2013年09月

2013年09月24日

蘿神社〜ヒカゲノカズラ・石松など(宗像市陵厳寺)

  前回「蘿神社の由来と祭神」からつづく。

  蘿神社(宗像市陵厳寺4-4)の「蘿」は、「ツタノ」又は「ツタ」と読むが、「蘿」の字には「カゲ」という読み方もある。
  また、「蘿」は「ヒカゲノカズラ」」(日陰・日蔭の蔓・鬘/(日陰草)の古名だといい、蔓=蘿=ヒカゲノカズラなのだろうか。ただし、蘿は、日当たりの良いところに生えているはずなので、ヒカゲ(日陰)に繁っている蔓(カズラ)の様は想像しがたい。

  最近、「蘿神社の蘿の字はアメノウズメも天の岩戸で舞い踊った際身につけたヒカゲノカズラを意味するそうですが、そのヒカゲノカズラの漢名が石松ですね。陵厳寺の石松浦はそれと関係しているのでしょう。」というコメントを頂いた。
 
  確かに、蘿=カゲノカズラの古名で、そのヒカゲノカズラの黄色の「胞子」を「石松子(せきしょうし)」というので、蘿(ヒカゲノカズラ)=石松なのかもしれない。陵厳寺に蘿神社があり、かつて蘿嶽城があったので、この蘿と石松を結びつけて、蘿から石松姓が出たと想像したものなのだろうか。

  因みに永禄3年(1560)に宗像大宮司氏貞が「赤馬山」の「赤馬山(古)城」を大修築して「蘿ヶ嶽城」とし、そのとき「赤馬山」から遷した神社を「蘿神社」としたことは前述したが、石松氏一族は、宗像大宮司氏貞の宗像入城以前から陵厳寺(石松浦)周辺地区一帯に居住した宗像大宮司家譜代の家臣団である。
  つまり、「赤馬山」を「蘿嶽」といった時期、また、蘿神社は赤馬山頂に鎮座していたときから蘿神社の名だったのか、それらが分からないと、一概に蘿神社の蘿から石松姓が出たともいいがたい。

  私は、蘿神社で「ヒカゲノカズラ」を見た記憶がなく、石松姓について別のことを想像し、想像故にその由来に触れることを避けていた(後述予定)。なお、前に記した「石松氏の始祖は志波(斯波)氏なのか」にはまったく執着していない。

  しかるに、蘿は、確かにアメノウズメ以来、今も新嘗祭(にいなめさい)などの宮中行事で使われているようなので、蘿嶽、蘿神社などの蘿の名が古代から当地に存在していたのであれば、当地一帯は、前回記した神世七代のうち四代の神々が鎮座ましますところであり、国土経営、国土生成の神々の舞台であった様相が深いものになる。

  宮中行事は、古代物部氏の神事を継承しているとの説もあり、蘿=ヒカゲノカズラ(日陰蔓)の日陰は物陰であり、蘿には、日向(ひなた)から日陰(物陰)に回った物部氏の存在も意識される。もしそうであれば当地に住した物部氏一族の系譜が蘿神社(八所宮含む)を奉祭したとも想像される。

  また、蘿神社には、伊弉諾命・伊弉册命とは別に須佐之男尊(素盞鳴命)が祭神(かつては相殿に祇園神として祭神)されていることからも物部氏との係わりが推測される。隣接の赤間地区には須賀神社、武丸地区には武守神社などもある。

 ※つづく→「正見行脚田永宮で供養勤行((宗像市陵厳寺)」。

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2013年09月19日

マドンナ青山倫子さん

黄桜  最近観た「黄桜」CMには、笛木優子さんが出ていたけど、青山倫子さんは降りたのかな。
  青山倫子さんの「夫婦を、味わう」は、思わずうっとりさせられるような和服女性の魅力的なCMだった。あこがれのCMマドンナだね。

  青山倫子さん出演のTVドラマは、時々チェックして観ているが、このところ毎月で忙しい。もっとも、おりんの殺陣はないけど。

  因みに前回の金曜プレステージ「浅見光彦シリーズ48 幻香」(中村俊介、原田夏希)では女性調香師美奈子役、あわや犯人か、まさか、と思ったりしたが、いつかマドンナで出てほしいものだ。
  なお、次回の土曜ワイド劇場「人類学者・岬久美子の殺人鑑定4」(2013.9.2テレビ朝日/大塚寧々主演)に小泉理恵(偽者?)役で出演するらしい。いつものことながら一寸期待。


