2015年06月

2015年06月28日

平等寺白鬚神社の神霊:追記1「お汐井取り」(宗像市)

 前回「平等寺白鬚神社の神霊(2)」からつづく。
 本稿は、以前(2009.8.21~22)記載した「平等寺白鬚神社の神霊(1)・(2)」と一部重複する部分もあるが追記とする。

 平等寺白鬚神社の年中行事を記した「伝承行事を守り続ける平等寺<白鬚神社にまつわる見聞記>(2014.5宗像市老人クラブ連合会)」(以下「D書」という)を読んでいて、改めて次のようなことに気付かされた。

 (1) 前回記載しなかった拝殿の左手前に置いてある窪みのある長方形(石造)の「汐井台」(明治九年吉田岩五郎寄進「御願成就」)は、年3回(6月田植え期、7月祇園籠り、10月宮座前)、白鬚神社で集落・家内安全、無病息災等を祈願して行われる「お汐井取り」のときに、早朝5時頃、勝浦浜の岩場(神湊の西)で採取した真砂、海藻(ワカメ、ヒジキ)を納める台で、なお、そのとき取水した海水は竹筒3本(宮座のときは6本)に入れて運ぶという。

 「お汐井取り」というと、すぐに7月の博多祇園山笠が始まる前に箱崎浜で行われる清めの神事が思い浮かぶが、平等寺白鬚神社では7月の「祇園籠り」以外にも2回勝浦浜の岩場で行っているということだ。
 なお「祇園籠り」は白鬚神社の祭神の一「須佐之男神(祇園神)」に集落の疫病除けを祈念する行事だと思う。

 なぜ勝浦浜の岩場なのかは分からないが、宮座の神事は勝浦浜の「年毛(としも)神社」(福津市勝浦943)の永島淑子宮司と神官が執行されるというので、平等寺と勝浦浜との間にはかつて何らかつながりがあったのかもしれない。
 因みに「白鬚神社」の主神は「猿田彦大神」だが、「年毛神社」でも祭神の一「塩竃大明神(シオツチノオジ)」を「猿田彦大神」として祭神している。
 年毛神社の塩竃大明神(猿田彦大神)は、江戸時代中期に開発された「勝浦塩田」との係わりも推察され、塩(汐)と係わることは確かで、そうしてみると白鬚神社の「お汐井取り」も塩(汐)と係わる。
 なお、上記「D書」には、平等寺と勝浦浜との係わりに関することは何も記されておらず、疑問として残った。
 
 ※参照→「旧勝浦塩田の製塩神・年毛神社(5)」。

 (2) 神前に御供(ご飯)を供え拝殿で行う「お籠り」は、年4回(上記「7月祇園籠り」のほかに5月弥勒籠り、6月(田)植え上がり籠り、8月風止め籠り)あるといい、集落あげて産土神を敬い農耕の安泰を祈願する村落共同体の姿が息づいている。ただし、近年、非農家戸数が増えてきており、行事継続に係わる悩みもあるらしい。

 (付記1) 「D書」で祭事を行う年毛神社:永島淑子宮司の写真を観ていて、以前この宮司さんに「照月庵」(福津市勝浦996)の場所を尋ねて教えていただいたことを思い出した。

 (付記2) 宗像市平等寺地区(※大谷、泉ヶ丘地区は平等寺から分離)は、三郎丸〜山田地区の間に位置し、平等寺「白鬚神社」が鎮座する「下山」の杜は福岡県道75号線の西側に接し、県道から神田(二段)を挟んで白鬚神社石鳥居(昭和三年十一月御大典記念建立/明神鳥居)が見える。付近に駐車場はない。

 ウォーキングで、平等寺「白鬚神社」には、これまで次の各コースで足を伸ばした。

  尾降神社」(三郎丸)から旧鐘崎街道(県道横断)→平等寺瀬戸古墳1号墳前からそのまま農道を西進。
 (※旧鐘崎街道=尾降神社下の三叉路を直進して下り、県道<信号機なし>を横切り、泉ヶ丘丘陵に入る<この地点は車進入不可>:泉ヶ丘1丁目の北陵道を西進すると平等寺瀬戸古墳1号墳前に下る)。

