2013年11月

2013年11月29日

須惠宝満宮ァ租騨曜蝓κ_藩主黒田家加護と明治の修験坊衆解体(須惠町)

殿様槙 前回「岳城山・高鳥居城や若杉山左右谷僧坊の抗争〜須惠宝満宮」(福岡県須惠町須惠)からつづく。

 「須惠宝満宮」(宝満神社)拝殿左横に、枝ぶりの良い1本の「」の大木(平成7年4月須惠町自然教育推進協議会指定保存樹)が真っ直ぐ伸びている(※画像)。

 須惠四か村(須惠、上須惠、佐谷、新原一部)の産子は、この「槙」を「殿様槙」と呼んでその成長を見守ってきたという。

 それは、この「槙」が、元和9年(1623)に筑前福岡藩二代藩主になった黒田忠之が植樹したものであり(故に「殿様槙」という)、併せて宝満山修験坊衆祭祀の上記須惠四か村の産土神「須惠宝満宮」が、藩主加護社として認められたとの証にもなったからだろう。

 神社誌によると、下記のように、須惠宝満宮(村社寶満宮)が筑前名島城主小早川隆景による社殿再建、そして、筑前福岡藩初代藩主黒田長政以降の黒田家の崇敬(藩主参詣や社殿再建・修復)等があったことが分かる。

 ・天正15年(1587) 名島城主小早川隆景が社殿一宇造営。
 ・筑前福岡藩主初代の黒田長政が「紫縮緬の慢幕」を三張下賜。
 ・同上二代の黒田忠之が社殿を修補し、「若杉山」の山林の一部を寄附、その記念に一本の木(槙)を社殿の側に植樹、この木を「殿様槙」と称した。
 ・元禄12年(1699) 寶満座主楞伽院兼雅が行った團家(國家:筑前国黒田家のことか)安泰祈願の峯入りに須惠宝満宮の坊衆も加わったところ、同上6代黒田綱政が自筆絵馬を下され拝殿を飾る。
 ・同上8代黒田宣政の参詣あり。
 ・明和4年(1767) 同上9代黒田継高が社殿再建。
 ・文化2年(1804) 同上14代黒田齊清が社殿再補。
 ・明治5年11月3日 村社に定められる。

  しかるに、明治維新政府の偏狭的な神道国教化(王政復古・祭政一致)施策である慶応4年・明治元年(1868)布告の「神仏分離令」(神仏判然令)、及び明治5年(1872)の「修験道廃止令」の布告で、九州での神仏習合・山岳信仰の一大拠点として繁栄してきた「宝満山修験」は一気に崩壊し、宝満山(竈門神社)を信仰の中心に据えて奉祀してきた「須惠宝満宮」の修験坊衆も解体し、(明治の一時期)「寶満宮」の神社名も、「寶満」の名を消し「竈門神社」と改められていた。
 現在の「須惠宝満宮」には、かつての修験道の痕跡らしきものはないが、敢えていうとすれば、前述「宝満宮古宮・地蔵堂〜須惠宝満宮」で述べた「古宮地蔵堂」付近から今も望める「霊峰宝満山〜三郡山〜霊峰若杉山」連山の雄大な眺めだろう。

 ※つづく→「寶満宮九百年祭祀之碑と創立縁起〜須惠宝満宮(須惠町)」。

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2013年11月28日

岳城山・高鳥居城や若杉山左谷・右谷僧坊の抗争〜須惠宝満宮(須惠町)

参道・石灯籠群  「須惠宝満宮〜元寇で筥崎宮・極楽寺と係わり」からつづく。

 「須惠宝満宮」の拝殿前で振り向き表参道方向を眺めると、今は樹木が視界を遮り見えにくいが、左前方に「岳城山」(標高381.4m/須惠町上須惠)の山容が迫っている。

 「岳城山」には、永仁元年(1293) 長門から入国した河津筑後守貞重(九州探題北条兼時臣)が築城したという中世山城「高鳥居城」があり、戦国期には、幾多の戦いが繰り広げられた。

 なお、須惠町では、「河津氏は、尾仲庄(篠栗町尾仲)の地頭で、伊東氏の流れをくむ人」と説明している。
 河津氏といえば、時代は少し下るが、宗像氏貞に討たれた西郷衆(西郷党)の頭領河津掃部助隆家を思い出したけど、繋がりはなかったのだろうか。

