2013年02月

2013年02月26日

卒業ソング・ランキングを観て

高校三年生  最近、ときどきTVで「卒業ソング・ランキング」と題した歌番組があるが、考えてみれば、今年ももうすぐ3月、確かに卒業シーズンなのだ。
  卒業ランキングの曲名を観ていて、卒業を歌った曲って、すごく多いのだなと改めて思った。

  その歌詞のなかには、涙と笑いの青春の貴重な思い出がいっぱい詰まっており、人々のそれぞれの人生のなかでもっとも感慨深いものがあるのかもしれない。

  卒業した高校の同窓会で、合掌となると、決まって舟木一夫「高校三年生」(1963)だが、歌うと気持ちだけはその時代に戻るものだ。

  ランキングで紹介されたなかで、皆とよく歌ったのは、海援隊「贈る言葉」(1979)だ。
  年代別ランキング(火謡曲!)では、30~40代でトップ、50~60代で3位の歌だとか、年代が知れるが、その世代にとっては、今でも愛されている曲なのだろう。

  また、大好きな歌は、荒井由実「卒業写真」(1975)、この曲は、松任谷由実40周年記念ベストアルバム「日本の恋と、ユーミンと。」の3曲目にも収録されており、何度も聞いている。
  卒業アルバムに写っている写真って、本当に皆若い、自分たちにもそういう青春時代があった。
  昔と面影が変わらない「あの人」を街で見かけたとき、ついつい自分の変わりように気がとがめてしまう、過去の淡い恋心っていうのか、そういう気持ちも懐かしい。

ソツギョウ  全くランキングには入っていないが、個人的に大好きな曲は、 加藤ミリヤ「ソツギョウ」(2006)だ。
  どんなにつらいことがあっても、「泣いて泣いて泣いて泣いた答えここに…」、自分を信じて答えを出す、いじめられても自殺など考えてはいけない、自分に負けてはいけない、これからの人生の方が長いのだから、生き抜いて行かねばね。

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2013年02月25日

大石・風降天神社(天守天神社)にて(福津市大石)

827風降天神2012_10_08  前回「椎ヶ元観音〜水上池辺り(福津市大石)」からつづく。
  「風降天神社」(福津市大石恵下ノ谷)の明治以前の旧名は、「天守(あもり)天神社」で、祭神を「少彦名命」(併神:埴安神、保食神)とする旧大石村の産神だった。

  「風降天神社」が「天守天神社」であったことは、境内の鳥居の一つに今も「天守天神宮」の額束が掲げてあるのを観ても分かる。(※画像)。

  風降天神社は、かつて「龍光山恵華寺」があったという「池上池の辺り」に行く谷の入口に鎮座しているので、その鎮座地「恵下ノ谷(えげのたに)」の字名を見たとき、ふと、これは「龍光山華寺の下の谷」という意味なのだろうかと思った。

826風降天神2012_10_08  祭神少彦名命について「大都加神社の祭神の変遷?(福津市生家)」で「福津市内で少彦名命を祀る神社が多いのは、当地方に少彦名命を奉斎した阿部一族の存在がある」との説を記したが、出雲・物部氏一族との係わりはなかったのだろうか。

  隣区「須多田」の須多田「天降天神社」(旧天守天神社)も、同じく「少彦名命」を祀る旧須多田村産神で、明治以前の旧社名は、風降天神社の旧社名と同じ「天守天神社」だった。

  明治以降、大石と須多田の「天守天神社」がともに上記のように神社名を変えた背景には、明治政府による、天照大神(女神)を柱とした国家神道との係わりで、「天守」の文字は、「天主」(天照大神)に通じるので恐れ多いということだったのだろうか。

  大石の「天守天神社」を「風降天神社」としたのは、隣区須多田の「天守天神社」を「天降天神社」にしたので、同名を避けてのことだったのだろうか。

  直接関係はないけど、「天降」の文字には「天孫降臨」を連想させるところがあるが、「風降」(風が降る?)の意味はよく分からない。
  ただ、「天降・風降」というと、何となく風雨を思わせるので、自然・農業・漁業神等とのイメージは沸いてくる。

