2012年09月

2012年09月29日

新作舞踊「走れメロス」を観た(TV)

走れロメス  昨夜(9/28)、「走れメロス」(新作舞踊)を観た(NHKにっぽんの芸能 芸能百花繚乱)。

  花柳源九郎、花柳恵右衛門、水木佑歌、中村江梨さんら多くの日本舞踊家らが、舞台一杯に乱舞する。
  これは、和製モダン舞踊とでもいうのだろうか。

  今まで台詞や歌詞のない全編乱舞で舞踊だけの劇を観た記憶がなく、最初は何かしら違和感があった。
  でも、所謂日本舞踊的な踊りではないけど、日本舞踊の振りのしっかりしている人たちばかりの舞踊劇だったので、その踊りの美しさには魅せられた。
  観ているうちに、まるでミュージカルを観ているような錯覚に陥っていた。
  思わず、メロス、何をしている、早く走れ、早く、早く、と心のなかで叫んでいた。完全につり込まれていたのだ。
  気付いたらあっという間に終わっていた。ああ、1時間が一瞬のことと感じてしまうほど、自分もメロスと一緒になって走っていたのかもしれない。

  人の命と愛や友情、人間の人を疑う心の弱さや信じることの大切さと真剣に向きあって命を絶った太宰治の世界観、まさに命をかけてひた走りに走るメロスの姿を通じ、愛や友情の尊さを表現した素晴らしい新作舞踊だった。

  ※参照→You Tube「新作舞踊走れメロス」。


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2012年09月25日

大石岡ノ谷古墳群〜椎ヶ元観音堂(福津市)

823大石岡ノ谷古墳  前回「生家観音堂(宗像四国西部霊場79番)ほか(福津市)」から続く。
  ふくつミニバス生家サンドリーム前と須多田バス停の間に大石バス停がある。(「須多神社・須多田上ノ口古墳(追記2)」に記した須多田六地蔵堂前からは急坂を下る)。

  大石集落は、この大石バス停の両側に形成されており、大石山(標高178.8m)の西山麓にあたるが、谷あいといった感じがする。

  大石という地名から古墳の存在が意識されるが、確かに大石山の西尾根上で「大石岡ノ谷古墳群」(前方後円墳2基、円墳1基)が確認されている。

  津屋崎古墳群に含まれる「大石岡ノ谷古墳群」は、1号墳(二段構築の前方後円墳、全長55m、前方部最大幅14m、高さ1.5m、後円部径24m、高さ4.2m、国指定史跡)と2号墳(前方後円墳、全長43m、国指定史跡)の前方後円墳2基と、円墳(10m)1基で構成されている。

  以前、「須多田5号墳」(岡ノ谷古墳)の横穴石室から「案(あん/机)の脚部」(漆塗り木製品)が出土したと聞いた記憶があるが、この須多田5号墳は、岡ノ谷古墳というので、大石岡ノ谷古墳群のひとつだと思う。
  ただし、現状の上記大石岡ノ谷1、2号墳を見た限りでは横穴石室などの確認はできない。(円墳は見ていない)。

  だが、「大石岡ノ谷古墳群」に「須多田5号墳」の名があることから、同古墳発掘当時(1991年発掘) 、大石岡ノ谷古墳群は須多田古墳群のなかに含まれていたことが分かる。
  なお、上記1号墳は、以前、「須多田1号墳」と言っていた古墳のことか。
  
  また、「大石岡ノ谷古墳群」築造時期は、6世紀後半と推定されているが、確証はない。
  前方後円墳というだけで、6世紀後半にヤマト王権の影響下で宗像氏が、当地を含む津屋崎・勝浦一帯に築造したものと推定するのは危険だと思う。
  それ以前のムナカタ族、若しくは、例えば須多田には簾長者(磐井孫須多田麻呂)の伝承があり、大石には磐井孫大石麻呂の伝承が残るなどもあり、倭国(いこく)と係わる墳墓であったか可能性もあるからだ。
  なお、倭国(九州王権)と、大和(ヤマト王権)は別の王権で、教条的に前方後円墳はヤマト王権のものであるとする考えは改められるべきではないのかと思っている。

341椎ヶ元観音  大石山の西尾根末端部に付いている石段を上ると椎ヶ元観音堂が建っている(※画像)。

  椎ヶ元観音堂の左(藤棚の後ろ)にある石段を上ると小堂と二つの石祠がある高台に出る。

  この小堂や石祠の祭神名が分からないが、小堂の後方の杉林の尾根筋の先に古墳群があり、この高台も古墳だったかもしれず、この小堂は、もとは、古墳群の主を祀ったものだったのかもしれない。

