2014年01月

2014年01月29日

曽我神社:河津氏が曽我兄弟祭祀(部木八幡宮境内)

曽我兄弟を祀る曽我神社~部木八幡宮境内社」からつづく。
(曽我神社の鎮座地:福岡市東区蒲田3-18-8部木八幡宮境内)

曽我神社 (同境内社の)「曽我神社」は、神殿内にある「曽我十郎祐成 曽我五朗時宗(時致)の塔」(曽我兄弟石塔)二基(平石)がご神体のようで、碑表に「盻 ̄‥楕岩良雲天禅定門・鷹嶽院殿士山良富士大居士、建久四年五月廿八日」と刻してあるらしい。

  この「建久四年(1193)五月廿八日」は、曽我兄弟が富士の裾野で狩猟した源頼朝の将・工藤祐経の寝所を夜陰にまぎれて襲い仇討ち成就後に落命した日とされている。

  「宗像家士に河津氏あり曽我と同姓なり。しかれば此地は河津氏か知る所にて曽我か冥福をたすけんために仮墓を築せるにや」(附録)とあるが、拾遺では次のようなことが分かる。

  宗像郡に在した「河津氏の家記」によると、河津氏は、もと伊豆国の武士で、河津右衛門尉祐重が蒙古襲来で戦功を立て長門豊東郡を領し下向した。永仁元年(1293)3月、嫡子河津次郎筑後守貞重は、探題北条兼時に属して筑前迫門河内を賜り移居して小仲庄に館舎を栄構したとき、同庄内に、往昔から民が三輪石と称し恐敬してきた二面の霊石があることを知り、「先祖曽我両社の一百年回今永仁元年に當る事奇端也とて両社八幡を迫門郡に勧請し彼霊石を神躰に崇めしよし記せリ。即此両石の事なるべし」とある。

  であれば、この「曽我神社」は、永仁元年(1293)に河津次郎筑後守貞重が両社八幡を勧請し、往昔から当地(迫門河内=多々良川流域)にあった上記霊石二面に「曽我兄弟」の法名を刻し御神体として建立したということになる。
  両社八幡とは、「曽我両社八幡宮并虎御前観音縁起」(駿河国曽我八幡宮の縁起)による箱根(権現)神社の曽我兄弟を祀る「曽我両者勝名荒神」(曽我両社八幡、曽我神社)のことか。

 なお、昔は、神殿前に、「曽我の松」という老松二株があったらしいが今はない。

 ところで、上記の河津氏が「曽我と同姓なり」の記述をみたとき、思わず河津氏と曽我氏は同族だったという意味なのかと思った。
 しかし、曽我氏は桓武平氏千葉氏流(物部氏系蘇我氏との係わりはないのか)、河津氏は伊東氏=伊藤氏=工藤氏で藤原氏(南家)系なので、先祖系流上は同族ではない。
 多分、「同姓なり」の意味は、曽我兄弟の父は、工藤祐経に殺された河津(伊東)三郎祐泰がで河津姓を名乗り、曽我兄弟は、曽我庄(小田原市曽我)の曽我太郎祐信(義父)の元で元服し曽我姓を名乗った(曽我物語)ことを指しているのだろう。

  また、上記の河津筑後守貞重といえば、「岳城山・高鳥居城や若杉山左谷・右谷僧坊の抗争〜須惠宝満宮(須惠町)」で、「岳城山には、永仁元年(1293) 長門から入国した河津筑後守貞重(九州探題北条兼時臣)が築城したという中世山城・高鳥居城がある」と、その名を書いたことがあった。

 さらに、話は飛ぶが、「宗像郡の河津氏」といえば、元亀元年(1570)正月、蘿ヶ嶽城下の妙湛寺(宗像市陵厳寺)で盟友宗像大宮司氏貞に暗殺された上西郷(福津市)を拠点とした郷士西郷衆(西郷党)の頭領河津掃部助隆家がいる。
 その死後、鞍手に移された河津修理進盛長宗像士若宮郷士一統は、天正9年(1581) 11月13日(宗像追記考)、鷹取山城(直方市)から立花山城(新宮町)に帰軍中の立花軍(大友氏)を襲い小金原で全滅した。(※参照→「小金原の戦い~Α)。

※つづく→「雪中の石造五輪塔(伝曽我兄弟墓/箱根町)をTV観賞」。

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2014年01月28日

曽我兄弟を祀る曽我神社〜部木八幡宮境内社

前回「部木八幡宮境内の保存樹(福岡市)」からつづく。

曽我神社遠景 「部木八幡宮」(福岡市東区蒲田3-18-8旧792)の境内神社の一つに「曽我神社」(祭神:曽我祐成、時宗)がある。一見すると、境内の枠外にある独立した神社のような錯覚をする。(※画像1)。


  「曽我神社」は、「部木八幡宮一の鳥居」から左側の「部木古墳群」(小丘陵内)を見ながら馬場道路を東に進むと、その続きに「部木八幡宮」があるが、その石垣(中央の石段上に「二の鳥居」あり)の下を通り過ぎた先の、道路幅が半分の広さになる箇所の正面(左側)に突き当たるような形で鎮座している。 

  そのせいか、市販地図のなかには、「曽我神社」を「部木八幡宮」とは別格の神社であるかのような表示をしているものもあるが間違い。なお、「曽我神社」は、鎮座当初からこの位置にあったようだ。

  実は、これまで数度、「部木八幡宮」を訪れていながら、うかつなことに、この神社に立ち寄ったことがなく、今回、初めて立ち寄り額束を見てここが「曽我神社」だと気付いたような次第。

  「曽我神社」の名称を見たとき、すぐに、曽我兄弟(曽我十郎祐成 曽我五朗時致)が思い浮かび、あわせて以前から何度も訪れたことのある箱根神社(神奈川県箱根町)の境内神社の一に「曽我神社」(勝名荒神祠)があったことを思い出した。
  だが、関東ならともかく、ここは九州なので、当初、この(「部木八幡宮」境内神社の)「曽我神社」の祭神は「曽我兄弟」ではないだろうと思っていた。

