菩薩」「不動明王」など多くの諸仏、諸菩薩などに身を置き換えて人々に悟りへの道・仏教を説かれ、仏教の諸仏、諸菩薩は、日本の諸神とも習合した。

  ということは、「蔵王権現」一仏の信仰は、すべての仏神を一仏として統一して信仰することにほかならないのである。
  これが「蔵王一仏信仰」で、この信仰に徹すれば、信心の心を集中し「大安心」を得ることができる、ということなのである。

 ※「山伏・修験道の本尊蔵王権現入門(総本山金峯山寺)」参照。

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2012年01月20日

絵付け体験(嬉野陶彩館や吉田窯などで)

嬉野陶彩館にて絵付け  佐賀県には、多くの窯元がひしめきあい、なかには陶器作りを体験できるところもある。

  昨年8月、「肥前吉田焼窯元会館」(佐賀県嬉野市吉田丁)を訪れたとき、絵付け体験をした。

  焼く前の皿や湯飲み、マグカップなどに直接、鉛筆で下絵を描き、その上に筆で色(青、赤、黄、緑)を付けていく、それだけのことだが、なかなか筆が思うようには運ばないものだ。
  このときは、マグカップにタンポポの絵を描いてみたが、絵付けが終わるまでに2時間もかかっていた。

  後日、吉田窯で焼かれて、送られてきた陶器を手にしたときは嬉しかったが、満足行くものではなかった。
  でも、素人同士で出来ばえを批評しあうのは楽しいものだ。
  また、この陶器を観ていて、手垢の汚れがそのまま焼き付けられるものだと分かったときは、失敗ではあったが、勉強になった。

  今月18日、また武雄方面に出かけることができたので、時間の合間を縫って、今度は、武雄市のほど近くにある「嬉野陶彩館」(嬉野市塩田町大草野丙)に行き、今回もマグカップを選び、椿などの絵付けに挑戦した(※左上の画像)。

  でも、やはり筆を使っての細かい線引きなどは、なかなか思うようには行かなかった。また、色の濃淡にムラが出て、同じ色あいで塗りつぶすことなども至難だった。でも、今回は1時間半で完成した。
  今回の陶器(焼き上がると、大きさは縮小する)が、どんな色合いの絵に焼きあがってくるのかが楽しみだ。
  
  陶器の絵付け体験は、意外と楽しいので、多くの人たちが体験できたらいいのだが、と思った。  

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2012年01月19日

武雄市の道祖神(男女の陰陽石)

武雄の陰陽石 ※左の画像は、武雄の男女の陰陽石
(道祖神社祠前)。

  JR武雄駅(佐賀県武雄市)からタクシーに乗って、国道34号線を通って嬉野陶彩館(嬉野市塩田町)に向う途中、御船山観光ホテルの手前で停めてもらい、国道の右側に鎮座する「道祖神」(さやのかみさん/武雄市)を久しぶりにお参りした。

  社祠のなかには、「道祖神」と刻された小さな御影石が置いてあるが、どうも多くの人たちの信仰の対象は、境内に立っている男女の生殖器の形をした4本の陰陽石のようだ。

  このなかでももっとも古いものは、社祠の右手前に置いてある女性の生殖器を思わせる陰石(自然石)で、この陰石の中央には、縦に割れ目(窪み)がある。(※上の画像奥)

  ほかの3本は男性のシンボル(男根)の形をした陽石だ。なお、これらの陰陽石は、男女ともに陰相という。

武雄の男根石  これらの陰相石中では、境内の中央に立っている陽石が最も大きく、磨きもかかっている(※左画像)。
  これは、武雄市人形組合の奉納で、4本のなかでは最も新しく、男根石の横に「道祖神」と刻され、その前には賽銭箱も置いてある。

  ここに、お参りに来た人たちは、この大きな陽石を手で直に触って、その手を自分の生殖器辺りに当てて祈願しているのだろう。

  何を祈願するかというと、男女の「下症の平癒」から「良縁・出産・家庭円満」であるが、「商売繁盛」にも御利益ありとされ、また、「幼児の守護神」としても信仰されているという。

  当地に道祖神が祀られた時期は不明だが、明治時代から昭和時代初期にかけて盛行を極め、多数の祈願者が男女の陰相を作って奉納し、また、湯の町武雄(武雄温泉)の花街(蓬莱町)からのお参りも盛んだったという。

