2014年06月

2014年06月29日

藤原山浄蓮寺へ(2) 親鸞聖人御像を観て(宗像市)

2304-1浄蓮寺境内 「藤原山浄蓮寺へ(1)門柱の御文(宗像市冨士原)」からつづく。

 藤原山浄蓮寺(宗像市冨士原1512)の境内は、よく整備された庭木の緑が美しい。(※画像)。

 本堂前庭の中央に、大きな岩を台座として、網代笠を被り、金剛杖と念珠を手にして行脚中のお姿を模した、重厚な趣のある立派な「親鸞聖人御像」(石像)が参拝者を見下ろすように立っている。

 藤原山浄蓮寺は、浄土真宗本願寺派だが、同宗に限らず親鸞聖人を開祖とする浄土教系宗派寺院の境内で「親鸞聖人御像」(立像/石像が多)をみることがある。

 親鸞聖人御像には、行脚中ではないものもあるが、その御像を見るたびに、親鸞聖人が、「念仏を唱える参拝者(人々)が、等しく弥陀の浄土に往生できるように導いてあげよう」と言われているように思う。
 私は、門徒ではないが、阿弥陀信仰があり、仏事において念仏を欠かすことはなく、また、係わった人たちに念仏合掌(他力本願)を勧めることもある。

 ただ、いつも行脚中の親鸞聖人御像を観ていて「」を背負った御像はないのだろうかと思うことがある。
 この思いは、多分、かつて箱根山(神奈川県箱根町)の山荘に居た頃、「笈平」の地名の由来ともなった笈平にハイキングして、甘酒茶屋の近くで「笈平 親鸞聖人御舊蹟 性信御房訣別之處」石碑(大正10年建立)を目にしたときの感動が今に残っているからかもしれない。

 箱根山の「笈平」は、親鸞聖人(60歳のとき)が20年間の関東布教を終え、京都に戻る( 文暦元年(1234)8月)途次、連れ添ってきた弟子の性信坊(しょうしんぼう)と蓮位坊に関東における門徒衆の教化と布教活動の継続を託して惜別したところで、このとき背負っていた笈を平地に下ろした故事により「笈平」の地名が生まれたという。

 つまり、旅をする僧や優婆塞らが修行行脚をするとき、守護仏や経典、仏具、衣類等を入れた「笈」を背負っていた。 
 この故事にもあるように親鸞聖人も「笈」を背負っていたので、「笈」を背負った御像があれば、より実感が出る、などと、もっともこれは私の勝手な思いではあるが。
 なお、このとき親鸞聖人が詠んだ歌、「病む子をばあずけて帰る旅の空心はここに残りこそすれ」の歌碑も笈平に残っている。

(※付記) 親鸞聖人と箱根山は、このほかにも、浄土真宗の報恩講で語られる親鸞聖人「箱根霊夢」(善信聖人親鸞伝絵[御伝鈔・御絵伝]下巻第四段)の聖地で、明治維新の神仏分離までは、箱根権現(旧箱根山金剛王院東福寺、現箱根神社)との係わりが深かったところでもある。
 そして、今も箱根山萬福寺(真宗大谷派)に、かつて箱根権現奥の院御本地仏だった箱根権現の夢告伝承を伝える「阿弥陀如来像」や、今はない箱根権現親鸞堂にかつて安置されていたという箱根権現の夢告を受けた巫女による饗応の席で親鸞聖人が残された自刻の「御真影」の写真…(自刻像の現物は、浅草本願寺=浄土真宗東本願寺派東京本願寺にある)と、その等身大の複製像(平成17年4月彫像)がある。
 また、箱根神社裏手には、「鏡の御影」(法衣姿)を模像した「親鸞聖人銅像」=殉国学徒慰霊(親鸞聖人慈悲)の像(昭和39 年8 月建立)がある。

※つづく→「藤原山浄蓮寺へ(3)山号と縁起 (宗像市冨士原)」。 

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2014年06月27日

藤原山浄蓮寺へ(1)門柱の御文 (宗像市冨士原)

 
2301浄蓮寺参道口2 前回、「宗像四国東部霊場番外奥の院 冨士原小松観音堂へ(宗像市)」からつづく。
 今回は、前回の「名残遺跡探訪シリーズのなかで若干触れた藤原山浄蓮寺 、第二十七番札所冨士原観音堂愛宕神社(旧太郎坊社)」を巡る。

