2014年05月

2014年05月31日

白内障手術後半月

 5月中旬、眼科医院で白内障による両眼水晶体嚢摘出・眼内レンズ挿入手術を行い、退院後、半月過ぎ、視力も落ち着いてきたように思えたので久しぶりにPCを開いてみた。
 そして、無理のない範囲で本ブログも再開したいと思う。

keitokuchin at 18:45|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2014年05月07日

浪寄神社へ(宗像市名残)

46浪寄神社下方 前掲「名残伊豆丸遺跡(古墳)」(名残公民館前)から伊豆丸集落の外れまで、なだらかな上り道を約5分ウォーグすると丘陵上に鎮座する「浪寄神社」に着く。
 (宗像市名残数根ヶ浦267に鎮座)。

 実は「浪寄神社」より先の林道沿いに農家があるので、「伊豆丸集落の外れ」という表現は正確ではないのかもしれない。
 また、「伊豆丸集落」と書いたが、集落入口に建つ「名残公民館」以外の家屋は、すべて坂道左側の南東から北西に伸びる低丘陵の縁に沿って建っている。
 道の右側の谷あいには、名残川が流れ、農地が広がり、観葉植物を栽培するビニールハウス(※画像1)もある。

12浪寄神社本殿 「浪寄神社」は「波寄神社」とも書くが、「名残伊豆丸遺跡(古墳)」が浪寄神社から続く上記低丘陵の再下方(北西突端近く)にあり、この下方で東方に湾曲した名残川は、徳重、赤間付近で釣川と合流する。

 この地形を観ていて、前掲「浪寄神社の八重桜愛で(宗像市名残)」に、この名残川流域の低地は、かつて「釣川の入江」で、その入江の浪(波)の穂がこの辺りまで打ち寄せていたので、「浪寄」(波寄)と称したのだろうか、と想像を記していた。

 そんなとき、ふと古代筑紫の「穂波屯倉」(飯塚市)が思い浮かび、「浪(波)」には、海や川の波のほかにも、「稲穂の波」もあったと思った。

 では、この「浪寄神社(波寄神社)の由来」は、と思い直し調べてみたら、次のようであった。
「社説に曰く、人皇八十三代、土御門天皇御宇、建仁二年干戌三月宗像大宮司三十六代氏國、此地に少彦名大神を勧請ありし由見ゆ、大神は神代の時波の穂に寄来ませし神故波寄神社と称ふと云ふ」(福岡懸神社誌)。

 当地の地形というよりは、宗像大宮氏國が勧請した「祭神少彦名大神」の由緒故のことだったのか。

 それにしても、「八所宮」(宗像市吉留)を産神とする山間のこの地に、なぜ出雲系「海の神」を勧請したのかという疑問は消えず、あいかわらず「名残伊豆丸遺跡」付近に船が着く風景を想像していた。

 「浪寄神社の祭神」は、上記少彦名大神と、素戔男命豊受姫命大山住神だが、ここから林道を10分ほど上ると名残「須賀神社」(祭神素戔男命)が鎮座し、さらに林道を抜けて赤木峠から鞍手郡に至ることができるので、名残は、かつての鞍手(弦田)物部氏の影響下にもあったのかもしれない。

 浪寄神社は、旧村社(大正10.10.20神撰御帛料供進指定)で、名残地区全戸を氏子とするが、現在、名残地区には広陵台、自由ヶ丘南等の大型団地があり、どこまでが氏子となるものかは分からない。

 浪寄神社の本殿(※画像2)には、参道口から途中3か所ある踊場を含め89段の石段を上らねばならない。

09浪寄神社 なお、石段の途中にある前掲「八重桜」の樹木の後方に建つ石鳥居(明治11年4月當村中長谷村伊藤氏ら建立)の下に、地面に寝かせたように設置してある横長の石碑(大正8年建立)があるのに気付いた。(※画像3)。

