2012年04月

2012年04月30日

(ふじ寺)浄光寺の「藤(ふじ)の花」を見学(宗像市)

浄光寺の藤63 今の季節(4月中・下旬)、「浄光寺(ふじ寺)」(宗像市江口)の「藤(ふじ)の花」(宗像市天然記念物)が見ごろである。

 以前「辻八幡宮(丸山)に行く(1)」(2010.7.26)に「浄光寺(ふじ寺)付近から歩いて辻八幡宮に行った」と記していたが、その頃は藤の花の季節ではなかった。

 浄光寺の近くを通るバスの便がなく、昼間は、駐車場が混み合うだろうと思い、午後5時頃に浄光寺に着くようにして出かけた。(宗像コミュニティバスはある)。
 観藤時間は20分ほどだったが、夕方のこの時間帯であっても観藤客はひっきりなしで、この時期の浄光寺は、宗像市の藤の花見学の観光名所になっている。

 藤棚保存会に協力金一人100円を払い、浄光寺境内に入った。藤棚には、保存会に係る思われる人たちの氏名等を書いた祝い提灯が吊り下げられていた。なかでも、入口近くにあった「松屋玄海木材市場」と書かれた朱色長提灯は、別格の大きさで目立った。
 なお、同市場は、国道495号線沿いの「ふじ寺入口」看板が立っている付近にあった。

 浄光寺の藤棚は、本堂(2006年改築)の前にある3本の藤の大木で構成され、案内によると「藤棚の広さは700屬如⊆齢300年、浄光寺第31世三好光含住職の植樹」だという。

浄光寺の藤260 藤の花を良くみると、紫色のほかに、白色や赤みがかっているものもあった。(※左の画像参照)

 今は、まだ七分咲きかと思うが、藤の花の甘い香りが境内に漂い、見ごろだった。


 トイレの上に、これらの藤を上から眺める「藤棚展望所」が設けられていたので上ってみた。
 上からの眺めは、手前側に釣り下がる藤の花の、後方の藤棚一面に屋根のように広がる薄緑色の藤の葉の連なりを観賞するといった感じだった。
 でも、これまで、何処の藤の花の名所地に行っても、上から藤棚を見下ろすというような経験はなかったので、なかなか面白い趣向だと思い満足した。(※画像1)。

 本堂の前に、無料サービスの「甘茶」が置いてあったが、ふじ(藤)寺・浄光寺の花まつりは、藤の花の季節にあってもよいのかもしれないな。

 なお、浄光寺の創建時期は不明(1000年前との説もあり)、宗派は浄土宗(京都総本山知恩院末寺)。
 阿弥陀三尊(本尊阿弥陀如来立像、観世音菩薩と勢至菩薩)を、本堂の階段下から拝観したが、金箔が鮮やかでキラキラ輝いていたのが、とても印象的だった。南無阿弥陀仏。

 ※つづく→「江口浦道」の道標碑(宗像市浄光寺境内)
 ※参照→「浄光寺参拝(宗像市江口) 」

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2012年04月27日

小沢一郎氏一審無罪・検察審に疑問、活躍期待

  昨日(2012.4.26)の最大ニュースは、「小沢一郎氏の一審無罪(東京地裁)」だろう。
  その内容をここで書く気はないが、ちょっとばかり法律をかじったことのある者の感想としては、当然の帰結だと思っている。

  土台、国民(或は市民)の代表(?)というが、名前も職業も個々の年齢すら分からない正体の不明(否、かわいそうなというべきか)の審議員による検察審議会の強制起訴には無理があったと思う。
  (分かっているのは平均年齢30歳…あまりにも若すぎる)。

  検察審議会のメンバーになる人は、堂々と氏名を名乗ることができる人であるべきだと思うし、今回の判決を見て、いっそう検察審議会に対する疑問が深まった。

  無実の者が、訴えられ、犯罪者に仕立てられていくことほど怖いものはないが、訴えた者が正体の不明の透明人間であったら、なおさら、…考えただけでもぞっとする話だ。
  
  裁判の係争中に、東日本大震災や原発事故と停止問題などが発生し、その震災の復興や原発再開のメドも未解決、その上にTPPや消費税増税問題などで国の政治は空転中。
  これらの問題の迅速な解決が求められるときに、期待できる国会議員が、強制起訴を理由に民主党員資格停止処分となり、国政の最前線から大きく後退していた。

