2013年12月

2013年12月31日

部木八幡宮(神功皇后伝説)と部木古墳群、弥生遺跡(福岡市)

以前、「旅石八幡宮:神功皇后と弥生遺跡」(須惠町)」に、神功皇后が、新羅遠征から帰国後、皇子(誉田別命)の出産予定地・宇美に向けて進む途次、「部木」(へき)に立ち寄ったと記した。(部木八幡宮所在地: 福岡市東区蒲田3-18-8)。

部木八幡石段  「部木」 には、「神功皇后」を祭神とする「旧蒲田村八幡宮」(現在、「部木八幡宮」という)が鎮座しており、神功皇后が当地「部木」(当時は「別火(べっぴ)の里」)に立ち寄ったという伝説を裏付けていると考えてよいかと思う。

  「部木(べっき・べき・へき)」は、「別火(べっぴ)」が訛ったもので、「部木八幡宮」には、神功皇后が当地で八百万の神々に捧げる火(別火)を焚いて皇子の安産を祈願した、との由来がある。
 (参照→「部木八幡宮の古ノ宮(元宮)旧跡地と別火の里・神池御潮斎所跡(福岡市東区)」)。  

  神功皇后は、4世紀末〜5世紀始め頃の新羅とも係わる九州倭国の女王だと思っており、神功皇后の行くところには、必ずといってよいほど(縄文)〜弥生〜古墳時代初期の遺跡があるが、「部木」(蒲田地区)にも、同様に次の遺跡等が確認されている。

  まず、部木八幡宮境内の杜には、ひと目みてそれと分かる九基(前方後方墳二基+円墳七基)の「部木古墳群」があり、古墳時代初期(4〜5世紀)築造との推定もある。

部木原遺跡弥生土器と溝  また、当地のすぐ東を九州縦貫高速自動車道が走り、すぐ南に同福岡インター(料金所)があり、西側には工場団地があり、それらの建設時に幅広い発掘調査(蒲田水ヶ元遺跡群蒲田部木原遺跡群など)が行われた。

  これらの発掘調査により、石器(旧石器時代、縄文時代、弥生時代)、弥生時代中期以降の竪穴式住居跡や溝跡と弥生土器(※画像2)、甕棺墓、古墳時代の土器(新羅系と思う)などが発見され、古い時代から集落があったことが分かっている。

  さらに、当地(蒲田地区)は、福岡市に併合される以前は、糟屋郡多々良村大字蒲田(別木八幡宮鎮座地は字坂本)で、多々良は、多田羅で、この「羅」は「加羅、新羅」の「羅」で、糟屋郡旧多々良村一帯には、加羅、新羅の影響を強く受けた集落地区があったことが伺える。
  多分、発掘された各時代の遺物にも、加羅、新羅系のものが多く含まれていると思う。
  神功皇后は新羅遠征を行ったが、神功皇后自らの出自も「新羅」であったと思う。

  篠栗町内住を発した多々良川は、篠栗町内(迫戸河内)〜丸山(粕屋町大隈)の南〜九州高速道福岡インター料金所(蒲田)の南〜粕屋町江辻地区の南を流れ、別木八幡宮の西方((粕屋町江辻)で、同宮の北方を流れてきた久原川と合流し、名島(福岡市東区)の河口方向に流れている。
  上記の旧多々良村一帯とは、名子、蒲田〜名島に至る多々良川右岸地区だが、両岸地区に旧大川村江辻(粕屋町)、同左岸地区には同戸原(粕屋町)もあり、蒲田名子とこの江辻戸原地区が、部木八幡宮を産神としていた。
  つまり、この三地区は、多々良川水系に囲まれた肥沃な平野が広がる地区で、その中心拠点が蒲田地区にあり、同地区に首長級者の古墳が造営され、四地区の産神(部木八幡宮)が設けられたのではないかと推測できる。

  なお、多々良川下流地区にある前方後円墳(名島1号墳天神森古墳)では、中国製銅鏡が発掘されたといい、築造当時の当地方が、まったくヤマト政権の影響下にはなかったことが分かる。
  神功皇后もしかり、神功皇后はヤマトに非ず、九州王朝(九州倭国)の人だったと思っている。

 ※つづく→「部木八幡宮の杜にある部木古墳群(九基)福岡市」。

keitokuchin at 02:33|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2013年12月28日

戦国悲話・守母神社の伝説など(追記)須惠町

  前回「黒殿神社(粕屋町)と守母神社(須惠町)の伝説」の追記。

  天正13年(1585)4月、岳城山(須惠町須惠・上須惠、篠栗町若杉境界)にあった高鳥居城が、秋月種実・伊集院忠棟(島津方)軍に攻められて落城した時、乳母(慈照天眼禅尼、或は大献黙笑禅師ともいう)は、城主杉弾正忠重(戦死)の幼君を連れて、山麓の道林寺(須惠町植木)に落ちのびるべく本丸を後にした。