 ◆山田地蔵尊/増福院」(山田)から県道経由で。
 (※門番小屋から脇道を東に下り(左:山田事件の旧河原山御殿)、山田川を渡り水神社前を右折、その先左折、県道291号右折、山田信号の手前左折、その先右折、県道75号左折)。

 「福足神社」(須恵)からバイパス(くりえいと北信号機・希望ヶ丘入口バス停)経由で。
 (※なお、早朝に勝浦浜の岩場で行う白鬚神社のお汐井取りの神事は、早朝に湯川~大灘海岸の岩場<福足神社祭神御上陸霊地>で行う福足神社の石かたげの神事にも似ているようにも思える。
 因みに、「D書」に平等寺の住人の約8割は、須恵の浄土宗「来迎寺」を菩提寺としているとあるが、平等寺との係わりがある寺である。
 ※別記参照→「宗像四国東部霊場・須恵のお堂(3)〜第68番「来迎寺」阿彌陀如来(宗像市)」。

 JR赤間駅〜「生目八幡宮・船頭寺観音堂」(土穴)からくりえいと北信号・希望ヶ丘入口バス停経由で。

 ゥ灰潺絅縫謄バス…河東地区左回り平等寺・横山循環(赤間駅北口⇔平等寺公民館)3便。

 ※つづく→「平等寺白鬚神社の神霊:追記2「神功皇后絵馬」(宗像市)」。

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2015年06月17日

鎮国寺境内の「武丸正助像」(宗像市吉田)

 前回「鎮国寺お大師堂・薬師如来など(宗像市吉田)」からつづく。

1鎮国寺武丸正助石像 (1) 鎮国寺境内「一休庵」の横に「武丸正助さんの石像」がある。(※画像)

 武丸正助(1671~1757)は、江戸前中期頃の宗像武丸の農民で、道徳生活を遵守した真摯な他力本願念仏の実践者で、浄土真宗で「妙好人(みょうこうにん)」(在俗篤信者)と称された。

 その武丸正助石像が真言宗の鎮国寺境内にあることには、ちょっとだけ違和感があったが、石像の前に建っている碑文には次のように刻されている。

 「宗像市武丸に寛文十一年(1671)に生まれる。勤勉実直の人で、両親をいたわり、上を敬い、近隣と親しみ、生類にまであわれみをかけるなど篤行の数々は広く世に知られた、像のは、牛馬への愛情から自らかつぎゲタゾウリは、雨を予想すると晴れると思うの言い分を聞き、片方ずつはいた姿」(表面)
 「平成八年十二月吉日奉納 小郡市如意輪寺原口元秀 八幡西区越智晃道 現住祐道代」(裏面)

 奉納者の一人は、如意輪寺(福岡県小郡市横堀)原田元秀住職で、如意輪寺の宗派は、鎮国寺と同じ真言宗御室派である。越智晃道氏は、真言宗の得度者か。奉納者と武丸正助との係わりは分からないが、揮毫は鎮国寺祐道住職である。

 鎮国寺も五仏堂(本堂)に阿弥陀如来像(許斐権現の本地仏)を安置しているように、真言宗の寺院では、仏図金剛界曼荼羅により阿弥陀如来も祭り、念仏も唱えるので、念仏三昧で阿弥陀如来に帰依し徳行を積んだ武丸正助を讃えることは構わないのだろう。

 宗像市では、武丸の「正助廟」(孝子正助墓所)の隣接地に「正助ふるさと村」を設け、武丸正助に「さん」付けをして、ふるさと振興の一つの目玉にもしているので、宗像市で武丸正助を称賛することに宗派の壁などないということだろう。
 ただ、その割には、例えば上記の石像の意味する内容を含む武丸正助の数々の徳行逸話の内容が現代人には溶け込まぬ部分もあるのか、武丸正助に対する一般の認識度は低い気がする。ここで石像を観た人たちによって、少しでも武丸正助についての周知を念じたいものだ。

 ※参照→「正助廟にて(宗像市武丸土師上)
  →「藤原山浄蓮寺へ(4) 大屋根と妙好人武丸正助(宗像市冨士原)
  →「武丸正助絵馬など(宗像市光蓮寺にて)