  ところが、拝殿の鴨居の上に見覚えのある一枚の「五輪塔の写真」が掲げてあるのが目に入り、この写真を見たとき、すぐに、それが同上箱根町芦の湯にある「曽我兄弟の墓」(供養塔)だと分かった。
  かつて箱根町(別荘)に住んでいた頃、何度も「曽我兄弟の墓」を見学しているので、見間違うはずもなかった。

箱根町曽我兄弟墓(借用画像)※画像2:「箱根町の曽我兄弟の墓」~ 4travel.jp仙石原旅行 クチコミガイドからお借りしました。
(なお、上記拝殿掲示の写真は、ガラス張りケースに入れてあるので反射し写しにくい)。

  そして、この「曽我兄弟の墓」写真の横に、その説明文が掲げてあったので、ここに(意味の分からない箇所もあるが、原文のまま転記する(下記)。

  「重要文化財 五輪塔(俗称曽我兄弟・虎御前) 五輪塔とは宇宙の五つの生成要素、空・風・火・水・地、をかたどったもので、特に兄弟の二基の五輪塔には、水輪に仏像が刻まれており極めてまれな例である。塔には永仁三年(1295年)に地蔵講中により建立されたという銘文があり、右に地蔵講の銘が刻まれているのは、この五輪塔が日本最古のものと言われています。この写真の五輪塔は中央が曽我十郎祐成 左側が曽我五朗時致の墓で、右側の五輪塔は兄の曽我十郎の愛人であった遊女の虎御前の墓である。陰暦5月28日に曽我十郎祐成が殺され、それを悲しんだ遊女虎御前(白拍子)の涙が雨となって降ったと伝えられ、この時期に降る雨を「虎が雨」といわれている。所在地 神奈川県足柄下郡箱根町芦の湯(国道1号線横)」。

  これを読んで、やっと、この(「部木八幡宮」境内神社の)「曽我神社」が、やはり箱根の「曽我兄弟の墓」と係わりのある神社なのだろうと思うに至った。
  では、どうして「曽我兄弟」を祀る神社がここにあるのかと思い、後で筑前國續風土記附録や拾遺を読んだら宗像の河津氏との関わりを推測する記事があった。

 ※つづく→「曽我神社:河津氏が曽我兄弟祭祀(部木八幡宮境内)」。

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2014年01月25日

武雄温泉楼門の扁額と書聖・中林梧竹

中林梧竹武雄楼門篇額  前回「赤色が変わった武雄温泉楼門(改修後)」からつづく。
  武雄温泉「楼門」の上層部に塗られている塗料の赤色が、前と違っているような気がして、しげしげと観ていたとき、軒下にある「扁額」に気付いた(※画像1)。

  これまで何度も「楼門」を観ていたのに、まったくこの「扁額」に気付いていなかったのだから、いったいどこを観ていたのだろうかと思った。
  扁額の文字は「蓬莱泉」で、中林梧竹(なかばやしごちく)の筆である。
  中林梧竹は、文政10年(1827)4月、肥前国鍋島小城藩(現佐賀県小城市)で生まれ、幼少のときから書道の才があり、14歳のとき藩主にその才が認められ江戸遊学したほどの腕前だったという。
  大正2年8月、81歳で永眠するまでに多くの書筆や水墨画を残し、明治の三筆の一人に数えられた書壇の大御所だったらしい。

  なお、小城市内には、中林梧竹の遺跡も多く、梧竹生誕地の碑(本町)や、終焉地の梧竹観音堂(三日月町金田)、梧竹墓所観音像(三日月町道部809日蓮宗長栄寺墓地)、梧竹退筆塚(小城公園)などがある。
  また、現在、小城市では書聖として顕彰し、中林悟竹の作品、遺品を展示、収蔵する「小城市立中林梧竹記念館」(小城町158-4 桜城館内)がある。

  武雄温泉「楼門」が完成したのは、中林梧竹死後の大正4年なので、、この「楼門」に掲げてある「蓬莱泉」の「扁額」は、中林梧竹の遺作の一つだったのだろう。
  「蓬莱泉」の文字は、地下から湧き出す温泉のように力強く、かつ流暢でもあり、鍋島藩主の専用浴場(現在も有料貸切風呂「殿様湯」として開放)も有する名湯武雄温泉の「楼門」に掲げるに相応しいものだったのだろう。
  なお、「蓬莱泉」の名は、武雄温泉元湯(明治9年建築)の浴場名を「蓬莱湯」(有料大衆浴場)といい、現在に残っている。

  因みに武雄温泉は、1200年以上前に開かれた古湯で、白鷺伝説や神功皇后の入浴伝説もあり、また、豊臣秀吉(文禄・慶長の役のときに「入湯心得」を残す)、伊達政宗、宮本武蔵(楼門前の湯元荘東洋館に「武蔵の井戸」あり)、伊能忠敬、シーボルト等の入浴記録も残っているという。

  ところで、中林梧竹の書額は、昭和天皇ゆかりの宿「春慶屋」の1階ホールにも展示してあった(※画像2)。
中林梧竹春慶屋  この書は、「春慶屋」と読むのだろうが、隷書というより、ほとんどデザイン文字に見える。
  この文字をじっと観ていると、不思議なことに、楼門の前に建つ、当時の視たことのない木造旅館春慶屋の建物の様が浮かんできそうになる。

  恐らく明治40年に旅館「春慶屋」の依頼により書いたものかとは思われるが、一見して中林梧竹81歳の作であることが分かる。

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2014年01月24日

赤色が変わった「武雄温泉楼門」(改修後)

武雄楼門全体1  武雄温泉のシンボル・天平式龍宮造の「楼門」は、武雄温泉を訪れるたびに観ているので、ことさら目新しいことではないが、平成解体改修工事(平成25年[2013] 2~12月)後の新装なった「楼門」を観たのは、今回が初めてだった。

