2015年04月

2015年04月25日

江口大日堂・阿弥陀堂(宗像市浄光寺境内)

 前回「浄光寺参拝3〜浄土教描画など(宗像市江口)」からつづく。

 浄光寺(宗像市江口1330 )境内には宗像四国東部霊場札所のお堂が三か所堂ある。

 (1)「第42番札所 江口大日堂(本尊大日如来)

1浄光寺大日堂 「浄土宗浄光寺」の表札貼付の山門を入ると右側に二つ小堂(木造瓦葺)が並んでいるが、順に(右)「三界萬霊供養堂」と(左)「江口大日堂」である。(※画像1)

 このうち「三界萬霊供養堂」は札所ではないが、堂内の大きな坐像は法然上人の石像なのだろうか。その下に小石仏もある。

 第42番札所「江口大日堂」内には厨子(扉付)があり、そのなかに「本尊大日如来坐像」(陶器か)が安置されている。
 浄土宗寺院でも密教系の「大日如来」を祭るのかと思ったが、別のところから移されたものだろうか。
 筑前國續風土記附録に「(江口村)大日堂タカハマグチ」の記載がある。

(2)「第30番札所 江口阿弥陀堂(本尊阿弥陀如来)」と(3)「第30番番外札所 江口奥の院阿弥陀堂(本尊阿弥陀如来)

  この二つの札所をまとめた阿弥陀堂は、境内の本堂前(藤棚)より左方の別域にあり、ブロック塀に囲まれたなか建っている。(※画像2)

2浄光寺阿弥陀堂 平成24年5月に竣工した真新しいお堂(ブロック+木造瓦葺)だが、お堂にはなぜか「地蔵堂屋根修復 厨子建立」と「地蔵堂」と表記されている。

 お堂は二つに間仕切られ、その右側の仕切りには厨子(扉付)があり、厨子内には大師像が安置されているようだ。

 左側の仕切り内には、\仟ぐぬ鐶貿〕萠像(平成六年六月故児追善供養建立)と、∪仟ぢ膸婪疏(平成三年八月故人追善供養建立)の二体が安置されている。

 八十八か所霊場から考えると上記大師像は弘法大師となるが、浄光寺は浄土宗寺院なので違和感はある。
 また、浄土宗寺院で本堂以外に「阿弥陀堂」を建てるのかとはと思うが、追善供養の奉納阿弥陀如来像を安置するところと考えればよいのか。

3浄光寺89仏  だが、堂内には、上記阿弥陀如来像より古い阿弥陀如来像や、合わせて「地蔵堂」ともいうべき地蔵菩薩像も目につかなかった。

 しかるに、お堂の外周に、89体の小石仏がぎっしりと立ち並んでいるので、或はこのなかにそれら該当する仏像があるということなのだろうか。(※画像3)

 この小石仏群を観ていて、その数の多さに、ふと、やはり黒田家(黒田忠之=高樹院殿)と係わりが深かった三郎丸高樹山観音堂(80番札所)の境内に並んでいた小石仏群(150体余)を思い出した。

 因みに「四国霊場第42番札所」は、「(真言宗御室派)一カ山毘盧舎那院仏木寺(本尊大日如来)」(愛媛県宇和島市三間町則1683)である。
 また、「四国霊場第30番札所」は、「(真言宗豊山派)百々山東明院善楽寺(本尊阿弥陀如来)」(高知県高知市一宮しなね2-23-11)である。

※つづく→「江口の史跡霊場等まとめ(宗像市)」。

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2015年04月24日

「浄光寺」参拝(宗像市江口)

 前回「宗像四国東部霊場第11番不明は江口薬師堂か(宗像市)」からつづく。

1浄光寺藤 「浄光寺」(宗像市江口1330 )は、別名「ふじ寺」と言われ、その藤棚は、本堂の左手前から正面参道の上まで伸びている。

 したがって、山門(右側門柱に「浄土宗浄光寺」の表示あり)から境内に入り、正面の本堂に行くときは、必ず藤棚の下の参道を通ることになる。

 開花した藤の様は実に美麗壮観で、根株3本の藤の花が開花する4中下旬頃の開花季には、境内はその見学者で溢れる。
 ※参照→「(ふじ寺)浄光寺の藤(ふじ)の花を見学(宗像市)

 霊場行脚で、藤の開花時季を外して浄光寺に行ったとき、法事等があっていない限り境内で人に会うことも少なく静かで、ゆっくり参拝できる。
 本堂の戸が閉まっているときに、堂内の阿弥陀三尊(阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩)を拝観参拝するときは寺務所に申し出るが、境内にある三界萬霊供養堂や江口大日堂、阿弥陀堂等は自由に参拝できる(※次回記載)。