824大石岡ノ谷1・2号墳  大石岡ノ谷古墳群に行くは、椎ヶ元観音堂の裏側にある便所の横の山道を上ると徒歩数分で行き着く。  
  右手前に2号墳、左奥に1号墳があり、ともに山裾側に前方部があり、墳丘上には孟宗竹やマテバシイなどが茂っている(※画像) 。

  なお、1号墳の前方部に古墓と思われる立石や置石が散在。
  夏場は、藪蚊が多く、野草や雑木、倒孟宗竹などに行く手を阻まれることがある。
    
  ※つづく→「椎ヶ元観音の由緒(1)〜御開扉(福津市大石)」。

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2012年09月21日

ユーミン(松任谷由実)さんデビュー40周年

松任谷由実さんE  今、「ユーミンのSUPER WOMAN」(NHK Eテレ)を観ていた。今日のゲストは、世界的に著名な前衛アーティスト・デザイナー草間彌生さんだった。
  いきなり画面いっぱいに広がった真っ赤な水玉模様に度肝を抜かれた。

  毎週金曜、各界の女性ゲスト(鶴岡真弓、森本千絵、長谷川祐子、軍地彩弓、中村うさぎさんなど計6人)と、ユーミン(松任谷由実)さん(※画像)が世界の都市(東京、沖縄を含む)を旅しながら対談する教養あふれる番組で感銘することが多い。(9/28最終回)。

  今日の読売新聞文化欄に、帝劇101年の記念上演史を飾る作品「8月31日〜夏休み最後の日〜」(主演貫地谷しほりさん)の楽曲とステージをユーミンさんと夫の松任谷正隆さんがプロデュースとの記事が4段抜きで大きく掲載されていた。 (10/7~31上演)。

  この上演は、ユーミンさんの「デビュー40周年」を飾るプロデュース作品でもあり、このなかでユーミンさんは案内役として登場し約16曲歌うという。「コンサートでも芝居でもミュージカルでもない」ので、「歌詞は物語と必ずしも一致しないが、各場面と魔法のように結びつく」という。なんだか興味が沸いてくる。

  また、荒井由実から始まったユーミンさんのデビュー40周年の集大成記念アルバム「日本の恋と、ユーミンと。」(EMI)が、(2012)
11/20に発売されるというので、初回限定盤を予約。

 ※つづく→「魔女の宅急便」BD発売間近

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2012年09月18日

新妻聖子さん「ありがとう」(歌謡コンサート)

6情報誌ロゼ春号2  今夜、久しぶりに歌謡コンサート(NHK)を観た。
  テーマは、「ムードナイト・愛の面影」となっていたが、出演歌手のなかに新妻聖子さんがいたので、見逃せないと思っていた。

  紫襟の赤いワンピースを着て登場した新妻聖子さんが歌った曲は、 「ありがとう」。

  結婚する女性の家族への溢れる想いを歌った曲、初めて聴いた新曲だったが、良かった。
  新妻聖子さんの歌声は、いつ聴いてもじっくりと心に染み入る。
聴いていて、思わずミュージカル「ミス・サイゴン」のキムを思い出した。サイゴンは、泥沼のベトナム戦争から立ち直った。平和は良い。

  どんなときにも、「ありがとう」という感謝の心を持ち、その言葉を口にできたたら、世界は平和になるのだろうになあ。
  「世界にひとつ 素敵なあなたの娘でよかった」、何だか心温まる歌詞…。
  新妻聖子さん、今日は心温まるステキな歌を、「ありがとう」。

  ところで、わきめもふらない経済優先の社会は、心を貧困にする。
  今、急速な経済成長を遂げた中国は、必要なエネルギー資源を海洋に求めて、近隣諸国と領土問題を多発している。
  また、尖閣諸島の日本国有化反対を掲げ暴徒化した反日デモ、経済発展の陰に激しい貧富の差を生んだ背景も見え隠れする。
  「ありがとう」の心を忘れ、いつまでも過去の歴史にとらわれたナショナリズムの高揚も平和をもたらさない。