  今回、改めて「楼門」の前に立ったとき、塗り替えられたばかりの袴腰の白色漆喰の美しさ、加えて建物上層部ほか木造部分全体に塗られた塗料のエンジ系の赤色に目が奪われた。

  この赤色が、記憶していた明るい朱色と違い落ち着いた感じになっていたからでもあった。また、上層部全体が赤色で塗り固めてはなかったような気もしていて、戸惑ってもいた。

  今回、改修に係わる予備知識などを持たずに訪れたので、改めて、JR武雄温泉駅で貰った「タケさん通信51」を読んだ。
  それによると、解体作業中に、板壁で塞がれていた北翼屋の庇(ひさし)の下に、大正4年の創建時から塗り直されていない部分があることが分かり、そこに塗られていた色調に似合う赤色を調合して今回塗り直したという。
  思いもかけぬ発見だったようで、その色合いの復元技術も素晴らしい。
  また、改修前・後の写真を見比べていたら、今回、袴腰の上の欄干部分も着色されていることが分かった。
  今、落ち着いた感じのエンジ系の赤色と記したが、鮮やか、というか、重厚さも感じる。

  なお、この「楼門」(新本館等を含む)は、建築家・辰野金吾が、宮原忠直(武雄温泉蟒藺綣卍)の依頼を受けて設計したものだが、当時の構想は、「3つの楼門を建て、それを鳳凰が羽を広げたように回廊でつなぐ」というような雄大なものだったらしい。

  ところで、辰野金吾は、武雄温泉「楼門」の設計を行う前年(大正3年)に開業した東京駅丸の内駅舎の設計も行っている。

  平成24年(2012)10月、東京駅丸の内駅舎復元工事が完了し、そのドーム天井を飾っていた八支のレリーフも復元されたが、その後、遥か離れた九州の武雄温泉「楼門」で、その修復中に楼門2階の四隅の天井板に、東京駅になかった四支(北:子、東:卯、南:午、西:酉)が彫刻されていることが分かり、これで十二支が揃ったと全国に報道され話題となったことがあった。
  ただし、「楼門」2階への入場はできず、LEDライトアップ公開も終っていた。

 ※つづく→「武雄温泉楼門の扁額と書聖・中林梧竹」。

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2014年01月20日

部木八幡宮境内の保存樹(福岡市)

部木八幡楠など保存樹配置図  前回「部木八幡宮の杜にある部木古墳群(九基)福岡市」からつづく。

  部木八幡宮(福岡市東区大字蒲田792)の境内に、福岡市指定「保存樹」の境内配置図を記した案内板が立っている(※画像1)。

  それには、「保存樹は、都市の美観風致を維持するために指定したものです。大切にしましょう。福岡市」とあり、境内を囲む杜の樹木のうち11本が保存樹に指定されている(指定番号115号〜125号)。

  保存樹の内訳は、クスノキ4本、クロガネモチ1本、ヒノキ1本、イヌマキ1本、イチイガシ3本、アラカシ1本で多種にわたっている。

  これらの保存樹の大きさが記してないが、福岡市の保存樹指定基準は、例外種を除き樹高15m以上、地上1.5mの幹周りが1.5m以上となっているので、この基準に該当しているということになる。

部木八幡楠1号  推定樹齢も不明で、また、県市などの天然記念物に指定されたものはないが、緑に覆われた樹木が林立する境内に立っていると何かパワーを貰えそうだった。
※画像2は、NO.1(東115号指定)のクスノキ。

 ※つづく→「曽我兄弟を祀る曽我神社~部木八幡宮境内社」。

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2014年01月17日

部木八幡宮の杜にある部木古墳群(九基)福岡市

部木古墳群配置図 前回「部木八幡宮(神功皇后伝説)と部木古墳群、弥生遺跡」(福岡市東区蒲田)に、「部木(へき)八幡宮境内の杜に古墳時代初期(4〜5世紀)築造と推定される九基(前方後方墳二基+円墳七基)の部木古墳群がある」と記した。

 ※画像1:部木古墳群九基の配置図(福岡市教委)。

部木古墳1号2号 部木古墳群のうち、最大の第1号墳(全長25m)と、その横にある少し小振りの第2号墳(全長12m前後)は、ともに「前方後方墳」である。
 前方後方墳は、古墳の形式としては、かなり珍しい部類に入る。

※画像2〜左: 第2号墳、右: 第1号墳。

 墳丘の高さは、全体的に低く、最大の第1号墳でも2.4m、第2号墳及びほかの円墳(第3〜9号墳)は、それ以下のようで、目を見張るほど大きな古墳は皆無である。    
 部木古墳群は、発掘調査をしておらず、遺物の発見もないらしいが、一見した限りでは古墳時代初期低墳丘古墳群と推測できる。

 特に部木古墳群のメインである第1号墳は、「前方後方墳」であり、特に「前方後方墳」をヤマトの許可を受けて作ったとは考えられないので、これらの古墳は、7世紀後半にヤマト政権の勢力が九州に及ぶ前のものであると思われる。
 (なお、4世紀にヤマト政権が全国統一したという考えは、先入観的妄想だと思っている)。

 つまり、部木古墳群は、当地にヤマト以前の、例えば九州倭国(いぅこく)等に属する独自の文化圏があったことを物語っているのではないか、そして、もし発掘調査が行われたら、そのことを物語る新羅系土器等が出土するのではないかと思っている。

 前回、多々良川流域の肥沃な地にあった旧多々良村や旧大川村には、加羅、新羅の影響を受けた集落があり、旧多々良村の蒲田名子(福岡市東区)、旧大川村の江辻戸原(粕屋町)は、その中流域に位置し、この四地区の中心拠点の蒲田地区に首長を葬った墳墓を設けた。それが部木古墳群ではないかと思う。

部木古墳群全景写真 神功皇后が九州倭国有力集落があった蒲田の聖地(古ノ宮)を訪れ安産祈願の別火を焚いた、その別火の里の聖地の前方の森に造営された古墳群を、地区民が産神として祀ったのが部木八幡宮の始まりだったかもしれない。