  祈願なかで、各種ある下症の平癒や不妊などは、人によっては切実な問題であり、現代でも密かにお参りをしている人たちも多いといい、また、毎年、7月第一日曜日に開催される「道祖神大祭」には多くの人たちが集まるとも聞く(八田世話人)。

  なお、境内入口には、ミニ鳥居腰のべの鳥居」(高さ31cm、横幅31cm)もあった(昭和50年3月建立)があり、このミニ鳥居をくぐると、無病息災、家内安全に霊験があるという。
  ただし、このミニ鳥居は、コンクリートの地面の上に建っているので、ミニ鳥居くぐりに挑戦するときは、ビニールシートかゴザ類を準備していた方がよい。
  なお、ミニ鳥居といえば、粟島神社(福岡県福津市)にもミニ鳥居があったことを思い出した。

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2012年01月18日

吉野山の龍王院(脳天大神)・金龍の滝など

  前回、修験道の聖地・大峯山上ヶ岳の「竜(龍)の口」や「竜(龍)の目(亀石)」などについて記したが、大峯山奥駆け(逆峰)の出発点である吉野山・金峯山寺(山下蔵王堂/奈良県)の塔頭にも「龍」の名が付く「龍王院」や「白龍大神社」、「金龍の滝」などがある。

  「龍王院」(脳天大神)は、蔵王堂の下に建つ「南朝妙法殿」(吉野朝宮址碑)から谷道(役行者尊像前からは430段ある石段道)を下ったところにある。
  谷川(左曽川)沿いに建つ「龍王院」境内に「白龍大神社」があり、また、近くには「金龍の滝」(滝行場)、また、上記石段道の途中にある一の滝は「龍神池」と言われていた。
  さらに、龍王院から谷川に沿って下ったところにある宝泉坊にも「白龍大神社」がある。

  「龍王院」は、一般的には「脳天大神」といわれているが、「脳天大神」は、頭を割られ殺されていた六尺余の大蛇の精霊であるという。
  「霊話不思議」(金峯山寺五條覚澄法主著)によると、「金龍の滝」の落水前日に、法主が、その死んだ大蛇を見つけ、一の滝の滝壷の洞窟に運んでいたところ、翌日生き返り、頭を割られた姿のまま一の滝を出て、のたうち回りながら谷川まで下りてきて水行していたという。
  そして、この大蛇は、毎夜、法主の夢枕に立ち、毎日、「諸法神事 妙行得菩提」と唱えることを求め、法主がそれを唱えると、後日、「祭られたし、我は頭を割られた山下の蛇である。蔵王権現の変化神である。脳天大神として祭られたし。首の上の如何なる難病、苦悩も救う」と告げたという。

  この由緒により、かつてこの大蛇が生き返り水行した淵(暗がり谷・瓢箪淵)に脳天大神を祀る「龍王院」が建立されのだと思う。
  そして、「脳天大神」は、「龍神の化身」であるとされ、「龍王院」の寺院名が付いたのだろう。

  「白龍大神社」の社祠には、多くの卵が積み上げられているが、白蛇が卵を食べにくる姿が目撃されることもあるという。これは、一目に触れるときは白蛇の姿で現れる、太古よりこの谷に棲む「龍神」であるともいわれている。故に「白龍大神」というのだろう。

  また、この谷に作られた滝は、「金龍王神」(八大龍王)が現れる「金龍の滝」と命名されたのだろう。
  
  前述「霊話不思議」には、「大峯山上本堂の龍の口と言い、またこの脳天大神様のお姿と言い、今以て大峯山の本体は龍体であることがわかり、それが脳天大神様の生身のお姿を顕現なさつたことと確信しております」と記されている。

  実に、この「龍王院」(能天大神)の建つ谷間は、吉野山・金峯山寺の怖いほど神秘的な一画であると思う。

  以前、私は、「龍王院」(脳天大神)で入手した「白蛇指輪」を、常時、指に、はめていた時期があった。この指輪は、後に割れてなくしたが、同時に頭痛もなくなった。
  また、かつて蔵王堂で伝法灌頂を受けた頃に、「金龍の滝」で滝行をしたことがあったが、全身に鳥肌が立ち身震いしたことを今も覚えている。
  なお、かつて「龍王院」前院主・五條覚雄師と親しくさせてもらっていたが、退任後の師の消息は知らない。

 ※次回→「枝木の竜(?)〜大分八幡宮にて

 ※参照→「脳天大神は頭を割られた大蛇神(吉野山龍王院)
(2013.1.5)。

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