2015年02月

2015年02月25日

上八〜鐘崎の霊場巡り「上八元末観音堂」(宗像市)

 前回「田野本田野観音堂(宗像四国東部霊場第52番)」からつづく。

1上八元末観音 今回巡った宗像市上八(こうじょう)~鐘崎霊場の一部を順次書きとめておく。

 今回の出発点は、「観音様」のイラスト看板が立っている西鉄バス「元末(もとうら)バス停」(東郷駅前、又は赤間営業所→鐘崎京泊間:各1時間に1~2本運行)。

 なお、車で来た人は、近くに駐車できる場所がなく、同バス停前(ミノル設備工業倉庫)の駐車場の端に駐車させてもらった。
※画像1 (宗像市上八1602)。

2上八元末観音 優しいお顔をした「観音様」のイラスト(看板)は、合掌した十一面観世音菩薩立像の墨絵(頬や蓮台などに色付け、「なかお」のサインと印章あり)だが、多分、「上八元末(こうじょうもとうら)観音堂」への入口であることを示すためにここに立てられたものだと思う。(※画像2)

 ただし、このイラストは、「上八元末観音堂(以下「元末観音堂」という)」に安置してある観音像を模したものとは思えない。

 確かに元末観音堂には、「宗像四国東部霊場第41番札所・本尊十一面観世音菩薩」の板札が貼ってあり、「十一面観音」(建立?・文政2卯年[1819]改修記録板札)の掲示もある。
 しかるに、観音堂内に安置してある本尊観音像は、右腕が失われた「聖観世音菩薩坐像」のように思えるし、また、その脇にある小観音立像も「聖観世音菩薩」のように思えるので、よく分からないけど、別に「十一面観世音菩薩立像」がある(あった)ということなのだろうか。

 因みに四国霊場第41番札所は、真言宗御室派「稲荷山護国院龍光寺・本尊十一面観世音菩薩」(愛媛県宇和島市三間町戸雁173)である。

3上八元末観音 元末観音堂(木造瓦葺/平成4年再建)は、元末バス停の東方向 […田園のなかをほぼ直線に走る里道→湯川山(依岳山)山麓の集落(廃屋含め10数戸あり)内→道幅の狭い参道(平成15~17年、山道を拡張舗装)を通り抜ける…]の杉や孟宗竹林に囲まれた山間広場の左側に建っている。
 (宗像市上八1646、※画像3)

4上八元末観音 蜘蛛の巣を払い除けながら12段の石段を上ると、元末観音堂の土台(右手前)に置いてある円形の手洗い石鉢に気付いた。
 鉢には藻が張り緑色に汚濁した水が溜まっていた。各地でよく見る風景ではあるが、いつも藪蚊の発生源になっている。(画像4)

 元末観音堂の正面の引き戸を開けると、天井に設置された滑車に吊られた大きな木製繰り数珠 (念珠)が目の前に飛び込んできた。(画像5・6)

5上八元末観音 この数珠は観音様のお堂内にあるので、当初、現世利益を聞いてくださる観世音菩薩様に願い事をするためのものだと思った。
 だが、掲示文によると「大日様のお願いの数珠」とあり、「108個の数珠から成り、その1個ずつをたぐり寄せ数珠の落ちる音に、お願いをします。願い事がかなえばお礼まいりをするとされています。素朴な作りで全国的に珍しいそうです」とある。

6上八元末観音 実際に数珠の数が108個あるのかは数えなかったが、両手で大数珠少し引くと「カタカタ」と音がして、本当に願い事を聞いてくださるような気がした。

 でも、「大日様」とは、密教の宇宙観を現す曼荼羅の中心仏「大日如来」のことだと思うので、「必ずお礼参りに伺う」という強い気持ちがない限り、ここで願い事をすることはおこがましそうだ。

 だが、観音堂内には「大日如来」の尊像はなく、お堂の外(右方の樹木の根本)に「大日様」と記した表示(板札)が立っているので、同所にある石組台座を持つ小石祠に「大日様」を祀ったのだと思うが、この祠内にも、石ころが置いてあるのみで、「大日如来」の尊像はなかった。(画像4)