 明応〜永正期(1492-1521)、高鳥居城は大内氏の抱城となり、神代紀伊守貞総(大内氏臣)が居城。その後、入城した杉豊後守興長(興行か)と杉豊後守興運(大内氏臣)は、大内氏を滅亡させた陶晴賢の軍に破れた。
 天正期(1573-)に在城した杉弾正忠重杉権頭連並(旧大内氏臣→毛利氏臣)は、天正13年(1585)4月秋月種実、伊集院忠棟(島津方)軍に敗れたという。
 天正14年(1586)、島津軍が立花山城(新宮町)攻めを行ったとき、筑後の豪族星野中務大輔吉実と星野民部少輔吉兼兄弟(島津氏臣)が入城したが、豊臣秀吉の九州征伐軍が迫っているのを恐れ八代に引き上げた島津軍の置き去りとなり、秀吉に呼応して攻め込んだ立花宗茂軍に敗れて最後の城番となった。

 今に、杉弾正の子と乳母の霊を祀る「守母神社」(須惠町)や「吉塚の地名」の由来となった星野吉実の首を埋めた吉実塚(吉塚地蔵)ほかの悲劇の物語が語り継がれている。
 須惠町を歩いていて田の中に石祠が祀られている風景を目にしたが、霊的にみると戦いで討ち死にした複数の人たちを埋葬した塚であったり、石地蔵等を置いて供養してあるところもあった。多くの討ち死に者を出すような攻防戦が繰り返された背景には当地が交通の要にあったということなのだろう。

 なお、「岳城山」には、「皿山公園」(上須惠)から割と楽に登れるハイキングコースがあり、清滝(皿山公園の上)に「高鳥居城武士之霊塔」や岳城山腹に「岳城城址碑」があり、山頂付近には「高鳥居城」の遺構が残っている。また、「岳城山」から「若杉山」(太祖神社上宮)に至る尾根の縦走コースもある。

 「須惠宝満宮縁起」記に、上記の「杉権頭連並が須惠宝満宮を崇敬していた」とあるらしいが、この杉連並を含め多くの高鳥居城主が戦いに敗れているので、ひょっとしたら「岳城山」の山上から「須惠宝満宮」を見下ろすという図が「不敬」になっていたのではないか。こんなことをつい考えてしまう。
  
 因みに杉権頭連並は、もとは大内氏から筑前に派遣されて竜ヶ城(鞍手郡宮若市龍徳)の入り、大内氏滅亡後、毛利氏の家臣となり高鳥居城に入城、丸山城(粕屋町大隈)、竜ヶ城を出城としたが、上記天正13年(1585)4月高鳥居城の落城寸前に竜ヶ城に逃れ、後に秋月氏の家臣になった。丸山城跡の北隅の土壇を杉権頭連並墓所というが、連並が竜ヶ城に逃れたときに廃城となった丸山城に連並の墓があるというのは疑わしい。

 ところで、「若杉山」には、その「左谷」(須惠町)と「右谷」(篠栗町)に多くの天台宗聖護院派系僧坊があったが、戦国時代(天正年間1573-92)、その両谷僧坊が争い、度重なる抗争により両谷合わせて300余あったという僧坊の殆どが焼失し、両谷ともに寺勢を失った。
(※なお、当時の右谷の僧坊は真言宗系だったという説もある)。

 このうち、江戸時代になって、左谷(現・佐谷)の佐谷院主坊建正寺(本尊十一面観世音菩薩)と右谷の座主だった若杉石井坊が再建されたと聞いている。

 この抗争に「須惠宝満宮」(天台宗聖護院派・宝満山修験)も巻き込まれ社殿、記録を焼失したといい、恐らくこの時に「古宮」が焼滅したのではないかと思っている。

 須惠宝満宮縁起は、「天正十五年小早川隆景、名島に城を築くや本社の頽廃を嘆き一宇の社殿を造営」と続いているので、ひょっとしたら、このときに「古宮」の地から現在地に遷宮したのではないかと想像している。

 ※つづく→「須惠宝満宮ァ租騨曜蝓κ_藩主黒田家加護と明治の修験坊衆解体(須惠町)」。

 ※参照→「田中八幡宮にて〇摩勢焼き討ちなど(篠栗町田中)」。
 ※追記→「黒殿神社(粕屋町)と守母神社(須惠町)の伝説」。

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2013年11月27日

須惠宝満宮〜元寇で筥崎宮・極楽寺と係わり(須惠町)

軒下扁額 前回「須惠宝満宮◆粗鸚蚣刺看石灯籠群(須惠町)」からつづく。

 「須惠宝満宮」(須惠町須惠)の拝殿で、「筥崎浜汐入砂」と書いた砂袋がたくさん置いているのを目にしたことがあったが、何に使うのだろう。ふと、「櫛田神社」(福岡市博多区)の「山笠」行事の筥崎浜「お汐井取り」(7月1日)が思い浮かんだ。
 でも、それを見たのが10月だったので当たらないか。


