2012年08月

2012年08月28日

情熱大陸:ヴァイオリニスト・木嶋真優さんに感激

26木嶋真優さん[1] 今週の「情熱大陸」(TBS系)で、ヴァイオリニスト木嶋真優さん(25)のドキュメントを観た。

 ハイヒールの靴音をコツコツと鳴らしながらドイツ・ケルンの街を歩く陽気な木嶋真優さんの姿が映し出された。


 身長155.5cm…「でも日本で骨盤矯正したら1cm伸びました、骨盤がゆがんでいるらしい、こっちきたら、すごく小さいじゃないですか、だからハイヒール履かないと、365日のうち360日はハイヒール、これはコンプレックスですよ」、と気さくに笑いながら話す。

 3歳のときからヴァイオリンを始め、ジュニア部門で数々の賞を取り、中学卒後からケルンに住み、6年前、故ロストロポーヴィチ氏(チェリスト)と協演し絶賛された。
 今春ケルン音楽大学を首席卒業した逸材だというので、順風満帆かと思いきや、この音楽の世界を生き抜く厳しさを見せられた。

 マネージャーを付けるような余裕はなく、3年前から自炊をしながら、音楽仲間とのつながりを大事にし、新たな人脈を作る。音楽界の重鎮に自分の演奏を売り込む営業マン的センスも必要なのだ。

 多くの音楽家に自分の演奏の素晴らしさを売り込み、高い評価を得て演奏会に招かれること、これがなくては若いヴァイオリニストが、この世界で抜きん出ることはできないようだ。まさに命がけだ。

26木嶋真優[ギトリス氏]酒井茜 番組では、気のおける仲間のピアニス酒井茜さんの紹介で、クラッシッン界の重鎮でヴァイオリニストのイヴリィ・ギトリス(90)に会い、「ポエム・エレジアックop.12イザイ」の演奏を聴いてもらう。

 氏から、演奏中は、「今のまま素足がいい」と言われ、ハイヒールは「ダメダメ」と言われる。

 さらに、「ヴァイオリン・ソナタ1番op.13フォーレ」の演奏を聴いた氏から、「君は今のままでいい、君の素晴らしい演奏にみんな気付くだろう」と絶賛される。木嶋真優さんは、この出会いで、またチャンスが広がることを期待する。

26木嶋真優さん また、バレー音楽にも果敢に挑戦する一方、オーストリア・フランケンフェルツで開催された欧州の子供たちの音楽合宿で子供たちを指導する様子も映し出された。(※画像3)。


 小柄で優しい美顔が、突然眼光鋭い厳しい顔に変り、語気が荒くなり、ほかの教師たちから「真優は怖いんだ、真優の生徒にはなりたくない」などと言われる。
 音楽に妥協は許さないという彼女の信念を垣間見る。それは、自分が学んできた時代の投影でもあった。

 そんな彼女のことを、友人のチャラ男こと大津祐樹君(ドイツサッカーチーム・ボルシアMG)らが、「中途半端にカワイイもんで」などと評していたが、本当に「チョー失礼」だな。
 外国で女一人で生き抜く強さが表情に表れていると評しているのかも知れないが、文句なしにカワイイ。

 そして、合宿で教えた子供たちとのウィーンでの本番で、ソリストとして「ロンドA_DURDA38シューベルト」を演奏、彼女の非の打ち所が無いヴァイオリン演奏は、指揮者ユーリ・バシュメット(ビオラ奏者)の高い評価を得て、9月イタリア公演に招かれることになった。

 最後に、ピエトラサンタ音楽祭での木嶋真優さんの「ヴァイオリンとピアノのための協奏曲(モーツァルト/ウィルビー)」のさわりを聴かせてもらった。
 若き日本の女性ヴァイオリニストの知らない苦労の一面を見せられ、世界で羽ばたこうとする頼もしい姿に感激した。良い番組だった。
 ※画像は、facebook Mayu Kishima(木嶋真優)からお借りしました。

 なお、この番組を観たら、木嶋真優さんが演奏しているNHK大河ドラマ「平清盛・紀行」BGMの良さが理解できる。
 ※参照→「市原愛さんの映像を初めて観た(清盛紀行の歌手)
(2012.10.19)。

 ※追記→「木嶋真優さん〜題名のない音楽会でヴァイオリン独奏」(2018.4.20)

keitokuchin at 02:35|PermalinkComments(0)

