2013年10月

2013年10月30日

宗像王丸・天然温泉「やまつばさ」に浸かってきた(初)

  宗像王丸・天然温泉「やまつばさ」は、国道3号線「王丸」交差点(信号)から許斐山王丸登山口方向に曲がると、すぐ左側(ヤマダ電機の裏側)にあった。

  大駐車場に車を停めて、その奥にある白亜の建物(1階建て)がそれで、ガラス張りのドアから中に入りフロントで「JAF会員証」を見せたが、料金は「お帰りのときに」と言われた。
  「JAF会員証」を見せたのは、入浴料(大人:平日1,000円、土日祝日1,200円)が2割引(2013.12までは3割引)となると聞いていたから。

  王丸(宗像市)で天然温泉が湧出したという話を聞いて久しいが、当時は、本当に、ここに日帰り温泉館ができるとは思ってもいなかった。それだけに、今春(2013.3.21)、同館がオープンしたと聞いたときは驚きだった。
  さらに、同館を訪れて、実際にゴージャスな外観、設備、浴場、休憩ラウンジ、リラクゼーションサロンほかを見て、実に驚きが倍加した。

  館内の喫煙所で休憩していた某老人のところに、子供連れの娘さんらしき人が来て、「こんな所にいたの、どこに行ったんか分からんから、だいぶ探したんよ!」と叫んだ。
  こんな光景に居合わせたが、予め自分の居場所を教えていないと探し回らねばならないほどに館内が広い(迷う?)っていうことか。

  今回は、立ち寄り的に訪れたので、ここで食事はしなかったが、ここには、旬菜割烹「白珪」と王丸地産レストラン「みあれ」(美が生まれるところの意)も併設されていた。
  特に「白珪」の店名を見たときは、ついつい古代宗像と親交の深かった新羅の「白」と、古代中国王朝の天子が諸侯に授与した宝玉を表す「珪」を冠したのかとも思えて、この店の料理への自信のほどが伺えるようでもあった。

  ところで浴場には、その名の通りに広い「十間風呂」(内湯)や、露天風呂、高温及びミストサウナ、家族湯(4室/別料金)等があった。
  そして、温泉のキャッチは、「源泉かけ流し・美肌の湯」とあったが、確かに湯に浸かって、湯で濡れた手で肌を触ると、つるつるとすべる感触を味あうことができた。

  温泉標示には、「地下約1200mから汲み上げる湯量は、毎分約228.05ℓ、泉質は、pH 値9.6アルカリ性単純温泉」とあり、つるつるする肌触りは、「ナトリウムイオンを豊富に含んだ超軟水(硬度約7.5mg/ℓ」によるものだという。

  宿泊施設はないが、申し合わせたように、すぐ近くに亀の井ホテル宗像があり、絶妙の組み合わせとなったってことか。

  なお、宗像王丸・天然温泉「やまつばさ」の所在地は、宗像市王丸474(0940-37-4126)、営業時間10時〜24時(受付23時まで)、定休第3水曜日 (祝日のときは翌週水曜日)。

  良い施設だと思うが、あえて難点をあげると、コンクリート地に直接床クロスを貼ったと思われる廊下で、感触的に違和感があり、特に足底筋幕に障害のある人は歩きにくいと思う。スリッパを持参すると良いかな。→(※追記)次回行ったとき、上記の廊下床クロスは、歩きやすいものに張り替えてあった。さすが、対応が早くすばらしい。

  (追記2)寒い日に行ったとき、内湯から外に出て石段を上って、さらに先にある露天(2か所とも)に行く間、震えるほど風が冷たくて、ことのほかこの距離を遠く感じたが、まあ湯加減はよかったからよいか。

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2013年10月29日

光岡八幡宮と大樟のパワー(宗像市)

1光岡大樟 暫く音信がなかったfさんが突然電話をしてきて、「光岡八幡宮を知っていますか」と言われた。

 「ユリックスの近くの、大樟(大楠)のある神社のことですか」と答えると、「そうです、この神社の鳥居に天使が舞い降り、大樟に昇る竜を写した写真を撮った人がおりパワースポットと聞いたので、連れて行ってもらえますか」と言われた。
 (奥聖氏の写真集「聖なる光」のことなのだろうか?)。