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2013年09月18日

華原朋美さん、第26回東寺音舞台に出演

  TV(毎日放送)を観ていて、9/14(2013)にあった「第26回東寺音舞台」(京都市)野外音楽イベントに華原朋美さん(39)が出演したことを知った。

  華原朋美さんは、歌唱した3曲のうち、「I believeとI’m proud-2013 Orchestra Ver.-はこれからの人生も一緒に歩んでいく曲。夢やぶれて〜I DREAMED A DREAM-は絶望の歌で、自分と重なる部分があると改めて思いました」と語っていた。

  それにしても復帰(昨年12月)早々に伝統ある京都の名刹東寺の音舞台のステージに立つなど素晴らしいことだと思う。

  何度も京都を訪れているが、東寺には一度しかいったことがない。それでも金堂や五重塔などの伽藍や拝観した仏像などが記憶に残っている。
  この世界遺産の寺の伽藍、仏像をライトアップして、その前のステージに立った華原朋美さんは、きっと自分が今、元気に生きていることを仏に感謝し、これからの人生についての決意を仏に誓って歌ったのだろう。

  いったん壊れかけた夢でも、望みを捨てずに再起の努力すれば叶うことだってある。いつもそう思って、心で華原朋美さんを応援している。

華原朋美東寺  字幕に、上記イベントの模様は、10月14日AM9:55〜10:50(一部地域では放送時間が異なる)、「東寺音舞台〜秘密の扉が開くとき〜」( TBS系)で放送すると出ていたので、早速カレンダーに記した。

※画像ソースは、デイリースポーツonline

※前回参照→「情熱大陸の華原朋美さん〜20%引きの買い物など」。

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2013年09月10日

録画「花のあと」(北川景子)を観ていた

北川景子 花のあと  今日は、録画していたプレミアムシネマ「花のあと」(2009)を観ていた。
  
  かなりテンポの遅い映画だったと記憶していたが、やはりそうだった。

  会話も少なく、目の動きや表情で演技する場面も多く、それで観る人たちを飽きさせずに惹き付けるのってやはり難しいよね。

北川景子 花のあと2  当時、北川景子さんは美しいけど、時代劇向きではないと思っていたが、今回見直したら、髪形から着物もよく似合っていた。
  また、髪を解き道着での「たて」も良かった。
  
  筋書きは、そんなに複雑ではないが、桜と人の生き様を重ねたのだろうか。満開の桜(ソメイヨシノ)の花は美しいが、散り際はいさぎよく、はかない。
  それだけに、桜の花は、観る人全員が好きな花とはいえないが、以登(北川景子さん)と片桐才助(甲本雅裕さん)が連れ立って歩くエンディングの桜並木の映像は、一青窈さんの「花のあと ♪」の曲と相まって美しかった。

  そして、最後の花見で初めて見せた以登のほのかな笑顔が、その後の幸せを暗示しているようで、観ていて気持ちだけでも幸せになれそうだった。




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2013年09月06日

蘿神社の由来と祭神(宗像市陵厳寺)

蘿神社表鳥居1-2  前回「蘿神社〜境内八社考(宗像市陵厳寺)」からつづく。

  「蘿(つたの)神社」の社名は、蘿嶽頂上から遷宮したこと由来する。
  遷宮前の旧社(宮)地が蘿嶽(旧:赤馬山・現:城山)頂上のどの辺なのか、また、遷宮前の社名も分からないが、ここでは「赤馬山神社」としておく。

  永禄3年(1560)、宗像大宮司氏貞が、「赤馬山」の「赤馬山(古)城」を大規模に修築して「蘿ヶ嶽城」(単に城山、岳山城ともいう)と改め居城とした。
  その際、「赤馬山」(→蘿嶽・城山)頂上の本丸に鎮座していた「赤馬山神社」(石祠か)を山麓の現在地(宗像市陵厳寺4-4)に遷し「蘿神社」としたのである。

  蘿神社の祭神は、「伊弉諾命伊弉册命」であるが、八所宮(宗像市吉留)の祭神を抜きにして、単にこの二神のみを取り上げると全体が見えにくい。
  赤馬山周辺の村々(赤間、陵厳寺、三郎丸、名残、徳重、藤原、石丸、武丸、吉留、田久、遠賀郡城畑村)は、かつて「八所宮の敷地」で、「八所宮」を「総産神」としていたが、これらの村々から望める霊山「赤馬山」(宗像四塚の一峯)に鎮座した神々は「八所宮」と係わっていたのではないかと思うからだ。