  だが、切通越下の山中に至り、とある岩陰で身を隠して潜んでいたところ、突然、幼君が泣き出し、泣き止まぬ幼君の泣き声を聴きつけた島津軍に発見され、幼君ともども討ち取られた。
  そのとき、乳母は、幼児の夜泣きを止める霊神となると言って死んだといい、後にこの場所に乳母を祀る小さな社祠」が建てられ、「守母神社」と称した。

  以来、「守母神社」(糟屋郡須惠町植木)では、今日までに幼児の夜泣き止め霊験に加えて幼児の守護神としての信仰が続いているという。
  幼児連れの親が人形や玩具、菓子等を守母神社の神前に供え子供の無病息災を祈念して帰る風景は、今も昔も変わらないが、現在の社祠は、参拝所を含む比較的大きな建物となったので、以前のようにこれらの供物が雨ざらしとなるようなことがなくなった。

  「守母神社」は、福岡県道35号線「須恵第2小入口信号機」から糟屋郡篠栗町乙犬に抜ける「切通越え」の上り坂(舗装道路)の左下に見える「大谷池」の辺(上岸の奥)にある。
  ここは、霊峰・若杉山(681m)三山の一、岳城山(381.4m)と乙犬山(185.8m)に挟まれた谷間間で、「守母神社」は、「大谷池」の上岸の奥の雑木に囲まれた岩を背にして鎮座している。

  現在、「守母神社」周辺は「須惠町立守母公園」となり、「切通越え」道の途中、須惠東中学校の上方を左に下ったところに白山桜などのある駐車場が整備された「守母神社参道入口」があり、また、境内には「東屋」なども造られ、神社由来に係わる暗いイメージを払拭している。

  以前の「切通越え」の道は、現在のような2斜線舗装道路はなく、細い山越えの道(砂利道)で、「守母神社」には、尾黒古墳群近くから「尾黒池」や「大谷池」の築堤を上り、「大谷池」の右からその上部縁を回り込むようにして行っていたが、雨の後などには増水した「大谷池」の水が参道を塞ぎ行けないこともあった。
  その頃に比べると、今は、「切通越え」の車道が開通し、「大谷池」も整備され、車で新参道の入口まで行くことができるようになり随分と便利になった。
  
  「大谷池」で溺れて亡くなった子供たちがいるように思えるのだが、境内にも強い霊気が漂っている。
  山間の行き止まりの岩陰は霊の集まりやすい場所なので、或は「古代祭祀場の跡」なのかもしれないが、霊視した範囲では27人の将兵の霊が鎮まっているようにも思え、攻守両軍の激戦地の一つだったかもしれない。
  もし、守母神社の由来が事実だとしたら、乳母と幼君を守っていた者と島津軍との間で戦闘があったとも考えられる。
  
  ここで強い霊気を感じたとき、護摩を焚いた方がよいと思ったが、毎年4月23〜24日の例祭時に道林寺で供養を行っているという。
  この例祭日は、「地蔵菩薩の縁日」なので、この日を例祭としたのは、幼君を地蔵菩薩に託したのであろうか、或は乳母と幼君が殺害された命日なのだろうか。道林寺は禅寺で、境内には「地蔵菩薩像」も祀られている。

  なお、戦国時代、乳母又は母と幼君が城を落ちのびたが見つかり殺害され、その地に供養堂(地蔵堂等)を作ったというような、これと似た戦国悲話は、近くでは立花山城(新宮町原上)や、 許斐岳城(宗像市久原)、白山城(宗像市→宮若市山口)などにもあったと思う。

  (※「切通越え」については、筑前國續風土記拾遺に「(乙犬)村の南に小峠あり。切通し越と云。植木村に通ふ捷径なり。凢勢門河内より須恵 宇美 太宰府に趣く者多く此道を取。」との記載があるが、戦国時代には岳城山〜切通〜乙犬山の間にも修験者が開いた尾根道があったと思う。)

keitokuchin at 23:45|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2013年12月27日

黒殿神社(粕屋町)と守母神社(須惠町)の伝説

前に「岳城山・高鳥居城や若杉山左谷・右谷僧坊の抗争〜須惠宝満宮4(須惠町)」で、次のようなことを書いた。

黒殿神社全景 「天正期(1573-)に高鳥居城(福岡県糟屋郡須惠町須惠・岳城山頂/標高381.4m)に入城した杉弾正忠重杉権頭連並(旧大内氏→毛利氏家臣)は、天正13年(1585)4月秋月種実・伊集院忠棟(島津方)軍に攻められて敗れた。

  このとき杉弾正忠重は戦死し、道林寺に落ち延びる途中で討ち取られたその子と乳母(慈照天眼禅尼)の霊を祀る「守母神社」(須惠町植木)が、今にその悲劇を伝えている。
  また、杉権頭連並は、竜ヶ城(鞍手郡宮若市龍徳)から高鳥居城に入城し、竜ヶ城と丸山城(糟屋郡粕屋町大隈)を出城としていたが、上記天正13年(1585)4月高鳥居城の落城寸前に竜ヶ城に逃れた。このとき出城の丸山城は廃城となったが、なぜかこの丸山城跡北隅に伝・杉権頭連並墓がある。」

