2014年11月

2014年11月22日

旧蔵内氏庭園が国の名勝に(福岡県築上町)

  本年(平成26)11月21日文化審議会が文部大臣に答申した名勝のなかに「旧蔵内氏庭園」(福岡県築上町上深江)があった。

旧蔵内邸大庭園の一部 すぐに、以前(2009年)、蔵内修治先生のお斎が「旧蔵内邸」であったことを思い出した。

 そのとき、旧蔵内邸(国・県有形文化財)の豪華さに目を奪われたが、大広間から眺めた「蔵内邸の庭園」の美しさにも目を見張ったものだった。

 考えてみれば、当時、次はここで、家族連れで食事をしたいと思っていたが未だ果たしていない。
 再度行けるかなあ…、体調回復を祈念中…。

 これを機に多くの方々が石炭産業華やかりし頃の石炭王が残した邸宅・庭園遺産を見学されることを期待する。そして、この邸宅や庭園を維持管理してこられた人たちの努力に敬服する。

※別記参照→「旧蔵内邸でお斎(1)〜有形文化財
→「旧蔵内邸でお斎(2)〜弓形天井
→「旧蔵内邸でお斎(3)~供出された銅像
→「旧蔵内邸でお斎(4)~蔵内修治先生を偲ぶ会終了
→「旧蔵内家住宅の保存を巡って

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2014年11月21日

田野生元「厄除地蔵堂」へ(宗像市田野)

 前回「田野妙見阿弥陀堂へ(宗像市田野)」からつづく。

 前回の田野妙見「阿弥陀堂」から石川方向(南西方向)に引き返しそのまま200mほど直進すると県道75号線と交差する。ここで県道を右折し高向信号機方向に300mほど進むと右側に消防団格納庫がある。

1田野生元番外地蔵堂 この格納庫の前に、細い路地を挟んで建っている木造瓦葺のお堂がある。(宗像市田野1006付近)。

 「宗像四国東部霊場第47番番外札所(田野生元)厄除地蔵堂(本尊厄除地蔵尊)」である。(※画像1)。
 因みに第47番札所は、上記(前回記述)「田野妙見阿弥陀堂」である。

 なお、この厄除地蔵堂は、筑前國續風土記附録にある「地蔵堂イキモト」だと思う。

 厄除地蔵堂内には石仏本尊厄除地蔵尊坐像1体が安置されており、その横に「厄落とし石」が置いてある。
 厄をいっぱい抱えている人が、この石を両手で抱え上げると重く感じるが、厄が消えると軽く感じるようになるのではないかと思う

 それにしても、「生元」(地名)は「イキモト」と読み、生きる元気が出そうな縁起の良い名だが、この地区の人たちは、いつも厄除地蔵様に厄を除けてもらい元気に生きておられるのかもしれない。

 現在のお堂は、昭和53年7月に改築されたものだが、県道に面して建っているので堂内は騒音と埃にまみれている。
 改築時に奉納された垂れ幕は埃にまみれ傷みが激しく、カーペットも既に使えない状態だった。きっとお参りも多いのだと思うが。

2田野生元地蔵堂手洗い お堂の入口に置いてある長方形の踏み石は立派なもので、またお堂の前に置いてある「手洗い石鉢」(※画像2)は、オリジナルで目を引く。
 各地でオリジナルな手洗い石鉢をよく見かけるが、その石鉢に絞った紹介集などまとめたら面白いと思ったりすることもある。

※つづく→「神功皇后鎧塚と西ノ山観音堂(田野生元薬師堂) 宗像市

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2014年11月20日

田野妙見「阿弥陀堂」へ(宗像市田野)

 前回「依岳神社大鳥居と田野石川薬師堂へ(宗像市田野)」からつづく。

 依岳神社大鳥居と田野石川薬師堂の間の里道を下り突当りにあるT字路を左折すると、「湯川農園入口」のある五つ角があり、その正面の辻に「田野妙見阿弥陀堂」がある。(宗像市田野2448)。

1田野妙見 「阿弥陀堂」といっても、縦横奥行きともに小さな直方体の箱型コンクリート造り前面開放の粗末な建造物で、阿弥陀如来坐像木造と弘法大師坐像石造を安置するためだけに作られた(建て替えられた)もののようで、もちろん人が中に入って参拝するようなお堂ではない。(※画像)。


