2013年08月

2013年08月31日

宗像大社仮殿遷座祭の記事

  今日の毎日新聞記事で、昨夜(平成25.8.30)、宗像大社(辺津宮)の「御神体を本殿から仮殿に移す仮殿遷座祭」があったことを知った。
  「仮殿遷座祭」は、42年振りに本殿、拝殿等の大改修(屋根葺き替え、塗り直し、防災施設整備等)を行う「平成の大造営」の始まりの儀式である。
  祭典は、台風15号接近に刺激された秋雨前線の稲妻が光り雷鳴が轟く大雨の中で行われたのだろうと思うが、幸いなことにその後、台風は上陸することなく温帯低気圧に変化した。これも神威だったのかな。
  先月(7/14)に「宗像大社定期参拝」したとき、本殿右庭で仮殿の建設工事が始まっていたので、それから「仮殿遷座」までおよそ1ヵ月半かかったということだ。

  その際、立ち寄った社務所で「宗像大社平成ノ大造営奉賛金」のチラシを見て、あまり深く考えずに若干円納めた。
  その後で、「平成ノ大造営」の総工費は、沖津宮、中津宮の改修を含め19億円を見込まれていると知った。
  宗像の神々を崇敬する者として、今後も参拝のたびに御神縁と思い微々たる額でもできる限り奉納したいと思った。
  なお、「本殿遷座祭」は、来年(平成26年)末頃になるとのことだが、「平成ノ大造営」は平成33年(2021)まで続くという。

※つづく→「宗像大社辺津宮仮本殿(仮殿遷座)を参拝」。


keitokuchin at 20:05|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2013年08月30日

松崎観音堂と鎮関地蔵堂(宗像市陵厳寺)

松崎番外   前回の「松崎の天満神社」(天満宮)の150mほど東方に「松崎観音堂」(宗像市陵厳寺1-4)がある。
  この場所は、県道69号線「陵厳寺信号(県道75号交差)」の斜め下、JR鹿児島本線信号機踏切を渡る線路際(県道75号線沿)になる。

  この辺りは、蘿嶽(城山)の南陵線の末端部にあたり、蘿嶽に岳山城(蘿ヶ嶽城)があった頃は、重要な防御点でもあったと思われる。
  「松崎観音堂」は、附録・拾遺に「松崎養福庵」という寺跡とあるので、中世にはその防御拠点の一翼を担っていたのかもしれない。

  また、「松崎」の地名の由来は、松(松林)がある釣川の入江の崎(岬)ではないのかと思っている。拾遺には、観音堂に「大松あり」とあり、今はないが、江戸時代にはここに大松があったらしい。

  現在、「松崎観音堂」は、「宗像四国東部霊場礼拝所松崎(第)番外(番)本尊十一面観世音菩薩・千手観世音菩薩」となっている。
  霊場各堂宇等の本尊仏像は、明治期の廃仏毀釈等で失われたものも多く(推察)、当該仏像が現存しているかどうかは分からない。

地蔵堂  なお、上記「陵厳寺信号機」の横のセブンイレブンの右斜め後方(蘿神社下)には、「地蔵堂」がある。

  この「地蔵堂」は附録・拾遺に「地蔵堂(鎮関<チンセキ>在、長徳寺の寺跡)」とある「鎮関地蔵堂」か。

  なお、この「地蔵堂」は、「宗像四国東部霊場礼拝所」にはなっていない。(宗像市陵厳寺4-4)。

  附録・拾遺に記載のある陵厳寺地区(宗像全般でも)の堂宇(寺跡)で、所在不明のものが多いなかにあって、たとえ廃仏毀釈等で堂宇、本尊仏等が失われていても、今にその所在(再建復興含む)地が分かることは貴重だと思う。

 ※つづく→「蘿神社〜境内八社考(宗像市陵厳寺)」。

keitokuchin at 01:26|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2013年08月29日

松崎の天満神社(宗像市陵厳寺)

天満宮鳥居  前回の田久行脚後、田久6丁目(野鳥公園)から「田久橋」(釣川)を渡り、対岸(釣川右岸)の田園地帯の中を突っ切る農道を直進し、松崎集落(陵厳寺1丁目)の西端の右方向に松崎天満神社(天満宮)の小丘陵(天神山)がある。

