2013年06月

2013年06月29日

三郎丸薬師堂(宗像市三郎丸)=宗像四国東部霊場6

三郎丸薬師堂  前回の「尾降神社宗像氏貞の不敬(宗像市三郎丸)」に付記した[尾降神社への行脚路]のなかに、「→住宅地外れ左折(極端に道幅が狭くなる)」と書いたが、ここを右折すると、同じく道幅の狭い旧道(尾降神社参詣道の一)が残っている。
  今は、この道は、あまり車(離合不可)も人も通らないようで、道路の一部に野草が生えている箇所もある。

三郎丸薬師堂口  この道を下ると、前回記した「T字路」を右折した旧道と交わるが、その少し手前の左側に「宗像四国東部…」と刻された御影石の石柱(※画像)が建っている。
  ここから野草を掻き分けながら、後ろの急斜面に付いている石段(左にも石段あり)を10mほど上ると、「三郎丸薬師堂」(木造)がある。

  この薬師堂は、筑前國續風土記附録にある「薬師堂(ムメガタニ)」ではないかと思う。
  お堂は、近年再建されたようで、その入口の柱には、「宗像四国東部霊場第六番本尊薬師如来(三郎丸一の稿区)」の板札が打ち付けてあった。
  現在も、病気平癒として信仰のある薬師如来を祀る「三郎丸薬師堂」をお守りしている人たちがおられることはありがたいことだ。
  そんなことを思いつつ合掌し念じた「おんころころ・・・」。

  なお、この右横に、少し小振りの「地蔵堂」が建っているが、同附録に記録されている「地蔵堂(ナカノモリ)」のことなのだろうか。

  ところで、かつて正見を求め行脚した道を思い出しながら、時々歩いているが、記憶が飛んでいることも多い。この旧道は、昔のままだったが、それでも思い出すのに時間がかかった。
  三郎丸や陵厳寺地区も、地域開発が進み、新道が旧道を分断し、新興住宅ほかの建物が見通しを遮り風景を変え、ますます分からなくしているところもある。そのなかに消滅した遺跡もあるかもしれない。

 ※つづく→「正法寺〜妙湛寺歩く♂妊嶽城下(宗像市陵厳寺)」。

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2013年06月28日

尾降神社宗像氏貞不敬(宗像市三郎丸)

※「尾降神社⊃誓ぜ径紊梁荼淇世鱆る」からつづく。

城山(蘿嶽)  「尾降神社」で、「永禄年間宗像大宮司氏貞卿居城修築の際不敬を恐れ、蘿嶽の山の尾に移し祀る」との由緒を記載した。
  この文から、尾降神社の元宮(祠)が、「蘿ヶ嶽城」の城域となるなかにあったので、築城の障害になるとして、里人が参拝に訪れることができる城域外に移したことが推察される。

  このことは、蘿嶽(城山)頂上にあったのではないかと思われる「蘿神社」が、麓の陵厳寺に移されたことと同じなのだろう。

  確かに、「尾降神社」にしろ「蘿神社」にしろ、尊大な「神世七代」の神々(大戸道尊・大戸麻邊尊・伊弉諾命と伊弉册命)が鎮座する山に居城を作ることは「不敬」であっただろう。
  にも係わらず、宗像神社(宗像大社)大宮司でもあった者が、自らの居城内で祭祀することなく、「不敬を恐れて」移し祀らせたというのだから、何とも解せない。
  見方を変えれば、尊大な神々の鎮座地に土足で踏み入り、神々を追い出したことにもなる。

  宗像大宮司氏貞は、第79代宗像大社大宮司として戦国乱世の時代に宗像の地に繁栄をもたらした勇将であったと讃えられているが、忌まわしい歴史も作った。

  天文21年(1552)氏貞の宗像(白山城)入城(七歳)に際しては、その前年の天文20年(1551年)に宗像大宮司家の家督を巡って忌まわしく凄惨な山田事件(宗像正氏正室山田局や宗像氏男正室菊姫、及び宗像氏続一統を惨殺)を引き引き起こしている。