 (2) 鎮国寺境内外(吉田地区)には、まだまだ奥の院不動堂(岩窟)、洗心公園、伊麻神社旧社地、伊麻神社、津志八幡神社などの霊場もあるが、今回の多禮地区霊場巡りからは除く(※下記参照)。
 ※参照→「宗像大社・鎮国寺参拝〜黄エビネの開花」。
 →「伊摩神社の旧社地にて」。
 →「伊摩神社・宮座祭の記事を読んで」。
 →「伊摩神社・煩悩越えの石段」。
 →「津志八幡神社」。

 この後「川端橋」(釣川)を渡り宗像大社(出発点)に戻り解散した。
 ※多禮地区霊場巡りトップ→「指來神社(多禮)と宗像大社・英彦山」。
 (本項おわり) 

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2015年06月13日

鎮国寺お大師堂・薬師如来など(宗像市吉田)

 前回「大障子城(津瀬城)址(宗像市多禮)」からつづく。

 今回の多禮(多礼)地区の霊場walking courseには、多禮外(宗像市吉田966)の鎮国寺大師堂:74番・同番外薬師如来参拝を組み込んでいた。

 (1) 多禮瀧の口瀑布(津瀬の滝)から流水口の釣川水門前まで農道を引き返し釣川右岸築堤道(車道・自転車道半々で狭い)を右折、北(川端橋方向)に700mほど歩くと、釣川(左)を仕切る「川端井堰」(宗像市深田15-1)がある。

 ここを右折し小橋を渡り、そのまま直進して前方路地に入り、正面の「鎮国寺山門」をくぐり、「別格本山鎮國寺」の石碑から急な石段を上ると境内伽藍広場に至る。

IMG_2029 「別格本山鎮國寺」とは、真言宗御室派総本山大内山仁和寺(京都)と並ぶ「別格本山屏風山鎮国寺」ということである。 

 なお、4月には同石碑の上の石段両側の斜面に咲くつつじの花の彩を楽しめる。
(※参照→「宗像大社・鎮国寺参拝2〜ツツジ満開」)。

 (※「鎮國寺」は、現在「鎮国寺」と記すが、ここでは使い分ける)。

 (2) 鎮国寺は「九州西国観音霊場第三十一番札所、九州八十八ヶ所霊場第八十八番結願所、九州三十六不動霊場第三十四番札所、九州三十三観音(ぼけ封じ)霊場第一番札所」となっている(※「鎮国寺HP」による)。

 だが、このほかに「宗像四国東部霊場第74番札所(本尊薬師如来)」「宗像四国東部霊場第74番番外札所(本尊薬師如来)」もある。
 なお、鎮国寺境内の薬師如来像は、境内奥の池(泉)の前に建つ「五仏堂(本堂)」(左)と「お大師堂」(正面)に安置されている。

 (3) 神仏分離以前の鎮国寺は、本地垂迹説による宗像大社の神宮寺だったのか、「五仏堂」(本堂)は、その名のとおり旧宗像五社(宗像大社三社、鐘崎の織幡神社許斐山の熊野神社)祭神(下記)の本地五仏を安置した本堂である。
 五仏のうちの「薬師如来坐像」は、鎮国寺本尊の一で「宗像大社辺津宮・市杵島姫神の本地仏」と言われている。
 
 因みに、ほかの四仏(坐像)は、大日如来(宗像大社沖津宮・田心姫神本地仏)、釈迦如来(宗像大社中津宮・湍津姫神本地仏)、如意輪観世音菩薩(織幡明神本地仏)、阿弥陀如来(許斐権現の本地仏)である。

 (4) 「お大師堂」は、文字どおり真言宗開祖弘法大師空海をお祭りするお堂で、鎮国寺では最もお参りする人たちの多いスポットで、いつ行っても参拝者が供える灯明の灯りや線香の香が立ち込めている。