  これを幸いというのか不幸というのか判断は自由だが、残念なことだった。
  ただ、民主党が、検察審議会の曖昧な理由による強制起訴を理由に党員資格停止処分を行ったたことで、民主党はからだを張ってでも自党の党員を守る政党ではない、ということをはっきりと知り、幻滅を覚えたことは確かだ。こんなのは、一定のけじめとは言い難い。
  逆に、当時、処分を断行した人たちは、今、自ら一定のけじめをつけるべきではないのか。

  なお、検察審議会に係る素朴な疑問については、以前、
ツユクサの花二連に心和む」(2010.10.5)、
検察審「秘密のベール」(毎日)…附和雷同は慎もう」(2010.10.8)
を記したが、一審の結果が出た後でもその気持は変わらない。

  いつまでも誰も実害を被っていないことで、これ以上血税を投入して不毛の法廷闘争を続けても意味ない。
  小沢一郎氏には一日も早く国政の表舞台に復帰され、各種の山積する問題解決に心血を注いでもらいたいと願うばかりだ。

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2012年04月26日

大山詣で・想いはいつの日か(「陽炎の辻」を観て10)

陽炎の辻「いつの日か」 (前回のつづき) 今回、BS時代劇アンコール「陽炎の辻〜居眠り磐音江戸双紙〜」(2012.3.25終了)を観たのは、実はファンの笛木優子さん(奈緒、花魁白鶴太夫役)が出演していたからだった。

  最終回(第11話)「いつの日か」は、奈緒(笛木優子さん)とはまったく関係ないお艶(檀れいさん)の「大山詣で」だった。

  この最終回を観ていて、私が「大山詣で」をした頃のことが一気に思い出された。
  たまたま「良弁の滝(伊勢原市・大山山麓)」(2012.1.30)や「大山先導師旅館(伊勢原)」(2012.2.3)を記した後でもあったので、うなずけることも多々あり、この番組の内容に織り交ぜて本稿(「陽炎の辻」を観て1~9)を記した。

  お艶(檀れいさん)は、坂崎磐音(山本耕史さん)に背負われて大山不動堂までの「大山詣で」を成就した。
  そのときの磐音の「背の温もり」を宝として胸にしまい、伊勢原宿で夫の今津屋吉右衛門(渡辺いっけいさん)の看病を受けながら、迫り来る死と向き合って養生をする。

  江戸に戻るおこん(中越典子さん)は、その旅すがら、今度は自分が坂崎磐音(山本耕史さん) に負ぶわれる。
  その「背の温もり」を感じながら、お艶から言われた「想い続けるのです、想い続けていさえすれば、心がいつか届きます」という言葉を胸に、既に奈緒(笛木優子さん)との想いを断ち切った磐音を、恋しく想う心が「いつの日か」磐音に届くことを願う。

  バックミュージックに新妻聖子さんの「愛をとめないで〜Always Loving You〜」の曲が流れ、それぞれの想いが交錯する素晴らしい「大山詣で」でドラマは終演。(おわり)

※本稿のトップ→「夏の大山詣でと大山道(「陽炎の辻」を観て)」。

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2012年04月25日

大山雨降りナンジャモンジャの木(「陽炎の辻」を観て9)

 (前回のつづき)
  雨乞いといえば、「大山阿夫利神社本社」(神奈川県伊勢原市)の社前に、「ナンジャモンジャ」の大木(神奈川県天然記念物)があった。
  この木は、どんなに天気が良いときでも水滴を湛えており、昔からこの木に霧がかかると雨が降るので、「雨降りの木」といわれているそうだ。雨乞いの雨降山にあっては相応しい木なのだろう。