  元亀元年(1570)正月、大友宗麟の命により氏貞は、同盟者河津隆家(西郷衆)を蘿ヶ城に招き、蘿嶽山麓の妙湛寺で暗殺した。

  天正14年(1586)3月、氏貞は42歳の若さで死亡、後継者がおらず、豊臣秀吉によって宗像大宮司家は取り潰され、天正16年小川隆景により蘿ヶ嶽城も破却された。

  永禄年間・永禄3年(1560)、氏貞が宗像大宮司の居城「白山城」を捨て、古、蘿嶽に降臨、鎮座した尊大な神々祀る祠を麓に移してまでも、ここに「蘿ヶ嶽城」を築城したこと自体が「不敬」だったのではないかと思うことがある。

  そもそも、蘿嶽(城山)は、かつて「赤間山」(赤馬山・宗像山)ともいい、「赤間城」(赤馬城)があったといい、氏貞は、この廃城となっていた赤間城(赤馬城)を修築して「蘿ヶ嶽城」(嶽山)と名付けたというので、それ以前の赤間城の段階までは、城内に「尾降神社」や「蘿神社」の祠が祭祀されていたことになりそうだ。

  宗像伝説風土記に、「尾降神社の使いは白蛇で、氏貞卿の子と乳母の化身と伝えられている。豊臣秀吉が薩摩の島津征伐の帰りにこの城に入城したさい、氏貞卿の子とその乳母は竹薮に逃げ隠れ、その化身が白蛇となって城山を守っていたそうで、「白蛇を見た者は病気をする」という伝えが残っている。」とある。

  氏貞の男子塩寿丸は早世、三人の娘は嫁いでおり、誰のことを言っているのかは分からないが、この風土記伝説を見ていると、宗像氏貞の代で絶えた宗像神郡の名門(914年、宗像清氏に始まる)宗像大宮司家の末路の悲惨さを暗示しているようで、やはり「蘿ヶ嶽城」築城は「不敬」だったのではないかと思う。

 ・[境内神社と末社]
  本殿の左後方に合社一棟あり、(左から)「粟島神社・貴船神社・氏神御旅所・天満神社・須賀神社・福地神社・権七神社・荒神社」。
その右の石祠は「稲荷神社」と、刻名が見えないが「山神社」か。
  このうち神社誌にあるのは、「天満神社(菅原道真)・須賀神社(須佐鳴男神)・貴船神社(高龗神)」(境内神社)と、「福地神社(保食神)・山神社(大山祇神)」(末社)。
  また、天満神社、須賀神社、貴船神社は、明治以降、附録にある「天満宮(ムメガタニ)、祇園社(ミヤノヲ)、貴船社(キシモト)」を合祀したものか。
  
 ・[尾降神社への行脚路]
  赤間駅前から県道69号線(宗像玄海線)を右に→三郎丸信号機左折→三郎丸4信号機=若宮玄海線(県道75号線)交差点を直進→T字路左折(→旧道右カーブ)→住宅地外れ左折(極端に道幅が狭くなる)→右「尾降神社」石段あり。
  なお、この先を右折して坂道(右側に尾降神社本殿)を上ると、城山(三郎丸)西登山口に至る。

  ※つづく→「三郎丸薬師堂(宗像市三郎丸)」。

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2013年06月27日

尾降神社⊃誓ぜ径紊梁荼淇(宗像市三郎丸)

  前回「尾降神社〜宮」で、「尾降(おさがり)神社」の名の由来には、次の2説があることを記した。

  (1)蘿嶽(城山)に宗像大宮司氏貞が居城を構築したとき、蘿嶽(城山)から山の尾に移し祀ったことにより付いた。

  (2)蘿嶽の南の尾に神々が御降臨されたことにより付いた。
  因みに、「蘿嶽」を「城山」というのは、永禄年間(1558~1569)に宗像大宮司氏貞が蘿嶽に蘿ヶ嶽城を築城して以後のことである。