2鎮国寺大師堂と紅梅 特にお大師堂の前庭にある紅梅が開花する2月下旬〜3月上旬頃には、この梅の観賞を兼ねてお参りに行く人たちも多い。
(※画像2)。

 堂内須弥壇の中央にお大師さま弘法大師像、右に木食上人像(※下記)、左に薬師如来坐像が安置してある。

 この「薬師如来坐像」が「宗像四国東部霊場第74番番外札所本尊薬師如来」となるのだろう。

 (5) 上記の「木食上人像」だが、筑前國續風土記附録に「〇華藏院 鎮國寺に属せり。方一間の瓦屋あり。中興木食上人精算か銅像を安置せり。精算入定のこと本篇に詳なり。」とある。
 その本篇には「近きころ花藏院に、右にいひし昌傳か弟精算と云僧住せり。始は高野山に住せしか、此國に來りて住する事、四十年に及へり。然るに貞享元年三月廿一日より五穀を絶て木食し、同四年三月十五日より斷食し、廿一日に年六拾七にて入定して死す。希世の事なれは、四方より來り見る者多かりしとかや。即花藏院の後なる山上に葬る。」とある。
(※昌傳:下記。貞享元年:1684年)
 
 華藏院(=花藏院)鎮國寺子院(坊)で、同院廃止(明治期か)後に木食上人像を鎮國寺に移したということか、お大師堂の各尊像は華藏院にあったものなのだろうか。

 (6) なお、鎮國寺には、かつて子院が六區(實相院、華藏院、妙勧院、園塔院、山之坊、般若院)あったが、永禄10年(1567)10月25日大友勢が宗像郡内を乱妨したとき、華藏院を除く子院は焼失した。
 このとき、五仏堂も焼失、五仏は信徒がその前の池(泉)に投げ入れ焼失を免れたが、宗像氏(氏貞)断絶後、鎮國寺は無住寺となり、山伏(修験者)が住して護摩供養を続けた。慶安3年(1650)高野山廻向院の僧「昌傳」が下り、藩主黒田忠之に請願し復興した。(筑前國續風土記拾遺参考)

3鎮国寺不動堂-五社堂 (7) 鎮国寺には、次のような開創縁起(伝承)があり、弘法大師と縁を結べる「西の高野」とも言われているが、現在の宗派は、上記のように(真言宗十八本山の一)真言宗御室派(総本山仁和寺)で、高野山真言宗(総本山金剛峯寺)ではなく、また、高野山にあるような子院堂宇は現存していない。

 弘法大師は、入唐途次、大暴風雨に遭い遣唐使船が荒波に呑まれそうになったとき、海の守護神宗像大神ほかの諸仏菩薩に祈ったら、波間に示現した不動明王が右手に持った般若の利剣で荒波を振り切り大暴風雨を納めた。(※所謂「波切不動」霊験)。
 大同元年(806)帰国後、この霊験に感謝して宗像大神(宗像大社辺津宮)に礼参したとき、対岸の屏風山に棚引く瑞雲を観て、屏風山に登り奥の院岩窟で修法し「この霊地は鎮護国家の根本道場」と感得し屏風山鎮国寺を建立した。
 現在、護摩堂に安置されている秘仏不動明王は、弘法大師が上記の御蔭霊験を伝えるべく勤刻したものだといい、毎年4月28日に秘仏御開帳柴灯大護摩供を執行している。
 また、弘法大師は、宗像三神の本地仏として大日如来、釈迦如来、薬師如来の三尊(上記(3))を刻み本尊とした。なお、阿弥陀如来は定朝作、如意輪観音は伝教大師奉安という。

※つづく→「鎮国寺境内の武丸正助像(宗像市吉田)」。

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2015年06月09日

大障子城(津瀬城)址(宗像市多禮)

 前回「多禮瀧ノ口観音堂(宗像市)」からつづく。

1大障子城址 前述した多禮瀧の口瀑布(津瀬の滝)入口から農道をそのまま上ると、津瀬池(滝の口池/下段)築堤の左に行き当たり、ここを左に七曲り、さらに津瀬山丘陵の山間を這うようにくねくねと曲がりながら上り、山頂から尾根伝いに池方向に戻るように進むと池の上方にある上段の池付近に達する。