 この鳥居とは、多分、大樟に近い参道二ノ鳥居のことかと思ったが、大樟の側には、別に「豊前坊社・祇園神社」の鳥居もある。

4光岡八幡 私は、今まで何度か光岡八幡宮を参拝しているが、いずれの鳥居の近くでも天使(エンゼル・精霊)を観たことはなく、また、大樟で昇竜(龍神)を観たこともない。

 だが、境内で次のようなことはあった。

 神域外では無風、若しくは微風だったのに、境内に入り、二ノ鳥居をくぐった途端、強風に煽られて、境内にいる間中、その強風と響く風音は治まることがなかった、という体験を度々した。

2光岡大樟と拝殿 この一画には、神殿や境内神社もあって、その周囲を大樟のほか、椋、銀杏、鹿子木などの樹木(巨木)が覆っている。この鬱蒼とした杜のなかだけを強風が舞うという現象に遭遇して驚きを感じたのだった。

 このような自然現象を神々の息吹と感じることもあるので、特に霊気の強い場所を訪れた人の想念次第によっては天使や龍神を感じとることがあっても不思議はないだろう。

 fさんを案内した日も、同上の杜だけで強風を経験したので、きっとfさんの求神の熱心さに神々が応じてくれたのかもしれない。

 説明板によると、「光岡八幡宮の大樟は、目通周囲7m、樹高29.5m(超)」もあり、福岡県天然記念物に指定(昭和31.7.21)されているという。
 太い幹から四方に樹高に見合う程に大きく張り出した枝々には、ぎっしりと葉が繁り、今なお樹勢旺盛であることが分かる。

 この大樟は、小丘の縁部分から幹を伸ばしているので、小丘の縁下になる部分は、巨木を支える太い樹根の一部がむき出しになっている。

3光岡大樟象形 この根を観ているだけでも大樟のパワーをいただけそうだが、そのなかには、何となく象の形にも見える箇所もあるので、きっとこの巨木のパワーは、剛健な象を想像させるほどなのかもしれない。

 また、張り出した根のなかで白くなっている部分があるが、ここは、丁度手を触れやすい位置に当たるので、きっと訪れた人たちが、ここで巨木のパワーを得ようと願って直接手を触れているのだろう。

 もちろん私も行く度に手を触れ、同行した人たちにも手を触れて、樹木の息吹きを感じるようにと勧めている。

 なお、「宗像市の木はクスノキ(樟・楠)」だというが、そういえば宗像市行脚中に、「氏八幡神社の大楠」(田島/宗像市天然記念物)と「平山天満宮の大樟」(吉留/福岡県天然記念物)を観たことを思い出した。
 宗像市には、このほか福岡県天然記念物指定の「横山の大樟」(山田横山)もある。

5光岡八幡2(付記) 光岡八幡宮(旧村社)の由緒は、「創立不詳、誉田天皇東宮にて未御位に即せ玉はざる時此所へ御遊軍ましまして御車を駐め玉ひたる其陣迹に御社を建てしと云ふ、明治五年十一月三日村社に被定」。
(旧南郷村大字光岡字辻の園)。


 この由緒を、応神天皇(誉田天皇)は大和の大王だと思って読むと何のことか分からなくなるが、この由緒は、神功皇后とともに応神天皇もまた九州(筑紫)王朝の大王であったことを伝えているのだと思って読むと分かりやすく、誉田皇子の時代に当地へ遊軍したときの様子が浮かんでくるようだ。

59光岡八幡宮 なお、当社は、宗像七十五社の一「光岡若宮」だったといわれ、江戸時代までは「若八幡宮」と称されていたようだ。それは、当社が上記のように(八幡神)応神天皇が即位する前の若(誉田)皇子時代の由緒地ということと関係しているのだろか。その後、「若」を取ったのは、若八幡とも称される仁徳天皇との混同を避けるためだったかもしれない。  