2012年08月27日

白ユリとサフランモドキが二人母の供養花

高砂異種  例年だと、盂蘭盆の頃に庭で、亡養母が好きだった白ユリ(高砂異種)の開花が始まるが、今年は盆前(9日)に開花した。
  以後、茎8本に付いた18個の花が日々開花、この母の祥月命日の昨日(8/26)、最後の2輪が咲いた。

  毎年、この季節に白ユリの花が咲くので、亡養母の命日供養を忘れることはない。(参照→「白ゆり開花と故養母孝行 の思い出」)。

  かつて、この季節、当家の小庭は、ユリ御殿といわれるほど多くの白ユリで埋め尽くされていたが、近年、咲く花の数が極端に減っていた。それだけに、今年は、復活の兆しかと喜んでいる。合掌。

  そして、今日(8/27)は、亡実母の祥月命日。
  亡くなった年は違うが、二人母の本命日供養を、二日連続して当家仏壇で行う。
  実母の遺骨も今は当家の墓に改葬し墓碑銘も刻している。

  実母が亡くなった年は、白ユリが一輪も咲かず、亡くなった日に小庭の一角に、この母が好きだった白い玉簾の花が開花した。

サフランモドキ  今年は、玉簾の花は咲いていないが、今朝、この玉簾によく似たピンクのサフランモドキが開花した。
  きっと今年の実母の供養花は、このサフランモドキの花で、これもまた良き兆しなのかもしれないと思っている。合掌。

keitokuchin at 08:57|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2012年08月26日

練原毘沙門堂と正園古墳(奴山5号墳)跡(福津市)

738練原番外毘沙門堂  前回の記事のなかで、ふくつミニバスの路線に「練原」があることを書いた。
  練原バス停は、国道495号線「練原」信号機で交差する県道528号線(勝浦宗像線)の奴山側(宗像方向)路線上にある。

  練原地区(福津市勝浦桂区)は、県道を挟んで、練原〜奴山にまたがる積内池(練原バス停から奴山方向に向かって右)と練原集落(同左)が相対している。

  そういえば、練原集落内には、「桂区公民館」(福津市勝浦3525)と、その近くに「毘沙門堂」があった(※上の画像)。

  「毘沙門堂」と言ったのは、御堂の軒下の左壁に、「宗像四国西部霊場練原番外本尊毘沙門天(奥の院)」の札が貼り付けてあったからである。
  だが、堂内に安置してある石仏等を見たら不動明王像、礫(石)、蓮台上の大師坐像(か)と地蔵坐像で、「本尊毘沙門天」らしきものが見当たらず首を傾げた。
  そこで、意味不明の礫を指差して、これが「毘沙門様か」とか、また、「奥の院ってなに」、などと言っていたことを思い出した。

  なお、「練原」の産神は、福津市奴山字音ヶ浦所在の「酒多神社」で、「酒多神社」に関しては、前に本ブログで数回にわたって記した。

  それから練原→奴山のバス区間の間には、もう一つ「津屋崎園前バス停」がある。
862津屋崎園  「津屋崎園」とは、積内池の南東辺(奴山区内)からの道路を挟んで東側の丘陵上にある社会福祉法人北筑前福祉会の「特別養護老人ホーム津屋崎園」(福津市奴山1174)のことである(※画像)。


  昭和53年(1978)に「津屋崎園」が開園する前に、ここにあった「奴山5号墳(正園古墳)」の発掘調査が実施された。

  当時の記録によると、「奴山5号墳(正園古墳)」は、直径26m(全長32m)、高さ2.8mの円墳で5世紀前葉の造営と推定された。
  数回の盗掘の跡があったに係わらず箱式石棺の内外から多くの副葬品(装身具〜玉類約1万個、鉄製農工具類80本、武器・武具〜短剣短刀等69本)が出土した。
  また、裾部分から器台形の陶質土器が出土したという。

  この副葬品の多さには驚きを隠せず、生前相当な権力を有した人物であったことが伺える。

861正園権現堂  現在、古墳の跡を思わせる様はないが、今も新原・奴山古墳群に属する有力古墳の一つに数えられている。

  発掘された石棺石蓋(縦約2mの扁平形)は園内に建てられた「正園権現堂」(※画像)の内部に、ご神体として立てかけられ保存してあるので、随時拝観できる。


※つづく→「静御前の墓と臼杵の井戸の伝承(福津市生家)」。

keitokuchin at 02:43|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2012年08月25日

旧津屋崎区の県営圃場整備事業竣工記念碑(福津市)

556須多田土地整備碑  前回「在自剣塚古墳と神功皇后伝説など(福津市)」で、須多田と在自の境界付近(バス通り沿い)に建っている「県営圃場整備事業竣工記念碑」(※左の画像)から反対側の農道を入ると在自剣塚古墳に至ると記した。