  この「丸山城」は、「丸山」(標高86.4m)の頂上に築かれていたが、その東山麓の叢のなかに「黒殿神社」という名の小社祠がある。
  (※画像はいずれも黒殿神社:糟屋郡粕屋町大隈1191=JR福北ゆたか線門松駅から徒歩10分位)。

黒殿神社鳥居  JA粕屋中部プラザ裏の駐車場内を通り抜けたところに、「黒殿神社」と墨書した板製額束(最近、新しく付け替えたものか)を掲げた丸太組みの小鳥居が立っている。その後ろにある木造瓦葺の小社祠が「黒殿神社」である。

  この間に立つ「説明板」には、次のように記されていた。
  「黒殿(くろどの)神社 高鳥居(たかとりい)城(須恵町植木)があった時代大隈の丸山は、杉弾正忠重並(すぎだんじょうちゅうしげなみ)の軍の屯所(とんしょ)でありました。天正十四年(一五八六)秋月氏との戦で攻め落され、その時この丸山に黒殿という姫(ひめ)がいましたが、落城を前にして家臣(かしん)にわが首を切らせました。首は尾根(おね)を転んで麓(ふもと)まで落ちたとされています。この場所が黒殿神社です。粕屋町教育委員会 粕屋町文化財保護委員会」。

  この文中の「杉弾正忠重並」の名が、どうもよく分からないが、杉弾正忠重のことなのだろうか。
  しかし、「だんじょうちゅうしげなみ」のふりがながあるので、名は「重並」となり、「忠重」ではないことになる。
  だが、もし、この「並」が杉権頭連並の「並」であれば、杉弾正忠重と杉権頭連並の二人の複合名とも考えられるが、「杉権頭連並」の間違いではないのだろうか。

  前述した如く、丸山城は、杉弾正忠重とともに高鳥居城に入城した杉権頭連並高鳥居城の出城としたところで、城址に伝・杉権頭連並墓があるように杉権頭連並とのかかわりの方が深い。

  戦国期に「出城」のことを「屯所」といったのかどうかは知らないが、立花種実軍が立花山城(新宮町)から「高鳥居城」に進軍するとき、今の県道35号線(筑紫野古賀線)に該当する道を通ったとすれば、多々良川を背にして立ちはだかる「丸山城」の出城は、その最前線にあり、総攻撃を受けたことは想像に難くない。

  これから先の「黒殿神社」に伝わる「黒殿姫の刺殺(首塚)」は伝説の世界かもしれないが、上記「守母神社」(須惠町植木)に伝わる杉弾正忠重の子とその乳母(慈照天眼禅尼)の惨殺伝承と同様に「戦国落城悲話」として思いを馳せたらよいのかもしれない。

  身分の高いと思われる「黒殿姫」が、どうして出城に居たのかは分からないが、それにしても潔い戦国武将の娘(奥方?)だったことだろう。こうしてみると、黒殿神社は、黒殿姫の供養墓(首塚)、或は怨霊鎮魂社なのか。また、子の夜泣きを鎮めるという御利益を謳う「守母神社」のような御利益信仰などは伝わっていないのだろうか。

  なお、この「黒殿神社」を、鳥飼八幡宮(福岡市中央区今川2-1-17)の境内社で、鳥飼氏始祖・鳥飼黒主と武内大臣(宿禰)を祭神する「黒殿(こくでん)神社」と結びつけて、祭神を武内大臣と推定する人もいるようだ。

 ※つづく→「守母神社の伝説など(追記)須惠町」。

keitokuchin at 23:55|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2013年12月26日

旧勝田線跡歩き(ひろみ饅頭〜志免東中下)志免町

11ひろみ饅頭  ※前回「方ヶ島八幡宮碑(志免町)」からつづく。
  「方ヶ島八幡宮跡」から「旧国鉄勝田線」の廃線跡に戻ると、志免中央商店街の道路と交差し、その右向かい角に「ひろみ饅頭店」があり、立ち寄って「ひろみ饅頭」を買った。

  「ひろみ」の焼印が入った紅白饅頭だが、この「ひろみ」は、今も現役で大活躍中の歌手郷ひろみの名前をいただいたもので、何でも店主が、郷ひろみの親族で、「ひろみ饅頭」は、郷ひろみがデビューした頃に、郷ひろみを応援すべくつけた名らしい。
  そういえば、郷ひろみは、子供の頃、須惠町(志免町の隣町)にいたことがあった。

12勝田線沿い  ところで志免町出身の歌手といえば、演歌歌手尾形大作がいた。
  夢を呼ぶような軽快な歌声で「無錫旅情」(1986年)が大ヒット、NHK紅白歌合戦2年連続出場、その後、ローカルCMなどで見かけたことはあったが、現況は知らない。
  以前、奥さん経営の須惠町のスナックに行ったことがあるが、今はない。

13勝田線沿い  「ひろみ饅頭」のすぐ先(左)に、ももすけ饅頭もある。
  この辺りから線路跡道路は急な上り坂になり、切り通しの丘の両側に建つ県営松け丘団地(高層住宅団地)の間を通り抜ける。