 いずれにしろ、境内に大樟(樹齢不明)ほかの大樹があり、また、光岡という地名から受ける印象からしても、当地が古くに開けた霊地であったことには違いないのだろう。

 祭神は、大正元年10月31日合併「神功皇后、誉田天皇(応神天皇)、武内大臣(宿禰)、闇龗神、市来島姫命、素盞鳴命」。

 このうちの「闇龗神、市来島姫命、素盞鳴命」は、明治維新政府の神社統合令により大正元年10月31日合併合祀されたもので、もとは、次の各所に鎮座していた神社の祭神であった。
 即ち、「闇龗神」は、大字光岡字原無格社「貴船神社」(二社)、同字大田無格社「貴船神社」、同字損田無格社「貴船神社」の祭神、「市来島姫命」は、同字原無格社「市来島姫神社」の祭神、また、「素盞鳴命」は、同字下原無格社「須賀神社」の祭神として祭祀されていたものである。
 (※貴船神社→参照「正見行脚金刀比羅神社の境内神社(3)祇園社・貴船社〜在自山13」)

 境内には、境内神社4社(大已貴智神社、天満神社、徳満神社、疫神社)と、そのほかにも数多くの石祠(豊前坊・祇園神社、稲荷神社ほか)や石碑(庚申塔ほか残骸もある)があり、光岡地区にあった各社碑等を光岡八幡宮境内に遷したのかも知れない。 (光岡八幡宮所在地:宗像市光岡494)。

※つづく→「峯の薬師(宗像市光岡)」。

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2013年10月25日

「鐘崎海女(石像)」が見つめる「沈鐘石」と鐘崎の海(織幡神社)

鐘崎海女石像前の沈鐘石  前回「鐘崎の海女(衣装、魔よけなど)」からつづく。

  「あまちゃんや〜い〜鐘崎海女」に載せた織幡神社(宗像市鐘崎)入口参道脇の砂地に立つ「鐘崎海女の石像」が見つめる先には、宗像・鐘崎の海があり、その手前には鐘岬の沖の海中から引き揚げられたという「沈鐘石」(釣鐘状の巨岩)が置いてある(※画像)。

  ここに「沈鐘石」がある故に、この一画は、「沈鐘公園」といわれている。「沈鐘」とは、鐘崎・鐘岬の沖に沈んだ「梵鐘(釣鐘)」のことである。
  鐘崎・織幡神社の北東沖(鐘岬の沖)は、潮流が激しい上に鐘崎の暗礁(そね)があり、海難事故が多発する海域でもあり、この沖に沈んだという「梵鐘」(釣鐘)について、次のような「沈鐘伝説」がある。

  神功皇后が三韓(新羅)から持ち帰った梵鐘を積載した船が、この鐘岬の沖で難破して、梵鐘が海中に沈んだという伝説で、この伝説から「鐘岬・鐘崎」の地名が生まれたともいう。(地名由来については後述もあり)。
 ◆”卉・用明天皇の頃、三韓からの貢物として運ばれた梵鐘が、この沖で沈んだとの伝説。
  から運ばれてきた梵鐘が龍神に沈められたという伝説。
 ぁ々旭4年(1281)夏、高麗船が積載していた梵鐘を渡し損ねて海中に落としたという伝説など。

  これらの「沈鐘伝説」は長い間信じられてきたようで、古来、次のような「引き揚げの試み」があったという。

  (弧5年(1473)又は明応8年(1499)、第75代宗像大宮司興氏が家臣の石松和泉守氏実吉田飛騨守氏明に梵鐘引き上げを命じた。
  このとき、3人の海女が命がけで鮫や鱶の多い波荒の海中に飛び込み龍頭に網を通し、十数艘の船で漁民たちが引き揚げようとしたが、突然起った大暴風雨で海は大しけとなり三艘が波にのまれたので、龍神の怒りに触れたのだと恐れて断念した。
  この後、風雨が治まった海上に、尉と姥の「翁面」が浮かび上がり、これは梵鐘の代わりに龍神が授けた霊験あるものとして宗像大社に奉献されたという。 (宗像伝説風土記参考)

 ◆〃陳9年(1694)、筑前初代藩主黒田長政が地島に波止場を造ったとき、女の髪を縒り合わせた綱で引き揚げようとしたが、突然、激しい風雨に見舞われて中止された。 (宗像伝説風土記参考)

  大正時代、篤志家が、やっと引き揚げに成功したが、実は、この「沈鐘」は「梵鐘」(釣鐘)に非ず、「釣鐘状をした巨岩」であったという。この巨岩が、上記「沈鐘公園」に置いてある「沈鐘石」である。