  この一帯の丘陵地には、開墾整備が進んだ田畑は広がり、そのなかをふくつミニバスが走る。
  なお、このバス路線は、津屋崎→塩浜→勝浦浜→練原→奴山→須多田在自→津屋崎を回る循環線である。

  「県営圃場整備事業竣工記念碑」は、この丘陵地にある森を背にして、バス通りに面して盛り土、整地した石組みの上に築いてあり、かなり目立つが、わざわざ立ち寄る人はいないだろう。

  という小生は、ウォーキングの途中で立ち寄った。ここに腰掛けてドリンクを飲もうかとと思ったが、日当たりが良すぎて、暑い日ざしのなかでの長居はできなかった。

  この記念碑の左後ろに小さな御影石の石碑があり、刻されていた「碑文」を書き写してきた(下記)。

  「碑文 この津屋崎地区は、古くから津屋崎千軒として筑前七浦の中で最も栄え、往時の姿を今にとどめている。
  農業は、古来より牛馬による農作業が営まれていたが、社会経済の発展にともない農業機械化へと急速に進展した。しかし、農地については不整形で、道水路は未整備のまま旧態依然とした圃場で大型農機具の導入は阻害され、近代農業には程遠い農業経営に終始しているものが現状であった。
  この度、白沙青松の地に良田を伝えんと農業百年の大計のもと農業の近代化と生産性の高い都市近郊農業の確立を願って組合員及び関係機関の御尽力により県営圃場整備事業が実現した。
  事業の竣工を記念するとともに、この事業の完成によってこの地の農業の繁栄と豊かな郷土の発展を祈念し碑の建立をもって後世に伝う 津屋崎土地改良区

  碑文に建立日の記載がないので、ひょっとしたらその裏面、或は竣工碑の裏面に刻されていたのを見落としたかもしれない。
  だが、「津屋崎土地改良区」とあるので、平成17年(2005)1月24日に福津市が誕生する前の旧津屋崎町農地改良のことだと思う。

  その後、改めて「国指定史跡津屋崎古墳群整備基本構想(平成
20.3福津市教育委員会)」を読んでいたら、「1989年(H元年)〜
1995年(H7年)
までの圃場整備に伴い須多田古墳群の発掘調査を実施した。1995(H7年) 圃場整備に伴い新原・奴山古墳群の円墳11基の調査と、水路工事に伴い新原・奴山古墳群44、45号墳の発掘調査を実施した。」という記事があるのに気付いた。

  これにより県営圃場整備事業が実施された期間が分かり、その事業に合わせて須多田古墳群の発掘調査等も実施されたことが分かった。
  また、これにより「県営圃場整備事業竣工記念碑」が建立されたのは、整備事業が終わった1995(平成7年)頃だと思う。

  この地にこの碑が建てられた理由は分からないが、この碑が前回書いた「在自剣塚古墳」、或は「神功皇后劔塚伝説地入口の道標となることは確かで歴史ファンにとってはありがたいことだと思う。
  なお、上記構想には、「2002年(H14年)在自剣塚古墳の範囲確認調査を実施した」という記事もあった。

  今回案内した「須多田古墳群5基」についての記述は、一応これで終わりとする。

※つづく→「練原毘沙門堂と正園古墳(奴山5号墳)跡(福津市)」。

keitokuchin at 01:44|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2012年08月24日

在自剣塚古墳と神功皇后の劔塚伝説など(福津市)

554在自剣塚古墳  前回「須多神社・須多田上ノ口古墳(追記2)福津市」からつづく。

  これまで、「須多田ニタ古墳」(円墳)と、そこにあった「須多田古墳群マップ」により、須多田地区にある4基の前方後円墳を見学した。

  4基の前方後円墳は、須多田ミソ塚古墳須多田下ノ口古墳、須多田上ノ口古墳須多田天降天神社古墳だが、案内板には、もうひとつ、在自地区にある「在自剣塚古墳」(あらじつるぎづかこふん)が載っていた。(※上の画像は在自剣塚古墳)。

  「在自剣塚古墳」は、対島見山(須多田)の西麓〜在自山(在自)の北麓の台地上にあり、所在地は「在自」(福津市在自剣塚)でも「須多田」との境界近くに位置している(後述)。

  「国指定史跡津屋崎古墳群整備基本構想(平成20.3福津市教育委員会)」によると、「在自剣塚古墳」は、「墳長101.7mの前方後円墳で宗像地区最大規模を誇る。前方部、後円部ともに2段築成で表面に葺石を有する。築造時期は6世紀後半と推定される。国指定を受けている。」とある。