  あっ、そうだ、かつて「世界はひとつ(一家)人類はみな兄弟」という言葉(故笹川良一氏)があった。
  しかし、平和を望まないナショナリズムがある限り、世界がひとつになることはなく、平和を維持するためには、自らの国は自ら守る自主防衛の考えは必要。

  ああ、こんなことを書いたら、せっかくの「ありがとう」の歌が台無しになるかな。

※2010.7.13歌謡コンサート新妻聖子さんの「アンダンテ」を聴いた
※2011.7.6新妻聖子さんの「見上げてごらん夜の星を」を聴いた
※2010.4.4新妻聖子さんの「夜来香」を聴いた

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2012年09月16日

生家観音堂(宗像四国西部霊場79番)ほか(福津市)

153生家観音堂  前回「静御前の墓と臼杵の井戸の伝承」を記した。

  この「臼杵の井戸」を背にしてやや左前方(生家公民館・生家集落入口道路の右側)に「生家観音堂」の建物(※画像)が見える。

  「生家観音堂」の由緒は分からないが、軒下の柱に「宗像四国西部霊場生家第七十九番本尊十一面観世音菩薩」(一部消えている文字あり)と書いた板札が貼り付けてある。

  昼間は、濡縁の内側に置いてある箱に賽銭を入れ、畳敷のお堂のなかの須弥檀に鎮座されている十一面観世音菩薩像を参拝できる。
  観音堂境内は、いつも掃き清められており、周りの植木もきれいに剪定してあり、すがすがしい。
  地元の人たちが、いつも心がけて清掃、剪定、供養等をされているのだと思う。

  なお、境内には、立派な忠魂碑が建っている。生家区から出征した戦没者を慰霊するために建てられたものだと思う。

  旧勝浦潟に隣接する地区をウォーキングしていると、各地で戦没者慰霊碑等を目にするが、そのたびに、こんなに小さな集落でも多くの戦死者等を出しているのだと思うと痛ましくなり、慰霊の気持ちで敬礼合掌する。南無阿弥陀仏。

  話は大きく飛ぶが、多くの召集兵士の犠牲の上に今日の日本があるのに、いまだに近隣諸国の恫喝的干渉を恐れて靖国神社を参拝できない首相や国会議員がいる。
  自国を守るための犠牲となり、靖国の神となった英霊を敬う気持なくして真の国民だといえるのだろうか。

  最近の天皇侮辱発言、竹島、北方領土、尖閣諸島問題でも無為無策、自らの国は自らで守る自国自主防衛の精神を忘れて、いつも迅速な対応をしてこなかったツケが出てきているように思えてならない。
  特に領土のことは、近隣諸国との経済、文化的な友好、交流などとは別次元で捉えてこなければならなかったはずだ。

  ところで、知り合いに数人の親日的な中国人留学生がいるが、全員アルバイト先を解雇されたとか、何もかもごっちゃにして胆略的に煽り歯止めのきかなくなっている人たちの言動の煽りを食らって、お気の毒なことだ。
  早くに政治から身を引いた政治的無関心者の独り言ゆえ、これ以上の論及はしないが。南無十一面観世音菩薩。

※つづく→「大石岡ノ谷古墳群〜椎ヶ元観音堂(福津市)

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2012年09月15日

静御前の墓と臼杵の井戸の伝承(福津市生家)

334生家臼杵の井戸  (前回からつづく)。

  (その2)、「津屋崎風土記」は、「大都加神社縁起」により「臼杵の井戸」について、次のようなことを伝えている。
(※画像は、臼杵の井戸周辺)。

  文治2年(1186)に静御前が勝田の里(生家)で産んだ臼杵太郎(源義経の男子)は成長し、建保3(1215)第41代宗像大宮司職に就いた宗像氏能(宗像氏国の娘婿大友能直豊後国守護職のニ子)が、その翌年、大宮司の職を辞し豊後国に戻るとき、その家臣として豊後国(大分県)に移転したという。
  氏能が豊後国に還った理由は、兄大友能宣(大友能直の嫡子)が早世したことによるという。

  臼杵太郎は、移転に際し、生まれ育った当地(勝田の里)に別れを惜しみ、朝夕使っていた宗像大宮司家別邸の井戸のなかに臼と杵を入れ置いた。故に、この井戸を「臼杵の井戸」という。

