2012年02月

2012年02月23日

名古屋マラソン→渋井陽子選手に期待!

23選抜女子駅伝北九州優勝会見  名古屋ウィメンズマラソン(2012.3.11市民マラソン)の招待選手が発表された。
  予想されたとおり、野口みずき選手(シスメックス)、尾崎好美選手(第一生命)、赤羽有紀子選手(ホクレン)など有力選手20人。

  そのなかに渋井陽子選手(三井住友海上)の名があったので安堵した。昨年(2011.12.18)の全日本実業団女子駅伝で二区を走った渋井陽子選手の成績が振るわなかっただけに少し心配していた。

  那須拓陽高時代から32歳の今日も表舞台で走り続けている渋井陽子選手の競技にかける意思の強さをいつも頼もしく思い、TV等でその力強い走りを観戦してきた。

  今回の五輪キップをかけた強豪揃いの名古屋の戦いに大いに期待し、変わらず渋井陽子選手に声援を送りたい。

 ※左上の画像は、渋井陽子さん(2011.1.23選抜女子駅伝北九州大会優勝会見)。

(※小生、只今リハビリ中)。

(※追記→「渋井陽子選手、名古屋マラソン4位」)

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2012年02月21日

Mラバでドリーム モーニング娘(中澤裕子さんら)

21ドリームモーニング娘シャイニングバタフライ通常  先日(2/18)、「中澤裕子さんが南房総へ」と書いた翌日(2/19)のMラバ(Music
Lovers)を観ていたら、中澤裕子さんが出ていた。

  この日のMラバは、かつてのモーニング娘のOG中澤裕子さんらが結成した「ドリーム モーニング娘」のスペシャル・プレミアムライブだった。

  そして、満載の名曲は、「モーニング娘」のヒットナンバー「LOVEマシーン」、「恋のダンスサイト」、「恋愛レボリューション21」、「ザ☆ピース」、「抱いてHOLD ON ME!」等々。
  モーニング娘OGが、若向きのショードレスを着ても似合っていること、歌って踊ってAKB48に負けてないね。

  また、ゲストの柳原可奈子さん(小さい頃からの「モーニング娘」の大ファンだという)やつんくさん(モーニング娘の生みの親)らを交えてのトークなども楽しかった。

  中澤裕子さんは、「モーニング娘」の創始メンバー(5人)の一人で、なかでも一番の年長者、その上、寝起きが悪く、「中澤裕子の恐怖」と言って恐れられたとか。
  う〜ん、そういえば、目がきついかな。低血圧なのかなあ。
でも、やはり中澤裕子さんが貫禄あった。

  なお、ドリームモーニング娘は、2/24(金)の「ミュージックステーション」(テレビ朝日)にも出演か。

(※上の画像は、ドリームモーニング娘「シャイニングバタフライ(通常盤)」)。

※追記:中澤裕子さん(38)は、会社経営者(39)と結婚(2012.4.1)。

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2012年02月20日

肥後椿に積雪

肥後椿と雪  昨日の朝、今季初めて庭に雪が積もった。試しに、庭の灯篭の上に積もっている雪の深さを測ったら45mmもあった。
  とはいえ、日本海沿いの地方の豪雪とは、まったく比べようのない微々たるものだが。

  今、開花している早咲きの肥後椿の花のそばの葉の上にも白い雪が乗って、これは少し風情があった(※左上の画像)。

  でも、観ている間に、ず〜んと背中が張ってきて同時に激痛が走る、手がしびれる、この身体状況にあっては、風情を楽しむどころではなかった。

  この積雪も、午後には晴れ間が出て徐々に溶け出して、夕方には消えてしまった。
  豪雪地帯の人たちのご苦労には比べようもない、わずかひと時の雪景色だった。

  (昨日は日曜だったので、今日、整形外科で診察を受けたら頚椎症(=ムチ打ち)と診断された。痛み止め薬を飲んで、このブログを打ったが、それでも痛みが出てきた。まったく体力筋力が衰えたものだと思う。雪が消えたように背の痛みも消えてほしいものだ)。


  

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2012年02月18日

中澤裕子さんが南房総へ(いい旅夢気分)

2,20[いい旅南房総]仲澤裕子石川梨華 今回の「いい旅夢気分」に、中澤裕子さんが出演。
  (2012.2.20(月)20時BSジャパンで再放送/今週TV東京系で放送済み)