  確かに、前述した須多田古墳群のなかでも盟主級といわれる「須多田天降天神社古墳」の墳長が83mだったので、それに比べると遥かに大きい。
  ただ別の報告書に、在自剣塚古墳の「墳長85m」と書いてあったので、測定の基準はよく分からない。
  因みに、墳丘の高さは7m、幅36.5m(前方部の高さは5.5m、幅57.5m、長さ49m)で、周濠はないという。

  須多田集落(須多田公民館前)から「在自剣塚古墳」に行くには二つのコースがある。
  一つは、(a)対島見山の西側(右側)の山裾を通って富士白玉神社に向かう途中で右折し、野口池方向に向かう砂利道だが、このコースは、あまり推奨しない。(なお、車通行不可)。

  一つは、(b)舗装されたバス通りを在自方向に進み、須多田と在自の境界付近の右側に建つ「県営圃場整備事業竣工記念碑」の先を左折し、野口池に向う農道を進むコースである。この農道は、最近、全面塗装が完了したので、道を間違うことは少ない。
  (もし車で行く場合、農道には駐車スペースがない。ただ、野口池の左に選果場のような施設があったので、そこに頼めば駐車させてもらえるかもしれない)。

  野口池の少し手前の左側に「在自剣塚古墳」の森があり、農道に接した部分が、その前方部になる。
  古墳地全体が樹木に覆われているので、農道から古墳の形を確認することはできないが、2段構築の前方後円墳の墳形は、ほぼ完全に近い形で残っている。

  552在自剣塚古墳 農道から直接森の中に入る道はないので、このすぐ先にあるT字路を左折して雑草が生えた砂利道に入る。(なお、ここは(a)コースで行ったときは、その出口となる)。
    
  この道を少し歩いてT字路を左折すると、道は途絶え、古墳の森(後円部)に吸い込まれる。

  森のなかに入ると左に行くしかないが、右側に墳丘が立ちはだかっている(※画像)。


551在自剣塚古墳  さらに、頭上を見上げてよく見ると、基壇状に積み上げられた2段構築の墳丘や、くびれ部分などの様子なども伺うことができる。

  なお、古墳の森のなかには道などないので、注意がいる。

  古墳の森は、概して樹木や竹林、野草等に覆われて、害虫もいるので、それなりの準備は必要だが、また、入ってきた場所が分からなくなり、帰りに迷うこともあるので、くれぐれも注意が必要である。
  それから、まだ見学用に整備されていない古墳の墳丘上に上ることは各種の危険を伴うことが多いので絶対に避けること。

553在自剣塚古墳  周りに田畑が広がるなかにあるこの「在自剣塚古墳」が、開墾もされずに、ほぼ完全な形で残ったのは、古くから香椎の女王「神功皇后の納劔伝説」とともに、劔塚の存在が知られており、劔塚が崇敬の対象となってきたからではないかと思う。

  それは、その「劔塚」(剣塚)の名(字名にもなっている)を、そのまま採って「在自剣塚古墳」と命名されていることでも分かる。

  福津市には、神功皇后伝説が、たとえば、宮地嶽神社(宮司)、
旧唐坊八幡宮(在自)、縫殿神社(奴山)、勝浦嶽(桂区・桂岳)、楯崎神社(渡)、波折神社(津屋崎)など、数え切れないほどあり、人々に神功皇后崇敬が深く根付いていたことが分かる。

  なお、筑前國續風土記附録には、「(在自)村内に南北五十間計の高き所あり。其北の方に窟あり。口ハ崩て入りかたし。劔塚といふ。神功皇后の劔を納め給ひし所也と里人いへり。」とあり、筑前國續風土記拾遺には、「(在自)村の艮五町斗に三本松といふ處に劔塚といふあり。神功皇后の劔を納給ひし處なりと云。窟の口南に向へり。」とある。

  現在、在自劔塚古墳の開口部については、史料がなく定かでないが、かつて開口していた頃があり、そこで劔が発見され、その劔を以って神功皇后の劔を納めた劔塚という伝説が生まれたのだろうか。
  劔とは、当然鉄剣のことだと思うが、神功皇后と剣塚古墳築造期の符合云々はともかく、神功皇后伝説には、弥生時代の北部九州における鉄器文化と係わる時代背景があるのだろうか。

※つづく→「旧津屋崎区の県営圃場整備事業竣工記念碑(福津市)」。

keitokuchin at 02:15|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2012年08月23日

