2014年04月

2014年04月26日

部木八幡宮参拝記まとめ(福岡市東区)

 前回、「部木八幡宮の朱塗り神殿(福岡市東区)」からつづく。

96本殿前景 部木八幡宮(福岡市東区蒲田3-18-8)は、筑前國續風土記に「蒲田村八幡宮」の見出しで載っているので、筑前国ではその名を知られていたようだ。

(※画像1:拝殿前)。

 「蒲田村八幡宮 蒲田村の枝村、部木と云所にあり。祭る所の四座、八幡大神、神功皇后、太祖權現、寶満明神也。蒲田、戸原、江辻、名子、四箇村の産靈にして、田舎にては頗大社也。九月十九日祭禮を行ふ。流鏑馬あり。八幡宮前に、曽我祐成時宗を祭る所とて、大小二石立たり。祈願の者は、木刀を作て捧ぐ。」

 「田舎にては頗大社也」とあるが、確かに流鏑馬を行う「馬場」があり、馬場の先には「曽我神社」が鎮座し、「部木古墳群」、「仲哀天皇御陵伝承」、「別火の里・古ノ宮(元宮)旧跡」、「神池(御潮斎所、放生池)」などもあり、そのほかにもかつて宝満山修験者も係わり、上記祭神四座の本地仏を祀る「本地堂」ほかの仏堂などがあったと考えると、確かに「田舎にしては頗る大きな神社」だったと思う。

 現在、近くに九州自動車道(東方)や同福岡料金所(南側)や福岡都市高速(南西方)が走り、大型工業団地(西側)が隣接するなどで、すっかり視界が悪くなってきているが、多々良川の本支流が合流する地点にある多々良川浄化センター(西方)に行くと、かつてもっと川幅が広かったこれらの河川の水流に沿って産子四か村がつながり、農林水産業を営み、その中心地に産神を祭祀したであろうと伺える。

 多々良川浄化センターの所在地「江辻」の地名は、まさに多々良川水系が合流する地点であることを表しており、古代、身重の「神功皇后」もまた、この多々良川の大河を船で遡り、別火の里に至り、胎内児の安産を祈願し、後にこの由緒により、「神功皇后」とその子「八幡大神」(誉田別皇子・応神天皇)を、部木八幡宮の祭神として祀られたのだろう。

 部木八幡宮の南側の低地(沖積平野)が、かつて同上水系の入江だったとしたら、神功皇后はこの入江の「船溜まり」に着船し、ここから「別火の里」(古ノ宮)に上ったはずで、この「船溜まり」が現在の「神池」(御潮斎所跡・放生池)だったとも考えられる。

 もともとの産神は、部木古墳群の被葬者(一族の首長、氏神)だったのだろうが、八幡宮創設により上記八幡大神、神功皇后(香椎大神ともいい、仲哀天皇の合祀もあつたかもしれない)となり、さらに神功皇后の若杉伝説とつながる霊峰若杉山を遥拝できる位置にあるので、若杉山太祖權現(伊弉諾命)、及び若杉三山~宝満山修験と係わる寶満明神(玉依姫命)を加え四座となったのだろう。

 宝満山修験と係わるといえば、部木八幡宮は、明治維新前のでは神仏習合の社寺であったことが、筑前國續風土記附録に「本地堂・薬師堂・地蔵堂あり」、同拾遺に「本地堂有(阿弥陀弥勒の二像を安置す)。地蔵堂 薬師堂有(薬師大日の像あり)。御供屋 鐘楼有」とあることからも分かる。

97-2旧塔と古墳6 今、これらの堂宇、仏像を境内で見ることはできないが、境内で神仏習合の形跡が伺えるものとしては、「五輪塔」(既述)と、「三重塔」(石塔)及び「大乗経典一字一石塔」などがある。


(※画像2:三重塔(石塔)と大乗経典一字一石塔、右後方は部木古墳群6号墳上の社祠、石神)。

 また、拾遺には「若八幡社有」とあるが、現在、本社神殿の両サイドに建つ境内神社は、續風土記三誌に記載のない貴船神社(向かって右)と豊受神社(同左)のみで、或は、豊受神社の左方、部木古墳群第6号墳上にある立派な古い石祠が「若八幡社」なのかもしれない。

 第6号墳上には、古い石碑も立っているが、同拾遺や(附録)に記載のある「石神有。武内大臣を祭る」(社内に武内大臣の石神あり)なのかもしれない。

 八幡大神、神功皇后に武内大臣(武内宿祢)がいて、八幡宮の神々が揃ったことになるが、「かもしれない」と曖昧な言い方をしているのは、同所には何度か足を運んでいるのだが、そのつど長居ができず調べていないからだ。
 同所は、明らかに6号墳古墳(小型の円墳か前方後円墳)の頭部を平らに削って、石祠、石神の社地としたことが分かり、削平されているとはいえ古墳の頭上を足で踏みつけていることに抵抗感があり、かつ霊気も強い。

 豊受神社(祭神豊受姫命)については、どうして伊勢皇統系の外宮社が、ここに単独で鎮座しているのはかが分からないが、もし新羅系の物部氏が当地方に進出していたとして、もとからここにこの社祠があったのだとすれば、豊受姫命=保食神にすり替えられた大歳神・饒速日命を祭祀していた可能性はないのか。
 ともあれ、賽銭箱に賽銭を入れて参拝したとき、防犯カメラが設置してあることに気付き、また、以前、六ヶ嶽神社下宮社で賽銭泥棒に間違えられたことを思い出した。

