2015年10月

2015年10月27日

「歎異抄」演奏会行 (混成合唱団コーロ・サンガ)

歎意抄 先日(2015.10.25)、混成合唱団コーロ・サンガ演奏会に行った(イイヅカコスモスコモン)。

 テーマは「歎異抄(たんにしょう)」で、親鸞聖人に係わる説教、経典、和賛などをコーラスで奏でる仏教音楽演奏会。

 …実は、出かけた理由は、恩師がこの合唱団のメンバーに加わっていたからだったが、仏教賛歌の美しいコーラスを聴いているとそのメロディに引き込まれ心が癒された。


 (1) 仏教賛歌&無伴奏合唱曲集(指揮:大分哲照)
  中田喜直(1923~2000)作曲の仏教賛歌「そんな時わたしはくちずさむ (観月浩道作詩)」で開幕…念仏者の生活情景を唄った詩、美しいピアノ(小林祐子)の音色に乗って聴こえてきたコーラス、すぐに心がその音曲に引き込まれた。
 曲の終わりに入っていた「帰命無量寿・南無不可思議・心光照護」(正信偈)… 本当に阿弥陀如来の深い愛の光が心に射し込んでくるようだった。念仏。
 そして、中田喜直作曲の「ありがとう(高田敏子作詩) 」「みほとけのおすがた[大谷楽苑賛仰歌第12番](片山八郎作詩)」と続いた。

  無伴奏コーラス
 今夏(8/5)に事故死した(享年34歳)山本鉱史作曲・作詩の「音楽の想い」、遺作曲の「困ったときは」「風」(ともに山本よしき作詩)。
 山本鉱史さんの追悼を込めての演奏だった。作詩の背景が浮かんでくるようなシンプルで明快な曲だったが、隣席の人が思わずつぶやいた「優秀な人は短命なのか」の声が何とも言い知れない感傷を誘った。美人薄命という言葉もあるが、まだまだ可能性の多い青年の死は惜しまれる。念仏。

 (2) 林光合唱曲集(指揮大分哲照、ピアノ小林祐子)
 林光(1931~2012)作曲の「うた」「ねがい」(佐藤信作詩)=「ワルシャワ労働歌のうた」5曲のうちの2曲。(+ヴァイオリン小野山莉々香)
 林光編曲の「星めぐりの歌」(宮沢賢治作詩作曲「岩手軽便鉄道の一月」収録の終曲)。
 
 (3) ソロ・ステージ
 「華麗なるワルツ変イ長調」(ピアノソロ山本英二)。
 「前奏曲とアレグロ」(ピアノ山本英二、ヴァイオリン小野山莉々香)。

 力強くヴァイオリンの演奏をした小野山莉々香さん(福岡県立嘉穂高2年)は、今月24日、第69回全日本学生音楽コンクール北九州大会ヴァイオリン部門高校の部本選で優勝し11月30日の全国大会進出を決めたばかり。生き生きする力強い演奏に「さすが、さすが」と、誰もがため息をついた。今後の活躍を大いに期待する。

 (4) 男性合唱曲集
 「正信偈」ほか全6曲を賛助出演の、コールマイトリー男性合唱団(仏教賛歌を唄うグループ)が披露。(指揮:大分哲照)
 「帰命無量寿・南無不可思議」から始まる「正信偈」…、仏教経典をコーラスで聴くと、お経とはまた違った雰囲気に包まれ、美しい極楽浄土の世界が想起されるようだった。

 (5) 交声曲「歎異抄」(大栗裕作曲)
 本演奏会のメイン曲(指揮大分哲照、ピアノ山本英二、オルガン小林祐子、バリトン澁谷暢達、コーロ・サンガ混成合唱団)。
 言うまでもないが、浄土真宗本願寺派の宗祖親鸞聖人「報恩講」での音楽法要で奏でるために作曲された「報恩講法要・歎異抄作法」。
 この日、演奏されたのは、下記(※追記)の「歎異抄各章及び後序抄出」+「正像末法和讃 愚禿悲嘆(ぐとくひたん)述懐(抄)」。
 なお、親鸞の教え「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」(歎異抄第3章の一節)は、悪人正機(他力本願)としてあまりにも有名。

 アンコールで観客を含めて「ふるさと」を大合唱し盛況のうちに終演した。合掌。

(※追記)
 [三礼文]「自帰依仏 自帰依法 自帰依僧」

 [歎異抄第一章抄出]
「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐる なりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなわ ち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。弥陀の本願には、老少・ 善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。そのゆゑ は、罪悪深重・煩悩熾盛(しじょう)の衆生をたすけんがための願(がん)にまします。」

 [歎異抄第二章抄出]
「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、 よきひと(法然)の仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきな り。念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべるらん、また 地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるな り。たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちた りとも、さらに後悔すべからず候ふ。そのゆゑは、自余の行もはげ みて仏に成るべかりける身が、念仏を申して地獄にもおちて候はば こそ、すかされたてまつりてといふ後悔も候はめ。いづれの行もお よびがたき身なれば、とても地獄は一定(いちじょう)すみかぞかし。弥陀の本願 まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言(きょごん)なるべからず。仏説まこと におはしまさば、善導の御釈虚言したまふべからず。善導の御釈ま ことならば、法然の仰せそらごとならんや。法然の仰せまことなら ば、親鸞が申すむね、またもつてむなしかるべからず候ふか。詮ず るところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。」

 [歎異抄第三章抄出]
「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世 のひとつねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。 この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむ けり。(中略)
煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなる ることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、 悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往 生の正因なり。よつて善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、仰 せ候(そうら)ひき。」

 [歎異抄後序抄出]
弥陀の五劫思惟(ごこうしゆい)の願(がん)をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人(んいちにん)がためなりけり。されば、そくばくの業(ごう)をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」(中略)
「煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫(ぼんぶ)、火宅無常(かたくむじょう)の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」

 [正像末法和讃 愚禿悲嘆 述懐]第4首
「無慚無愧(むざんむぎ)のこの身にて まことのこころはなけれども 弥陀の回向の御名(みな)なれば 功徳は十方にみちたまふ」