須多神社・須多田上ノ口古墳(追記2)福津市

726須多田上ノ口古墳  前回「須多神社・須多田上ノ口古墳(追記1)福津市」で、須多田上ノ口古墳(福津市須多田字上ノ口445)は、竹垣に囲まれた須多神社の右の竹林のなかに薄っすら見えてはいるが、現在、須多神社から直接同所に行く道は消えていると書いた。

※上の画像は、竹林に覆われた須多田上ノ口古墳の前方部。

  その小道は、須多神社入口から左に入り、須多神社の後ろを回り込んで、その右側にある須多田上ノ口古墳に至るはずだったが、途中に崩壊したような窪みがあり、野草が茂り、竹や枯竹が小道を塞ぎ通れなかった。

728須多田上ノ口古墳入口  この小道の先の逆から下る方法も試みたが駄目だった(※下記「付記」に記載)ので、あとは、須多田公民館の右前にある民家と民家の間の路地を上り、正面の民家の敷地内を通り抜ける方法しかなかった。
(※左の画像)。

  ただ、民家の敷地内を通り抜ける方法をブログに書くことを憚って、「須多田下ノ口古墳・須多田上ノ口古墳など」の記述のなかでは、あえて意識的に「(須多田上ノ口古墳は)集落の中ほどの民家の裏山
727須多田上ノ口古墳ともいえるような分かりにくいところにあった」とのみ記したのだった。

  今もその気持ちは変らず、この敷地の入口から、須多田上ノ口古墳の森(※左の画像)を眺めるだけで良いような気がしている。

   ともあれ許可をもらい、この敷地に入り、その奥にある1mほど段差を上って、「須多田上ノ口古墳」周庭内に入った。

725須多田上ノ口古墳  この右に前方後円墳「須多田上ノ口古墳」(須多田10号墳)の前方部の墳丘の壁が立ちはだかる。

  墳丘及び周辺一帯は、不規則に生えた孟宗竹の竹林で埋め尽くされており、墳長43m、後円部墳丘の高さ5.8mといわれるこの古墳の形状を一目で確かめることなどできない(※左の画像)。

  ※(付記) 当初、上述のとおり須多神社入口から左に回り込む小道を通って須多田上ノ口古墳の前方部側に行こうとした。しかし、道は荒れていたので断念した。
743須多田六地蔵  そのとき、確か、この小道(山道)の出口に「六地蔵堂」(※左の画像)があったと思った。
  そこで、この道を逆に辿ることを思いつき、わざわざ須多田集落の外れ(大石集落に至る峠の左側)にある「六地蔵堂」まで歩いて行った。

  この峠の六地蔵(石仏)の由緒は知らないが、以前、この後ろにあった旧墓地と関係があったのかもしれないなどと思いつつ合掌後、この右から後方の山道に入った。

  丘陵の右縁に伸びるに山道を下り、「須多田上ノ口古墳」に行こうと考えたのだったが、すぐに浅さかな考えだったことを思い知らされた。
  つまり、この山道は、多くの孟宗竹とその枯れ竹、及び野草で完全に塞がれていたからだった。さらに藪蚊の攻撃にもさらされ、散々な思いで引き返す一幕があったことを付記する。
  ただ、この山道が完全に消滅しているようには思えなく、時期的に伐採整備が遅れているのかもしれない。

※つづく→「在自剣塚古墳と神功皇后の劔塚伝説など(福津市)」。

keitokuchin at 00:42|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2012年08月22日

須多神社・須多田上ノ口古墳(追記1)福津市

722須多神社  前回「天降天神社の境内神社(福津市須多田)」からつづく。

※左の画像は、須多神社入口。

  繰り返しになるが、先に「須多田天降天神社古墳(天降天神社)にて(福津市)」に、須多田の地名由来の一つとして、次のようなことがあると書いていた。

  「須多田天降天神社古墳被葬者及び須多田の産神・天守天神社(天降天神社)の祭神は、崇峻天皇の頃(6世紀後半)に当地に居住した筑紫国造の孫須多田麻呂で、この須多田麻呂の名が須多田の地名となったという伝説がある。

  だが、須多田麻呂が須多田の産神であれば、天守天神社(天降天神社)が須多田の産神となる前の産神であったといわれる「須多田明神」(現須多神社)の方に注目しなければならない。

  つまり、この伝説を信じるとするならば、須多田麻呂は須多神社のある場所(須多田上ノ口古墳の前にある小円墳)に葬られ、産神「須多田明神」として崇拝されていたと考えた方が分かりやすい。
  須多田古墳群に囲まれた土地で、このような古代ロマンを髣髴させる伝説を思い浮かべながら散策するのは楽しい。