14勝田線枕木階段  しばらくは丘の上を通り、徐々に下り勾配となるが、この辺りから桜並木などのある緑地遊歩道となる。
  志免東中学校の下辺りに、枕木階段や、溝に架けた組み合わせ枕木橋がある。

15勝田線枕木坂  或は道の脇の土留め枕木など、廃線線路の枕木を友好に利用した施設が見られ、これはこれで見ていて楽しい。
  そういえば、母がこの廃線の枕木を貰ってきて、畑の土留めにしていたことを思い出した。

16志免東中学下  志免東中学校下から、緑地公園を前進し、途中、左側にある国指定光正寺古墳(前方後円墳)公園を見学して、下宇美駅跡付近まで廃線跡を歩いた後、宇美八幡宮から、JR香椎線宇美駅か西鉄宇美バス停に向うことができる。

8志免東中学付近  また、上記、志免東中学校下から左斜面にある小道を上り左折しJR香椎線須恵中央駅に向うことができる。
  若しくは右折し西鉄吉原バス停(博多駅行き)に向うこともできる。
  (本項おわり)

keitokuchin at 03:51|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2013年12月25日

方ヶ島八幡宮碑(志免町)

前回「旧国鉄勝田線志免駅(鉄道記念公園)志免町」からつづく。

9和楽庵  「旧志免駅鉄道記念公園」から旧勝田線の線路跡を宇美方向に少し歩くと、右側に古民家を改造した和風料理店「和楽庵」(志免町志免1−19−5)がある(※画像1)。
  客室1間の完全予約制だというので飛込みでは食事できそうにない。
 
  「和楽庵」の前から少し線路跡を離れて、右側道を歩くと、右側に加工自然石の「方ヶ島八幡宮がある(※画像2)。
  裏面に「大正十三年四月五日建 昭和三十二年五月十日改建」の刻字があるので、この石碑は2回建て直されたということなのだろうか。
10方が島八幡宮跡  現在、当地に「方ヶ島八幡宮」の社祠はないが、大正13年4月5日の日付を見ていて、明治政府の神社統合令で大正時代になくなった神社も多いので、「方ヶ島八幡宮」もその例によるものかと思った。
  しかるに、「昭和の初め頃まで社祠があった」という話(志免町HP)もあるらしく、だとしたら、最初に建てられた大正13年の石碑の意味は、当時存在していた社祠の神社名を示す標示石となる。

  また、再建された現在の石碑は、なくなった神社の旧跡を示す標示石ということになるので、微妙に意味が違うことになる。多分、大正13年4月には社祠はなくなっていたのではないかと思う。
  
  ともあれ、社祠がなくなった理由がはっきりしないが、神社統廃合で消滅したのであれば、近くの「岩崎神社」(志免4-8)に遷宮したのかも知れないと思い、行ってみたが、よく分からない。
  なお、「岩崎神社」は、昔、宇美八幡宮の一の注連(しめ)縄を曳いた所と言われ、ここから志免(しめ)の地名が生まれたといい、いわば志免町発祥の社である。

  ところで志免町内は、神功皇后伝説が色濃く残る粕屋町(日守八幡宮、駕与丁<加輿>八幡神社)、須惠町(旅石八幡宮、聖母宮、ショウケ越)、宇美町(早見の里、宇美八幡宮)と隣接しており、志免町内にも亀山八幡宮、王子八幡宮、御手洗八幡宮などがあり、現在、旧跡標示碑のみとなったこの「方ヶ島八幡宮」にも、次のような神功皇后伝説がある。

  神功皇后は、皇子(応神天皇)の産所を、安産(うみ)の語呂につながる宇美川上流の宇美(宇瀰、芋湄、蚊田ともいう)と定めて、宇美に向う途中、御手洗(志免町)の地で休憩し、同地で手を洗ったとき、従者に宇美の方角を尋ねたら、南東方向に見える小高いを指差したのだろう。その「丘」が、(広い川面或は池、水田に浮かぶ)小島のように見えたので、この地を「方ヶ島」と名付け、後にこの地に「方ヶ島八幡宮」が祀られたというのである。

  現在、宇美川の辺に建つ「御手洗八幡宮」と「宇美八幡宮」を直線で結ぶと、「方ヶ島八幡宮跡」はその方向から微妙にずれており、また、同地は「竪抗櫓」のある「丘」の下の低地にあり、とても「島」とは言い難いが、多分、従者は、当時、御手洗からよく見えていた上記の「丘」が宇美と思ったのだろう。
  なお、神功皇后が休息をとったという「旅石八幡宮」は、この「丘」の反対側にある。

  現在、「方ヶ島八幡宮跡」に建つ志免2コミュニティセンター(志免1−13−17)の建設時の発掘調査(平成9年/1997志免町教委)で、 石鏃2(縄文時代の姫島産黒曜石)、時期不明の掘立柱建物4棟、溝1条、土壙3基、古墳時代の掘立柱建物跡1棟、奈良時代・井戸1基が確認されたらしい。
  「方ヶ島遺跡」というらしいが、このうちの時期不明のものも掘立柱建物跡だとすれば、少なくとも7世紀前半以前には遡れるので、この地が早くに開けていたことが分かる。もし、これらが神社の遺構を示すものであったらすごいが、弥生遺跡の可能性はないのか。
  特に石鏃などの黒曜石は、上記「駕与丁八幡神社」がある「駕与丁池」でも数多く採取されており、神功皇后の足跡には、多くの縄文、弥生遺跡(集落)があったことが分かる。