94裏鳥居と貴船神社 次に貴船神社だが、筑前國の貴船神社は、宗像三女神(宗像大社祭神)の一「湍津姫神(多岐津姫神)」と同神、或は「瀬織津姫大神」(波折神社祭神)と同神とされることがある。
 「瀬織津姫神」は男神天照大神(饒速日命)の妻神とも目されるので、出雲物部氏とも結びつく。

(※画像4:裏参道鳥居からみた貴船神社)。

 ともあれ、当部木八幡宮境内社の貴船神社の祭神は、つぎのようになっている。
「高龗神」、「闇龗神」であり、加えて新羅色のある物部氏系の「素戔嗚命」、「埴安神」、「豊玉姫命」、「菅原神」となっている。
 因みに当地方は、加羅、新羅などと連なる多々良川(多々羅川)羅文化圏にあったという。

 なお、筑前國續風土記拾遺に「宮司の寺本社の巽ノ方に在。普門院といふ。禅宗洞家博多明光寺の末也。外に社家神人等はなし。」の記載があるので、多分、南東(巽そん)の坂本集落内にあったのだろう。

 これまで部木八幡宮参拝記を、思いつくままにだらだと書き綴ってきたが、一応、今回で本稿は終わります。

※本稿トップ→「部木八幡宮(神功皇后伝説)と部木古墳群、弥生遺跡(福岡市)」。

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2014年04月25日

部木八幡宮の朱塗り神殿(福岡市東区)

 前回、「部木八幡宮の古ノ宮(元宮)旧跡と別火の里・神池御潮斎所跡(福岡市東区)」からつづく。

95本殿朱色 部木八幡宮(福岡市東区蒲田3-18-8)で妙に気になったのは、一部朱塗りの神殿だった (※画像)。
 よく八幡宮の建物が朱塗り(赤)になっている光景をよく目にするが、八幡宮は本元、赤色を使うものなのか。。

 因みに部木八幡宮の祭神の一、神功皇后は新羅系であり、本来、新羅は「白木」で、本来の色は白色ではないのか。
 (※福岡に白木原という地名があるが、古代、新羅の帰化人が居住した地区)。

 源平合戦時代、源氏は新羅系の白旗を、また、平家は百済系の赤旗をシンボルとしていたので、この例で考えれば、白旗の源氏は鶴岡八幡宮を信奉したので、八幡宮に赤色を塗るのはどうなのか。
 なお、現在の合戦(紅白歌合戦や運動会など) で、赤白に分かれて戦うさまは、古代、新羅系と百済系の源平合戦を引きずってきているものか。

 古事記によると、神功皇后は、新羅の阿具沼の畔で受精した女性から生まれた玉(阿加流媛)が国王天日矛(あめのひばこ)と結ばれ、その九代孫息長帯比売命」(息長氏)で、明らかに新羅国王の子孫ということになる。

 また、神功皇后は、4世紀末〜5世紀初頭頃の新羅と係わる九州倭国の女王で、神功皇后の行くところには、弥生〜古墳時代初期の遺跡があり、部木八幡宮を産神とする地区もしかりで、新羅系土器が発掘されたりする。
 この新羅系の神功皇后が三韓征伐で「新羅に進攻」したというのだからややこしいが、帰巣本能だと指摘する人もいる。

 話は飛ぶが、一部朱塗りの部木八幡宮神殿を見ていて、某教授に次のようなユダヤと秦氏に係わる指導を受けたことがあったのを思い出した。
 つまり、ユダヤは、「過越し祭」の祭礼のときに玄関に赤印をつける。ユダヤのことをイヤハダといい、八幡の本来の読みはイヤハダ(ヤハタ)である。秦(ハダ、ハタ)氏などのユダヤから人たちが信奉した神が八幡神なので赤色を使うというだ。
 確かに、帰化した秦氏は豊後に都(みやこ)を置き、豊後の宇佐八幡宮と係わり、京都に移った秦氏が、護神の松尾大社とは別に伏見稲荷社(赤色)も氏神の一としたと考えれば、秦氏を介して(赤色)と宇佐八幡宮が結びつくことにはなるが、私は、秦氏がユダヤだとは思っていないし、秦氏が八幡神を信奉したかどうかも分からない。
 秦氏の出自はともかく、秦氏が赤色を使うようになったのは、平安期に百済系の藤原氏に急接近したことによるものではないのか。

 話を戻し本来、八幡宮が新羅系の神功皇后を祀るのであれば主流は白色で、百済系の赤色を使うことはなかったと思うが、7世紀末以降、ヤマト政権の藤原氏に押さえられた地区が赤色になっていったではないのだろうか。

 部木八幡宮拝殿で前述「黒田二十四騎図絵馬」を観たとき、筑前國福岡藩主黒田氏は、百済系藤原氏流だったので、ここは一部朱色(赤)にし、その流れが続いているのか、などと思い、妙に納得し、本件は思考停止。
 要するに気にはなったものの自分の脳裏で何も消化できていないということ。

※つづく→「部木八幡宮参拝記まとめ(福岡市東区)」。

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2014年04月24日

部木八幡宮の古ノ宮(元宮)旧跡地と別火の里・神池御潮斎所跡(福岡市東区)