  なお、須多神社が須多田上ノ口古墳の前にあることは、前述「須多田下ノ口古墳・須多田上ノ口古墳など(福津市)」のなかで触れたが、その後、あの記述では場所が分からないと言われたので改めて追記する」、と書いていた。

  実は、須多神社はともかく、現在、須多田上ノ口古墳に行くには、本来の山道が通れず、民家の庭を通り抜けるしかなかったので、「須多田上ノ口古墳の前に須多神社(石祠)がある」という表現に留めていたのである。

723須多神社  須多神社は、須多田公民館前から天降天神社に抜ける集落内道路に入り、すぐの二股を右に進み、この路地の突き当たりにある小円墳の跡と思われる竹林に囲まれた小丘陵にある石祠である(※左の画像)。

  石祠は、小丘陵上の平坦地の中央に置いてあるが、その周りには孟宗竹が密集して生えて自然の竹垣を作っている。

  現在、祭神は神直日神(かむなおびのかみ)だが、地元では今も明治以前の神社名「須多田明神」の「明神様」の名で呼ばれ、6月22日末社須賀神社 (天降天神社境内神社)例祭と8月に祭礼を行なっているそうだ。(福津郷土会HP参照)。

  筑前國續風土記付録には、「須多田明神(ヤマキワ)昔は産神なりしか今ハしからすといふ」とあり、筑前國續風土記拾遺には、「須多田明神社 宗像末社記に、上高宮下符社二十五所の内須多田明神とあるは、此社の事なるへし。百八神の内なり。昔は當村の産神と崇しか今はかしらす。小祠なり」とある。

724須多田上ノ口古墳  須多田上ノ口古墳(福津市須多田字上ノ口445)は、この竹垣に囲まれた須多神社の右方向の竹林のなかにある(※左の画像)。
  ここから薄っすらと見えるが、現在、須多神社から直接同所に行く道は消えている。行き方は次回記す。

※つづく→「須多神社・須多田上ノ口古墳(追記2)福津市」。

keitokuchin at 02:22|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2012年08月21日

天降天神社の境内神社(福津市須多田)

734須多田天降神社本殿境内社  (前回「須多田天降天神社古墳(天降天神社)にて(福津市)」からつづく)

  天降天神社拝殿の真後ろに石祠が一つ鎮座している。
  ここは、須多田天降天神社古墳後円部にある天降天神社本殿(祭神少彦名命)に至る石段の下で、埋められた古墳周濠の上になる。

  この石祠が、筑前國續風土記附録に「社内に祇園社あり」と記載のある「須賀神社(祭神素盞嗚尊)だと思うが、以前は、この場所には置いてなかったような気がする。
  以前、拝殿右の空き地のなかに盛土した小山があり、その上にこの石祠があったような記憶が残っているが、記憶違いかもしれない。
  なぜ、こんな記憶にこだわったのかというと、素盞嗚尊は、今の位置、つまり、本殿(少彦名命)を守る門番のような位置に配置されるような神ではないと思ったからだ。

  当天降天神社(旧天守天神社)の主祭神が少彦名命であり、境内神社に須賀神社(祇園社)素盞嗚尊が祀られている状況を考えたとき、大己貴命や大物主命が祭られていてもよいような気がしていた。
  さらに天降天神(天守天神)とは、天が重なる天照國照彦天火明尊、即ち大物主命(饒速日命)ではないかと想いを馳せ、須多田天降天神社古墳の主が出雲系、物部氏系の王だったのではないかと思ったことは前述した。

  ところで、近年(平成13年)、本社拝殿の右後方(須賀神社石祠の右横)、埋められた古墳周濠の上に3段積みブロックで囲んだ土台を造り、その上に新しい御影石小石祠3社が鎮座した。
  向って右から彌勒菩薩、保食神社、御塚様だと思う。
  
  土台右下にある「須多田区末社合祀記念工事」碑には、「津屋崎町大字須多田字辰ヶ鼻一五九番地・彌勒様・保食神社。津屋崎町大字須多田字辰ヶ鼻三四一番地・御塚様。平成十三年六月吉日天降天神社境内に遷座す」と刻してある。(※津屋崎町は現福津市)。