 以前は、立派なお堂があったのだと思うが、しゃがんで吹きさらしになって風化する阿弥陀仏を眺めていると何かしら物悲しくなる。

 筑前國續風土記附録に「阿弥陀堂二宇ミトウ・カシヤ」の記載があり、この阿弥陀堂に該当しているものかどうかは分からないが、ここは、「宗像四国東部霊場第47番札所 田野妙見阿弥陀堂(本尊阿弥陀如来)」となっている。

 かつての田野村の集落は、本村、向田野、妙見、瀬戸、石川にあったといい、「田野妙見阿弥陀堂」の名から、当地が「妙見」地区であることが分かるが、現在、「妙見」の地名は「名見」となっている。

 「妙見」という地名から極めて仏教的な響きを感じるが、かつて「妙見菩薩信仰」と係わる地だったのかもしれない。

 「依岳神社」境内神社の一「須賀神社」(祭神素盞鳴命)は、かつて「妙見」に鎮座していた「祇園社」で、筑前國續風土記附録にも「祇園社ミヤウケン」の記載がある。
 素盞鳴命は、宗像三女神の一湍津姫神の父神ではあるが、大歳命(饒速日命)の父神、大國主命の養父神であり、やはり旧田野村の一妙見でも物部神を祀っていたことが分かる。

 なお、「四国霊場第47番札所」は真言宗醍醐派「熊野山妙見院八坂寺(本尊阿弥陀如来)」(愛媛県松山市浄瑠璃町八坂773)である。

※つづく→「田野生元 厄除地蔵堂へ(宗像市田野)」。

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2014年11月19日

依岳神社大鳥居と田野石川「薬師堂」へ(宗像市田野)

 前回「依岳神社へ(宗像市田野)」からつづく。

1依岳鳥居 前回、瀬戸交差点から国道495号線を500m上り、住宅前を左折して里道(林道)を上り依岳神社に行ったが、今回はここを右折して里道を下り「依岳神社大鳥居」(一の鳥居)、及び「田野石川薬師堂」(宗像市田野197)に行く。
 ※前回の依岳神社からは、国道に戻り、ここで国道を横切る。

 この国道の左右の里道は、国道495号線(平成5年=1993全線開通)により分断された。

 里道を少し下ると、左側に、昭和9年(1934)建立の「依岳神社大鳥居」(一の鳥居)が建っている。(画像1)。
 かつての依岳神社の参道口は、ここだったと思われるが、この参道も上記里道と同様に国道開通により分断され、山側の参道は、国道に面した叢のなかに痕跡がある。

2石川薬師堂(依岳鳥居前 この大鳥居(横に宗像コミュニティバス石川の前バス停あり)の正面(里道の対面)に、(左下方から)「玄海町(現宗像市)消防団第2分団2部(消防車)格納庫」(その前に郵便ポストあり)と、「田野石川薬師堂」(木造瓦葺)、及び「刻銘不詳の石碑」(石塔)1基がある。
(※画像2)。


 「薬師堂」は、「宗像四国東部霊場第18番札所田野石川薬師堂(本尊薬師如来)である。
 筑前國續風土記附録に「薬師堂イシカワ」と記載がある「薬師堂」だと思われるので、既に江戸時代には、当地に「薬師堂」があったと推測できる。

933薬師堂後ろから 薬師堂の入口は、里道側ではなく、左(下方)の消防団第2分団格納庫の方を向いており、また、後方に「刻名不詳の石碑」(石塔)が立っているので、「薬師堂」は、この石碑を拝むような向きに建てられていることになる。
 何の石碑なのかが分からないが、薬師如来の本体だったのだろうか。(※画像3)。

 或は、筑前國續風土記拾遺に「依岳の裾野に石川と呼地あり。石川氏の墓なりとて古墳あり。いかなる人といふことをしらす。」とある墓石なのだろうか。

 「薬師堂」安置の薬師如来坐像(多分)と弘法大師座像には、いずれもすっぽりと前掛けがかけてあり、木石の確認はしていない。

 なお、薬師堂に、次の「御詠歌」を書いた掲板がある。
 「こをうめる そのちちははの おんざんじ とうらいがたき ことはあらじな」。
 これは四国霊場第18番札所(高野山真言宗)「母養山宝樹院恩山寺」本尊薬師如来(徳島県小松島市田野町字恩山寺谷40)の次の「御詠歌」である。
 (子を生めるその父母の恩山寺訪らいがたきことはあらじな)。