  鎌倉時代、旱魃が続いたときに、この木に「雨乞い」を願った人の歌があるが、どうもこの人の願いは届かなかったようだ。

  「立ち寄れど 雨降山の 木の束は 頼むかひなく 思ほるかな」(読み人知らず)。

  ところで、「大山詣で」の目的地である「大山阿夫利神社本社」が鎮座する大山(雨降山)頂上への登山口は、「大山阿夫利神社下社」の左後方(石段あり)にある(徒歩約90分)。

  なお、「追分(大山ケーブル駅)」から「大山阿夫利神社下社」までは、男坂、又は女坂を登ってもよいが、便利な大山ケーブルカー(大山観光電鉄)を利用する人たちが多い。

※つづく→「大山詣で・想いはいつの日か(「陽炎の辻」を観て10)」。

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2012年04月24日

「大山詣で」石尊権現と天狗(「陽炎の辻」を観て8)

お艶を背負う磐音 (前回のつづき)  「陽炎の辻(最終回)」で、坂崎磐音(山本耕史さん)は、女のお艶(檀れいさん)を背負っての参礼では不動堂までだったが、単独では登った女人禁制の相模大山(雨降山)頂上に坐す石尊権現大天狗小天狗等について記す。

  「大山詣で」の中心であった「石尊権現」(石尊社)は、第10代崇神天皇時代(?)開創と伝えられる延喜式内社だが、明治初期、神仏分離・権現信仰禁止を受けて「大山阿夫利神社本社」に変わった。

  「大山阿夫利神社本社」の主祭神は山の神「大山袛神」だが、併神に「鳥石楠船神」が祭られている。
  大山の山容は、海上からも眺望でき、古代から石尊権現(自然石の御神体)は、海運の神としても崇められていたので、石尊権現を海人の守護神「鳥石楠船神」に見立てたのだろうか。

  もとより石尊権現は、海運に限らず農工商にも神徳ありとして、それらの守護神として関東一円の人々の崇敬を集め、「大山詣で」の隆盛を集めてきた。

  また、大山を雨降山(大山寺の山号は雨降山)というように、摂社の祭神の「大雷神」(奥社)と「高龗神」(前社)が雨に係る神であり、雨(天候)に係る自然崇拝(天神)信仰が大山信仰の原型であったとも言われている。
  雨は、生活の糧である水や農耕等と切れない関係にあり、もともと大山の神は、雨乞いの神、旱魃防止の神だったと思われる。

  ここに自然崇拝を旨とする修験道の権現信仰が入り、大雷神を大天狗(大天狗社)、高龗神を小天狗(小天狗社)と称し、さらに石尊権現(自然の御神体磐座)を加えて、大山の神は、農商工海運は無論のこと、病魔退散、縁結びなど所願成就の万能神となって行ったのではないかと思う。

  前述したように、坂崎磐音(山本耕史さん)が抱えていた「大山詣での護符」である「木太刀」に「奉納大山石尊大権現大天狗小天狗祈願成就郷吉宏」と記されていたのは、この意味である。

  そして、「木太刀」(祈祷札)を「大山詣で」の護符とする信仰は、太刀を差した天狗、つまり修験者(手刀の印を切ることもできる山伏)との係わりによるものではないかと思った。

  「大山の天狗」は、「大山音頭」のなかでも次のように歌われる。
  「相模大山阿夫利の神は、粋で陽気で縁結びサテ、天狗羽うちわ社に舞えばホンニホンニ大山ソーレソレソレ宮参り」。

  また、平塚→伊勢原街道の大山道沿いの童謡に、「烏天狗」を意味するという奇怪な鳥を歌った次の歌詞があったという。
  「大山街道飛ぶ鳥は、羽根が16、目がひとつ」。

  これらは、江戸時代、大山修験者(先導師)の大山天狗信仰の普及活動が盛んであったことを物語っているのかもしれない。

  「陽炎の辻(最終回)」にも、毎夜、ものすごいスピードで(大山)雨降山山頂への山道を駆け上り下りして、お艶の病気平癒を祈願する坂崎磐音(山本耕史さん)の姿があった。
  また、複数の暴徒を一気に大刀さばきで払いのける動きのシーンを頭上から撮影していたが、これらの姿を「大山の天狗」という言葉で表現していた。
  これらは、まさに疾風のごとく山を駆け抜け山に坐す神仏()仮の姿で現れた神仏が権現)に所願成就を祈願し印を切り降魔退散せしめる修験者(山伏)の姿である。
(つづく)。

