2012年07月

2012年07月30日

リオ・カーニバルショーを観てきた

リオ1  「リオ・カーニバルショー再上陸」のチラシを見て、興味を惹かれ行ってきた。

  本場のダンサーが入れ替わりながら激しいサンバのリズムにのって歌い踊り続けた。

リオ2  実際のショーを観たのは初めて、あっという間の1時間だったが、充分に満足した。

  よい気分転換になった。

(玄海ロイヤルホテル大ホールにて)

  

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2012年07月29日

勝浦浜散策12~北方地蔵堂(1)福津市

525地蔵堂建物  前回記した(有)永島洋瓦の1本裏側にある集落内の狭い道路は、勝浦浜上道といい、勝浦浜公民館(福津市勝浦378-6)や勝浦浜老人クラブ老人花園などがあり、勝浦浜の上側の集落内のメインストリートかもしれない。
  この上道通りの途中に、「北方地蔵堂」(福津市勝浦421-1、上道地蔵堂ともいう)がある。

  現在の北方地蔵堂は、平成3年(1991)4月に改築されたものらしく、堂内に当時の永島千年区長ほか世話人や寄付者の御芳名が掲示されている。

  北方地蔵堂のなかには、4体の石仏が置いてあるが、地蔵堂入口に「宗像四国西部霊場桂浜第七十八番本尊阿弥陀如来」の板札が貼り付けてあるので、この4体うちの1体が阿弥陀如来像なのだろう。
  すべての石仏にエプロンがかけてあり、石仏の形が分かりにくいが、ほかの石仏は地蔵菩薩像なののかもしれない。少なくとも2体は地蔵菩薩と思える。

  筑前國續風土記附録に、「地蔵堂二宇(キタ・キタガタ)」とあり、ここは、そのうちの北方(キタガタ)地蔵堂である。前述した勝浦浜(海岸)に面した日吉神社に「南」の標示(旗立て石)があったので、勝浦浜の字は、北方と南に分かれていたということなのだろうか。そして、この北方地蔵堂のある道を上道というらしい。
  
  各地蔵像の前に三つ、てかてかと光っている小さな磯石が置いてあるが、体の痛みなどを取っていただける「お地蔵様の祈願石」なのかもしれない。
  それなのに、最近、参拝に行ったとき、この石を手にして祈願することを忘れていた。実は、最近、散策中に左足のかかと(足底筋膜)の痛みが出て、足をぞろびかせていることがあり、それこそこの石で祈願すればよかったかな。

IMG_0584  正面の鴨居に、「鯛幸」奉納の「般若心経額」が掲げてある。
  活魚料理の「鯛幸」は、この勝浦浜上道の北口(県道沿い神湊スカイホテルの並び/宗像市神湊字井牟田)にあった。
(※左の画像/赤屋根の建物)。

  しかし、今は、その玄関欄間に設置してある「鯛幸」の看板が傾いたままになっており、営業していないようだ。
  海側に高層の「パークセレノ玄海マンション」が建ち、海側の明媚な風光が遮られた影響もあるのかもしれない。

  「般若心経額」の横に「お地蔵様御詠歌」の色紙(墨書)が掲示されている。
  「一、踊りはね 念佛申す とうしょう寺 拍子そろえて 鐘をうつなり たちえの地蔵御詠歌   一、いつかさて 西の住いの 我がたちえ ぐせいの舟に のりていたらん たちえの地蔵御詠歌   謹写 平成六年四月吉日 寄贈 千年(印)」。
  寄贈者の「千年」とは、前述の永島千年 北方区長のことだろう。

  また、地蔵堂壁面には、平成16年5月に年毛神社 永島俊一宮司が記した地蔵堂の由来や一石塔碑文など(墨書)も掲示されている(次回、掲載予定)。

  「一石塔」とは、北方地蔵堂の(向って)右外にある一字一石塔や八角石塔などのこと。
  なお、左外には、桜の木1本、手洗鉢1個と、石仏や石碑など12体以上(破損或は台座のみのものなどを含む)が並んでいる。

※つづく→「勝浦浜散策13~北方地蔵堂(2)・由来は雲仙岳眉山崩れ遭難供養(福津市)」。

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2012年07月28日

勝浦浜散策11~永島洋瓦の二宮金次郎像(福津市)

