2014年09月

2014年09月30日

宗像戦国悲話を伝える「赤児石」(宗像市野坂)

 前回「野坂堂ヶ鼻薬師堂へ(宗像市)」からつづく。

 「野坂堂ヶ鼻薬師堂」(野坂2356)の前(境内)に、「赤児石」といわれる伝説の大石(岩)が一個保存されている。(※画像1・2)。

4赤児石散桜アップ 現在、この横を朝町(県道401号線)と野坂(県道92号線)を結ぶ幅広道路が走っているので車で行けるが駐車場はなく、多分、ここに、伝説の赤児石が置いてあることなど気付かずに、すーっと走り去ってしまう人が多いと思う。

 「赤児石の由来」は、「宗像伝説風土記(上)」(上妻国雄著)に「赤児石 (朝町)」の悲劇(※下記)として載っているので以前から知っていたが、あったのは「朝町の峠」(宗像市)なので、もとから現在地にあったものではない。

 多分、道路改修などで、朝町から運んできて保存したものなのだろうが、この重量のある「赤児石」を、わざわざ野坂まで移動して保存を図った人たちの情熱が伝わってくるようだ。

 「赤児石の由来」…「戦国時代後期宗像大宮司の御家人の婦人が、山田の里を逃れて、ようやく朝町の峠まで落ち延びてきたが、あまり疲労が激しかったので、傍の大石の上に幼児を下ろして、一息ついたのも束の間、後を追って来た屈強の武士の強靭に斃れ、はかない最期をとげた。そのとき大石を鮮血に染めてついた赤児の足型が、長い年月の間にだんだん色はあせたが、なかなか消えないので、里人は赤児石と呼んでいる。天文二十一年(1552)三月二十三日の出来事である。」(宗像伝説風土記)。

 この「赤児石の由来」は、実際に起きた山田事件[宗像家の山田館(山田御殿)で山田局(第76・79代宗像大宮司正氏室/後室ともいう)や菊姫(第78代宗像大宮司氏男の正室)らが、(氏貞の刺客に)暗殺された事件」を背景にしているので、伝説とはいえ、まったく事実ではないとは言い難いようだ。

 文中の「山田の里」とは、この山田事件が起きた山田館(山田御殿)があった山田村(現宗像市山田)のことで、今に菊姫の祟り怨霊談が伝わる増福院・山田地蔵・山田局や菊姫らの墓がある。

 「追って来た屈強の武士」とは、つまり(氏貞の刺客)とは、周防国の陶隆房(晴賢)の命を受け、その姪照葉(宗像正氏第二夫人)の子鍋寿丸(宗像氏貞)を第80代大宮司職擁立を画策し、これに反対した山田局ら一統の抹殺を実行した宗像家家臣・石松又兵衛尚李(石松但馬守尚李)の配下の武士だったのだろう(以下同様)。

 「宗像大宮司の御家人」とは、宗像正氏(第76・79代宗像大宮司)の弟で、山田事件の後、彦山に逃亡し翌年(氏貞の刺客に)討たれた宗像氏続(第77代宗像大宮司)の家臣だったかもしれない。

 「朝町の峠」を越えると鞍手郡山口村(現宮若市山口)に至るが、宗像氏続の孫で次期大宮司の本命と目されていた千代松丸とその母が逃亡し、翌年氏貞の刺客に殺害された山里が山口村(宮若市畑)にある。同地には、後に氏貞が千代松丸ら供養(怨霊鎮魂)のために建立した円通院がある。

3赤児石散桜 実に凄まじい山田事件を背景にした「赤児石」だが、現在「赤児石」は幼児殺害の伝説地を離れ、そのそばにはその供養の八重桜や、つつじサツキなどが植樹され、季節には美しい花が咲き、さらに散花した八重桜の花びらが赤児の足型を埋めて悲劇の殺害伝説を忘れさせているようだ。

(※画像1・2は、散花した八重桜の花びらにちりばめられた赤児石・平成24.4.29に撮影したもの)。

(※参照: 山田事件関連の本ブログ)
炎天下に山田地蔵尊などを参拝
田永宮と石松但馬守尚李碑〇嚇鳥件関連(宗像市陵厳寺)
氏八幡神社の大楠と大藪椿
石松加賀守秀兼と小金原の戦い,いろ姫悲劇(宗像市・宮若市)

※次回→「池田の地名~池・野・原・畑など (宗像市)」。

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2014年09月29日

野坂堂ヶ鼻「薬師堂」へ(宗像市)

 前回「野坂入免の番外釈迦堂跡地へ(宗像市)」からつづく。

 前回「第四十九番番外野坂入免釈迦堂」は、既に旧地にはなく、「野坂堂ヶ鼻薬師堂」(野坂2356)に移転したと書いた。
1野坂薬師 この薬師堂は、現在、「宗像四国東部霊場第八十八番(若しくは七十五番)野坂堂ヶ鼻薬師堂(本尊薬師如来)」といわれているお堂のことだろう。(※画像1・2)。
 だが、薬師堂境内に行っても、野坂入免釈迦堂から運ばれた本尊石仏や弘法大師石像等はどれとの説明がないので具体的には分からない。

 ざっと観察した限りでは、釈迦如来らしき石像は、境内の十三仏堂安置のもの以外には見当たらなかったが、弘法大師石像は、堂内に一体、十三仏堂に一体、堂外に2体(修行大師立像)あった。