  中澤裕子さんが旅したのは、「南房総」(春を先取り!花咲く列島)で、石川梨華さんとの二人旅。

  二人がしゃがんで摘んでいたのは赤いポピーの花だった。二人ともまだ冬の厚いコートを着ていたが、もう南房総には春がやってきているのだろう。

  ほかに、鮮やかな菜の花畑を観たり、不思議な味のするイチゴ狩りに仰天したり、女性に人気のハーブグッズ作りに挑戦するなどで、「春を先取り」。旅の終わりは、「白間津のお花畑(花摘み権兵衛)」だった。

  以前(2010.6.16)、中澤裕子さんが、田中律子さんと「いい旅夢気分」で伊勢原市の「丹沢・大山の旅」をしたとき、その風景を観ていて、随分と懐かしい思いをさせてもらった。

  今回の「南房総」についても、かつてテントを担いでワンゲルしたことがあっただけに懐かしいが、その頃と今では、様子がまったく変わっているだろうなあ。

  中澤裕子さんといえば、昨年初め放送された昼ドラ「さくら心中」(笛木優子さん主演/フジTV系列)での、殺気に充ちた強烈な悪女役の演技が今も印象に残っているが、あのときは、観ていて可哀想で、可哀想で仕方がなく、なんだか同情した。

  また、中澤裕子さんは、減量に成功したというような話も聞いたが、もともと美人でスタイルのよい中澤裕子さん、すてきな人だと思っているし、今回の「いい旅夢気分」でも「らしさ」が出ていて明るい人だと思う。

 (※画像は、中澤裕子さんと石川梨華さん/「いい旅夢気分」からお借りしました)。

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2012年02月17日

淡島千景さんのご冥福を祈る

17淡島千景さん  朝刊で往年の大女優淡島千景さん(87歳)の訃報をみた。
  昨年、「渡る世間は鬼ばかり」(2011年、TBS)でお元気な演技姿を観ていただけに、突然に、というような思いだった。闘病中だったとは知らなかった。

  淡島千景さんの名前の一字をいただいている者として、他人ごとと思えないような悲しさがある。

  それだけに、昨日(2/16)、数年ぶりに肩背に激痛が走り、痛みで眠れぬ一夜が明け、今朝淡島千景さんの訃報をみたときは、思わずその逝去と同時にこの痛みが出たのかと思う錯覚にとらわれたほど。

  ひたすら宝塚時代を含め晩年まで女優一筋の人生を歩んでこられた淡島千景さんには見習うことが多く敬服している。
  今日は、そのご冥福を祈り抹香を焚き勤行した。合掌。

(※原因不明の激痛が緩和するまでの間長いブログを打てそうにない/注:前回発症2009.1.12~3.30頃緩和)。
  

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2012年02月15日

御勢大霊石神社と神功皇后伝承(2)〜仲哀天皇崩御考

  前回、「御勢大霊石神社」(小郡市大保)の「由緒」を記したが、このほかによく知られている別伝(伝説)があることが分かった。

  「仲哀帝熊襲親征に當り、橿日の本陣より此地に軍を進め給ひ、寶満川と垢離川の合流地大保が、白州で清浄の地なれば、先づ天神地祇を祀り假陣所となし軍を督し給ふ。一日近臣を従へ志気を鼓舞せんため、前線を廻り給ひ、黄昏時に及び御歸還の途敵の流矢に中り給ふ、近臣等驚き假宮に御伴し御看護申上たるも日ならず崩御ましました時恰も激戦中にて志気の泪喪を畏れ、深く秘して假に御殯葬申上げたり。(今の御本體所) 戦一段落に及び軍を纏め、御崩御を布告し御霊柩を橿日に遷し奉りぬ。皇后御凱旋後天皇の御形代の石を魂代とし、甲冑御衣を納め三韓鎮撫神として祀り給ひぬ。(福岡縣神社誌)」。

  この伝説では、仲哀天皇は「大保」で崩御、殯葬され、神功皇后が、三韓から帰還後、その霊柩を香椎に遷したという。
  「日本書紀」の記述とは違っているが、もとより「日本書紀」の記述は、そのすべてが正しいとはいえないので、地方に残る伝説を事実ではないと簡単に切り捨てることもできない。

  現に「御勢大霊石神社」境内に「仲哀天皇御殯葬地」があり、神功皇后2年に仲哀天皇を主祭神として「御勢大霊石神社」が創始され、また、境内には「仲哀天皇荒御魂」を祀る「成末神社」もあるが、どこにも神功皇后は祀られておらず、この伝説のなかには、何か隠されている事実があるのかもしれない。

  仲哀天皇は、「敵の流矢に中り」大保で崩御したという記述の「」については、当時、当地方で抗争していた「敵」がいたのかどうかが分からないので俄かには信じにくく、身内による「暗殺」ではなかったのかと思っている。