  「赤馬山」や「赤馬村」(赤間村/現宗像市赤間)の地名の由来に「八所宮創建伝承」がある。
  初代神武天皇東遷の砌、岡湊に上陸した神武天皇の前に、「赤馬」に乗馬した高貴な神が現れ、「神世七代のうち四代の神々」(八柱)が鎮座する鶺鴒山(せきれいさん)の麓「御手洗池」(清水池・釣川源流の一つか)の辺に導かれ、その辺に八所宮(古宮)を創建した。
  高貴な神が乗馬した「赤馬」から「赤馬村」(赤間村)や赤馬山(赤間山)の地名が生まれたという。
  この神武天皇の赤馬伝承は、赤間周辺一帯が神世数代の舞台だったことを暗示しているようにも思える。

  因みに、「神世七代(かみよななよ)」は、「天神七代(あまつかみななよ)」、「天神七世(あまつかみななせ)」ともいうが、八所宮の「神世七代のうち四代の神々」(八柱)とは、次のとおりである。

  ‖荵或「泥土煮尊と沙土煮尊」(宇比地邇神ういじにのかみ・須比智邇神すいじにのかみ)
  第五神「大戸道尊と大戸辺尊」(尾降神社と同神)
  B莽賛「面足尊と綾かしこね尊」(淤母陀琉神おもだるのかみ・阿夜訶志古泥神あやかしこねのかみ)
  ぢ莠型「伊弉諾命と伊弉册命」(蘿神社と同神)。

  そして、かつて赤馬山(蘿嶽・城山)の頂上にあった「蘿神社の祭神」は、このうちの「第七神 伊弉諾命と伊弉册命」(二柱)である。

  また、宗像市三郎丸に、「蘿神社」と同時期に赤馬山(蘿嶽・城山)の南の尾(頂上の南側、若しくは南の尾根)から遷された「尾降神社」(おさがり)が鎮座しているが、この祭神は、「第五神 大戸道尊(おおとのじのみこと)と大戸麻邊尊」(おおとのべのみこと)」(男女2柱・兄妹)を祭神している。

  「赤馬山」(蘿嶽・城山)は、この四柱の降臨(出現)地との伝承があり、かつての「赤馬山」は霊山であった。
  即ち、「八所宮」の上記「神世七代のうち四代の神々」のうちの第五神「大戸道尊と大戸辺尊」とぢ莠型「伊弉諾命と伊弉册命」は、赤馬山に降臨したということなる。
  「八所宮」を産神とする周辺地区一帯は、国土生成の神・伊弉諾命と伊弉册命、及びその前の神々が行った国土経営の舞台であったのかもしれない。
  なお、ここでは触れないが、石丸の「七社神社」(七社宮)の祭神も合わせて考察する必要もありそうだ。

 史料1 「蘿(ツタノ)神社 アカジヤウヤマ 神殿方一間・拝殿二間三間・祭礼八月十五日・石鳥居一基・奉祀位賀相模 (陵厳寺)産神也。祭る所伊弉諾尊・伊弉册尊也。相殿に祇園・稲荷神あり。鎮座の年歴傳ふる事なし。社説に、むかしハ蘿か嶽に鎮座給ひしを、永禄年中大宮司氏貞此地に移せしといふ。舊宮の地詳ならす。」(附録)
 史料2 「蘿神社 赤城山在。所祭伊弉諾尊 伊弉册尊也。相殿に祇園 稲荷神。社説蘿ヶ嶽に鎮座し給ひしを永禄年中大宮司氏貞此地に移されしと云。旧社の地今知られす。宗像末社記に津田明神あり。祭礼二月初午六月十一日也。吉留村位賀氏奉祀す。」(拾遺)

 ※つづく→「蘿神社〜ヒカゲノカズラ・石松など(宗像市陵厳寺)」。  
 ※参照→「尾降神社⊃誓ぜ径紊梁荼淇(宗像市三郎丸)」。 

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2013年09月05日

蘿神社〜境内八社考(宗像市陵厳寺)

蘿神社1杜  前回、「松崎観音堂と鎮関地蔵堂(宗像市陵厳寺)」に記した「地蔵堂」の手前に空き地(駐車場なのか?)がある。
  その先(里道の右横土手面)に、(つたの)神社境内の「脇参道口」がある。(陵厳寺4-4)。