  ただ、(1)では、蘿嶽(城山)の山の尾に移る前の神社名が伝わっていないことに疑問があり、(2)の方が納得しやすいと思っている。

  このお降(さが)りされた「尾降神社」の神々の名(祭神名)を、筑前國續風土記附録は、包括的に「祭る所天神七代也」と記しているが、その「天神七代」のなかの第五神大戸道尊」(おおとのじのみこと)と「大戸麻邊尊」(おおとのべのみこと)の男女2神(兄妹)を祭神している。

  上記「天神七代(あまつかみななよ)」は、「天神七世(あまつかみななせ)」、「神世七代(かみよななよ)」ともいう。

  「大戸道尊と大戸麻邊尊」は、古事記では「意富斗能地神(おおとのじのかみ)と、大斗乃弁神(おおとのべのかみ)」と表記する。

  また、「大戸摩彦尊(おおとまひこのみこと)・大冨道尊(おおとむじのみこと)と、大戸之部尊(おおとのべのみこと)・大戸麻姫尊(おおとまひめのみこと)・大冨辺尊(おおとむべのみこと)・大苫辺尊(おおとまべのみこと)」、と表記するものもある。 

  古(いにしえ)、蘿嶽(城山)に、天地開闢時代に「大地」(おおと)を形づくったと目される尊大な二神が降臨されたのである。
  上記(2)の説のように、これ故に「尾降」(おさがり)というだと考える方が「尾降神社」の名称の由来としてはしっくりする。
  なお、拾遺は、「蘿岳より此山の南の尾に降臨し」と記しているが、「尾」には「山」そのものをいう意味もある。

  かつ、蘿嶽(城山)には、かつて、同じく蘿ヶ嶽城の築城時に麓の陵厳寺に降りた「蘿神社」が鎮座していたが、その祭神は、「神世七代」の第七神伊弉諾命と伊弉册命」である。

  実は、蘿嶽(城山)の下、東方寄り3kmほどのところに、宗像地方最古の社と目され崇敬されている「八所宮」(宗像市吉留)が鎮座しているが、この「八所宮」は、昔、蘿嶽(城山)鎮座の上記二社の神々を含む「神世七代のうち四代の神々」(八柱)を祀っている。

  因みに、八所宮の祭神名は、神世七代第三神「泥土煮尊と沙土煮尊」(宇比地邇神ういじにのかみ・須比智邇神すいじにのかみ)、同第五神「大戸道尊と大戸辺尊」(尾降神社と同神)、同第六神「面足尊と綾かしこね尊」(淤母陀琉神おもだるのかみ・阿夜訶志古泥神あやかしこねのかみ)、同第七神「伊弉諾命と伊弉册命」(蘿神社と同神)である。

  ひょっとしたら、霊山であった蘿嶽(城山)と八所宮を含む周辺(旧赤間町)一帯は、国土生成の神・伊弉諾命と伊弉册命、及びその前の神々がなした国土経営の活躍の舞台であったのかもしれない。

  因みに、神武天皇が東遷の砌、出現した「赤馬」乗馬の神に鶺鴒山(せきれいさん)の麓にある「御手洗池」(清水池・釣川源流の一つか)の辺に案内されたという八所宮創建伝承、及び「赤間」の地名由来伝承は、赤間一帯が神世数代の舞台だったことを暗示しているようにも思える。

 ※つづく→「尾降神社宗像氏貞の不敬」。

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2013年06月26日

尾降神社〔震樵宮説(宗像市三郎丸)

85尾降神社  前回「三郎丸と翁神社∈0羮(宗像市三郎丸)」のなかで、城山、城ヶ谷等の(団地)名は、(かつて三郎丸に、宗像氏貞居城の城山(蘿ヶ岳城)があり、城山の麓に降った「尾降神社」も鎮座しており)、この城山から名付けたものではないかと記した。