2浄光寺 浄光寺の説明によると浄光寺の創建時期は不明(1000年前説もあり)、宗派は浄土宗(京都総本山知恩院末寺)という。

 ただし、筑前國續風土記附録には、「(江口村)浄光寺 マチウチ 浄土宗鎮西派 清凉山と號す。寛永元年に開基す。那珂郡住吉村妙圓寺に属せり。」とある。

 つまり、浄光寺の開基は、黒田忠之が二代藩主となった翌寛永元年(1624)で、当時、黒田如水の妹・妙園の菩提寺「妙園寺」(現:福岡市博多区住吉2丁目17-17)に属したことが分かる。
 浄光寺が、上記「妙園寺」に属していたのであれば、当然、黒田藩政時代は、黒田家との係わりも深かったと考えられる。

 例えば、黒田家は「藤巴紋」を家紋の一としているので、浄光寺境内の「藤」は、まさにその関わりの深さを象徴しているようにも思える。
 黒田長政の筑前入国時、黒田如水は、「江口」に本拠を構え旧宗像家旧領、旧臣等への抑えとしたといわれるが、浄光寺境内は、その跡地なのだろうか。
 また、江口から上八にかけて広がる「さつき松原」のクロマツ植栽は、初代黒田長政の時代に始まったというが、当時、江口にいた黒田如水が、当地の農業振興上、塩害防止の必要性にいち早く気付いたからだったかもしれない。

※つづく→「浄光寺参拝2〜散花直後の藤の香(宗像市江口)」。

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2015年04月23日

宗像四国東部霊場第11番不明は「江口薬師堂」か(宗像市)

前回「さつき松原(宗像市上八〜江口)」<からつづく。

 上八(こうじょう)交差点から「さつき松原」を通り、福岡県道300号線(岡垣玄海線)の終点江口浦口(国道495号合流点)に向かって下ると、江口(こうぐち)一区集落に入る前で急に道幅が狭くなる。
 これより先の江口集落内は、改修で全体的に道幅が広がる以前の県道の面影をよく残している。いずれは鐘崎のように、集落内を通る道を避けた県道の付け替えが行われると思うが、今のところはそのままである。

1江口薬師堂 江口一区で、県道の右側(松原側)に民家が並び、左側に田畑(ビニールハウス等も)が広がる場所辺に「江口地蔵堂前」バス停(宗像コミュニティバス)がある。

 その前に小さなお堂(木造モルタル瓦葺)がある。
(※画像:宗像市江口1345付近)。

 このお堂を「江口地蔵堂」と称して「江口地蔵堂前」というバス停名が付いたのだと思うが、このお堂が、筑前國續風土記附録にある「地蔵堂キタマツバラ」に該当するものかどうかは分からない。

 だが、お堂内を覗き込んで観た限りでは、堂内に安置されているのは、「大乗妙典一字一石塔」上に坐像石仏が一体あるのみで、前掛けがかけてはあるが、像形は「地蔵菩薩」ではない。

 鴨居に掲げてある古い木札に「宗像四国東部霊場第(「一」か不明)番 江口村の出口 本尊阿弥陀如来」の文字が読めた。
 であれば、「江口地蔵堂」ではなく「江口阿弥陀堂」と言うことになるが、宗像ナビ荻野氏が作った「宗像四国霊場東部一覧表」には、このお堂についての記載はない。

 木札の札所番号は、一部消えているので正確には読めないものの、「一番」とは読めるので、仮に「第一番」とすれば、「第一番」は「三郎丸 正法寺境内 釈迦如来」なので該当しない。

 納得できず、本尊石仏に合掌した後、前掛けを少しめくりあげて像形を確かめたところ、この本尊は「阿弥陀如来」ではなく、「薬師如来」であると確信した。であれば、このお堂は「江口地蔵堂」でも「江口阿弥陀堂」でもなく、「江口薬師堂」というべきではないかと思った。

 その上で、多分、上記木札の「第」と「一番」の間にある空間に書いてあった「十」の文字が消えているのではないかと推測し、「四国霊場第十一番札所」を検索してみた。「四国霊場第11番札所」は、「(臨済宗妙心寺派)金剛山一乗院藤井寺」(徳島県吉野川市鴨島町飯尾1525)で「本尊薬師如来」であり、やはり「十一番」であれば本尊が符合する。

 つまり、ここは本来「宗像四国東部霊場第十一番札所 江口村の出口薬師堂 本尊薬師如来」(通称「江口薬師堂」)だったと思う。
 なお、上記荻野氏の一覧表には「第11番不明」となっており、ほかに11番に該当するお堂はない。