  この後に行われた神功皇后の三韓遠征の途次、壱岐島印通寺に十城別王(とおきわけのきみ/志自岐神社祭神=仲哀天皇の異母弟)が胸を矢で射通され殺害されたという伝説がある。

  上記二つの伝説には、三韓遠征に反対だった仲哀天皇と仲哀天皇につながる十城別王が、ともに矢を射られて殺害されたという点では共通点がある。
  そして、この十城別王を、矢で殺害したのは神功皇后である。

  また、同じく三韓遠征に反対だった仲哀天皇の実弟稚武王(わかたけおう/田島神社境内社上松浦明神/佐賀県唐津市呼子町)も、その途次に死亡しており、これらは、神功皇后による仲哀天皇及び皇位継承に連なる一統粛清の一環だったと考えられる。

  そして、神功皇后は、誉田別尊(応神天皇)出産後、仲哀天皇の先妻大中媛(おおなかひめ)の子で皇位継承者の香坂王(かごさかのみこ)と忍熊王(おしくまのみこ)を倒し、仲哀天皇一統抹殺の総仕上げを終えた。

  上記の「御勢大霊石神社」の伝説によれば、「仲哀天皇御殯葬地」は、香椎宮、豊浦宮以前に大保にあったことになるが、いずれにしろ仲哀天皇は、筑紫国内で崩御されたことになる。

  前にも記したように、仲哀天皇や応神天皇は太宰府を本拠地とした筑紫王朝の君であったのではないかと思っており、神功皇后伝説の舞台は、筑紫王朝の範囲内であったと思っている。
  神功皇后伝説の多くは、後の時代の付会だと思うが、その内容には、何かの事実を物語っている部分もあると思っている。

  「御勢大霊石神社」は、延喜式小社であり、古くから現在地に鎮座していたことは確かで、仮に「御本體所」が「仲哀天皇の御殯葬地」ではなかったとしても、筑紫王朝「太保府」にかかわりのある高貴な君の神霊を祀ったところであることは間違いないだろう。

 ※つづく→「香坂王・忍熊王は、本当に仲哀天皇の子か(?)

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2012年02月14日

御勢大霊石神社と神功皇后伝承(1)

49御勢大霊石神社の池※画像は御勢大霊石神社境内池。
  前回(2012.2.10)、「神功皇后伝承が残る倭国太保府(小郡市)と太傅府(飯塚市)」のなかで、「御勢大霊石神社」(みせたいれいせきじんじゃ)について若干触れたが、今回、改めて記す。

  現在、「御勢大霊石神社」(小郡市大字大保字龍頭1032番地)は、参道がバイパスに分断され、「二の鳥居」が車の通行の多いバイパスに面して建っているので、何かしら違和感がある。

  「御勢大霊石神社」所在地の字名が「龍頭」となっているが、ここにも元は龍神伝説があったのだろうか。
  龍神には、雨水や清水などが必要だが、「二の鳥居」のすぐ内側にある太鼓橋のある清水池(※上の画像)は、湧水或は湧水が流れ込んでいる池なのだろうか。

  湧水といえば、「大字三沢」(大字大保の隣地)の地名は、神功皇后が矢筈(やはず)で地面を突いて湧き出た泉水が三箇所(一の口、二の口、三の口の三つ沢)あったことを由来としている。

  この神功皇后の矢筈伝説は、後の付会だろうが、もとより小郡一帯は、古代より湧水もあり水の豊富な肥沃な土地が広がっていたので、農耕や居住地としても最適で、当地が筑紫王朝の「太保府」適地として選ばれたのだろうと推測した。

  「御勢大霊石神社」看板には、「延喜式神明帳筑後国四座一小社」、「主祭神 足仲彦天皇(仲哀天皇)」、「創立 神功皇后2年」、
  「由緒 天皇筑前国橿日宮にて崩まし又皇后天皇の御手代として姑く男貌を假り石を以て御形代とし、これを奉し三韓を征し給うに、三韓不日に服従し、又御凱旋の後、大保郷に宮柱太鼓立て砦を祭り給ひ御勢大霊石神社を崇らる」、「神前に御剣・御衣を納め給ふこれを御本體所と稱す」とある。

  上記由緒は、解説がないと分かりにくい文章で、一読して理解できる人は少ないのではないかと思ったが、それはさておき、読んでいて、神功皇后が、橿日宮(香椎宮)で崩御された仲哀天皇の御形代石を、なぜ「大保郷」(御勢大霊石神社)に持ってきて祭ったのかの理由が分からなかった。
  また、これでは、社前の「御勢(神功皇后の夫である仲哀天皇を示す)大霊石(みたまいし)」を祀る「御本體所」に仮葬されていたという「仲哀天皇御殯葬地」の説明ができない。
  さらに、神功皇后が「大保郷」に行ったのが三韓征討の凱旋後となっているが、一般的な神功皇后伝承では、皇后が「大保郷」に行ったのは、三韓征討前ではなかったのか (次回記す)。