 だが、「筥崎浜汐入砂」の「筥崎浜」は、「筥崎宮」(福岡市東区)参道の前にあり、この「筥崎宮」と「須惠宝満宮」とは、歴史的に係わりがあった。

 鎌倉時代・文永11年(1274)10月、元・高麗軍が博多湾に上陸した元寇(文永の役)のとき、筥崎浜に鎮座する「筥崎宮」がその兵火に罹り、急ぎ神輿で御神体を宇美「極楽寺」に遷すことになった。
 その際、この緊急遷宮道の近くに鎮座する「須惠宝満宮」(古宮か)では、その坊衆(宝満宮を祭祀する宝満山修験衆・山伏ら)が「筥崎宮」に出張し、そのご神体を守って元軍と戦い、宇美遷宮を成就させたという伝承がある。
 なお、宝満山修験山伏たちは、皆、盛高刀冶の大刀を持っていたというので、元軍と戦うことはできただろう。

 宇美町宇美極楽寺(極楽寺バス停から里道に入ると観音堂あり)に筥崎八幡宮址・極楽寺址があるが、ここが当時、筥崎宮の緊急遷宮地となった「極楽寺」(寺院)があったところなのだろうか。

 「筑前國續風土記」に、「極楽寺址 宇瀰村の枝邑障子岳と云所にあり。今は民屋となれり。文永十一年に蒙古攻め来りし時、箱崎八幡の神體を、兵禍をさけて、この寺に籠おき奉りし由、八幡愚童記にしるせり。」とある。
 同附録には、極楽寺址について、「今、観音堂あり。釋行教か開基なり…。極楽寺・大安寺の二ヶ寺ハ、豊前宇佐宮・城州石清水八幡宮にもあり。皆行教か興立の寺也。」とあり、また、同拾遺にも同様の記事がある。

 今も極楽寺址に観音堂が残っているが、極楽寺は、筥崎宮(筥崎八幡宮)から距離的には離れてはいるけど、豊前宇佐宮(八幡神)の神宮寺に行教開基の極楽寺があるのと同様に、同じく行教開基の宇美極楽寺は筥崎宮(八幡神)の神宮寺のひとつであったのかもしれない。

 ここは宝満山〜若杉山連山のなかの三郡山の山麓(極楽寺谷)に位置し、また、上記のように、「須惠宝満宮」の坊衆が、筥崎宮の神輿を極楽寺へ遷す助力をしているので、極楽寺もまた宝満山修験とも係わる神仏習合の寺だったかもしれない。

 前回、「須惠宝満宮」の拝殿正面軒下に「敵国降伏の扁額(※上の画像)が掲げられあることを記したが、「筥崎宮神門」に掲げてある「敵國降伏」の扁額の複製品か。
 この須惠宝満宮の扁額は、いつのものかは分からないが、元寇のときに「須惠宝満宮」が「筥崎宮」と係わった上記事蹟を記念して、「筥崎宮」から賜ったものかもしれない。
 この扁額は、今次大戦の敗戦直後、ご難を恐れてか拝殿から下ろされ忘れ去られていたが、近年、氏子(新原)の荻氏(須惠町商工会長)が見つけて再掲したと聞いたので、戦前からあったことは確かだ。

 ※つづく→「岳城山・高鳥居城や若杉山左谷・右谷僧坊の抗争〜須惠宝満宮(須惠町)」。

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2013年11月26日

須惠宝満宮◆粗鸚蚣刺看の石灯籠群(須惠町)

一の鳥居  前回「宝満宮古宮・地蔵堂〜須惠宝満宮」からつづく。

 須惠宝満宮の「古宮(地蔵堂)」を参拝した後、(現)須惠宝満宮(宝満神社)から旅石八幡宮方面へと散策・行脚した。



 (現)「須惠宝満宮」は、「古宮地蔵堂」の路地を戻り→旧県道を右に進み→新旧の県道(35号線・筑紫野古賀線)交差点(「古宮」信号機あり)を渡り→そのまま旧県道を少し進むと左側にある。
 旧県道沿いに宝満宮の表参道一の鳥居」、石垣と小川、石橋、石段等がある(※画像1)。

 なお、上記交差点の手前左側のショップ敷地内(駐車場)に注連縄をした大小2本の石碑(「一本松の板碑」) が立っているが、この前にある信号機を渡って、道幅の狭い古道(里道)を直進したときは、右側に「須惠宝満宮」裏側の石垣と裏参道石段がある。