  「尾降(おさがり)神社」は、三郎丸地区全体の産神(氏神)とされているので、三郎丸散策記を記す上では避けて通れないと思い、ここで触れておくことにした。

  三郎丸地区の中心部は、道路整備や住宅開発、また、住居標示も「○丁目○番○号」に整備されているところが多く、昔の面影が残るところが少なくなりつつある。
  だが、幸いなことに、「尾降神社」(宗像市三郎丸字一ノ構(口)276)が鎮座している付近は、若干旧態を留めている。

  「尾降神社」から5分ほど上ったところに城山(蘿嶽=蘿ヶ嶽/標高369.3m)の西登山口(三郎丸登山口)があるが、「尾降神社」には、この城山(蘿嶽)にあった神社を、その麓に移したとき、神々がお降りになられたので、「おさがり(尾降神社)」の名が付いたという由緒がある。

  それは、神社誌にいう「社説に曰く、古蘿嶽に祭祀せられしを永禄年間宗像大宮司氏貞卿居城修築の際不敬を恐れ蘿嶽の山の尾に移し祀る、依て尾降宮と云ふ。其地を古尾降と云へり。後元禄の頃祭祀上不便の為め、復現在の地に移し祀る。」という由緒である。

  宗像伝説風土記は、「蘿ヶ岳城(城山)に宗像大宮司家の城があったころは、城内にも神社があったが、落城後は三郎丸にお降りになって、尾降(おさがり)神社と呼ばれている」と、尾降神社命名の時期は築城時でなく、落城後と記している。

  なお、筑前國續風土記附録にいたっては、「社家の説に、永禄の比宗像氏貞初て祭れりとそ。其頃ハ蘿嶽の麓三本松といふ所にありしか、元禄年中村民今の地に移しぬ。」とある。

  だが、これらの説では、「尾降神社」(尾降宮、尾降社)と命名される以前の神社名が分からず、異説もある。

  つまり、尾降神社という名は、宗像大宮司氏貞が蘿ヶ岳居城を築城の際(或は落城後)に蘿嶽の山の尾に移し祀ったことによる命名ではなく、それより遥かに古く、昔、神々が蘿嶽の山の尾に降臨されたことによる命名だというのである。
  (※「尾」には「山」全体を指す意味もある)。

  このことは、筑前國續風土記拾遺に、「里民云、往昔蘿岳より此山の南の尾に降臨し給ひしに依て、此處にを建て尾降社と云。今其所を古尾下といふ。本社より五町斗に在。其後永禄のころ大宮司氏貞白山城を去て、蘿岳に移られしとき、此山の麓三本松といふ所に迁座ありしか、蘿岳没落の後産徒の老若参詣の便宜あししとて、元禄のころまた今の所に移して産霊と齋祀れり。祭日九月十九日吉留村位賀氏奉祀す。」と記されている。

  命名説は諸説あり、どれが正しいのか分からないが、いずれにしろ、「尾降神社」が元から現在地に鎮座していたのではないことだけは確かで、当初の元宮は、蘿嶽の某所(頂上含む)、或は蘿岳の南の尾・古尾下(本社より五町斗)に在ったことになりそうだ。

  次に、宗像氏貞が蘿岳に居城を構築したという永禄年間(1558~1569)に、蘿嶽の山の尾・古尾降、或は三本松に移し、元禄(1688~1703)の頃現在地に遷宮したことになる。
  ただし、現在、元宮や前鎮座地の場所云々に関する話は聞いたことがない。

  しかるに、「尾降神社」が、元からここにあったのではないことは分かったが、拝殿前で合掌して参拝しているとき、時々、城山(蘿嶽)の尾根を吹き抜けて降りてこられる神々を感じることがある。
  神々は、今もこの山の何処かに鎮座しておられ、必要に応じて当地に降りてこられるのだとしたら、当地もまた神々を感じることのできる隠れたパワースポットなのかもしれない。

  なお、「尾降神社」の読み方は「おさがり神社」だが、ついつい「おぶり神社」、「おおり神社」、「おくだり神社」などと言ってしまう。

 ※つづく→「尾降神社⊃誓ぜ径紊梁荼淇(宗像市三郎丸)」。 

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2013年06月23日

室津公民館前の「力石」(下関市豊浦町室津下)