 前回、「部木八幡宮の五輪塔と仲哀天皇御陵伝説(福岡市東区)」からつづく。

 前回、部木八幡宮(福岡市東区蒲田3-18-8)の「(正面)鳥居の真南方向に、今は消滅した部木八幡宮古ノ宮(元宮)があった」と記した。

 繰り返しになるが、先に「部木八幡宮(神功皇后伝説)と部木古墳群、弥生遺跡」のなかに、「神功皇后は、新羅遠征から帰国後、皇子(誉田別命)の出産予定地(宇美)に向かう途次、旧蒲田村で、八百万の神々にささげる火(別火「べっぴ」という)を焚き安産祈願を行ったので、この地が「別火の里」と呼ばれ、後に「別火」が訛って「部木」(旧蒲田村枝郷部木)となり、同地に、神功皇后誉田別命(応神天皇)を祭神とする部木八幡宮が鎮座したと記した。

 祭神には、ほかに宝満山修験系の宝満明神(玉依姫)、太祖権現(伊弉諾命)を祭祀しているが、「別火」は、修験の「護摩火」と見合っており、修験者の奉祀が行われたことによるのかもしれない。
 宇美八幡宮を初め周辺の八幡宮や宝満宮では、この四神を祭神として、宝満山修験、若杉山山伏が係わっている例が多い。

 ところで、実は、神功皇后「別火の里」の発祥地は、現部木八幡宮鎮座地ではなく、今は消滅した部木八幡宮「古ノ宮」(元宮)の鎮座地 (福岡市東区蒲田630周辺) だった。
 現在、その地は、一帯の丘陵が開削されて九州自動車道福岡インターチェンジ福岡料金所となっているので正確には分からないが、多分、同料金所入口付近だという。

 部木八幡宮拝殿でたまたま見かけた紙片に、「古ノ宮の旧跡地」の記事が載っていた(下記)。

 「龍王の里(亦の名を別火の里)の古ノ宮は、太古の昔、神聖な火を絶やすことなく焚いていたと云われ、神功皇后は、西暦369年頃、この地において別火をもって八百万神を祭り、神託を得て三韓征伐やお平穏、皇子安泰をご祈願されたと言い伝えられている。
 内海知彦前宮司の友人である福岡市名子の池見信義氏は、古ノ宮の旧跡地について、次のように証言されている。
 『古ノ宮の旧跡地には、途轍もない大きな楠の大木があった。その横に大きな窪みがあり、その周辺に巨大な石焼き焦げた大小の石が多数あつた。内海宮司は、この地で沸かしたお湯を神功皇后が産湯に使ったと言っていた』と話されている。」

 この文を読んで、私見からすると三韓征伐祈願や神功皇后が産湯を使ったなどの証言は辻褄を合わせにくいものの、かつて「古ノ宮の旧跡地には、巨大な磐座楠の御神木があったことが分かる。
 そして、「焼け焦げた大小の石」から、多分、江戸時代頃までは、ここで宝満山などの修験者(山伏)が護摩火を焚き、「別火の里」の伝統を受け継いでいたであろうことが推測できる。

 今となっては、「古ノ宮の旧跡地」の存在を物語る貴重な証言であり、このような証言が消え去ることのないことを願う。
 ただ、この「古ノ宮の旧跡地」が消滅する前に、「焼け焦げた大小の石」の一部でも部木八幡宮に運んで奉納されておれば、証言を補強する史料になったであろうと思うと残念だ。

 筑前國續風土記拾遺に、「縁起に此地名の部木を別火の里とよびて神后の物斎し給ひし所のよしにいへるは附會の説也。別火を部木と訓へきよしなく其上字音の此謬なれは吾國古代の語に非さる事をしるへし。」との記述がある。
 さすが国学者らしき批判をしているが、およそ民間伝承や地名は、音をもって語を当て変化することは多く、特に神功皇后伝説においては、事実が先にあり後から伝説を付会した例も多く、さほど厳密に論証することでもなかったのではと思う。

 付記すると、拾遺は、続けて「猶強いていはば部木とは日置をいふか。姓氏録山城國右京皇別に日置朝臣ハ應神天皇ノ皇子大山守王之後也とありて諸國に此皇子の後胤の人住せられし所を地名に呼て日置といふ所多し。若此部木の名古代よりあらは此皇子の裔ここに住せし人なとの祖神なれはとて祀初しにも有へきか。古昔の傳なけれは定説とし難けれと誠に愚按を述侍るなり」。

 部木八幡宮の祭神応神天皇の縁に結びつく考証が実に凄く引き込まれるが、確かに、当地に、この説に対する古昔の伝承がなければ残念というほかない。

 なお、部木八幡宮の南面(福岡インター)~西側(工場団地)にかけては、蒲田水ヶ元遺跡群蒲田部木原遺跡群などと称される幅広い発掘調査が行われ、 旧石器時代~縄文時代~弥生時代などの石器、弥生中期以降の竪穴式住居跡と溝跡、弥生土器、甕棺墓、また、古墳時代の土器などが発見されたという。
 古墳もあったと聞いているが、すべて消滅し、また、部木八幡宮「古ノ宮の旧跡」についての発掘調査等が行われたというような話は聞かない。