 地元の人たちから、「このお堂には(地区外の人は)誰もお参りに来ませんよ」と言われた。
 これは、上記で「第11番不明」とされたように、思わぬ間違い、見落としから、宗像四国東部霊場としての江口薬師堂の存在が忘れ去られたのだと思う。事実、このお堂は、春の「千人詣り」(宗像四国東部団体参拝)の順路表からも消えている。それ故に「誰もお参りに来ないお堂」と言われるようになったのではないか。それもまた淋しい。

 なお、上記「宗像四国東部団体参拝の順路表」に「江口3」とあるのは、浄光寺境内にある「42番江口大日堂、30番江口阿弥陀堂、30番奥の院江口番外阿弥陀堂」の3個所のことである。(※別記→「江口大日堂・阿弥陀堂」)

 この先、道の両側に民家が立ち並ぶ集落内に入り、「浄光寺→」の案内表示に従って左折すると「(ふじ寺)浄光寺」(江口二区)に至る。

※つづく→「浄光寺参拝(宗像市江口)」。

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2015年04月21日

さつき松原 (宗像市上八〜江口)

 前回「薬師川地蔵尊・ほ場整備記念碑(宗像市上八)」のなかで「近くに玄海さつき温泉(玄海ロイヤルホテル内)がある」と記したが、この温泉名は、この温泉が玄界灘「さつき松原」の東側にあるので付けられた名だと思う。

 実は、「薬師川地蔵尊」の後方(西側)一帯に広がっている森林(松林)も「さつき松原」の一部で、同地蔵尊の左後方につながる農道は「さつき松原」に至る。

1松林 「さつき松原」とは、「上八交差点」(上八信号機)付近から「釣川河口右岸」(北斗の水くみ海浜公園)辺り(宗像市江口)までの玄界灘の海岸線に面して伸びる約3.5km(面積約100ha)の「クロマツ林」(※画像1)で、(社)日本の松の緑を守る会の「全国白砂青松100選」に選ばれているという。

 (※さつき松原の説明で、延長5.5km、面積140 haと書いてある資料を見かけるが、小生には、実際のところはよく分からない)。

 「さつき松原」の「クロマツの数」は、少なくとも20万本、その大半は樹齢250年にはなるというから驚きだ。
 つまり、天文3年(1738)、福岡藩主六代黒田継高が、周辺内陸部の農地を潮風被害から守るため、砂防林・防風林としてクロマツの植栽を命じたらしく、大半は、それ以降に植樹されたものだと推察できる。
 
2自然保護 そして、「枝一本切れば腕一本切る」という戒律が厳重に守られてきたので、今日にみるような松原が残ったと聞いた。

 加えて、「クロマツ」は、下記のように松喰い虫の被害に遭いやすく、特に砂地のクロマツは放置しているとタブ林などに遷移するらしいので、松原の維持管理にあたっては、江戸時代は福岡藩、明治以降は今日に至るまで行政による保護施策が継続的に行われてきたと推測される。(※画像2)

 なお、「さつき松原」のクロマツ植樹の開始は、初代藩主黒田長政(1600年代)に遡るらしく、クロマツの寿命は、概して 200年〜300年というので,もしその頃のものが残っていれば樹齢400年以上で天然記念物となっているだろうが、そういう話は聞いていない。

 因みに「クロマツ」だが、ウィキペディアによると「日本原産。樹高30m程度の中型種。樹皮はアカマツよりも赤みの無い茶色。針葉は2葉でアカマツよりも太く長く硬い。沿岸部の防風・防砂のために江戸時代から植栽された記録が残る。アカマツに比べて耐塩生は高いという報告が多い。このため海岸のマツと言うイメージがある。マツ材線虫病(松喰い虫)には非常に弱く、アカマツ以上に弱いという報告が多い。特に砂浜のクロマツ林は白砂青松と呼ばれて景観として重視された。ただし、遷移の上では、砂地のクロマツ林は次第にタブ林などに置き換わるものと考えられている。クロマツ林は人為的管理によって維持されてきた面がある。」

 「上八交差点」から福岡県道300号線を海岸線に沿って下ると、県道は、江口一区集落北東部(江口村の出口)・さつき松原海水浴場入口辺りまでは、「さつき松原」の中を通っているので、車で通っても、クロマツ林の風情を味わうことができる。
 その先は、松原から離れ「江口集落」内を通り国道495号線に抜けるが、さらにその先に宗像大社「五月宮(皐月宮)」(神籬)が鎮座しているので、「さつき松原」の名は、この「五月(さつき)宮」によったものだと思う。
 なお、五月(さつき)宮の名は、かつて5月5日に大祭が行われていたことによるのだろう。

 以前記した「浄光寺(ふじ寺)境内の江口浦道標」(嘉永2年(1849)4月建立)に、「巡礼らしき人物像」刻絵や「江口浦庄屋辻野甚四郎・鐘崎浦庄屋刃根治右エ門建立」の刻名があるところから、この県道の江口(五月宮付近)〜上八交差点と、鐘崎本通り(旧道)〜鐘の岬(織幡神社)を結ぶ道は、かつて織幡宮(織幡神社)参詣道だったと思った。