 ※画像1〜対岸(釣川左岸)から見た津瀬山丘陵(大障子城址)。

 (1) 津瀬山は、瀧の口瀑布〜津瀬(滝の口)池の谷から北部の鎮国寺(宗像市吉田)にかけて伸びる低丘陵一帯の総称で、戦国時代に「大障子城」(「津瀬城」ともいう)があった。
 津瀬山は、その真西に釣川を挟んで鎮座する宗像大社辺津宮、及びその南にあった宗像大宮司家居城の「片脇城」(宗像市田島興聖寺の裏山)を見渡せる位置にあったので、この津瀬山にあった「大障子城」は、宗像氏の本拠地を護衛する重要な東の守りであった。
 なお、「津瀬」の地名は、釣川(入り海)の津瀬があったことから付いたもので、戦国期の田禮村は、津瀬村と言っていたと思われ、津瀬池、津瀬山などの名はその名残りなのだろう。

2瀧口 (2) 附録によると、瀧の口瀑布の下方(田畑地の北寄り三反許)に、宗像大宮司氏貞の時代(戦国時代末期)、氏貞の母大方様(宗像大宮司正氏妾:陶全姜の姪)の幽棲(居館)が設けられたとある(前述)が、その背景には、ここが大障子城下(城口)でその攻守防衛の軍事的拠点ともなり得る地だったからではないかと思う。

 ※画像2〜左方の津瀬山(大障子城址)の瀧の口登山口付近〜右下に釣川水門、その上のこんもりとした竹林の後ろに瀧の口瀑布(津瀬の滝)があり、その左の農道が津瀬山登山道である。

 かつて宗像氏貞の母の幽棲(居館)があった場所は、瀧の口瀑布に向かって右(南)手前の右方、石鎚神社参拝者駐車場より左手前の左方にある三反許の田畑地だったとも思え、或は、居館がその土地の北寄りに建っていたということか。当然この周辺に家臣団(許斐氏、吉田氏等)の屋敷もあっただろうと考えられる。

 (3) 戦後以降に行われた大がかりなミカン園の造成による津瀬山丘陵開削工事で山容が一変し、かつて津瀬池周辺に残っていた堀切・土塁は消滅したが、鎮国寺寄りの尾根筋に堀切が三条確認できるそうだ。
 大障子城本丸があった津瀬山の山頂には貯水槽が設置され、往時の遺構を探ることはできず残念である。
 以前一度上ったとき、狭い山道を猛スピードで上下する農家の軽トラックに数回出あい、そのつど道をあけたが、あまり楽しい山歩きでもなかった。

 ※福岡県の城(廣崎篤夫)に「大障子城:宗像大社防衛の城砦。別名津瀬城ともいい…近年の宗像みかんの蜜柑園づくりがなされ、滝の口の池を中心とした津瀬山一帯はブルドーザーが入り山容も一変し、城跡遺構は全く姿を消してしまった。」とある。
 また、城郭から見た宗像の戦国時代(藤野正人)には「大障子城(津瀬城):現在、山頂は貯水槽が設置され改変されている。城の遺構としては鎮国寺方面の尾根上に堀切が3条確認できる。」とある。

 そういえば、以前、鎮国寺奥の院参拝の帰りに脇参道から左に逸れて藪をかき分けながら丘陵を上ったとき、その先に見えていたのが堀切だったのか、或は曲がりくねった津瀬山農道の北端辺だったのか、今となっては記憶が不確か。当時は何か求めて結構無謀なこともしていたが、今は無理が出きなくなった。

3大障子城址 (4)「津瀬山」の山名の由来だが、この南にある「岩ケ鼻」について「もとこの辺りは、対岸の宗像大社辺津宮等もある田島地区との間に広がる釣川の旧河口(旧海岸線)だったと思われ、その河口に鼻のように突き出た岩だったので岩ケ鼻と呼ばれたのだと思う」と書いたように、往古、海の津瀬に面した山という意味に取れる。

 特に岩ケ鼻と瀧の口の間は湾曲しており、もしここが海又は河口であったとしたら渡船場(津)として適地であったと考えられる。
 さらに西麓は釣川に沿って約700mほぼ直線的に伸びており、ここに浅瀬があったと考えられる。