  なお、福津市内では、舎利蔵に天降神社(天降天神社)があるが、祭神は同じく少彦名神で、薦野(現古賀市)にある天降神社(天降天神社)の御分霊であるという。
  (※「舎利蔵へ(1)」・「舎利蔵へ(8)」参照)。

  ところで、「大石」は、筑紫君磐井の孫三兄弟のうちの「大石麻呂」が居住した地だといい、ほかの二人「須田麻呂」は「須多田」に、「津丸磐麻呂」は「津丸」(ともに福津市)に居住したとの伝承がある。

  これ故に、大石「風降天神社」(旧天守天神社)には「大石麻呂」が祀られ、須多田「天降天神社」(旧天守天神社)には「須田麻呂」が祀られ、津丸「神興神社」に津丸磐麻呂が祀られていたのではないかと想像された人の (仮説)記事を読んだことがある。

855神興神社鳥居  興味ある仮説だが、なぜ「津丸」だけが旧天守天神社の名がない「神興神社」(※画像)なのか。祭神も、鞍手六ヶ嶽神社(宮若市)→宗像へ向う前に当地に鎮座したという「宗像三女神」(天孫系ではあるが)で、「少彦名命」ではない。

829津丸天満宮2012_10_08  蛇足ついでに、この仮説に乗っかると、私は、「神興神社」ではなく、ひょっとしたら鎮座地に「天神屋敷」の字名が残っている津丸「天満宮」(※画像)が天守天神社だったのではないのかと想像した。

   無論、天満宮の祭神は、少彦名命とは時代も違う菅原道真天神であることは分かっているが、後世、津丸に大宰府天満宮・菅原天神信仰が入ってきたときに、当地の天神と菅原天神が同化して、いつしか天満宮になったとは考えられないだろうか。このようなケースはよくあると聞く。
  また、少彦名命とは別系統になるが、天孫天神系では、津丸には神興神社のほかにも、神日本磐余彦尊を祭神とする「神武神社」(旧六之権現社)がある。

 ※つづく→「津丸天満宮と津丸観音堂(福津市津丸)」。

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2013年02月24日

椎ヶ元観音〜水上池辺り(福津市大石)

20  前回「椎ヶ元観音境内の庚申塔など(福津市大石)」からつづく。
  前述したが、椎ヶ元観音像(円福寺観音堂本尊/聖観世音像or十一面観世音像)は、かつて大石水上池の辺りにあった龍光山恵華寺の本尊だという。
  
  この龍光山恵華寺は、永禄年間(1558~1569年)の兵火でが焼失したと伝えられている。

  椎ヶ元観音の森(※画像)を右に見ながら、里道を進むと風降天神社(大石恵下ノ谷)があるが、その手前に右折する狭い谷道がある。
  ここを少し進むと農地があり、視界がばっと開け、その先に立ちはだかるように農業用水池の高い築堤が見えるが、この池が水上池だろう。

  水上池が築造される前は、この谷あいには、開けた広場があったと推測できるので、七堂伽藍の大寺が建つだけのスペースはあったと思う。
  水上池がいつ築造されたのかは知らないが、その以前に埋蔵文化財調査等が行われた形跡はないので、もしここに龍光山恵華寺の遺跡があるとしたら、今は水上池の辺りというより池底に潜っていることになるのだろう。
  せめて、この周辺地の発掘調査が行われて、何かの遺構、遺物が出てくればと思うことがある。

  池のすぐ右上の森に大石岡ノ谷古墳群1、2号墳があり、森の樹木を取り除けば、ここから見える位置にあるので、この古墳群と龍光山恵華寺は何らかの関係があったと考えるのは不自然ではなく、龍光山恵華寺の隆盛時には、この古墳群も合わせて大事に祭られていたものと推測している。

  また、もとより確証はないが、大石岡ノ谷古墳群は6世紀後半〜築造と推定されているので、この前方後円墳の一つの被葬者を、崇峻天皇5年(592)に筑紫国磐井の菩提を弔うために龍光山恵華寺を開創した磐井の孫大石麻呂の墳墓であると考えることも可能ではある。(※崇峻天皇5年(592)建立説は「椎ヶ元観音縁起」)。