 ところで、この「野坂堂ヶ鼻薬師堂」は、野坂地区8個所の宗像四国東部霊場札所を1個所にまとめたものらしいが、野坂入免釈迦堂以外の旧地については、具体的に知らない。

 野坂8霊場(札所番号等)は次のように聞いたが、各所から運ばれてきた石仏がどれかについては、同様にはっきりとは分からない。
  第五番地蔵堂(本尊将軍地蔵菩薩)
  第十六番観音堂(本尊千手観音菩薩)
  第四十三番観音堂(本尊千手観音菩薩)
  第四十三番番外観音堂(本尊十一面観世音菩薩)
  第四十九番番外釈迦堂(本尊釈迦如来)
  第七十五番薬師堂(本尊薬師如来)
  第八十七番観音堂(本尊聖観世音菩薩)
  第八十八番薬師堂(本尊薬師如来)<打ち止め>。

 立派な薬師堂の外鴨居には大きな「野坂薬師堂」の木板が掲げられているが、入口の格子戸(施錠)から堂内を覗き込んだ限りでは、薬師如来像は、中央の壁に掲げてある掛け軸に描かれた絵(印刷か)1枚のみである。
 須弥壇に置いてあるのは、十一面観世音菩薩と弘法大師石像なので、薬師堂というよりは、観音堂かお大師堂と呼んだ方がよいのかもしれない。
 なお、堂内掲示の説明文は読めなかったので、ここには記さない。
 外壁掲示の文は「お賽銭はご遠慮お願いします」で、確かに本堂には賽銭箱がなかった。

2赤児石野坂薬師堂 堂外の「十三仏堂」には、十三仏石仏のほかに、子安観音、毘沙門天ほか4体の石仏及び弘法大師、修行大師の石像が並んでいた。
 その近くの地面に、阿弥陀如来立像ほか石仏2体、修行大師立像、庚申碑3本、五塔碑、寄附碑2本、不明石1体が雑然と置いてあった。

 別に赤児石(※次回)や、忠魂碑(大正8年12月建立、碑文省略)、墓石(昭和13年10月12日)等もあった。

[コース] 前回の「野坂入免釈迦堂」から南東に伸びる野坂里道を行くのが一般的だが、最短は、前回来た農道を少し戻り、野坂川(小川)に架かる小橋を渡り、その左岸に沿った農道を、田園風景を楽しみながら(風景に変化なく疲れるが)野坂公民館前まで延々と遡った後、左折する、約1kmのコース。

 野坂公民館から野坂薬師堂までの距離は70mほどで、同堂は、道路に面してある。この道は、県道401号線(朝町)と県道92号(野坂)を横に結ぶ線で、普段の車の通行量は少ないが、車を利用して行くときは、同堂近くに駐車できる所がないので野坂公民館に停めて歩くこと。

 帰路は、野坂公民館の先から県道92号線に出て右折すると約1km余りで出発点の南郷地区コミュニティセンターに戻る。
 なお、余力があれば、野坂公民館から近い「野坂神社」や「西福寺」を訪れるのもよい。野坂神社は本薬師堂の南方(薬師堂境内入口横の径を歩く)、西福寺(浄土宗)は公民館の南西方向にある(※別記)。
 ※別記→「猫塚伝説の「西福寺」(宗像市野坂)」。
 ※別記→「野坂神社(1)〜鎮座地(宗像市野坂)」。

 ※別記参照→「地蔵峠と山田中畑愛宕地蔵堂(宗像市山田)」。
 ※別記参照→「山田畑大屋敷「延命地蔵堂」へ(宗像市山田)」。
 ※別記参照→「王丸の(旧)「心吉神社」について(宗像市)」。

 ※つづく→「宗像戦国悲話を伝える赤児石(宗像市野坂)」。

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2014年09月28日

野坂入免の番外「釈迦堂跡地」へ(宗像市)

前回「唐津街道原町宿南搆口・原町館原釈迦堂へ(宗像市)」からつづく。

59原町入免番外49跡地 今回は、前回訪れた「第四十九番原町館原釈迦堂」の「番外札所」だった「宗像四国東部霊場第四十九番 番外札所 野坂入免釈迦堂(本尊釈迦如来)」(一般的には入免の「お大師さん」と呼称されていた、原町入免釈迦堂ともいった)の跡地(※画像1) まで足を伸ばした。(宗像市野坂入免2610)。

 現在、同地にはお堂はないので、行く人はいないと思うが、一応、今回歩いたコースを書いておく(下記)。

[コース] 仝仰館原釈迦堂前(お大師様案内板の正面)から旧唐津街道を旧原町宿方向に引き返し(坂路を下り)、大きな三つ角の手前から右斜め前にある民家(原町2037-1)と民家(同2036)の間の小さな路地に入ると民家のすぐ後方の十字路(里道)に出る。
△海寮茲賄槌のなかの農道で、直進して※県道92号線(宗像篠栗線)を横切り、その先に続く里道を直進する(小型車通行可)。
 (注)若しくは、仝仰館原釈迦堂前の坂道をそのまま上り、大きな交差点を左折、県道92号(三つ角)を左折し、上記※を右折してもよい。