※別記参照→「依岳神社の大鳥居(宗像市)」。

※つづく→「田野妙見阿弥陀堂へ(宗像市田野)」。

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2014年11月18日

依岳神社へ(宗像市田野)

 前回「田野瀬戸古墳にて(宗像市田野)」からつづく。

903依岳神社参道1 「瀬戸」交差点(信号機あり)から国道の坂を0.5kmほど上り、左側の3軒の住宅前を左折、小さな坂道(林道)を上る。
 この先は、果樹園や山林ばかりで、最初の二股を右に直進し、次も右直進、次を左に直進すると、右側に依岳神社(依岳宮)の鳥居や参道があり、杜に守られ依岳神社が鎮座している。
(宗像市田野字依岳1872)。

 依岳神社(依嶽神社)は、湯川山(旧・依岳山)の南西山麓に鎮座しているが、元は湯川山頂に鎮座し、玉依姫命依岳大神として祭祀し依岳明神社といわれていた。
 なお、湯川山頂付近にあった牧神社は、反対側の北東山麓にある景石神社に合祀された。

 依岳大神(玉依姫命)は、日向の高千穂の峰から竃門山(宝満山)を経て依岳山(湯川山)に遷られたというので、湯川山は、峰続きの宗像四塚の一孔大寺山(蔵王権現)と同様に龍神信仰修験道色の強い山であったことも伺える。
 また、元から境内に「豊前坊社」(豊日神社) があったというので、英彦山修験との係わりを思わせる。

 また、湯川山頂は、その北西山麓の突端鐘ノ岬(佐屋形山)に鎮座する織旗神社の奥院であった可能性も考えられ、織旗神社の祭神神功皇后武内大臣住吉大神が依岳神社の相殿に祀られている。

 加えてよく分からない玉津姫命が祭祀されているが、玉津姫命は、前回記した森俊社(森俊神社)の祭神「玉弉津命」と同神だと考えることができたら、宗像三女神の一湍津姫神(多岐津姫神)=宗像における貴船神(水神)、そして瀬織津姫神(物部氏祖神饒速日命の妻神の一)とも考えられ、当地が神功皇后、そして物部氏と深く係わる地であったことが想像される。

 現在、上記境内に鎮座する7神社で、元から境内にあった「豊前坊社」(豊日神社) 以外の6神社=貴船神社(石川)、大歳神社(高向)、波折神社(本田野) 、須賀神社(妙見)、森俊神社(瀬戸)、愛岳神社(高松)は、明治政府の愚直な神社統合令により明治末〜大正初期に田野内の各地より強制的に遷されたものだろう。
 柚木、高向、瀬戸にあった貴船神社も合祀されているのではないかと思うが、これらを見渡しても、修験色、或は物部氏(神)色の強い地区であったことが伺える。

904依岳神社イチョウ乳アップ2 依岳神社の社前には、神木の乳根のある銀杏の大木があり、晩秋の黄葉も美しい。(※画像2)。

 また、境内には、樹皮が剥げ朱色の木肌が露出する珍しいバクチの木などパワーを感じる樹木もある。

 依岳神社については、以前にも数回書いているので、重複を避けるために下記に別記の検索項目を掲げておく。


 ・バクチの木のあるパワースポット
 ・依岳神社の「バクチの木」(追記)
 ・依岳神社のいちょう(銀杏)と乳根(宗像市)
 ・依岳神社の石灯篭など(宗像市)
 ・依岳神社の大鳥居(宗像市)
 ・依岳神社の入口を教えてくれた老婦人は神の使者か
 ・依岳神社の「田野区戦病没者芳名額」に合掌(宗像市)
 ・依岳神社の絵馬(ユーモア神官?)宗像市
 ・依岳神社の境内神社七社と祭神(宗像市)
 ・依岳神社の由緒(1)依岳大神(玉依姫命)宗像市
 ・依岳神社の由緒(2)神功皇后、垂見峠・垂見川、渡された場面など
 ・依岳神社の由緒(3)玉津姫命(?)
 ・依岳神社の由緒(4)創建、面積、氏子数等(宗像市)
 ・依岳神社の由緒(5)例祭、田野周辺の水田地名

※つづく→「依岳神社大鳥居と田野石川薬師堂へ(宗像市田野)」。

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2014年11月17日

田野瀬戸古墳にて(宗像市田野)