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2012年04月23日

「大山詣で」二重の滝、大山不動(「陽炎の辻」を観て7)

不動堂  前回触れた「大山詣で」最後の禊場で、修験者の行場でもあった「二重の滝」は、大山阿夫利神社下社拝殿から石段を下り、茶屋から左に「見晴らし台」に行く静かな山道を10分ほど進んだところにある。

  「二重の滝」の下にある道に立つ2本の老杉を「呪いの杉」と称されていたが、それは、この杉に丑の刻まいり(藁人形に呪いの釘打ち付け)の形跡が残っていたことによるらしい。

  「二重の滝」から「見晴らし台」までは約20分の道のり、この道の下方一帯には「モミの原生林」(神奈川県天然記念物)が繁茂していたが、1970年代から立ち枯れが急速に進んだ。
  なお、「見晴らし台」から徒歩約1時間で「日向薬師」に行く道があった。

  ところで、前述の「追分」(旧前不動)から登ってきた「男坂」(右)と「女坂」(左)は、「大山阿夫利神社下社」(旧不動堂)前の石段をかなり下ったところで合流する。

  もとの「雨降山大山寺」は、現在、「大山阿夫利神社下社」があるところにあったが、前述したように天平勝宝7年(755)良弁僧正開創の古刹と伝えられる。
  「陽炎の辻(最終回)」で、坂崎磐音(山本耕史さん)が重病人のお艶(檀れいさん)を背負って登った「大山詣で」不動堂は、当時、ここにあったことになる。

  現在の「雨降山大山寺(真言宗大覚寺派)本堂不動堂」(明治17年謙浄上人再興)や境内の「前不動堂」等は、前述したように明治維新政府による神仏分離策の大波を被り旧跡地から女坂の途中に遷し再建されたものである。

  明治時代、全国に廃仏毀釈の荒波が押し寄せたなかで、大山寺が再建され、山内の多くの貴重な仏教遺産が今日に残ったことは、大山信仰の強さと、それを支えた多くの人々の強い絆があったものだと推測できる。

  大山寺の「鉄鋳不動明王像」(「大山不動」と通称/国重要文化財)は、文永年間(1270年頃)に願行上人による鋳造といい、関東では、「高畑不動」(奥武蔵の高畑山金剛寺)、「成田不動」(千葉の成田山新勝寺)と並べて「関東三大不動」の一つに数えられている。
  また、大山不動は、「関東三十六不動尊第一番札所」にもなっていたが、拝観はできなかった。

  なお、本堂内脇侍の「前立ニ童子像」も国重要文化財で、また、本堂前の石段下から少し坂道を下った所にある境内には、「前不動堂」や古い「倶利加羅龍王堂」等の堂宇、それに「菩提樹」もあった。

 ※つづく→「大山詣で」石尊権現と天狗(「陽炎の辻」を観て8)

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2012年04月22日

「大山詣で」前不動から不動堂へ(「陽炎の辻」を観て6)

今津屋吉右衛門(渡辺いっけい)  前回、「陽炎の辻(最終回)」で「前不動から不動堂までは18町」と、坂崎磐音(山本耕史さん)に赤木儀左衛門(小林隆さん)が教えたことを記した。

  坂崎磐音は、駕篭を降りたお艶(檀れいさん)を背負って、「一の鳥居」から「前不動」(当時「追分」にあった)を経て「不動堂」(現大山阿夫利神社下社)までの山道を登りきった。

  途中、今津屋吉右衛門渡辺いっけいさん/※左上の画像)が滝に入り、妻のお艶の病魔退散を祈願して「大山大聖不動明王石尊大権現お艶をお助けくださいませ」と神仏名を称名するシーンがあった。
  大山阿夫利神社下社(旧不動堂)の下方に最後の禊ぎの場という「二重の滝」があったのを記憶しているが、この滝がそうだったかどうかは覚えていない。