(所在地は、宗像市陵厳寺1-3、[旧宗像市陵厳寺字松崎572])。

  なお、同上を右折せずに直進すると、すぐに松崎天満神社後方に回りこみ、JR鹿児島本線下のガード、及び県道69号線下のガードを潜り抜けて県道に上り、陵厳寺信号機(セブンイレブン赤間店=蘿神社の西下方)付近に至る。

天満宮石段  松崎天満神社は、福岡縣神社誌に載っていないが、筑前國續風土記附録に記載のある「〇天満宮(ムメガタニ)」のことではないかと思う。

  由緒は分からないが、祭神は天満大自在天神菅原神なので、延喜元年(901)菅原道真(菅公)が太宰府配流の途次に上陸したという伝説があったかも知れない。

  というのは、ここより少し下流にある「河東天満宮」(宗像市河東
1538)に、太宰府配流の折に時化に遭い、当地にあった自然石に舟を繋ぎ立ち寄ったという伝説があり、その船が釣川を松崎まで上ったとしてもよいからだ。
  当時は、この近くまで「釣川の入江」が広がっており、釣川を船が遡ることは容易で、松崎(松が生えていた岬)という地名からしても、この丘陵付近の崎(岸)に船を着けることができただろう。

  なお、釣川を上流まで遡ると、権現山の山裾に、永延2年(988)7月宗像大宮司氏能(うじよし)が建立したという「平山天満宮」(宗像市吉留)があり、宗像地方には古くから天満(菅公菅原天神)信仰があったようだ。

天満宮前庭  松崎天満神社の(天満宮)鳥居をくぐると、ブロック塀で囲まれた境内(丘陵下)の左側に藤棚がある。

  その下には、一部土に埋まった石造太鼓橋や岩があるので、かつて、ここに神池があったのだろう。

  その奥にあるコンクリート覆いの下は調整池なのだろうか。

  鳥居正面の急な石段を上ると、頂部に天満宮社祠が鎮座しているが、その近くには古墳の石を思わせるような岩石が散在しているので、或は、この丘陵は古墳であった可能性もなきにしや、とも思ったりもした。

 ※つづく→「松崎観音堂と鎮関地蔵堂(宗像市陵厳寺)」。

 ※前回→「田久瓜ヶ坂遺跡とガラス玉(宗像市田久)」。

keitokuchin at 02:12|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2013年08月28日

田久瓜ヶ坂遺跡とガラス玉(宗像市田久)

田久瓜ヶ坂遺跡(消滅)  前回書いた「上田久釈迦堂」の南東約400mの丘陵上に「赤間小学校」がある。

  その西側に、つい近年まで宗像族の創世記の首長墓ではないかとも推測されている古墳群等があった。

  「田久瓜ヶ坂遺跡」と呼称されているが、平成8~9年(1996~7)の発掘調査で、前方後円墳一基(全長32m、後円部に埋葬施設四基、4世紀前後頃)、円墳八基、石棺墓、石蓋土壙墓、土壙墓、中世の集石墓等の墳墓に加えて弥生時代後期の竪穴住居が確認された後、桜美台(大型住宅団地)宅地造成が始まり消滅した(※画像1)。

円筒棺  前方後円墳は、「田久瓜ヶ坂遺跡1号墳」といわれていた。
  その第三主体部にあった「円筒棺」(素焼き土器棺)は、大変珍しいもので、これまで全国で30ほどの発掘例があるが、九州では始めてという(※画像3)。

  ひょっとしたら、田久瓜ヶ坂遺跡1号墳が「円筒棺」墓制の発祥地であったかもしれないと思った。
  この「円筒棺」は、九州歴史資料館(小郡市)に保管されていると聞いている。

田久瓜ヶ坂1号墳模造  なお、現在、「赤間小学校」の南側の道路下の小公園(宗像市桜美台4)内に前方後円墳形をした土盛が作られている。
  これは、消滅した「田久瓜ヶ坂遺跡1号墳」のレプリカ(外形復元?)なのだろうか(※画像3)。