 前回「田野瀬戸の薬師堂にて(宗像市田野)」からつづく。

 田野瀬戸薬師堂前の道幅の狭い里道をそのまま進むと、「田野瀬戸古墳」の東側を半円形に回り込むような形で県道502号線(玄海田島福間線)に戻るが、この里道に沿って瀬戸集落の民家が建ち並んでいるので、里道側から「田野瀬戸古墳」(宗像市田野1522)に行く道はない。

1 瀬戸古墳 薬師堂前から里道を引き返し、県道502号線を右折、すぐ右側にある砂採集場入口の先の小道(土砂叢道)に入ると、この道はビニールハウス(左側)の先でカーブし緩やかな上り(叢の坂)となる。
 丘陵(標高約25m)の頂上に雑草に覆われた「田野瀬戸古墳」(墳丘全長38m)がある。(※画像1)。


 「田野瀬戸古墳」は、主軸を東西に向けた前方後円墳で、丘陵の中央の丸く盛り上がった部分が後円部(径25m、高さ5.7m)で、ここから観て正面(南側)に単室横穴式石室(前庭側壁あり)の開口部があったが、今は埋め戻されている。

2瀬戸古墳 向かって左(西)側が前方部(幅19m、くびれ部幅11.4m)で、この左(西)側から後方(北側)部分は過去に開削されたのか崖(※画像2)となっており、削られかけた古い砂丘上にかろうじて残ったという感じだ。なお、当地は、多分、民有地で宗像市史跡指定などはされていないと思う。


 鐘崎港を望む地に造営された有力者の古墳であることは間違いなく、この周辺にあった前方後円墳1基が既に消滅しているだけに、ぜひ整備保存してほしいものだと思う。

 前回記した「田野瀬戸古墳群」の名称は、私が勝手に記した名称だが、「宗像遺産」によると、土砂採取により昭和40年代に当地周辺の古墳(円墳か)2基消滅、昭和52年以降に2基(うち1基は前方後円墳)消滅し、確認されている現存古墳は2基(田野瀬戸古墳と円墳)というので、これらを総称して「田野瀬戸古墳群」と記したのである。

 田野瀬戸古墳の発掘調査(2006年頃だったか)が行われたときには、既に盗掘跡があり、遺物も少なかったようで築造年代は不明確のようである。
 それでも発掘品のなかには、剣菱形杏葉や環状雲珠といった馬具など注目されるものもあり、被葬者が武人として軍務にも携わっていたことが分かる。
 では、古墳の被葬者が釣川右岸地域を治めていた宗像君に係わる首長だったかと言えば、必ずしもそうとも言えないように思う。

 仮に4世紀頃には田熊石畑遺跡や東郷高塚古墳がある田熊、東郷地域に宗像君の王都や墳墓が造営されていたとしても、それ以後5~6世紀に、宗像君が釣川両岸全地区の支配を続けたことを示すような古墳、遺跡の存在の確証が乏しく、無論、当時、文化的に未熟であったヤマトにムナカタが従属していたとも考えられない。

 なお、田野地区には、神功皇后の三韓凱旋後、甲冑を埋めたという兜塚伝説があるが、神功皇后は、九州倭国(きいこく)に係わる女王だったのではないかと思っているので、それを以てヤマトとの係わりを説くことも無理がある。神功皇后が当地に入ったのは、実際は三韓進軍前ではなかったのかと思っているが、ともあれ、九州倭国ないし神功皇后との係わりから田野瀬戸古墳群を考察することは否定しない。

 まだ整理をしていないが、宗像地方に広く出雲神(物部神)が分布していることを考えたとき、隣接する鞍手郡に王都があった物部氏が宗像地方へ侵入し素戔嗚尊に係わる三女神を六ヶ嶽崎戸山から宗像に遷して宗像三女神として宗像支配を進めたのではないかとも考えている。
 なお、島根の出雲王国は、鞍手にあった物部王国のすり替えで、後世に作られたものではないかとも思っている。ただし、このような仮説を立てている人を知らない。

 田野瀬戸地区の産神「森俊社」(現依岳神社境内社「森俊神社」)の祭神とされた玉弉津命(附録)は、よく分からない神名だが、拾遺では「大國主命」としている。
 私は、「玉弉津命=湍津姫神(多岐津姫神)=瀬織津姫神」と考えたこともあったが、出雲神話にしか出てこない磐筒男命、磐筒女命を併神しているので、いずれにしろ森俊神社は出雲物部神を祀った神社であったと思う。
 