※画像3:部木八幡宮の杜(上空から撮影した写真 福岡市教委)。

 この別火部木の語源で、神功皇后のこの由緒を以って鎮座した社祠を部木八幡宮と名付けたことは、前回記した。
  今、九州倭国の有力な集落と記したが、当蒲田地区を含む多々良川沿岸一帯は、古代朝鮮の加羅(加那)諸国の羅・文化圏のなかに属していたという説もある。

 (追記1) 部木古墳群の第1号墳(前方後方墳 全長25m・高さ2.4m)の詳細は、前方部先端の幅6m・高さ0.5m、後方部一辺の長さ13m・高さ2.4m。周濠跡や周庭など確認ありという。
 なお、同第2号墳(前方後方墳 全長12m前後と推定) の詳細fは不詳。

 (追記2) 小円墳七基のうち、二基(第3号墳と第6号墳)の一部が破壊されている。
  第3号墳は、部木八幡宮の南(表)参道沿いにあるが、多分、表参道・流鏑馬の馬場の道幅拡張時(時期不詳、江戸期か)に、その一部を破壊、消失したのと思われ、参道から一見しても、古墳だとは思えない不鮮明な形になっている。

部木八幡一の鳥居  なお、表参道(道路)入口に立つ「一の鳥居」(※画像4)は、道路の外側の縁に建っているので、この内側にある部木八幡宮の杜(部木古墳群の小丘陵)の縁を削り取って、拡張道路(表参道・流鏑馬の馬場)を作ったのだと推測した。

 一の鳥居の建立は、幕末の「元治元年(1864)11月」で、現在のものは「昭和5年(1930)10月」に再建されたものである。鳥居から馬場(参道)を進むと、その末端(正面)に、道路の半分を塞ぐような形で部木八幡宮境内社曽我神社が鎮座している。

  第6号墳は、部木八幡宮社殿に近い位置(西側)にあるが、墳丘上部を平らに削って、石祠設置(同参拝)空間とその参道が作られている。ここに行くたびに強い霊気を感じて、一時として留まっておれず、いつもすぐに引き返している。

※つづく→「部木八幡宮境内の保存樹(福岡市)」。

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2014年01月16日

粕屋長者娘:お古能姫の悲劇(野芥縁切地蔵尊由来)

  前回「長者原の地名由来と馬頭観音堂(粕屋町)」で、次のようなことを書いた。
  「粕屋町の伝説によると、長者原の地名は、8世紀前後頃(奈良、藤原京時代)、現長者原「馬頭観音堂」辺り(粕屋町長者原字敷縄緑ヶ丘264付近:通称長者屋敷跡)に「粕屋長者」大城曽根出羽守国定の屋敷「長者屋敷」があったことに由来する。
  また、この粕屋長者は、元明天皇・和銅3年(710)、その娘の「於古能姫」(おこうのうひめ)輿入れ悲話を伝える「野芥(のけ)縁切地蔵尊」建立由来(福岡市早良区野芥4丁目21)のなかに出てくる」。

  なお、出羽国の設置は、和銅5年(712)9月というので、上記和銅3年に出羽守の呼称があったのかどうか、また、於古能姫の悲劇を和銅3年とする根拠も知らない。

  「野芥縁切地蔵尊の由来」については、所々微妙に内容の異なる伝承がある。
  私は、粕屋要録(昭和43.12.1南石武編集)の記事を基本に理解していたので、この際、転記しておく(下記)。
  ただし、かなり回りくどい表現の多い長文なので、小生の方で勝手に番号を入れて文節を区切り、その文節ごとの末尾に(※注)として、その説明(私見)を付記する。

  (1) 「継体天皇22年12月磐井長者は南筑紫国人形ヶ原に居を構えて、威を九州に奮っていた。その時、事あって朝廷に叛いた。その子の葛子粕屋屯倉にあってこれを聞き大変驚き父を諫めた。その時の居宅は今の篠栗線原町の東方敷縄にあった。
  この葛子の墳墓は現在の農科大学の実習地の南である。琵琶の原にある丘の上には老松が枝を交えている。その名を鶴見塚という。
  その子孫は連綿として続き、天平勝宝の頃に至り愈々大となり、その勢力範囲は遠く宗像まで併せ領有したといっている。大城跡筑紫の長者ともいう。これが「長者が原」の名の起った所以である。」

※(注1)
 葛子の居宅があったという「篠栗線原町の東方敷縄」とは、現「JR長者原駅」裏手の馬頭観音堂辺り(粕屋町長者原字敷縄)のことを指している。
  当地は、後にその子孫、粕屋長者大城曽根出羽守国定の「長者屋敷」があったところで、葛子以後の子孫が繁栄し、やがて没落したところでもある。
  当地を「原町(駅)の東方」と記してあるのは、要録編集当時には、現在の長者原駅がなかったからだ。
  また、葛子の墳墓が、「農科大学の実習地の南にある鶴見塚」との記述について、「農科大学の実習地」とは現九大附属農場(粕屋町阿恵)のことだが、鶴見塚は、その東側にある。
  さらに葛子の墳墓が粕屋町にある鶴見塚だと言っても、現考古学学会の常識では認めがたいことだろうが、現粕屋町を含む糟屋郡一帯に新羅との関わりの深い九州倭国(筑紫国王)磐井の系譜につながる人々が居住していたとことは確かだと思う。
  つまり、糟屋郡内の古代遺跡からの出土品には新羅系のものが多いと推定されるということ。
  葛子の子孫とされる大城氏を粕屋長者、筑紫長者、大城長者などと呼称しているが、この「大城」も、太宰府市、大野城市の大城山(四王寺山)や扇城(大城)神社などと同じ新羅系呼称だとみてよいと思う。