  いずれにしろ、各地の神功皇后の由緒云々を突き詰めていくと納得行かない事柄が多く出てくるが、それは、そのほとんどが後世に作られた伝説(日本書記含む)だからだろう。

 (つづく→「御勢大霊石神社と神功皇后伝承(2)〜仲哀天皇崩御考」)。

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2012年02月10日

神功皇后伝承が残る倭国太保府(小郡市)と太傅府(飯塚市)

48御勢大霊石神社境内※左の画像は、御勢大霊石(みせたいれいせき)神社境内
(福岡県小郡市大字大保字龍頭)。

 (前回(2012.2.9)の「小郡官衙遺跡の長者が池跡にて」からつづく)。
(今回:大分八幡宮追記5)。

  小郡官衙遺跡の所在地が筑紫王朝(倭国)の「太保(だいほ)府」であるとする説がある。
  これは、小郡官衙遺跡に隣接する小郡市大字「大保」が、正しくは「太保」であったとの想定を根拠にしているが、この遺跡所在地の大字は「小郡」である。

  だが、「小郡」の地名は、当地が大和政権下に組み込まれた持統天皇時代(7世紀後半)の「筑紫小郡」から生まれたものだと考えられ、小郡の地も、もとは「太保」(大保)であった可能性はある。
  もし、小郡官衙遺跡の地が太保府の政庁所在地ではないとすれば、現在の大字大保のいずこか、まだ発見されていない遺跡があるということになる。

  「大保」の地名の由来に、「天暦10年(956)、御勢大霊石神社の宮司の父が右大臣藤原師輔で、この右大臣の唐名が大保(だいほ)だったことによる」という説があるが、後の付会のようにも思える。

  「御勢大霊石神社」は、「大分八幡宮」(飯塚市大分)同様に神功皇后伝承が残る神社である。
  太傅(だいぶ)府(飯塚市大分)に神功皇后伝承があり、太保府にも神功皇后伝承があるのは、偶然のことではないのかもしれない。

  先に記した「上岩田遺跡」のある小郡市大字上岩田にも神功皇后伝承が残る「上岩田老松宮」があり、神功皇后が得川(宝満川)を交通手段として津古(渡し場)から上岩田に下ったことを伝えている。
  神功皇后を4世紀後半頃の人だと考えたとき、大字「津古」には同時代築造の古墳や遺跡があり、神功皇后伝承は、同時期の筑紫王朝(倭国)の支配下にあった地区を語っているのだと思う。

  なお、倭国三府の太保府には小郡官衙遺跡があり、太宰府に都督府遺跡があるが、太傅府(飯塚市大分)では、遺跡が発見されていない。
  私は、大分八幡宮裏山の後方の丘陵地にその遺跡があると想像していたが、現在、同地にある大型住宅団地が開発されたときに発掘されたという話は聞いていない。

  そこで、大分八幡宮と「大分廃寺」や「王塚古墳」等を結ぶ線上、或は「四神相応」の適地を検討する必要があるかもしれないとも思っているが、地元では、「太傅(だいぶ)府」についての関心はなく、忘れられた歴史地区となっているように思える。

 (つづく→「御勢大霊石神社と神功皇后伝承(1)」)

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2012年02月09日

小郡官衙遺跡内の長者が池跡にて(小郡市)

50長者が池※左の画像は、国史跡・小郡官衙遺跡の一画に残る「長者が池跡」(福岡県小郡市)。

  前回(2012.2.8)の「小郡市の古墳・上岩田遺跡・小郡官衙遺跡と太保府」の続き。

  今回、話が脱線するが、小郡市の小郡官衙遺跡を初めて訪れたとき、感激し、かつ残念にも思った場所があった。
  それは、小郡官衙の水源地であったと推測されている「長者が池」跡が、官衙遺跡の外れの部分に残っていたことだ。

  ここは、さほど広い場所ではなく、三方は住宅や団地道路等で塞がれている。
  昭和40年代に、周辺の住宅開発が進むなかで、残念なことに、すごくきれいな水を湧出していた池の地下水脈が断ち切られて湧水が止まってしまったようだ。