 「田野瀬戸古墳」が、このように物部神を産神として祭祀した地区にあるので、その被葬者は、鞍手の物部氏ではなかったのかと思えたので、必ずしも宗像君に係わる首長だったとも言えないと記したのである。

 なお、田野瀬戸古墳の前方部の南側(手前)では、一石五輪塔や板碑などを含む鎌倉〜室町時代の中世集石遺構も発見された。

※つづく→「依岳神社へ(宗像市田野)」。

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2014年11月15日

田野瀬戸の「薬師堂」にて(宗像市田野)

 池田地区霊場巡拝の最終「池田坂名 大日堂へ(宗像市池田)」の文末で「次回は、田野又は山田地区」とし、山田地区巡拝記は掲載したので、今回は未掲載の田野地区霊場巡拝を記す。
 田野地区には、「玄海ロイヤルホテル」(福岡県宗像市田野1303)があり、宿泊、温泉(玄海さつき温泉)、食事等でよく利用しているが、今回はここを出発点とした。

1田野瀬戸薬師堂 同ホテルから国道495号線に出て「瀬戸交差点」(信号機あり)を左折し、すぐ右折。瀬戸集落に入る狭い里道の、集落入口左側にある瀬戸公民館の敷地内に立派な「薬師堂」(木造瓦葺)がある。

 「宗像四国東部霊場第59番札所 田野瀬戸薬師堂(本尊薬師瑠璃光如来)」である。
(宗像市田野1470)。

 本尊「薬師瑠璃光如来」(薬師如来)は小石仏坐像で「石工護村彦市」の刻があるが造立時期は不明。
 また、矜羯羅と制吒(多)迦の二童子(木仏立像)を両脇に従えた不動明王立像(木仏)も安置。

 かつて瀬戸地区に鎮座していた産神、宗像七十五社の一「森俊社」(鼠ヶ森)は、明治39年(1906年)の神社合祀勅令により、明治末期〜大正初期頃、依岳神社境内に遷宮させられたが、当初、その祭神(玉弉津命=大國主命か、磐筒男命、磐筒女命)の本地仏が薬師堂の仏だったのかと考えた。
 ただし、瀬戸地区の人たちは、今も遷宮地で12月19日に「森俊社」の例祭を行っているといい、例祭日の面からは薬師如来の縁日8日、不動明王の縁日28日とは結びつかない。
 (※別記参照→「依岳神社の境内神社七社と祭神」)。

 また、薬師瑠璃光如来(=胎蔵大日如来と同体)や、不動明王(大日如来の脇待)が密教系寺院で祈念されることを考えると、筑前国續風土記拾遺の「天満宮〜瀬戸に在。むかし此地に上野山金龍院といふ真言寺有しよし。其址也といへり」の記事との係わりも気になる。

 現在の「田野瀬戸薬師堂」付近には、金龍院の寺院名から思い浮かぶ龍神池はないが、上野山の山号から思い浮かぶ小丘陵や古墳の墳丘などはある。
 つまり、瀬戸地区は湯川山の西丘陵(山裾)にあり、薬師堂のすぐ後にあったと思われる丘陵(古墳があったと思う)は砂採集で削平されたが、その後方の小丘陵上には「田野瀬戸古墳群」(次回記す)の一部が残っている。
 なお、この古墳群を築造したのは、森俊社や天満宮の祭神が出雲系で、鞍手剣岳に中心を置いた物部王国が本来の出雲王国であったとすれば、田野地区(多分宗像全土)を押さえた鞍手の物部氏(軍)だったとも考えられる(5~6世紀か)。

 いずれにしても、以前からこれらの神社の旧跡地を聞いてみようと思っていながら、つど忘れて付近の考察は曖昧のままである。

 因みに四国霊場59番札所は、真言律宗「金光山最勝院国分寺」本尊薬師瑠璃光如来(愛媛県今治市国分4-1-33)である。

※つづく→「田野瀬戸古墳にて(宗像市田野)」。

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2014年11月10日

松瀬ダム湖畔の紅葉(八女市)

1 八女市での用務が終わったとき、日暮れまで少し余裕があったので、「グリーンパル日向神峡」(テラス付きコテージ)内の湖畔で対岸の紅葉を観ようと思い車で出かけた。
(八女市中心街から約1時間)。

 「グリーンパル日向神峡」は、矢部川県立自然公園内にある。
 「日向神峡」の名が付いているのでその一画なのだろうが、日向神ダム(日向神湖)湖畔ではなく、その一段下流の放流調整池(松瀬調整池=松瀬ダム)の湖畔(右岸)にある。