1βΔ貿清藩竸綯(貯水池)があり、一帯に田畑(農耕地)が広がっている。
左側の小丘陵は、今回出発点とした「宗像市南郷区コミュニティセンター」の裏側で、その麓の里道沿いにある最初の民家の前の三つ角を右折し農道を直進する。
た縅(野坂川)に架かる小橋を渡り、さらに直進すると、野坂入免(いるめ)集落の手前を通る少し幅広の里道に突き当たる。
ダ橘未量渦(野坂入免2627)の裏側を左折して、幅の狭い細道に入り、少し進むと右側にお堂跡の空き地ある。(車の通行は不可)。
この間、約800m、徒歩20分前後。

 このイ蓮∈限Δ民家の裏手、右側が雑木の繁る低い崖地の間を通るまっすぐに伸びる道幅の狭い道で、陽当たりは悪いが、かつて「お大師さん」信仰が盛んな頃には、その参道として参詣者に利用されていたのだろう。

58原町入免隣 少し歩くと右側の崖が少し後退した空間が開け、三方を雑木や植木に囲まれて建つ小さな「お堂」が見える。
道に面した10段ほどのなだらかな石段を上ると、両側に石の門柱が建っており、「お堂」は、その奥のアジサイなどが植樹された敷地内に建っている。(※画像2)。

 表扉のある仏堂内は、きれいに清掃されて、須弥壇には金塗り塑像ほかの仏体が安置してあるが、ここは、野坂入免釈迦堂(お大師さん)ではない。
 多分、観音堂か地蔵堂ではないかとは思うが、釈迦堂(お大師さん)をこのお堂にまとめることは、何かの事情で、できなかったのだろう。

 「野坂入免釈迦堂(お大師さん)跡地」は、その手前の一面雑草に埋もれた空き地である(※画像1)。目印となる石段が一段だけ残っているが、そこにも雑草が覆いかぶさってきていた。かつての聖地も、こうなっては心悲しい。合掌。

 一時期、地元で朽ちたお堂の再建を検討したこともあったようだが、ここが国有地(大蔵省所管)のためにできなかったという。
 さらに宗像におけるお大師さん巡礼信仰のブームも去り、高齢化等による地元農家の人口減少もあり、「お大師さん」のお世話を続けることが難しくなった。
 この事情は、野坂地区内にあった「お大師さん」(宗像四国東部霊場札所)関連のお堂も同じで、結果、すべて赤児石境内に設けた「野坂堂ヶ鼻薬師堂」(野坂区管理)にまとめられた。

 したがって、現在の「宗像四国東部霊場第四十九番 番外札所 野坂入免釈迦堂(本尊釈迦如来)」の所在地は、「野坂堂ヶ鼻薬師堂内」(宗像市野坂2356)ということになるのだが、同地に行っても野坂入免釈迦堂に安置されていた仏像等の所在云々を確認することはできない。

※つづく→「野坂堂ヶ鼻薬師堂へ(宗像市)」。

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2014年09月27日

唐津街道原町・館原「釈迦堂」(宗像市)

 前回「原神社~原町宿へ(宗像市原町)」からつづく。

 ・原町交差点にかつて旧唐津街道(官道)「原町(はるまち)宿の北の搆口(東構口か)」があったのだと思うが、ここから旧「原町宿」のなだらかな坂を300mほど上ると、右側に、ほぼ直角に曲がる三つ角がある。この右角(右手前の小公園)に「経石」と「幸福稲荷神社祠」がある。
 特に「経石」は、江戸時代に起きた飢饉(西日本一帯を襲った享保17年(1732年)の享保の大飢饉か)で原町宿でも流行った疫病を鎮めるために建てた一字一石供養碑で、地元では「経石さま(お経文原町宿様)」と呼ばれ、毎年8月16日に大念仏祭り(10人ほどの人数で行う大珠玉繰りとお籠り)を行っている。


57原町49 ・ここからさらに300mほど坂路を上ると、右手前の角地(宗像市原町178)に「唐津街道原町宿(南の入口・搆口)」を示すと思われる半割丸太の標識柱が立っている。


 ・この地が原町宿の南の外れで、南搆口(西搆口か)とも通称されているが、実際にそのような構築物があったものかどうかは分からない。

 ・また、その横に「旧井戸」があるが、後からコンクリで形だけの井戸縁を作ったもののようで、実際の井戸(穴)は埋め立てられたものか、何もない。(※画像)。

 ・ここに着いた旅人らは、一息ついて井戸水で喉を潤し、或は宿を出入りするとき、井戸水で手を浄め「お堂」で合掌し身の安全を祈っていたのだろうか。
 ただ、「原町宿」には「茶屋」(旅人の休憩所)があった程度で、正式の旅籠等はなかったようだ。

 ・また、標識柱がある敷地の角に「お大師様」の案内板があり、敷地の後方にお大師様のお堂が建っている。 
 「お大師様の案内板」には、次の説明がされている。
 「幕末のころに72か所の札所が創設されたと伝えられている宗像四国霊場は、明治35年(1902)に鎮国寺を総本山とする形で再編成が行われた。お大師様は、その際、南郷村光岡原町屋形原(やかたばる)札所(宗像四国49札所)として新たに定められた。その後宗像四国霊場は、東部霊場と西部霊場に分割され、お大師様は東部49霊場の札所となった。4月と10月に団体参拝が行われている。(白半纏を着た出団参者写真添付)」。