529永島洋瓦店・二宮金次郎像  前回、「勝浦浜散策10~勝浦・井牟田地区の永島姓(福津市・宗像市)」 の末尾に、永島洋瓦の敷地に「二宮金次郎の像」があると記した。

  「永島洋瓦」(福津市勝浦378−3)は、勝浦浜バス停(福岡県道502号線上)の横にある。
  当初は、展示してある洋瓦を見ようと思い、永島洋瓦敷地内に入った。

  そこで、永島洋瓦の敷地入口近くにある建物の壁面に貼り付けてある、「よい環境は より好い人間とものを創り 感謝の心から生まれる 有限会社永島洋瓦」と書いた切文字看板が目に止まった。

  「よい環境は、より好い人間とものを創る」、「よい環境は、感謝の心から生まれる」と分けて読むとわかりやすく、素晴らしいキャッチで、きっと、この会社の創立理念なのだろうと思った。
  私は、このキャッチコピーを目にしたとき、何だか嬉しくて、思わず合掌していた。

  そして、この下の窓の横に、「二宮尊徳像前の駐車は御遠慮ください」と書いた札が貼り付けてあるのに気付き、その下の敷地内に「二宮金次郎像(ブロンズ)感慨」と記した案内板が立っているのに気付いた。
  歩いてきたので駐車等の問題はなかったのだが、この案内板を見たときは、少しあわてて辺りを見渡した。つまり、当初、二宮金次郎(尊徳)像がどこにあるのかが分からなかったからだ。

  まず、散り終わったガクアジサイの葉に半分隠れるように立っている民家風の屋根を乗せた石灯篭に目が行き、その後でやっと、そのガクアジサイの葉の上の奥の方に、右横向き(後ろ向きに近い)で立っている小さな二宮金次郎像に気付いた。
  マキを背負い本を読みながら歩く少年の姿をしたオーソドックスな二宮金次郎像であった。(※左上の画像)。

  現代の道路を、こんな格好で歩こうものなら、それこそ命の危険が伴い危険極まりない行為となるが、戦前は、この格好の像が修身教育の模範として全国の小学校の校庭に設置されていたという。

  でも、意外なところで、二宮金次郎像を目にして、少し感激した。
  特に、かつて二宮金次郎(尊徳)の縁の地、神奈川県小田原市栢山に住んでいたので、懐かしくもあり、嬉しくもあった。
  近年、二宮金次郎(尊徳)に対する評価が見直されて、その伝記を書いた図書「二宮金次郎の一生(三戸岡道夫著/栄光出版社)」が売れているというので喜ばしい。

  なお、永島洋瓦の「二宮金次郎像(ブロンズ)感慨」案内板には、次のように書かれていた。
  「薪を背負い、歩きながら本を読む姿で、私たちに勤勉と倹約の心を教えてくれた二宮金次郎の銅像も修身教育の衰退とともにその姿が消えてしまった。
  しかし徹底した実践主義を貫き自ら陰徳、積善、節倹を実行して殖産の要を説いた二宮金次郎の精神を思うとき、現在ややもすれば努力を嫌い労苦を惜しみ、自己中心的な軽佻浮薄に流れがちな現代への警鐘としてこの偉人の名像を飾り混迷の現代を生き抜く心の指針となるよう願う所以なり 社長拝」

  「二宮金次郎(尊徳) 江戸末期の農政家、号尊徳、相模の貧農の子から身を起こし、小田原藩や六百五ヶ町村の財政を建直すなど 農村復興事業に生涯を捧げる。」      (※参照→二宮尊徳)。

  さらに、永島洋瓦工場内別棟に、下記の「日常心得」が掲示してあった。内容は、当たり前のこと(常識)といえば、そうだが、この当たり前のことを忘れないで実行したいものだ。
  一、おはようという 明るい心 一、ハイという 素直な心
  一、有難うという 感謝の心 一、ご苦労さまという いたわりの心
  一、すみませんという 反省の心
  一、いらっしゃいませという 歓迎の心
  一、お陰さまという 謙虚の心
  一、させて戴きますという 奉仕の心。

  洋瓦店という意外なところで、思いもしなかったものを見せてもらった感じで、永島洋瓦の社長の社会奉仕の心意気が伝わってくるようで感激した。有難う!。

※つづく→「勝浦浜散策12~北方地蔵堂(1)福津市」。

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2012年07月27日

勝浦浜散策10~勝浦・井牟田の永島姓(福津市・宗像市)