4力石 前回「室津湊の「甲山古墳群」など」からつづく

 「室津公民館」に立ち寄ったとき、玄関前に一個の丸みのある「力石」が置いてあるのに気付いた。



 説明文を読むと、「昔、大敷漁業が盛んであった頃、力石と称するものあり。準備作業の合間などに、若衆達が、寄り集まっては力を競いあったそうです。この石は、大小二個あった内の大きい方(二十四貫 89kg)です。」とあった。

 「大小二個あった内の大きい方」というと、では、もう一つの「小さい方」は残っているのだろうかと思い、後で公民館の職員に尋ねてみたが、分からなかった。
 地元には分かる人もいるのだろうが、これ以上のことは尋ねなかった。

 「力石」については、以前、本ブログ「御霊神社にて⇒浬錣覆(篠栗町津波黒)」のなかに、「力石という丸石があった。重量は分からないが、手で押すと少し動く。だが、これを持ち上げる自信はなく、無理な挑戦はしなかった」と書いたことがある。

 この記事を読んだ人のなかに、「体育史学の立場から力石の研究」をしている「四日市大学健康科学研究室・高島愼助教授」がおられた。
 実は、このとき、学問的に「力石の研究」をしている先生がおられることを初めて知り、それまで「力石」については、「面白い」とか、興味本位にしか観ていなかっただけに、かなり驚いた。

 そのせいなのだろうか、今は、誰も目にも殆ど視野の外になっていたこの「室津公民館前の力石」にも、つい目が留まったのだろう。

 高島教授の「報告済み(力石)個数表」に、山口県の力石の数は、(83+4)=87個とあったので、多分そのなかに、この「力石」も含まれているのだろう、と思いながら当地を後にした。

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2013年06月22日

室津湊の「甲山古墳群」など(下関市豊浦町室津下)

1甲山古墳群上の鰯雲 ※左の画像は、甲山古墳群(西側)上にかかった鰯雲。

 川棚温泉の西方、車で20分ほど、響灘に面した室津湊にある知人の別荘に泊ってきた。
 (下関市豊浦町室津下)。


 室津海水浴場、室津ヨットハーバー(フィッシャリーナむろつ)や、海に突出した甲山など、海山の景色を楽しめる風光明媚な所で、別荘内に吹き込む自然の涼風もよろしく、夏のエアコンは不要、冬は別の意味で快適な床暖房にしているとか。

 上記の川棚温泉のほかにも、車で20分余のところに大河内温泉があり、立ち寄り湯の平田旅館「美人の湯」にも入ってきた。日本有数の含フッ素ラドン泉で肌あたり柔らかく美肌効果は抜群だという。

2古墳分布図  ところで、室津湊(湾)の北西部に、海に突出して甲山(標高117.4m)があり、その南東斜面(標高20~40m付近)には、96基の「甲山古墳群」と通称されている一大群集墳が密集している。
 (※画像は甲山古墳群分布図)



 一応、古墳の配列により5群に区分され、自然開口した数基の古墳以外は未調査だが、墳丘は、破壊されているものも含めて多分すべて円墳で、両袖、片袖、無袖のものもあり、羨道や前室を有しているものや無いものもあると考えられている。

3壷 一部採取された須恵器の壷(※画像)や宋の青磁の破片など(豊浦町教育委員会保管)もあり、築造は7世紀末〜8世紀初頭と推測されているが、もとより断定できることではない。

 室津湊は、甲山と青井の両半島に抱かれ美しい半円弧(3.5km)を描いているが、豊浦町の古墳の96%がこの周辺に集中しているという。


4室津半島遠景  室津湊(※半円弧を描く室津湊)から船で朝鮮半島と往来は容易なので、古代、新羅から渡来、往来した人々が室津湊に多く居住したと考えられ、新羅に係わる人たちがこれらの古墳も築造したのではないのかと思う。