 前回の冨士原小松観音堂から「リサーチパーク入口信号機」(交差点)に出て、県道463号(芹田石丸線)を赤間方面に300mほど進むと、右側に「冨士原公民館」があり、その横に「浄蓮寺入口」の立て看板がある。

 ここから冨士原本村集落内道路を100mほど下ると集落を抜けるが、その前面一帯には田園地帯が広がっている。
 この左側に藤原山浄蓮寺(とうげんざんじょうれんじ)の参拝者用駐車場がある。(所在地:宗像市冨地原1512)。

 なお、上記各所をウォーキングするときは、愛宕神社周辺に駐車場がないので、冨士原公民館又は浄蓮寺の駐車場を借りて(特に行事があっていないときに限るが)、出発点にして歩く方がよいと思う。

 浄蓮寺駐車場に沿って石垣・瓦屋根白壁塀があり、その中央部分に正面参道入口がある(※画像)。
 「みんなでつくろう安心の街」と染めた幟旗がはためいていたが、その後ろに9段の石段(中央に手すりあり)、その上に門柱(山門)一対が立っている。 

 門柱の金箔刻字の読み方は、「藤原山浄蓮寺HP」に、「仏説無量寿経」のなかにある御文で、(右)「天下和順」、(左)「日月清明」と読むと記してある。

 因みに、「天下和順 日月清明」の御文は、「風雨以時 災夘垉(さいれいふき) 国豊民安(こくぶみんなん) 兵戈無用(ひょうがむゆう) 崇徳興仁(しゅとっこうにん) 務修礼譲(むしゅらいじょう)」と続く。
 小生は、この御文を読むとき、なぜかすぐに孔子が思い浮かび、また震災などの天災、世の乱れを憂うことがある。
 ところで昨日、石原慎太郎氏らの新党名が「次世代の党」に決まったらしいが、それはともかく、同上御文を読んでいて、時としてなぜか都知事時代の石原慎太郎氏の暴言に共感したことがあったことを思い出した(詳細略)。

 「仏説無量寿経」は、法蔵比丘(法蔵菩薩)が無量寿仏(阿弥陀如来仏)になるための48誓願を説き、浄土宗や浄土真宗系の寺院が根本経典となっている「浄土三部経」の一だが、因みに、「藤原山浄蓮寺」は「浄土真宗本願寺派」(本尊阿弥陀如来立像)である。

 なお、小生は浄土宗や浄土真宗系の門徒ではないが、法要等では必ず浄土三部経の一「仏説阿弥陀経」をあげる。
 (※参照→「鐘崎泉福寺の浄土三部塔」)。

※つづく→「藤原山浄蓮寺へ(2) 親鸞聖人御像を観て(宗像市)」。

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2014年06月25日

紅あきら公演観劇(玄海ロイヤルホテル)

2014-06-24紅劇団 玄海ロイヤルホテルに一泊、今回は、同ホテル・ロイヤル劇場であっていた紅劇団(座長紅あきら、若座長紅秀吉、特別出演三河屋諒さんら)の水無月公演観劇が目的だった。

 演目は「糸瓜(へちま)の花」、糸瓜の花って美しくないのかな。ぶすな機織り娘が庄屋の息子に嫁ぐ前の珍騒動を扱った悲喜劇だったが、実に元気な娘で、充分に美しかった。やはり糸瓜の花って美しいよね。

 二部は、恒例の歌謡ショーだが、座長、若座長以下、劇団のみなさんの洗練された踊りに酔わされ、観劇後、ゆっくりさつき温泉に浸かり、サザエや和食のコース料理等を楽しんだ。
 


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2014年06月22日

ひまわりの種を植えた

ひまわり種袋 あるテレビCMの背景に映っていた「ひまわり」の花を観ていて、急に思い立って「ひまわりの種」を買いに行き、すぐに花壇に植えた。
 過去数度植えたことがあったが、そのつと゜なぜか失敗していた。

 子供の頃は、「ひまわり」の花を観ると、広島で真夏の太陽に向かって咲いている大輪の「ひまわり」の花が原爆投下と同時に一瞬のうちに溶け落ちる、それに続く地獄のさま、映画「原爆の子」で観た強烈なシーンを思い出して、すごく怖かった。
 その思いが和いだのは、映画「ひまわり」で、一面に咲き誇る美しいひまわりの花々を観て観劇したときからだったかな。