530永島洋瓦店※左の画像は、永島洋瓦(勝浦浜)。

  (前回)「勝浦浜散策9~井牟田「大日堂」由来(追記)宗像市」のなかに「嘉永六年永嶋三之丞…再建」、「昭和十年永嶋秀之助…再興」との由緒があることを記した。

  この永嶋(=永嶌=永島)姓を見ていて、以前、「圓通寺想智院と旧勝浦嶽大明神址(2):忍照(福津市)」に記した忍照さんの俗名が永島(永嶌)半次郎兵衛寛勝だったことを思い出した。

  この永島寛勝(忍照さん)の実家は、江戸時代代々の勝浦村庄屋(甘住屋の屋号を持つ造り酒屋)で、かつ江戸時代に永島姓(苗字)を持っていた家柄でもあった。

  そうして見ると、上記の「嘉永六年井牟田大日堂再建」に中心的に係わった永嶋三之丞も永島姓(苗字)を有しており、江戸時代における当地の名家であったと想像される。

  井牟田(宗像市神湊)は、勝浦浜(福津市勝浦)に包括される地区であると考えてみると、勝浦地区における永島姓の家々は、当地の名士の家柄であったのではないかと思った。

  勝浦における永島姓といえば、名児山頂上に永嶌氏建立の「(法華)経一字一石塔」があった。
  勝浦浜散策中には、勝浦浜日吉神社の改築工事(昭和57年7月)寄進者芳名碑で建設委員代表永島善十氏ほかの、また、北方地蔵堂では永島千年氏ほかの、桂浜(北方)観音堂では永嶋九州男氏ほかの永島姓の人たちの名を見ており、永島建設永島洋瓦永島理容店などの看板も見かけた。また、年毛神社宮司さんも永島姓(永島俊一氏)だった。

  実のところ、勝浦の永島家は、先入観で桂区の上記永島寛勝(忍照さん)に係わる家のみだと思っていたので、勝浦浜散策中に多くの永島姓の家々を見たときは戸惑った。
  永島各家の誰とも接触したわけではなく、勝浦地区にどれほど永島家があるのかを調べたわけでもなく、各家の関係については知らない。
  そんななか、永島洋瓦の敷地に立っている二宮金次郎の像を観たときは、江戸時代から戦前に至る修身が今も生きているようにも思え感激した。このことは次回記す。
※つづく→「勝浦浜散策11~永島洋瓦の二宮金次郎像(福津市)」。

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2012年07月26日

JAF Mate九州ドライブ情報つづら棚田は豪雨被害

16つづら棚田  「JAF Mate2012/ 8・9」が届いた。そして、「九州・沖縄ドライブ情報」の頁を開いたとき、このときばかりは、かなり気持ちが暗くなった。

  いつも楽しいドライブ情報なのだが、はからずも今回の記事が福岡県うきは市だったからだ。

  JAFは、本誌を編集発行したとき、まさかその直後に、この情報掲載地が九州北部豪雨に襲われるなど思ってもいなかったことだろう。

  NPO法人森林セラピーソサエティ検証の全国48箇所セラピー基地のうち、2つの基地がうきは市にあると紹介されていたが、その一つに農水省日本棚田百選に選ばれた「つづら棚田の散歩道」がある。

  今回の豪雨被災がなかったら、山深い葛籠(つづら)地区に作られたこの散歩道は、確かに森林セラピーの最適地だと思う。だが、今は通れない。

  福岡県下の豪雨被害は、特に耳納連山や筑後川、矢部川水系に面した市町村で甚大だったが、うきは市は、耳納連山(耳納山地)や筑後川水系地区にある。復旧工事は迅速に動いているのだろう。

  ところで、中央では、脱原発デモとか、原発の安全性云々の論議などが続き、原発は稼動せず、国民は節電や電気料金値上げなどを押し付けられようとしている。この世の中に安全性を保障できるようなものなんてあるのだろうか。
  人災や天災は、日本列島のどこにいても、いつ何時、どのような形で襲ってくるか分からない。
  それらの災害が起きたときに、いかに迅速に復旧や救済などの対応をするのか、場当たり的なものではないシステムをキチンと作っておくことの方が大事だと思う。