4号墳横穴と玉  また、古墳から「農工機具(鉄斧、鉄鋤先、鉄鑓カンナ、鉄刀子)、武器(鉄刀、鉄剣、鉄鏃)、馬具(ガラスやヒスイ製の玉類、杏葉、鐙)」などが出土したという。
 (※画像4は、4号墳円墳横穴石室と出土玉類)。

  昨日(平成25.8.27)の毎日新聞に、「文化財:古代ローマのガラス玉!? 同じ特徴 国内2例目出土 福岡・宗像の田久瓜ケ坂遺跡」の見出しで次の記事が載っていた。

  「福岡県宗像市は26日、同市田久の田久瓜ケ坂(たくうりがさか)遺跡の円墳6世紀中ごろ)から出土したガラス玉(直径5ミリ)を分析した結果、古代ローマ帝国領内で製造されたローマガラスの特徴を持つことが分かったと発表した。
  玉の内部が内外2層で構成される重層ガラスで、層内に金箔(きんぱく)が施されている。国内での出土は京都府長岡京市の宇津久志(うつくし)1号墳に次いで2例目。九州では初。
  1996〜97年に出土した遺物を、宗像市が奈良文化財研究所(奈良市)に分析を依頼。蛍光エックス線分析で、ローマの支配下にあったエジプトなどで採取された特殊な鉱物「ナトロン」が使われていると判明した。また、透明度を高めるための添加物質もローマガラスの特徴と一致した。
  金層ガラス玉は馬具や鉄刀と共に石室に埋納されていた。分析した同研究所の田村朋美研究員は「紀元前後から4世紀ごろまでに製造されたガラス玉と思われる。陸や海のシルクロードなど当時の交易を知るうえで貴重だ」と話している。[山下誠吾]」(原文のまま転記)。

  この記事を読んでいて、紀元前後から4世紀頃に古代ローマ帝国領内で製造されたガラス玉が、遥かに時代が下った6世紀中頃の円墳から発掘されたということには違和感があった。
  つまり、この円墳を6世紀中頃のものとした根拠が分からないが、このようなピカ一超古のガラス玉を出土した古墳であれば、古墳の造成時期はもっと古いのではないかと思う。

  宗像市は、現在、ユネスコ世界遺産暫定リスト「宗像・沖ノ島と関連遺跡群」を喧伝し、残存している新原・奴山古墳群などに重きをおいてヤマト王権(倭)との結び付きを強調しているが、その半面で宗像氏・宗像族創世記を偲ばせる田久瓜ヶ坂遺跡古墳など、それに類する多くの遺跡古墳群が消滅している。

  宗像地方は、古くから海の玄関口として開けたが、大陸交易等は、新原・奴山などの津屋崎〜勝浦入海に面した地区のみではなく、釣川に面した牟田尻から、田久など釣川上流入江に至る地区にまで広がっていたはずで、この流域にヤマト王権と係わらない古墳等が多く作られた。

  蛇足すると、上記リストは、「4世紀後半~9世紀に宗像氏がヤマト王権(倭)とのコンセプトで沖ノ島で国家的祭祀を行った」としているが、ヤマト王権が確立したのは7世紀後半と見ており、倭国の「倭の五王」に該当する人物は、ヤマト王権(天皇)にはおらず、「ヤマト王権(倭)」という書き方にも違和感を持っている。
  ヤマト王権確立以前の祭祀は、宗像氏(宗像三女神)をヤマト王権と結び付けて考える必要はなく、少なくとも九州王権(倭国)若しくは宗像氏独自のものであったと考えた方が分かりやすい。

※つづく→「松崎の天満神社(宗像市陵厳寺)」。

keitokuchin at 02:47|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2013年08月26日