 それはともかく、梅雨の間の雨上がり、土が湿気ているときが植えどきだと思い、肥料を撒いてから植え込んだが、これから1か月余り、ハムたろうに食べられないようによく水やりをして、今年こそは世界平和を祈念して原爆慰霊の日までに咲いてほしいと願いながら…。合掌。

※参照→「ミューズの晩餐お別れは、♪ひまわり だった」。
※参照→「世界ふしぎ発見!ウクライナ〜映画ひまわりを思い出す」。

(追記)6/26、NHK総合「55歳からのハローライフ」第3話「熟年離婚からの再出発」を観ていたら、志津子(原田美枝子)と早坂(池内博之)が一夜の恋に落ちたちとき、ともに映画「ひまわり」のDVDを観る場面があった。覆水盆にかえらずで…現代にも通じる名作だと思う。太陽に向かって力強く頭をもたげて咲くひまわりの花のように、迷いのない強い心を持ちたいものだ。
(追記2)6/26庭で、ひまわりの新芽が一斉に出たが、6/28その二枚葉がすべて害虫に食われていた。さて、今年も育つものやら一喜一憂。

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2014年06月20日

宗像四国東部霊場番外奥の院「冨士原小松観音堂」へ(宗像市)

 前回「冨土原小倉畑春日神社へ(宗像市)」からつづく。

30二十七番外 今回の行脚で、予定外のことだったが、成り行きで、冨土原小倉畑まで来たので、冨土原森にある「宗像四国東部霊場第二十七番番外札所 冨士原小松観音堂(奥の院本尊観世音菩薩)」を参拝して帰ろうということになった。

 疲れが出ている頃だし、小倉畑春日神社から徒歩で30分(片道)はかかると思ったので、少し躊躇したが、何となく成り行きで行くことにした。

 「第二十七番番外…奥の院」といのは、神屋の愛宕神社の右手丘陵にある「第二十七番札所冨士原観音堂(本尊十一面観世音菩薩)」の「番外、奥の院」ということなのだろう。
 ただ、この番外地は、下記のように見晴らしの良いところで、「奥の院」という響きだけで判断すると、むしろ「第二十七番札所」の方が相応しいようにも思える。

 要は、八十八か所を超えるお堂の一部を番外奥の院としたのかもしれない。そういえば、陵厳寺の番外札所「松崎観音堂」の本尊も十一面観世音菩薩だった。

 また「冨土原森にある」と書いたが、「冨士原小松観音堂」となっているので、同所在地の字は「」ではなく「小松」なのだろうか。

 ともかく、前回記した県道463号(芹田石丸)線の広陵台児童公園口まで戻り、同県道を赤間方向に上り、右前方に位置する「森」の集落を目指した。
 ウォーキングするとき、県道463号に戻る手前から田のなかを直接「森」の集落に向かう狭い里道を歩く方が、車に出合う確率も少なくベストだと思うが、今回は先を急いだ。

 「リサーチパーク入口」信号機が見えだした辺りの右側にある里道をやや斜め前方に右折する。
 里道の左側は一面田畑で、右側に集落の家屋が点在している。
31二十七番外 「冨士原小松観音堂」は、その右側の、里道に面して若干赤土を盛ったような小高い小広場の上に建っている。

 観音堂正面の数段の石段の横には手すりも付いており、参拝者の便をはかっている。

 観音堂は、木造瓦葺のしっかりした小さなお堂だが、扉はなく、出入り自由。
 本尊は単に、観世音菩薩となっているが、須弥壇上の木仏は全身虫食いで損傷が激しく、観世菩薩とは判別できない。
 その横に石仏が一体あるが、尊名が思い浮かばず記載できない。

 お堂の前方、樟の下の石積みの上に一体の「修行大師立像」(石造)が立っている。
 台座に「大正六年巡拝六年 昭和八年九月建立」の刻字が見えるので、或は、当時「宗像四国東部霊場八十八か所」の巡拝修行を六年間続けた修行者が、その記念にと建立し奉納したものかもしれない。「南無大師遍照金剛!!」。