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2015年10月26日

関取「許斐嶽」の墓 (宗像市王丸)

 前回「中津文庭碑(宗像市)」からつづく。

 前回の「中津文庭先生碑」前の農道(途中から舗装あり)を下り、拡張道路に出て、ここを右折する。
 拡張道路とは、私が勝手に新道と称している王丸〜原町三つ角(経石・幸福稲荷あり)を結ぶ道路で、ここから50mほど原町方向に進むと、右側に古墳状の独立小丘があり、その前を右斜めに(三叉路)大穂に到る旧道(舗装あり)が通っている。

1許斐嶽関 この丘は墓山(王丸字赤坂)で、旧道に面してその右裾に、関取「許斐嶽の墓」が建っている。

 縦形の立派な和型墓でその石塔(竿)の表面に大きく「許斐嶽宅次郎墓」(金文字)と刻されているので、すぐにそれと分かる。
(※画像)


 天保4年(1833)王丸で生まれた「中村宅次郎」が、関取となったときのしこ名が「許斐嶽」で、郷里王丸の許斐山(許斐嶽ともいう)の山名をそのまましこ名としたのだろう。
 墓は、「許斐山」がよく見える場所に建っているので、こよなく郷里の山「許斐山」を愛していたことが見て取れるが、現在、道路の対面に資材置き場が作られうず高く積まれた建築資材が視線上に入ってくのは目障りなのかもしれない。

 縦書きに揮毫されている「許斐嶽宅次郎墓」の文字を見ていて、「許斐嶽」に対して「宅次郎墓」の文字の大きさが小さくなっているように思え、合成、或は予め下から見上げることを意識して書かれたのかなど、また勝手な想像を巡らしたりしていた。
 許斐嶽宅次郎は、引退後、書道に専念したともいうので、この揮毫は、生前に自ら書いていたものなのだろか。ただ「墓」の文字だけが後で付け足したかのようにアンバランスに思えるのはどうしてなのだろう。

 ところで、この「許斐嶽の墓」については、以前、「風と森との物語 私たちの許斐山(許斐山愛好会)」に載っていた略図を見て知ったことで、それまでは、幕末に王丸出身の「許斐嶽」という名の関取がいたことすら知らなかった。
 宗像市HPによると、許斐嶽関は、関脇まで昇進し、引退後は、郷里で宮相撲力士の育成や書道に専念。また、鯉(こい)や鮒(ふな)などの養殖も手がけたという。

 また、(許斐嶽)中村宅次郎は、前回記した国学者中津文庭(1821〜1883)の私塾賢木園で学んだという話もある。明治25年(1892)建立の「中津文庭先生祈念碑寄付人名録」には、その名はないが、中村宅次郎の没年を調べておらず確認できない。

 (許斐嶽)中村宅次郎について、これ以上のことは知らないが、幕末、王丸の山・許斐嶽(許斐山)の名を名乗り、この山の名を世に出して関脇まで昇進した力士がいたということは、郷土の誉として今日まで宗像では語り継がれているのだろう。
 墓碑の鮮やかな金文字を見ていて、王丸には中村姓も多く、この墓を一族の譽として一族で手厚く御守りされているのだろうと思った。

 まだまだ王丸地区で見落としている事績もあるとは思うが、いったん王丸地区探訪を終了する。
 今回の王丸探訪トップ→「王丸妙見神社(宗像市)」。 

 ※つづく→「平清水 貴船神社(宗像市久原)」。

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2015年10月25日

「中津文庭」碑 (宗像市王丸)

 前回「王丸薬師堂<善徳寺など> (宗像市)」からつづく。

 「中津文庭碑」は、善徳寺(王丸167)の前から左に下る細い農道(舗装なし)を直進すると、左側に建っている。

1中津文ん庭先生碑 コンクリート基礎の上に積まれた4段の切石の上に、見上げるほどの高さに直立している自然石(石柱)がそれで、その表面には太字の揮毫で「中津文庭先生碑」の文字が刻字されている。
 ところで、以前訪れたときと少し違っているところがあるのに気付いた。
 〆のコンクリート基礎部分は、以前は、地面(叢)から直接積み上げられた石垣だった。
 基礎上の切石に、倒れて立てかけてあった複数の玉垣石柱が、その切石の上にきちんと並べて建て戻されている。

 4霑辰亮りの叢に、石碑を取り囲むブロック(1〜2段)塀が作られ、真新しい玉石が敷き詰めてあり、その入口部分(正面)の両脇にも玉垣用石柱が建てられている。
 い修里覆(右方)に建っている「祈念碑寄付人名録」碑の下にもコンクリートの基礎が施され、その土台石とともに嵩上げされている。等々。

2中津先生碑 この石碑、長い間、忘れ去られ放置同然になっていたのではないかとも思われるが、最近、このような改修工事がなされたということは、郷土の偉人を見直すための記念碑として史跡探訪に訪れる人たちが増えているということなのだろうか。或は、そのなかには、「中津文庭」先生に学んだ人たちの子孫もおられるのかもしれない。

 この右隣に小工場兼住宅らしき建物があるものの、地元の人もあまり通ることがないと思われる農道に、どうしてこの碑が建てられたのかは、説明板もなく分からない。

 実は、以前、初めてここを訪れた当時、中津文庭についての知識がなく、先生という文字が気にはなったものの、単に地元の名士くらいにしか考えが及んでいなかった。

3中津先生碑寄附者 ただ、この「中津文庭先生」碑の建立時期については、どこにも銘記された個所が見当たらないが、同碑の前に建っている「祈念碑寄付人名録」碑に刻されている「金五円・三円・二円・壱円半、壱円五十戔、一円三拾戔、壱円宛」といった寄附金額を見たとき、明治、大正期頃の建立かもしれないとの推測はしていた。

 しかるに、明治25年(1892)、中津文庭に学んだ人たちが先生の遺徳を偲んで建立したことを知ったのは後日のこと。


 なお、同時に建てられたと思う「祈念碑寄付人名録」碑は、ほとんど風化しておらず、寄付額・名簿(約50人)もはっきり読み取れるので、中津文庭に学んだ人たち(王丸住人の姓もある)を知る上でも貴重な金石文財産だと思う。