献田碑 また、この手前の外縁の叢上に建つ「献田参段歩の石碑の前を右折すると脇参道に至る。
 なお、この碑は、祝「皇紀二千六百年」を記念して須惠宝満宮に献田された「神田」があったことを示すもので、裏面には当時の奉献者の人たちの氏名と神田購入資金の奉献額が刻してあるが、下記の「石灯籠」(常夜燈)群と一体をなすものと考えてもよい。
 なお、この献田は、天神畑と言われている須惠宝満宮裏の農地のことだろうか。

 「須惠宝満宮」の境内には、実に多くの「石灯籠」が林立しており、その数は、目視しただけでも49基(台座のみのものを含む)あった。

石灯籠群1 殆どの石灯籠の鞘部分に「紀元二千六百年記念」、「皇紀二千六百年記念」等の刻字があるので、昭和15年(1940)の国家鼓舞の祝典神武天皇即位紀元(皇紀)2600年に呼応して氏子(上須惠、佐谷、新原等)が奉献したものなのだろう。

 因みに、平成25年(2013)は、紀元(皇紀)2673年ということになり、日本の天皇家(皇室)の歴史は、仏誕2583年(諸説あるが)、或は基督生誕翌年から始まる西暦紀元2013年よりも古いことになるが、今ではそれを信じる人は少ない。

源宝満宮灯篭 しかるに現在、この皇紀元年となる神武天皇(磐余彦)が橿原宮で践祚(せんそ)し即位した辛酉歳(日本書紀/紀元前660年/弥生時代)を信じる人が少ない。

 にもかかわらず、国民は、その神武天皇即位の日と計算された(旧)紀元節(2月11日)を日本「建国記念の日」として祝っている。

 本日、衆院で「特定秘密保護法案」が可決したが、いつの時代にも、国民は、国家権力の体制につごうのよいように踊らされ、統制されて行くものだろう。
 今、日本近海を見渡せば、北朝鮮の核保有や拉致問題未解決、韓国の竹島占領、中国の尖閣領有権主張や防空識別圏設定、続行が危うい日米安保体制等等、主体性を貫けない日本の姿があり、いつ国家権力によるナショナリズム高揚の火が点されるかが分からない状況はあり、「特定秘密保護法」の制定を急ぐのは、その過程の一環なのかもしれない。

 須惠宝満宮の拝殿軒下に掲げてある「敵國降伏」の扁額(※次回参照)が、林立する「皇紀(紀元)二千六百年の石灯籠」を黙って見下ろしているが、皇国日本の皇紀年号が復活することはないにしても、いつ友好を育んできた隣国が再び「敵国」に変貌するかは分からない。
 また、須惠宝満宮裏参道の横の古墳状小丘陵上に立つ「忠魂碑」を見ていて、これは地元氏子出征戦死者の霊魂を悼むために建立されたものだが、ふと、やはり同じような「歴史は繰り返される」のだろうかと思った。

 ※つづく→「須惠宝満宮〜元寇で筥崎宮・極楽寺と係わり(須惠町)」。

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2013年11月25日

宝満宮古宮・地蔵堂(須惠町)〜須惠宝満宮

6看板 先日記した「峯の薬師(宗像市光岡)」のなかに、「宝満山修験山伏の入峯が行われていた時代には、山伏が峯の薬師を祀る光岡宮横の薬師堂を一夜修法の場としていた」というようなことを書いた。



 そのとき、以前、須惠町(福岡県)に宝満山修験山伏に係わる須惠宝満宮」(宝満神社)があることを書いたことを思い出した。
 (※参照→「須惠町の史跡・新原猿田彦大神石碑(続報3)」、
 及び→「同左(続報5)」)。

 そこで今回は、まず、この須惠「宝満宮」の元宮である「宝満宮古宮(地蔵堂)」についての覚えを書きとめておくことにする。

3古宮地蔵堂 JP須惠中央駅(香椎線)を下車→駅舎から正面に見える須惠町役場の先(信号機)を左折→道路右の「古宮お地蔵様の看板(※画像1)前を右折し路地に入る→10mほど進むと右に「古宮跡」の石碑や「古宮地蔵堂」がある(※画像2)。



 「古宮地蔵堂」の前に、長方形(縦長)の「古宮跡保存碑」(昭和15年2月吉松氏建立)が建っている。
 しかし、御影石の由緒書が彫り込んである部分が身長より高い位置にあり、肉眼ではそのすべてを読むことは至難だ。

2常夜燈1花立 古宮地蔵堂の前には、一対の石造常夜燈(平成8年3月吉松文具店奉納)が置いてある。

 また、石造の大花立(長沢卯兵次、宮地道裕、長沢正晴奉納)もある。


 この大花立には、いつも生花が供えてあるというので、今も地元(須惠、上須惠、佐谷、新原)旧家の人たちが、宝満宮古宮の由緒をお地蔵さまに託してお守りしていることが分かる。(※画像3、4)。