 その碑面には、「日露西比利亜出征紀念奉納 井戸及び家形 明治三十七八年(芳名略) 大正七八年(芳名略)」の文が刻してあった。
13浪寄神社井戸 そして、この後方の斜面にある「井戸」に気付いたが、「家形」については、意味が分からず、社殿のことなのか、それとも石段踊場などにある4対の家形石柱のことなのかなど思ったりしたが結局わからないまま(※画像4)。

 当地から日露戦役( 明治37~38年)、シベリア出兵(大正7年~)に出征され、戦没された人もいたのではと思うが、祖国防衛のために戦った人たちの記念碑で、大事にしたいものだ。

10浪寄神社境内社 境内神社は、「貴船神社」「五穀神社」「多賀神社」と、もう一つの「貴船神社」だといい、本殿の後方にある小社祠1棟、4石祠(計5社)が境内神社だが、どの祠が、どの神社のものかは分からなかった。



>11浪寄神社宝暦 なお、このうち、一つの石祠には「宝暦十二年二月吉日国坂中」の文字が刻してあった。(※画像5・6)。

 参拝後、社殿の右前に付いている急坂を下り、林道を上り上記の名残須賀神社(祇園社)に向かった。

※つづく→「名残の須賀神社へ(宗像市名残)」。

keitokuchin at 03:23|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2014年05月06日

名残伊豆丸遺跡(古墳)など(宗像市名残)

 前掲「浪寄神社の八重桜愛で(宗像市名残)」に「浪寄神社や名残伊豆丸遺跡(古墳)等については、改めて別記する予定」と書いていたことを思い出した。

00名残伊豆丸遺跡 「名残伊豆丸古墳」は、伊豆丸集落入口に建つ「名残公民館」の斜め前(民家の間)にあり、道路脇に「名残伊豆丸遺跡」の表示板が立っている。
 (所在地:宗像市名残127)。

 この名残伊豆丸古墳の横穴式石室前に建つ「お堂」の下に空き地(民有地か)があるが、古墳の前方部を削り取った跡かもしれない。
 もしそうだったら、この古墳は「円墳」と言われているが、「前方後円墳」だった可能性はかないのか。

 特に「名残伊豆丸古墳」は、既に江戸時代に横穴式石室部分が開口していた半壊古墳で、墳形も不明確で、学術的調査もされていないといい、また、この後方(北東方向)丘陵の「名残高田遺跡の広陵台古墳公園内には前方後円墳(1基)があるので、無下に否定することもないと思う。

 「お堂」は、「宗像四国東部霊場 第三十二番 名残観音堂(本尊十一面観世音菩薩)」だが、堂内に十一面観世音菩薩らしき像がなく、堂内にある「明和二年九月再興」 と「昭和62年12月吉日不動様新築」の木札を観たとき、「名残不動堂」の方が相応しいのかとも思った。

  というのは、筑前國續風土記附録の「(名残)村中イズマルといふ處に石窟あり。明和九年村中の牛馬多く病めり。陰陽師をして卜せしむるに村中に岩穴あり。久しく土中に埋れり。故に此殃(わざわい)ありといふ。よりてこの岩窟をさがし得て不動佛を安置せり。其後は殃なかりしとそ。」の記事を読んでいたからだ。

  ここにある「イズマル」(伊豆丸)の「石窟・岩穴・岩窟」が「名残伊豆丸古墳の石室」だとすれば、「明和2年(1765)」と「明和9年(1772)」(=安永元年)の違いはあるが、いずれにしろ明和年中に久しく土中に埋もれていた石室を掘り起し、その後室(玄室)に不動仏(不動明王像)を安置したといことなのだろう。

 昭和62年12月の「不動様新築」が、不動仏再建だったのか、お堂再建だったのかは分からないが、お堂の立地位置(石室入口の前面)及び内部構造(正面の中央部分に外(片)開きのドアあり)を観ると、明らかにこのお堂が玄室内の不動仏(石仏)を拝む「拝殿」であることが分かる。