 「中津文庭」は、文政4年(1821)生誕、明治16年(1883)歿(病死)、王丸が生んだ幕末の国学者の一人で、明治維新後は、王丸(許斐山)「熊野神社宮司」を務め、傍ら家塾「賢木園(けんぼくえん)」で和漢、書を教え300人超の子弟を育てたという。

 これ以上のことは知らないけど、このように多くの人たちが、私塾で学ぶことなど、義務教育が法制化された戦後教育で育った人たちにとっては考えもつかないことだが、当時では画期的なことをされた郷土の偉人であったに違いない。

 なお、「中津文庭」の読みについて、「ナカツブンテイ」と聞いたが、国学関連人物データベースには「ナカツフミニワ」と記載されている。
 ※つづく→「関取 許斐嶽の墓 (宗像市王丸)」。

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2015年10月23日

王丸薬師堂 <善徳寺など>(宗像市)

 前回「王丸の(旧)心吉神社について(宗像市)」からつづく。

 王丸には「王丸薬師堂」と称する堂宇が2か所ある。
 (下記:“中里道と∩影岨境内)。

2王丸番外薬師  峅Υ殘師堂(番外)」(尾中)

 王丸薬師堂(番外)」(尾中)は、「王丸八幡神社と黒尾明神社 (宗像市)」の(13)に前述したとおり、王丸尾中集落内の道幅の狭い里道沿い(王丸479番地小方家の前)にある。(※画像)



 「王丸薬師堂(番外)」(木造瓦葺)は、「宗像四国西部霊場番外札所」(本尊薬師如来石仏安置)であるが、同霊場案内書によっては、記載されていないものがあり、見落とす人もいるようだ。

 筑前國續風土記附録には「藥師堂 ホンムラ」、同拾遺には「藥師堂 本村にあり。従神末社記に観音堂一所是等の堂をいふにや」と記載されている。

1王丸善徳寺◆峅Υ殘師堂39番」(善徳寺)

 尾中集落内里道と並行する幅広新道側にある「王丸公民館」(宗像市コミュニティバス王丸公民館停留所あり)と「善徳寺駐車場」の間から別所(谷)里道に入り、すぐの「善徳寺」(王丸167)山門の左(2本の桜の木の下)にある。(※画像)


 「王丸薬師堂(善徳寺)」(木造瓦葺扉あり)は、「宗像四国西部霊場第三十九番札所」(本尊薬師如来坐像石仏ほか安置)となっている。
 この薬師堂が拾遺に(王丸)「薬師堂一所」とのみ記されているものか。

 須弥壇の下には、十三仏石仏が並んでいるが、須弥壇には、中央に弘法大師坐像が安置してあるので、さながら大師堂といった趣もある。
 また、薬師如来坐像石仏や女神像坐像石仏(薬師如来か)のほか、かなり痛みの激しい木仏5体(うち坐像1)が詰め込まれている。

 下記史料によると、江戸時代の王丸には、薬師堂以外の堂宇も多数存在していたようだが、現存していないようなので、或は、それらの堂宇に安置されていた本尊等がここに移されたものかもしれない。

 「村中に八幡宮舊宮の地といふあり。今其所に地蔵堂あり」(附録)
 「心吉社内に觀音堂あり」(附録)=「観世音堂 心吉社内に在」(拾遺)
 「六之御前社内に阿彌陀堂(釋迦・觀音もあり)あり」(附録)=「阿弥陀堂 六御前の車内に在。弥陀釈迦観音を安置す」(拾遺)。


 (付記1)善徳寺」(王丸167)
 「王丸薬師堂」がある王丸別所谷の「育王山 種積院 善徳寺」について付記しておく。
王丸善徳寺2 別所(谷)里道は、善徳寺の前から急な上り坂となる。(里道は、善徳寺の右側を登る)。
 そのため、本堂(鉄筋コンクリート造)や庫裡は、擁壁に囲まれた石段(15段)の上にあり、その下に参道、掲示板、山門(山門前に用水路あり)、薬師堂などがあるといった形の境内となっている。


 上記各史料によると「育王山善徳寺」は、浄土宗鎭西派西福寺(野坂)の末寺だという。
 なお、昔は禅宗(曹洞宗)宗生寺(大穂)の末寺で、藥師山(大穂)に在ったが、廢絶。正保三年(1646)、三譽という僧が、この寺を王丸の当地に移し、上記(浄土宗鎭西派西福寺末)となったという。大穂には、王丸内から真南に直行できる旧道がある。

 (※西福寺は、以前「野坂堂ヶ鼻薬師堂へ(宗像市)」に「余力があれば、野坂公民館から近い野坂神社や西福寺を訪れるのもよい」と記していたところであるが、西福寺に伺ったとき住職さんとお話したことがあり、別記予定。
 (※宗生寺には数度訪れているが、現在までのところ本ブログに掲載したのは「宗生寺のナンジャモンジャの花」のみ)。


 (付記2)小方様方の石楠花」(王丸169)
 「善徳寺」の先隣の小方康吉様方で、毎年4月下旬頃に開花、観頃を迎える石楠花(しゃくなげ)は、その大きさ、多さ、美しさには目を見張るものがある。60年ほどの年輪を経ているという話も聞いた。大好きな花だが、産地で購入してきても自分の家の庭で生育できたことがないだけに、こういう庭の風景を観たら感激する。
 ※以前記した「緒方氏の始祖は大蛇神(龍神・竜神)」のなかに「小方」と書いていたことを思い出した。 

 ※つづく→「中津文庭碑 (宗像市王丸)」。

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2015年10月21日

王丸の(旧)「心吉神社」について(宗像市)

 前回「王丸八幡神社と黒尾明神社(宗像市)」からつづく。

 前回、王丸の心吉神社について、「許斐所主神社(=心吉神社:王丸字大谷)は熊野神社(許斐神社)摂社六の宮(王丸「六之神社」)に合祀され、旧神殿の跡地は残っているが行けない。六の宮(六之神社)境内社に許斐上七郎殿・許斐下七郎殿を祀る七郎神社(石祠)があるが、許斐上七郎殿=許斐所主上津七郎殿であれば心吉神社と同神か。」と記した。

