2012年06月

2012年06月30日

東郷高塚古墳の東方にある矢房神社(宗像市)

矢房宮絵馬  ※左の画像は、矢房神社の拝殿(宗像市日の里3-11)に、1枚だけ掲げてある「文久元年辛酉9月中旬奉納」の絵馬。
 (壇ノ浦戦いを描いたものか)。



  「海の道むなかた館と田熊石畑遺跡・東郷高塚古墳」(2012.5.8)のなかで、東郷高塚古墳(前方後円墳1基・円墳2基)について触れたが、この東郷高塚古墳の東方、傾斜地の見通しのよい丘陵上に矢房神社が鎮座していることを思い出した。

  東郷高塚古墳と矢房神社の間の丘陵は、今は削られて団地住宅が建ち並び、以前と様子が変わっているが、もとは林に覆われた丘陵でつながっていた。

  矢房神社は、鎮座地が古墳の墳丘跡だった可能性もあるけど、位置関係から見て「東郷高塚古墳の遥拝宮」だった可能性も考えられなくもない。

  矢房神社は、旧東郷町(村)の産神(祭神:天照大神、田心姫命、大己貴命/明治5年11月村社被定、当時大字東郷200戸氏子)で、日の里団地造成前の字は、宗像郡東郷町大字東郷字井の久保だった。
  応神天皇2年庚卯11月勧請鎮座、宗像七十五社の一風隼神社」という由緒がある。(筑前國續風土記附録は、「後土御門院、応仁2年鎮座」の間違いではないかという)。 

  参道石段の上、神殿前に、縦一列に並んで建っている4基の鳥居の額束には、「矢房宮」(2基)と、「伊久志神社」と「貴船神社」(各1基)と刻してある。

  多分、伊久志神社と貴船神社の鳥居は、明治・大正期に伊久志神社(伊弉諾命、伊弉册命)と貴船神社=貴船神社(龗神・保食神)を矢房神社境内に遷したときに旧鎮座地から境内に移したものだと思う。
  そして、この二社は、恐らく戦後に本殿に合祀されたと思うので、そのときに、現在地に鳥居を再移動したものではないのかと思う。

  境内神社には大日霊神社(天照皇大神)と蛭子神社(龗神)のほか、天満神社(菅原神)、別途祇園宮鳥居を有する祇園社(スサノオ命)や、大行大明神(石碑)がある。

  これらもすべて明治、大正期に遷宮したものだと思うが、うち下記は、筑前國續風土記附録に旧地(東郷村内の字)の記載がある。
  伊久志神社(ウエノ)。
  貴船神社(ムラウチ…社内に石あり。石面に扇子半開きたることくの形あり。神体なりといふ)〜このほかに貴船神社二社(ウラマチ)。
  天満宮(ミヤノワキ)。祇園社(ムカエノハタケ)。
  これらの字名も、今は日の里団地のなかに消えてしまっているのかもしれない。

 ※矢房神社境内画像参照リンク→「66祇園神社」。

keitokuchin at 01:30|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2012年06月28日

伊藤エミさん訃報

ザ・ピーナッツ伊藤エミ  突然、ネットに伊藤エミさん(ザ・ピーナッツ姉=沢田日出代さん71歳)の訃報が載った。
  亡くなったのは15日だったとか。

  人気絶頂の時代が過ぎても、いろいろあって、脳裏のなかに消えずにいた歌手(女優)だった。
  今は、もう「モスラ」の影もなく、気付かないうちに時代は移り変わって逝くものだ。
  ご冥福を祈る。南無阿弥陀仏。合掌。


keitokuchin at 02:14|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2012年06月26日

劇団美川公演観劇(玄海ロイヤル劇場)

劇団美川  消費増税衆院可決、本当に国民の信を得ているのだろうか。即解散をしない総理に期待しても詮ない。

  詮ないことを考えても詮ないと思い、久しぶりに大衆演劇を観に行った。

  実は、今年のロイヤル劇場(玄海ロイヤルホテル)に劇団美川(総座長美川麗士、若座長美川慶二)さんが出演するという案内を貰っていた。気付くともう終演(6/28)間近になっていたが、間に合った。