3松林上八 延々と続く松林の間をほぼ直線的に作られた県道を歩くのは苦になるが、霊場参拝道だったのだと思えば苦にならなくなる。

 なお、上八地区の海岸に近い部分には、新苗が植えられているところもあり、若いクロマツが多いようで、松林の密集度が薄いところがあり、その隙間から松原の浜や海を見下ろすことができる(※画像3)。

4道路 県道300号線は、全線舗装されているが、特に上八交差点〜江口村の出口(江口一区の北東口)間は、道幅が拡張され、上下2車線道路+サイクリング道路(歩道兼用)が整備された。(※画像4).

 なお、「さつき松原」散策に車で出かけるときは、最近、拡張道路の途中に小駐車場が作られたが、「むなかた道の駅」裏の大駐車場に駐車した方がよいと思う。

 この県道は、普段は車の通行が少ないが、浄光寺(ふじ寺)の藤の花が開花する4月中下旬の休日は多い。
  特に浄光寺の藤の花見学者や三日月庵(うどん)で食事する人たちが、道幅が狭くなる江口集落内の路上に無断駐車して渋滞することもあり、住民にとっては甚だ迷惑なことだ。

6少年の家 さつき松原の浜(海岸線)に出るには、「さつき松原遊歩道の表示板」があるところや、「さつき松原海水浴場入口」「福岡県立少年自然の家の門前」「釣川東河口」などがある。

 (※画像5:福岡県立少年自然の家のプレートの後ろに見える砂山から浜に出れる)。
    

6海岸 さつき松原の浜から観る、弓なりにカーブした鐘の岬〜神湊(草崎)の海岸線や、海岸線に沿って連なる「さつき松原の松林」、その後ろに控える「湯川山」の眺望、加えて玄界灘の青い海上に浮かぶ「地島、大島、勝島の景観」も素晴らしく彩を添え、「全国白砂青松100選」に選ばれた理由も分かる。
(※画像6)

 浜辺には、「ハマヒルガオ」が群生し、5-6月頃には淡紅色の花が観られる。
7コウボウムギ また、5月頃開花する「コウボウムギ(弘法麦)」や6月頃白花が咲く「テリハノイバラ」などもいたるところで観られる。
(※画像7:コウボウムギ)

 小鳥のさえずりもさわやかに聞こえるが、大きな鳴き声を上げて我が物顔に上空を飛びまわる鷹の群れには、心が癒されない。

※つづく→「宗像四国東部霊場第11番・江口薬師堂(宗像市)」。

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2015年04月19日

「薬師川地蔵尊」・ほ場整備記念碑(宗像市上八)

前回「上八浜の上 阿弥陀堂(宗像市)」からつづく。

1薬師川地蔵堂 上八交差点(信号機)から福岡県道502号線に入り、門前バス停前から約150m(マルヨシ醤油の南端から70m)下ると、右(西)側の水田のなかに小水路に沿った農道(叢道)がある。
 ここを右折して農道を100m歩き、水路(左側)に架かる小橋を渡ると「薬師川地蔵堂」がある。


 「薬師川地蔵堂(薬師川地蔵尊)」のある区画は、周りの水田より高く、周囲に風景を遮るものがないので、県道からよく見える。

3薬師川地蔵堂 だが、「薬師川地蔵堂」の前に、大きな「ほ場整備竣工記念碑」と「同碑文」碑(1990年3月建立:下記)が(県道方向を向いて)建っているので、これらの石碑は県道からよく見えるが、「薬師川地蔵堂」そのものは、この二つの石碑の裏側に隠れてしまって、県道からは見えにくい。 


 現「薬師川地蔵堂」(木造柱トタン葺き吹き抜け)には、10体ほどの石仏(破損しているものが多い)が並べて置いてあるが、その中央の坐像石仏が「薬師川地蔵尊」なのだろう。

 薬師川地蔵尊の由来については、まったく知らないが、ここは、戦国末期の戦乱の時代を生きた最後の宗像大宮司氏貞の墓所や同菩提寺承福寺に近く、地蔵尊がそちらの方向を向いているので、或は宗像氏貞に係わるものなのだろうか。

 また、ついこの水路を薬師川と言うのだろうかと思い、その名から薬効ある清水や温泉水が流れる川を想像し、薬効の甲斐なく亡くなった人たちを供養するために川のほとりに地蔵尊が安置された、などと勝手な想像を巡らせていた。温泉水と書いたのは、近くに玄海さつき温泉(玄海ロイヤルホテル内)があるので、つい悪乗りしたまでのことだが、正しい由来が分れば訂正したい。