 ※つづく→「旧勝田線跡歩き(ひろみ饅頭〜志免東中下)志免町」。 

keitokuchin at 03:01|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2013年12月24日

旧国鉄勝田線志免駅(鉄道記念公園)志免町

前回「旧国鉄志免鉱業所の「竪坑櫓」(志免町)」からつづく。
7志免駅3  「竪抗櫓」のある丘陵の真下にある旧国鉄勝田線「志免駅ホーム」は、現在、県道91号線に分断された形で残っている。
  もともと道のなかったところに県道91号線(志免須恵線)を通したので、こんなことになったようだ。

  現在、旧志免駅敷地跡は、「志免駅鉄道記念公園」として整備されているが、どこででも見られる地方駅のホームがあるだけで、特に珍しいものでもなく、わざわざ足を止めて見学する人たちは少ない。

6志免駅2  旧国鉄勝田線(勝田〜吉塚駅)は、大正8年(1919年)敷設の筑前参宮鉄道が全身、昭和17年(1942) 九州電気軌道(西鉄)が吸収、昭和19年(1944)に国有化、国鉄志免鉱業所(志免駅中心)など糟屋炭田の石炭と宇美八幡宮参詣者輸送で繁栄した。

  しかし、昭和39年(1964)志免鉱業所閉山以後、石炭産業の没落とともに衰退の一途をたどり、昭和60年(198)に廃止された。
  廃止は、昭和55年(1980)の国鉄再建法施行によるというが、時の施政者(志免町長含む)に、直後に訪れる福岡市都市圏の発展に鉄道が不可欠となるという先見の明がなかったのが悔やまれる。

  このことは、同じく糟屋炭田の石炭輸送を担い、国鉄勝田線と平行するように走っていた国鉄香椎線(宇美〜西戸崎)が、このとき何とか持ちこたえて、昭和62年(1987)JR九州香椎線となって以後、多数の乗客を輸送し繁栄していることを見れば歴然と分かる。

  廃止以後の旧勝田線の線路沿いで、四王寺大型団地を初めとする住宅地の開発、県立須恵高校の開校、大型商業施設「イオンモール福岡」の開店などが続々と続き、もし勝田線が残っていたら、福岡市内を結ぶ主要路線として多くの乗客を運ぶ役割を担っていたことだろうと思う。

  現在、旧志免駅から廃線となった勝田線の線路跡の一部(〜下宇美駅の一部)で、遊歩道(緑地公園)となっている部分もあるが、ここをウォーキングロードとして利用している人たちは、ほんのわずかである。
  なお、旧志免駅から現イオンモール福岡に至る上り線路跡は、よく分からないが、南里駅前、亀山方面など断片的にたどることはできる。

8志免駅1  今は、旧志免駅の駅舎はなく、乗降ホームや線路切り替え機(かつての志免駅には、香椎線酒殿駅への貨物支線があった)などを残す、この旧志免駅鉄道記念公園内を歩いていて、上記のようなことを思っていた。


  帰路は、近くにある(西鉄バス)志免バス停(宇美〜博多)が便利。
  健脚向きには、旧線路跡(〜下宇美)を通りJR宇美駅まで歩くこともできる。

 ※つづく→「方ヶ島八幡宮碑(志免町)」につづく。

keitokuchin at 02:45|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2013年12月22日

旧国鉄志免鉱業所の「竪坑櫓」跡(志免町志免)

前回「旧志免鉱業所の五坑ボタ山跡(志免町・須惠町・粕屋町)」からつづく
竪坑櫓  ※画像は、旧志免鉱業所五坑竪抗櫓跡(国重要文化財)。
  竪抗櫓は、坑内に入る(戻る)炭鉱夫や、採掘した石炭等を乗せるために設けられた鉄筋コンクリート造のワインディングタワー型の櫓です。

  ワインディングタワー型とは、櫓と巻き上げ機が一体になったもので、垂直に地上⇔地下を上下する人・荷物兼用の堅固な大型エレベーターと思ったらよいのかと思う。

  稼働していた頃(昭和18年〜39年閉山まで)には、ここに1000馬力ケーベ巻き上げ機が設置され、地下約490mの深さにある坑道まで下りていたという。

  現在、この竪抗櫓の周囲に柵がしてあり、ここまで近づいて見学できるようになっている。今は、巻き上げ機はなく坑口も塞がれているが、圧巻ある遺構である。クリスマスか年末の頃の夜にライトアップがあり、訪れる人たちも多いと聞いた。

  同敷地内には、斜坑坑口の遺構もあり、その坑口を見下ろすように見学できる。
  また、近年まで坑内送風用の「第八坑扇風機孔」が県道際に残っていたが、県道91号線の拡張とT字に交差する脇道(東公園台2バス停、シーメイト等あり)の開通時に撤去され、現在植え込みになっている(跡地標示板あり)。