  劇団美川のポスター(※上の画像)に総座長美川麗士と若座長美川慶二の顔写真が載っていた。美川慶二って…?、慎介のこと…?、
実にうとい!!、まあ、いいか。

  前列の畳席が空いていたので、そこに腰を下ろしてリラックスした。芝居(一幕)が始まると、演技者の声が舞台横のマイクから大音響で響いた。合間には美川大介さんがグッズ紹介(DVDなど)。

2012062421220000  舞踊歌謡ショーが始まったとき、舞台背面の下方から水玉模様の電光が、まともに視線のなかに飛び込んできてまぶしかった。
  でも、舞踊が始まると、まったくまぶしさを忘れていた。これが、劇団美川独特の趣向なのだろう。
  美川竜さんや吹雪舞さんなど美人役者もいるし、特に吹雪舞さんは、雰囲気が大好きな村主章枝さんに似ているので、ついみとれてしまう。

  子役(河内まや、河内まほさんだっか)もなかなか上手で、楽しませてもらった。

keitokuchin at 23:36|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2012年06月25日

街道そばたからいで昼食(宗像市原町)

街道そばたからい庭園 ※左の画像は、街道そばたからい (宗像市原町)の庭園。

  昨日の昼、梅雨の盛りの強い雨が降っていたが、ふと思いついて、「街道そば たからい」に行ってきた。

  旧唐津街道原町宿のなかにある古民家(築150年)を使って営業している蕎麦食専門店だが、ここで食事をするのは初めてだった。

  門をくぐると、雨水が敷地を埋めて、水の上に踏み石が浮いているような感じになっていた。その先には玄関らしきところがなく、少し面食らったが、濡れ縁の前に下駄箱(棚)が置いてあるので、ここから上るのだ。
  でも、ここは雨で濡れていたので、靴は濡れ縁の上に置いて、右奥の客室に進んだ。客室は客で埋まっていたが、一つだけ窓際のテーブルがあいていたので、ラッキーだった。

  ここから雨に濡れる庭圓を観ながら蕎麦を食べるのも風情があって悪くないと思った。
  もっとも雨の降りが強く、屋根の雨樋から溢れた雨水が音を立てて落下していたが。庭の池は、濁り水でほぼ満タン、また、反対側の枯山水の庭も、濁り水の池山水になっていた。
  それはそれで、梅雨時の風物詩の趣があり、歌の心得でもあればここで一首ということになるのだが。

  メニューは蕎麦三昧1500円から単品そば850円まで数種類あったが、一番人気という「蕎麦ながし」(1200円)を注文した。

  まず、横長の陶器の上に舟形に敷かれたバランの葉の上に乗った冷たい蕎麦が出された。バランの葉を観て、改めて庭を観直したら、やはり、庭にバランが茂っていた。
  南天の葉も添えられ、バランと南天の葉の緑と蕎麦のバランスが涼しげだった。蕎麦湯も添えられていた。

  蕎麦は、「信州そば」の九割蕎麦ですとの説明があった。九州にも「三瀬蕎麦」や「阿蘇そば」、「小薄そば」、「薩摩そば」などがあるが、やはり、蕎麦は信州なのかなあ。
  九割蕎麦というだけに腰があり、味もよい、この味に魅せられた常連客も多いそうだ。こんなに強い雨の日でも続々と客が訪れるので、そうなんだろう。

  次に出されたのが、暖かい蕎麦(かけそば)で、出汁の味もよかった。冷たい蕎麦の後に暖かい蕎麦という組み合わせが面白い。
  その後、ショートケーキ(チーズorシフォン)と珈琲(水がよいのかブラックのでも薄味で飲みやすい)が出た。

  30分くらいの滞在だったが、満足だった。
  この日の雨は一向に降り止まなかった。

keitokuchin at 16:00|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2012年06月23日