  いずれにしろ、位置的環境を見たとき、龍光山恵華寺は、大石岡ノ谷古墳群と天守天神社(現風降天神社)を合わせ祭った寺院であったと考えられなくもない。
 
 ※つづく→「大石・風降天神社(天守天神社)にて(福津市大石)」。

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2013年02月23日

大己貴神社・例大祭日に久方参拝(筑前町弥永)

本殿  先日(2013.2.11) 、道路計画で埋没する可能性がある「女男石」(福岡県朝倉市秋月女男石)を見学したとき、その途中で、丁度新年(旧正月)例大祭を行っていた大己貴神社(朝倉郡筑前町弥永)に立ち寄った。(※画像は、大己貴神社本殿)。

  平成の大合併以前の当地の地名は、朝倉郡三輪町弥永(その前は夜須郡弥永村)だった。

  当地の地名は、安本美典先生の邪馬台国甘木説や邪馬台国東遷説を解く人たちにとっては重要な意味を持っているので、これらの説に耳を傾けてきた者としては、三輪町(大和三輪の原点地)や夜須郡・夜須町(高天原天照大神・天の安川の伝承地)などの名には言い知れぬ思いがあった。

本殿2  大己貴神社は、神功皇后がここに大三輪社を建て新羅遠征軍の調達を祈願したのが始まりという伝説があるが、神功皇后は、もともと、この地に聖地があることを分かっていたので、ここで祈願したはずである。

  したがって、創業は神功皇后より古いはずで、その聖地は、神功皇后腰掛石のある目配山の登山口近くに位置する神体山「大神山」にあったと考えられる。

  当初より、大己貴神社の祭神は「三輪(大神)大明神」 といわれており、当所が大和三輪の大神(おおみわ)神社の原初地と考えている人たちも多い。(私もその一人)。

大国主命  「三輪(大神)大明神」とは「大己貴命」のことだとされているので、神社名がいつしか「大己貴命神社」となったのだろう。
  境内に、「大国主命の石像」が建っているが、「大己貴命」とは「大国主命」のことだからだろう。
(※画像)。


  だが、「三輪(大神)大明神」は、「大己貴命」ではなく「大物主命」で、つまり「饒速日命(天照国照大神)」のことではないかと思っている。
  神功皇后が、新羅遠征軍を召集するために刀矛を奉じ祈願する神は最強の武神であったはずで、因幡の白兎など一連の説話に見える平和主義者・大己貴命(大国主命)を祀ったなどとはとても考えられない。

杜  今でも、地元の人たちは、「おんが様」としか言わないらしい。

  「おんが」とは「大神」のことで、「おおみわ」を「おおがみ」と呼び、「おんが」に訛ったのだと思う。


  因みに、「おんが」といえば、福岡県内には遠賀川があるが、この「遠賀」(おんが)ももとは「大神」であった。
  遠賀川支流犬鳴川流域には、饒速日命(天照国照大神)を出自とする鞍手つるた物部氏(饒速日命を祀る「天照神社」が残る)が割拠し、鞍手を「出雲王国」に想定する説もある。

  それはさておき、大己貴神社の例大祭は、大変な賑わいで、神社前にある大駐車場は満杯で、道路に駐車して参加されていた人たちも多かった。
例大祭  参道の両サイドには、お祭り特有のテント屋台が並び、昔懐かしいお祭り風景があった。
  その中を全速力で走り抜ける氏子組別対抗の樽酒担ぎ競争や、抽選会などのイベントもあっていた。
  2月中旬の祭りは寒い。

  そのなかを大己貴神社本殿(相殿東は天照太神、西は春日明神という)、末社(須賀神社、八幡宮)を参拝、及び神体山大神山を遥拝、合わせて久方ぶりに参拝できたことの御礼を申し上げた。

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2013年02月22日

椎ヶ元観音境内の庚申塔など(福津市大石)

338椎ヶ元観音2011_04_16  前回、「椎ヶ元観音の由緒(8)〜観音像修復(福津市大石)」からつづく。
  椎ヶ元観音の境内を見渡したとき、ひときわ目についたのが、宝暦四年の刻銘のある庚申塔だった(※画像)。