 という小生も数年に亘り、同東部霊場及び西部霊場の巡拝を続け、その一部を本ブログに記載してきたが、同霊場だけに絞っての系統立てた巡拝などはしておらず、いわば思いつくままに行き当たりばったりである。
 最近、「同霊場の巡拝をしたい」と言う奇特な人から、「その全所在地を地図に落としてほしい」と言われ検討しているが、脳裏にある所在地のすべてを正確に地図上に落とすのが至難。
 この後、今回の出発点・名残公民館前への道のりを駆け足で戻り、へとへとになって今回の行脚を修了。

※つづく→「藤原山浄蓮寺へ(1)門柱の御文 (宗像市冨士原)」。

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2014年06月19日

冨土原小倉畑「春日神社」へ(宗像市)

 前回「宗像四国東部霊場「冨士原原口阿弥陀堂」へ(宗像市)」からつづく。

 原口阿弥陀堂で境内にあった小石仏群の造立世話人や修行大師の建立寄付者名を見て、「冨士原の森田、野口姓は、天長9年(832)3月宗像に下向した藤原千歳麿の後裔という神屋主馬允繁貞の子孫という説があり、近く(宗像市冨士原畑)に藤原千歳麿が勧請した小倉畑(おおくらのはた)春日神社が残っている」と話したら、急遽同社に行こうということになった。

 広陵台3丁目児童公園前に戻りメイン道路を右折(児童公園前バス停あり)、県道463号(芹田石丸)線を横切り、右斜めに直進して下り田のなかを通り抜け、丘陵に突き当たるとT字路を右に進む。
 右に田を見ながら、左側の丘陵の縁に沿った狭い里道(古道)を10数分緩やかに上り続けると、道が途絶えたところ(左)に民家があり、さらに、その先の叢のなかに「石鳥居」と休憩所らしき建物が見える。
冨士原春日宮 手持ち地図(昭文社)には、なぜか「天満社」と記載してあるが、「春日社」の誤記だろう。
 当地は冨士原字畑で、鳥居の額束(※画像)は半壊しているものの「春日宮」と読める。

 だから、ここが旧藤原村小倉畑「春日神社」(春日社)に間違いはない。
 因みに筑前國續風土記拾遺には、「春日社 (小倉畑今氏神社ともいふ)。宗像末社記に藤宮大明神又春日社有。是なるべし。」とあり、かつて宗像七十五社の一に数えられていたことが分かる。

 だが、このとき同行した誰もが、唖然とした表情を浮かべながら鳥居付近で合掌していたが、多分、誰もが山奥の荒れた感じのする境内を見て、当初イメージしていたことと違いすぎていたからだろう。
 つまり、小倉畑「春日神社」は、もとは摂関家藤原冬嗣の四男ともいう藤原千歳麿(千代丸)が建立し始祖天児屋根命を祀った神社だから、今も現冨士原(旧藤原村)の藤原氏子孫一族がこぞって祭祀する神社として、さぞ立派な社殿を有しているのだろう、とイメージしていたからだ。

 因みに、藤原氏子孫一族とは、そんな一族が現実にあるのかどうかは知らないが、戦国期宗像家臣で、藤原村神屋に屋敷を構えていた神屋主馬允繁貞が藤原千歳麿の後裔だとされ、その子孫とされている神屋、神谷、神山、森田、野口氏などを指すようだ。

 ところで、現在の小倉畑「春日神社」を見ていると、なんでこんな山奥の淋しいところに、と思うが、昔は、ここは鞍手と宗像を赤木峠で結ぶ古道沿いで往来も多く、鞍手の物部氏に対抗できる位置でもあった。
 つまり、ここまで上ってきた上記里道は、春日神社から「藤原山」の裾(谷あい)を通り赤木峠に抜ける古道跡で、前回記した原口阿弥陀堂下から児童公園横を突っ切って行く道もまた、赤木峠の手前で分岐した古道跡だと思う。
 今もこの「春日神社」から先の藤原山裾(谷あい)古道跡(赤木峠下で県道に出る)を通れるものかどうかは分からないが、以前、歩けた記憶がある(昭和50年代頃だったか)。

 ところで、「藤原山」とは、権現山(新立山)の南西、鞍手郡(宮若市)との境界線上にある海抜約300mの山で、藤原千歳麿が春日社をその山麓に勧請したときに、自らの姓をとつて命名した山名だという。
 