2 松瀬ダム湖畔には散策を楽しむことができる東屋や木製釣り桟橋(遊歩道)もある。

 この桟橋の中ほどから湖越しに観る対岸(左岸)の山が紅葉に染まったときの景色は抜群。と思って出かけたが、ほんの少しだけ時季が早すぎたようだった。


3 でも、遊歩道近くに生えているカエデの紅葉は始まっていたので、夕暮れ時の静かな湖畔でマイナスイオンを腹いっぱい吸い込み、この景色を鑑賞できただけで満足だった。

 日暮れが迫っていたので、急ぎ国道442号線を引き返した。


所在地:八女市黒木町北大淵4410-2。0943-45-1001。

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2014年11月09日

第44回西日本菊花大会の作品鑑賞に行った

1地紙 宗像大社境内で、第44回西日本菊花大会の出展作品を鑑賞してきた。

 と言っても菊作りなどしていない者が何の批評ができる分けでもない。
 ただ美しい菊花の数々を眺めて、「美しい」と連発するだけのこと。

 でも気分は良いし確実に目の保養にはなるので、この季節(11/1~23)になると毎年出かけている。

2風鈴 近年はなぜか出かけた日が雨で傘をさして歩きながらの鑑賞となるが、それもまたシックで良いのかもしれない。

 今年、総理大臣賞などの大賞に選ばれた(紫+黄+白)×4鉢並べる大輪部門の均整のとれた作品を観ていて、「さすが」と思う。

 また、菊花を扇の地紙に見立てた作品(総務大臣賞)や風鈴を思わせる作品などにも見とれていた。
 

3キャラクター 雨の中を、晴れ着を着た女の子が家族とともにお参りしている姿を見かけた。

 菊花展は丁度七五三の季節と重なるので、賞抜きにしても子供が喜ぶ張り子のキャラクター菊人形(アンパンマンやピカチュウなど)も欠かせないのだろう。

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2014年11月08日

宗像大島砲台跡へ、風車展望所遠望

 前回「宗像大島灯台と馬蹄石へ」からつづく。

1砲台跡 大島灯台前から、来た道を引き返し県道541号線を左折、沖津宮遥拝所方向に引き返す途中、右御嶽山・左砲台跡とある交差点を左折、この道も狭いが、瀬山牧場で下車。瀬山牧場の黒牛らが出迎えてくれる。
 すぐ近くにある砲台跡を大急ぎで見学した。


 ちょっと見、前方円墳か円墳を思わせるような外形をしたトーチカ(?)に入って、細長い窓から外海を眺めていると、「敵艦見ユ」と戦争映画の一シーンを観ているような錯覚に襲われる。

2砲台跡 ここで海上を進む敵艦を発見したら、敵艦との距離を測定し、その進行方向、ノットなどを砲台に指令するための測定施設だったのだろうか。

 このすぐ近くに、コンクリートで固められた円形の穴が2つ見えるが、かつて旧陸軍省が所轄していた大島砲台の基礎部分

 砲台が昭和11年に完成したときには、15センチキャノン砲といわれる大砲が4門備えられていたというが、戦後、破却されたのだろう。その残骸はどのようになったのだろう。誰も知らない(?)。

3砲台跡・風車 このような戦争遺跡を見ると、現代の平和外交の時代には思いもつかないが、かつての対外的緊張の時代に武力を背景にした外交が行われていた様子も垣間見ることができる。
 戦争は反対だが、軍備の背景のない平和外交ですべてが解決するのだろうかと思うときもある。

 砲台跡から、北端の岬の先端付近の丘に建っている「風車」が見える。風車は回っているようには見えないが、止めてあるのだろうか。


 今回は、風車まで行く時間がなかったが、時間があればね見通しの良い瀬山牧場内の遊歩道を歩いて風車の丘まで行くことができる。

4風車 風車のある丘は「風車展望所」となっており、大島北海岸や海を眺望する「最高のロケーション」とも言われている。

 既に15時半に近く、急ぎ引き返し、15:45大島渡船ターミナル着、フェリー乗船手続き。大島滞在時間1時間半の予定を消化。


 16:00おおしまフェリー乗船、16:20大島港発→16:40神湊港着。
 全員、改めて計画を練り直しての次回の再訪島を祈念した。(本項終)

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