  何ともロマンあふれる話だが、いずれのときにも「沈鐘」の探索や引き揚げの試みに際して、鐘崎の海女たちの優れた潜女(かずきめ)技術が生かされていたと思われ、ここ「鐘崎海女の石像」の見つめる先(正面)に「沈鐘石」と鐘崎の海があるのがうなずけるような気がした。

  なお、「鐘崎・鐘岬」の地名の由来は、上記の「神功皇后伝説」以外に次のことが考えられる。

  古代、「鐘崎」は、「加祢乃美佐崎」、「金の御崎」(万葉集)と書かれ、また、15世中頃の宗像古縁起に、「金崎織幡(大明神)・・・本地仏如意輪観音垂跡者武内大臣之霊神也」とあるので、以前は、「金の御崎」、「金崎」と書かれていたようだ。
  鐘崎・織幡神社の南東部にある「宗像四塚」(湯川山、孔大寺山、金山、城山)の山麓では、古代より金銀銅の採掘がされていたようで、「鐘崎・鐘岬」の地名の由来は、ここで産出する「」を搬出する「金崎」、「金の御崎(金岬)」だったのかもしれない。
 ※参照→「正見行脚平信盛墓所と宗像金山(宗像市)」)。 

白猫  (付記) 今月は、二回、織幡神社に参拝に行ったが、二回目のとき
(10/19)に、参道口の鳥居の前に立ったとき、寄ってきた美しい毛並みの白猫(※画像)が足許でじゃれついて、「沈鐘公園」内を案内するかのように付いてきた。

  お蔭で、この日は、ゆっくりと「鐘崎海女の石像」や「沈鐘石」を見直すことができた。
  この白猫は、たまには、ここでゆっくりして、この浜地と「沈鐘石」から気を感じ取れという神の思し召し(お使い)であったのかもしれない。

 ※参照→「正見行脚鐘崎・織幡神社でも汗…(6)鐘崎の地名」。

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2013年10月24日

宗像大社辺津宮仮本殿(仮殿遷座)を参拝

辺津宮仮殿  先日(10/19)、宗像大社辺津宮仮本殿を参拝してきた。
  今年(平成25年)8月29日、宗像大社平成ノ大造営・辺津宮本殿修復工事の開始に伴い、辺津宮御祭神(市杵島姫神)は、本殿横に造営された仮本殿に御遷座された。

  (※→「正見行脚宗像大社仮殿遷座祭の記事」参照)。
  
  玉石敷の地面に直立ちの木柱と材で組み立てられた開放的な拝殿(※画像)から仮本殿を仰ぐと、真榊と野面積みの石垣と木枠などが見えた。  
  所謂一般的な社祠とは形を異にしているが、この「仮本殿は、沖津宮の磐座祭祀、高宮の神蘺(ひもろぎ)を意識して造られた。岩や木々を依代とする祭祀は、神道の古い形の祭りとされ、古代祭祀といわれ(宗像10月号)」、宗像大社ならではの畏敬の形だという。

  ともかくもこのような厳かな雰囲気のある仮本殿を直視しての参拝ができて、心が清められるようだった。

辺津宮修復中  なお、辺津宮本拝殿の前面部分には目隠しが施されていた。

  本殿に御祭神が御鎮座されていないのであれば御無礼にはならないと思い、初めて御神門の正面から撮影した(※画像)。

  宗像大社辺津宮本殿修復工事(第一期工事)は、およそ3年かかると聞いている。

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2013年10月23日

鐘崎の海女(衣装、魔よけなど)

鐘崎海女イラスト  前回「あまちゃんや〜い〜鐘崎海女」からつづく。

  「あまちゃんや〜い」を掲載した毎日新聞の記事には、「江戸時代の儒学者、貝原益軒は著書で鐘崎海女の技術をたたえた」とも記してあった。

  その著書、筑前國續風土記(1706)は、鐘崎の海女について、次のように記している。


  「凡國中潜女(かずきめ)の居所四箇所あり。鐘崎、大嶋、波津浦、弘浦也。此所の海辺は皆女かづきをなし鰒(あわび)を捕、熨斗鰒(のしあわび)をきり、栄螺(さざえ)、海夫人(いがい)を取りて家業とす。此内鐘崎の潜女尤(もっとも)その事勝れり」。