 (付記)「ほ場整備竣工記念碑」(着工昭和56年10月、竣工平成2年3月)。

2薬師川地蔵堂 「ほ場整備竣工記念碑」の大きさは、正確には測っていないが、幅4mX1m、高さ背丈以上の大きなものである。

 その横にある「碑文」碑には、「ほ場整備事業(岬地区土地改良総合整備事業)」の趣旨、概要、関係者名等が記されている。


 趣旨…「湯川山麓の狭い耕地である当地域は、今日まで大きな改修を施された形跡もなく、水稲栽培は全て溜池の水に依存し、また、水路も無きに等しい、れき質壌土の素掘りで湧水が多く、降雨の少ない年は常に干ばつが発生し、加えて農家の殆んどが兼業農家である。この悪条件を除去し、農業の近代化を図り、農業機械の使用を容易にするため、地権者の総意を結集しほ場の拡大集団化、農道の拡幅、用排水分離、客土、暗排等の工事を団体営ほ場整備事業で昭和五十六年より平成二年の十ヶ年に亘り、幾多の困難な問題を克服して遂行した。この伝統的郷土愛の至情を継承され、社会の進展におくれを取ることなく、農家繁栄のため後継者の諸氏が一致協力して豊かな村つくりに貢献されん事を願う、茲に工事の完成を記念して碑を建立した。
 平成二年三月吉日岬土地改良区」。

 概要…総事業費527,300,000円、組合員数82名、受益面積40.5ha、整地工40.5ha、道路工5,457m、用水路工8,404m、排水路工4,526m、客土工13.5ha、暗渠排水工16.3 ha。(※関係者名は割愛する)。

 住宅開発など都市化が進んだ宗像地方にあって、ほ場整備事業に多額の投入をし、郷土愛を以て断固として営農を後継者に継承して行くとの決意が伺え素晴らしい。

 今回の宗像市「上八〜鐘崎霊場巡り」の出発点だった「元末(もとうら)バス停」に戻り、今回の巡拝を終えた。
※上八〜鐘崎の霊場巡りのトップ→「上八元末観音堂(宗像市)」。

※つづく→「さつき松原 (宗像市上八〜江口)」。

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2015年04月09日

上八浜の上「阿弥陀堂」(宗像市)

 ※前回「上八の石鎚神社(宗像市)」からつづく。

 鐘崎本通りに戻り、上八(こうじょう)信号機方向に南下すると、途中に大きな三叉路がある。右(西)側が鐘崎港湾大通り口(「魚玄」あり)で、その手前の左(東)側にある脇道入口辺が鐘崎と上八の境界で、ここから南側は上八浜の上の通りとなる。
 ここから250mほど進むと、中原川に架かる小橋がある。

1上八浜の上阿弥陀堂 この橋を渡るとすぐ右に、ブロック塀に囲まれた区画がある。

 このなかに「上八浜の上阿弥陀堂」「上八浜の上阿弥陀堂」(ブロック造一部木造瓦葺)がある。(※画像:宗像市上八808)。
 ※上八信号機より100m手前(鐘崎寄り)。
 

 なお、この中原川とブロック塀の間にある細い道を、中原川左岸に沿って西に下るとすぐに上八浜河口に至る。この中原川は、源を湯川山の中腹に発し、中原集落の北側を流れ、「民宿しらいし・魚料理の店 達(だるま)」の南(下)で県道300号線を横切り、浜の上阿弥陀堂の横(北)を流れ、その後方の上八浜コンクリ岸壁を潜り抜けて玄界灘に流出している。
 上八浜から観る鐘の岬、地島、大島、神湊、そして、さつき松原等の景観も素晴らしい。 

 この阿弥陀堂は、「宗像四国東部霊場第44番札所上八浜の上阿弥陀堂」で、本尊阿弥陀如来坐像のほか、着色子育観音坐像、着色千手観世音菩薩立像、着色不動明王立像、阿弥陀如来坐像などの石仏が安置してある。

 このうち「阿弥陀如来坐像(石仏)」には「大正6年5月上八鐘崎屋中山友次郎建立」刻字がある。この刻字から当時、上八に「鐘崎屋」の屋号を持つ店(割烹か)があったと推察されるが、現存していないようだ。
 昔、鐘崎は上八の一部で、現代でも地区外の人には鐘崎と上八(浜の上)の境界が分かりにくく、上八貝塚を鐘崎貝塚というように、上八に鐘崎屋があってもおかしくはなかったのだろう。
 また、上八浜の上の集落内を散策していたとき、どこかで中山姓の表札を見たが、同家が上記中山友次郎氏と係わりあるのかどうかは分からない。