 そして、前回若干触れた冨士原本村の浄蓮寺(真宗西本願寺門徒)の山号「藤原山」は、この山のことなので、かつては春日社と関わっていたのかもしれない。

 また、筑前國續風土記に「阿彌陀堂(ヲヲクラノハタ)」(※小倉畑)の記載があり、もしこの「阿彌陀堂」が、前回記した原口「阿弥陀堂」であったら、明治期の神仏分離で当地から原口に移されたことになる。

 因みに、明治2年、由緒ある「藤原村」の村名を捨て「冨士原村」に変えたのは、「藤」の字に「冨地」をあてることで、「冨める地」に変わることを願うほど村の財政が破たんしていたらしい。もはや名門藤原氏の由緒を誇る時代ではなかったのかもしれない。
 皮肉なことに、現在、冨地の原の一部は大型住宅団地の台地に変わり、やがてすべてが冨地の台地となってしまわぬように願いたいもの。

※つづく→「宗像四国東部霊場番外奥の院冨士原小松観音堂」へ(宗像市)」。

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2014年06月18日

梅雨に早くも赤とんぼ

99赤とんぼ縦 まだ梅雨のさなかなのに、早々と「赤とんぼ」を観た。

 雨上がりの、まだ雨水に濡れた薔薇の、茎に止まっていた。

 カメラを近づけても、じっとしていて、飛び立たなかった。

 今年の梅雨明けは早いのかなあ。


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雨のなか、龍の髭にシャボン玉

 梅雨空の雨のなかを、シャボン玉が飛び散っていた。
 見上げると2階ベランダから、雨でも、シャボン玉は飛ぶのだな。ふと、足元を見ると、何かが青く光っていた。
 足を止め、しゃがんで観たら、雨とともに降ってきたシャボン玉だった。なかでも、雨に濡れた「龍の髭」の葉の上に乗っているものが、美しかった(※画像)。
 シャボン玉は、すぐには消えず、こんな風景を観たことがなかったせいもあってか、少し癒された。 
90龍の髭

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2014年06月16日

宗像四国東部霊場「冨士原原口阿弥陀堂」へ(宗像市)

 前回「太郎坊神社跡から冨士原原口阿弥陀堂へ(宗像市)」からつづく。
28阿弥陀堂 杉や檜や竹林のなかの山道(坂)を登り、峰の頂付近に至ったとき、突然、正面の山影から射し込んできだ陽光が目のなかに飛び込んできた。
 木洩れ日というには余りにも激しい陽射で、完全に目くらましを食らった感じだ。

 真っ暗で周囲の景色が見えなくなり、林の中でしばらく立ち止まっていたら、ぼんやりと前方に小堂宇が見えてきたけど、不思議な現象、光景を見せてもらっているような思いがした。

 この小堂宇は、ブロック造トタン葺で、そのなかに全身虫食いの「木造阿弥陀如来像」が置いてあった。
 この木仏が「宗像四国東部霊場第二番札所 冨士原原口阿弥陀堂 本尊阿弥陀如来像」だ。
 粗末な阿弥陀堂の小堂宇には扉もなく、山の湿気をそのまま吸い込み、虫に食われて、こんな姿になってしまったのかと思うと気の毒にも思えた。
 その横には弘法大師像(木造)1体が安置してあった。
 また、阿弥陀堂に向かって右の小宇に、地蔵菩薩立像(石仏)、及び地蔵菩薩坐像(石仏)が安置されていた。

 そして、阿弥陀堂の後ろから左側にかけて、低墳丘を思わせる土盛りを囲んで106体の石仏が置かれていた(※画像1)
 これは、昭和9年9月に世話人白木磯吉、森田勝次郎、野口十三郎氏らの呼び掛けで造立されたもののようだ。
 上記地蔵菩薩石仏2体を合わせると108体となり百八煩悩を意識したものかとも思った。「南無大師遍照金剛!!」。

29阿弥陀堂 また、阿弥陀堂の右手前には、「修行大師石像」が大小2体置いてあった。
 また台座から離れて積み石のなかに埋もれるように立っている小・修行大師像(吉安刻)のものと思われる石碑が2基あった(※画像2)。

 「千百年記念修行大師碑」「寄附者碑」で、それによると、「69年3月修行大師像建立」寄付者13人で、森田、赤星、坂口、白木、河東、野口、中村などの姓が刻まれてあった。