 また「大障子城」の名には、宗像大社辺津宮の東側を大きく隔たる宗像氏の出城という意味があったのではないかと思っている。

[参考史料]
・筑前國續風土記〜「大障子古城 太禮村にあり。城主しれす。」
・同上附録〜「大障子城跡 (多禮)村の乾六丁計にあり。平らかなる所三百坪計あり。里民ハ宗像大宮司氏貞居城なりしといふ。」
・同上拾遺〜多禮村の乾六丁計に在。瀧の北なる山也。山上平地二所有。凡三百坪許、西は吉田村鎮國寺の山境へり。茂山也。山中に所々堀切有。宗像大宮司代々の城址なりしといふ。」

※つづく→「鎮国寺お大師堂・薬師如来など(宗像市吉田)」。作成中

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2015年06月07日

多禮瀧ノ口観音堂(宗像市)

1多礼瀧口観音堂 前回「多禮瀧の口瀑布(宗像市)」からつづく。

多禮瀧ノ口観音堂」(木造瓦葺)は、前回記した「多禮瀧の口瀑布」(津瀬の滝)前の架橋の先(谷の左岸)にあり「宗像四国東部霊場第48番札所 多禮瀧ノ口観音堂(本尊十一面観世音菩薩)」となっている。
 (宗像市多禮631付近)。

2多礼瀧口 (1) 瀧の口瀑布(津瀬の滝)の滝行者に現世利益(十種勝利)・来世果報(四種功徳)をもたらす仏としてここに十一面観世音菩薩か祀られたのだろうか。
 「瀧ノ口観音堂」は、多礼の石鎚神社関係者が管理しているのだとは思うが、堂内に入ったことがなく現時点では詳細を書けない。


 (2) 因みに「四国霊場第48番札所」は「清滝山安養院西林寺(本尊十一面観世音菩薩)真言宗豊山派」(愛媛県松山市高井町1007)で、この「清滝」と「瀧の口瀑布」(津瀬の滝)の滝を重ねて「瀧ノ口観音堂」を第48番札所としたのかとも思った。
 しかし、以前、清滝山西林寺を参拝したことがあるが、境内に瀑布(滝)はなかった記憶している。

3多礼瀧口観音堂板額 (3) ところで、瀧ノ口観音堂入口の鴨居に掲げられている古い虫食い「木額」(※画像3)を見ていて、その昔は「薬師堂」だったのかもしれないと思った。
 この木額の墨字は、かなりの部分がはげ落ちて読み辛いが、下地の薄い彫り込みの上に墨を乗せたもののようで、その下地の一部を読めた(※画像3)。

 まず文頭の文字は、なぜか「宗像四国七十六番」で、「四十八番」とは読めないので、この札所番号は、多分、「宗像四国霊場」が東西に分離する以前のものではないかと思ったが、「元号」部分が読み取れない。
 だが、「施主 福間町 内村弥左衛門」(※かなり読み辛いがこのように読んだ)の「福間町」から、「多礼中阿弥陀堂」に掲げてあった同様の木額に「發記 福間」の文字があったことを思い出した。
 「多礼中阿弥陀堂の木額」の年号は「慶應四年辰閏四月」だったので、そのように読めないかと思って見つめていたら、そのように読めると思った。
 実に曖昧ではあるが、宗像四国霊場が東西に分離したのが明治以降のことだとするとあながち間違いではなかろう。

 また、木額に書かれている変体仮名交じりの歌は「まことにも神仏僧をひらくれば真言加持の不思議なりけり」と読めるので、これは間違いなく四国霊場第76番札所「鶏足山宝幢院金倉寺 本尊薬師如来(天台寺門宗)」(香川県善通寺市金蔵寺町1160)の御詠歌である。

 つまり、この木額に記載されている札所番号(76番)と金倉寺の御詠歌により、ここは「本尊薬師如来」とする「薬師堂」だったと推測でき、この木札の存在を以て現「多禮瀧ノ口観音堂」は、もとは「多禮瀧ノ口薬師堂」ではなかったかと思ったのである。

 なお、木額に記されている發記9人の氏名については、読むのに疲れすぎて(その全部を読み取れなく)ここに転記できないが、苦労せずにこの木額の全文を読めるように補修できないものかと思った。

 (4) 多禮では、多礼石鎚神社境内にも「薬師堂」(宗像四国東部霊場第23番札所)があるが、札所番号が異なるので、当「瀧ノ口観音堂」(旧薬師堂)がその旧跡とはいえない。多礼石鎚神社境内の「薬師堂」のもとは、多分、筑前國續風土記附録にある「〇薬師堂ヤクシモリ」ではないかと思っている。