 堂前には、十三仏堂(十三仏)、庚申塔碑、無銘碑、手洗石鉢などがあり、このうち十三仏(石仏)を安置している「十三仏堂」(木造トタン葺)は、平成25年8月井上組(井上雅義氏)が改修工事を行い寄贈したものである。

 因みに四国霊場第44番札所は、真言宗豊山派「菅生山大覚院大寶寺(本尊十一面観世音菩薩)」(愛媛県浮穴郡久万高原町菅生1173)で、なぜか浜の上阿弥陀堂の本尊とは合っていない。

 この先の「上八信号機」から福岡県道502号線を下り、今回の宗像市上八〜鐘崎霊場巡りの出発点だった元末(もとうら)バス停を目指す。

 途中、門前バス停前を過ぎて150mくらい歩くと、右側の水田のなかに農道(雑草道)があるので、ここを右折して100mほど進むと、左側に「薬師川地蔵尊」がある。

※つづく→「薬師川地蔵尊・ほ場整備記念碑(宗像市上八)」。

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2015年04月08日

上八の「石槌神社(石鎚神社)」(宗像市)

※前回「鐘崎西町観音堂(宗像市)」からつづく。

 鐘崎西町観音堂(鐘崎本通り)の並び(北側2軒目)にある小林商店(塩干物取扱い)前から三叉路を東に岬診療所前を経て県道300号線に抜ける里道がある。岬診療所の先にある「ケアハウス岬」入口前を左折ると、突当るT字路の正面に倉庫(シャッターあり)らしき建物(※宗像市上八426)がある。

1鐘崎石鎚神社  その後ろに桜の木3本が見えるが、その後方に「上八(こうじょう)の石槌神社」(石鎚神社)がある(※画像)。
 通常、四国「石鎚神社」の御分霊であれば「石鎚神社」と書くべきかと思うが、ここにある木鳥居の額束に「石槌神社」と揮筆してあるので、以下両社名を使い分けしながら記す。
 
 ここを宗像市鐘崎と上八の境界線が通っており、即ち、ケアハウス岬入口前―T字路の倉庫左(西:溝あり)―上八の石槌神社鳥居前と、その左後方にある段差を結ぶ線を境にして左(西)側が鐘崎、右(東)側が上八である。

 T字路の倉庫から「上八の石槌神社」に行くには、倉庫の左側の溝を挟んで建っている鐘崎側の物置小屋(?)の敷地(花壇などあり)内を通り抜けて木製階段を下る。
 或は、岬診療所前から北に走る里道沿い(東側)の住宅(鐘崎528-17付近)の横の細い路地(参道か)を通って行くしかない。
 この路地の先にある金網扉を開け(右に上記木製階段あり)、溝上の橋を渡ると(ここから上八)、正面に木鳥居が立っており、額束に「石槌神社」と書いてある。このように鐘崎側からしか神社に行く道がないので「鐘崎の石槌神社」と言った方が分かりやすいかもしれない。

 同上木鳥居の右側に小石祠があり、そのなかには、2体の小石仏 (地蔵菩薩立像と同坐像か)が置いてある。

木鳥居の先は、積み石上ブロック塀で囲まれた区画で、3段の石段を上り区画内に入ると、奥の中央部に石碑(無銘墓碑か、舟つなぎ石か、中央部にあるので何か重要なものかもしれない)があり、その両サイドに五つの小祠(木造、ブロック、陶器など)が並んで置いてあり、右端に白梅が植えてある。

 なお、上記の3本の桜は、右側の塀の外にある。

 並んでいる「小社祠」のうち、左側のもの(木造、ブロック土台)が「上八の石槌神社社祠」だと思うが、ほかの祠が何かは、まったく分からない(貴船社などか?)。
 なお、ここからの風光は、後方に建物がまったくなく、県道の先の樹林の緑(「上八平原村中 釈迦堂」からの出口もあり)や後背の湯川山稜も見渡すことができて明媚である。

 宗像市内には、このほかに多礼丘陵上に鎮座する「多礼の石鎚神社」(※下記参照)があるので、同社と「上八の石槌神社」は、或は係わりがあるのかもしれないと思ったが確認していない。
 ※参照→「多礼の石鎚神社(1)
    →「多礼の石鎚神社(2)

 「上八の石槌神社」が当初祭られた時期は分からないが、いずれにしろ同社は、日本七霊山の一「石鎚山」(愛媛県西条市)に鎮座する「石鎚神社」(祭神石鎚毘古命)の御分霊を祭ったものには違いなく、当地に石鎚山や石鎚山修験に係わる信仰があったと考えられ、その信仰が現在に引き継がれていると推測する。