7上八元末観音 この石祠の壁面に「明治三十八年二月建立 辻元末組中 世話人 吉田?吉」との刻字(※画像7)があり、また、観音堂には「大日様 建立時期? 明治42年移設」との掲示があるので、当「大日様」信仰の起源は分からないものの、この(明治38年建立の)石祠は、明治42年に辻元末組内のいずれかの場所から当地に移設したこと、及び当時から当地における大日様信仰が今日まで続いていることが分かる。

 また、「辻元末組」の刻字から、当地域が「辻元末組」であったことも分かる。
 上述の「元末バス停」の西側に「辻元末公民館」があったので、なぜ「元末公民館」ではないのだろうかと思っていたが解決…当地区一帯は、現在も「辻元末組」と呼ばれているのだ。

 筑前國續風土記拾遺に次の記述がある。
「上八村:民居は泉 門前(以上本村) 本末(ウラ) 濱上(ノウエ) 平原 水越(シ) 中原 釣山なり。村の西に辻といふ地あり。これ古昔津日駅の名の残りて訛り傳ふるなるへし。此所に在し人家を往年鐘崎に移せりといふ。村の産神ハ鐘崎浦織幡社なり。昔此村に津守氏の人住せしよし。高倉院承安五年の文書宗像社にあり。上八の名始てここに見えたり。」」

 「」は、往古の「津日駅」の名残りで、「津」から、かつてこの辺りまで海が入り込んで(港となって)いたことが伺える。
 また、「元末」は、江戸時代には「本末」(モトウラ)と書かれていたようだが、「本末」は「本浦」のことで、海岸線の後退で「元末」(元浦)となったと考えるのは穿ちすぎだろうか。

 だが、上記文書から「辻元末」にあった海岸線(津)が後退して「鐘崎」に港(津)が開かれたとき、「辻元末」地区に居住していた漁師らを「鐘崎」に移住させたと考えることはことはやぶさかではなさそうだ。

 なお、元末の隣接地(南方)には海の瀬戸が地名として残ったと考えられる「瀬戸」があり、当地には海の玄関口を管轄した人々を埋納したと思われる田野瀬戸古墳(群)がある。

 ところで「上八」は、「こうじょう」と読み、どう見ても日本語読みではなく、朝鮮〜大陸系の読みなのかもしれない。朝鮮〜では数字の「八」を重宝していたので、「上八」は、渡来系の人たちが居住した地区だったのではないか。近くには渡来系(東漢)とも目される「高向」の地名もある。

 筑前國續風土記は、「若は上入と書しを、あやまりて八の字を書にや」と推察しているが、「上入」でも「こうじょう」とは読めない。
 ただこの「上入」を漢字だけで推察すると、海上から上陸する入江(津・浦)があった所との解釈もでき、(私はかつて)第一次天孫降臨で素戔嗚命や饒速日命(大歳尊)ら物部氏が上陸したところではないかと考えたことがあった。因みに上八(元末の北方)には大歳神社があり、元の祭神は饒速日命(大歳尊)だったと思う。また、上記の高向にもかつて(高向)大歳神社(現依岳神社に移設)もあった。

8上八元末観音 かなり話が脱線したが、元末観音堂の左に裏山の「十三仏堂」に上る29段の石段がある。(※画像8)

 「十三仏堂」は前面開き木造トタン葺きで3~4段のブロック台(大正12年と平成17年に改修)の上に修行大師立像(石造)と十三仏石仏(建立時期不明)が並んでいる。

 その横に「吉田式部少輔之墓」と刻した墓石が一竿建っている。

 元末観音堂の掲示(多分2005年印刷)に「戦国武将塚(約700~800年前)大正12年改修」の記載があったが、この墓石がその「戦国武将塚」なのだろう。

 戦国時代の一時期、石見から長門、筑前の一部まで支配下に治めたことのある石見の豪族益田家の20代当主元祥(もとよし/1558~1640)の家臣に「吉田式部少輔」(よしだしきべしょうすけ/生没年不詳)の名が見えるが、上記の記述「約700~800年前」が正しければ、1200年代の人となるので年代的に合わない。
 因みに益田元祥は、毛利氏の重臣となり、その孫益田元堯(元祥の子景祥だとの説もあり)は、宗像大宮司氏貞の養子となっているが、宗像大宮司を継いでいない。なお、当地から近い承福寺の下方の御塔には宗像氏貞(1545~1586)の墓(次回掲載)がある。