 このうちの森田、野口姓の人たちは、天長9年(832)3月宗像に下向した藤原千歳麿の後裔神屋主馬允繁貞の子孫だと聞いたことがある。
 藤原千歳麿は、赤間物部など物部氏の統治地を抑えるために当地に進出し、その姓をとって藤原村(現冨士原地区)と名付けたのだろう。

 赤星については、冨士原本村の「藤原山浄蓮寺」縁起に「永禄3年肥後国士赤星氏小御門弾正の子僧祐尊が神屋主馬の許に寄宿し、元亀元年浄蓮寺開基」との説もあり。肥後赤星氏は、藤原氏流菊池氏の出という。

 
2503白木玄蕃  白木については、宗像家臣白木玄蕃、左近親子が討ち死にした赤木に玄蕃塚がある。
 玄蕃塚(白木玄蕃墓碑)は、冨士原原口阿弥陀堂上り口前の旧道をそのまま進み、県道に出て、県道を数分歩くと右側にある(※画像3)。

 白木は、藤原式家百川流になくはないが、当地の白木氏の出自は新羅で、物部氏系ではないかとも思えるので、そうであれは冨士原の住人の先祖は必ずしも藤原千歳麿後裔神屋氏流一色ではないということになりそう。
※つづく→「冨土原小倉畑「春日神社」へ(宗像市)」。

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2014年06月15日

太郎坊神社跡から冨士原原口阿弥陀堂へ(宗像市)

 前回「広陵台古墳公園(名残高田遺跡)へ(宗像市)」からつづく。
 「広陵台古墳公園」を見学した後、「宗像四国東部霊場冨士原原口阿弥陀堂」(次回記す)まで足を延ばすことにした。

 広陵台古墳公園南西口を出て左へ、広陵台団地内メイン道路を進むと県道463号(芹田石丸線)に出るが、その少し手前の右側に広陵台児童公園(広陵台3丁目)がある。

 以前、ここに鎮座していた小松太郎坊神社」は、広陵台大型団地の開発造成時、幼稚園を作るために撤去されたと聞いた記憶がある。
 そのとき、「太郎坊神社」遷宮先も聞いていたけど覚えておらず、最近、「冨士原小峰聖観音堂」に行ったとき、同所にある石祠の一つがそれだったかと思ったりもしたが不確か。

 筑前國續風土記拾遺の藤原村(冨士原の旧村名)の項に「太郎坊社神屋(こうや)に在り」と載っているが、これは現「愛宕神社」のことなので、ということは上記の小松「太郎坊神社」は、この分霊社であったと考えられ、撤去後、元宮であった愛宕神社に戻し合祀されたのかもしれない。
 因みに「太郎坊」の名は、「山城國愛宕岳栄術太郎坊」勧請によるという。

 大型団地造成ですべての住人が入れ替わるので、造成地内にあった鎮守神その他の信仰対象物も撤去、消滅或は移転されてしまう時代になったのだとは思うが、幸い「冨士原小峰聖観音堂」や「冨士原原口阿弥陀堂」は、広陵台団地造成地の枠外地にて保存された。

 現在、児童公園の広い敷地内には、滑り台などの野外遊具がひっそりと置いてあるが、既にここには幼稚園もなく、児童らの遊ぶ声も聞こえない。

 児童公園に隣接して横切る少し道幅の狭い道は、団地ができる前からあった旧道だと記憶している。
 ここを右折すると、すぐに広陵台3丁目の枠外(冨士原390番台)で、舗装道は、右側に鎖(所有者以外の車両進入禁止用)を張ってある場所(この敷地の奥に農具小屋らしき建物が見える)から左に、鋭角急カーブで下り(乗用車離合不可)県道に出る。

 ここを下らず直進する道は、さらに道幅の狭い小道で、舗装もされておらず、多分、乗用車の進入は無理、すぐ左下を走る県道と並行して、その先で県道と合流するが、昔のの赤木峠越え古道の一部が残ったものか。

 この古道の右側は、杉や竹などが茂る丘陵(峰)で、その途中から丘陵に上る急な坂(山道)があり、この丘陵上に冨士原原口阿弥陀堂がある。
 この丘陵一帯は未開発地で発掘調査は行われていないが、赤木峠からの山越え古道に接した、かつての小松太郎坊神社の奥の院と目してもよい場所で、古墳ほかの遺跡が眠っているかもしれない。

 ※つづく→「宗像四国東部霊場「冨士原原口阿弥陀堂」へ(宗像市)」。

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