  (2) 「大城出羽守に至り大城長者一家はその民を愛撫し仁愛を旨として遍く徳を敷いたので恩威が併び行われ四隣を圧した。
  この長者と奥方お節の方との間に一粒種の姫がいた。この姫はあわれにも涙ぐましい大城長者の末路の源であり、今書こうとする因果の物語の主人公として、因縁の深い物語りを残した人である。その名を古能姫といった。」

※(注2)
  「古能姫」)( こうのうひめ)は、「於古能姫」「お古能姫」(おこうのうひめ)とも書く。

  (3) 「早良地方の伝説にはこの姫はその容姿が大変醜く白頭姫足で殆んど女性としての美もなく艶もなく全く人間の顔を備えていなかったと伝えている。」

※(注3)
 早良郡志には、お古能姫の容姿、器量に批判的で、郷士富永照兼(土生の長者)の息子兼縄は好男子で、容姿器量の悪いお古能姫との婚礼を嫌がり、輿入れの日に出奔したなどと、かなりどぎつい身内びいきの文を載せている。
  兼縄は、家老某の企みに乗せられて、婚約者のことを、そのように吹き込まれていたとでもいいたいのだろうか。
  しかし、野芥縁切地蔵尊前に立っている「野芥縁切地蔵尊由来記」(昭和61.9.24野芥縁切地蔵尊史跡保存会建立)には、さすがに、これは余りも酷い差別的記述で、事実無根のことだと思ってか、お古能姫の容姿、器量等についての記述はなく、「輿入れの日、兼縄がある事情のため出奔したので、照兼は、これを頓死と偽って使者を大城長者に急報の途中、お古能姫はこの報せを野芥で聞き、早や嫁ぐべき家も無しと、この土地で自刃して果てた」とのみ記している。

  (4) 「又これと正反対で、天が成す処の麗質は殆んどの天女にも似ていて磨かぬ肌は玉の如く、情艶の露を含んだ瞳はどんな異性も魅殺する風情を湛え、皆は芙蓉の花の如く、臥山の盾には新月を宿している趣がある。傾城傾国の粧い世にも稀な美人であったともいわれている。これを支那風にいうと沈魚雁月閉花の粧いと形容するのだろう。背にも腹にもかえがたい唯一人の姫の事だから、糸山の道は申すまでもなく、何一つとして女の道を教えない物はなかった。天性聡明で一を聞いて十を悟る賢婦であった。
  殊に舞は非常に堪能でその振袖をひるがえして舞をまわれると、あたかも天女の如く、天女にみまがわれてか、無心の草木も枝を垂れ動かさなかったほどと伝えられている。」

※(注4)
 
ここにお古能姫の容姿、器量等を褒めちぎる長い文を記したのは、早良地方に残っているというあまりにもひどい姫の容姿に対する中傷伝説に対抗してのことなのかもしれない。
  なお、粕屋町HPは、「お古能姫は三国一と言われた評判の娘」だったと一言で表現している。

  (5) 「それが国中に噂を鳴り響き、若者は婿になりたいとか、或は嫁にと婚を求める使者が絶えなかった。然しながら長者も最愛の姫の事であったから、容易に許さなかったが、満つればかくる世の習わし、永代続いたこの筑紫長者の末期は訪れた。
  その当時土生長者と言って聞えた早良の野芥の郷士土生伯耆守は、一日放鷹のついでに大城長者の家を訪れた事があった。長者は秘蔵の姫に土生長者の饗応のため舞を舞わせた。
  この前より姫の麗容は御意に叶っていたところに加えて舞いというのである。土生長者の喜びも大変なもの。それに舞は天女の舞である。他の追随を許さない差手引手の情艶さ、土生長者は姫をぜひ息子の嫁にと望まれたのである。
  嫁に貰えなければ自殺するとまで半ば威かつ。使者を遣わすこと数十回。ようやく約束を得るという結果で姫は土生長者の野芥の里に嫁入りすることになった。」

※(注5)
 早良の野芥の郷士土生伯耆守(土生長者)とは、上記(※注3)の郷士富永照兼で、お古能姫との縁談が決まったその息子が富永兼縄だという。

  (6) 「然るに土生長者の家老某は、かねてから土生家を横領しようとたくらみ、先ず自分の娘を侍女として若殿側へ差し出し、巧言令色をもって若殿をたぶらかしていた。それなのに今、正室として才媛の譽高い、由緒正しい大城長者の娘が輿入れになっては、野望もかなえなくなる。そこで一計を案じ、婚日延べさせようとした。
  然し土生長者が使者を遣わしてその婚礼日の延期を希わせようとした時は、すでにお古能姫は出羽守及び多数の郎党侍女に守られ、七車の調度を調えて今の逢坂に来ておられた。この地で使者と遭遇したのでこの地を逢坂と呼ばれている。
  その使者がいうには「若殿はかねてから病身で非常に危篤であるから、一時お駕籠を帰して日を改めて婚儀の式をあげられんことを」と願った。
  しかるに姫は「妾は親の家を離れて、野芥の長者に縁付く身である。たとえ契りを交わさずとも、親の許された女夫の間である。夫の病とあらば妻たる者が介抱するのは世の習わしであるから、是非野芥まで」と、と言われたので、使者は「それならばとにかくお待ち下さい」と、姫をとどめて帰った。
  そして、「この城、数多焼いて若殿は荼毘に附された」と姫に伝えた。」

※(注6)
 野芥には、土生伯耆守富永照兼(土生長者)は、息子富永兼縄を荼毘に附したと偽り、それと見間違うように、人が焼けるような臭いのするコノシロ(魚)を大量に焼いたという伝承がある。
  また、その火葬地は、重留(福岡市早良区)の「灰塚」という小高い丘だったという伝承もある。