 宗像地方では、代々宗像大宮司家に仕えた家臣(重臣)に吉田氏(例えば吉田氏重や、吉田次郎左衛門貞辰ほか)があり、宗像家にかかわった武将に吉田式部少輔なる人物がいたのかもしれない。
 しかるに、大正12年(1923)1月、吉田式部少輔の墓が当地に再建されたということは、当時、当地に係わるそれなりの伝承があったはずだと思うが、今回は未調。

 元末観音堂と承福寺との関わりは調べていないが、かつて承福寺に属した「慈眼菴 庵屋敷(アンヤシキ)観音堂」のことではないか。
 「庵屋敷」については、筑前國續風土記拾遺に「慈眼菴庵屋敷 本尊観音又地蔵堂あり」とある。また、同附録には「観音堂 アンヤシキ 慈眼菴と号す。承福寺に属す。境内に地蔵堂あり。これを水引の地蔵といふ。」とある。
 元末観音堂境内に「地蔵堂」はないが、「承福寺観音堂」に安置されている「地蔵菩薩坐像」がこの「水引の地蔵」はではないのか。元末観音堂の後方(北・東)には、水引の大きな農業用水貯水池がある。

 現在の元末観音堂は、平成4年に建て替えられたもので、同15~17年に狭かった参道は拡張舗装された。また、堂内には真新しい垂れ幕(平成17.4上八仙田美智子奉納)がかけられており、当地における観音、大日信仰が現代に受け継がれている様子が分かる。

 「元末バス停」への里道を引き返す途中から右に今門里道に至る農道があるが、今回は元末バス停から県道を通り次の「門前バス停」から今門里道に入ることにした。

※つづく→「宗像氏貞の墓(宗像市上八霊場巡り)」。

keitokuchin at 02:37|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2015年02月20日

田野本田野観音堂(宗像四国東部霊場第52番)

 前回「田野高向大日堂(宗像四国東部霊場第61番)」からつづく。

本田野観音堂 高向大日堂から県道502号(玄海田島福間線)に戻り右折し宗像大社(田島)方向に800mほど進むと右側に汐留自動車修理工場があり、その前を左折し小橋を渡る。
 そのまま里道(農道)を200m直進すると、樽見川にかかる本田野橋に至り、この橋を渡るとすぐ左側に本田野公民館がある。

 「宗像四国東部霊場第52番札所本田野観音堂(本尊十一面観世音菩薩)」は、この本田野公民館敷地内(向かって左側)にある。(宗像市向田野544)。

 本田野観音堂(木造瓦葺)は、昭和39(1964)年10月本田野区出身の嶺登氏(当時小倉在住)の篤志により再建されたとあるが、既に50年を経て各所に痛みが出ている。
 正面の濡れ縁が出入口で、引き戸を開けて室内に入ると、奥の壇上に本尊坐像石仏、三面石仏(三宝荒神か青面金剛か)が安置してある。

 因みに四国霊場第52番札所は「真言宗智山派 龍雲山護持院太山寺(本尊十一面観世音菩薩)」(愛媛県松山市太山寺町1730)である。

 なお、ここから樽見川右岸を遡ると池野地区(宗像市池田)に至るが、かつて田島・吉田から垂見峠に至る古代官道はここを通っていたかもしれないと考えたこともあったが定かでない。
 ※当古代官道については、別記「平信盛墓・蝙蝠塚・千疋原・津日駅等(宗像市池田)」及び「池田木原「東照院」阿弥陀堂へ(宗像市池田) 」参照。~注:(私は)垂見峠のことを時々「垂水峠」と書いているので「垂見峠」に訂正して読んでください。

 本田野観音堂からの帰路は、通って来た県道502号腺を引き返し、高向(信号機)三叉路→瀬戸(信号機)交差点(左折)→今回、田野地区霊場参拝の出発点とした玄海ロイヤルホテルに戻った。

※つづく→「上八〜鐘崎の霊場巡り:上八元末観音堂(宗像市)」。

keitokuchin at 01:09|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2015年02月19日

田野高向大日堂(宗像四国東部霊場第61番)