  この四箇所のうち、鐘崎(宗像市)以外の、大嶋は大島(宗像市)、波津浦は波津(遠賀郡岡垣町)、弘浦は弘(福岡市東区志賀島弘)のことだが、このなかで鐘崎の潜女(海女)が最も漁の技術が優れていると言っているのである。

  上掲の画像は、以前、「海の道むなかた館」で頂いたものだが、旧宗像市民俗資料館パンフレット表紙に載っていた(昭和前半期頃の)「鐘崎の海女」のイラストに、鐘崎海女が身に着けていた衣装・道具の呼び名(アタマカブリ、水メガネ、イソジュバン、ハチコナワ、アワビガネ、アワビ袋)を書き足したものである。
  なお、イソジュバンを着ずに褌一つの裸で潜ることもあったらしいが、今はウェットスーツなので、このような衣装はみられない。

  このイラストで、特に興味を覚えたのは、「アタマカブリ」の「大」の文字(刺繍)。
  これについては、「むなかたタウンプレス(平成24年7月15日号P7) =鐘崎の海女の頁」(宗像市広報)に、「大や×」は二つの異なる世界が交わることを意味し、転じて魔よけとされたのではないか」と説明してあった。
  海の底は、一歩間違えれば死が待っている異界に違いなく、命がけで海底に潜る海女にとっては、異界に引き寄せられない魔除けを身に着けることは必須だったに違いないと思った。

  現在、海女の道具の一部(福岡県文化財指定)は、「海の道むなかた館」に展示してあるが、展示内容としては、前回記したように鐘崎漁港にあった旧宗像市民俗資料館(平成9.4.1~22.3.31)が閉館されたので、大幅に縮小された。

鐘崎海女立体  左の画像は、旧宗像市民俗資料館に展示されていた「休息する鐘崎の海女」の(立体造形) 風景(※開館時代のパンフレットから転写)。
  鐘崎の海女は、「16歳頃から還暦の頃まで海に潜り、アワビやサザエ、海草類を採って生計を立てていました。」

  なお、同民俗資料館は宗像市コミュニティセンターに模様替えしたが、建物はそのままなので、いつも訪れたときは、必ず灯台風展望塔(3階中央螺旋階段上)に上り、海上パノラマ( 佐屋形山地島大島神湊など)を眺めることにしている。

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2013年10月20日

「あまちゃんや〜い」〜鐘崎海女

鐘崎海女の石像 [「あまちゃん」や〜い]…これは、昨日(H25.10.19)の毎日新聞に載っていた鐘崎海女公募(宗像市)に係わる記事の見出しだ。

 好評だったNHK連続テレビ小説「あまちゃん」で活躍した海女たちの活動舞台は東北 ・北三陸だったが、日本海沿岸各地で活躍した海女の発祥地は、鐘崎(宗像市)だといわれている。

 (※参照→「正見行脚 海女を生きる〜神々の島 能登・舳倉〜 を観た」)。

 「宗像遺産:暮らし遺産編」(宗像市)に、鐘崎(大島含む)の海女の数は、江戸時代400人以上、大正5~6年(1916~7)頃200人、昭和26年(1951)29人とあり、平成21年「ごくわずか」と記されていたが、昨日の毎日新聞では、ここ10年以上2人のままだという。

 その二人は、北川千里さん(72)と松尾美智代さん(58)で、今もウエットスーツで海に潜っているが、後継者がおらず、このまま伝統の技術を埋もらせてしまうことは心痛のようで、宗像市や同漁協で海女公募を協議しているようだ。

 そういえば、最近、壱岐島(長崎県)に来たという岩手県陸前高田市(東日本大震災被災地)出身の若い海女(香菜)さんがいるという話を聞いた。地元の人たちが受け入れ態勢を固めて公募したところ、5月彼女が応募してきたらしい。多分、地元漁師と結婚されて定住されることになるだろう。
 海女の漁期は、「春のワカメや夏のアワビ、サザエなどと半年ほどと短いなど課題も多い」というので、私は、これからの海女は、漁業振興に従事する公務員として身分を保障すべき時代となっているのではないかと思っている。


鐘崎海女の石像1 鐘崎の織幡神社参道に、(西日本)「海女発祥の地 鐘崎」と記した記念碑と、「鐘崎海女の石像」(※画像)が建っている。

 織幡神社参拝に訪れるたびに、この「鐘崎海女の石像」を眺めながら、いつも今も鐘崎には海女さんはいるのだろうかと思いながら、改めて確かめることもせずに通り過ぎていた。