 因みに、「石鎚山」は、1300年前に修験道開祖役小角が開山し、石槌蔵王権現信仰があり、常住社(今の石槌神社中之宮、成就社)、別当の前神寺・横峰寺のもとで神仏習合の修験道場として繁栄したが、明治維新政府の愚鈍な神仏分離や修験道廃止令により、廃社廃寺に追い込まれた。
 その後(明治年間に)、石槌山を御神体山とする「石鎚神社」(頂上社・中之宮・成就社・土小屋遥拝殿:御祭神石鎚毘古命、御神徳玉持・鏡持・剣持神像)ができ、分離独立した真言宗石派総本山「石鈇山金色院前神寺」(本尊阿弥陀如来:四国霊場第64番札所)、真言宗御室派「石鈇山福智院横峰寺」(本尊大日如来:四国霊場第60番札所)が復興され現在に至っている。

※つづく→「上八浜の上阿弥陀堂(宗像市)」。

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2015年04月07日

鐘崎西町観音堂(宗像市)

 ※前回「泉福寺の不動堂(観音堂)へ(宗像市鐘崎)」からつづく。

 今回の「上八~鐘崎霊場巡り」では、前々回の「ダ渉の恵比須神社」から、同社横の坂道を上り鐘崎西町本通り(石碑あり)を左折すると左側(西側)にある「鐘崎西町観音堂」に行った。 (※画像:鐘崎611付近)。

1鐘崎西町観音堂 鐘崎西町観音堂の間口は、畳の縦幅くらいで狭いが、土間の上に一畳の拝殿、半畳の祭壇があり、拝殿に座って拝むことができる。

 また、その後ろに一列5畳張りの堂守部屋もあり、木造モルタル瓦葺の細長い構造となっている。
(昭和62年8月新築)。


 ここは、「宗像四国東部霊場第79番札所 鐘崎西町観音堂(本尊十一面観世音菩薩)」となっているが、堂内には「十一面観世音菩薩」らしき仏像はなく、安置石仏は、塗料着色の薬師如来立像と弘法大師坐像2体と着色小仏である。塗料着色を施した石仏は、何かしらどきつい感じがする。

 因みに「四国霊場第79番札所」は「(真言宗御室派)金華山高照院天皇寺(本尊十一面観世音菩薩)」である

※つづく→「上八の石鎚神社(宗像市)」。

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2015年04月06日

泉福寺の不動堂(観音堂)へ(宗像市鐘崎)

 ※前回「鐘崎の恵比須神社巡り (宗像市)」からつづく。

1泉福寺不動堂 今回の「上八~鐘崎霊場巡り」の順路からいうと、前回の「∪藺綫遒侶暖羶椰声辧廚ら「K鳴の恵比須神社」に行く前に、宗像漁業協同組合鐘崎支所とENEOSスタンドの間の里道を上り、左側にある「泉福寺の不動堂(観音堂)」を参拝しておいた方がよい。
(※画像:鐘崎470-1)


 泉福寺については、以前、下記3件の記事を載せたので、今回、そのとき記していなかった境内「不動堂」(観音堂)を追記する。
 ※参照→「鐘崎泉福寺の榎のパワー
    →「鐘崎泉福寺の鬼瓦のパワー
    →「鐘崎泉福寺の浄土三部塔

 泉福寺で、「宗像四国東部霊場第54番札所 鐘崎西不動堂(本尊不動明王)」の場所を尋ねたら、庫裡玄関の前にあるお堂(木造瓦葺)がそれで、「今、錠を開けた」と言われたので、お堂の格子戸を開けて堂内を観た。
 なお、格子戸を開けるとき引き戸と思ったら「観音開き戸」だったので、少しびっくりした。

 堂内には「本尊不動明王」が安置してあるものと思っていたが、目に入ったのは三十三観音坐像や地蔵菩薩立像だった。
 確かに、3体の小さな不動明王像が置いてはあったが、これらは、雑然と並べられている納仏群のなかに含まれる小像で、本尊といえるものではない。

 泉福寺は西山浄土宗ではあるが、お堂内には弘法大師坐像もあり、多分、四国霊場第54番札所(真言宗豊山派)近見山宝鐘院延命寺「本尊不動明王」(愛媛県今治市阿方甲636)と札所番号を重ねたことにより宗像四国東部霊場と言った場合は、ここが「不動堂」となるのだと思う。
 ただし、宗像四国東部霊場札所を示す表札はどこにも貼ってなかった。

 したがって、実際は「不動堂」というよりは、三十三観音像を祭る「観音堂」であり、泉福寺HPにも「観音堂」(2006年12月修復)とある。

 本来「三十三観音」は、法華経普門品第二十五にいう三十三応現身像をいうもので、この三十三種の応現身像に〇〇観音像などという名称など出てこないが、この観音堂のように名称を付けて祭られることもある。
 因みに、この三十三観音像の名称は、楊柳・龍頭・持経・円光・遊戯・白衣・蓮臥・滝見・施薬・魚籃・徳王・水月・一葉・青頚・威徳・延命・衆宝・岩戸・能静・阿耨・阿摩提・葉衣・瑠璃・多羅尊・蛤蜊・六時・普悲・馬郎婦・合掌・一如・不二・持蓮・灑水というが、もとよりその区別を知るものではない。