 各地の多くの遺跡(j埋蔵文化財)を潰しながら高速・九州自動車道が開通し、多くの史料が消滅したが、ここ部木八幡宮においてもしかりだったのだ。
 部木八幡宮馬場に建つ「一の鳥居」近くから南に「神池」(御潮斎所・放生池)に下る細い農道があるが、神池から、かつて「古ノ宮旧跡地」があったという丘陵にある福岡料金所がよく見え、その丘の下に立ち塞がるコンクート壁にも圧倒される。



78-3御潮斎所説明   なお、この「神池」(御潮斎所)は、「古ノ宮のお清めのお潮の採取場跡」だという(※画像1・2)。

 つまり、この付近は多々良川と久原川が合流する地点で、両川とも今よりもっと広く大きく、当地付近はその入江(入海ともいう)をなしていたところで、ここで、多々良川を遡ってくる玄界灘の潮流を採取していたのだろう。

78-4御潮斎所説明 また、古ノ宮では、ここで採取した御潮を「神聖な別火で清め」製塩をしていたという説もある。

 ただ、この場所だと、横を流れる水路がかつての入江の名残りで、まだ農地の残る低地一帯に入江があったと考えると、古ノ宮は、入江の対岸にあったことになる。

 ともあれ、今も、すぐ横を流れる水路の縁にあるこの「御潮斎所跡」を、コンクリート壁で囲み、湧水、溜水等はないが、この区画を「神池」として保存しているのは貴重である。
 特に隣接する「キョーワ」工場がこの小さな一画を残こして角をL字型に切った建物を建てているのも印象的だ。

※つづく→「部木八幡宮の朱塗り神殿(福岡市東区)」。

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2014年04月23日

部木八幡宮の五輪塔と仲哀天皇御陵伝説(福岡市東区)

前回、「部木八幡宮の縁松と梛(なぎ)の木」(福岡市東区)」からつづく。

91鳥井  (筑前國續風土記附録)蒲田村八幡宮(部木八幡宮のこと)の項の「鳥居の外五輪の石塔あり。仲哀天皇の御陵といふ。仲哀天皇の御陵は河内の國丹南郷長野にあり。此所にあるはいわれなき事にこそ。」の記事に気付いた。

 部木八幡宮には、現在鳥居が3本立っているが、記事から推して普通考えられるのは、神殿(拝殿)前の参道入り口に立っている正面鳥居(※画像1)だと思い、まず鳥居の建立年を観た。

90鳥井旧額束 かなり新しい御影石の鳥居だが、両方の柱に次の年号が刻してあった。
 右「奉寄進 元禄十一年二月吉日」
(1698)、左「奉再建 弘化三年五月吉日」(1846)。

 その近くに、同上再建鳥居に掲げていたと思われる「八幡宮」と刻した旧額束(※画像2)も置いてあった。

 そこで鳥居前の石段を下り、鳥居の外に出て、馬場を横切り、面前の (やや左寄りにある) 集落内を歩いてみた。
 鳥居前の民家の裏にある竹林が気にはなったが、遠目で墳墓らしきものは確認できず行き方も分からない。
 また、その途中、当地は境外になるので、前述「部木八幡宮境内の保存樹(福岡市)」に載っていない同市保存樹のがあるのには気付いたが、五輪塔(石塔)のある御陵らしきものには行き当たらなかった。

 改めて上記「鳥居の外に」の意味を考えていて、ひょっとしたら、かつて鳥居の真南方向にあり、今は消滅した部木八幡宮古ノ宮(元宮)にあったのではと思われる古墳のことを指しているのか、若しくは、社務所後方の森に現存する部木古墳群第1号墳(前方後方墳)を指しているのかもしれないと思ったりした。
 ただし、現存する上記第1号墳上には「五輪の石塔」がない。

87五輪塔 改めて境内を見渡していて、上記正面鳥居の横辺、旧額束が置いてあるすぐ横にある一基の五輪の石塔(※画像3)を見過ごしていたことに気付いた。

 この五輪塔(石塔)は、砂岩質で空輪(宝珠)、火輪、水輪の一部が欠けているが、空輪(khaキャ)、風輪(haカ)の梵字や、地輪(台座)に刻された文字が読めた。

 地輪の刻文字によると、建立されたのは「享保十乙巳年十一月吉且」(1725)で、「願主江辻村松永佐吉 因佐平次」(松永姓は前回記した九州倭国の後裔松の姓につながり、両者は江戸機に氏姓を有した有力者か)とある。
 この欠け具合や設置具合などを観ていて、何となく、元からここにあったものではなく、近年ここに移動したもので、この五輪塔が、上記に記された五輪の石塔ではないかと伺えた。

 結局、仲哀天皇(足仲彦天皇)の御陵がどれなのかは分からず、改めて地元の人に尋ねてみる必要もあるが、消滅した古墳から、若しくは古墳保存措置により上記1号墳から、この五輪塔を現在地に移設したのではないかと思っている。

 ところで、上記附録は、仲哀天皇の御陵は河内の國丹南郷長野にあり、此所にある謂れはないと断定しているが、もし仲哀天皇が九州倭国(筑紫・九州王朝)の系譜にある人だったとしたら、河内にあるという仲哀天皇の御陵の方が怪しいということになる。
 つまり、仲哀天皇の御霊柩を香椎から豊浦、そして河内に移したという説を信じていないということ。

 事実、香椎宮古宮(福岡市東区)は、仲哀天皇の陵墓で、香椎宮(福岡市東区)は香椎廟(仲哀天皇の御陵)と言われていた。
 仲哀天皇は、神功皇后の三韓(新羅)征伐に消極的だったために、香椎の駐留輦地で神罰(天誅?)を受けて亡くなり香椎に葬られたという。