  この滝行は、前述したお艶が乗った駕篭の後ろにいた男が「大山大権現は、どんな病気でもたちどころに治してくれりゃぁ!」といったように、病魔退散にも御利益のあるという「大山詣で」の信仰の主体が大山中腹にあった大山寺本堂不動堂の大山不動(大山大聖不動明王)と頂上の石尊(大)権現(石尊社)であったことも表現しているのだろう。

  「追分」から山道は、「男坂」、「女坂」の二股に分かれるが、女連れだった一行は、多分、「女坂」を登ったのだろう。
  「女坂」については、不動堂から上は女人禁制だが、不動堂までは女も登れたので、物見遊山をかねた親分衆が女房を連れて「不動まで女房を連れる通り者」と言われた故事が残っている。
  もっとも、死を覚悟した女房お艶を連れた吉右衛門は、胸の詰まる思いでの「大山詣で」で、物見遊山どころではなかったが。  

  江戸時代を通じて女連れの「大山詣で」の場合、「追分」から左に行く「女坂」を登ることが一般的だったらしく、旧不動堂下方までの「女坂」の名称は、その名残ではないかという。

  現在、「女坂」の途中に、「前不動」や、大山寺「本堂不動堂」があるが、これらは明治維新以後、上記旧跡地から移されたものである。

  明治維新政府は、神仏分離、廃仏毀釈、修験道廃止、権現信仰禁止を断行し、長い間培われてきた日本人の神仏混淆・神仏習合の信仰形態や伝統的な神仏融和の精神構造を打ち砕いてしまった。

  そのため、神仏混淆の大山不動尊(雨降山大山寺本堂不動堂)や石尊権現(石尊社)を詣でる「大山詣で」の信仰にも破壊的ともいえる大混乱が起きた。
  そのようななかで、前述した権田直助宮司が大山信仰の存続を図るための改革を行ったのではないのか。

  それが、頂上の「石尊権現」等を「大山阿夫利神社本社」に、「大山寺本堂不動堂」を「大山阿夫利神社下社」に変え、また、旧「大山寺本堂不動堂」や追分にあった旧「前不動」などの仏教施設を「阿夫利神社」から分離し現在地(女坂にある)に移して存続する案の模索、そして、新たな「大山詣で」の信仰形態を整備復興することであったと思う。

 ※つづく→「二重の滝、大山不動等(「陽炎の辻」を観て7)」。

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2012年04月21日

「大山詣で」表参道一の鳥居(「陽炎の辻」を観て5)

陽炎の辻坂崎磐音(山本耕史)  前回、「陽炎の辻(最終回)」で、伊勢原宿子安村の赤木家で、今津屋吉右衛門(渡辺いっけいさん)が、坂崎磐音山本耕史さん/※左の画像)とおこん(中越典子さん)に、死を覚悟した内儀お艶(檀れいさん)の不動堂までの「大山詣で」同行を頼むシーンがあったことを記した。

  そのとき、磐音が赤木家から不動堂までの距離を尋ねると、お艶の兄である当主赤木儀左衛門(小林隆さん)が次のように答えた。

  「屋敷から表参道一の鳥居まで半里、ここまでは駕篭で…。
  一の鳥居から前不動までは28町
  前不動から不動堂までは18町、初山を目指す大勢の信徒と混み
  合う参道からが背中になりますが」

  それに対して、磐音は、「では、(一の鳥居からは)それがしがお内儀殿を背負って大山に参ります」と言う。

  前回記した駕篭の後ろにいた男に、「なんで駕篭なんぞ繰り出すんだよ」と怒鳴られる場面は、「表参道一の鳥居」に至る狭い山道で、初山を目指す多くの浄衣姿(白装束、わらじ履き)の参詣者たちの大行列ができていた。