20  このほかにも正面石段上り口の左側にある庚申尊天を含めて二つあった。

  どうして同じ境内に三つの庚申塔が集中して建っていたのかは分からないが、珍しい。

  すべての庚申塔の刻銘を次に記しておく。

   々申碑 正徳四正月吉日 (1714)
     …写真を撮っておらず、その場所を記憶していない。
   庚申尊天 享保三戌天十月吉日 (1718)
     …正面石段上り口の左側(※画像)。
   9申尊天 宝暦四戌年十二月吉日 (1754)
     …石段を上り、境内広場の左側。

  このうち、正徳四年正月の庚申碑の建立については、宝暦3年4月〜4年9月に津屋崎浦で蔓延した疫病(死者170人)との関連も考えられる。
  津屋崎浦に近い当地大石にも、その疫病が波及したとも考えられなくもなく、当地への疫病の蔓延防止・退散を祈願してのことであったかもしれない。
  なお、今に続く津屋崎山笠は、正徳4年(旧暦6月19日)、このときの疫病災害の退散を祈念して、博多櫛田神社の祇園社(須賀神社)を津屋崎の波折神社に勧請して、三基の山笠を奉納したのが始まりとされている。

  このほか、「一字一石塔 寛政9年巳仲秋 施主庄屋五七郎」(1797)もあった。
  「一字一石塔」は、福津市〜宗像市内を行脚中に各地でよく見かけたが、法華経に基づく仏事供養や現世安穏を願ったものだ。

  ※参考までに、行脚中に一字一石塔を見かけて本ブログに公開した場所は、思い出す範囲では次のとおり。
  北方地蔵堂 (同碑文)、松原須賀神社名児山金刀比羅神社地島泊港隣船寺

817椎ヶ元観音の灯篭2012_10_08  なお、境内入口の正面石段を上ったところに石灯篭が二基あったが、後でメモを見直したら、そのうち一基の建立年を書き写していた。
  だが、それも風化していて読めなかったのか、明確には記してなかった。うかつなり。

  …「奉寄進 (?)永七年 正月吉日 施主赤間忠治」。

 ※つづく→「椎ヶ元観音〜水上池辺り(福津市大石)」。

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2013年02月21日

「乙犬八幡宮」参拝記(篠栗町乙犬)

乙犬八幡宮  前回「片袖式の「中園古墳」と九州王朝」(篠栗町乙犬中園78)からつづく。
  中園からJR門松駅に向う途中にあった乙犬八幡宮(福岡県糟屋郡篠栗町乙犬423)に、前知識なし立ち寄った。
  乙犬八幡宮は、乙犬公民館の西側の急カーブから左に、乙犬山側(集落)に入る里道の先、乙犬山(185.8m)のほぼ真北の山麓にある。

  因みに、乙犬公民館のある場所(2,000)は、弥生時代集落(竪穴式住居)跡や土壙墓、溝状遺構、ピット、石包丁、土器、石鏃、砥石等が発掘された乙犬片子遺跡跡だといい、当地区が既に弥生時代から穀倉地として開けていたことが分かる。 

  乙犬八幡宮境内入口の右側に水たまりの多い駐車場(だと思う)があったが、氏子の地区が広いので参拝の利便を考えてあるのかもしれない。
  因みに、乙犬八幡宮の氏子は、旧乙犬村六所(浦、上小路、旅石、久徳、神ノ木、松元)のうち神ノ木(じんのき/鎮座地)、上小路(中園、松葉)及び旧尾中村中小路という(拾遺)。
  ただ、旧乙犬村のうちの旅石、久徳の産神だった春日大明神(元旅石鎮座)は、乙犬八幡宮の左横に「春日神社」の鳥居(明治二十五年四月建立)が立っているので、乙犬八幡宮に合祀されているのだと思う(後述)。
  なお、浦(田中)の産神は、老松神社(旧尾仲村老松宮)だという。

  境内に入ると、山麓の斜面に沿ってなだらかな63段の石段が続いているが、その途中に、右三つ巴紋のある乙犬八幡宮の標示石碑(昭和63.6建立)や、二つの鳥居(大正8、平成13.12建立)、手洗い鉢などがあった。

境内神社  また、大正8の鳥居の左側に、真新しい銅板葺き木造社祠(境内社)があった。
  神社名は銘記されていないので分からなかったが、拾遺に見える「玉依姫社」なのだろうか。