  この丘陵地区が旧国鉄(運輸省)志免鉱業所第五坑、第七坑、第八坑の中心地帯で、この丘を下ったところに、石炭を運搬するために設けられ、今は廃線廃駅となった「旧国鉄勝田線・志免駅」(次回)や香椎線酒殿駅への引きこみ線路などがあった。

 ※参考:下欄に「旧国鉄志免鉱業所(旧海軍炭鉱)炭鉱関係及び民営炭鉱年表」を掲げる(提供:須恵町歴史民俗資料館)。
志免鉱業所年表















  なお、志免鉱業所(旧海軍炭鉱)関係の遺物等は、須恵町歴史民俗資料館のほか、志免町歴史資料館でも見られる。

※つづく→「旧国鉄勝田線志免駅(鉄道記念公園)志免町」。

keitokuchin at 02:54|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2013年12月21日

旧国鉄志免鉱業所の「五坑ボタ山跡」(志免町・須惠町・粕屋町)

 前回「新原公園内 海軍炭礦創業記念碑など(須惠町)」からつづく。

 以前「旅石八幡宮の新旧社殿、旧志免鉱業所鉱害復旧ほか(須惠町)」のなかで、「旅石八幡宮後方(県道91号線)→(左)西原バス停、旧志免鉱業所炭宅地帯・(右)五坑ボタ山跡→(左)五坑竪坑櫓→旧国鉄勝田線志免駅」に行くことができると書いた。

1ボタ山旅石口から見る 画像1は、須恵町旅石集落東口(須恵宝満宮方向から入る)付近から、同集落の借景となっている五坑ボタ山跡だが、今回は、旧国鉄志免鉱業所(同海軍炭鉱)関連の遺跡で残っている五坑ボタ山(志免町志免、須恵町旅石、粕屋町酒殿の境界線上に在)の画像を掲載しておくことにする。
  

  五坑ボタ山跡は、今では高さも削られて低くなっており、その表面はすっかり雑木や野草に覆われて緑色に染まっている。
  このコブのある緑色の小丘(五坑ボタ山跡)は、絵になる風景で、少し離れたところから眺めていると、眼の保養に良いと思えることもある。

  因みに、ボタ山とは、炭鉱地下から採掘した石炭と一緒に出てくる炭化度合いが低く燃えない石や燃えてもくすぶって燃料とならない石(ボタ)を廃棄したとき、これらのボタが積み上がった小山のことである。
  坑内から掘り出された石は、まず選炭場で石炭とボタに選別され、石炭は、洗炭場で洗炭して搬出されるが、ボタは、トロッコでボタ山に廃棄される。
  炭鉱の最盛期には、ボタを積んでボタ山の片方の斜面を登り、最上段まで行ったトロッコが反対側の斜面にボタを落下させる風景が見られ、それはそれで、なかなか迫力があったが、今は昔の物語である。

3ボタ山・新道開通前  画像2は、旅石六地蔵堂付近から撮った五坑ボタ山跡の風景で、全体の形がよく分かる。
  最近、ここには、九州高速道路上り線に沿った脇道(須恵スマートインター上り線出入口下の道)が開通した。



4ボタ山炭住跡から
 画像3は、西原の旧炭鉱住宅(炭住)地帯の一角から眺める五坑ボタ山跡の風景。


  上記以外では、須恵町旅石西原区(旧炭住地区)から見る「五坑ボタ山跡」の風景も好きである。


炭住とこども  画像4は、須惠町内の某炭鉱住宅(炭住)群の間で遊んでいる子どもたちの風景写真。

  中央に建ち並ぶ小屋は、炭住の前に建っていた屋外トイレか。
 (※須恵町歴史民俗資料館所蔵)。



  石炭産業は、明治以降の日本の近代化を支え、炭鉱所在地には多くの炭住が建ち並び、大いに栄えたが、戦後の石油への燃料革命により廃鉱となって以後、炭住は、廃墟と化したり、払い下げ住宅となったりした。今、往時の長屋式の旧炭住の風景を、ほとんど見ることはできなくなった。

5ボタ山西原バス停近く  画像5は、西原バス停付近から眺める目の前にあるボタ山跡の風景。

  西原バス停は、西原桜並木の一角にあり、県道91号線(須恵志免線)を挟んで対面にボタ山跡がある。




  粕屋炭田の各坑口付近にあったボタ山跡では、今はこの「五坑ボタ山跡」を残すのみとなっており、貴重な近代産業遺産の一つとして整備保存してほしいものだと思う。

  なお、以前は、ここは、旧志免鉱業所の敷地内で立ち入ることはできなかったが、県道開通後は開放され、この県道沿いにある五坑竪坑櫓(国重要文化財)も身近で観ることができるようになった。

※つづく→「旧国鉄志免鉱業所の「竪坑櫓」跡(志免町志免)」。

keitokuchin at 02:34|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2013年12月20日

新原公園内「海軍炭礦創業記念碑」など(須惠町)