  心吉神社の旧社殿の規模について、筑前國續風土記附録(以下「附録」と書く)には「(心吉神社)神殿拝殿造積二間三間」とあるので、立派な社殿が建っていたと推察されるが、現存していない。
 この社殿は、明治以降に王丸「六の宮(六之神社)」(許斐)に合祀さされたときに取り壊されたのだと思う。

  心吉神社の境内社には、古宮神社(祭神:大名持命、田心姫命、譽田皇子/寛永2年(1625)創立)が鎮座していたというが、心吉神社の社殿がなくなった時、同時に六の宮に遷されたのかもしれない。

  心吉神社の鎮座地について、附録には「別所谷にあり」、筑前國續風土記拾遺(以下「拾遺」と書く)には「枝郷別所」とあるが、明細帳には「王丸字大谷に坐す心吉神社(舊無格社)」とある。
 善徳寺の所在地は別所、別所谷ともいうので、別所集落から入る大谷と考えたらよいのだろうか。

  心吉神社の祭神、例祭、産子等については、附録に「祭禮九月十五日・奉祀中村求馬。祭る所住吉三神也。十一戸の産靈なり。社内に観音堂あり。」とある。
 拾遺には「枝郷別所の産神也。住吉三所也。…奉祀は野坂村の中村氏也。九月十五日を恒例祭日とす。」とある。
 かつて別所谷には心吉神社(祭神住吉三神)を産神とし9月15日に例祭をしていた王丸村枝郷「別所」という小集落が存在していたことが分かる。
 
 なお、「観音堂」については分からないが、本尊観世音菩薩像は、或は王丸薬師堂(善徳寺)に移されているかもしれない(未確認)。

  心吉神社の奉祀について、上記に「奉祀中村求馬」「奉祀は野坂村の中村氏也」とあるが、野坂は許斐山(271m)の南西「磯辺山(286m)」の北麓に広がる地で、許斐山・熊野権現を信奉する修験者らが僧坊を構えていたとの伝承があり、この中村氏は修験者であったのだろうか。(野坂の中村氏について調べていない)。

 ※なお、野坂字広宗前にも同名の心吉神社(祭神:倭姫命・国常立命・宇賀魂神)が鎮座していたと聞いたが、祭神は違うけど、係わりがあったのかもしれない。ただ、この祭神に倭姫命・国常立命があることは驚きで、九州王朝との係わりも想起せられる。
 また、野坂には、(王丸の)心吉神社と同神を祀る住吉神社(字宮首)や、(王丸の)熊野神社と同神伊弉冊尊・事解男命・速玉男命を祀る熊野神社(字今院)、(王丸の)八幡神社と同神を祀る八幡神社(字新町)、及び大己貴智神・鈿女神を祭神する幸神社(字下後畑)が鎮座していたが、現在、すべて「野坂神社(住吉神社)」に合祀されている。野坂もまた物部氏色の強い地区であった可能性も伺える。
 ※野坂神社は、以前「野坂堂ヶ鼻薬師堂へ(宗像市)」に「余力があれば、野坂公民館から近い野坂神社や西福寺を訪れるのもよい」と記していたところである。… ※別記→「野坂神社(1)〜鎮座地(宗像市野坂)

  心吉神社の名称の由来について、拾遺には「宗像末社記に許斐所主神社有。所主を誤りて心吉と奉称成へし」とある。

 つまり、「ところ(所)」→「こころ(心)」、「ぬし(主)」→「よし(吉)」と間違えて、「ところぬし(所主)神社」→「こころよし(心吉)神社」と奉称されるようになった、ということのようだ。

  心吉神社(許斐所主神社)と許斐上津七郎殿について、拾遺に「上津七郎殿と云るも同社(心吉神社)の事にや」とあるのを見て、「許斐上七郎殿=許斐所主上津七郎殿であれば心吉神社と同神か」と上記した。

 拾遺の「六之御前社」の項を見ると「枝郷許斐の産神也。所祭伊弉冊尊 瓊瓊杵尊 豊玉姫命 宗像三女神也。諸家の説に、天神第七代伊弉冊尊中央にまします故に高津七臈権現と奉称と云り。然れども宗像年中行事にハ、上七郎殿 上六御前 下七郎殿 下津六郎御前と各別に載たれハ、別社なる事しるへし。近古五社衰し時より、上七郎殿 上六御前を一所に併セ祭りにや。別に上津七郎殿と云社今ハなし。年中の祭王子社に同くて、是又許斐の従神也。今ハ別社の如なれども、左にハ非す。」とある。

 多分、許斐山における熊野修験による神仏習合により、「六之御前社」の祭神伊弉冊尊を高津七臈(郎)権現と奉称した時代があったのかもしれない。

 しかし、拾遺は否定的で、伊弉冊尊を高津七臈(郎)権現は別神で、高津七臈(郎)権現=許斐上七郎殿=許斐所主上津七郎殿(心吉神社祭神と同神)という見方をしているように思える。

 そして、「上津七郎殿と云社今ハなし」としているが、現在、六之御前社(六の宮)境内に、上津七郎殿(上七郎殿・高津七臈(郎)権現)、及び下津七郎を祀るという「七郎神社」がある。
 同境内にある石祠が「七郎神社」だと思うが、以前は木造瓦葺社祠だったような記憶もある。六の宮境内は、以前とはすっかり変わっている。

 なお、許斐所主神社の祭神を「住吉三神」としたのは、「(許斐三御前社→)王丸八幡宮」の祭神神功皇后との係わりもあるのだろうか。
 「許斐所主」とは、実際は、許斐山に熊野権現(許斐権現)が奉斎される以前の「地主神」だったのではないのかとも思っている。