 ・この「お大師様」と称されている「お堂」が、宗像地方におけるお大師(弘法大師)信仰の一つ「宗像四国東部霊場第四十九番札所 原町館原(やかたばる)釈迦堂(本尊釈迦如来)」である。
 「原町館原釈迦堂」(お大師様のお堂)内の須弥壇には、石仏三体とともに弘法大師像等が安置され、奉納者、原町田中吉次郎、柴田熊蔵、高宮作次郎の名があり、本尊(釈迦如来か)は明治37年2月、真武茂蔵、中村勘三郎奉納。

 ・なお、この「お大師様(大師堂・原町館原釈迦堂)」が建っている場所は、少し小高くなっているが、旧唐津街道一里塚の跡ではないのだろうか。
 ここに「一里塚跡」という説明はどこにもないが、多分、明治維新前は、松か榎が植わっていたこんもりした小塚だったような景色が思い浮かぶ。その後、塚の上部を平らに整地して、お大師様のお堂が建てられ、霊場となったような気がする。

 ・堂外には、「石祠」(明治38年)や「十三仏堂」があり、同堂には十三仏+二体の石仏が並んでいる。
 二体の石仏は地蔵菩薩と大師像か、「大正8年5月満州大連」の文字もあったような気もするが、参拝時にきちんと記録しておらず不明、ご容赦。

 ・この「第四十九番札所原町館原釈迦堂」には「番外釈迦堂」があり、そのお堂は、以前、宗像市野坂入免(いるめ)2624に建っていたが、今はない。この後、同跡地まで足を伸ばしてみることにした(※次回)。
 なお、何かで「野坂入免」を「原町入免」と書いてある文書を見たことがあるが、「入免」は、江戸時代から野坂村の字(集落)だったと思う。江戸時代の原町は、野坂村の属村(一部光岡村)だったことは確かだが、その境界が現在と同じだったかは分からない(調べていない)。

 ・因みに本場「四国八十八か所霊場第49番札所」は、真言宗豊山派「西林山三蔵院浄土寺」で、本尊は釈迦如来(伝行基作)である(松山市鷹子町1198)。

 ※つづく→「野坂入免の番外釈迦堂跡地へ(宗像市)」。

 ※なお、上記の最初の大きな三つ角(経石さま)を右折すると、「(王丸)八幡神社」「妙見神社」「善徳寺(浄土宗)」「(許斐山)六の宮」(六之神社)や「許斐山登山口」「王丸温泉やまつばき」等がある王丸地区に行くことができる。
 ※→「王丸妙見神社(宗像市)」。


 [追記]…令和元年(2019)6.12

  ※[原町館原の釈迦堂が無くなっていた]

IMG_3032原町・館原の釈迦 久しぶりに原町宿跡に行ったら、一里塚跡と思われる小丘の上に建っていた上記「宗像四国東部霊場第四十九番」の「原町館原・釈迦如来堂」の建物が無くなっていたので、びっくりした。


 石段と基壇石は残っていたが、周りの樹木は、幹の途中、又は根元近くで切り払われていた。この日は、そのまま立ち去ったので本件に関する詳細未調。

 ※別記参照→「原町宿のお大師様・釋迦堂は再建されるのか(宗像市)」。

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2014年09月26日

原神社~原町宿へ(宗像市原町)

 ※前回「久戸瀬戸阿弥陀堂へ(宗像市武丸)」からつづく。

 今回の宗像霊場ウォークは、原神社~旧唐津街道原町宿~入免~野坂の一部までの行脚。出発点は、宗像市南郷区コミュニティセンター」(宗像市野坂2119-5/光岡、又は原町バス停から徒歩3~5分)。
48原神社(原町) 「宗像市南郷区コミュニティセンター」を出て、いったん「原町(はるまち)交差点」を右折し、国道3号線と交差する手前の右側の小丘陵上に鎮座する「原神社」(※画像)を参拝してから、引き返す。

 (※原神社については、以前書いた下記ブログ参照)。

 「原神社」の下を通る道は、「赤間宿」から「辻田橋」を経て「原町宿」に至る旧唐津街道(官道)で、原町交差点から先の300mくらいの間に「原町宿」があったという。

 この「原町宿跡」を歩くと、道のあちこちに「原町宿」と書いた「辻行灯」(観光用)が置かれており、漆喰板張り土塀や土蔵などもある家並みに、どことなく宿場があったらしい雰囲気を感じることはできる。ただ意外と道幅が狭いので、車の通行時には注意が必要だ。
 たまにその中ほどで営業している「街道そばたからい」に立ち寄って食事することがあるが、近年、同店の駐車場から道路を歩かないで店舗に行ける小道が開放されたのは良い。

 最近、この「唐津街道原町宿」跡は、よくテレビで取り上げられ、その街並みにある店舗(お肉やさんマルヒチ商店ほか)等の紹介がされているので、今回は詳述しない。
 (実は「原町宿」についての知識がない)。

 なお、「原町の主な霊場」については、上記「原神社」(下記ブログ参照)のほかに、原町宿の通り(右)に面して鎮座する「恵比須神社」(※下記(3)参照)や「お大師さん=原町舘原釈迦堂」(※次回)がある。

※参照→原神社(旧唐津街道原町宿)に行く(1)
   →原神社(旧唐津街道原町宿)に行く(2)〜許斐山遠望
   →原神社(旧唐津街道原町宿)に行く(3)~恵比須神社
   →原神社(旧唐津街道原町宿)に行く(4)〜原比女明神 