前回「神功皇后鎧塚と西ノ山観音堂(田野生元薬師堂) 宗像市」からつづく。

田野高向大日堂 西ノ山観音堂から里道を通り県道75号(若宮玄海線)に戻り左折、前述「厄除地蔵堂」前を通り数分歩くと高向三叉路(高向信号機あり)に至る。

 ここを左折し、県道502号(玄海田島福間線)を少し下ると右側に道路に面して高向公民館がある。


 宗像四国東部霊場第61番札所田野高向大日堂(本尊大日如来)」は、高向公民館の先の里道を右折し、三叉路の正面にある民家の右横(ブロック塀沿い)の路地(石段あり)の突当りにある。(高向公民館の左後方:宗像市高向903)。

 真新しい感じがする高向大日堂(木造瓦葺)は、平成3年3月再建で、石造の本尊大日如来坐像(石仏)と小大師座像と観音座像が安置されている。
 また、堂外(左側)には小石祠2基(石仏・石塔)、庚申天石碑1基もある。

 因みに四国霊場第61番札は、真言宗御室派栴檀山教王院香園寺(本尊大日如来) 愛媛県西条市小松町南川甲19である。

 ところで、当地区を通り信号機「高向」の表示を観るたびに、推古天皇17年(609年)小野妹子とともに隋に派遣されたという高向玄理の名が思い浮かぶ。
 高向玄理は、渡来系氏族(東漢氏説あり)で、高向の名は河内長野市高向(たこう)[旧河内国錦部郡高向村]に由来するというが、高向の地名は渡来系なのだろうか。
 また、高向玄理は、用明天皇(橘豊日天皇)の孫という高向王(たかむこのおおきみ)のことだという説もある。

 高向王は、天豊財重日足姫天皇(あめのとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと=宝皇女、宝女王、後の皇極天皇)との間に漢皇子を設けた。
 天豊財重日足姫天皇は、後に舒明天皇に嫁ぎ中大兄皇子(後の天智天皇)と大海人皇子(後の天武天皇)を生んだとされるが、実は漢皇子が中大兄皇子だったのではないかとする説もある。
 逆に大海人皇子を漢皇子だとする説もあるが、いずれにしろ、この故に中大兄皇子と大海人皇子の間で皇位を巡る確執が起き、壬申の乱の遠因となったとも考えられる。

 かつて九州王朝の存在を説くF氏から壬申の乱の舞台は宗像にあったと聞いたことがあり、高向の地名を見たり、宗像海人族を思わせる大海人皇子の名を見たりしていると、そうかもしれないと思い、古代ロマンの世界に引き込まれて行く。

 因みに現宗像大社宮司は高向正秀氏である。

※つづく→「田野本田野観音堂(宗像四国東部霊場第52番)」。

keitokuchin at 03:07|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2015年02月14日

神功皇后鎧塚と西ノ山観音堂(田野生元薬師堂) 宗像市

38田野生元 前回「田野生元の厄除地蔵堂(宗像市)」から続く。

 厄除地蔵堂から県道75号(若宮玄海)線を挟んで左前方に古墳状(低丘陵)の森が見えるが、この森が神功皇后の鎧塚埋納伝説のある塔の元・西山(西ノ山)の森か。(宗像市田野1023)。

 「塔の元といふ所に鎧塚とて有。神功皇后三韓より凱旋の時、甲冑を埋め給ひし處といひ傳ふれとも不詳。四方に樹木生繁りて、其中に高四五尺斗の石の塔立り。里民ハ祟有とて此森の中に入事なし」。(筑前國續風土記拾遺)

 宗像地方には、このほかにも神功皇后の甲冑等の埋納伝説地がある。
…〇梓擇茲螻旋時、薬師岳(福津市渡・大峰山の一峰)で弦のない弓と愛用の楯を神に供え楯崎神社(奥院薬師神社)を創建した。
 ⊃畦綵佇質阿(宮地嶽→)在自山麓(→神湊)を訪れたとき、愛用の劔(剣)を劔塚(福津市在自・剣塚古墳)に埋納した。