 しかるに、今回、同上記事で、現在2人の海女さんがいて伝統の漁技術をしっかりと受け継いおられることを知り、何かしら嬉しかった。なんとしても絶やしてほしくないものだ。

 同上碑には、鐘崎海女の出稼ぎ地であった能登、長門、壱岐、対馬に枝村(分村)ができたことや、海女の使用した道具は、福岡県文化財に指定されていることなどが刻されている。

 なお、最近(平成22.3.31)まで鐘崎漁港に在った「旧宗像市民俗資料館」で、これらの鐘崎海女の活躍の様子や海女の道具を含む数々の玄海漁撈の民俗遺産を観ることができたが、同館は宗像市コミュニティセンターに変わり見学できなくなった。残念である。

 (※愛読書=楠本正著「玄海漁撈の民俗〜労働・くらし・海の神々」海鳥社刊)。

※つづく→「鐘崎の海女(衣装、魔よけなど)」。

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2013年10月17日

夏ばて

  秋彼岸頃から夏ばてが激しく、足底筋膜炎や片膝打撲による痛みも加わり、今年の秋の修行は気が入らなかった。

  そのさ中(10/2)に山崎豊子さん(9/29:88)の死亡を知った。山崎豊子さんは、原因不明の疼痛を抱えながらも死ぬ直前まで小説の執筆を続けられたという。
  ふと頚椎症からくる激痛でキーボードを触ることもできなくなったときのことを思い出し、改めて、とても真似のできない山崎さんの精神力の強さに敬服した。ご冥福を祈る。

  また、彼岸中日(9/23)に、比叡山千日回峰行を2度満行された酒井雄哉大阿闍梨(87)が神仏に召されたことを聞いた。行中、酒井雄哉師が施した加持で多くの人たちが励まされた。また仏道修行で学ぶことも多かった。ご冥福を祈る。

  私は大阿闍梨といえども千日回峰行などしたことがなく、すべての修行は未だ自分のためにする域を出ておらず、常に空回りばかりしているようで、まったく比較すべくもない。
  これからどれだけ変化できるものか分からないが、たんたんと自分でできる範囲のことをするしかない。

  先日、何故か某日中友好グループから劒嶽(鞍手郡)参拝ハイキングの申出があり、同行したとき、私の説明(私見※別記予定)に目を輝かせて聞いている人たちがいたが、ひょっとたら感動するほどの神仏の言葉が加わっていたのだろうか。

  また、石松某家から田永宮でのご先祖供養と陵厳寺地区行脚の申出があり同行した。さらに数軒のご先祖供養の申出が続いている。
  いつまでも夏ばてや打撲痛などと言ってぐうたらしている訳には行かなくなり、懺悔文を称えて再び気を入れよう。

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2013年10月13日

THE NEWSPAPER博多公演を観劇

  今秋、彼岸中からの修行がやっと終わり、気分転換を図るべく、「ザ・ニュースペーパー」(JR九州ホール)の公演を観てきた。

  安倍総理や麻生氏ほかの特徴をよく捉えた変装や声帯模写(?)もさることながら、最近のニュースを題材にした即興的風刺コントを聞きながら意味もなく笑った。
  政治や社会現象の裏にある声なき大多数の大衆の気持、たとえば五輪誘致、靖国批判、消費増税等などに対する思いの本音を、とっさに口にして笑いに変える。

  いろいろ考えても仕方がないので、コントを聞いて笑う、うさ晴らしみたいなもの。
  それはそれで平和なのかもしれないが、この国はいったいどうなるのだろうかと思うことも多い。
  今や中国包囲網どころか中国主導となっているTPP(環太平洋連携協定)に遅れて交渉参加した日本は、自らの主張を押し通すこともせずに、農業団体等には約束は守るというが、なぜか未だにTPP参加の意味が理解できていない。
  三本の矢とアベノミクスによる株価高騰も目にしているが、逆に今は買いではなく売りではないかと思えてならない。
  あまり考えているとまた自己嫌悪に陥るので程ほどにしておこう。
  それにしても、社会風刺コントを聞いて笑える余裕があるうちは、まだ幸せってことか。


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