  原発の反対運動や論議などより、進んでいない東日本震災地区の復興と救済措置を迅速化させることの方が先であり、今回の九州北部豪雨災害においてもしかりである。

  そして、「JAF Mate」が取り上げる風光明媚で、癒しセラピーなどの匹敵地が消滅するようなことがないように願いたい。

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2012年07月25日

加藤ミリヤさん「火曜曲!」に初出演=HEART BEAT

ミリヤ2012  昨夜(7/24)、「火曜曲!」 (TBS系)を観た。
めったに観ない番組なのだが、昨夜は違っていた。

  一夜限りの幕張「夏の音楽祭」ということではあったが、観た目的は、加藤ミリヤさんがこの番組に初出演すると聞いていたからだった。

  期待どおりに、加藤ミリヤさんは、「HEART BEAT(ハートビート)」(8/8シングル発売)を歌った。
  ロンドンオリンピックの開幕が間近に迫っている時期、加藤ミリヤさんは、その日本選手結団式でも、この歌を歌った。

  今は、この歌が最高、コカ・コーラ「2012年ロンドンオリンピック」キャンペーンソングとしてもヒット中だ。
  楽曲内に、アスリートが奏でる“ビート”(競技音の鼓動や息遣いなど)を取り入れて、オリンピックムードを盛り上げる効果も狙っているらしい。
  胸に赤いハートをつつんだ波打つ形の金メダルを縫い付けた黒色のミニワンピースを着て活動的に歌う加藤ミリヤさん、胸の金も飛び跳ねるように動いた。
  オリンピックは、やはり、熱い心と金だね。

  加藤ミリヤファンは、皆、この軽快なリズムに乗って飛び跳ねるように歌うミリヤさんと一緒になって踊ったかもしれないな。

  「…熱い鼓動が高まる瞬間 君は誰より眩しい たまらなく好きだと世界中に叫びたいよ…」。
  オリンピックを前に鼓動が高鳴るが、やはり、ミリヤ節だ。

  最近、「一番ソングSHOW」(日本テレビ系)で「胸キュン失恋ソング」として「Aitai」を歌っていたが、いつも一途に彼だね。
 
※→「HEART BEAT(ハートビート)」試聴曲
※→加藤ミリヤ スペシャルCM『HEART BEAT』 - YouTube
※→加藤ミリヤ『HEART BEAT TEASER Chapter03』
※→ コカコーラ CM 加藤ミリヤ ロンドン オリンピック 2012 HEART BEAT

  (追記)今週の「流派-R」(テレビ東京系)新曲紹介で、加藤ミリヤさんの上記CD「HEART BEAT」が紹介された。この曲、もっと早くに発売されてもよかったのではと思う。
  ところで、dwango.jp presents R-FESTE 2012 in新木場(8/30)に、加藤ミリヤさんの出演が決まったとか。盛り上がることだろう。

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2012年07月24日

勝浦浜散策9~井牟田「大日堂」由来(追記) 宗像市

「勝浦浜散策8〜日吉神社と勝浦浜の風景(福津市)」からつづく。

  先に記した「勝浦浜散策2〜魚屋別館・井牟田大日堂・華(宗像市)」のなかで、「これまで井牟田大日堂(宗像市神湊井牟田)の堂内に入ったことがなく、堂内に安置されている仏像を確認したことがなかった」と記していた。
  ところが、その後、この堂内の石仏を参拝する機会が訪れたので、今回、ここに追記する。

505井牟田大日堂模写横・真言  ※左の画像は、「井牟田大日堂の堂内に安置されている磯石泥絵具彩色の「大日如来像」を模写した絵(井牟田大日堂内に掲げてある)。
  この智拳印、結跏趺坐を組む大日如来像は、金剛界大日如来坐像としているようだ。

  井牟田大日堂内(床上畳敷き和室)には、4体の石仏(十一面観世音菩薩像磯石泥絵具彩色の大日如来像、石仏坐像、大師像)がきちん並べて置いてあり、清掃も行き届いており、一見して神湊井牟田地区24世帯の人たちによって毎日手厚く供養されている様子が伺えた。
  また、堂内の鴨居の上には、これらの石仏うちの磯石泥絵具彩色「大日如来像」の模写絵(※上の画像)が掲げてあった。