八並不動明王(宗像四国西部霊場第76番)福津市

375八並不動尊案内図部分  許斐山(272m)は、宗像市王丸と福津市八並との境界にある。

  許斐山の八並側山麓を走っている県道530号線(畦町村山田線)沿いに、「八並公民館」がある。


  その横に「宗像四国西部霊場第七十六番本尊八並不動明王薬師如来入口→」と記された大きな看板と、「境内イラスト」看板
(※上の画像)がある。

  今まで「宗像四国西部霊場」の各札所で、こんな大きな看板を掲げているところを見たことがないので、この前を通るたびに気にはなっていたが、最近まで行ったことはなかった。

376八並不動尊大光堂碑  「八並公民館」前に車を停め、その右横から山手の方に続く細い坂道を上った。

  少し歩くと、左側に門柱が立っており、ここからが八並不動明王(寺院名等はない)の境内で、この先の山麓斜面上に、石灯篭、大光堂歌碑(※左の画像)、大光堂がある。

  さらに、立派な石垣に挟まれた石段(大正元年/※下の画像)を上ると不動堂薬師堂(薬師如来)ほかのお堂(大日如来、阿弥陀如来、釈迦如来、観音菩薩、地蔵菩薩など)があり、随分と大きな境内規模である。

  不動堂の前には、別棟で拝殿があり、ここで籠り行をする信者さ 
377八並不動尊拝殿と石段んもいるのかもしれない。
  上記「境内イラスト」には、「奉納八並不動明王信者一同」とあり、同信者一同で、「毎月28日月詣日」、「2月28日大祭」を行っているというので、その日には大勢の参拝者が集まるのだろう。

  筑前國續風土記附録に「不動堂コタ」の記録があり、これが、この不動堂であれば、由緒は分からないが、この不動明王信仰は江戸時代からあったということになる。
  きっと願いごとを適えてくれるお力のあるお不動様なのだろう。

378八並不動前ひつじ  帰路、頭上でヤギの鳴き声が聞こえたので、見上げたら、ヤギ小屋で飼われている一匹のヤギがいた。
  以前は、空き地など紐につながれたヤギをよく見かけたが、最近は、見かけないので、ちょっと懐かしかった。(※左の画像)。

keitokuchin at 23:42|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2012年06月22日

「捜査線上のアリア」の若村麻由美さん…今夜は眠れそう

  最近、以前(2008.7.19)書いた「帰ってきた闇猫のお吉(若村麻由美)」にアクセスが多いので、なぜ今頃と思っていたら、毎水にBSジャパンで「刺客請負人」が再放送されている。

  改めて観直しても、若村麻由美さんの闇猫のお吉は良い、奇抜な和服着だが、もともと和服が似合う人だから、時代劇だったら悪役だってきまっている。

  先日終わった「Wの悲劇」の淑枝役は、気品はあったが、あまり好きな役柄ではなかった。
  5/10の「事件15」も観たが、最近の若村麻由美さんは暗い役が多いのかな。

  今夜の「捜査線上のアリア」の若村麻由美さんは、犯罪と引き換えに一流作家にのし上がって行く女性作家津村和子役、暗いといえば暗いが、その美しさが光っていた。

  バックミュージックに「誰も寝てはならぬ」(プッチーニのオペラ「トゥーランドット」より)の旋律が流れるなかで展開する事件の真相…、やはり、若村真由美さんの魅力には惹きつけられる。
  今夜は眠れそう。

keitokuchin at 23:56|PermalinkComments(2)TrackBack(0)

2012年06月21日

松原の須賀神社と周辺散策コース(福津市)

IMG_0460祇園宮  前回、「松原の六部堂」について記したので、今回、松原の須賀神社(祇園宮/福津市松原字上松)について記し、これまで述べてきた松原(旧海の中道)周辺の散策コースも記しておくことにする。
  