  諏訪神社・大賀氏遷座記(平成17.7.19福津郷土史会HP)を読むと、遷座前後の三社について次のようなことが分かる。

745須多田富士白玉旧参道鳥居  保食神社〜無格社保食神社(祭神宇計毛知神)。須多田の山側、2本の鳥居(朱木と白石)が建つ富士白玉稲荷神社旧参道入口(※左の画像)の右にある小森の頂(須多田字辰ヶ鼻159)にあった石祠で地元の人たちは五穀様として崇めていた。

  彌勒様〜同上保食神社境内末社ミロク様のことで、弥勒菩薩の霊を安置する石祠があった。
  御塚様〜同上保食神社から100mほど左にある森(竹林)の中に石祠があった(須多田字辰ヶ鼻341)。
  氏子中協議の結果、産土神天降天神社の境内地に石祠を新築し平成13年辛巳6月24日遷座奉斎した。

  なお、保食神社は、大歳神(命)を祀ることもあり、饒速日命が消されていることもある。
  ここある彌勒様とは、筑前國續風土記附録にある「彌勒堂(タツガハナ)」のことだと思う。
  御塚様は、その名からして同地にある古墳の神を土地の人が先祖神として祀ってきたものではないかと思う。
  その後、これら三社遷座後の旧石祠や旧社地がどのようになったのかについては分からない。
  (何せ足底筋膜炎を庇いながら歩くと、やはり心身ともに行動力が鈍り確認作業は怠る)。
※つづく→「須多神社・須多田上ノ口古墳(追記1)福津市」。

keitokuchin at 00:00|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2012年08月20日

須多田天降天神社古墳(天降天神社)の名称(福津市)

732須多田天降神社鳥居  (前回「須多田天降天神社古墳(天降天神社)にて」からつづく)

  天降天神社境内入口にある福津市案内板には、「須多田天降天神社古墳」のフリを「Sudata Amafuri-
Jinjya Tumulus」と記してある。

  つまり、「Amafuri-Tenjinjya」(又は「Amafuri-Tenjinsya」)、或は「Aburi-Tenjinjya」(又は「Amafuri-Tenjinsya」)とも記していないのである。

  また、天降天神社の中の鳥居額束は、「天降神社」となっている(※上の画像)。
  ただし、神社名の方は、「Aburi-Jinjya」というので、古墳と神社では、天神社の「天」を発音しないことは同じだとしても、「天降」の呼び方が違うので、少しややこしい。

  だが、「天神社」の「天」を発音しないとしても、額束からその「天」の字を抜いた明確な理由は分からない。
  ほかに思いつくこととしては、北野天満宮天神(北野天神/菅原道真の天神信仰)と間違えないようにするため、又は、「天降」と「天神」では「天」の文字が重なるからなど。

  「天」は、「天皇」の称号に使う高貴な文字であり、「天」の文字を書いても発音しない例はある。
  英彦山神社(福岡県田川郡)の「英」も高貴な文字であり発音しないが、それと同じように考えれば、敢て額束から「天神社」の「天」の文字を抜く必要はなかったのではないかと思った。

  明治以前は、「天守天神社」であったが、当時も「天神社」の「天」は発音せず、「Amori-Jinjya」と言っていたのではないかと思う。

  もし天守を「Tensyu」と読んだときは、天主(天神、天孫神)と同じ意味にもなり、前に第一次天孫降臨の饒速日命を想像した。
  或は、神社の御神体の宮山(須多田天降天神社古墳)が「城山」のように思えることから、「天守」(Tensyu)という文字を当てたのかもしれないとも思った。

  さらに、明治に入って、天守=天主「Deus」=基督教と間違えやすくもあり、紛らわしさを避けるために、通常、天守(Amori)は「天降」
(Amori=Aburi)で、「天降神社」の祭神が少彦名命であることが多いので、「天降天神社」(Aburi-Jinjya)と改称したのかだろうか。
  等々、いろいろ想像することは楽しいが、空回りしてばかりで結局何も分かっていない。
  (※参照→「舎利蔵へ(8)~産神は天降天神社」)。

※つづく→「天降天神社の境内神社(福津市須多田)」。

keitokuchin at 03:16|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2012年08月19日

須多田天降天神社古墳(天降天神社)にて(福津市)

731須多田天降天神社 ( 前回からつづく)
※左の画像は天降天神社参道口。

  今回は、須多田天降天神社古墳(天降天神社)に係わる「須多田の地名の由来伝説」についての一端を記しておくことにする。

  あるとき、須多田の地名は、「須多田天降天神社古墳の被葬者と関係ある」という話を聞いた。

  当初、意味が分からなかったが、拝殿外壁に打ち付けてある「天降天神の由来」案内板を読んでいて、根拠は、これかと思った。
(下記に原文のまま転記)。
  「筑前國続風土記拾遺によれば この神社のご神体は現在の裏にある小高い宮山に在り 産神也小彦名命を祀りりあり この宮山は廻りに堀二重ほり廻し四方に門ありし跡あり城跡の如しとあり 須多田の地名説はこの古墳の被葬者のことを指すものと思われる 被葬者はいずれも宗像族(簾長者)にして大和政権と深いかかわりをもつた人物の墓である (考古学者 楠木正氏の著書より) 奉納者 正六位勲五等 寺嶋正巳」