田久の釈迦堂二宇と薬師堂(宗像市田久)=宗像四国東部霊場

50上田久釈迦堂(※左の画像は、 上田久釈迦堂)。

 前回、「蘿神社でもカノコユリを観た」ことを書き、宗像市陵厳寺での散策記に戻ろうとしたら、知人から「田久にある古堂三宇について触れてない」と言われた。


 忘れていたわけではなく、この三堂宇が筑前國續風土記附録や同拾遺に載っていないので、敢えて触れるのを避けていたのだが、ついては、今回、下記しておく。

  田久の三堂宇は、(新)「宗像四国東部霊場札所」になっている。
  「第五十番(上田久釈迦堂)本尊釈迦如来」
    (宗像市田久6―7―26)。
  「第三番(田久名ノ浦寺山釈迦堂)本尊釈迦如来」
    (田久5―22―1)。
  「第四十番(田久鍵薬師堂)本尊薬師如来」
    (田久1―2―5)。

 この宗像四国東部霊場札所の三堂宇は、いずれも附録や同拾遺には記載がなく、設置時期や由緒など不明、また、立地場所が古墳状の丘陵にあるなどの共通点がある。

  上田久釈迦堂は、田久橋(釣川橋脚)・田久野鳥公園の眼前(南)に見える丘陵上にある。
  参道は、丘陵下の民家の路地(私道)→同玄関前庭の左にある石段道で、上り詰めた右側に釈迦堂がある(※上の画像)。
  石段の途中左の空き地に小石仏(9体)や先祖供養碑、釈迦堂右横の土盛り上に小石祠がある。
  足元の路面等には赤土が露出しており、雨の日等には随所で赤土が流出している。

3名ノ浦寺山釈迦堂参道 田久名ノ浦寺山釈迦堂は、田久公民館(田久若八幡宮鳥居の手前にある)・特別養護老人ホームあかまから、その前を通っている主要里道の向かい側に見える丘陵の上にある。

 参道は、特養ホームあかま後方(東端)から道路を渡り路地に入り、すぐ右折した先にある土留め石段道(※中上の画像)で、上り詰めた右側に釈迦堂がある。




3名ノ浦寺山釈迦堂森 なお、特養ホームあかまと田久公民館の前の四ツ角を渡り、田久5丁目団地入り口の坂道を上り、すぐ左折したところにある田久南公園内(ブランコあり)を通り抜けると、上記土留め石段の途中に出ることもできる(※中下の画像)。




 釈迦堂前には、13体石仏や井戸、墓石2本、手水鉢などもあり、また、田久名ノ浦寺山の旧地名から、この丘陵には、かつて寺があったのではないか思うが、附録・拾遺等には田久名ノ浦寺山の記載もない。

 田久鍵薬師堂は、ゆめタウンの西側(食堂)入口(コミュニティバス乗り場あり)から県道401号宗像若宮線(鍵端手前)を挟んで向かい側に見える右側の丘陵のなかにある(道路沿いに住宅あり)。

40鍵薬師堂 参道は、県道→住宅地路地に入り、少し進んで左折、急坂を上り、途中、民家の先を右折したところにある横路(タマツゲ植え込みあり)で、その奥の階段を上った右側に建っているお堂が薬師堂である(※下の画像)。


 

 薬師堂の扉の上に、「心願や自在の春に花咲きて浮世のがれて住むやけだもの」と読める「四国八十八ヶ所霊場第四十番札所平城山薬師院観自在寺」の御詠歌が掲げてあり、堂前には弘法大師坐像(石像)、手前の左上側の斜面に小石祠がある。

 なお、平城山薬師院観自在寺(真言宗大覚寺派)は、愛媛県南宇和郡愛南町御荘平城にあり、大同2年(807)、平城天皇の勅命により空海(弘法大師)が開創し、1本の霊木で彫造した本尊薬師如来と脇侍阿弥陀如来・十一面観音菩薩像を安置、残り霊木に「南無阿彌陀佛」と彫り厄除け祈願をしたとの伝承がある。
 ということは、時期が分からないが、田久鍵薬師堂は、厄除け祈願堂として四国・観自在寺から当地に勧請、宗像四国東部霊場開設時に四国第四十番に合わせて、同じ第四十番札所としたものなのだろう。

 因みに、当地の北側は釣川に面しており(ゆめタウン前の県道に鍵橋あり)、この辺りにかつてあった釣川の入江の船着場があったと考えられるので、前に記した「舟宮(船宮)明神社」(鍵在)も、かつてこの周辺に鎮座していたのではないかと思う。