  松原の須賀神社(祇園宮)は、「六部堂」参道口から左に勝浦松原集落方向に進むと右側にあり、防風林(松林等)を背にして鎮座している。

  旧勝浦潟「舟つなぎ石」から県道528号線を下り、勝浦郵便局前の交差点(ここは、古賀集落から田園地帯=旧勝浦潟干潟のなかを通ってきた直線道路と交差するところ)を右折し、T字路を左折(→右側に須賀神社)して行くこともできる。(なお、T字路を右折すると六部堂参道口がある。)

  この須賀神社の前を通る道筋が、かつての海の中道の入海側(旧勝浦潟)の岸部分に近いのではないかと思っている。

  道路際に「薬師堂」がある。「宗像四国西部霊場松原第46番本尊薬師如来堂」とある。須賀神社境内になるので、須賀神社と係わりがあるものだとは思うが、詳細は分からない。

  ここから石段を上った広場の奥に須賀神社の神殿がある。
  この須賀神社は、享保7年(1722)博多櫛田神社須賀神社(祭神:素盞嗚尊、奇稲田姫命)を勧請し造営したものらしい。

  津屋崎郷土史会調査には、この須賀神社は、祇園さんとも呼ばれ、明治末期まで山笠が行われていた、当時の担ぎ棒が今も床下に見える、とある。

  神殿前の広場が、日当たりもよく、かなり広いと思っていたが、かつて山笠(松原祇園山笠)が行われていたのであれば、相応のスペースが必要なので納得した。
  そして、この広場の広さを見ていたら、多分、松原祇園山笠の祭事は、上記享保7年(1722)須賀神社勧請鎮座と同時にが始まったのだろうと思った。

  その山笠を止めた明治期の氏子たちは、きっと、いつかまた再開することを夢見て担ぎ棒を残したのだろう。しかし、それは、夢のままとなり、世代が移り変わってしまった。でも、その担ぎ棒が今に残っているのは、当地の地方史を知る上では貴重である。

  幸いなことは、隣接の津屋崎(松原地区も旧津屋崎町内)の波折神社では、今も境内須賀神社(素盞能男命)の津屋崎祇園山笠祭礼が健在である。
  津屋崎祇園山笠を見学したことがあるが、その時期(毎年7月中旬)、津屋崎地区の各区に「のぼり旗」がたなびき、子供たちを含む男たちが鉢巻、半被、ふんどし、地下足袋姿で現れ、威勢よく山笠が動く、勇壮な漁師町の男の祭典だ。

  津屋崎祇園山笠祭事の開始は、正徳2年(1712)で、博多櫛田神社の祇園神を、波折神社境内の祇園社(須賀神社)に迎えて始まったものらしく、松原須賀神社が、同じく博多櫛田神社の祇園神を迎えた享保7年(1722)よりは、10年ほど古い。

  松原の須賀神社では、今は山笠は行っていないが、山笠の時期(7月15日頃の日曜日)に「注連おろし」の行事を行っているというので、それが山笠に替わる行事なのかもしれない。

  その他の祭礼として、3月28日御申祭(みさるこう)、4月第一日曜日春祭、9月1日風止祭を行っているという。
  この周辺地区の神社でも、風止祭の行事を行っているところもあり、この辺りの集落や田園は、玄界灘と接し、防風林で海風を遮っているとはいえ、台風などの風害、塩害などの心配は尽きないので、神に風止祈願をする祭礼があるのかもしれない。

  ※つづく→「松原の須賀神社(祇園宮)追記(福津市)」。


  次に、これまで前述してきた松原(旧海の中道)周辺散策モデルコースを記しておく。
  ・あんずの里ふれあい館P(駐車)→(国道495号)桂区信号機→空間神社(古賀)→(旧勝浦潟干拓地平野)→勝浦郵便局→須賀神社(松原)→(防風林内側の側道)新町集落→塩浜森神社(梅津森山)→梅津天満宮(梅津)→梅津浦(白石浜海岸)→突堤(旧海水取入れ口)→六人士の石・六社宮→松原海岸(勝浦浜)→年毛神社(西東)→旧勝浦潟舟つなぎ石六部堂(松原口)→あんずの里入口信号機→あんずの里ふれあい館。
  ※約3時間コース。海岸散策のとき、夏場は海ぞうりに履き替えると楽。コース途中で駐車して散策するときは、年毛神社以外に駐車できるところはない。

keitokuchin at 23:47|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2012年06月20日