  心吉神社の跡地について、善徳寺辺りからから入る谷にあるのだと思うが、たまたま知る人に出あわずに分からずじまい。少し古い資料だが、宗像第513号(平成15年(2003)11月1日宗像大社発行)に次の記事が載っていた(以下転載)。
 「(神郡宗像末社) 許斐所主神社(心吉神社)…木々の間から許斐山を望む、ミカン畑と杉林となっている原野に心吉宮の跡地がある。現在は雑木林の中に鳥居が隠れており、扁額には「心吉宮」の文字がかすかに残っていたが、鳥居の前には橋が架かっていない小川が流れており近づくこともできない。昔は石段等もあったと聞くが、今は雑木に埋もれており、確認もできなかった。」

 ※つづく→「王丸薬師堂<善徳寺など>(宗像市)」。

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2015年10月19日

魂の叫び(福岡事件再審請求)~古川龍樹・(故)古川泰龍さん

 毎日新聞(2015.10.16)の「ひと」欄で古川龍樹さん(55)の名前と写真を見たとき、以前、一度だけお会いしたことのある(故)古川泰龍さんに似ていると思った。

 そして、記事の見出しと写真の説明に目をやり「福岡事件の再審請求運動に取り組む玉名市の生命山シュバイツァー寺代表」の文字を見て、古川泰龍さんの親族に間違いないと思って記事を読み泰龍さんの子息であることが分かった。

 古川泰龍さんとその娘さんとお会いした頃の印象では、皆さんは、とても温厚で慈悲ある人に見受けた。
 だが、泰龍さんは、戦後の混乱の中で起きた所謂「福岡事件」(1947)で死刑判決の出た西武雄被告の無罪を確信し立ち上がり(1961)、1975年刑死した西武雄さんの冤罪再審運動に一生を捧げた正義の人でもあった。

 古川泰龍さんというと、1964年1月3日、玉名市立願寺の自宅に福岡事件の支援弁護士と名乗って訪ねて来た連続殺人犯の西口章の逮捕に協力したことが有名だが、逮捕後の西口彰と手紙のやりとりや書物の差し入れなどを行ったことでも知られている。やはり慈悲の人だった。

 また、1973年、アルベルト・シュバイツァー博士(ノーベル平和賞受賞者)の遺髪を祀り生命山シュバイツァー寺(独立寺院/玉名市立願寺584)を開くなど独立気鋭の持ち主でもあった。

 そういえば嬉野・武雄史跡探訪で、かつて古川泰龍さんが出身地で住職をされていた嬉野市塩田町の真言宗御室派「常在寺」を訪れたことがあるが、まだ本ブログを始める以前のことだから、随分以前のことになる。年月の過ぎ去るのも早い。

 新聞記事には、2000年8月死去された古川泰龍さん(80歳没)の意志を引き継いで15年、2人の姉とともに、刑死した西武雄さんの冤罪再審運動に捧げる魂の叫びが記されていた。

 冤罪は、いつなんどき、自分の身に降りかかるか分からない。
 権力者に罪人と決めつけられたら、いくら無罪と叫んでも司法の壁は分厚く破れない。

 たとえば、殺人事件冤罪とまでは行かなくても、テレビドラマ「ハッピー・リタイアメント」(佐藤浩市、石黒賢、石田ゆり子)の前半部分にあるような、身に覚えのない罪をかぶせられ人生の歯車が狂ってしまう、ってことはよくあることだ。

 西武雄さんの刑死から既に40年(生誕100年)、風化しつつある事件の再審請求に今なお精力的に取り組んでおられる故・古川泰龍さんの子女(姉弟)に敬意をはらう。

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2015年10月16日

九州王朝説の古田武彦さん死去

 今日(2015.10.16)の毎日新聞記事で元昭和薬科大教授「古田武彦さん」の訃報(10/14京都市で死亡、89歳)を知った。

 個人的に交際したことはないが、古田武彦さんの九州王朝説には少なからず影響を受けた。
 初めて古田武彦さんの著書「よみがえる九州王朝-幻の筑紫舞」(角川選書)」を読んだのは、昭和60年代だったか、以来、古田史学説にとりつかれた一人でもあった。
 そして、古田武彦古代史講演や古田武彦×安本美典「邪馬台(壹)国論争」シンポジウム等には何度も足を運んだ。
 ついでながら、筑紫舞の舞台公演に足を運び、こちらの方は、今もわずかながら後援会費を振り込んでいるが、これも古田武彦さんの「よみがえる九州王朝」に影響を受けてのことだ。

 今考えると、当時流行った邪馬台国ブームに巻き込まれ、その熱気にどっぷり浸かっていたようにも思えるが、それでも古田武彦さんの九州王朝説だけは、知れば知るほど引き込まれて行った。

 ときどき本ブログのなかで「九州王朝」という言葉を使うことがあり、内容的には古田史学とはかけ離れた使い方をしていることも多いと思うけど、その基は古田史学にあった。改めて、所持している古田武彦さんの著書を読み直そうと思った。ご冥福を祈ります。合掌。


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2015年10月14日

王丸八幡神社と黒尾明神社 (宗像市)

 前回「王丸妙見神社 (宗像市)」からつづく。

王丸八幡神社」(※以下「王丸八幡宮」と書く)。
鎮座地:宗像市王丸字尾中529。

1王丸八幡宮 (1) 前回、「王丸八幡神社は、妙見神社の後(北)の杜に鎮座している」と述べた。
 その参道口は、妙見神社前の集落内里道(緩やかな下り坂)を北東に100mほど下ったところの左側にある。
 ここは、民家と民家の間の道幅の狭い路地になっている。



2王丸八幡宮 路地の先の道幅は若干広がっているが、突当りは妙見神社から続く妙見山の低丘陵の裾で、杉や孟宗竹などが茂る「王丸八幡宮の鎮守の杜」となっている。(※画像)

 ここに14段の上り石段(昭和35年4月献納氏子中)と、その左に小坂道があり、両道は石段の上で合一し、そこに「幟立て石」(明治36年奉寄進若者中)一対がある。

 その少し先に「八幡神社(額束)の石鳥居」(明治21年奉寄進王丸本村産子中)1本が建っている。


3王丸八幡宮 石鳥居の先、境内参道の正面に「王丸八幡宮社殿」(文化4年[1807]築:木造瓦葺の拝殿、幣殿、神殿)があり、社殿は、巽(たつみ)=南東向きに建っている。