  合わせて「井牟田大日如来由来」「井牟田大日堂再建記」(板面に達筆の筆字書き)も掲げてあり、それを読むと、観音像についての説明は皆無で、以前から「観音堂」とは言わず、「大日堂」と呼ばれていたことが分かる。
  この由来と再建記を下記に転記する。(句読点は、当方で付した)。

  「井牟田大日如来由来
  「ここ大日堂には古くから自然石の磯石(花崗岩)に泥絵具で彩色した大日如来(金剛界大日、即ち太陽神以上の徳を備えた根本佛)を本尊として祀る。
  そもそも井牟田の由来を尋ねれば中世は今古賀と称し神湊発祥の地と傳える。
  土地の伝承によれば、この土地の産土神として千数百年以来日の御子の親族即ち天尊系の古塚を守護し来り、時の流れと共に戦国の世の苦難を土地の水軍の力にて乗り超えて来た由来を持つ。
  特に近世には七難即滅の大日 本願流行病除疫を祈願すれば霊験たちどころに顕然と云われ、過ぎし日には遠近の老幼男女の参籠する者多い為に堂宇狭溢を嘆く有様であった。
  堂内の古記録に依れば数百年以前から瓦葺きの堂宇を有し、嘉永六年永嶋三之丞其の外特志の者にて再建を行ない、慶應以来宗像四国霊場として巡拝され、昭和十年には永嶋秀之助外の有志にて再興、大戦末期十九年に台風のため松の大木倒壊、昭和廿年の大修理を経て、今日に至り大に古朽し地之有志の発願が見事に実り宮大工棟梁小樋茂光氏の匠技にて竣工。
  昭和六十年七月吉日神湊住人吉武謹一撰書」。

  「井牟田大日堂再建記
  「井牟田大日堂は古来、特に疱瘡除魔に霊験顕然なりと伝わり、御縁日には遠近の老幼男女の御参詣者も多く、去る昭和十年再建された堂宇も、その老朽化は、おびただしく、組員二十四世帯の発起と遠近、有縁の氏の御芳志を請ひ、宮大工棟梁小樋茂光氏の献身的な御好意を得て、茲に新築落成したものである。
  昭和六十年七月十日 井牟田組員」(※この後に二十四世帯の世帯主氏名が記載してあるが、ここでは省略する)。

  なお、文中に「嘉永六年」(1853)再建の記事があるが、境内に寛政八年(1794)建立の石灯篭があるので、少なくともそれ以前に「瓦葺きの堂宇」があったことは推測できる。

  また、「昭和十年」(1935)、永嶋秀之助外により再建した大日堂については、堂内にある別の古い板書(墨字が消えかかっている)によると、同年六月如意日、大日堂の落成に伴い「隣船寺和尚に請い入佛式を厳修した」ことが分かる。
  隣船寺は、臨済宗(大徳寺派)であり、その前身寺は、かつて当地(井牟田)にあったという旧井牟田寺(仮称)という説もあり、前身寺は大日堂を含むものであったかもしれず、さらに宗像四国西部霊場の宗派は多岐(真言宗に限らない)であり、この大日堂の本尊が大日如来なので真言宗だと考える必要はなさそうだ。
  だが、大日堂内にある上記の大師像は、真言宗の宗祖弘法大師(空海)坐像ではないかと思う。  

  宗像四国西部霊場は、慶応4年に再興されたが、現在、欠番札所があり、番外札所も多く、その全容が把握できていないようだ。
  ここ「井牟田大日堂」については、前回前述したが、「宗像四国西部霊場井牟田番外本尊大日如来」、「宗像四国西部霊場神湊第三十八番本尊千手井牟田観世音菩薩」となっている。
  ただ、こことは別の場所にも、由緒ある「井牟田観音堂」があるので、「大日堂」をそのまま「第三十八番札所井牟田観音堂」に重ねてよいのかについては疑問もある。  

※つづく→「勝浦浜散策10~勝浦・井牟田の永島姓(福津市・宗像市)」。

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2012年07月23日

勝浦浜散策8~日吉神社と勝浦浜の風景(福津市)