 田久地区内は、これまで数度行脚したことがあるが、大型宅造開発がめまぐるしく広範囲に渡って行われたので、かなりの範囲で旧状が分からなくなっている。
 残念なことに、附録・拾遺等に記載のある下記堂宇や田久城跡などは消滅したのか見つけることができなかった。
 上記三堂宇は幸いなことに残っている(今後、どうなるかは分からない)が、浅学で旧字名の場所を知らず、三堂宇が附録・拾遺記載の堂宇と重なるものがあるのかについての判断もできない。

※附録・拾遺の記事を下記に転載する。
 [附録]〇阿彌陀堂二宇(イマイシ・カギ)
  〇大日堂(ドウノウラ)
  〇彌勒堂(ミズタニ)
  〇観音堂二宇(イウゼン・タイセンドウ)。
 [拾遺]〇観音堂(大船頭) 古佛の大像なり。また古佛の長五尺四寸の坐像あり。朽損して佛名詳ならず。恰も吉留村長寶寺の像に似たり。此佛はしめは此村の内松か浦といふ所に在しといふ。
  〇大日堂(堂浦) 大日薬師観音を安置す。

※つづく→「田久瓜ヶ坂遺跡とガラス玉(宗像市田久)」。

keitokuchin at 01:30|PermalinkComments(0)

2013年08月24日

永井龍雲さんがゲストライブ

永井龍雲20130823  昨夜、久しぶりに出席した会合で、会も終わりに近くなった頃、突然、司会者(西川友紀子さん)が、現在、沖縄から全国で演奏活動を続けている永井龍雲(りゅううん)さんが来てくれたことを告げた。

  まさかと思ったが、会の半被を着て、ギターを抱えて舞台に上がってきたのは、まさに永井龍雲さんだった。(※画像)。

  そして、永井龍雲さんがギターを弾きながら歌ってくれた曲は、
1979(S54年)の大ヒット曲「道標ない旅(しるべないみち)」だった。

  少し酔いが回っていた頃だったが、永井龍雲さんの情感ある歌声は、はっきり聞き取れた。生演奏を、まさか聴けるなど予想もしておらず、心の準備もできてなかったが、やはり、生演奏は素晴らしい。
  永井龍雲さんの歌は、どの歌もほろ酔い加減で聴くようなものではないが、ここで演奏してくれた「道標ない旅」の一曲だけで充分に感動した。

 ※You Tube→「道標ない旅/永井龍雲」。


keitokuchin at 01:21|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2013年08月21日

蘿神社でもカノコユリを観た(宗像市陵厳寺)

蘿前カノコユリ2 今年(2013)8月上旬、蘿(つた)神社(宗像市陵厳寺3-4)を参拝したとき、木立のなかに咲いているカノコユリの花に気付いた(※画像上)。
 (※6月末参拝時には、カノコユリがあるに気付いていなかった)。

 そこは、とりわけ日当たりの良い場所ではないせいか、地面を這いつくばるようにカノコユリの茎が伸びて、低い位置で、1本の茎に8輪(1輪散花)の美しい斑点のあるユリの花を咲かせていた。

 これまで蘿神社でカノコユリを観たことはなく、この1本以外には咲いていなかったので、以前、氏子の方がここに植えた種か球根のうち一本だけが伸びたものかもしれない。

 実は、これまで群生しているカノコユリの花を観たことがなく、心無い参拝者(?)に花をちぎられたりしているのではないかと思ったりもしていたが、絶滅危惧種なのでもともと育ちにくい花なのかもしれない。
 それだけに、ここでも散花後に種ができて、群生してほしいものだと思った。

蘿前カノコユリ1  また、この日、蘿神社の表参道の鳥居横にある民家の外庭(外壁の下)でも、カノコユリの花を観た。ここのカノコユリは、背丈が高く、住人が日当たりの良い場所に植えて育てたのだと思う。(※画像下)。

 ここは参道からよく観える場所なので、あわせて参拝者の眼を楽しませてくれると思う。

 今夏、宗像市の花であるカノコユリを観たのは、医王寺山門前(7/14)に次いで2回目だが、今年の極暑の最中に、汗をかきながら行脚しているとき、とりわけ美しいこの花を目にすると、思わず足を止め、ほっと一息し心が癒され元気がでる。