  母静子(静御前)は、当地に留まり別邸で亡くなり、勝田の里は「生家(いくえ)」の里に改められたという。

  ※この伝承によれば、宗像氏能は、豊後国守護職大友能直の二男で、長男は大友能宣ということになるが、なぜか大友家の家系図で能宣、氏能の名を見つけることができなった。

  また、大友氏代々の重臣臼杵氏と臼杵静子(静御前)、臼杵太郎の係わりについても分からない。

  ところで、これまで述べてきた伝承から「生家(いくえ)」の地名の由来を見直すと、「生家(いくえ)」の地名には、静御前の歌「わが君の行方も知らず静か川流れの末に身をやとどめむ」の「行方(ゆくえ)」と、その子臼杵太郎の「生家(せいか)」がミックスされたもののようにも思えてくる。

  「吾妻鏡」は、鎌倉を去った後の静御前の消息を伝えておらず、この地に佇むと、静御前が、この地で宗像氏国の内室としてつつましく生き抜いたように思えてくるから不思議である。

  現在、「臼杵の井戸」の周りに民家はないが、伝承を信じれば、里道や農地、臼杵ヶ池などが広がるこの辺りに宗像大宮司家別邸があったことになる。だか、発掘調査でもしない限り伝承の真偽のほどは分からない。

  以前記した生家の産神「大都加神社の祭神」のなかに宗像君(神主)等の名が多かったのは、生家に宗像大宮司家別邸があったことと係わりがあったのだろうか。

  いずれにしろ、地名、遺跡等の由来に係わる伝承(伝説)は、どこからどこまでが真実なのか、或はすべて虚構なのかは分からないが、ロマンがあって楽しい

  特に、高台にある農地の一角を占める「静御前の墓(塚)」や、どんな旱魃にも水が枯れない「臼杵の井戸」を、今も地元の人たちは篤く守り続けているというので、これらの場所は、地元の人たちにはパワースポット区画なのだろう。

2  なお、時季によって、背丈が伸びた野草が「臼杵の井戸」を覆い隠してしまっていることがあるが、その横に、「石祠」1社と、2本の「庚申塔」(庚申尊天)があり、それが目印となっているので、見落すことはない(※画像)。 

  この石祠は、静御前の子(臼杵太郎以外にはいなかったと思う)を祀るともいうが、臼杵の井戸や臼杵ヶ池等の水神様、農耕神でもある貴船神社を祀ったものではないかとも思う。

  2本の庚申塔(庚申尊天の碑)は、(1) 正徳元年(1711)八月大吉日と、(2) 享保十八年(1733)三月吉日の建立で、生家集落入口の守護神として建てられたのかもしれない。

※つづく→「生家観音堂(宗像四国西部霊場79番)ほか(福津市)」。

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2012年09月14日

静御前の墓と臼杵の井戸の伝承(福津市生家)

208生家臼杵の井戸  前回,傍した「静御前の墓」の前の里道(坂道)を真っ直ぐ下ると生家の集落に入る。
  その入口に「生家公民館」があるが、その左手前の叢のなかに「臼杵の井戸」がある(※画像)。

  この「臼杵の井戸」には、静御前(臼杵静子)が当地生家(旧勝浦村勝田)で産んだ源義経の男子という臼杵太郎にまつわる二つの伝承が残されている。

  (その1)、「宗像伝説風土記」によると、静御前は、第41代宗像大宮司氏能(豊後国守護職大友能直二男)の計らいで、その別邸があった勝田の里(生家)に身を潜め、文治2年(1186)3月、臼杵太郎を出産し、3年余過ぎたとき、鎌倉からの難題を恐れた氏能から突然立退きを命じられた。

  静御前は、家来たちに太郎を預け、大友能直を頼って豊後国臼杵に行くように命じ、自らは義経の行方を求めて京都に旅立ち、その後の消息は途絶えた。

  静御前が生家の別邸を立ち去るとき、再び訪れることのない別邸の森や池を感慨深そうに眺めていた、その様子を見た家来たちが、別邸の井戸に臼(うす)と杵(きね)を沈め、当地での思い出とすることを提案し、実行した。
  それは、太郎の姓が臼杵で、行く先が臼杵なので、当地を筑前臼杵としようという想いからであった。

  後世、この井戸は「臼杵の井戸」といわれるようになり、どんな旱魃にも水が枯れたことなく、今もその底に臼と杵の影があるという。
  また、その前にある池を臼杵ヶ池、別邸の森を静が森、別邸前を流れる谷川を静か川と呼ぶようになったというのである。