 (2) 石鳥居の先、拝殿より手前の参道の右手に、両側にフェンスが張られたコンクリート敷の平坦な細い脇参道がある。


 この脇参道は、境内を囲む盛り上がった杜の外周の右縁を左に回る道で、その右側の崖下から「王丸天然温泉やまつばさ」(階下)の建物が立ち上がり、1分もかからずにその玄関(1階)手前の駐車場に出る。
 なお、同王丸温泉の建物は、社殿の北東部の谷下にある「古の谷池」の縁の手前に建っていることになる。

4王丸八幡宮神額 (3) 王丸八幡宮拝殿内(神殿前垂木)に掲げてある金文字の「八幡宮の神額」には「正二位勲一等侯爵黒田長成謹書」(金文字)の記載がある(※画像)。
 合板に「八幡宮」と刻してあるようにも思えるが、その文字や額縁に施されている金色も鮮やかなので、近年作り直されたか、塗り直されたものか。


 しかるに、この「神額」の文字を謹書した「黒田長成」は、筑前福岡藩最後の藩主12代黒田長知の長男(黒田家13代当主)で、黒田長成が当社を訪れたかどうかは分からないが、地元では黒田家当主に揮毫を頂いたことを名誉なこととしてこの揮毫を大事に保管しているのだと思う。

 なお、黒田長成の揮毫は、朝倉市秋月城跡の垂裕(すいよう)神社境内に建っている「黒田長成書・秋月城之碑」を観たことがある。

5王丸八幡宮絵馬 (4) 拝殿内は2枚の武者絵「絵馬」が、ともに一部色落ちはしているが、掲げてある(※画像)。

 一枚は「弓を持つ二人の騎馬武者図」で、源平か南北朝時代の絵柄だと思え、一瞬「梶原景季の摺墨と佐々木高綱の生食の先陣争い(宇治川の戦い)」が思い浮かんだものの画題の記載なく不詳。

 この絵馬は「奉獻 明治三十五年三月吉日 伊勢参宮同行中」で、同行者15人の名が記されてあり、ほぼ全員名が読み取れるが記載は省略する。

 
6王丸八幡宮絵馬 もう一枚の絵馬は、「10人の武者絵」を描いたもので、「奉寄進 明治十九年十一月吉日 本村氏子友達」とある。
 上記絵馬と同時代の物語の一節を描いたものだと思うが、画題は、記載がなく思い出せない。
 絵馬は、貴重な郷土遺産である。


 (5) 「王丸八幡宮」について、筑前國續風土記附録(以下「附録」という)に「八幡宮(王丸村)産神なり」、また、筑前國續風土記拾遺(以下「拾遺」という)に「(若宮八幡宮) 王丸村の産神也」とあるが、「福岡懸神社誌」(昭和19年1月)に「王丸八幡宮」の記載がないので、(南郷村)村社被定などはなかったのか。
 多分、当時の南郷村大字王丸には、許斐山に郷社「熊野神社」 (明治5年(1872)11月3日被定当時は「許斐神社」か)が鎮座していたからかもしれない。
 なお、拾遺には(王丸村)「若宮八幡宮」と記されているので、王丸八幡宮は「若宮八幡宮」(若八幡宮)とも言われていたことが分かる。

 (6)王丸八幡宮の祭神」は「應神天皇、神功皇后、武内大臣」であるが、拾遺には「此説いふかし。宗像神の御子神なるへし。宗像神事次第記に、許斐従神の中に三御前社一所とあるハ此社也へし。年中の次第ハ王子社に同じ。」とある。

 これは、許斐山下(北東山麓)にある当社は、もとは八幡神を祀る八幡宮(若宮八幡宮)ではなく、許斐山中にある熊野権現を祀る「許斐神社」(現熊野神社)と末社「王子社」(祭神素戔嗚命)と係わる「許斐三御前社」で、本当の祭神は、熊野権現従神として勧請された「宗像三女神」(田心姫命、湍津姫命、市杵島姫命)である、と述べているのだ。

 因みに、許斐神社(熊野神社)・同末社王子社と係わる許斐山麓の「三御前社」については、このほかに「許斐上六御前」(現「六の宮(六之御前社):王丸字許斐」や、「許斐下津六之御前」(現「六所御前社(六之神社)」:宗像市久原字古崎)がある。

 なお、「許斐所主」(=心吉神社:王丸字大谷)は許斐神社(熊野神社)摂社六の宮(王丸「六之神社」)に合祀され、旧神殿の跡地は残っているが行けない。(※次回別記)。
 六の宮境内社に「許斐上七郎殿・許斐下七郎殿」を祀る「七郎神社」(石祠)があるが、許斐上七郎殿=許斐所主上津七郎殿であれば「心吉神社」と同神か。

 (7) ては、どうして(王丸)「許斐三御前社」が、「王丸八幡宮(若宮八幡宮)」となったのだろうか。このことに関する史料の存在を知らないので、勝手に推測してみた。

 近くの「光岡八幡宮(旧若八幡宮)」に「誉田天皇東宮にて未御位に即せ玉はざる時此所へ御遊軍ましまして御車を駐め玉ひたる其陣迹に御社を建てしと云ふ」という由緒があるので、その係わりを考えてみた。

 しかるに、当初、許斐山を含む当地には、誉田天皇(應神天皇)、或は神功皇后伝説はないのではと思い、まず「許斐三御前社」が、許斐山の熊野権現の従神という宗像三女神を祀っていたことから、この「熊野権現」に注目してみた。
 そして、次の「古賀市筵内(席内)に伝わる神功皇后伝説」を思い出した。
 「神功皇后が新羅遠征前に、かつて神武天皇が訪れたという故事がある筵内の藁筵山(鷺白山)に登り、藁筵を敷いて熊野大神を祀った。故に当地を筵内といい、後世、同地に若王子社(現席内「熊野神社」)が建てられた。」
 この神功皇后の熊野大神祭祀伝説をモチーフにして考えたら、「許斐三御前社→八幡宮(若宮八幡宮)」への変更も有りかと思った。