5室津八幡 室津湊に広がる砂浜を「八ヶ浜(八ツ浜)」といい、また、境内に「本州最西端の鎮守」という石碑が立っている「室津八幡宮」(※画像)もあり、これらの数字の「八」からも、また「八幡神」を祭ったことからも、新羅の臭いが伺えないか。




室津八幡若宮社 室津八幡宮は、応永8年(1401)宇佐八幡宮から勧請し創建したといい、境内に若宮社が併設されているので宇佐八幡宮勧請との係わりは考えられるが、江戸〜明治時代に度々火災にあい古記録が全て焼失し正確な由緒は分からないようだ。
  


 なお、豊浦町には、八幡宮の祭神神功皇后伝承が色濃く残る「忌宮神社」(豊浦宮跡)があり、当社の祭礼の一つ数方庭(スホーテイ)は、新羅の鳥人塵輪に由来しているといい、当地方が新羅と係わる倭国九州王朝の東端であったとも考えられる。

 ところで、知人の案内で、甲山古墳群厳(西側部分)の見学に行ったが、滑りやすい急斜面の山麓に鬱蒼と繁った雑木や竹藪、雑草等が行く手を遮り、さらにはムカデや山ダニなどの害虫に出くわすなどもあるので、夏季に、低山に入るのはあまり勧められたものではない。

(※甲山古墳群のお勧めブログと画像紹介→古墳のお部屋ブログ館「甲山古墳群(その1)・(その2)」)。

 ※つづく→「室津公民館前の力石(下関市豊浦町室津下)」。

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2013年06月21日

松尾神社にて∪栂狂現(川棚温泉散策)

1松尾宮青龍絵馬 前回「松尾神社」からつづく。

 松尾神社(下関市豊浦町川棚湯町)の拝殿の真正面に「青龍」の絵馬が、デーンと掲げられていた。

 拝殿前に立った人は嫌でも、この「青龍」を見上げて合掌参拝することになる。


2松尾宮三十六歌 このほかには、彩色鮮やかな「三十六歌仙」の絵馬と「松尾神社四二〇年祭事業寄付者」が掲げてあった。

 松尾神社の祭神は、案内板の冒頭に、「御祭神 大山咋命 相殿伊弉諾命 伊弉册命」と記されている。


 だが、上記正面の「青龍」の絵馬を見上げていると、文末に「当社一名青龍権現と稱せし時もあり、温泉の源に住みし青龍を併せ祭ったとも云う」と記されている「青龍権現」が、今も主神であると思えた。

3松尾宮鳥居と参道 参道に唯一ある石鳥居(寛政十三年[1801]辛酉十二月吉日建立)に掲げてあるの額束の文字も「権現宮」のままである。

 つまり、当松尾神社は、今も、「青龍権現」を祭る「(青龍)権現宮」だとみてもよさそうだ。


 「青龍権現」とは、神仏習合のなかで、川棚温泉の仏法守護神「薬師如来」が、或は、同守護神「松尾大神」が、「青龍」という仮の姿を以って現れたもの、と解釈すればよいのだろう。
 境内参道にあった十三仏石像は、神仏習合の名残だと考えてもよいのだろうか(実は、刻像年代を観ておらず分からない)。

 また、同上案内板(昭和54年12月建立)には、「(京都)松尾神社より、天正年間に当所守護神として御分霊を勧請奉斎したもので、現在の社殿は萬治三年に再建したものである。当時、此の部落に疫病が流行して…当社に祈願、餅揚の儀式を以って萬年願として…奉ったところ、たちまち疫病が平定したので…以来三百年今日に至るまで毎年4月に餅揚げの奇祭を奉仕して」いるとの由緒が記されている。

 この文を読んでいて、文中の「当時」は、いつのことを指しているのかが分からず、案内板建立の昭和54年(1979)から300年溯ってみたら、まあまあ萬治三年(1660)に近い年数にはなったので、「当時」とは、現在の社殿を再建した頃のことかと思った。

 ところが、「川棚温泉の青龍伝説」(ネット)を読むと、此の地が疫病に襲われ平癒祈願が行われたのは応永年間(1394~1427)のことのようで、これではまったく上記年代とは合わない。