  「脇参道口」とは、私が勝手に付けた呼称だが、「脇参道口」といっても、何の目印になるようなものはなく、土手に付いた細い道を数歩上ると、すぐに樹木の生い茂る杜のなかに入る(※画像1)。

  大樹林に囲まれた叢のなかにある道を進むと、途中、右手の叢のなかに一個の石祠(境内神社の1社)がある(※画像1の右方)。

  石祠面を視ると、「文政8年(1825)9月」の建立で、陵厳寺地区の名門(旧家)だった「吉田、石田、石松、井上、松尾、眞鍋姓」の建立者氏名が刻されているが、神社名はない。

  ただ、この場所は、位置的には前回記した「鎮関(チンセキ)地蔵堂」の上辺りになるので、筑前國續風土記附録に記載されている「八大龍王社(チンセキ)」ではないのかと思った。

  なお、ここから北西約150mのところに、顕龍(龍神)伝説のある「高樹山池」(高樹山塘)があり、前に記した「正法寺〜妙湛寺歩くす蘯山池と龍(宗像市陵厳寺)」のなかに、「龍が棲む池であったからには、かつて八大龍王社が祀られていたのかもしれない」と書いた。
  また、「正法寺〜妙湛寺歩く∠糎兄と龍(宗像市陵厳寺)」には、「当地には、「八大龍王」(龍神)を祀る寺院(たとえば龍顕寺とか)があったのかもしれない」とも記した。

  もし、この石祠が「八大龍王社」であったら、上記建立者の姓は、高樹山塘(池)の顕龍(昇龍)伝承のある妙湛寺(楞厳寺)や、龍泉院の院号高樹山観音を有した「正法寺」等の檀家にもあり、暦應(1338~1341北朝年号)の高樹山塘(池)顕龍(龍神)伝承との係わりで捉えることもできそうに思えた。

蘿神社2杜  「脇参道」は、この先で斜面上りとなるが、左上を見上げると「蘿神社」の神輿倉が見える(※画像2)。ここから斜面の土止め階段を上ると、「表参道」と合流し、数段の石段を上ると、「蘿神社」の社殿の正面に至る。

  なお、社前には、明治37戦役記念の「狛犬」が一対(明治39年5月建立)あり、社頭を守っている。
  それと「安政5年 當村長吉田丈次郎長行」記銘がある台座が1個ある(※台座上には何も乗っておらず破損消滅したものと思われる)。

蘿神社3石祠  この社殿の両横にも7個の石祠(社殿に向って左に6社、右に1社)ある(※画像3)。

  これらの石祠(境内神社7社)のには、刻字が見当たらず、その全ての神社名が分からない。

  ただ、これらの石祠を見ていて、何となく明治政府の神社統合令を受けて廃社に追い込まれた神社、例えば「正法寺〜妙湛寺歩く大日堂など(宗像市陵厳寺)」に記した「貴船神社(マツサキ イシマツラ ハバ テラダ ダイモツ アナノウラ)」のうちのいずれかや、城山中道寺登山口付近にあったと思われる「熊野社」など、が遷されたものではないかと思ったりもした。
  
  ただし、神社誌が境内神社として掲げているのは「五穀神社(豊受神)」と「貴船神社(高龗神)」の二社のみである。

  境内各石祠の神社名や由来を存じ上げている地元氏子の方もおられるのだとは思うが、時代とともに忘れられてしまう前に、何とかそれらを分かる範囲で掲示しておいてほしいと思う。

  なお、上記の城山中道寺登山口の「中道寺」(ちゅうどうじ)は、中世「中道寺」の跡で、江戸時代にはその跡地に「熊野社」と「不動堂」があったという(附録)。

 ※つづく→「蘿神社の由来と祭神(宗像市陵厳寺)」。

  ※参照→「蘿神社でもカノコユリを観た(宗像市陵厳寺)」。

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2013年09月03日

「海女を生きる〜神々の島 能登・舳倉〜」を観た

舳倉島  「海女を生きる〜神々の島 
能登・舳倉〜」(テレメンタリー2013)を観た。
 (2013.8.26テレ朝放送/北陸朝日放送制作)。



  「海女(あま)の島」とも言われている舳倉島(へぐらじま)は、能登半島の沖合50kmにある小さな孤島(周囲7km、標高13m)で、島の住所は、石川県輪島市海士(あま)町である。
  「海の士(さむらい)」と書いて「あま」と読むので、本来、「海女」とは、「海の士(さむらい)」だったのか。