  それでも開発当初は、まだ池があったので、この部分の住宅開発が遅れ、間一髪で貴重な官衙遺跡の水源地跡が今に残されたのだと思うと、何だか感激を覚えた。

  さらに(説明板によると)、「昭和42年からの発掘調査により、この隣接地一帯に官衙が存在したことが判り」とあり、この文章を読んだ限りでは、長者が池の発掘が「国指定史跡・小郡官衙遺跡」の発見につながったようにもとれ、素晴らしい発見だったと思う。

  「長者が池」は、「長者が井戸」とも言われていたらしいが、その名称の由来は、昔、この地に広大な土地(敷地)を有する長者が住んでいて、その屋敷で使用する水をこの池(井戸)から汲み上げていたからだという。
  広大な土地とは小郡官衙遺跡のことで、小郡官衙の廃止後、いつしか、人々の脳裏から官衙の存在が消えて、この広大な土地は、昔、長者が住んでいた所と誤り伝えられてきたようだ。

  いずれにしろ、古代、広大な小郡官衙にいた人々を支えた水源地が遺跡内にあり、今も、その場所が分かっているということは、「小郡官衙遺跡」の歴史的評価をより高いものにしていると思う。

  それにしても、1300年以上清水を湧出し続けていた池の水脈を、たちどころに断ち切ってしまった営利的開発は、自然(地神)の息吹と歴史への冒涜に思えてならない。
  暫し、この場所にたたずみ瞑想したが、人の動脈ともいうべき水脈を断ち切られたこの地のパワーは半減していると思った。

(つづく→「神功皇后伝承が残る倭国太保府(小郡市)と太傅府(飯塚市)」)

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2012年02月08日

小郡市の古墳・上岩田遺跡・小郡官衙遺跡と太保府

52小郡官衙遺跡※左の画像は、小郡官衙遺跡(福岡県小郡市)の掘っ立て柱群(一部)。

  前回(2012.2.6)、「太宰府・筑紫都督府と西鉄操車場跡遺跡(大分八幡宮追記2)」で、次のように記した。(※今回:大分八幡宮追記3)

  「九州で新たな古墳や古代遺跡が発掘されると、その多くが、九州が大和政権下に入った7世紀以降のものとされている」が、「九州王朝(倭国)の三府の一つ「太保」があったと考えられる福岡県小郡市にある古墳等の推定年代を見ると、この指摘どおりではない」。

  小郡市は、天武・持統天皇時代(7世紀後半)に開かれた筑紫大郡・筑紫小郡のうちの「筑紫小郡」に該当し、この地方統治役所跡が「小郡官衙遺跡(おごおりかんがいせき)」であるとされてきた。
  だが、小郡市埋蔵文化財調査センターで、小郡市内における古代遺跡発掘調査一覧を観ると、遺跡の推定年代を7世紀以前(旧石器時代にまで溯ることができる)としているものが多い。

  小郡市内の首長級の古墳を例にとると、3世紀末築造と推定された津古生掛古墳(消滅)を初めとして、三国の鼻1号墳(4世紀後半)、横隈山古墳(5世紀中頃)、井の浦1号墳(6世紀後半)などである。
  つまり、当時の小郡市は、これらの古墳の首長により支配されていた地域だったと推定することができるが、当時の政務の中心地がどこにあったかについては解明されていないようだ。

  堀立柱建物群のある「上岩田遺跡」(小郡市上岩田)は7世紀後半、「小郡官衙遺跡」(小郡市小郡)は7世紀末に作られた筑後国御原郡の郡衙跡(郡役所)と推定されている。
  この推定にいたっては、ここでもまた前回同様に7世紀後半説に傾倒しすぎているように思える。
  これらの遺跡の築造年代は、7世紀以前であると考えている人たちがいることも確かである。そうすれば、7世紀以前の首長級古墳との係わりも出てくる。

  「上岩田遺跡」は、発見されて間がないが、ここは7世紀後半に建てられた「評家」(郡となる前の「評」の役所)で、天武7年(678)年の筑紫地震で壊滅したとの説が立てられている。
  だが、竪穴住居から古代寺院跡まで認められており、これより前からあった遺跡とも考えられる。

  初めて「小郡官衙遺跡」を訪れて遺跡内を見渡したとき、まずその広さに驚かされた。現在、3,116屬国史跡となっているという。
  遺跡の周辺は、住宅や線路に取り囲まれているので、これ以上の発掘はできないが、実際は、これよりもっと広かったのではないかと思う。
  だが、この規模は、官衙(評衙:地方役所)というような小規模なものではなく、九州(筑紫)王朝(倭国)武王に係る三府(三司・三公)<太宰府・太傅府・太保府>の一つ「太保府」の遺構だったと考えた方が真実味を覚える。

 (つづく→「小郡官衙遺跡内の長者が池跡にて(小郡市)」)

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