六部堂(2)〜回国聖・六部行脚僧(福津市)

六部堂と参道口道標※左の画像は、六部堂と参道口の道標(福津市勝浦松原)

 前回「六部堂(1)」の中に記した「宗像伝説風土記」によれば、「六部堂」に祭られている「六部さま」は、旅の途中で病死した遍路行者だという。

  近隣某所で病気になり斃れていた遍路中の行者を見つけた者らが、夜中にこっそりと今のお堂あたりまで担いできて捨てた。
  (松原の)「村の人たちはねんごろに葬り、その上にお堂を建て、その霊を慰めたのが、六部さまの縁起である」としている。

  この行者を「六部さま」と言うのは、多分、この行者が、「六十六部の法華経書写」を奉納するために全国六六か国の社寺霊場を遍路(巡回)中の行脚僧、つまり「六部(回国聖)」だと考えてのことではなかったかと思う。
  氏素性は伝わっていなかったので「六部さま」と称したのだとろうと思うが、「六部堂」のなかには「泰然禅師」の書札があった。
  その意味することは分からないが、不立文字の禅宗にあっても、法華経の経典は重んじているので、禅宗の僧が「六部」の行脚をすることは変ではない。

  「六部堂」内には、六部さまの尊像や「山伏姿の絵馬」(昭和28年7月14奉納)、大念誦などが雑然と納められているので、それらを観ていると、行脚僧であったとの雰囲気は感じる。

  「ふるさとへ廻る六部は気の弱り」という有名な古川柳(作者不詳、誹風柳多留)がある。
  きっとこの「六部さま」も、旅の空で病に倒れ身動きできなくなったとき、ふと故郷の空を思い浮かべ心細さを感じたことだろう。本当に、そのような気持がよく伝わってくる川柳だと思う。

  江戸時代の六部」は、僧俗を問わず、「ねずみ木綿の巡礼姿に六部笠をかぶりを背負って回った(佛教大事典)」といわれ、修験者の姿を彷彿させるが、物乞いにも見られたというので、ひょっとしたら、この「六部さま」も物乞いに見られて捨てられたのかもしれない。

  死を目前にして、非情な人たちや人情味あふれる人たちの姿を目にした「六部さま」の気持はいかばかりであっただろう。

  私は、師僧からよく「行者の末路は哀れ」と言い聞かされてきたが、この「六部さま」の話などを知ると、やはり、こんなこともあるのだと、改めてその言葉を思い出した。

  本ブログの表題「正見行脚」の「正見」は、当初、般若心経の「照見」だったが、途中から「八正道」の一「正見」に変え、自分も「六部」のごとき「正見行脚」をしたいと思いつつ付けた表題だった。
  それだけに、生死をかけて「六部行脚」をした「六部さま」を祭る「六部堂」が福津市にあることを知ったときは驚きだった。
  同時に、誰も自分がどんな人生の終わり方をするのかは分からないが、その日がくるまでは、日々懺悔文を唱えながら自分なりに正しいと思う人生を生きて行こうと思い合掌した。

(付記1) 六部堂参道の途中の叢のなかに、雑然と置かれている六地蔵を目にした。これより先は六道救済を願う道だったのだろうか。

(付記2) 旧六部堂は、今よりもっと大きな建物だった。現在の小さな六部堂は、棟札によると「平成18年4月再建」とある。
  境内敷地内には、花田家墓石がぽつんと一つ立っているが、この周りに散乱した屋根瓦が敷き詰めてあったので、旧堂は、平成17年3月20日の福岡西方沖地震で倒壊したのかもしれないと思った。