466勝浦浜日吉宮  前回記した「旅館弥太楼と弥太楼華杏」の間の勝浦浜海岸線に日吉神社がある。(※左の画像)。

  道路を向いて「日吉宮」の鳥居(平成7年6月弥太楼奉納)が建っている。

  石祠は、その右側にあり、鳥居の後方には白ずくめのガルバーばりモダンな家屋がある。この家屋は、常設の海の家として建てられたようにも見えるが、現在は使用されていないようだ。

  L字形になっている境内には、庚申塔や船つなぎ石、旗立て石があり、ソテツ(1本)も生えており、旗立て石の1本に「南若者中」の刻銘があるのは、当地が大字勝浦浜字ということなのか。
  また、昭和57年7月に日吉神社の改築工事を行った寄進者芳名碑(建設委員代表永島善十ほかの刻芳名あり)もある。

  数段の石段の上のブロック塀に囲まれたなかに、大小3つの石祠と丸石や三角形の石神、恵比須石像(2体)、旧鳥居の額束などが置いてある。

勝浦浜白石浜方面を望む  中央の大きな石祠が日吉神社で、祭神は大山津見神(主神)、大己貴神、国常立神、吾勝神、国狭槌神、瓊々杵神、菊理媛神、惶根神であるという。
  ただし、日吉神社の主神が大山津見神では辻褄が合わない。

  当然、日吉神社の祭神は、山王権現(日吉大神)なので、大山咋神(山末之大主神)でなければならないはずだ。
  福津市内には、内殿(旧福間町)にも日吉神社があるが、係わりはないのだろうか。

  それにしても、国常立神、吾勝神、国狭槌神…等々、天地開闢以下の日本神話に登場する神々が並んでいるのはすごい。

  2つの小石祠や石体は、境内社の住吉神社、水神社、竜宮社、恵比須社、貴船社、若宮社、塩竈神社ということになるのだろうか。
  塩竈神社は、勝浦の産神年毛神社との係わりによるものだろう。
  ただし、筑前國續風土記附録には、「日吉社(ミナミ)社内に龍王社あり」とのみ記されている。

勝浦浜大島を望むヨット  勝浦浜の人たちは、なぜか日吉神社のことを「ひぼし神社」と言っているが、次のような鎮座伝説が語り継がれているようだ。

  江戸時代に勝浦浜の村人数人が上方に旅をしたとき、近江国滋賀郡で、そのうちの一人が重病になり、いろいろ手当てをしたが、一向に病は鎮静しなかった。
  途方に暮れた連れたちは、かくなる上は日ごろから皆が信神じていた日吉大神(山王権現)に助けを請うしかないということになり、誓をこめて皆で懸命に祈念を続けたら、数日後に一命をとりとめ平癒した。
  村人たちは、日吉大神の霊験に感謝して、近江国日枝山(比叡山)から日吉大神を勝浦浜に勧請して、毎年8月15日に祭事を行ったという。

  なお、現在、祭事は、恵比寿祭(1/10)、注連下ろし祭(7/1)、夏越祭輪くぐり(7/30近くの日曜)というので、8/15の祭事はないようだ。
勝浦浜草崎方面を望む  ところで、日吉神社辺りの海岸道路は少し道幅が広い。

  それぞれのシーズンに、ここに車を停めて目の前の玄界灘・勝浦浜の海でサーフィン、ヨット、海水浴を楽しんでいる人たちもいる。

  ただ、ライフセーバーなどがいないので、勝浦浜には、正式の海水浴場はないのかもしれない。

  また、この辺りからの海岸線(渡半島=京泊・俵瀬〜白石浜〜勝浦浜〜草崎)、勝島や(宗像)大島などを望む海の景色も抜群で、潮風に当たりながら海を眺めるのもよい。特に夕暮れ時の夕日が海に沈む風景は幻想的だともいう。

※つづく→「勝浦浜散策9~井牟田「大日堂」由来(追記) 宗像市」。

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2012年07月22日

勝浦浜散策7~旅館弥太楼と弥太楼華杏(福津市)

468勝浦浜マンション  前回、「勝浦浜散策6~パークセレノ玄海、勝浦浜恵比須神社」で、勝浦浜海岸道路にある恵比須神社の先(南側)に、「(割烹)旅館弥太楼(本店)」があると書いた。
(※左の画像の、中央右の建物)。