 (5) 余録:瀧の口の伝説に「狸の小玉」がある。具体的なことは分からないが、宗像伝説風土記によると次のようである(要約)。
 滝口に狸を祀ったお堂があり、お詣りする人が絶えずいつも花が供えてある。昔、滝口に父と二人で住んでいた女の子に、新しい母ができたが、折り合いが悪かった。ある日、納屋で干からびたおむすびを食べていたときにやって来た狸の親子に、残りのおむすびを全部あげた。親狸がそのお礼に小さな玉をくれた。父が不在のとき、母の言いつけで、峠の千年屋敷(空き家)の井戸端に生えている水仙を取りに行くと、そこにはたくさんの蛇がいた。思案の末、狸から貰った小玉のことを思い出しそこに投げつけると蛇は一斉に逃げ出したので、急ぎ水仙を手に逃げ帰り家の前で気を失った。そこに父が帰ってきて、事情が分かり、母を追い出した。

※つづく→「大障子城(津瀬城)址(宗像市多禮)」。

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2015年06月04日

多禮瀧の口瀑布[津瀬の滝](宗像市)

1多礼瀧口 前回「多礼の石鎚神社(薬師堂):追記(宗像市多禮)」からつづく。

 石鎚神社参道口(小石標がある三つ角)から鎮国寺下の川端橋(北)方向に進むと、道は再び釣川右岸築堤に上り、釣川(左)寄りの自転車道と同一線上に並ぶ。道幅は各道半々で変わらず狭い。


 (1) その釣川縁に「水門」の上部(鋼鉄製の手動式開閉ハンドル、フェンスに「立入禁止」の表示)が見えるが、この「水門」は、東(右)側の津瀬山丘陵の貯水池(二段式農業用水/江戸時代から知られている池)→「瀧の口瀑布」(津瀬の滝)→農道南(右)横の「」→築堤下(暗渠)から釣川に流出する流水を調節するもの。
 水門前にある三つ角(ガードレールあり)を右折する狭い砂利道がこの農道(右下に溝)で、農道は直ぐに低丘陵に突当り上り坂となるが、この間の道の両側に田畑が細長く広がっている。
 また、溝は、丘陵の手前で丘陵の縁に沿って右に曲がり谷あいの「瀧の口瀑布」とつながる。

2多礼瀧口不動明王 (2) 坂道は、農道の正面に見える竹藪を左に避けるよう付いており、その後方(右側)に瀧の口瀑布入口となる黒塗りの手すりが見える。(宗像市多禮631付近)。

 この手すりの内側(谷川の右岸縁)にある石段を下ると、右に直角に曲がるコンクリート製の小橋(谷川に架かる橋)がある。

 この橋の左側に「瀧の口瀑布」があり、その水が橋の下の谷川を通って上述のにつながっている。また、橋の先に「瀧ノ口観音堂」(宗像四国東部霊場第48番札所/次回別記する)がある。(※画像1)

(3) 小橋の手前に次のように書いてある橋建設説明板がある。
 「奉 献 この橋は昭和37年石鎚神社本殿建設以来蓄積された代表石松八重子様の浄財より宮崎組の献心にて架設されたものであることをここに記す。平成十三年九月吉日 世話人代表元老大顧問古屋敷啓 宮崎組社長宮崎朝一夫」。
 この文の文意が分かるようで分からず何度も読み直した。挙句…「昭和37年石松八重子様が代表者となって募った浄財で石鎚神社本殿を建設したときの剰余金とその後集まった浄財の蓄積金をこの橋の建造費に充て、平成13年宮崎組請負で架設された。と解釈することにしたが…。また、「宮崎組の献心にて架設された…」の文は、文末に宮崎組社長の名があるので自讃文のようにも思えた。それに「献心」の文字は造語なのか。細かいことにこだわってしまう悪い癖でご容赦。