  坂の途中右側に「乙犬八幡宮由緒板」が建っていた。かなり板面を青カビが覆っていたので、一部読めなかったが、次のことは分かった。
縁起板  祭神:應神天皇 神功皇后 玉依姫神
天児屋根命 武甕槌神 齋主神 姫大神。

  境内末社 宝満宮: 玉依姫神、疫神社:素盞鳴命。

  祭典日:新年祭1月1日 春祭4月15日 夏祭7月6日 
例大祭10月17日 其の他氏子による慣例の祭りがある。

  祭神については、拾遺に「神功皇后 玉依姫神 仲哀天皇三座也」とあるので、いつの間にか仲哀天皇が忘れ去られ應神天皇になったものかもしれない。
  乙犬地区の一部は、平安時代に箱崎八幡宮の社領荘園になったという歴史があるようなので、当地に應神天皇 神功皇后 仲哀天皇の三座を祭る乙犬八幡宮が鎮座したというのが正しいだろう。

  また、天児屋根命 武甕槌神 齋主神 姫大神は、春日神社の祭神であり、やはり、上記した春日神社の鳥居(明治25.4建立)が本殿の左横(脇参道)に建っているのは、多分、明治39年(1906年)に明治政府が出した神社合祀勅令(神社統合又は廃止・破壊政策)により、旅石、久徳の産神として旅石に鎮座していた春日神社(旧春日大明神)が乙犬八幡宮に合祀させられたものだと思う。

春日神社鳥居  春日神社鳥居の下に13段の石段があるが、写真を撮ろうと思い、湿っていた石段を下りていて、最下段で足を滑らせた。
  さいわい軟土の上に横転したので大丈夫だったが、山林に囲まれた境内は湿気が多いように感じた。

  春日神社の旧鎮座地(旅石)の場所は調べていないが、拾遺によると、さらにこの旧地の南三町にある春日嶽山上に古宮があったらしい。
  また、春日神社内には、「伊都岐嶋社」と「真社明神」の祠があったようだが、上記「乙犬八幡宮由緒」には記載されてないので、或は上記神社合祀勅令により廃止・破壊されたものか(不詳)。

  乙犬八幡宮本殿周辺には、石灯篭、狛犬、手洗鉢(使用されてない)、旗立石、「五穀神碑」、「猿田彦尊碑」などがあった。
  それに二つの遷宮記念寄付者芳名碑(昭和30.4と55.4)があったが、この遷宮の意味は何なのだろう。

石灯篭1  また、本殿両横に置いてある全・半壊の石灯篭のうち、左側のものには文化12年(1818)11月建立とあり、境内では最も古いものか。

  拝殿内の絵馬は、明治以降のものだと思うが、板がめくれているものが多く保存状態が悪かった。

石灯篭  なお、後で、天正14年(1586)7~8月、島津軍が大友氏が守る岩屋城、立花城、高鳥居城を攻撃したとき、篠栗にも侵入し乙犬八幡宮、尾仲老松神社、田中八幡宮、和田八幡宮が焼き払われ、それを記す石碑があるとも聞いたが、気が付かなかった。

  以上、あわただしく駆け足で立ち寄った乙犬八幡宮の参拝記である。合掌。
  ※つづく→「久徳寺観音堂にて」(篠栗町乙犬)。

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2013年02月18日

片袖式の「中園古墳」と九州王朝(篠栗町乙犬)

中園古墳墳丘と観音祠  前回、「初めて観た蠶供養塔」(福岡県糟屋郡篠栗町乙犬中園)からつづく。
  火祭り薬師堂前から左に行くと、「八大龍王」(小石碑)と「聖観音立像」(小石仏)を祀るブロック積みの祠がある。

  この祠の後方の小高い盛土が中園古墳(円墳)の墳丘だ。
  この右方に、処分された数基の古い墓石が積み重なっていたが、もとは墳丘上にあったのだろうか。
  墳丘上に生えている樹木の根元の土砂が露出して、荒れている感じがしたが、民有地にある古墳なので、行政の手は加えられないのだろう。
中園古墳  中園古墳は、ほぼ築造時の原型を留めているという単室の横穴式片袖石室を持つ小円墳である。
  石室は、一段下にある民家の裏庭に面して西向きに開口し、閉塞石が失われており、ほぼ平面的に入室できる。(※民有地なので注意要)。