※つづく→「唐津街道原町宿南搆口・原町館原釈迦堂へ(宗像市)」。

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2014年09月25日

佐田高木神社へ(7)座馬と立ち馬の石像など(朝倉市)

 前回「佐田高木神社へ(6)保存樹林と楷の樹(朝倉市)」からつづく
47座り馬 佐田高木神社(朝倉市佐田2953)拝殿の前に、「座馬」と「立ち馬」の石像が置いてある。
 このうちの「座馬石像」だが、前から「座牛石像」(天満宮の神牛)とばかり思い込んでいた。(※画像1)

 今回参拝を終えて帰るときに、再度、この石像を目にして、「そういえば境内には菅原道真(菅公)を祀る天満宮がなかった」と思った。だったら、この「座牛石像は何なのか」と思い、改めてじっくりと見直した。
 そして、対の「立ち馬石像」と見比べて、この石像も同様に顔が長く、角の生えていないことに気付き、やつと、この石像が「座牛」ではなく、「座馬」であることが分かった。

 これまで「座馬石像」など見た記憶がなく、先入観で「座牛石像」(天満宮の神牛)と思いこんでいたようで、完全に勘違いをしていたことに気付いた。
 ふと、学生時代に地方史学の恩師から、直観力は大事だが先入観で安易に史跡・史料等を観てしまうことは危険と戒められていたことを思い出した。どうも、その癖が今になっても抜けていないようだ。

 それでもまあ、許し難い朝日新聞の従軍慰安婦や福島第2原発吉田証言等の歪曲記事のように重大な歴史的事実を歪めるほどのことではないが、先に結論ありきの先入観で記事を書くことは危険である。。

 それにしても「座馬石像」は珍しい。実際に、「座馬」の姿を見たことはないが、馬もこのように両膝をきちんと曲げて座るのなのだろう。

46手洗い鉢 なお、座牛石像の画像の後方に見えている石造手洗鉢(大正12年3月伊勢参宮同行記念奉納)は、手洗い舎があり、使用できるが、なぜか参道から離れた場所にあるので気付きにくい。(※画像2)。

48立ち馬 ところで、「立ち馬石像」だが、何度見ても体形のアンバラスさが気になっていた。(※画像3)
 つまり、馬にしては足が短かくずん胴で、ロバを思わせるが、この辺で飼われていた馬はこんな体形をしていたのだろうか。

 台座に「昭和三十三年十一月御祭典記念」とあるので、そんなに昔のことではないが、その頃までは耕作に農耕馬が活躍していたということなのだろうか。

49狛犬左 その近くの狛犬は天保4年(1833)9月佛谷中奉納(※画像4)。境内の奉納狛犬や石燈籠等の石造物の記銘を見た限りでは、旧佛谷村(仏谷)、地下村(地下)なども安谷元村鎮座の佐田高木神社の「氏子」であることが分かる。

 これらの村には、寺内ダムから佐田川に沿って続く県道509号線が走ってはいるが、山深いところで過疎化も進んでいる。
 安谷のなかでも佐田高木神社が鎮座する元村辺りの谷あいは比較的広く田畑もあり、周辺地区では往古から農業や林業などで生計を立てたと思われる。
 当然のことながら佐田高木神社は農業神としても信仰されていただろう。そして、馬の石像は、それを象徴するものだろう。
 今回は、10分間ほどの参拝だったが、再訪できることを祈り、高木コミュニティセンター佐田分館(佐田生活改善センター)まで歩いて来た道を引き返した。

※トップ→「佐田高木神社へ(1)~佐田安谷・県道工事中 (朝倉市)」。

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2014年09月24日

佐田高木神社へ(6)保存樹林と楷の樹(朝倉市)

 前回「佐田高木神社へ(5)社殿・境内社祠等(朝倉市)」からつづく
 
  佐田高木神社(朝倉市佐田2953)境内に樹林に関する2本の案内板がある。
1ケヤキ樹林 その1本は「甘木市保存樹林第七号(平成6年8月6日指定)」だが、案内文が書いてある白い板面をアオカビが覆っているので、このままでは、そのうち読めなくなるだろう。
 甘木市は、平成18年(2006)年3月20日に朝倉町、杷木町と合併して朝倉市となったので、現在その市名はないが、この保存樹林指定は、平成6年3月24日施行「甘木市保存樹木等の指定に関する条例」によるもの。

 条例は、朝倉市でも継承されているが、指定号数の変更の有無は知らない。それはさておき、「甘木市保存樹林第七号」の案内文を原文のまま下記に転記しておく。

 指定の名称 高木神社(佐田)の樹林
 所在地 甘木市大字佐田二九五三番地
 主な樹木 ケヤキ、コジイ、イチイガシ、タブノキ等
 規模(面積) 二,〇六五・〇〇
 指定年月日 平成六年八月六日
 指定の理由 高木神社は英彦山の大行事社のひとつである山麓七大行事社のひとつであり、弘仁年中勅賞によって賜った七里四方神領荘園内の惣社として設置された。のちにその土地の氏神としての地位を得たが明治元年の神仏分離により高木神社と改称した。明治二十二年佐田村と黒川村が合併して高木村となったのもその「高木」をとったものである。現在、高木神社では社を囲むケヤキをはじめとする樹林が四季折々の彩りを添えている。