 なお、古宮地蔵堂の左(上記路地の突き当たり)の空き地(私有地)の奥に大きな段差があり、この下には須惠川があり、この清流沿いの高台を境内とする元宮(古宮)があったことがわかる。
  
5若杉山4宝満山を望む








 ここからの、岳城山〜若杉山〜砥石山〜三郡山〜頭布山〜仏頂山〜宝満山と連なる連山の眺望は抜群である(※画像5、6)。
 この連山の山や谷が宝満山修験(天台宗聖護院派山伏)の修行場だった。

 「宝満宮古宮地蔵堂」は、これらの連山を左方に眺めながら、宝満山を背にして建っているので、かつての「宝満宮(古宮)」は、宝満山(竈門神社上宮)を遥拝する形で建っていたことが伺える。

 なお、この近くにある須惠「宝満宮」の神殿は、正面右方向に「若杉山(太祖神社上宮)」と向かい合うように建っているので不思議に思っていたが、多分、古宮の地から現在地に遷宮したときに本来の形が失われたのかもしれない。ただし、若杉山の「太祖権現」は、須惠宝満宮の祭神の一である。
 現在地への遷宮は、小早川隆景(名島城)の筑前入城(名島城)の頃かと思っているが、記録はないらしい。
  
 そして、この須惠「宝満宮」の神殿後方の田園の先には、「旅石八幡宮」を産神とする「旅石」の集落があり、その旅石には、今も宝満山修験山伏が守り続けてきた「旅石観音堂」(海蔵寺・多米寺・尋来寺・法玄坊跡)がある。

 ※つづく→「須惠宝満宮◆粗鸚蚣刺看の石灯籠群(須惠町)」。

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2013年11月24日

冨士原小峰「聖観音堂」(宗像市広陵台)=宗像四国東部霊場85

4広陵台聖観音85外観   前回「徳重村の上薬師堂(宗像市徳重)」まで行ったら、その足で「宗像四国東部霊場第85番札所 冨士原小峰「聖観音堂」(本尊聖観音菩薩)」まで行くことになった。

(所在地:宗像市広陵台1-2-37)。

 同上薬師堂の先の新旧県道75号線(若宮玄海線)が合流する辺りにある「広陵台西口」(信号機あり)を左折し、広陵台住宅団地内に入る。
 「広陵台」の文字は、「広範囲に古墳が存在する台地」と読めそうだが、団地造成中に確認された古墳の一部は、今も団地内の「広陵台古墳公園」に整備保存されている。
 この「古墳公園」は、団地内中央道路(リサーチパーク入口交差点信号機に抜ける道)沿いの右側にある「中央公園」(広陵台5丁目)の手前を右折するメイン道路を進むと左側の丘陵上にある(広陵台4丁目)。

 この先の右側の児童公園がある辺り(広陵台3丁目)に、以前、記憶が不確かではあるが、小松「太郎坊神社」(だっか)が鎮座していたような記憶があるのだけど、今はない。なお、幼稚園の跡地が児童公園になったのではないかと思うが、今、ここで遊んでいる児童の姿を見かけない。

 さて、「冨士原小峰聖観音堂」は、上記団地内中央道路を直進し、中央公園前交差点(信号機あり)を左折し直進し、冨士原公民館前に抜ける道を右折すると、この坂道を下る途中の右側(稗田池の上方)にある。

3広陵台聖観音85裏側  道路沿いにある白壁(十三佛堂の裏壁)が目印になり、大きな石碑が立っている近くから境内に入ると、いきなり良く葉の茂った「藤棚」の下だった。
  ここに着いたのは小雨降る夕暮れ時で、藤棚の下は真っ暗だった。

  その枝葉の間から雨水がポタポタと落ち、土の上には水溜りができていた。お堂の周りは叢で、雨に濡れてべたべたした体は、蚊の大群に刺さされて散々、慌しくここを出た。
  こんな状況のなかで目を見開き記憶していることのみを、以下、覚えとして記しておく。

2広陵台聖観音85右側  確か藤棚の下に、石祠、石像の大日如来坐像と童子立像あり。

  藤棚のすぐ後方に、石像三体〜弘法大師坐像(安永三年卯月銘)、修行大師立像、石仏坐像(宝暦十一年十一月銘)あり。

  小お堂内には、聖観音立像、阿弥陀如来像、不動明王像、馬頭観音立像(だっか)を安置。

  お堂の右側の「十三佛堂」(道路から見えた白壁の内側)には、十三佛の石像、このほかに「牛馬童子」と「蠶養童子」の石像があり、かつてこの地区にあった農家集落の農耕畜産や養蚕などの守護として祀られていた様子が伺える。
  (※参照→「初めて観た蠶供養塔(篠栗町乙犬)」)。
  (※参照→「峯の薬師(宗像市光岡)」)。