  随分前のことになるが、建て変る前の「旅館弥太楼」(本店)には、勝浦浜の海(玄界灘)沿いにも出入り口があった。
  その頃は、日帰りで海鮮料理を食べに行ったついでに、この出入り口から出て海水浴をして、風呂でシャワーを浴びるなど、海の家代わりにしていたこともあった。
  最近、利用したことがないので、今もかつてのように自由がきくかどうかは分からないけど、シーズン中は大目に見てもらえるかもしれない(要相談だね)。

弥太楼華杏  最近、「旅館弥太楼」といえば、この先(南)のL字カーブ(勝浦浜海岸線道路終始点)の角にある別館、「和風旅館弥太楼華杏(はなあんず)」(福津市勝浦530-2)の方が有名である。

  なお、「弥太楼華杏」案内書に、「神湊西海岸(夕日のみえる宿)」と記されているのを観たが、勝浦浜とは記されていなかった。
  ここでも、また神湊なのか…、勝浦浜では範囲が広すぎて分かりにくいということなのだろうか。

  新鮮でクリスタルな活イカ料理を主体とした海鮮料理の美味しい味に惚れた常連客や、結婚披露宴ほかの宴会等の利用も多いと聞く。海鮮料理好きには、お勧めできる宿だと思う(日帰り会席予約もできる)。

  なお、杏(あんず)といえば、勝浦の国道495号線沿いに「あんずの里」があるが、杏(あんず)が勝浦の名産なのだろうか。

※つづく→「勝浦浜散策8~日吉神社と勝浦浜の風景(福津市)」。

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2012年07月21日

勝浦浜散策6~パークセレノ玄海、勝浦浜恵比須神社

479えびすとマンション  前回、カンナ群生地から勝浦浜海岸道路を右に、オテルグレージュから神湊港方向に向かって歩いたが、今回は、同群生地から左に歩く。

  前述した「魚屋別館」や「神湊スカイホテル」の下を通り過ぎると、四角錐のような形で建つ「パークセレノ玄海マンション」(宗像市神湊666)が現れる。(※画像1参照)。

  リゾート系の賃貸マンションなのだろうか。ここも勝浦浜の海岸線と接しているが、宗像市神湊である。

  このマンションのすぐ下先(横)に、牟田池(福津市)の流水が玄界灘(勝浦浜海岸)に流出する水路があるが、この水路から先の集落は、ほぼ勝浦浜(福津市勝浦)とみてもよさそうである。
  今、「勝浦浜散策」と題して、これまで記した勝浦浜に接する建物の所在地は、すべて宗像市神湊だったので、なんだか気持ちの上ではスッキリしなかった。

478えびす  この先すぐ左の角に小さな土盛が残り、その上の野草が茂っている部分に一個の石祠があり、この石祠をL字形に囲むように2棟の建物が建っている。そして、石祠の正面は、左折した路地の方を向いている。
(※画像1、2参照)。

  石祠の後方の建物の後ろに高層の「パークセレノ玄海マンション」がにょっきりと頭上そびえるように見えるので、ここで参拝していると、マンションを拝んでいるような錯覚にとらわれた。(※左画像1参照)。
  石祠に神社名の記載がないが、多分、勝浦浜における恵比須神社の一つではないかと思った。

480勝浦浜恵比須彌太郎横  実は、勝浦浜の恵比須神社というと、この少し先の海岸道路沿いにもある。
  「恵比須神社」の鳥居(木製)を掲げ、ブロック塀に囲まれた境内には三つの石祠が建っている。
(※左の画像3参照)

  漁師集落に航海安全、大漁祈願などで恵比須神社が祀られることが多いことは前述したが、集落全体、町内単位、或は個々人で祀られることもあり、また、それらを後に1箇所にまとめたりすることもあり、多くの場合、石祠一つで、地図にも載っていないことが多く、その数や由緒などの実態を把握しにくい。

  なお、この先に「(割烹)旅館弥太楼(本店)」があり、その手前から、勝浦浜恵比須神社(後者)の裏側の道を上り、北方観音堂前(広場)からさらに上り、突き当たったT字路(集落内)を右折すると右側に北方地蔵堂があるので、散策コースに入れておいてもよい。
※つづく→「勝浦浜散策7~旅館弥太楼と弥太楼華杏(福津市)」。」

keitokuchin at 01:11|PermalinkComments(0)TrackBack(0)