  (7) 「聡明な姫は早くも土生家に何かの変を察し絶望の中に屈辱にたえかねて「この身の厭われし」と女心の一途に、身を守るべく所持する懐中の短刀で自分の咽喉をえぐられた。いかに美女薄命とはいえ、余りにも残忍な、いたわしく、あわれな末路であった。
  父出羽守も又可愛き姫の無残な姿を眼前に、何をためらうことあろう。死ぬのならばもろともに三途の川を手引きしようと、これも又即下に腹一文字に掻切ってはかない自決
  侍女や郎党の悲嘆も又極に達し、殉死するものもあり、とにかく姫及び長者の死体を埋葬、泣く泣く遺髪を携え、悄然と帰ったのである。
  奥方お節の方は悲嘆の涙につきる間もなく、やがては夫や娘の後を追いこれも又自害されようとした。しかし、郎党の諫めによって自害を思い止まったが髪を落とし尼と姿を変えられ、世の終るまで、長者の霊、娘の御魂の供養に捧げられたという。
  かくて栄華を誇りし大城出羽守一門は、ここに終わりを告げたのである。」

※(注7)
 このお古能姫の自害の記事を読み直していて、ふと時代背景も場所も違うが赤間(宗像市)で自害した「節婦お政」の物語が脳裏をかすめた。(※→「節婦お政(阿政)の墓」)。 

  お古能姫の自害は、政略結婚の破綻という人もいるが、最初から土生長者土生伯耆守富永照兼には、粕屋長者大城出羽守国定の一族を滅ぼす意図があり、一気にお古能姫の輿入れ行列を襲撃したと考えた方が分かりやすく、また、伝説にあるような小細工が、後で作られたとは考えられないだろうか。

  話を戻すと、筑紫国王磐井(磐井は筑紫国造ではなく王だったと思う)の敗死後、その子葛子糟屋屯倉内(粕屋町)に居住、墳墓を設けたとなれば、葛子が大和朝廷に糟屋屯倉を献上したという日本書紀の記述は怪しく、また、その子孫が大城出羽守国定の代まで粕屋長者として同地で繁栄したということであれば、この「お古能姫と粕屋長者の滅亡譚」は、ひょっとしたら九州王朝(倭国)の滅亡に係わる、時と内容を変えた話のひとつであったのかもしれない。
  つまり、九州倭国の神々が鎮座する若杉山の霊峰を仰ぐ糟屋郡には、七世紀後半頃まで太宰府都督府(太宰府市)や太傅府(飯塚市大分)とつながる倭国(九州[筑紫]王朝)の拠点の一つが存在していたのかもしれないと思っている。

  (8) 「そして奥方の居所を敷縄庵というのは整梨という地にあるからである。
  尚当時お節の方の守り本尊であった釈迦誕生のお姿三寸五分の霊像は、伝えて今は卯月八日に花御殿に出るが、長者の跡はそれ以来絶えて弔う人もない。ただお節の方の墓石と思われる石がある。」

※(注8)
 お節の方の墓石と思われる石とは、長者原「馬頭観音堂」敷地内に立っている小石碑のことをいっているのだろうか。

  (9) 「だが、娘の遺骸を埋めた土地に、土生長者から姫の後世安楽のため一基の地蔵尊が建立された。
  後世この地蔵尊を縁切りの効験新なりといわれ、七隈原の縁切地蔵と仰がれている。七隈とは七車の転化から来たものである。」

※(注9)
 上記野芥縁切地蔵尊前に立つ由来記によると、「土地の人々がお古能姫を哀れんでその菩提を弔うために一体の石蔵を建てたのが野芥地蔵尊で、その後男女の縁切に霊験新たかといわれ、また、近年は一切の悪縁諸病の縁切りにも霊験ありとして有名になり全国から参詣者が多い。昭和60年10月26日地蔵堂が出火全焼し、地元及全国の信者の納金で再建した」といい、土生伯耆守富永照兼が建立したとは書いてない。
  野芥「縁切地蔵堂」の中央に立っているギザギザに削られた一本のグロテスクとも無残とも思える石碑が「縁切地蔵尊」で、見る限り全く作られた時の地蔵尊のお姿を想像することもできないが、これは、縁切り祈願の参拝者が、石地蔵の一部を削って持ち帰り、お茶などに混ぜて縁を切りたい人に飲ませると霊験があるという信仰によるものである。
  これでは、早良郡志の記述ならず、上記(注3)のごとく、「お古能姫はその容姿が大変醜く白頭姫足で殆んど女性としての美もなく艶もなく全く人間の顔を備えていなかった」ということになってしまいそうだ。
  この地蔵尊は、もとは「於古能姫地蔵尊」と言われていたが、地蔵尊のお姿形が分からなくなって以後は、単に「縁切地蔵尊」というとの意も分からなくもない。

  なお、現在のお堂は、以前訪れた場所と違うような気がしてならず、昭和60年10月の火災後の再建時に現在地に移設されたものかと思ったが、地蔵尊は、お古能姫墓の真上にあるはずなので、その墓を掘り起こしてなければ、私の記憶違いなのかな。
  また、地蔵堂内の三面の壁には「男女が背中合わせに描かれた絵馬」や、「各種縁切りを祈願する紙片」がところ狭しと貼り付けてある。

  「七隈」とは、福岡市早良区七隈で、「七隈の地名」については、お古能姫が自害したとき、その輿入れ調度品を積んでいた七台の車を野原で焼いたといい、そこから、その原を「七車原」といったが、後に訛って「七隈原」→「七隈」と転化して生まれたという伝説があるようだ。

  (10) 「又土生長者の跡は早良郡田隈村野芥にある。長者死後昔の権勢の面影もなく、その地は茫々たる野原と化し、干戈を相交える戦場の巷となった。」
   
※(注10)
  早良郡田隈村野芥は、現福岡市早良区野芥だが、上記「縁切地蔵尊由来」には、「土生の長者と呼ばれた富永修理太夫照兼は、和銅(708-724)の頃重留の里(現在の早良区重留)に住んでいた」とある。
  この土生の長者の子孫の没落は、因果応報によるものだと考えたい。自分の保身のために姑息な手段で人を裏切り傷つけることは、世の常とはいえ、必ずその報いを受けると思いたいものだ。

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2014年01月13日

長者原の地名由来と馬頭観音堂(粕屋町)