 前回、「新原四つ角周辺:猿田彦大神碑、海軍炭礦創業記念碑(道標)、赤レンガ塀、地蔵堂等(須惠町)」からつづく。

海軍炭礦創業記念碑 前回「新原公園に公民館、新原神社、五穀神碑、海軍炭礦創業記念碑、三坑坑口枠、萩尾善次郎胸像等がある」と記した。
 桜の開花する頃には、新原公園内の東屋などで弁当を広げている人たちはいるが、普段は静か。

 「新原公民館」は、海軍炭鉱病院跡に建っていると聞いたが、詳しいことは分からない。
 敗戦により日本海軍は解体し、海軍関係の施設や資料の多くは失われてしまった。


海軍炭鉱創業記念碑2 そのなかで、占領米軍の監視の目を逃れ、今に、この地に、巨大な「海軍炭礦創業記念碑」(昭和12年12月12日建立)が残っていることは不思議というほかない。それだけに貴重な金石遺産でもある。

 明治19年(1886)に新原で発見された石炭は、全国一良質の無煙炭(粕屋石炭)だったので、明治21年に海軍予備炭山に指定されたのが海軍炭鉱の始まり。

 そして、翌明治22年海軍炭鉱・新原第一坑、第二坑が開坑した。(その後、第三坑、第四坑開坑)

海軍燃料表札 以来、新原の海軍炭鉱(大正10年「海軍第四燃料廠採炭部」に名称変更/※画像はその第四坑表札)は、海軍直営(国営)の炭坑として軍艦等の燃料炭の採掘を続けた。

 なお海軍採炭部の本部は、昭和4年10月に新原第一坑から志免第五坑に移り、また、戦後の昭和20年12月、運輸省(国鉄)志免鉱業所所管となり機関車等の燃料炭の採掘と変化した。



海軍炭鉱の半纏 新原での採炭は、石炭から石油への燃料革命により、昭和39年(1954)6月に閉山するまで、開坑以来75年間続いた。
 なお最盛期の採炭量は、年間50万トン、従業員は約6,000人いたという。

 ふと、随分以前、旧新原児童公園(炭鉱関係者無縁墓地跡)で、無縁仏供養の修験採灯大護摩供を催したことを思い出したが、現在、樹木に覆われた同所に入る人はほとんどいないという。

 新原公園入口に建っている石柱は、新原四つ角の辻にあったものと同じく「海軍炭礦創業記念碑」の所在を示す道標石である。
 新原公園内にある「新原神社」(石祠)は、海軍炭鉱時代に炭鉱の守護神として勧請した大山祗神社(山の神)ではないかと思う。
  
萩尾善次郎胸像 「萩尾善次郎の胸像」が叢のなかに設置してある。

 萩尾善次郎は、明治37年からおよそ20数年間、海軍炭鉱に勤務した技術者で、採鉱技術の向上に功績があったらしい。



 もと、この胸像の台座に填め込んであった銅板の説明板がないので、多分、盗難にあったのだろう。油断の隙もない嘆かわしい時代になったものだ。

 新原公園内にある上記「萩尾善次郎胸像」や、「第三坑坑口の枠」その他の炭鉱遺物は、閉山後、ここに移設されたものだが、それぞれの説明板等はない。

石炭 それにしても、今、新原地区の各坑口の跡には、それと分かるものは何もなく、また、新原の住人も、新原に海軍炭鉱があったなどを知らない人たちが多くなっているという。

 (※画像3・4・6は、須恵町歴史民俗資料館所蔵)。

 なお、新原公園内の「五穀神碑」は、かつての新原地区開墾を示すものとして捉えてもよいのかとは思うが、実のところよく観察していなかった。

 帰路は、JR香椎線新原駅や、新原バス停が近い。
 健脚の向きは、宇美八幡宮神領古墳群(宇美公園)、宇美八幡宮を参拝してJR香椎線宇美駅に行くこともできる。

 ※別記→「志免鉱業所の五坑ボタ山跡(志免町・須惠町・粕屋町)」。

keitokuchin at 02:41|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2013年12月19日

新原四つ角周辺:猿田彦大神碑、海軍炭礦創業記念碑(道標)、赤レンガ塀、地蔵堂等(須惠町)

新原猿田彦大神碑  前回、「新原区の須惠宝満宮旧参詣道(須惠町)」からつづく。

  前回、新原(しんばる)四つ角を左右に横切る道幅の狭い里道(基幹道)を、正式の呼び方が分からないので「新原中央里道」と記した。

  この右辻の小敷地内に「新原猿田彦大神碑」と「海軍炭礦創業記念碑」(道標)、それに「郵便ポスト」がある。(※画像)。

  「新原猿田彦大神碑」は、、明和5年(1768)6月上旬(江戸中期)に新原村の辻の守護神として建立されたものだ。

  この碑面の上部に、シルバーで塗られた満月と下弦の月も彫り込まれているのが珍しい。
  旧暦と農事に係わる月神信仰の跡を伺うことができ、時としてパワーを感じることもある。
  いつも碑前にお水が供えられ、敷地内がきれいに清掃されているので、大事にお守りされていることが分かる。
  なお、この後方にできた分譲地の全区画には、現在、すべて住宅が建っている。