 つまり、お堂のなかに入ると、正面の中央部分には須弥壇はなく空間となっており、その奥部壁面に外開きのドアがあり、このドアの後ろに不動仏に至る古墳の石室入口(羨道)があるという特別な立地・内部構造となっている。

 なお、お堂内で仏像を安置する須弥壇(棚)は、その両脇にあり、各段の上下に、大小の仏像(一木立像=?、不完全な寄木座像=大日か、左肩側に傾いた一木座像=?、一木座像=地蔵か、石仏=聖観音ほかの小仏4体など)が雑然と置いてあるが、十一面観世音菩薩像らしきものはない。

02名残伊豆丸遺跡羨道外 南西方向に開口した「名残伊豆丸古墳」の石室入口には、鉄格子などの閉鎖設備はされておらず、石室内部には、宗像市などの許可なく自由に出入りできる。

 ただし、昼間でも屋根蓋のない羨道(約2m×幅1m)より先の石室内は、中に入るのに足がすくむほど真っ暗なので、見学するときは懐中電灯や携帯電話などの明かりが絶対に必要である。

 開口部は狭いが、内部に入ると天井の高い前室と後室からなる複合石室となっており、後室入口は、両側の玄門石が巨岩のため通路のような形になっている。

 石室の全長は8m位はありそうで、後室の一枚岩の奥壁の下に小さな石仏が置いてあり、そのまえには花立て、灯明立などもあり、現在も信仰対象対となっていることが分かる。
 長居できずに、よく確かめなかったが、この石仏が「不動仏」なのだろう。
(※古墳内部での撮影は失礼したが、「古墳のお部屋ブログ館」に画像が載っていた)。

04名残伊豆丸遺跡お堂前の岩 なお、「名残伊豆丸古墳」築造は、6世紀末〜7世紀初頭という説があるらしいが、もとより古墳築造期の断定は難しく、周辺を含めた発掘調査がはされていないのであれば、なおさら何を根拠にしての推定なのかは分からない。

 お堂の斜め前に、1個の岩が置いてあるが、羨道の屋根蓋、或は石室(前室)の入口を塞いでいた岩だったのだろうか。

01名残伊豆丸遺跡 お堂の横には、石灯篭2基(天明元年=1781-六月二十八日建立)、風化石仏2体(うち一体は明治十六年1883-建立)、庚申尊天石碑4本、大小の手水鉢石2個(うち大は嘉永五年=1852-八月吉日若者中建立)などがある。

 これらの信仰対象物も含めて、当地を、当地の地名を入れて「名残伊豆丸遺跡」と称しているのかもしれないと思った。

 ところで、当地に行くには、西鉄バス停葉山二丁目(赤間南口~天神間)から農道を歩くことになるが、車のときは、名残伊豆丸遺跡(古墳)のお堂前の広場、又は名残公民館前に(特に行事があってないときは)駐車できる。

42名残公民館 なお、「名残公民館」の庭(サツキほか植樹あり)には、(名残)「林道開設耕地改良記念碑」(昭和24年12月建立)と、立石良雄氏を顕彰する記述のある「立石良雄氏追慕頌徳碑」(昭和2年9月2日建立)が建っている。

 立石良雄氏は、明治~戦前期に活躍した赤間(宗像市)が生んだ著名人(松尾商店釜山支店創業・株式会社立石商店設立)だが、この「立石良雄氏追慕頌徳碑」が、どうして名残にあるのかと思ったが、後で名残に「立石姓」の人たちがいたと聞き、何とはなしにうなずいた。

 付記:名残公民館を基点として、浪寄神社、名残須賀神社、名残高田遺跡(広陵台古墳公園)、名残春観音霊場、名残立山天満宮などに(途中、ほとんど車に出合うこともなく)ウォーキングできる。

※つづく→「浪寄神社へ(宗像市名残)」。

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