1広陵台聖観音85左側  同左側には、石塔、庚申尊塔(宝暦三年)、石祠2社

  境内には、石祠が、つごう3社あることになるが、このなかに上記の小松「太郎坊神社」のものもあるのだろうか(未調)。

 なお、 当地の地名は、「広陵台1丁目」となっているが、「冨士原小峰聖観音堂」の名で分かるように、この辺り旧地名は、冨士原小峰だったことが分かる。
 そして、旧冨士原小峰には、古代~中世の冨士原小嶺遺跡があった。
 また、冨士原の地名は、旧藤原村が明治2年に変ったものいう。元は吉留八所宮の領有地で赤間物部氏などが管轄していたともいうので、平安時代に物部氏を抑えるために藤原摂関家から藤原千歳麿が下向して、赤間村の一部を藤原村としたものだろうか。

 この詮索はともかく、夕暮れの雨のなか、帰路を急いだ。冨士原公民館前から県道463号線(芹田石丸線)を石丸方向(左)にひたすら進み、JR教育大前駅をめざした。また改めて周辺行脚を続行することになった。

※つづく→「名残伊豆丸遺跡(古墳)など(宗像市名残)」。 

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2013年11月23日

徳重村の上薬師堂(宗像市徳重)=宗像四国東部霊場22

徳重薬師22  前回「照日宮(照日神社)◆繕内社など(宗像市徳重)」からつづく。

  徳重には、もう1か所、「宗像四国東部霊場第22番札所 徳重村の上 薬師堂(本尊薬師如来)」がある。(所在地:宗像市徳重250)。

  前回の照日神社から道75号線(若宮玄海線)の新道バイパスを宮若市方面に向って進むと、「広陵台西口信号機」があるが、薬師堂は、その少し手前の左側の盛り土の台上にある。
  この薬師堂は、仮に新道を車で走行していても視界に入り、薬師堂前に立っていると、いやでも車の走行音が耳に入る。
  徳重薬師22滝口家跡
  新道と平行している旧道を歩くときは、集落が途切れるところの右側に見える一握りの樹林の後ろになる。その手前に、空き地となった滝口家の瓦屋根つきの立派な塀と1本の樹木があり、その先を右折して、新道に出る手前を左に上るとよい。

  薬師堂の戸は、普段はがっちりと施錠されているので、中の様子を眺めることはできない。
  なお、お堂の脇には、地蔵菩薩石像と弘法大師石像が置いてある。
  この薬師堂の存在は江戸時代の記録(附録)にも残されており、由緒の記載はないが、徳重村の人たちが、村に疫病が浸入するのを防ぐために、また、疫病退散を祈念して、集落の山側入口の高台(村の上)に薬師堂を建て薬師如来を安置したものだろうか。

※つづく→「冨士原小峰「聖観音堂」(宗像市広陵台)=宗像四国東部霊場85」。







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2013年11月22日

照日宮(照日神社)◆繕内社など(宗像市徳重)

照日神社神殿境内社全景a  前回「照日宮(照日神社)」に記した「記念碑」に、照日神社の合祀祭神として、「貴船神社(高龗)、須賀神社(須佐之男神)、太郎天神(少彦名神)、天満神社(菅原道真)、八幡神社(應神天皇)」が記されている。
 (所在地:宗像市徳重179)。

  この合祀祭神のなかに、附録にある「貴船神社(ナギノ)、須賀神社(ナギノ:祇園社)、天満宮(サカモト)」等が含まれているのではないかと思っている。なお、照日宮(照日神社)の所在は(ナギノ)である。

  ただし、上記「八幡神社」を除く四社は、戦前から境内神社として鎮座しており、今も境内に「太郎天神社(神像あり)、貴船神社(龗神社と表記)、須賀神社」社祠がある。

照日神社キューピットb  このなかの「須賀神社」社前に、誰かがここに持ってきて捨てたのか、二体の白いキューピットが置いてあった(※画像)。見ていると何だかユーモラスになり、祭神須佐之男神(素盞鳴命)の力強さと合わせて、天使の幸福を得られれば万歳だ。