2ケヤキの葉近写 指定理由は、由緒のある佐田高木神社を囲む樹林(杜)故に保存するということで、ここにあるケヤキの一は、二の鳥居右横にあり、高く、大きく枝を広げ、美しい緑の葉であふれ鎮守の目印になっている。(※画像1・2)。

3楷樹近写 もう1本の案内板は、神社境内の車の進入口付近に2本植えられている「楷の樹」(※画像1・2)について説明したもの。
 比較的新しい案内板だが、その説明文を下記に転記する。

 「楷樹」は中国原産で、台湾、フィリピンなどにも産するウルシ科の落葉喬木(きょうぼく)で雌雄異種、秋の紅葉が美しい。
 中国山東省曲阜(きょくふ)の孔子廟にある楷樹が有名で、我が国では東京の湯島聖堂・岡山県備前市の閑谷学校聖廟・佐賀県多久市の多久聖廟に大樹が繁っているが、我が国ではたいへん珍しい樹である。
 当神社の楷樹は平成十八年四月に会津藩校日新館(福島県会津若松市)から贈られたもので、徳川宗家第十八代当主・徳川恒孝氏によって植樹されたものである。平成十八年十二月吉日。

4楷樹 この楷樹の葉を見たとき、一瞬サフランモドキの葉が樹林化したような印象を覚えた。
 確かにあまり見かけない樹木で、それぞれに四方にとげの葉ように広がっている細長い緑の葉が密集して、まっすぐ伸びた一本の樹木を形成している様が美しい。
 秋には、この葉が紅葉するとのことで、きっとより美しく、観る人の眼を楽しませてくれるのだろう。

 この案内板には、この楷樹と当神社の関わりやここに植樹した意味などが一切記されていないが、我が国で楷樹が茂っている場所として記されている4か所はすべて孔子廟・孔子を祀る学問所であり、楷樹は孔子と係わりがあるのだろうか。

 私は、この4か所、つまり湯島聖堂・閑谷学校聖廟・多久聖廟・会津藩校日新館のすべてを見学しており、多分その時、楷樹の大樹を目にしているのだとは思うが、今にして思うと記憶に残っていないのが残念。
 このうち閑谷学校には、地方史学の恩師(故)児玉幸多先生と訪れた、このことまで思い出され懐かしい思いもした。合掌。

※つづく→「佐田高木神社へ(7)座馬と立ち馬の石像など(朝倉市)」。

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2014年09月23日

佐田高木神社へ(5)社殿・境内社祠等(朝倉市)

 「佐田高木神社へ(4)菊紋石柱・英彦山四十八大行事社(朝倉市)」からつづく。

 佐田高木神社(朝倉市佐田2953)は、奉礼が蓬莱山とも見立てたであろう山容の美しい鳥屋山(645.1m)の山麓の清流山水の豊かな地に鎮座し、社殿は、谷あいの小さな集落(安谷元村)に鎮座する神社とは思えないほど立派で大きく重層感がある。

1拝殿天井 拝殿は、正面から見た屋根が鳥が大きく羽を広げているよう、外欄間の微細な彫刻も見事、柱や欄干などにも風雪の重みがある。さらに彩色花絵が描かれた60枚の内天井板(※画像1)は、色落ちはあるが目を見張るばかりだ。

 拝殿の先には長めの「幣殿」が続き、外石段に上に「神殿」(本殿)が建っている。(※画像2)。
2本殿幣殿 一部補修はされているが、4本の柱が大屋根を支え、屋根の頂部に立つ「千木」(ちぎ)や、「堅魚木」(かつおぎ)も立派で、その下の棟木には3枚「金色十六葉菊紋」(裏側は分からない)が貼りつけてある。

 前回、境内に皇室を表す「十六葉菊紋」を刻した2対の石柱があると書いたが、しっかりと神殿にも掲げられていたのだ。

 主祭神は、前回記した皇室の先祖神という高天原の別天神(ことあまつかみ)2番目の「高皇産霊神(尊)」だが、神世七代(かみよななよ)の七代「伊弉諾命伊弉冉命」を併神している。
 神殿にはこの三神の御幣が祀られているのだろうが、もとは英彦山修験に係わる神仏習合の社殿なので、本地仏十一面観音などの仏体も参拝の対象としてよいのかもしれない。

 このような立派な社殿が残っているということは、元和9年(1623)、黒川院(黒川御所)を滅ぼした筑前藩主黒田家が引き続き、高貴な神を祀る神社として当高木神社(大行事社)を庇護してきたということになるのだろう。

 神社誌によると、神殿再建は、寛永2乙丑(1625)年9月23日と安永3甲午(1775)年9月15日
 拝殿再建は、慶安元戌子(1648 )年3月中旬と安永元甲寅(1772)年9月
 「村社被定」(旧朝倉郡高木村佐田地区)は、明治5年(1872) 11月3日。
 なお、大正13年(1924) 10月14日、旧朝倉郡高木村大字佐田字藪に鎮座していた無格社・高木神社」(祭神同一)を合併・合霊している。

 佐田地区には険しい山や谷と豊かな水があり、山の神や水の神にも守られた地であり、佐田高木神社境内には、山や水の神々を祀る神社(祠)も存在していた。

 現在、境内には山神を祀る石祠「大山祇神社」(大山祇命)があるが、かつての境内には「山神社」(猿田彦大神)や「愛嶽神社」(保食神)も鎮座していたという。

3神池 また、現在、水神を祀る石祠「沖津宮」 (瀛津嶋比買命)があり、また、境内には、かつて厳島神社(市杵島姫神)が鎮座したともいう苔むした石橋が残る「神池」(※画像3)があり、弁財天が往来していたことであろう。