 また、御勢大霊石神社(福岡県小郡市大保)にも「御本體所」(仲哀天皇の御殯葬地)がある。
 上記の日本書紀説とは違い、仲哀天皇が熊襲親征により橿日(香椎の旧字)の本陣より大保に進軍したとき、流矢に当たり崩御、今の御勢大霊石神社御本體所に假殯葬した後、御霊柩を橿日に遷したという。
(※参照→「御勢大霊石神社と神功皇后伝承(1)」→「御勢大霊石神社と神功皇后伝承(2)〜仲哀天皇崩御考」)。

 そして、仲哀天皇が九州倭国の系譜に連なる人であつたとしたら、九州倭国の筑紫国王磐井や葛子が管轄した糟屋屯倉(旧糟屋郷)に鎮座する部木八幡宮に仲哀天皇の御陵があったとしても不思議ではない。
 むしろ、こういった民間伝承が、間違った歴史常識の陰で葬り去られてしまうことの方が歴史学的にも民俗学的にも損失が大きいと思う。

 因みに、継体22年(528)12月筑紫国造磐井の反乱で敗れた磐井の子葛子が管轄した糟屋屯倉を大和倭国に献上したという日本書紀の記事については、6世紀初頭に成立不鮮明な大和政権が九州に進攻したとは考えられず、この記事は葛子が糟屋郷を管轄していたという以外は疑問が多い。

 特に今より広かった多々良川(多々羅川)流域を含む旧糟屋郷(粕屋町~福岡市東区など)には、古代、新羅、加羅(加耶)などの羅文化圏内にあったとされ、加羅の移民が倭国を建国したという説もあるので、当地は仲哀天皇御陵云々も含めて、もっと注目されてもよい古代史地区なのではと思っている。

※つづく→「部木八幡宮の古ノ宮(元宮)旧跡と別火の里(福岡市)」。

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2014年04月22日

部木八幡宮の縁松と梛(なぎ)の木(福岡市東区)

前回、「部木八幡宮の「白馬の絵馬」(福岡市)」からつづく。

82縁松之碑 前回、部木八幡宮神殿の(向かって)右(玉垣の囲いのなか)に「縁松之碑」があるが、御神木の松の木は生えていないと記した。
 なお、この「縁松之碑」は、大正三年六月建立の「玉垣奉献人名碑」である。

 今の御神木は、枯れた「松」に変えて、平成元年に植えられた「梛(なぎ)の木」である。

 ところで「八幡宮の松」といえば、すぐに「箱に入れた誉田皇子(応神天皇)の御胞衣(えな)を納めた地に植えた御神木の筥松(しるしの松)がある筥崎宮(福岡市東区箱崎)」が思い浮かぶ。
 この由緒から見て、神功皇后が胎内皇子(誉田皇子)の安産祈願を行ったという「別火の里」伝承地の由緒を伝える部木八幡宮の御神木が「縁松」であってもおかしくはない。

 ただ「松の木」は、九州倭国(筑紫・九州王朝)の末裔が名乗った「松の姓」とも係わり、例えば「三階松」(神紋・家紋)が同王朝の象徴とされることもあるように、同王朝の御神木を「松」としたともいえる。
 これは、神功皇后、応神天皇が九州倭国(筑紫・九州王朝)の系譜、或は、部木八幡宮の産子 (粕屋町江辻・戸原、東区蒲田・名子地区の人々)が同王朝の系譜につなっているのでは、というような想いに捉われてのことだが。

 少なくとも多々良川(多々羅川)流域を含む糟屋郡(福岡市東区含む)一帯が、九州倭国の系譜(筑紫国王)磐井及びその子葛子の管轄地であったことは史実であり、古代、多々良川流域は磐井が係わる新羅文化の影響や、加羅(加耶)と係わる羅文化圏内でもあった。
 また、粕屋町阿恵にある鶴見塚は葛子の墳墓だとの伝承もあり、このようなことを考えていると、部木八幡宮の御神木が「松」が「梛」に変わってしまったのは残念でならない。
 (※参照→「粕屋長者娘:お古能姫の悲劇(野芥縁切地蔵尊由来)」)。

 部木八幡宮の御神木が「松」から「梛の木」に変わった経緯は、次のようだ。

80神木正面・平成元年、この場所にあった松の御神木が害虫の被害を受けたので、当時の総代池見信義氏と相良俊三氏が松の木に代わる御神木として、橿原神宮の御神木でもある梛の木を植樹した。
・マキ科の常緑樹で別名「竹柏」とも云い、樹の材質は緻密で床柱・高級家具に用い、樹皮は染色及び柔皮剤に利用、葉は竹の葉に似ており、熊野地方では葉を鏡の裏や財布に入れて災難除けのお守りとしている。

 この説明では、なぜ部木八幡宮より遥かに成立(鎮座)が新しく、かつ部木八幡宮の御祭神にはいない神武天皇を祭祀する「橿原神宮」の御神木を部木八幡宮の御神木としたのかが分からない。
 因みに神武天皇実在説は信じるが、岡湊から大和に入り最終的に饒速日命軍を撃退し東遷したという日本書紀の記述には疑問を持っている。神武は饒速日命を始祖とする物部軍を岡湊で破っても九州を離れることはなかったのではないのか。