絵馬1  JR長者原駅(香椎線、篠栗線=通称福北ゆたか線が交差する地点にある駅)の裏側の住宅地の中(月極駐車場の一角)に「馬頭観音堂」がある。

(※福岡県糟屋郡粕屋町長者原字敷縄 緑ヶ丘264付近) 。

  「馬頭観音堂」は、さほど大きなお堂ではないが、お堂内に入ると、まず、正面鴨居上一面に並べてある「小さな奉納絵馬」が目に入る(※画像)。

絵馬2  そのすべてに「馬の絵」が描かれてあり、今年(平成25年)の干支が馬(午)だから、その絵がなおさら目に付いたのかも知れないが、それでも一瞬、なぜここに「馬の絵の絵馬」ばかりがあるのだろうと思った。


  その後すぐに、須弥壇の正面に置いてある「馬頭観音像」を見て、ここが長者原「馬頭観音堂」だったことを思い出して、「だから馬の絵馬だったのか」と、やっと気が付いたような次第だった。

  ここは、JR長者原駅に近い地域で、今は住宅が密集しているが、岩崎神社から続く緑ヶ丘(低丘陵)の裾部分で、少し以前までは、「長者原」の文字にも似合う「野原」(耕作地)が広がっていた。

  かつて馬や牛は、農耕に必須な家畜として飼われていたので、この「馬頭観音像」も、もとはこの一帯に広がっていた耕作地や家畜などを守護する神仏として祀られていたのだろう。

  しかし、国鉄民営化後の昭和63年(1988)3月にJR長者原駅(3代目)が新設されて以後、長者原駅周辺は、博多駅至近圏内に入り、宅地化が進み、現在では農耕地が見られなくなっている。

長者原馬頭観音堂  伝説では、長者原の地名は、8世紀前後頃(奈良、藤原京時代)、粕屋の長者大城曽根出羽守国定が住まいしたという「長者屋敷」が、この長者原「馬頭観音堂」(※画像)がある辺りにあったことに由来するという。


  この粕屋の長者については、元明天皇・和銅3年(710)、その娘「於古能姫」(おこうのうひめ)の婚姻悲話を伝える野芥(福岡市早良区野芥4丁目21)の「縁切地蔵」伝説に出てくるが、この「縁切地蔵」は、今も縁切りを願う人たちの参拝が絶えないという。(※「於古能姫」と野芥「縁切地蔵」にまつわる伝説にはついては次回記す)。

  だが、この伝説の本家とも言うべき長者原「馬頭観音堂」については、その存在そのものが、あまり知られておらず、ここには、野芥縁切地蔵ほどの凄い「縁切り」信仰形態はないのではないかと思う。

  もっとも堂外にある二体の「地蔵菩薩石像」のうち、堂前に立つ一体は、もげた首をセメントで胴体にくっ付けたような跡があり、顔が横向きになってしまっているので、まさか、これは、野芥の「縁切地蔵」のように、地蔵の顔や首を削って縁切り祈願をした名残というわけではないだろう。
  そのほか、堂内と堂外に「不動明王石像」各一体、堂内に「阿弥陀如来石像」一体と木仏七体などがある。

  なお、福岡県内では、「」を「ばる・はる」と発音する所が多いが、ここ長者原(ちょうじゃばる)も同様で、これは、北部九州に朝鮮半島(特に新羅)との関わりの強い九州倭国、或は物部王国が存在したことを表しているのではないかと思っている。

  特に長者原駅周辺には、葛葉池遺跡ほかの弥生遺跡、古墳時代の遺跡があり、また古代九州倭国(九州王朝)の物語だと思われる神功皇后に関わる「駕与丁八幡神社」(加輿八幡宮)や「長者原廃寺跡」などがあり、上記粕屋の長者は九州倭国王磐井の子葛子の末裔ともいい「糟屋屯倉」も長者原周辺にあったのではないかと思っている。
 ※つづく→「粕屋長者娘:お古能姫の悲劇(野芥縁切地蔵尊由来)」。

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2014年01月10日

「干支午年色紙」(南岳裕史画)に架け替える

午干支図  平成26年/2014)の干支は、十干(じっかん)では「甲」(きのえ)、十二支では「」(うま)、干支60通りの組み合わせで「甲午」(きのえうま=こうご)。また、午は「」にあて、南の方角を表すという。
  本日、畳紙(たとうがみ)付きの「干支之図 午年色紙」(南岳裕史[なんがくゆうし]師画賛)を頂いたので、昨年から書斎の壁に掲げていた「巳年干支色紙」(藤原重夫=祐寛師画)を外して架け替えた。

  干支午色紙は、南岳裕史師の絵筆による馬にまたがり駆け抜ける鎧武者絵の上部に、墨書で「應事無法」の賛が書いてあり、見るからに優雅で、かつ躍動感溢れるものである。
  この「應事無法」とは、「物事に対してどのようにも対応できる。いかなる時でもいかなる事でも対応できるのは知恵である。」という。
  なお、南岳裕史師(昭和10.5.24生)は、高野山真言宗大僧正 弘教、教師会長、潮音寺(兵庫県淡路市)名誉住職。

  また、「干支午年」について、次の説明がされている。
  「古くから人間と馬の関係は深く家畜労働力としてとても役に立ち、戦の時には機動力として不可欠のもの」だった。
  さらに、「午年生まれ」の人の性格等について、明るく流行に敏感で開放的、頭の回転が良い、社交的で人気者になる、独立心旺盛で、冒険心も強く行動力があるなどを挙げている。

  「家畜労働力」といえば、確かに一昔前までの農家には、必ずといって良いほど馬や牛、或は豚などがいて、これらの家畜を守護する神社もあった。
  ※参照→「宗像市・徳満神社(牛馬の神)秋季大祭と…。