  その横に建っている石碑(棒状四角形)の表面には、読みづらいが、「海軍炭礦創業記念碑」と刻んであるようだ。
  以前この石碑の刻字を「海軍炭礦鐵業記念碑」と読んでいたので分からなかったが、「海軍炭礦創業記念碑」であれば、この石碑は、下記新原公園内にある「http://blog.livedoor.jp/keitokuchin/archives/65639498.html海軍炭礦鐵業記念碑」とへの道標」としてこの辻に建てられたものなのだろう。
  道標といえば、新原公園入口にも、これと同様に「海軍炭礦鐵業記念碑」と刻された石柱道標が立っている。

  かつて新原にあった「海軍新原炭礦」は、明治22年に創業し、採掘された石炭は良質で、ここは重要な日本海軍の軍艦の燃料供給基地となった。そして、ここの石炭が、日本海大海戦で日本海軍の勝利に貢献したという話も残っている。

  新原四つ角の左側の民家の「赤レンガ塀」の前に新原バス停(宇美行き)があるが、この周辺では、随所で赤レンガ塀、或は赤レンガ造の蔵などを目にする。
  赤レンガ塀等は、新原に限らず、須惠町内の各所で目にするほど、その数がやたら多い。
  現在、赤レンガで塀や蔵等を造る人たちはいないので、これらの赤レンガ塀などは、それなりに古いものだと思う。
  地元の人に尋ねて知る範囲では、かつて新原に赤レンガ職人がいたからだといい、存じ上げている人たちもおられるのだと思うが、現時点ではこれ以上詳しいことが分からなかった。

  新原四つ角から、新原中央里道を右に行くと、途中(左)にJR新原駅があり、JR香椎線の踏み切り(信号機あり)を渡った先に二股があり、右はスーパーマーケット「ビーインズ」、大賀薬局須恵店辺りに至り、左は(九州自動車道)須恵スマートインター入口(信号機あり)に至る。
  この道は、車の駐停車ができないような狭い道で、特に集落内は車の離合にも苦労するほどだが、古今、新原の基幹道路で、四六時中、車の往来が途絶えることはない。

  新原四つ角から、新原中央里道を右に行くと、途中、三角の左側に「日昭アルミ工業展示場」があるが、そのすぐ後ろ部分は、以前、「新原日切り地蔵堂」があったところだ。
  行き倒れとなった宝満山修験山伏の遺体を埋葬し、地蔵堂を建て供養したところだが、現在、地蔵堂は撤去され、「地蔵像」は、「新原薬師堂」(新原地蔵堂)の前に移されている。
  この先は、「内田運輸」(右)の手前で県道35号線(筑紫野古賀線)と交差する。
  「旅石(八幡宮)」を発った神功皇后が、この里道を通って、「早見の里」(宇美町)に向ったのだとしたら、この県道は往古の往還だったのだろうかと、いつも行き詰まる。

新原薬師堂移転碑  新原四つ角を宇美方面に進むと、すぐ右に「新原保存仏像誌碑」と「新原薬師堂(新原地蔵堂)」がある(※画像)。

 (※本詳細は、正見行脚「須惠町の史跡・新原猿田彦大神石碑(続報4)」記載参照)。

  その少し先(左)に「新原公園」があり、新原公民館、新原神社、五穀神碑、海軍炭鉱創業記念碑、三坑坑口枠、萩尾善次郎胸像などがある(※次回記す)。

  この先のJR香椎線の踏み切り(信号機あり)を渡り、さらに進むと「宇美八幡宮神領古墳群」(宇美公園)に至る。

  ※つづく→「新原公園内 海軍炭礦創業記念碑など(須惠町)」。

★新原四つ角周辺に関して以前記した「正見行脚」記事について
(下記参考)。
 ※猿田彦大神碑と「海軍炭礦鐵業記念碑」について
  →「新原分譲地と猿田彦大神の石碑」。
 ※旧須惠村と猿田彦神、庚申塔等の石碑ついて
  →「須惠町の史跡・新原猿田彦大神の石碑(続報1)」。
 ※「新原猿田彦大神石碑と旧新原村」について
  →「須惠町の史跡・新原猿田彦大神石碑(続報2)」。
 ※「新原日切地蔵堂」の旧地について
  →「須惠町の史跡・新原猿田彦大神石碑(続報3)」。
 ※「新原薬師堂(新原地蔵堂)と宇美八幡誕生寺」との係わり
  →「須惠町の史跡・新原猿田彦大神石碑(続報4)」。
 ※新原四つ角と新原産神(須恵宝満宮・宇美八幡宮)参詣道
  →「須惠町の史跡・新原猿田彦大神石碑(続報5)」。
 ※「新原猿田彦大神石碑のパワー」について
  →「須惠町の史跡・新原猿田彦大神石碑(続報6)」。
 ※「新原猿田彦大神石碑と月神信仰」について
  →「須惠町の史跡・新原猿田彦大神石碑(続報7)」。

keitokuchin at 02:57|PermalinkComments(0)TrackBack(0)