  「表参道一の鳥居」前に着いたとき、お艶は、駕篭を降りて森の茂みのなかに建つ「一の鳥居」を見上げ、「愛をとめない~Always Loving You~」のバックミュージックが流れるなか、吉右衛門に、「お前様、世話をかけますが、お参りしとうございます」と言って、磐音の背中に負ぶわれる。
  このときの、死の覚悟を決めて「大山詣で」に挑むお艶の表情が痛ましくも美しい。

  この「表参道一の鳥居」については、私が大山に行ったときに観た記憶がまったくない。
  どこにあったものか、現存の有無についても分からないが、かつてあったのだとしたら、多分、現在の大山バスの終点(大山ケーブルバス停)辺りだったのかもしれない。

  であれば、江戸時代には「追分」に「前不動」があったというので、前述の「一の鳥居から前不動までは28町」とは、大山ケーブルバス停(終点)から、実際の大山ケーブル乗り場(追分駅)までのことなのだろう。
  なお、1町(丁)は60間=約109m強なので、この間の距離28町は、3052m超か。

  この間は、なだらかな坂や石段の道が続き、この参道の両側に先導師旅館茶店、土産店などが軒を連ねている。
  なお、前述した「先導師旅館かめ井」は、この参道より手前の「良弁の滝バス停」前にある。

 ※つづく→「大山詣で」前不動から不動堂へ(「陽炎の辻」を観て6)

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2012年04月20日

女人禁制「大山詣で」不動堂へ(「陽炎の辻」を観て4)

陽炎の辻お艶(檀れい)  (前回のつづき)  「陽炎の辻(最終回)」で「大山詣で」の途中、胃の腑に大きな腫瘍があることが分かったお艶(おえん:檀れいさん/※左の画像)は、兄の伊勢原宿子安村庄屋・赤木儀左衛門宅に運ばれる。

  それでも「大山詣で」を続けたいと願うお艶の気持を、夫の今津屋吉右衛門(渡辺いっけいさん)と兄の赤木儀左衛門(小林隆さん)が坂崎磐音(山本耕史さん)とおこん(中越典子さん)に伝え同行を頼むシーンがある。

  「女人禁制の大山詣ででも不動堂までなら女も行けるのです
お艶が、せめてそこまで参りたいと言い出しましてな」

  「病が治らぬことを承知している妹は、せめて動けるうちに吉右衛門殿と一緒にお山に参っておきたいと考えているのではなかろうかと」

  先に「夏の大山詣でと大山道」で、「雨降山大山寺は、夏の20日間だけ参詣が許され」と番組でナレーションされたことを記した。
  そのため、「大山詣で」は、その期間(旧暦6月26日から20日間)しかできなかったのだと思ってしまったが、本堂不動堂(現在の大山阿夫利神社下社)までの「大山詣で」は、期間に関係なく、いつでも参拝できた筈だ。

  男は、夏の20日間の「大山詣で」では本堂不動堂より上の本坂
28町
(約3050m強)を、大山頂上・石尊権現(石尊社)まで登ることができたが、女は、常にその区間の登山は禁じられていたので、「女人禁制の大山詣で」となるなのだ。

  なお、前不動(現在の追分)⇔本堂不動堂(現在の大山阿夫利神社下社)の間18町(約1960m強)は、慶長10年(1605)、徳川家康入山以後、「女人居住禁止区域」にはなっていたらしい。
  また、大山の「女人禁制」がいつから始まり、いつ終わったのかについては知らない。

  一の鳥居まで、多くの「大山詣で」の参詣者の列に混じって駕篭に乗って行く「お艶」を、駕篭の後ろにいた男が怒鳴る場面があった。

  「おいっ、なんで駕篭なんぞ繰り出すんだよ、初山だぜ、ちっとは考えろ!」と。

  不動堂までの参拝だったら、何も混み合うこの季節に行かなくてもよかったのにということになってしまう。
  けど、江戸を発つ前から一人不治の病と承知していたお艶にとっては、今しか動ける時間がないと思ってのことだったのだろう。

  磐音(山本耕史さん)が、奥向きを預かっていながら、そのことに気付かなかった自分を責めるおこん(中越典子さん)を諭すが、現実を受け入れることができないおこんが泣き崩れる場面があった。