(付記3) 六部堂に「宗像四国西部霊場西東第3番本尊釈迦如来」の棟札が貼り付けてあったが、現在、別棟に釈迦堂があるわけではない。以前、参道口にお堂があったような記憶もあるが、いずれにろこのお堂も消失したのだろう。
  「六部堂」内の片隅、足許に見下すような位置に痛みの激しい小仏像(木造立像)が置いてあったので、この仏像が本尊さまなのかもしれない。何だか痛々しく寂しい思いはしたものの、黙ってたたずむ仏像に合掌した。

※つづく→「松原の須賀神社と周辺散策コース(福津市)」。

keitokuchin at 23:57|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2012年06月19日

六部堂(1)〜道標・行脚僧と御利益 (福津市)

六部堂参道口道標  (前回からつづく)

  既述した旧勝浦潟(入海)の「舟つなぎ石」の少し後方に、旧「海の中道」の砂丘上に生えている防風林が見えるが、その前に小さな「お堂」が建っている(福津市松原)。

  このお堂は、「六部堂」といい、古今、疣(いぼ)落しに霊験ある「疣落ち六部さま」としての信仰があるそうだ。
  お堂内にある小石(丸みのある石)で疣をさすると疣落ちに即効力あり、その霊験を授かった人は、自分の年齢の数だけの小石を供えてお礼参りをするという風習があるらしい。

  それにしては、小石の数が少ないが…、明治以降の西洋医学の導入との係わりを考えたとしても、宇美八幡宮(福岡県糟屋郡宇美町)で膨大な数の奉納安産石を何度も観ているだけに、どうしてなのかと思った。でも、安産祈願などと比べてはいけないか…、ほかにも理由があるのか(後述予定)。

  「六部堂」の参道口に、今も六部堂参道口を示す小さな「石道標」が残っている(※上の画像)。
  参道口(石道標)は、「舟つなぎ石」の右横から後方に伸びる里道(道の右側は西東集落)を進み、田畑が広がる左側二つ目の角を左折し300mほど進むと右側にある。
  なお、二つ目の角を左折しないで直進すると田畑のなかで行き止まりとなる。

  石道標前を右折すると六部堂参道となるが、右折せずにそのまま進むと、松原の須賀神社(祇園宮)の前を経て新町、塩浜方向に向うので、この道は、勝浦潟が干拓された寛文6年(1666)~11年以前からあった道、つまり海の中道の内海側の岸道ではなかったかと思う。

  今、石道標は、半分以上が土のなかに埋もっており、掘り起こさない限り全文を読むことができず、作られた時代は分からない。

  また、「六部さま」という名から、この六部堂が行脚中の僧と係わりがあることは容易に推察できていたが、この六部堂・六部さま信仰が盛んになった時代は分からない。

  故上妻国雄氏の「宗像伝説風土記」に、この六部さまが旅の途中で死んだ行脚僧であることを述べられているが、この「六部さま」がいつの時代の行脚僧で、いつの頃にその信仰が盛んになったのかとかについては、何も述べられていない。

  ただ、六部さまという言葉から、漠然と僧俗を問わない六部の行脚が盛んになった時期は、江戸時代前中期以降だったのではないかと思っているので、多分、この六部さまは、寛文6年~11年の勝浦潟干拓以後の人ではないかと思っている。

  六部堂内に「享保四玄天六建立四月松原口村中」と記した棟札があったので、享保4年(1718)であれば、寛文より少し時代が下る。これが正解かもしれない。
 ※つづく→「六部堂(2)〜回国聖・六部行脚僧(福津市)」。

keitokuchin at 23:56|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2012年06月18日

白石浜〜勝浦浜の砂浜海岸(福津市)

六義民碑と俵瀬  ※左の画像は、俵瀬(たわらせ)の岩礁と六人士の歌碑がある白石浜の始点(福津市渡)。

  前回の「梅津天満宮」(福津市渡字梅津・森山の北麓)の先に「梅津公民館」があり、林を抜けると外海(玄界灘)に出る。
  この浜を梅津浜、梅津浦というが、白石浜の海岸線に含まれる。