  横穴式石室内部の羨道は短く、左側の壁がそのまま奥室の壁につながっており、奥室が右側に広がる、九州では唯一ともいわれる左片袖式(片袖造り)石室を有する横穴式古墳である。
  見慣れている両袖式石室に比べると違和感がある。

  5世紀末〜6世紀初頭の築造と推測されているが、内部遺物はなく、築造年代を確定する根拠は乏しい。
  石室内の左前方部に石が抜かれた跡があり、これは、閉塞石が開かれる以前に盗掘者が開けた盗掘口で、このとき遺物を持ち去られたのか。

  この古墳が九州では類をみない横穴式片袖式石室であるところから、上記5世紀末〜6世紀初頭築造説とは噛合わないが、「磐井の反乱(527)後、献上された糟屋屯倉経営のために入植した渡来人の墓であると推定する説」がある。

  だが、負けたはずの筑紫君磐井の墓(岩戸山古墳/八女市)が現存し、ヤマトに対する反乱だったのかどうかも疑わしく、また、横穴式石室は大和政権直轄地とかかわるとして所在不明の糟屋屯倉の名を持ち出したり、さらに片袖式石室の源流は朝鮮半島にあるので、これを以って中園古墳を、大和政権下で糟屋屯倉経営のために入植した渡来人の墓だと推定する説には納得していない

  むしろ、朝鮮半島に近い筑紫の地で、その影響を受けて単独に横穴式片袖式石室が造られても何の不思議もなく、後に、この形式が大和に波及したと考えるべきで、ここでわざわざ倭国九州王朝より後発の大和政権やその直轄地になったという所在不明の糟屋屯倉を持ち出してヤマトの影響下にあったと考える必要はないと思う。
  九州では片袖式石室を持つ古墳がほかにないといっても、九州のすべての古墳が発掘されているわけではなく、そうだと断定することはできない。

  (注)現在、鹿部田淵遺跡(古賀市)が糟屋屯倉跡として公園整備されているが、もとより根拠はなく、内陸部の篠栗からは遠い。なお、私は、糟屋屯倉なるものがあったのだとしたら長者原、仲原(糟屋郡粕屋町)あたりの穀倉地帯を想定している。

  この中園古墳の所在地を交通史学的に検討したとき、ここは、前述した「切通し越」の道沿いで、宇美を経て太宰府に抜けるこの間道が古代より開けていたことは想像に難くなく、太宰府都督府とのつながりを考えた方がよい。
  つまり、中園古墳は、太宰府=「筑紫都督府」につながる路沿いあり、日本書紀に記載のない「倭五王」にもつながる九州(筑紫)王朝の本拠地太宰府への進入路の一つを外敵から守る有力者の墓と考えることができる。

 なお、日本書記の天智天皇6年(666年)の項に「筑紫都督府」の記載があるので、この以前に、太宰府には倭国九州(筑紫)王朝三府(三司)の一、政庁である「筑紫都督府」があり、その建物遺跡は、現在の太宰府政庁跡の礎石の下に「掘っ立て柱」の跡として残っていると思う。

  さらに、中園地区は、霊山若杉山登山口でもあり、若杉山を越えて「ショウケ越」から大分(飯塚市)に抜ける山道があり、この道も古代から開通していたと考えると、同じく倭国九州(筑紫)王朝三府(三司)の一太傅府(大分/所在地未解明)をつなぐ間道沿いにあったことになる。

  中園古墳の近くに上小路古墳群(カブトの森公園造成で消滅か)や長者の隈古墳(金銅製鞍出土)があり、また乙犬内には久徳古墳群などもあり、当地方は古代より開墾が進み、有力者が存在したはずで、白村江の戦い(663)に参戦した散った人たちもいた、などと想像したりもした。

 ※次回→「乙犬八幡宮参拝記(篠栗町乙犬)」。

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2013年02月17日

初めて観た「蠶供養塔」(篠栗町乙犬)