4境内社左 現在、境内に祀られている境内神社は、本殿左下の社祠「須賀神社」(素戔嗚命)と、その左横にある石祠三社=「大山祇神社」(大山祇命)、白木神社(五十猛命)、沖津宮(瀛津嶋比買命)である。
(※画像4)

5本殿と須賀社 「須賀神社」社祠は、明治42年3月地下(じげ)地区氏子建立奉納だが、その前にある石燈籠一対(※画像5)は寛政3辛亥(1791)年4月森組氏子中奉納。ご神体は、陶器に着色した英彦山「豊前坊天狗」のようにも見える。

6右石祠と灯篭 境内右方にも1社石祠があり、中の石像を見た限りでは弘法大師だが、愛宕神社(保食神)か松島大明神(手島氏産神)の可能性もあるか。
 石祠前の石燈籠には、天保11年(1840)5月の刻字がある。(※画像6)。

 なお、拝殿の左方にある建物は、物置みたいになっているが、もとは社祠というより、「御餞屋」か「お籠堂」だったようにも見える。

※つづく→「佐田高木神社へ(6)保存樹林と楷の樹(朝倉市)」。

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2014年09月22日

佐田高木神社へ(4)菊紋石柱・英彦山四十八大行事社(朝倉市)

 前回「佐田高木神社へ(3)原橋・里道水路(朝倉市)」からつづく。
1菊紋門柱長寿  佐田高木神社(朝倉市佐田2953)「二の鳥居」前の両サイド(石垣の上後ろ)に一対の石燈籠があり、その両横に一対の石柱(神門)が立っている。(※画像1はその左側)。
 齢七十年を祝して長寿祈願のために建立したものかと思い、建立年月など確かめることなく通り過ぎた。

 だが、後で考えたら、この石柱には皇室を表す「十六葉菊紋」が刻されていたので、許可なくこの菊紋を使用することはできないからひょっとしたら昭和天皇が満70歳になられたときに許可を得てその長寿祈念として建立されたものかもしれない。

2菊紋門柱國家安康 「十六葉菊紋」は、拝殿前にある一対の石柱にも使用されていた。
 (※画像2はその左側)

 菊紋の下に「天下泰平」・「國家安康」の文字が刻されている。

 この「國家安康」の文字を見ていて、つい京都方広寺「鐘銘事件」を思い浮かべていて、建立日を見ていない。

 因みに「鐘銘事件」とは、1614年(慶長19) 徳川・豊臣氏共同事業として再建した方広寺の鐘銘「國」を巡って家康がイチャモンを付けて大阪冬の陣が起きたという説である。

 地方の山村に鎮座する「佐田高木神社」境内に立っている「石柱」なのに、「十六葉菊紋」が許可された背景には、佐田高木神社が、かつての黒川院御所(筑前福岡藩主黒田忠之に攻められ滅亡)と直結した旧英彦山七大行事社の一であり、往古より高天原に出現した皇室の祖先神・別天神(ことあまつかみ)の二番目の神「高皇産霊神()」(高御産巣日神/高木神/たかみむすびのかみ)」を祀る由緒ある神社だったことによるのかもしれない。

 英彦山(田川郡添田町)は、天照大神の御子天忍骨尊(天忍穂耳尊)が天下った霊山故に、当初は「日子の山」といわれ、天忍骨尊が英彦山神宮(英彦山頂上宮)に祀られているが、本来、英彦山頂に祀られていたのは山頂直下にある「産霊(むすび)神社」の祭神高皇産霊神だったのではないかとの説がある。
 それ故に高皇産霊神を祀る高木神社(旧大行事社)が英彦山神領を守るように英彦山を取り巻いて鎮座しているのだろう。

 (※注)英彦山は、もとは彦山だったが、1729年(享保14年)の霊元法皇院宣で「英彦山」の表記となった。 
 (※注)彦山神領「大行事社」は、明治維新後、「高木神社」に改称、高貴な祭神高皇産霊(たかみむすび)を祀る神社ということから「高木神社」としたのだろう。

 「佐田高木神社」境内に立つ「神社を後にして御幣を手にして金剛杖をつき笈を背負って行脚する山伏のイラスト」(※画像3)を載せた陶器「案内板」には次のように記されている。

3山伏絵 「大行事社ともいう。黒川宮園にある高木神社同様、彦山の方七里(約二八キロ四方)の神領内におかれた鎮守社の一つ。彦山の山麓にはこうした社があわせて四十八あり、彦山を取り囲むように配置されていたといわれている。

 また、この地は彦山詣の道筋であり、信仰心のあつい人々が佐田仏谷通堂(とおりどう)をぬけ、この社を後に彦山へ向かった往時の情景がいまもしのばれる。
 現在、祭礼は毎年十月二十三日に行われている。」

 因みに、山伏の彦山修験では彦山霊仙寺末社ともいう英彦山神領四十八大行事社(末社高木神社)のすべてが現存しているものかどうかは分からないが、高木神社でヒットした次の30社の鎮座地を参考までに下記しておく。
 ただし、この30社のなかには合併などでなくなっている神社もあるのではないかとも思うが、すべての所在の確認をしている分けではないので、現時点で現存有無の区別はできない。