※つづく→「田久の釈迦堂二宇と薬師堂(宗像市田久)」。
※前回→「田久の若八幡宮と舟宮、船頭社ほかの境内社(宗像市田久)」。
 →「田永宮と石松但馬守尚李碑E脹糞(宗像市陵厳寺)」。

次回→「蘿神社〜境内八社考(宗像市陵厳寺)」。
 →「蘿神社の由来と祭神(宗像市陵厳寺)」。
 →「蘿神社〜ヒカゲノカズラ・石松など(宗像市陵厳寺)」。

keitokuchin at 23:42|PermalinkComments(2)TrackBack(0)

2013年08月20日

情熱大陸の華原朋美さん〜20%引きの買い物など

華原朋美201304  8/19「情熱大陸」に華原朋美さんが出ていた。
  当初、また彼女の7年振り復活劇の話題かと思い、もう(観なくて)いいか、と思った。
  だが、今の華原朋美さんは、この話題を抜きには語れないか、と思い直した。
  そして、「情熱大陸」だから、「…違った視点からきっとドキュメントしたのだろう」と思ったり。

  結局チャンネルを開いて観ていた。要するに、理屈ぬきに、華原朋美さんのファンとして観たかっただけのこと。

  彼女と同じように精神的に谷底に落ちた人たちを知っているが、もがいているときに、いくら救いの手を差し伸べても通用せず、ただ、はらはらしながら見守るだけだった。なかには、悲しい結末を迎えてしまった人もいたが、立ち直った人もいる。
  華原朋美さんは、立ち直ったのだから素晴らしい。

  画面に、一人暮らしで、スーパーで割安の品を買い物している華原朋美さんの様子が映し出された。
  「20%引きだって…」
  「20%引いても味そんなに変わんないすもんね」
  かつてのお嬢様が、今の生活レベルに切り替えた生き方をしようとしている様子が伺え、共感するものがあった。
  そして、品を手に取るときの彼女の飾り気のない笑顔はいいね。

  たった一人で、時間貸し音楽スタジオの一番小さな部屋でボイストレーニングに励んでいる姿が映し出された。
  確かに、こんな「こそ練習」など、かつての歌姫・華原朋美にはなかったことだろう。
  彼女の音域の広がりは、努力の賜物でもあり、這い上がった者の心の喜びの結晶でもあるのだろう。

  音楽プロデューサー武部聰志氏は、「(華原朋美さんの)声がふくよかに豊かになった。子供ぽいキンキンした声ではなくて高い方の音でも太い声でワーッと出せるようになった」という。
  確かだ。武部聰志氏のプロデュウスを受けるなど素晴らしい。
  これからは幅広い層に好かれる歌手になると信じる。

  グラビアモデルとして、アーティスト清川あさみさんが手がけたグラビアページに載った写真(講談社FRAU8月号掲載)も映し出された。彼女には「流木のイメージがある」という。
  流されても打たれ強いということか。誘いがあれば、なんでも挑戦する姿は、彼女の必至さが伝わる。

  売れない新人歌手のようにドサ回りしている姿も映し出された。
  薬に溺れた過去の人として忘れ去られても仕方がないのだろうが、ファンは、努力している彼女を見捨ててはいない。
  どんな田舎の会場でも、多くの人が集まり、来訪者は彼女の笑顔に励まされる。

  「私結婚できますかねえ」。
  と口にした華原朋美さん、もう39歳(?)だという。そういえば、彼女は1974年8月17日生まれ、39歳になったばかりだ。
  夢があっていい。再び、「夢やぶれて」にならないようね。
  赤裸々な今の華原朋美さんの姿が映し出されて、さすが「情熱大陸」、観て良かった。

 ※前回→「華原朋美さんのライブモンスター観た」。

keitokuchin at 01:48|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2013年08月18日

「レ・ミゼラブル」綿引さやかさんのエポニーヌ良かった

綿引さやかエポニーヌ  博多座で、ミュージカル「レ・ミゼラブル」を観てきた。
  綿引さやかさんのエポニーヌを観たくて、その出演日を選んでいた。
  綿引さやかさんの演技を観るのは初めてのことだったが、期待していた以上に素晴らしかった。