蚕供養碑  前回「火祭り薬師」(福岡県糟屋郡篠栗町乙犬中園)からつづく。

  「火祭り薬師堂」境内に、地蔵菩薩立像、庚申塔、蠶供養塔が立っているが、いずれも由緒を記すものがない。

  このうち最も興味を惹かれたのは、高さ1mほどの長方形の「蠶供養塔」である。

  今まで正見行脚してきたなかで、「蠶供養塔」なる石碑を観たことはなかった。
  それだけに、生まれて初めて「蠶供養塔」も刻字を目にしたときは、こんな供養碑があったのかと驚きを隠すことができなかった。

  思わず、台地上にあるこの地から辺りを見渡した。
  視界に入ったのは、右下の農地、後方の林の後ろの一段下がった野菜畑、左方の中園古墳の墳丘、ざっと見渡しただけだが、桑畑らしきものはなかった。

  でも、ここに「蠶供養塔」があるということは、今は、あまり見られなくなったが、かつて当地では、「かいこ」を育て生絲を作る養蚕業が盛んに営まれていたということではないのかと思った。

  その「かいこ」を供養する、今までまったく考えたこともなく、思いつなかったことで、やはり虫でも命あるもの、何だか建てた人たちの感謝心が分かるような気がして合掌した。

  裏面に何か彫ってないかと、眺めてみたが、肉眼で観た限りでは不明で、この碑がいつの時期に建てられたものかは分からなかった。

  後で篠栗町教育委員会の石碑調査資料を丹念に調べたが、どこにも「蠶供養塔」の文字がなく、篠栗町歴史民俗資料室で尋ねたら未調査のようだった。

庚申塔  庚申塔には、「享保五年十月吉日」の刻字があるので、江戸時代中期(徳川吉宗将軍)の享保5年(1720年)に建立されたことは分かる。


  福岡藩内では、享保5年梅雨期に、前年(享保4年)同時期に引き続き、大雨、洪水等による被害が各地で続出したというので、農作物の収穫時期(10月)に建立されたこの庚申塔は、或は、このことと関係があったのかもしれない。
  庚申塔は、庚申の日の庚申講(庚申待ち)に係わるものと考えるのが一般的だが、それに付会した集落守護神や農業神的な意味を持つことも多い。

薬師堂境内の庚申塔など  地蔵菩薩立像は、篠栗四国八十八ヶ所霊場を有する篠栗町では多い石仏である。
  台座に「中連講念仏」とあるので、「中連講」という講社が建立したものだと思うが、詳細不知である。合掌。


 ※つづく→「片袖式の「中園古墳」と九州王朝(篠栗町乙犬)」。

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2013年02月16日

「火祭り薬師」(篠栗町乙犬)

火祭り薬師入口前回「切通越え新道・猿田彦尊碑など(篠栗町乙犬中園)」からつづく。
  切通越を篠栗側に下り、蠻鯢リネンサービス前を右折すると、左に「口碑・伝説 火祭り薬師篠栗町教育委員会」の板札がある。
  (※画像/所在地:福岡県糟屋郡篠栗町乙犬字中園83)。

  数段の石段を登り、広場の奥にあるお堂のなかに鎮座している滑石(かっせき)製の石仏(坐像)が「火祭り薬師」である。

  とはいえ、前知識なしで参拝に行ったので、最初、この砂岩質のような斑の多い滑石製の石像を観たとき、頭と耳、肩などの形があるのは分かるが、なんとも顔の面相や体の彫形が今一釈然とせず、彫りかけのようにも見えるし、或は風化しているのか、いずれにしろ本当に「薬師如来」像なのかと首をかしげてしまった。
  しかも座高約1m(三尺三寸という)の石仏の表面は、粘土で染まったような赤みのかかった土色をしており、また、その体は右(向かって左)に傾き、左の肩先から左斜め下方向にかけて深い亀裂(傷)がある。

火祭り薬師  ※下の画像は、薬師様におことわりをして撮らせていただいた「火祭り薬師」、通常はあまり仏像等の写真は撮らない(合掌)。
  後で筑前國續風土記拾遺を読んだら、「薬師堂 中園に在。石像也。昔若杉山佛尾の土中より堀出せり。像の肩に疵有。鍬を打懸けし痕也と言。」と記されていた。