※参照→「薬師岳に登る[楯崎神社別記](福津市)
※参照→「神功皇后伝承(1)~鼓島・楯崎 [楯崎神社(11)]
※参照→「神功皇后伝承(2)~竹弓・京泊 [楯崎神社(12)]
※参照→「在自剣塚古墳と神功皇后の劔塚伝説など(福津市)

 この鎧塚も神功皇后甲冑埋納伝説の一つになるが、「神功皇后三韓より凱旋の時」については、凱旋後、神功皇后が当地田野地区に行ったかどうかが今一分からない。
 ひょっとしたら神功皇后に従軍した田野出身の将兵が帰還後、当地に甲冑を埋めたことが神功皇后の甲冑として伝わったのかもしれない。

 だが、神功皇后は、新羅出兵以前に(岡湊→)高倉神社(高津峰)→鐘崎と進んだとされるので、その途次、垂見峠(湯川山・孔大寺山)山麓にあたる当地田野を通過したことが考えられる。
 つまり、高津峰から地蔵峠(金山・孔大寺山)か垂見峠(孔大寺山・湯川山)を越えて田野地区に入り鐘崎に向かったのか。垂見峠の名は、神功皇后に随行していた「依網吾彦男垂見」に係わるとの説もある。
 このとき、この森で神功皇后が神に甲冑を供え戦勝祈願をしたことが、後に凱旋後の伝承にすり替わったのかもしれない。

 拾遺(上記)に「四方に樹木生繁りて…里民ハ祟有とて此森の中に入事なし」とあるが、今も樹木や竹林が生繁って不気味な静けさがある。
 森の中に入ると倒木なども目につくが、これらの倒木は、先の福岡県西方沖地震(下記)によるものか、まだそのすべてが整理し尽くされていないのだろう。

 なお、(私は)「厄除地蔵堂」から、この森に入った後に体調を壊してしまったので、ついついこの「祟有とて此森の中に入事なし」の言葉が妙にひっかかった。軽く考えて入ってはならない霊地の森なのだろう。

 「厄除地蔵堂」前から県道を横切ると、左斜めに幅1mほどの径(旧畦道か)が塔の元の森に向かって付いており、森の手前で狭い里道(舗装なし)と交差するが、そのまま森の中へと直進、少し道幅が広がり、坂を上ると広場がある。

 広場の左方に真新しいお堂(木造瓦葺)が建っており、このお堂が筑前國續風土記に「観音堂(ニシヤマ)観音・勢至・大日を安置す。ムカシハンニャジ(般若院といふ寺跡にて、其地を今ハトウノモトといふ。石一箇あり。)といふ所にあり。いつの時茲に移せしや。境内に鎧塚といふあり。」とある「西山観音堂」(以下「西ノ山観音堂」という)のことだと思う(※画像1)。

 ただ、拾遺(上記)に「塔の元といふ所に鎧塚とて有。…高四五尺斗の石の塔立り」とあるので混乱するが、ここでは深く詮索せず、ここを塔の元、西ノ山観音堂境内ということにしておく。また、「石の塔」「石一箇」とは、境内にある「一字一石塔」のことだろうか。

 「西ノ山観音堂」は、「宗像四国東部霊場第51番札所 田野生元薬師堂(本尊薬師如来)」とも称されているが、薬師如来像が安置されているのかどうかは分からない。
 因みに「四国霊場第51番札所」は、「熊野山虚空蔵院石手寺(真言宗豊山派)本尊薬師如来」(愛媛県松山市石手二丁目9番21号)である。

37田野生元 また、今、上ってきた坂道は、元は細い脇道で、本来の西ノ山観音堂の正参道ではなかったと思う。
 本来の正参道は、広場の右方、つまり観音堂からは正面方向の石段の下にあるが、今は繁茂した竹林のなかに埋もれている(※画像2)。
 この観音堂の建物が真新しいのは、平成17年(2005)3月20日AM10:53に起きた福岡県西方沖地震(最大震度6弱)で倒壊し、翌18年7月再建されたことによる。現在、観音開き扉は厳重に施錠されているので通常の入室はできない。

 なお、境内には、上記のほか、小石祠1基、9体の石仏(2体以外は風化が激しい)、手洗い石鉢1個がある。

※つづく→「田野高向大日堂(宗像四国東部霊場第61番)」。

keitokuchin at 19:25|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2015年02月13日