 ところが、その後、王丸八幡宮に、「誉田天皇 御誕生ノ翌年春2月、国母皇后筑紫ヨリ長門国豊浦ノ宮ニ移リ給フ時、此所ニ御鳳輦ヲ駐メ給フ。」という由緒があることを知った。
 であれば、もとから王丸に八幡宮があったことになり、許斐三御前社はこの八幡宮に吸収されたことになるのか。ただし、由緒の内容については理解に苦しむ。

 (8)鎮座の年歴」については、附録に「傳ふる事なし」とあるが、続けて「此社に天正九年大宮司氏貞再建の棟札あり」とあるので、少なくとも天正九年(1581)以前には鎮座していたことになる。

 因みに拾遺には、この「天正九年大宮司氏貞再建の棟札」について「天正九年辛巳の棟札あり。其文曰、奉造替宗像郡村山田郷宗上村若八幡御寶殿一宇奉為社務正三位行中納言執印大宮司氏貞大願主奉行占部越後守平朝臣賢安とあり。」と記載している。

 また、拾遺には、当社は「昔ハ是より二町斗艮村下に有しを、寶永二年故有て爰に迁し奉る。」(※寶永二年=1705)との記述もあるので、この「天正九年(1581)大宮司氏貞再建」は、旧鎮座地でのことになる。
 そして、上記棟札に「若八幡」の文字が見えるので、再建当時、既に「若宮八幡宮(若八幡宮)」の神社名になっていたとことになる。

 であれば、当社が「許斐三御前社」であった時代もまた、旧鎮座地に鎮座していたことになるが、その鎮座年歴については、許斐山の熊野権現「天安元年(857)鎮座説」に付随するか、或は熊野権現信仰が一帯に広まったという「文永2年(1265)」頃まで遡れることになるのか。

 しかるに「平成23年度第3回宗像市文化財保護審議会議事録(要旨)」に、王丸八幡宮には「天平九年(757)」以降の棟札があると記載されている(※下記)ので、事実であれば鎮座年歴は、想像を遥かに超える。
 そして、前回、王丸八幡宮末社「妙見神社」は物部氏と係わるのではないかと記したが、その頃にまで遡るのかもしれない。

 (9) ネットで上記の「平成23年度第3回宗像市文化財保護審議会議事録(要旨)」を読んで、王丸八幡宮には「天平九年(757)の棟札」があるとの記事を見たとき、上記の「天正九年(1581)の棟札」の間違いではないのかと思った。
 しかるに「天平九年」が事実であれば、「天安元年(857)許斐山の熊野権現(許斐権現)鎮座説」より100年も前のこととなり凄い。ともかく同(要旨)を下記に転記しておく。
 「王丸八幡神社の棟札調査について・棟札は天平9年を最古に系統的に残っており重要。早急な保護措置が必要。・年々墨書が薄れているようなので、赤外線で確認をしておくとよい。・天平の棟札について、市史に大鉋とあり、これが台鉋のことなら日本でもかなり初期の例となる。詳細な表面観察が必要。・地元の合意が必要だが、市指定の方向が望ましい。」(平成24年3月23日)。

 (10) 上記(7)の、王丸八幡宮(旧許斐三御前社)の旧鎮座地の場所だが、当初、附録に「(王丸)村中に八幡宮の舊宮の地といふあり。今其所に地蔵堂」とあったのを読んで、簡単に上記参道口の2軒先にあるお堂「薬師堂」を「地蔵堂」だと思い込んで、勝手にこの地に被定していた。
 しかし、上記したように拾遺に「(若宮八幡宮)昔ハ是より二町斗艮村下に有しを、寶永二年故有て爰に迁し奉る。」とあるのを読んで、勘違いであったことに気づいた。

 当社の「艮」(うしとら)=北東方向には、上記(2)に記した「王丸天然温泉やまつばさ」の建物やその下の「古の谷池」などがあり、「二町」(218m余)先となると、「古の谷池」の対岸辺りで、ボテルYOU BOOXが建っている辺りになるのだろうか。(未調査)

 (11) 境内神社:王丸八幡宮神殿の左後方にある「石祠」は、屋根の向きが通常の石祠の作りと異なっているが、神社名の表記がない。

 地元で尋ねていないので断定はできないが、王丸八幡宮の祭神の一「武内大臣(神功皇后陪臣)」との係わりから考えると、附録に記載のある「印鑰社(インニヤクヤシキ)」を江戸後期に遷したものかとも思った。
 つまり、「印鑰社」の祭神は、武内大臣(武内宿禰)の第3子石川宿禰」である。

 因みに拾遺には「印鑰社」について「許斐谷に在。本社(許斐権現社)より七丁程下也。小祠也。此邊許斐氏の宅址也。今ハ畑となれり。其下に森有。貴船社あり。」とある。
 この許斐谷(印鑰屋敷)の「印鑰社」及(貴船森)の「貴船社」の跡地は、許斐山王丸登山口沿い道路の右手丘陵辺にあったのではないか。

 或は、当社と係わりがあっと考えられる「黒尾明神社」で、その旧跡地から遷したものなのだろうか(下記(13)参照)。

 (12) 境内神社:王丸八幡宮神殿の左に「須賀神社」社殿(木造瓦葺拝殿の奥に木扉付石祠神殿)が建っている。 
 祭神は、許斐山頂の「王子宮」(熊野神社末社石祠)と同じ「素戔嗚命」で、当地は、もともとは物部氏の勢力地域だったのではないかとも思う。

603王丸八幡手水鉢ハート なお、正面参道の左(須賀神社前方)の叢に放置されている石手水鉢がある(奉納年未詳)。

 この境内で「♡」形の手洗鉢(つくばい)を見つけたら幸運(良縁成就なども)が来るという言い伝えがあるそうだが、この手水鉢がそれで、すぐに見つかる。


55王丸番外薬師堂 (13) 上記「参道口」に戻り、里道を左折すると左側二軒先に「薬師堂」(宗像四国西部霊場「番外王丸薬師堂」本尊薬師如来(石仏))(※画像)があり、その先に右折三つ角がある。