  ここから右(北)方、勝浦浜に至る海岸砂丘が、かつて「海ノ中道」と言われたところである。
  この間は、外海(玄界灘)と入海(内海=勝浦・桂潟→勝浦塩田→現在の勝浦平野)に挟まれた長い砂丘浜だったという。
  ※参照→「舟つなぎ石〜勝浦潟(桂潟)の入海津跡 (福津市)」。

  梅津浦(浜)を含む白石浜(白石浜海水浴場あり)の始点は、ここから左約1.1キロ先にある「俵瀬岩礁」下の浜(※上の画像)で、終点は、右約1.2キロ先にある「六社宮」である。

  この白石浜は、江戸時代、津屋崎と勝浦の漁民の間で、漁場を巡る境界争いがあり、津屋崎方6人の漁師が俵瀬から大石をかついで運び境界を決める舞台となった海岸である。

六人士の石3  俵瀬の砂浜には、このことを記念した「六人士の歌碑」が立っている。
  また、「六社宮」下の砂浜には、今も「六人士の石(六人の漁師らが運んだ大石)」(※左の画像)が保存されている。

  この六人士の時代は、勝浦塩田干拓等が行われ勝浦潟の入海が消滅した寛文6年(1666)〜寛文11年(1671)よりは以前の寛永17年(1640)のことである。

  ※参照→「波折神社を参拝(6)〜六義民を祀る六之神社
  ※参照→「六人士の石・六社宮と玄界灘(1)(2)

  六社宮に向う途中に、海岸線を切断するかのような形で築造されている奴山川河口の「突堤」がある。ここは、「勝浦塩田への海水取入れ口」でもあった。

  奴山川は、新町集落の辺部から「突堤」に流れ出ているが、新町は、梅津の隣にある集落で、塩田に係わる人たちのために新たにできた集落という意味だったのだろうか。
  県道502を渡ると塩浜(塩浜バス停や塩浜公民館などもある)で、塩田の地が、そのまま塩浜の地名なったのだと分かる。
  この辺りの各集落内の里道は、車の離合が難しいほど狭く、曲がりくねっており、江戸時代にタイムスリップする。

  「六社宮」・「六人士の石」から勝浦魚港まで続く海岸線が勝浦浜(勝浦浜海水浴場あり)で、その途中に「年毛神社」が鎮座している。
  (※参照→年毛神社(1)(2)(3)(4)(5)

  この白石浜〜勝浦浜の海岸線は、総延長約6キロあり、湾状に緩やかな弧状を描いており、この浜のどの地点からも、延々と続く美しい砂浜と海の景色を満喫することができる。
  
  また、冬になると、この海岸一帯は、韓国などから漂着物が押し寄せ、漂着物の宝庫(ガラクタ?)となる。
  漂着物の権威者いしいただし(石井忠)氏は、この浜に流れ着いた漂着物を書いた図書を発刊され、「浜の寄物」の記事を月刊宗像(宗像大社発行)に連載(平成24年6月現在267回)されている。

  一方、これらの漂着物の処理を行う人たちの作業も大変なことだろうと思う。
  話は飛ぶが、漂着物といえば、東日本大震災の津波で流された大量のガレキが、今、米国太平洋岸に続々と漂着しているという。
  そのなかには嬉しいニュースがある一方、やはりそのガレキ処理に(撤去費を含め)四苦八苦しているというニュースもある。

  なお、私は、神湊に近い勝浦浜周辺(狭い路地が多い)も、何度となく散策し、ここで活魚料理を食したこともあるが、この地区の記事を書いたことがない(いつか書きたいと思っている→※「勝浦浜散策1~神湊スカイホテル[倒産](宗像市) 」)。 

  ※つづく→「行脚僧を祭る「六部堂」と御利益(1) 福津市」。

keitokuchin at 23:55|PermalinkComments(0)TrackBack(0)