森麻季コンサートチケット購入

1 「森麻季ドラマチックコンサート〜白銀のソプラノ 荻野綾子の追憶に」のチケットを購入した。
 もっと早く入手したかったのだが、現在の体調に自信が持てず迷っていた。
 だが、S席の空席が残り少なくなっていると聞いて、慌てて…。
 公演日の3月1日までに、体調回復を祈念。
 体調不良は、TVでやっていた冬ばての症状にも似ているが、春はもうすぐ…今年の新春は2月19日…。拳を握る。

※3月1日(日)15:00、福岡シンフォニーホール、出演ソプラノ:森麻季、ピアノ:山岸茂人、進行と語り:沢田幸二、奥田智子(九州朝日放送)。第二部 追憶の踊り場 荻野綾子をしのぶ、上村京子、奥平 一、高木聡希、荻野元也。(※画像はそのチラシ)。

※参照→「坂の上の雲・主題歌「Stand Alone」〜森麻季さん」。
※参照→「森麻季さんの唄に感激(題名のない音楽会)」。

※つづく→「荻野綾子の追憶~ソプラノ森麻季コンサートにて」。

keitokuchin at 23:26|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2015年02月07日

福岡発地域ドラマ「ここにある幸せ」で「恋の浦」を観て

恋ケ浦 先月(2015.1.16)、福津市津屋崎を舞台にしたNHK福岡発地域ドラマ「ここにある幸せ」(松田翔太、宮本信子主演)を観た。

 そのなかで主人公が絶望の縁から立ち直り生きる気力を生み出す場所〜美しい海と海岸線を見渡せる場所〜があった。

 すぐにマテバシイの原生林が生い茂る楯崎神社奥の院参道の途中から観た恋ノ浦の風景だと思った。
 この参道は、薬師岳の東斜面(絶壁)の縁を通っており、確かに原生林の間から恋ノ浦の 美しい海と海岸線を見下ろすことができる場所があり、絶景である。今の言葉でいえばパワースポットとでもいうのだろう。

 これまで何か分からないものを求めて(目に見えぬ何かに誘われてか)、この参道を何年もかけて何度も歩いた。そのつど感慨は違ったが、究極のものを求めえぬままに現在、少し足が遠のいている。
 ドラマを観ていて、やはりここには何か目に見えぬパワーがあるのだろうとうなずいた。元気が戻ったら再訪してみたい。

※参考→「楯崎からの展望(恋ノ浦など)[楯崎神社(9)]」(上記画像複写)。

※ドラマ「ここにある幸せ」再放送→2015.3.8(日)PM10:00[BSプレミアム]。


keitokuchin at 02:21|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2015年02月06日

藤原里奈さん出演の「福岡恋愛白書3」(再放送)観た

藤原里奈9 先日(2015.1.24)、かつて藤原里奈さんが出演した「福岡恋愛白書パート3〜ふたつの Love Story〜#01ウイニングボールの行方」を観た。

 KBCの再放送(10周年特別企画)だが、発表時(2008.2.8)、藤原里奈さんが出演していたことを知らなかった。

 藤原里奈さんが「るり色の砂時計」7代目ナビゲータをしていた当時(2006/10〜2009/3)は、心のアイドルのように思えて欠かさず観ていただけに、福岡恋愛白書3を見落としたのがずっと心残りとなっていた。
 だが、これで何かしら帳面が消えたようで安堵した。
 るり色放送当時の愛くるしい感じの彼女が好きで、そのすべてをビデオに残していた知人もいたが、同感だ。

 ところで福岡恋愛白書3では失恋役だったが、昨年秋ついにゴールイン(結婚)されたとか。
 ※2014-12-5に読んだ「 藤原里奈(株式会社オリーブポップコーン、株式会社長崎の路地裏cafe代表取締役社長)ブログ」に、「11/30 ビルボード:Billboardで結婚パーティー開催」とある。
 今は、きっと活動的な美人社長さんだと思うが、その彼女を射止めた旦那さんもきっとすてきな人なのだろう。御多幸を祈ります。

※参照→「パロミータス社長〜やはり、るり色の藤原里奈さんだ」。


keitokuchin at 02:34|PermalinkComments(0)TrackBack(0)