  「人には定めがある、その定めを受け止めて誰しも生きて行かねばならないのです」
  「いやです、そんな定めなんか、私、イヤです」

  身近な人の死が近づいていると急に知らされたとき、誰しも冷静ではいられない。こんな切羽詰ったなかでの「大山詣で」は悲しいね。

  なお、駕篭の後ろで怒鳴った男が口にした「初山」とは、夏の20日間のうち旧暦6月26日から7月7日までのことをいうらしいが、詳しいことは知らない。
  そして、事情が分かった後、この男は言う。

  「すまなかったなあ、大山大権現は、どんな病気でもたちどころに治してくれりゃぁ!」。

 ※つづく→「大山詣で表参道一の鳥居(「陽炎の辻」を観て5)」。  

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2012年04月19日

大山山麓・良弁の滝と権田公園(「陽炎の辻」を観て3)

陽炎の辻おこん(中越典子)  (前回のつづき)  「陽炎の辻(最終回)」のなかに、夜遅く伊勢原宿子安村宿所に戻ってきた坂崎磐音(山本耕史さん)と、磐音を待っていたおこん(両替商今津屋の奥向き女中頭/中越典子さん/※左の画像)との間で、次のような会話が交わされるシーンがあった。

  「ほんとにどこに行ってたの?」
  「明日、お内儀殿をお運びする参道を確かめてきました」
  「えっ!!、大山に行ったんですか」
  「知らぬ道より知っていた方が確かだから」
  「頭が濡れてるけど?」
  「良辧瀧(良弁滝/りょうべんたき)というところで、明日の無事を祈って身体を清めてきました。さすがに夜は誰もいません」

  この「良辧瀧(良弁滝)」については、2012.1.30に「良弁の滝(伊勢原市・大山山麓)」を書いたが、再度ここでも記しておこう。

  なお、今は「良弁の滝」の呼称が一般的なので、以下「良弁の滝」と記す。「良弁の滝」は、バス停「良弁の滝」前の鈴川にかかる橋を渡ってすぐ右にある急な階段を下りたところにある。

  天平勝宝7年(755)に良弁僧正(奈良東大寺別当)が石尊権現(石尊社/延喜式内古社)の別当寺として雨降山大山寺(聖武天皇勅願寺/現在真言宗大覚寺派準大本山の古刹)を開創したとき、この滝で心垢を清めたといい、この由緒を以って、この滝を「良弁の滝」と称するようになったという。

  江戸時代には、この「良弁の滝」や、ここから鈴川の渓流を少し下ったところにある「愛宕の滝」は、「大滝で根性骨の丸洗い」と言われたほど水量も多く、参詣人らは、これらの滝で心身を清めたという。
  現在、これらの滝で滝行が行われているものか、また、常時滝水が流れ落ちているものかどうかについては知らない。

  なお、橋を渡った正面には、かつて一泊したことがある老舗の「先導師旅館かめ井」がある。団参者とは別棟の和室に案内され、部屋の外に広い和風庭園があったような記憶が残っている。もちろん、食事には大山名物の「豆腐」があった。

  また、「良弁の滝」から20mほど下った左側に「権田公園」という池のある小さな公園があった。この「権田公園」は、明治6年に宮司となった権田直助氏の業績を記念して造られたものだと思う。

  権田直助氏(皇典講究所教授、大教正、大山学派創始者、明治
20年(1888)79歳で死亡、権田公園の奥に墓がある)は、明治政府の廃仏毀釈、神仏分離、修験道廃止なとの施政に従って、大山寺から分離した頂上石尊社(石尊権現)本殿を大山阿夫利神社本社、中腹の本堂不動堂を大山阿夫利神社下社(拝殿、客殿)に変え、廃仏毀釈等で打撃を受けた「大山詣で」信仰の復興継続に尽力した。

  なお、この「阿夫利神社」の「阿夫利」は、「雨降山大山寺」の山号「雨降」からとった「当て字」だと思う。

※つづく→「女人禁制「大山詣で」不動堂へ(「陽炎の辻」を観て4)

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