※つづく→「鐘崎西町観音堂(宗像市)」。

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2015年04月05日

鐘崎の「恵比須神社」巡り (宗像市)

 前回「織幡神社へ (宗像市鐘崎)」からつづく。

 鐘崎に鎮座している「恵比須神社」は、承知しているだけでも5社あり、漁港、漁師町の風情を醸している。
まずは、この鐘崎の恵比須神社5社の鎮座地を覚えとして記しておく。

  織幡神社境内社の恵比須神社(※画像1:宗像市鐘崎224)。

1織幡恵比須社 織幡神社の外郭(一の鳥居の左側)にあり、社祠は鐘崎港方向(南)を向き鎮座している。或は、鐘崎港にある以下の恵比須神社の元宮なのかもしれない。
 この恵比須神社は、筑前國續風土記附録及び拾遺に記載されている「織幡神社」の境内社「夷社」のことだと思う。現表記となったのは、明治以降のことか。

 ◆千代川の恵比須神社(※画像2:鐘崎778-5)。

2千代川恵比須 鐘崎港の中ほど、鐘崎港湾大通り(以下「港湾道」と書く)の東側に建つ鐘崎漁具倉庫の南隅(三叉路角地)にある。

 社祠は、鐘崎港(西)を向いて路面上に建っており、ここから港湾道を挟んで右前方に停泊中の多くの漁船を望むことができる。


 左前方の建物は鐘崎漁協冷凍冷蔵庫、鐘の岬活魚センターで、左(南)側の道路を挟んで「宗像漁業協同組合」がある。
 なお、鐘の岬活魚センターでは魚介類の小売販売をしており、客のトイレ借用もできる。

  北町の恵比須神社(※画像3:鐘崎775)。

3北町恵比須 港湾道沿い西側・「ENEOSスタンド」(宗像漁業協同組合の南側)の真後ろ(東側)の路地を(南に)道なりに進み千代川(小水路)を渡るとすぐ左側にある。

 えびすさま(着色石像)を置く社祠は、鐘崎港・千代川溜まり(西)を向いて建てられたが、前面に倉庫が建ち、その視界が遮られた。

 この路地沿い(西側)に「北町公民館」があるが、その先は右折して港湾道に出る。

 ぁ中町の恵比須神社(※画像4:鐘崎664)。

4中町恵比寿 岬地区コミュニティ・センター(港湾道沿い西側)前の「中町公民館」(港湾道東側)の後ろの路地入口(右後方)にある。

 社祠は、鐘崎港(西)を向いて建っており、右前方に港内の漁船が見えるが、逆に同方向(港湾道)から社祠が見える。


 なお、岬地区コミュニティ・センター(旧宗像市民俗資料館)では、受付に申し出て灯台型展望台に上ると、鐘崎港及び周辺の海域の景色を見渡すことができ、また1Fトイレの借用もできる。

 ァ西町の恵比須神社(※画像5:鐘崎590)。

5西町恵比寿 上記ち阿力地をそのまま南に進むと、T字に突き当たる手前の左側にある。

 社祠は、港(西)を向いて建ってはいるが、今は、社祠前の港湾道に倉庫群が建ち並び、その裏通り(路地)になっており、ここから港(岬地区コミュニティ・センター)を望むことはできない。

 「えびす神社の社名表記」には、夷、戎、蛭子、胡子神社など様々あるが、上記五社には、それぞれ額束に「恵比須神社」と書いた木の鳥居が立っており、すべて「恵比須神社」。ひょっとしたら以下は、,諒社なのかもしれない。

 また、「えびす神社の祭神」には、「えびすさま」のほかに、蛭子(ひるこ)や事代主命とする神社もあるが、上記5社はすべて「えびすさま」だろう。
 つまり、鐘崎港は宗像七浦の一に数えられトラフグの漁獲量日本一でも知られる漁港であり、5社のいずれもが鐘崎港を向いて建てられているので、漁業神たる「えびすさま」を祭神したと思われる。ただし、現在のとイ猟炭唾呂らは、前面に倉庫などが建ち港の眺望ができなくなった。

 「えびすさま」は、福顔(えびす顔)をして釣竿とを持つ(めでたい)お姿から大漁をもたらす漁業神、そして、冨や福運を授けてくれる福神としてイメージされ、一般でも「七福神の一」として「大黒様」と並んで人気が高い。

※つづく→「泉福寺の不動堂(観音堂)へ(宗像市鐘崎)」。

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