81神木裏面 熊野速玉大社など熊野修験と係わる神社で多く見られる御神木「梛の木」を、御神木とした、と説明した方がまだ分かりやすかったか。
 つまり、部木八幡宮の祭神は、応神天皇、神功皇后、伊弉諾神(太祖権現)、玉依姫(宝満明神)で、若杉山修験山伏(宝満山修験)と係わり、かつて若杉山修験者が部木八幡宮ての祭祀も行うなど、神仏習合の修験道色の強い神社でもあったからだ。
 (※参照→「須惠宝満宮А塑弯世覆(須惠町)」)。

 ところで、御神木「梛の木」といえば、かつて熊野修験とも係わったと思われる勝宝寺(福津市舎利蔵)境内にある5本のナギ(梛木)の巨木(樹齢伝800年/県天然記念物)を思い出した。
 「梛の木」は樹齢が長く、巨木となるので、後世、太い根と樹(幹)周が張りだして玉垣を壊し神殿に覆いかぶさるのではないかと思った。
 (※参照→「舎利蔵へ(2)~ 勝宝寺・行基開基とナギの木?」。 「舎利蔵へ(6)~熊野権現社とナギの木」)。

※つづく→「部木八幡宮の五輪塔と仲哀天皇御陵伝説(福岡市東区)」。

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2014年04月19日

長崎駅で書写中学校の「龍踊」発表を観た

3あれ! 法事が済んで、JR長崎駅に着いたとき、長崎駅構内のホールで、「龍踊」イベントがあっていた。

 立ち止まって見ると、イベントを仕切っているのは、童顔の子供たちだった。

 修学旅行で姫路市から長崎市を訪れた書写中学校の生徒115人全員が一体となって、長崎の伝統芸能「龍踊」を学び、その練習成果を、初めて現地の長崎駅で発表していたのだった。

1玉はどこだ グループごとに、身なりを整え、楽器をかき鳴らし、音曲に合わせて、龍が玉を追いかけて入場、そのうち玉を見失い、ドクロを巻いて頭を持ち上げたり下げたりして探し、やっと玉を見つけて、めでたし、めでたし。

 といったワンパターンの所作だが、それぞれに一所懸命な姿がとても微笑ましかった。

2玉あり 「龍踊」は、長崎ならでの踊りで、こういったことを修学旅行で学び、即公開発表するなど、素晴らしい体験学習だと思う。
 見学していた多くの観衆は、惜しみない拍手を送っていた。おめでとう。

 次々に替わるグループの「龍踊」に見とれ拍手しているうちに、列車の発車時間になってしまい、全グループのそれを観ることができなかったのが少し心残りだった。

 それにしても、長崎市は、修学旅行生を対象にしたこのような体験催しをしているのか、観光都市ならではの素晴らしい着想催しだと思った。

 ところで書写中学校って珍しい校名だが、今、放映中の「軍師官兵衛」で播磨で毛利軍と激突した織田軍(秀吉)が本陣を構えたのが書写山(兵庫県姫路市)だったので、このような歴史的由緒地にある学校なのだろうか。

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2014年04月14日

浪寄神社の八重桜愛で(宗像市名残)

※前回「冨士原小峰「聖観音堂(宗像市広陵台)=宗像四国東部霊場85」からつづく。
06浪寄神社 今春(平成25年)、福岡の桜(ソメイヨシノ)は、開花時期に大雨や風雪(寒波)に遭い、満足に愛でる暇もなく散った。

 そして、八重桜の咲く時期になった。
 以前から八重桜の花が咲く頃に、浪寄神社(宗像市名残267)を再訪し、参道にある1本の八重桜の花を観たいと思っていた。

 この八重桜は、浪寄神社参道石段の途中の右側にある。
 一本だけの八重桜で、そんなに大きなものではなく、また、有名なものでもない。
 だが、以前、訪れれたとき、参道の上に張り出している枝ぶりを観ていて、満開時に、ここから石段上を見上げると、花とのコントラストがよいだろうなどと、個人的に思っていた。

 浪寄神社は、名残伊豆丸集落の外れの高台にあlり、集落内にある「名残伊豆丸遺跡」(宗像市名残172)前の広場に駐車、徒歩で坂道を上った。
07浪寄神社 八重桜は、今、予想どおり満開だった。
 そして、樹木の新緑と石段、鳥居、社殿(屋根)等をバックにして咲き誇る満開の八重桜(ピンク)とのコントラストは、やはり思っていたとおり良かった。

 八重咲の花は、鮮やかで豪華だが、ソメイヨシノに比べると地味で、八重桜の下での桜見というような話は聞かない。
 そこで、このような誰もいない山間の高台に人知れずひっそりと咲いている花をゆっくりと愛でることができた。

08浪寄神社 また、八重桜の後ろに立っている鳥居の額束に刻してある「浪寄神社」の文字を観て振り返った。
 山間地とはいえ、下方には、農地や水路(釣川支流の名残川の上流)のある風景が広がっていた。

 かつて赤間、徳重(宗像市)にあった「釣川の入江」は、この山辺まで続いていたのだろうか。
 そして、名残川はその名残りで、入江の浪が打ち寄せる山辺に鎮座する神社なので「浪寄神社」といったのだろうか。
 こんなことを想像しながら、山間の地の気を吸い込んだ。