  須佐之男神は、照日神社の主神大日孁神(天照大神)との誓約で産まれた宗像三女神の父神であり、少彦名神、菅原道真などと共に物部氏系出雲神である。

  「天満神社(天満宮)の祭神菅原道真(菅公)の「スガ(菅)」は、須賀神社の「スガ(須賀)」と同音で、物部系出雲神には違いなく、また、宗像を含む筑紫国各地に「天満神社(天満宮)」が数多く鎮座する背景には、藤原氏との中央政争に敗れて筑紫に配流(左遷)された菅原道真が、筑紫において物部氏復興運動を企図したことを物語っているのではないのかと思っている。少なくとも菅原道真は、太宰府・榎寺の伝承で語られるような弱弱しい人物ではなかったと思っている。

  因みに、徳重「照日神社」鎮座地から、県道75号線(若宮玄海線)を下れば宮若市であり、現宮若市を含め鞍手郡が旧物部氏出雲王国の中心地だったと仮想している(私見)。

  このほか境内には、三体の小石仏(地蔵か)小堂や、二本の石碑がある。石碑のうち一本は、「白鬚大明神」と読め「猿田彦大神」を祀ったものとわかる。あとの一本も猿田彦大神か、庚申塔ではないかとは思ったが、刻字読めず不詳。

  なお、照日神社の南西部一帯は、大型住宅団地造成により、町名も葉山〜桜〜緑町などに変わり、今は徳重とはいわない。緑町の雨降神社は附録にある「天森天神社(トリゴエ)少彦名神・菅公祭神」のことか。

 ※つづく→「徳重村の上薬師堂(宗像市徳重)」。

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2013年11月21日

照日宮(照日神社)(宗像市徳重)

照日神社鳥居1  前回「徳重兎渡の十一面観音堂(宗像市) 」からつづく。

  前回、「かつて徳重兎渡には、徳重の照日宮(照日神社:祭神大日雩尊)と係わる止々社(兎渡社)の祠もあったのだろう」と記した。

  この「照日神社」は、兎渡の南東方向、国道3号線「徳重交差点」(信号機あり)の南側、住宅地の後方にある小丘(林)の前に鎮座している。(昭文社地図には載っていない)。
  (所在地:宗像市徳重(字神の上)179番地)。

  拾遺には、「ナギノに在。大日雩尊を祭る。好祠にして兎渡に近し。…古代より神田(今宮田ともいふ)もありしよしにて、今に至りて毎年八月廿六日相撲なとありといへれは、此かたにや。さけと其證なけれはたしかには定めかたし。…」とある。

  祭礼日の八月廿六日は、照日神社の当初の社祠建立記念日なのかもしれない。
  境内にある「照日神社新築記念碑」(平成9年(1997)12月20日竣工)の由来記には、「崇徳天皇の大治三年(西暦一一二九年)戊申八月宗像大宮司氏平の勧請により建立された。当初は神領も多く、その祭祀は年二四度も行われていたが、小早川秀秋の時に、神領を悉く引上げられ荒廃した。」とある。

  今、祭神は「大日孁神大宮能女神」となっている。
  「大日孁神」(大日雩尊)は、女神「天照大神」のことなので、「照日神社」の神社名は、この祭神名をして付けたものではないかと思う。

  大日孁神は、「おおひるめ」の発音から「卑弥呼(ひみこ)」(邪馬台国女王)のこととする説もある。
  古代宗像君の国が卑弥呼をいただく邪馬台国の一であったと考えれば、或は、「宗像三女神」(宗像大社祭神)と親神「天照大神」との絡みからでも、宗像大宮司が大日孁神(天照大神)を勧請したことに対する違和感はない。
  ただし、祭神名を天照大神とせずに大日孁神としたのは、勧請時(どこから勧請したのかが不明だが)、男神「饒速日命」が天照大神であるとの意識がどこかにあったのかもしれない。

  なお、「大宮能女神」(稲荷神[宇迦之御魂神]の巫女神)は、天照大神の神饌を扱う従神ともいうので、後に主神大日孁神(天照大神)のお使い神として併せて祀ったものなのだろう。

  筑前国に入った小早川秀秋が照日神社の神領を没収した背景には、宗像大宮司氏貞亡き後の宗像一族の勢力を一掃する意味があり、宗像大社の親神を祭神する神社として大神領を有した照日神社は、そのターゲットの一つとなったのだろう。

  照日神社建設特別委員会に名を連ねた人たちは、かつての宗像一族に連なる人たちの後裔なのだろうか。徳重地区(戦前60戸、現在225戸超)は、新興住宅の開発もあり、一概にそうとは言えないが、津田、林、篠原、岡本、吉水、土性、石松、加藤、鎧井、田中、宮本の氏姓が見える。なお、建設工事は石松工務店、永島建設、土木工事は明徳建設が請負った。