  また、「戦の時には機動力」といえば、確かに往古の時代から戦いには騎馬が登場しており、この「干支之図午年色紙」の絵柄は、鎧兜に太刀を差し、弓矢を背負い、手綱を引いて駆け抜ける馬上の武士を描いた武者絵で、まさにその勇姿が描いてある。
  この馬上の武者絵を観ていて、ふと、宇治川先陣争で佐々木高綱の「生食」と、先を越された梶原景季の「摺墨」を描いた「宇治川先陣争図」を思い出した。
  ※参照→「景石神社(9) 梶原景季の名馬摺墨の里」。  

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2014年01月08日

「黒田二十四騎図」絵馬を見て(筑前町松峡八幡宮)

黒田二十四騎絵馬 NHK大河ドラマで、「軍師 官兵衛」が始まったが、年始に松峡八幡宮(筑前町栗田)を参拝したとき、その黒田官兵衛の家臣団と係わる「黒田二十四騎図」絵馬を見た。(※画像)。
 明治43年(?)頃の奉納で、縦長に描かれている「黒田二十四騎図」が多いなかで、横長なのが珍しい。

 絵馬図には、26人の武将が描かれているので、正しくは、黒田官兵衛孝高(以下「孝高」と記す)・黒田長政親子と「黒田二十四騎図」、若しくは、黒田孝高と「黒田二十五騎図」ということなのだろう。

 黒田孝高が戦国武将(戦国大名)として活躍したのは、中津城(中津市)時代の慶長5年(1600年)9月に大友義統(吉統)軍を討ち破った石垣原の戦い(別府市)での勝利等が最後で、福岡藩藩祖とはいわれているが、福岡藩初代藩主は黒田長政であり、黒田如水と名乗って隠居後、筑前福岡で行った事蹟を知る人は少ない。

 晩年、如水は、安楽寺天満宮(太宰府天満宮)の再建に努めて境内に草庵を構えたといい、物部氏の菅原道真を祀る神社を藤原氏の赤色で抑えた。
 また、墓所の一つは長政と同じ崇福寺(福岡市博多区)にある。
 なお、この「如水」は、キリシタン大名であった孝高の洗礼名「ドン・シメオン」の日本語表記らしい。
 現在、福岡市内では「如水」の名が和菓子の如水庵清酒如水などで使われているものの、どうも如水(黒田官兵衛孝高)の人となりが現在の福岡の人たちと馴染んでいるようには思えない。

 また、「黒田二十四騎」は、姫路・播磨時代における黒田家草創期の精鋭(家臣)だといい、このなかで福岡の人たちが知っているのは、せいぜい黒田節で有名な母里太兵衛友信や、大阪夏の陣に散った後藤又兵衞基次くらいではないかと思う。また、廃絶、減俸を免れて明治まで残った子孫は黒田一成の系譜くらいだったとも聞く。

 因みに、「黒田二十四騎の名(五十音順)は、井上之房、小河信章、菅正利、衣笠景延、桐山信行、久野重勝、黒田一成、栗山利安、黒田利高、黒田利則、黒田直之、毛屋武久、後藤基次、竹森次貞、野口一成、野村祐勝、林直利、原種良、堀定則、益田正親、三宅家義、村田吉次、母里友信、吉田長利である。

 次に小生の行脚と係わりのあった諸将の名について思い出したことを記しておく
  (1) 「衣笠景延」の名を、本ブログ「正見行脚・池浦山王神社参拝(4)〜高橋伊豆守(黒田長政公殉死者)子孫」のなかに記したことがあるが、高橋伊豆守は、衣笠景延の甥で、その子孫は存命されている。

  (2) 黒田節の歌謡で有名な「母里友信」(太兵衛)と係わる筑前鷹取山城跡(田川郡福智町)や益冨城(大隈城)跡、麟翁寺、清酒黒田武士醸造元(以上嘉麻市大隈)、黒田節母里友信像(福岡市博多駅、西公園)などを見学したことはあるが、これまで本ブログには記してはいない(以下も同様)。

  (3) 「野村祐勝」の子「野村祐直」について書いた小論文「野村隼人正祐直の墓」を雑誌「龍陵3号」(嘉穂高校発行)に投稿し、掲載されたことがある。
  上論のなかに難解な墓碑銘を「ウハチキュウ」と通称すると記し、その後、某書や観光パンフなどで「ウハッキュウ」などと記されて紹介されているのを見たが、本件は、小生の上論が初見だったと思っている(※当時、この解読にあたって、九州大学文学部中国哲学研究室・疋田啓佑先生のご教示を受けた)。
  野村祐直は、野村大学とも称し、五輪塔変形墓が晴雲寺境内(飯塚市鯰田)にあり、今もご子孫は存命されていると思う。随分以前、ご子孫の野村宗秀氏からお手紙を頂いたことがあったことを思い出した。

  なお、同寺境内には野村家から妻を迎え、後に横死した茶道南坊流祖の立花実山供養と伝わる観音堂もあった。

  (4) 栗山利安の再建と伝わる円清寺(朝倉市杷木志波)を訪ねたこともあり、その子栗山利章(大膳)は黒田騒動の張本人として知られるが、随分以前、飯塚市で栗山家縁故のご子孫(栗山岩雄氏だったか)とお話をしたことを思い出した。

  (5) 黒田長政との不和で出奔し、後に大阪夏の陣で討ち死にした後藤基次(又兵衞)は、元は上記大隈益冨城主だったが、耶馬溪(大分県)を行脚中にも、彼の遺跡に行き当たった記憶がある。

 今回、改めて神功皇后との縁の深い松峡八幡宮下宮で、上記「黒田孝高・長政親子と黒田二十四騎図」絵馬を見ていて、このようなことを思い出した。なお、松峡は、日本書紀の神功紀にでてくる。

5 ところでNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」初回放送の視聴率は予想したほど伸びなかったそうだが、幼少期の官兵衛の実母いわを演じた戸田菜穂さんの演技は光っていた。

 戸田菜穂さんは、5月に第2子誕生予定だが、結婚前から母親役が似合う女優さんだと思っている。

※参照→「部木八幡宮の黒田二十四騎図絵馬(福岡市)」。

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