  「海女(海士)」の発祥地は、福岡県宗像市鐘崎(織幡神社に海女の石像あり)で、この地から「アマアルキ」(※素潜りを生業とする漁撈民族が新しい漁場を求めて移動)して住み着いた地では、今も海女の生業が行われているが、このうち、「海士(あま)の地名」が残っているところが全国に11箇所ある(下記)。

  それは、〃本県海士江町、∈寛豸和多田海士町、山口県彦島郷町、づ膾県海士町、ツ纂荼福部町海士、Φ都府久美浜町海士、福井県海士坂、╂仞邯輪島市海士町、新潟県相川海士町、新潟県海士ヶ島新田、秋田県西目町海士剥である。

  舳倉島は、「神々の島」とも言われ、小さな島内に神社が「八社」あり、神々は人々の生活と密着に結び付いているようだ。

  因みに「八社」は、海の安全と大漁を祈願して年始に起舟祭を挙行する島の総本宮奥津比弯声(宗像神田心姫命)以下、大和田神社(素戔嗚命)、H坂神社(素戔嗚命)、ざ眸耆綽声辧並臺主命)、ヌ誼録声辧蔑郷逝膺澄法↓Ψ暖羶椰声辧文逝綣膺澄法↓О棒神社(天照大神)、弁天神社(宗像神市杵嶋姫命)である。

  また、舳倉島には、海で犠牲者が出たとき、海女たちがその供養のために泣きながら積み上げた石の塔(「ケルン」という)が約70基あるという。
  海とともに古代より懸命に生きてきた「海女の島」の人々の生活の一端が、なんとなく分かるような気がした。

  それに、昭和初期に撮影されたという、当時、「下帯ひとつ」を身に着けて海に潜っていた「舳倉島の海女」の貴重なフィルムも見せてもらった。

  「舳倉島の海女」は、潜水技術においては他に引けをとらないともいうが、その海女の減少と高齢化が進み、悩みは深刻らしい。
  最盛期(1956年頃か)には150人以上いたという海女の人数は、現在は60人で、そのうちの半数以上が70歳を超えているという。

  このようななかで、今年、舳倉島では待望の新人海女が3人も誕生、そのうちの一人(22歳)が、「私も大海女として名を売りたいと思い、海に入ることにしました」と抱負を語った。
  素潜りの伝統漁を絶やさず続けて行くという純粋な心意気に触れ、頼もしく思い、一人感動していた。

 ※画像は、舳倉島航空写真〜「海の宝・舳倉島紹介HP」からをお借りしました。

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2013年09月02日

ETV特集「麻文仁 沖縄戦 それぞれの慰霊」を観て

沖縄魂魄之塔  先週(2013.8.31)の「ETV特集 麻文仁 沖縄戦 それぞれの慰霊」を観ていて、以前、当地を訪れたことを思い出した。


  そのときに記した紀行文「シーサーの島雑記」が、某紙に載り、あれから随分と年月が経っているが、「麻文仁の丘」(糸満市)の風景はそんなには変っていない。
  ドキュメントを観ていて、胸がつまってしまうことが多々あり、心で合掌していた。

  シーサーの島「沖縄」が、我が国で唯一地上戦が行われ20余万人の戦没者を出した島であることは知っていたが、沖縄戦最後の激戦地(南部戦跡)となった「麻文仁の丘」(沖縄本島最南端)を訪れるまでは、その実感があまりなかった。
  「麻文仁の丘」は、沖縄本島最南端に広がる丘陵で、海に面して断崖になっているが、断崖には未だ収容しきれない多くの遺骨が眠っているのだろう。

  沖縄戦は、68年前、多くの民間人戦没者を出して「麻文仁」で終結したが、「麻文仁の丘」を歩くと、戦争で犠牲となった人々を慰霊する40基超の戦没者慰霊碑(沖縄戦戦没者に限らない)が立ち並んでいた。
  その多くは、1972年沖縄の本土復帰以後に建てられたものであるが、1995年、「麻文仁の丘」の麓に新たに「平和の礎」が建てられた。
  「平和の礎」は、軍人や民間人、国籍を問わず沖縄戦で亡くなった全ての犠牲者の氏名を石に刻み追悼する慰霊碑で、大田昌秀氏(当時沖縄県知事)の呼びかけにより完成したものだという。
  そのなかには、米兵戦没者の名を刻した慰霊碑もあり、駐留米軍も慰霊に訪れる。