  上記由来には、「明治五年十一月三日、村社に指定され、同三十年に社殿が新設され、その後、百年を経過し、建物の損傷が甚しいため、平成八年(一九九六年)四月の徳重区総会において、住民二二五戸の合意により、祖先から継承した文化遺産に相応しい神社の建築を決定し、篤志家の協力を得て、昔に劣らぬ社殿が平成九年(西暦一九九七年)十二月に竣工した。」と続き、地元の人たちの神々への崇拝心の強さが伝わってくるようだ。

照日神社手洗鉢2  境内にある手水鉢と同屋舎や狛犬などは、平成8年(1996)~9年(1997)のときの社殿建築と合わせて建造されたものだろう。
  総工費は、6,000万円だったという。


  なお、「照日宮」(額束)の明神鳥居は、両柱の刻字を見ると、「弘化2年8月再建」の鳥居があったところに、「昭和57年3月」に建立したことが分かる。

 ※つづく→「照日神社◆繕内社など(宗像市徳重)」。

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2013年11月20日

徳重兎渡の「十一面観音堂」(宗像市)=宗像四国東部霊場62

徳重兎渡十一面観音堂62  「節婦お政(阿政)の墓(宗像市赤間1丁目)」からつづく。

  前回の「節婦政墓」から県道503号線(旧唐津街道)を引き返し、「辻田橋」(釣川)の手前まで戻ったとき、同行者に「ここを右折した先に徳重兎渡十一面観音堂があります」と話したら、たちまち「そこにも行く」ということになり案内した。(※画像)。

  釣川左岸のこの辺り(徳重1、2丁目)は、かつては「徳重村兎渡(とど)」といわれていた。

  「兎渡」の地名の由来は知らないが、兎渡の字から受けるイメージは「兎が川を渡る」で、この辺り釣川の川幅は、昔はかなり広かったので、ついつい大国主命の因幡の白兎の神話などが思い浮かんできたりして、何かしらユーモラスな気分になる。

  少し進むと左側(徳重2丁目)に「FACE800」(パチンコ店か)があるが、ここから右側(徳重1丁目)にある小丘陵傾斜地に建つ住宅団地内道路に入る。

  「宗像四国東部霊場第62番札所 徳重兎渡十一面観音堂(本尊十一面観世音菩薩)」(木造瓦葺平屋建)は、ここの住宅内道路に入ってすぐ右側の住宅の先の、かなり幅の狭い路地の奥に建っている。(所在地:宗像市徳重1丁目18)。

  「十一面観音堂」は雑木に囲まれ、堂前にはご神木とも思える檜もあり、その横に2個の丸形手水鉢(1個は平成9年5月奉納)も置いてあり、狭い路地の奥にしては境内は広い感じがする。

  十一面観音堂内の須弥檀には、「石祠(3社)」と「小石仏」(十一面観世音菩薩像か)や「木仏」(阿弥陀像か)、「明王石像」などが並んでいるが、それぞれの説明は何もされていない。

  かつて徳重兎渡にあった神社・堂宇について、附録に「貴船社水神社地神(兎渡馬社)、阿弥陀堂不動堂」などが、また拾遺にも「地神(兎渡馬社ともいう)」の記載があるので、現在、「十一面観音堂」の堂内にある上記社祠3社や仏像等は、これらの神社や仏像に該当するものなのかもしれない。

  まお、拾遺の「徳重村・照日宮」の項に、「…宗像末社記に中御嶋眷属小神の内に止々(トドノ)社あり。…今兎渡の所にはさいふへき古祠ハなし」との記載もあり、かつては徳重の照日神社(祭神大日雩尊)と係わる止々社(兎渡社)の祠もあったということなのだろう。

徳重兎渡番外  (付記) この住宅地団地内には、近くの別の箇所(観音堂より左側の丘陵の傾斜面)に、もう一つ「宗像四国東部霊場番外兎渡札所(本尊名不詳)」がある(※画像)。
  無銘の石碑を祀る小堂である。
 (所在地:宗像市徳重1丁目22)。


  それぞれに旧徳重兎渡の地元の人たちによって崇敬が続いているのだろう。

 ※つづく→「照日宮(宗像市徳重)」。

 ※追記2017.3.22…本場、四国八十八ヶ所霊場第62番札所だった 高野山真言宗 天養山観音院 宝寿寺(本尊十一面観世音菩薩/愛媛県西条市小松町新屋敷甲428)は、同霊場会脱退係争裁判で勝訴し、2017.3.22同霊場会を脱退した。さみだれのあとに出たる玉の井は白坪なるや一宮かわ。

keitokuchin at 23:44|PermalinkComments(0)TrackBack(0)