  ※伝承に私見を挟むと面白くなくなるけど、この伝承には疑問点もある。
  つまり、この伝承の時代は、文治年間(1185~1189)のことになるが、第41代宗像大宮司氏能の在任期は、建保3年(1215)~4年(1216)との説があり、そうであったら、この話には、かなりの年代的錯誤がある。
  さらに、宗像大神に仕え人々の安寧を守る宗像大宮司が鎌倉からの難題を恐れて、か弱い子女を追放したとあっては、甚だ情けなく心許ない話となる。

  この宗像氏能が大友能直の二男かどうかは知らないが、大友能直は源頼朝につながる鎌倉武士であり、頼朝生存中に鎌倉の追求から逃れようとする者が、このような人を頼るものだろうか。

  また、この伝承は、静御前が当地(生家)を離れた後の消息が不明で、伝説とはいえ、これでは静御前の墓が当地にあることの説明ができなくなる。いささかロマンのない話は、胸が詰まる。

※つづく→「静御前の墓と臼杵の井戸の伝承(福津市生家)」。

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2012年09月13日

静御前の墓と臼杵の井戸の伝承(福津市生家)

147生家・静の墓(※前回「練原毘沙門堂と正園古墳(奴山5号墳)跡(福津市)」からつづく)

  福岡県福津市生家については、以前、尾上神社(龗神社)大都加神社 (大塚古墳)、旧生家天満宮船つなぎ石などを記した。

  今回は、「生家の地名の由来」に係わる伝承を記しておくことにする。
  「生家」の漢字読みは、普通は「せいか」だが、ここでは「いくえ」と読む。
  それは、静御前(しずかごぜん/臼杵静子)が、当地生家(旧奴山郷勝浦村勝田)で詠んだ次の歌の「行方」(ゆくえ)に由来しているからだという。

わが君の 行方も知らず 静か川 流れの末に 身をやとどめむ

  源義経と静御前の物語は、「吾妻鑑」以外にはないが、地方伝承では、「吾妻鑑」と違った伝承が全国に残っており、ここ生家に伝わる伝承もよく知られた一つだ。

  九州に落ち延びた静御前は、第36代宗像大宮司氏国(第41代宗像大宮司氏能説もあるが?)の計らいで、その別邸があった勝田の里(生家)に身を潜めた。

  上記の歌は、その頃に、義経を慕いつつ寂しく不安な気持ちを歌ったものだという。

  その時期については諸説あるが、話の筋道を辿ると、吉野山で義経と別れた文治元年(1185)11月中旬以降のようだ。
  つまり、この伝承では、静御前は、「吾妻鑑」が伝えるように捕らえられて鎌倉に移送されたのではなく、九州に落ち延びたことになる。

  そして、文治2年(1186)3月、当地で義経の男子(臼杵太郎)を出産したという。
  したがって、これもまた、鎌倉で出産した男子は殺害されたと「吾妻鑑」が伝えるようにはなっていない。

  静御前は、太郎を出産した後、単身京都に上洛し義経(文治5年(1189)閏4月衣川館で戦死)の消息を探ったという伝承もあるが、当地(生家)に静御前の墓が残っているので、最後は、当地で亡くなったと考えた方がよいのだろう。
  一説には、宗像氏国の内室としてその後の生涯を終えたという。

  この静御前の墓(静の墓、静子の墓、又は塚ともいう)は、サンドリームつやざき(ふくつミニバス生家サンドリーム前)から少し奴山方向に進み、生家の集落に向う里道(下り坂)を左折すると、すぐ左下の畑のなかにある(※上の画像)。
  榊が茂る墓(塚)前にある供養塔(石仏=子育地蔵尊坐像=鎮座/昭和2年建立)には、ついも生花が供えられ、今も大事に供養されている。

※つづく→「静御前の墓と臼杵の井戸の伝承(福津市生家)」。

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2012年09月12日

赤トンボ飛来(秋の彼岸間近)

30683赤トンボ(庭)  ここ数日(9/9~)、突然、庭に現れた無数の赤トンボが低空回転飛行を繰り返している。

  ときとぎ雨が降り出すと、その姿が見えなくなるが、降りやむとまた姿を現す。

  例年、盆前後に一挙に飛来して、庭の上を忙しく飛び回わるのだが、今年は、盆前後の飛来が極端に少なく、その後も見かけなかった。赤トンボの減少は、気象の変化の影響があるのかと思ったが、農薬等の薬害説もあるようだ。