 しかし、このとき、当地で疫病退散祈願をした怡雲和尚の枕元に立った薬師如来が語った青龍伝説により掘り出された温泉が、現在に続く川棚温泉で、この温泉の湯で当時流行した疫病も平癒、以来、当地川棚温泉の守護神として青龍権現(松尾神社)を祭ったという。

 結局のところ、当松尾神社は、「天正年間(1573〜1591)に京都松尾神社から勧請した」以前から、当地に、青龍権現(松尾神社)として鎮座していたということになりそうだ。
 なお、川棚温泉の開湯時期については、寿永二年(1183)説もあるらしい。

 私は、京都松尾神社(松尾大社)については、平安以前に、宗像(福岡県宗像市)に鎮座した松尾神社を守護神とし、かつ龍神も尊んだと思う秦一族が、没落した倭国九州王朝の地から大挙して北上し、京都太秦、嵐山一帯を占拠し、洛西松尾山麓に松尾神社を創建したのではないかと思っている。

 秦一族が瀬戸内海と日本海に分かれて北上する途次に留まった各地に松尾神社を祭祀したとも考えており、以前から川棚の松尾神社もその類に属するのではないかと思っていた。
 つまり、もともと当地に祭祀され、その後忘れられていた松尾神社が、温泉の青龍権現伝説(龍神)となって蘇り、時代が下り、改めて天正年間に京都松尾神社から勧請したという考えはできないのだろうか。

 さらに、青龍伝説の蔭には、龍を尊んだ周王朝の血脈を引く姫氏(九州王朝倭国王)・松野連(松尾氏など…川棚にも松尾姓あり)の系譜や、出雲物部氏系譜(蘇我氏は龍の紋章を使った)なども脳裏で見え隠れした。

 今回は、時間に急かれるように松尾神社を後にしたが、またの機会があれば、再度訪れたいと思う。

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2013年06月19日

松尾神社にて(川棚温泉散策)

1481松尾宮  川棚温泉には、温泉の守り神「青龍権現」を祀るという「松尾神社」が鎮座している。
 (下関市豊浦町川棚湯町)。

 松尾神社の参道入口は、近代的建築の川棚温泉交流センター「川棚の杜」横の道路を挟んだ前にある。



松尾宮石段 ここから徒歩で石段と山道の参道を上ることになる。
 車で訪れたときは、通常、「川棚の杜」の横にある「杜の広場」に駐車して、上記表参道を歩く。

 車で、次のコースで、松尾神社の社殿の裏手まで上ることもできるらしい。
 つまり、妙青寺山門前の右側から妙青寺の裏山に回りこむ山道を上り、途中で左折(※右折道は国清山展望台に至る)、さらに進みT字路を左折(※右折道は貯水池に至る)する。

 今回は、もう一つある妙青寺本堂の左側に入口がある脇参道(山道)を歩いた。
 墓地入口前を右折、赤く染めた稲荷大明神の旗が並ぶ小道を、丁度妙青寺本堂の真裏付近まで登り、吉高稲荷社祠の前を素通りして左折、さらに暫く歩くと松尾神社の社殿前の広場に出る。

 この山道を歩きながら、前回「山頭火と川棚温泉」に記した漂白の俳人種田山頭火がこよなく愛した川棚温泉のこの山裾の一画に草庵を建てて冥土へと旅立ちたいと願い、果たせなかった鎮痛の想いを忍んでいた。

 ※つづく→「松尾神社にて∪栂狂現(川棚温泉散策)」。

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2013年06月18日

泣いて笑った「きっとうまくいく」(インド映画)

kitto_1_large 最近観た上映映画のなかでは、インド映画「きっとうまくいく」がダントツに面白かった。

 「きっとうまくいく」という題名を見たときは一瞬宗教映画かと思った。


 だが、なんのなんの泣いて笑ってのハラハラしどうしの奇想天外なコメディドラマだった。

 一流工科大学ICEが舞台で、傲慢な学長に追い詰められて自殺したり自殺未遂を起こす学生も出るが、主人公のランチョー(アーミル・カーン)は、追い詰められたときには、胸(心)に手を当てて、「(きっと)うまくいく」と念じる。