  米国では沖縄上陸作戦をアイスハーグ作戦といっているが、昭和20年(1945)4月1日、米軍主力部隊18万2千人が嘉手納に上陸し、6月23日(現沖縄慰霊の日)に全島占領を終えるまでに1万2千人超の戦死者を出している。
  米軍は、自軍にもこれだけ多くの犠牲者を出した背景の一つには、嘉数(かかず)で51日間に亘る持久戦を指揮した牛島満軍司令官(第62師団)の戦略があったとして、その作戦を今も高く評価しているという。
  因みに4月9日からの4日間の嘉数の戦闘で、2800人の米兵が犠牲となったという。

  また、現在、米軍基地の名称となっているキャンプシュワブキャンプキンザーは、沖縄戦で犠牲となった米兵の名前(アルバート・E・シュワブ一等兵、エルバート・L・キンザー軍曹)を付けたもので、米兵にとっても凄惨だった沖縄戦を忘れないという意味もあるのだろう。

  しかるに、牛島満司令官が首里から麻文仁に司令部(第32軍司令部)を移したことで、麻文仁周辺に避難していた多くの住民を戦闘に巻き込み、沖縄戦で最も多い住民の犠牲者を生み出すことになった。

 沖縄戦における我が国の戦没者は、遥かに多く、沖縄県以外の軍人6万6千人、沖縄県出身の軍人軍属5万5千人、さらに民間人9万4千人、それに447人超(実数不明)の韓国人犠牲者もいる。

  現在、6月23日を「沖縄慰霊の日」として、麻文仁で戦没者追悼式が行われているが、この日、麻文仁では、戦没者を痛む人たちが訪れ、それぞれの思いを胸に各慰霊碑の前に佇み慰霊をしている。
  その中には、陸上自衛隊旅団長らによる牛島司令官割腹自殺地(黎明之塔)への私的参拝もあっているが、今も割り切れない住民感情はあるようだ。

  その下方には、岩井富子さん(故長野英夫少佐の妻)が建てた「勇魂の碑」(第32軍司令部戦死者慰霊碑)があるが、ここでは自衛隊の有志が慰霊祭の準備運営を手伝っていた。
  有志の一人は、軍は沖縄住民を守らなかったという話が伝わっているが、自分たちが沖縄を命がけで守ることで、命を投げ打って戦った軍人の名誉を挽回したいという。
  そう、今となっては、沖縄戦は残酷な悲劇だったというほかにいいようがないが、住民の平和を守る自衛隊であってほしい。

  現在残っている「ガマ」(自然の壕・洞窟)で、30年以上に亘って遺骨収拾を続けている具志堅隆松さんらの姿が映し出されたが、これらの「ガマ」のなかで子供を含む多くの住民が自決、若しくは米軍の火炎放射などで犠牲となった。
  「ガマ」で犠牲となった人々の姿は、映画「ひめゆりの塔」ほかを観て脳裏に焼きついているが、実際は映画で表現できる以上の恐怖の模様があったのだと思う。

  沖縄では、今も毎年100体以上の遺骨が見つかるといい、まだ本当の意味で戦争は終わっていない。
  遺骨収集の原点となったのは、身元が分からない3万5千体の遺骨を葬った沖縄最初の慰霊塔(実際は骨塚)「魂魄之塔」(1946建立)で、今もここを訪れる人たちも多いという(※画像)。
  
  当時の金城和信村長(旧真和志村)が「死者の供養なくして生活の復興はあり得ない」との思いで建立したものだという。
  この塔の前で、子供の時から60年以上塔に手向ける供花を売っている人(大屋初子さん77歳)も映し出され、年月の重みを感じた。
  大屋さんは、10歳のとき「ガマ」(カミントウ壕)で「死ぬのはイヤだ」と泣き叫び、父とガマを出て米軍に逮捕され助かったが、ここでは22家族58人が落命、この「ガマ」は現在閉ざされている。

  「麻文仁の丘」を訪れたのは、たった一回だけで、再度訪れる機会があるかどうか分からないが、この「ETV特集」を観ていて、そのときに受けた、とても観光気分で行けるようなところではないという強烈な思いが鮮明に蘇った。
  そして、当時、確か高さ12mほどあった美しい「平和祈念像」を観ていて、平和の尊さを語りかけられているような思いになり、合掌していたことを思い出した。
  (※再放送:2013.6.7(土)AM0.45~)。

  ※画像は、魂魄之塔〜「ETV特集 麻文仁 沖縄戦 それぞれの慰霊HP」からお借りしました。

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