  赤トンボは、「お盆に祖霊(先祖の霊魂)を運ぶ」という言い伝えがあるだけに、盆時期の減少は寂しい。

  だが、8/15夕方、川べりで精霊送りをしたとき、不思議なことがあった。お盆のお供物や花を川べりに置いて、蝋燭を点灯、線香に火をつけようとしたとき、突然、強い風が吹き出して、蝋燭の火が消え、同時に赤トンボの大群が飛来したのだ。

  その後、風が止み、再度蝋燭を点灯、線香に火をつけ、般若心経1巻をあげ終わったときには、赤トンボの大群はいなくなっていた。
  「風と共に去りぬ」で、このような現象を目にすると、「盆の終わりに先祖の霊魂が赤トンボに乗って(或は見守られて)霊界に還る」という言い伝えも事実だと思えてくる。

  9/7の蔵王権現供養会のとき、「今秋の彼岸供養は、どうも9/8から始めた方がよいようだ」と話していたが、その翌日(9/9)から毎日、庭で飛び回っている無数の赤トンボをみたとき、ああ、これかと思った。
  今秋は、彼岸供養を前にして降り続く秋雨で、彼岸から此岸(しがん)に祖霊様が歩いて渡れないほどに三途川の川幅が拡がっているので、それでも彼岸供養に間に合うようにと、早々に赤トンボが彼岸に迎えに行ったのだ。
  こんなことを思い浮かべながら、今、飛び回っている赤トンボを見ると、何だかホッとする。
  今秋の彼岸供養期間は9/19~25だが、既にその前に始まった彼岸供養も、よく抹香をくべて怠りなくしよう。

※2010.8.13「迎え提灯、赤とんぼ舞う
※2010.9.3 「初めて、赤とんぼを撮影」参照。

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2012年09月11日

「足底装具」を購入 (足底筋膜炎対応)

  昨日、ロンドンパラリンピックが閉幕した。日本選手の活躍に関する報道をみるたびに、拍手を送っていた。身体障害をものともしない選手たちの笑顔と頑張り、それだけでもすごい。

  もし自分が、…と思ったとき、あれだけの笑顔と頑張りができるのだろうか、疑問符だらけだ。
  今まで打撲や頚椎症等による痺れや激痛で苦しんでいたときに笑顔など出なかった。もっとも、その痛みを解消するためにリバビリは頑張ったが、選手たちの頑張りとは次元が違う。

  ところで、今春(5/19)、左足のかかと部分に痛みが出て、以来、左足を引きずりながら歩いていた。
  当初は、山道を下るときにくじいた捻挫と思い、軽く考えていたが、一向に回復せず、歩けば歩くほど痛みが倍加(激痛)していった。

  しかる後、耐え難くなり、整形外科でレントゲン撮影を受けたら、かかとの骨の磨耗(左踵骨骨棘形成)からくる足底筋膜炎による痛みであったことが分かった(7/30)。

  山歩きで足を鍛え、歩くことには自信があっただけに、かなりショックだったが、この症状は、一生治ることはないと思うので、それなりの対応をとるしかなくなった。

  当初は、靴のなかにスポンジを入れたり、もう一枚中敷(既製品)を入れてみたりもしたが、効果なかった。
  次に「土踏まず部分が盛り上がって、かかと部分にクッション性のある靴(既製)」を買い履いたら、少し痛みは楽になったけど、足に馴染まなかった。

  やむなく整形外科紹介の装具屋さんで両足底の測定を受け、足底装具(靴の中敷)を作ってもらった(8/31)。
  (なお、装具代は、健康保険で7割返還があるので、診断書、領収書を役場保健窓口に提出し、その手続きをした)。

  この足底装具を入れると、やや爪先歩きとなり、かかとへの負担が軽くなり、痛みを感じる率が減ったけど、以前のように、すいすいとは歩けない。少しびっこをひくような歩き方になっているが、歩き慣れることで、歩き方も改善できるのではないかと思っている。

  もっとも、これは対症療法で、根本的な症状が治ったわけではなく、家にいるときは、極力かかとを強く踏まないように注意して歩いている。

  パラリンピックの選手たちとは比べようのない話だが、こんな小さな身体の変化でも、その変化を受容し、対応して行くには、それなりの時間と慣れが必要だと思い知らされている。
  私たちは、いつ何どき、自分の身に何が起きるかが分からないので、そのとき、慌てないでいられるようになりたいものだと思う。

(※8/9の記事参照)。

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