 成績優秀だけど、自由気ままで慣習にとらわれない奇想天外な行動をとるランチョーだが、それでも、何度も行き詰まり、落ち込むことがある。
 そんなときに、胸に手を当てて、呪いのようにこの言葉を心に吹き込んで行くと、なんとか切り抜けていく。
 言葉には霊力があるというけど、私たちもここうありたいものだ。

 「(きっと)うまくいく」は、ときには嘘も方便的に使われる。
 たとえば、死にかけた友人を助けるために呼びかける命がけの嘘、バレバレではあったが、そんな方便は受け入れられるだろう。
  
 しかし、ランチョーには、誰にも言えない秘密があり、大学卒業後、消息不明となった。
 10年後、そのランチョーの消息が分かり、探しあてる旅に出る二人の友と、かつての学業ライバル、さらに自分の結婚式の最中に式場を抜け出したかつての恋人(それが、学長の娘)らが、苦心惨憺の末に探し当てるミステリー的な展開、そして、最後の最後の番狂わせまでも、実にハラハラドキドキで楽しかった。

 ドラマは、軽快なリズムに乗って歌い踊るミュージカル的展開を含め、息も付かせぬ速いテンポで進んで行き、思わず身も心も躍りだすほどで、何度も笑い、何度も泣いたあっという間の3時間だった。

 さすが、さすが「インドで興行収入歴代ナンバーワンを記録」したコメディドラマというだけの感動巨編だった。

 ※画像は、映画comからお借りしました。

keitokuchin at 23:32|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2013年06月16日

族譜を重んじた韓国人・永川李氏族譜の知人

系譜 先日(6/5)、韓流スターのイ・ビョンホン(42)と同女優イ・ミンジョン(31)が8月に結婚式を挙げるとのニュースを見た。イ・ビョンホンのことは、テレビで映画「オールイン運命の愛」ほかを観ていたし、特に亡母が好きだったスターだったので知っていた。


 ところで、「韓国では今でも家柄がものをいうので、家柄のない彼は、彼女の家柄が欲しかったからだ」と言う人がいた。
 半信半疑で、「そんなものなのだろうか」と思いながら聞いていた。

 その後、韓国の某氏と会う機会があり、上記のことを話したら、即座に、「女性に族譜を云々する習慣はない」と拒否された。
 やはり、そうだったのかと思い直したが、「家柄ではなくて族譜というのですか」と聞き直した。

 日本で今どき「家柄」と言っても、どこまで通用するものか、また、どこまでそれが分かるものかも分からないが、韓国には、今もそれに類する「族譜」を大事にする考えが受け継がれているようで、「韓国人の族譜」という書籍もあると聞いた。

 朝鮮王朝を描いた韓流時代劇を見ていると、非常に身分制度・家系(族譜)にこだわる場面にも多々遭遇するが、この時代の制度が今も隠然として残っているということなのだろうか。
 朝鮮は、古代から何度も王朝が入れ替わってきたが、自国の歴史を誇りにしている民族なのだろう。

 こんな話を持ち込んだばかりに、某氏は、「実は、永川李氏第39代当主」であると明かされ、墨書の系図(族譜)を見せられた。

 世系表によると、永川李氏族譜は、始祖李文漢から始まる文漢系と一世祖李磚から始まる磚系があるが、氏は文漢系で、李克任(高麗官職:上将軍)から続く益陽君派…中祖李大栄(高麗官職:神虎衛大将軍)から得芬(高麗:典工判書)、文郷(高麗:保勝将軍)、松賢(高麗:版図判書)、治、釈之…と連なる南谷公派に当たるのだろうか。

 古代「新羅」の系統とも言われていたが、ひょんなことから、改めて現代に受け継がれてきた韓国(朝鮮)の歴史の重みを知らされた思いだった。

keitokuchin at 23:54|PermalinkComments(0)TrackBack(0)