 なお、「浪寄神社」や「名残伊豆丸遺跡(古墳)」等については、改めて別記する予定。

※つづく→「名残伊豆丸遺跡(古墳)など(宗像市名残)」。

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2014年04月13日

部木八幡宮の「白馬の絵馬」(福岡市)

 前回「黒田二十四騎図」絵馬(部木八幡宮)」からつづく。

75白馬絵馬 平成26年(2014) は、干支が「甲午」歳なので、年始前後頃には、馬を描いた色紙(南岳裕史画)、或は絵馬(松尾大社干支馬)、馬頭観音堂(長者原)、馬の石像(高良山愛宕神社)などにも興味をもって見て回った。

 特に神社仏堂等に掲げてある「馬の絵馬」は、その名のとおり馬の絵=「絵馬」なので、「これは縁起が良い」などと思い、幸運を願って合掌したりもした。

 そのなかに、部木八幡宮(福岡市東区蒲田3-18-8)拝殿の「白馬の絵馬」もあった(※画像)。

 「白馬」は、特に神聖な馬とされ「神馬」として扱われることもあり、ことのほか縁起が良い。
 この絵馬に描かれている白馬は、右前足を高く掲げて今まさに飛び跳ねようとするような躍動感がある。

 また、その後方に描かれている図は、着色は褪せてしまっているが「」のようにも思え、さらに縁起の良さを引き立たせている。全体的に、絵馬全体に色褪せ感はあるが、それでも十分に満足できるものだった。

 そして、部木八幡宮は、馬や松と縁のある神社なので、この「白馬の絵馬」も、この神社にとっては相応しい存在のように思えた。

 つまり、「」については、部木八幡宮の前面の横に伸びる参道(一の鳥居~末社曽我神社前)を「馬場」と呼び、秋の大祭では、弓矢をつがえた神官が馬に乗って、この馬場を疾走する「流鏑馬」の神事が行われているからだ。

 部木八幡宮は、神功皇后「別火の里」の由緒(※追加別記予定)が残る神社だが、同じく神功皇后と関わりのある「志賀島神社」(福岡市東区志賀島)の参道でも有名な「流鏑馬」神事があっていることを思い出した。

 また、「」については、今はないが、部木八幡宮神殿に向かって右横に「縁松之碑」が残っているので、かつて、ここに御神木の「松の古木(老松)」が生えていたことが分かる(※別記予定) 。

 「松」といえば、部木八幡宮と同様に神功皇后、応神天皇を祀る「筥崎宮」(福岡市東区箱崎)においても、松の木のある「筥松」の地を神聖化している。

 なお、部木八幡宮境内には、「縁松」のほかにも末社「曽我神社」に、かつて「曽我の松」と称された御神木の老松二株があったが、今はない。

※つづく→「部木八幡宮の「縁松」と「梛の木」(福岡市東区)」。

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2014年04月12日

部木八幡宮の「黒田二十四騎図」絵馬(福岡市)

72黒田二十四騎 前回「曽我神社の神紋(部木八幡宮境内社)」からつづく。

 「部木八幡宮」(福岡市東区蒲田3-18-8)の拝殿に、黒田官兵衛(如水)と「黒田二十四騎図」の絵馬がある(※画像)。

 この絵馬の額縁には「願成就 慶應二年江辻邑迎 寅六月中旬」の文字が記されている。


 慶應二年(1866)といえば、 福岡藩も幕末動乱の渦に巻き込まれている頃であり、部木八幡宮の産子(氏子)の一、江辻村(糟屋郡粕屋町江辻)の村民が産土神に何を祈願して「黒田二十四騎図」を描き奉納したものかは分からない。

 だが、この絵馬を観ていると、ひょっとしたら、混迷の時期だったから、民のために黒田藩が混迷の時代を強く乗り越えることを願って敢えて同絵馬を奉納したとは考えられないかと思った。
 つまり、福岡藩が幕末の方向を見誤らず強く進むことを願い、藩祖黒田如水とともに戦国の乱世を駆け抜け福岡藩の礎を作った黒田二十四騎(黒田武士の先祖)の強さにあやかった絵馬を描き、産土神(武神八幡大神)に奉納したと考えてみたこと。

 因みに、部木八幡宮の祭神は、主神応神天皇(八幡大神・誉田別命)、神功皇后、伊弉諾尊(若杉太祖権現)、玉依姫命(宝満山竈門神)としているが、主神は、由緒的には女武将の神功皇后としたの方が相応しいか。

 また、部木八幡宮の産子(氏子)は、旧江辻村を含め戸原村(粕屋町)、蒲田村(福岡市東区)、名子村(同)の四か村と広い。
 そして、この絵馬を奉納した江辻村は、「慶長の末、(黒田)長政の家臣母里淨甫、…うつせり。戸原も江辻と同村也しを、此時より分てり。」(筑前國續風土記)といい、黒田二十四騎の一母里太兵衛につながる一統が統治したのであれば、二十四騎絵馬奉納の意味も何となくうなづけそうだ。

 ところで、この「絵馬」は、彩色がかなりの部分で剥げ落ちて白くなっているが、それでも一部残っている個所の色合いを観ていると、作成当時の美しさを伺える。このまま放置していると、やがてすべての絵が消えてしまうことになるだろう。