 (4) 上記文から瀧の口瀑布(瀧・滝)は、多礼の石鎚神社と係わりがあることが分かり、石鎚山修験と係わる石鎚神社の教信徒(行者)の滝修行の場だと考えても良いのかと思った。
 修験道や密教系では滝を修行の場とすることが多く、多禮極楽寺山(弥勒山)に「石鎚神社」が鎮座(明治12年(1879))する以前の多禮には、修験系の「孔大寺權現社」(金剛蔵王権現)や「豊前坊社」(彦山権現)があったので、その二社に係わる行者もこの滝を行場としていた可能性も考えられる。
 また、この瀑布の北側の、津瀬山(大障子城址)の峰続きには、今も秘仏不動明王を御開帳して修験道の大護摩供を行っている鎮国寺(真言宗御室派)もある。
 (※参照→「指來神社(追記1):なぜ一の鳥居は孔大寺神社なのか(宗像市多禮)

3多礼瀧口瀧壷 (5) 瀧の口瀑布が滝行場であることは、次のようなことでも伺える。(※画像2.3)
  
 ‖貍譴隆箴紊紡躪埔譴鮗┐后嵒堝位晴α」(石仏)が祀られている。
 滝の水量は、多くはないが瀧行には充分な量である。

 B譴旅發(4m位)や滝壷(足場)なども瀧行に相応しい形になっている。
 ぢ戝紊涼綢悗┐蓮観音堂の管理を任されていればその堂内でできる。
 ザ兇苓屬ら滝壷に下りれなくはなく、橋の下方に回り込むこともできる。
 なお、夜の滝行の目印灯明を立てる場所については確認していない。(私はここで滝行をしたことはない)。

(6) 宗像大社辺津宮は釣川の対岸右寄りにあるが、瀧の口瀑布は、戦国期の同社(宗像大宮司家)を守る大障子城(津瀬山)の登山口にあり、かつて宗像大社とも深い係わりのある神聖地だった。
 下記(8)の参考史料、筑前國續風土記拾遺(宗像社記)によると「12月18日の宗像大社の神事」のときには神聖な「津瀬ノ瀧水」(瀧の口瀑布の滝水)を神前に供え、また神前に供える「」は「津瀬山」の山中で採取した榊を用いたことが分かる。

 なお、下記史料によると、滝の下方の田畑地の北寄り三反許は、かつて宗像大宮司正氏の婦人大方様(陶全姜の姪・宗像大宮司氏貞の母)が幽棲した址だという。
 滝の下方の水流が変わっているのかもしれないが、当該地は(史跡案内板などはないけど)滝の下方南寄りの田畑地だったようにも思える。(※次々回「大障子城(津瀬城)址(宗像市多禮)」に記す)

(7) 以前「猿田峠の西東(11)〜妙見の滝(宗像市)」(2011.8.21)に、(吉留安ノ倉の)「妙見の滝は、宗像市内唯一つの滝」と記したが、宗像市は旧玄海町と合併しており、旧玄海町多禮に当「瀧の口瀑布」(津瀬の滝)があるので、妙見の滝を宗像市内唯一の滝というのは正しくない。

(8) 参考史料 
 ‖雪溝次‖蹐慮と云所に、高さ貮間許の瀑布あり。(筑前國續風土記)
 多禮村 〇瀧の口瀑布 本編に出たり。今は水流微なり。瀧の邊り三反の平地あり。大宮司正氏か婦人幽棲の跡なり。委く増福院縁起等に見えたり。(筑前國續風土記附録)
 B仁藺次 斬蹈慮といふ所瀑布有。高貮間余水上ハ谷奥に池有。此邊を津瀬山といふ。岩ヶ鼻の近き所なり。宗像社記に政所機殿十二月十八日の神事に、津瀬ノ瀧水ヲ備進之。又榊ハ津瀬山ノ榊ヲ用歌橋ニテ歌アリ。と見えたり。其瀧の下は田なり。其北の方によりて平地三反許の圃あり。此所陶全姜か姪の氏貞の母公の幽棲の地なりといふ。其のことハ宗像記追考増福院縁起等に見えたり。(筑前國續風土記拾遺)
 ※注: 貮間=約3.64m(一間約1.82mとして)。
 三反=900坪=約2,970(一反300坪、一坪約3.3屬箸靴)

※つづく→「多禮瀧ノ口観音堂(宗像市)」。

keitokuchin at 02:36|PermalinkComments(0)TrackBack(0)