  子供時代の幸・不幸との投影で描かれるコゼットとエポニーヌだが、その二人が成人してマリウス(原田優一)に恋をする。
  コゼット(磯貝レイナ)の夢溢れる「ブリュメ街」に対して、エポニーヌの「オン・マイ・オウン」は切実、その「オン・マイ・オウン」を歌う綿引さやかさんの透き通る声が心に響いた。
  「…暖かい家も あたしどこにもない…」、思わず身を乗り出しそうになるほど魅せられた。

 切実といえば、第一部の主役ファンテーヌもそうだが、前(オリジナル版)より強い心痛を覚えさせるような歌い方に変った里アンナさん(ファンテーヌ)の情感溢れる「夢やぶれて」を聴くこともできたので満足だった。

  新演出「レ・ミゼラブル」は、前より簡素化されすぎと思う部分もあったが、映像などを巧みに取り入れて分かりやすかった。
  カーテンコールには、満席の観客の全員が立ち上がって手拍子、何度も全出演者が舞台に出てきて謝礼するなど盛り上がった。
  (この日の観客は圧倒的に若い女性が多かった)。

  その他のキャストは、吉原光夫(ジャン・バルジャン)、川口竜也(ジャベール)、萬谷法英(テナルディエ)、浦嶋りんこ(マダム・テナルディエ)、野島直人(アンジュルラス)、加藤清史郎(カブローシェ)など。

 ※参照→「綿引さやかさん出演日を予約(レ・ミゼラブル/博多座)」。

keitokuchin at 16:09|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2013年08月17日

「風立ちぬ」〜夢と現実の描写が美しかった

  朝一番で「風たちぬ」(宮崎駿スタジオジブリ)上映館に行った。

風立ちぬ1  観客のなかには、小学生の子供たちの姿も多かったが、観ていて、時代背景をよく理解していないと、子供には理解し難いのじゃないかなと思った。それにマッチを擦ってタバコに火をつけたり、キスシーンも多く、これは大人のアニメだ。

  それでも、飛行機に魅せられた少年〜青年堀越二郎が、夢の世界に入って行っては、イタリアの航空機設計者ジャン・カプローニ伯爵と会い、アニメでないと描けない現実離れした飛行機に乗ったりする場面は楽しかったかな。

再開  関東大震災のなかで出会った里見菜穂子と再会、彼女が結核(当時は不治の病だった)に侵されていると分かっていながら結婚。
  女の一番美しいほんのひと時だけを共に暮らす。

  ロマンチックだが、悲しくてせつない、人生には、このような必然とも思えるような出会いと別れがあるものだ。

  最後にまた夢のなかにジャン・カプローニ伯爵が現れ二郎に問う。
  「君の10年はどうだったかね」。
  二郎が、この歳月、精魂こめて完成した零式戦闘機の美しい編隊が上空を飛ぶ。「…一機も戻ってきませんでした」。

風立ちぬ2  そこに、白いパラソルを持った菜穂子が草原の中を歩いてくる。
  「あなた、生きて」。
  風が吹き、風とともに立ち去ったかのように菜穂子の姿が消える。

  「ありがとう…」

  エンディングに荒井由実(ユーミン)の「ひこうき雲」が流れる。
  「…空に憧れて、空をかけてゆく、あの子の命は、ひこうき雲…」。

  37年前にアルファスタジオで録音された、まだ当時無名の高校生だった彼女が歌った「ひこうき雲」が、まるでこのアニメ映画「風立ちぬ」のために作られたのかと思うほどストーリーにマッチしていた。
  不思議なことがあるものだと思った。

  涙が溢れ出るような場面はなかったけど、戦前戦中の悲しい軍国時代を生きた日本の航空機設計者の目まぐるしい夢と現実の人生が、30曲のメロディに乗って美しく描写され、瞬く間に時間が過ぎた感じだった。

 ※リンク→「風立ちぬ (2013年の映画)」。
 ※→「風立ちぬ (宮崎駿の漫画)」。  

keitokuchin at 02:13|PermalinkComments(0)