73黒田二十四騎部分 この「黒田二十四騎図」は、一般的な縦長図なので、或は武将配列順が決まっているのかもしれないが、(私は)その詳細を知らない。

 この絵馬には、二十四騎の武将像の横に、その武将のネームが記されているが、このネームも、文字が消え白くなってしまっているものが多かった。

74黒田二十四騎部分2 それでも熟視し続けていると、何とか左列上部にいる六騎のネームの一部を読むことができたので、参考までに下記に記しておく(一部推定)。
 ・黒田養心(←黒田修理亮利則のこと)、黒田?(←黒田兵庫助利高か)、毛利但馬(?)、小河?(小河伝右衛門信章のこと)、桐山丹波守(桐山孫兵衛信行のこと)、益田?(益田与助正親のこと)。

 因みに「黒田二十四騎」の全ネームは、次のとおり。(※「播磨の黒田武士顕彰会」による)。

 「(1)黒田兵庫助利高、(2)黒田修理亮利則、(3)黒田図書助直之、(4)栗山四郎右衛門利安、(5)久野四兵衛重勝、(6)井上九郎右衛門之房、(7)母里太兵衛友信、(8)後藤又兵衛基次、(9)黒田三左衛門一成、(10)野村太郎兵衛佑勝、(11)吉田六郎太夫長利、(12)桐山孫兵衛信行、(13)小河伝右衛門信章、(14)菅六之助正利、(15)三宅山太夫家義、(16)野口左助一成、(17)益田与助正親、(18)竹森新右衛門次貞、(19)林太郎右衛門直利、(20)原弥左衛門種良、(21)堀平右衛門定則、(22)衣笠久右衛門景延、(23)毛屋主水武久、(24)井口兵助吉次。

 今回は、本年(平成26年)NHK大河ドラマで「軍師官兵衛」が放送されていることもあり、部木八幡宮拝殿の「(黒田官兵衛と)黒田二十四騎図」絵馬を紹介した。

 ※参照:なお、「黒田二十四騎図」絵馬については、別記「黒田二十四騎図絵馬を見て(筑前町松峡八幡宮)」を掲載している。

※つづく→「部木八幡宮の「白馬の絵馬」(福岡市)」。

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2014年04月11日

曽我神社の神紋(部木八幡宮境内社)

 前回「ういろう・曽我物・曽我兄弟富士の夜襲(仇討ち)」からつづく。
98曽我神社神紋 「部木八幡宮」(福岡市東区蒲田3-18-8)を訪れ、境内社「曽我神社」を参拝したとき、その拝殿の壁に「曽我兄弟と虎御前墓(五輪塔)」(神奈川県箱根町芦之湯にあり)の写真が掲示してあることを記していた。

 その後、体調不良で本ブログ掲載を一時中止していたが、たまたま2/26放送のTV「にっぽん!いい旅 箱根湯本〜芦ノ湖!駅伝コース湯巡り歩き旅」に映っていた「曽我兄弟と虎御前墓(五輪塔)」を観て、「雪中の石造五輪塔(伝曽我兄弟墓/箱根町)をTV鑑賞」を記した。
 続いて「ういろう・曽我物・曽我兄弟富士の夜襲(仇討ち)」を記したが、またも中断していた。

 今回、部木八幡宮境内社「曽我神社の神紋」について記し、続いて次回、部木八幡宮境内で、まだ述べていないことを記しておこうと思う。

 本来、桓武平氏千葉氏流の曽我氏の家紋は、「雲に三つ巴」というが、境内社「曽我神社」の賽銭箱には、それとは違う「庵に木瓜」の家紋 (神紋)が描かれている (※画像)。

 「庵に木瓜」の家紋は、藤原南家為憲流「工藤氏」が使ったもので、「富士の夜襲」で「曽我兄弟」(曽我十郎祐成 曽我五朗時宗=時致)に討たれた「工藤祐経」が使った家紋であるが、伊豆に居した「工藤氏」は、伊東河津、鮫島、狩野などとも名乗り、同じ「庵に木瓜」の家紋を使ったという。

 つまり、先に「曽我神社:河津氏が曽我兄弟祭祀(部木八幡宮境内)」で、「工藤祐経に殺された河津三郎祐泰(伊東祐泰)が曽我兄弟の父で、その後、曽我兄弟は、曽我太郎祐信(義父)の元で元服し曽我姓を名乗った(曽我物語)」と記したが、この「河津(伊東)氏」は、本来は「工藤氏」で、工藤祐経とは同族だった。
 故に、曽我兄弟は、幼い時から見慣れた「庵に木瓜」の家紋が染められた幕がある場所を工藤祐経の寝所と特定できたのだろう。

 そして、部木八幡宮境内社「曽我神社」の神紋を、曽我氏の家紋「雲に三つ巴」ではなく、曽我兄弟の旧姓「河津(伊東・工藤)」氏の家紋「庵に木瓜」としたのは、永仁元年(1293)3月にこの神社を創建したのが、「庵に木瓜」の家紋を持つ伊豆国の武士「河津右衛門尉祐重」の嫡子「河津次郎筑後守貞重」であったという由緒によるのかもしれない。

 (付記) 曽我神社拝殿再建奉賛者56人+1法人(奉賛額279万円)、施工衒匆建設代表取締役片岡辰志、灯篭建立・鳥居補修マルナカ石材蠡緝充萃役中村節子、玉垣修復・参道工事左官田辺義正、平成17年11月曽我神社拝殿改築委員会。

※つづく→「部木八幡宮の黒田二十四騎図絵馬(福岡市)」。

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