  だが、この文の文意が分からず、筑前國續風土記拾遺などを読んで、次のように解釈してみた。
  筑前國續風土記には、「須多田…むかし此邊簾長者と云富人有りしと云傳ふ。其故に村の名をも簾田(すだた)と云にや」とあり、さらに、筑前國續風土記拾遺に「天守天神社…簾長老か宅址は當社の後にあり」、筑前國續風土記付録に「須多田村天守天神社…簾(すだれ)長者か居たりし所なり」とある。

  つまり、天守天神社とは明治以前の天降天神社の神社名だが、「昔、天守天神社がある地に居た富裕な簾(すだれ)長者が有していた広大な田を簾田(すだれた)といい、簾田(すだれた)が簾田村→須多田(すだた)となった」、ということで、それを飛躍して、「その宅址に造った簾長者の墓が須多田天降天神社古墳だ」ということになったのだろう。

  上記の「當社の後」とは、拝殿又は本殿の後ろ、つまり後円部の丘を指しているのだと思う。もし、拝殿、本殿を結ぶ線上の後円部の後ろだとしたら、急斜面で道本池まで下って行くので居宅を建てるには不適である。

735須多田天降神社右後ろ  なお、本殿に向って後円部の右方向(須多田集落側)は、空き地になっており、右後方の泥田のなかに古墳の森(※左の画像)から出てきた動物の足跡が残っていたので、この森の中には何かの動物が生息しているのだろうか。

  ところで、ふと、「小郡官衙遺跡内の長者が池」の長者伝説を思い出したが、簾長者は、須多田に君臨した王だったのだろうか。

  では、簾長者とは誰ということになると分からないが、筑紫の国造磐井の孫須多田麻呂ではないかという話もあると聞いた。
  つまり、須多田天降天神社古墳被葬者及び天守天神社の祭神は、須多田麻呂で、須多田麻呂の名が須多田の地名となったというのである。

  福津郷土史会調査を読んでいたら、「椎ヶ元観音縁起」に次の記述があるとあったので、この話の根拠はこれだったのかと思った。
  「筑紫の国造磐井の孫、大石麻呂須多田麻呂津丸磐麻呂の三兄弟が居た三部落での婚姻はなかった」。
  そして、この三兄弟が居た部落とは、大石麻呂→大石、須多田麻呂→須多田、津丸磐麻呂→津丸(いずれも現在福津市)だという。

  なお、福津郷土史会は、崇峻天皇5年(592)に大石麻呂が磐井の菩提を弔うために大石水上池の辺りに龍光山恵華寺(現存せず)を建立したという記録をもとに、磐井の乱の527年から試算して、この三兄弟を磐井の七代孫と想定し、天守天神社の築造を6世紀末〜7世紀初頭と考えれば、須多田麻呂の時代と合致するとしている。
  ただし、磐井の孫は孫であり、この孫を七代孫とする説については納得していない。

  もし須多田麻呂が「地名由来ともなった須多田の産神だった」とすれば、天守天神社が須多田の産神となる以前の須多田の産神は、別のところにある「須多田明神」(現須多神社)であったことに注目しなければならない。

  つまり、須多田麻呂は須多神社のある場所(須多田上ノ口古墳の前にある小円墳)に葬られ、産神「須多田明神」として崇拝されたと考えた方が分かりやすいかな。
  いずれにしろ、須多田古墳群に囲まれた土地で、このような古代ロマンを髣髴させる説話を思い浮かべながら散策するのも楽しい。

  なお、須多田上ノ口古墳及び須多神社については、前述「須多田下ノ口古墳・須多田上ノ口古墳など(福津市)」のなかで触れたが、その後、あの記述では場所が分からないなどの問合せがあったので、改めて追記する。(※→「須多神社と須多田上ノ口古墳(追記1)」)。
(※「須多神社と須多田上ノ口古墳(追記2)」)。

※つづく→「須多田天降天神社古墳(天降天神社)の名称(福津市)」。

keitokuchin at 01:37|PermalinkComments(0)TrackBack(0)