 (1) 朝倉市佐田2953。(2) 朝倉市佐田377。(3) 朝倉市黒川3328。(4)朝倉市黒川1806。(5) 朝倉市江川1201-1。(6) 朝倉市杷木白木172。(7) 朝倉市杷木赤谷744。(8) 朝倉市杷木松末2784。(9) 朝倉市須川1683。(10) 朝倉郡東峰村小石原鼓978-8。(11) 朝倉郡東峰村宝珠山24。(12) 朝倉郡東峰村小石原655。(13) 筑紫野市大石字上ノ屋敷569。(14) 筑紫野市天山字山畑241。(15) 久留米市田主丸町豊城1088。(16) 嘉麻市熊ヶ畑1075。(17) 嘉麻市桑野2588。(18) 嘉麻市小野谷1580。(19) 嘉麻市桑野1399。(20) 嘉麻市平217。(21) 宮若市黒丸1572。(22) 田川郡添田町落合3583。(23) 田川郡添田町津野2227。(24) 田川郡大任町大行事118。(25) 田川郡大任町大行事2496-1。(26) 田川郡添田町大字津野6717-1。(27) 京都郡みやこ町犀川上伊良原字向田308。(28) 京都郡みやこ町犀川下伊良原字荒良鬼1594。(29) 築上郡築上町船迫字水上1133。(30) 久留米市御井町字神籠石121(高樹神社)。

 (※付記) 上記「菊紋の石柱(神門)」について、神社を訪れると参道を挟んで立っている一対の各種石柱をよく見かけるが、正式の呼び方は分からない。
 この石柱は、神社の場合、「鳥居の形が完成する以前の鳥居の原型」或は「鳥居に代わるもの」「鳥居の石柱に該当するもの」かもしれないとの思いから、「神門石柱石柱神門」と書いたこともあった。
 これに類似する石柱は、寺院・仏堂等にもあり、そこでは一般的に「寺院・仏堂の門柱」と呼んでいるようなので、神社の場合も「神社の門柱」でもよいのかもしれない。ただ、石でできているので、「石柱」「石柱神門」などでも間違いではないのか。博学の士のお知恵を拝借したい。

※つづく→「佐田高木神社へ(5)社殿・境内社祠等(朝倉市)」。

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2014年09月21日

佐田高木神社へ(3)原橋・里道水路(朝倉市)

 前回「佐田高木神社へ(2)一の鳥居・地名由来(朝倉市)」からつづく。
 佐田高木神社「一の鳥居」から県道509号線を上ると、左(北西)側で山の斜面(崖)を開削し道路を拡張し崖面に防壁を作る工事を行っていた。
 この間は、100m位あっただろうか、通行する車は工事用信号機により片側交通になっていたが、歩道がないので、車が通ると思わず谷側に身を寄せて車が通過するのを待った。

 この道と、この先の深い谷間に建設中の幅広い新道が完成してつながったときは、車で朝倉から小石原、英彦山に向かうのが随分と楽になることだろう。
 だが、同時に、かつて黒川を発ち(英)彦山に向かった修験者らが佐田高木神社を参拝した後、踏み入った険しい谷あいの様子を伺うことはできなくなるだろう。

1 道路工事現場が途切れた辺りの右下にある集落の里道を下り、佐田川(寺内ダムの上流)に架かる「原橋」(昭和41.1コンクリート架橋)を渡ると、道は右カーブし、左前方に佐田高木神社の杜や鳥屋山が見えてくる。(※画像1)。

 安谷(元村)の「佐田高木神社」は、「一の鳥居」から徒歩10~15分、里道の左側に鎮座している。
 (鎮座地:福岡県朝倉市佐田2953)。

 今回は、付近の風情を味わう意味もあり歩いて行ったが、佐田高木神社前の里道(農道)は、今は車で行けるほどの道幅があり、境内下段広場の手前方には車の進入口も作られている。

7正面 佐田高木神社の境内下段広場の前面は、道路に面して野面積みに3段前後積んだ低い石垣、その中央部分に4段の石段(「二の鳥居」前、ここが正面入口)があり、この先の境内上段に神殿が鎮座している。(※画像2)。

(※上記「二の鳥居」は、先に県道に面して立つ石鳥居を「一の鳥居」と書いたので、ここでは便宜上「二の鳥居」と書く)。

 里道に沿って作られている幅30cm位のコンクリート側溝は、この石垣、石段の前を通り、その中を水が流れている。
 水は、きれいで、冷たく、常時勢いよく流れているようなので、山水が流れる用水路かもしれない。
 こうしてみるとこの安谷(元村)の佐谷高木神社は、山間にあって水の豊富な地に鎮座したことが分かる。

 なお、石段下の側溝部分は、正面参道口となるので、側溝の上がコンクリート蓋で被せられているが、ふと、以前、ここには長さ約1m(幅はまちまち)の長方形の石材を7枚並べた橋桁が架かっていたことを思い出した。
 多分、里道に出っ張っていたので、危険と考えて撤去して上記の形に改めたのだろう。残念には思うが、考えてみれば、その昔は、里道の道幅が狭く、旧用水路の幅は、その石橋の長さに似合うだけの広さあったということなのだろう。

※つづく→「佐田高木神社へ(4)菊紋石柱・英彦山四十八大行事社(朝倉市)」。

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