  ということは、表面の土色は、本像が埋まっていたという場所の土色が染み込んだものか、また、左肩先の傷は、村人が堀出したときに付けた鍬の傷痕だというのか、もしそうだとしたら、なんとも荒らけない掘り出し方をしたものだ。

  姿かたちを見た限りでは、本像が「薬師如来」なのかどうかの判別は難しいと思う。
  それはともかく、「火祭り薬師」というのは、旧暦12月12日(現在は11月12日)に、薬師堂の前で榾(ほた=木の切れ端)を燃やして本像の供養を行うことによるようだ。

  篠栗町立歴史民俗資料館でKさんから頂いた資料によると、
この薬師さまは、昔、中園の老婆が切通越道を歩いていたとき、藪のなかの土中から「ううん、ううん」という呻き声が聴こえるので、村人たちを呼んできて掘り起したら、お薬師様(石像)が出てきたので、村人たちが現在地に運んだが、その日は、旧暦12月12日の雪がちらつく寒い日だったので、その前で薪を燃やしてお薬師様(石像)を暖めてあげた。という。

  なお、上記の拾遺と資料の話を合わせると若杉山佛尾とは切通越の道筋ということになるが…。それに、どうしてここに埋まっていたのだろうか。なにか隠された事情があったのかもしれない。

  これが、本像を「火祭り薬師」と称する由来のようで、以来、今日に至るまで、旧暦12月12日(現在は11月12日)に、薬師堂前で地元(中園集落)の人たちが榾(ほた/木の切れ端)を燃やして本像を暖める供養を行い、深夜まで酒を酌み交わし、お薬師様と語らう直会をしているという。

  この酒宴は、薬師堂の前に筵を敷いて行ってきたということだが、堂前にプレハブ小屋があるので、現在は、この小屋を利用しているのだろうか。

  お堂内の「火祭り薬師」像の脇には、高さ30cmほどの石仏が3体あり(向って右に地蔵菩薩石立像、同左に薬師如来立像と、その蔭に隠れて像形が見えない立像あり)、仏前には線香、蝋燭などが置いてあり、縁ある人たちによる日々の御供養も行われているようだ。

  なお、篠栗町内には、焼け薬師(若杉)、為治魔地蔵(庄)、火除け観音(高田)など、火と係わる仏様が多い。

 ※次回→「初めて観た蠶供養塔」(篠栗町乙犬)。

keitokuchin at 23:57|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2013年02月15日

自分だけの四つ葉を見つける講座に行ってきた

四つ葉、粘土  友人に誘われて「あなたの四つ葉をみつけるプレ講座」に行ってきた。
  最初は、どんなことをする講座なのかと思ったものの、そんな心配はどこへやら、気が付けば懸命に、しかも笑顔で、手のひらで色粘土を回転させていた。

  最初に出来上がったのは、それぞれ自分だけの、世界で唯一つの地球儀で、ちゃんと海と陸がある思い思いの地球儀が出来上がった。
  もちろんこの模様を自分の意思で作れるものではないが、この模様には、今の自分の想いが組み込まれているというから驚き。

  次に、今脳裏(心)に浮かんだこと四つを、用意された4枚の白紙クローバー型紙に、言葉又はイラスト(着色可)で書(描)いた後、この4枚を貼り合わせて四葉のクローバーを作る。
  次に、イメージイラスト・トランプを1枚引いた。
  そして、最後は、また粘土に戻り、蛸(たこ)を作った。

  これら一つ一つの作業が終わるたびに、自分で作った各作品の出来ばえを見て、また、自分で引いたトランプの絵柄を見て、直感的に感じた感想を述べる。
  また、他の人たちの作品についても、各人の感想を聞いた後、自分が感じたことを述べたりもできる。

  この講座は、より自分らしい自分になっていくために、遊びながら直感を磨き、自分が持っている感性をいきいきと活性化させるということだった。
  なお、四つ葉の咲く早春だったら、この講座を受け、心が四つ葉で満たされたときに、公園などに行って四つ葉のクローバーを探すと、よく見つかるとか。

  会場は、終始参加者の笑顔で溢れ、それぞれに脳が活性化していたのだろう。実に楽しい数時間だった。

keitokuchin at 23:55|PermalinkComments(0)TrackBack(0)