 (※注:薬師堂は王丸「善徳寺」にも39番がある:別記予定)。

 
 因みに、ここを右折するとすぐに拡幅された新道に出て、直進すると2回の大カーブを経て「旧唐津街道・原町宿」の中ほどに到る。なお、「新道」と書いたが、江戸時代には、既にこの道沿いに里道があったと思う。


56王丸地蔵祠 (14) 薬師堂前の三つ角を右折せずに直進すると国道3号線下の小ガードをくぐり、溜池外堤に上り、堤上の細道(近年、池の縁にガードレールが設置されたが、車通行は勧め難い)を通り抜けて、合流する里道の左に小祠(赤いエプロンをした石仏が安置されているが地蔵菩薩か)がある(※画像)。


 小祠は木造モルタル瓦葺で比較的新しい感じがして、中には石仏のほかにミッキーマウスの縫いぐるが置いてあるので、ひょっとしたらこの池で子供の事故があったのだろうか。

 ここで交わる里道は、光岡八幡宮の裏(右)と国道3号線王丸交差点(信号機)の北側にある交差点を結ぶ里道(右は細い農道)である。

 (15) [黒尾明神社]
 この王丸交差点の北側の交差点を直進すると、(※王丸交差点から北進すると直ぐ)左に「黒尾池」があり、池の前で二股に分かれる道の正面にラブホテルグラムローズ1が建っている。
 この左側の道は、黒尾池築堤上の細い道で、国道3号線に通り抜けできないが、突当りの右に削られたような丘があり、少し気にはなるものの雑草が繁り入ったことはない。
 この辺りのどこかに、今は現存していない「黒尾明神社(黒尾明神)」(宗像七十五社番外山田郷黒尾社)があったのではないかと思う。

 「黒尾明神社」は、かつて熊野神社(許斐権現)の御輿が渡った「頓宮」だと思われるが、「頓宮」については、福岡縣神社誌に「本宮より十町許り艮方に頓宮跡有り今松を以て標とす礎尚残れり」とある。
 黒尾池は、本宮(許斐山「熊野神社」)から「十町許り艮方」(約1kmほど北東・鬼門(うしとら)方」にある。

 「黒尾明神社」は、かつて5月14日と8月14日の熊野神社大祭の日に、「宗像五社」(宗像三宮、織幡明神、許斐権現)の御輿(神輿)が江口の五月濱に揃う行事が行われていたが、その前日に許斐権現(熊野権現)の御輿が一泊していた神社である。
 そして、行事当日になると、旧宗像郡の村々から担ぎ手が「黒尾明神社」に「(許斐権現の)御輿迎え」に来て、田島宮(宗像大社辺津宮)に運び、そこからは宗像三宮の御輿とともに江口の五月濱(浜宮及び五月宮)に神幸していた。織幡明神の神輿は、さつき松原を通り抜け五月宮に直行していたのではないかと思う。
 ※参照→「往時の御輿迎え[許斐山15]」。

 「黒尾明神社」の鎮座地は、王丸八幡宮神殿の後方(北西)約500m先にあり、「王丸八幡宮」の奥宮とも思える位置にある。つまり、王丸八幡宮神殿を参拝すると、同時に「黒尾明神社」を遥拝する形になっていたかもしれず、両神社の間にはつながりがあったと思う。

 なお、王丸は許斐山の北〜東の山裾にあり、黒尾尾中(八幡宮鎮座)、松尾(原町に到る手前左の小丘)といった小字が並び、また許斐山の登山口に王丸、頂上に王子社が鎮座するなど、地名、社名等の類似にも興味がひかれる。

 ※つづく→「王丸の(旧)心吉神社について(宗像市)」。

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2015年10月10日

長崎市の夜景(日本三大夜景の一)

1長崎夜景 昨日(10/9)、「夜景サミット」(夜景観光コンペション・ビューロー等の主催)で、「日本新三大夜景(2015)」に、長崎市、札幌市、神戸市の三都市が認定されたという。

 その日の夜、奇しくもその一「長崎市」立山の別邸紅葉亭にいた。

 そして、窓から日暮れとともに明かりが灯った長崎市の夜景を観ていた。
 ここから望める夜景は、西の稲佐山から南西に長崎駅、長崎湾にかけてだが、長崎市の夜景は、どの方向から観ても素晴らしい。
 それ故に毎年、夜景日本一がゆるがないのだろう。
 (※画像1は、別邸紅葉亭3Fから観た南西(長崎駅、長崎湾)方向の夜景)。


2稲佐山夕陽 夜景が現れる少し前、たまたま、夕陽が稲佐山の上にかかる雲間に沈む直前数分間の風景も観ることができた。(※画像2)

 雲がなければ、夕陽は、稲佐山の真上に沈む景色が見られたのだろうが、なかなかそううまくは行かないか。
 また出かけよう。

 なお、長崎は、今年の「世界三大夜景」の一にも認定れ、また、今年「世界遺産」となった「明治日本の産業遺産」のなかでも、その遺産件数が多いので、今後、さらに日本のみならず世界から観光客が増えると予想されている。


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2015年10月05日

王丸「妙見神社」(宗像市)

 「唐津街道 原町宿南搆口と原町館原釈迦堂へ(宗像市)」に、「旧唐津街道原町宿の中ほどにある三つ角(経石あり)から西に(王丸)八幡神社、妙見神社、善徳寺(浄土宗)、許斐山王丸登山口、六の宮(六之神社)や王丸温泉やまつばさ等がある王丸地区に行くことができる」と記した。

 このうち「許斐山(王丸登山口六の宮=六之神社=六之御前社・熊野神社三尊石頂上・王子宮等)」や「王丸温泉やまつばさ」については記したことがある。
 ※参照→「正見行脚 許斐山1」〜16。
 ※参照→「宗像王丸・天然温泉やまつばさに浸かってきた(初)」。

 今回は、これ以外のことにいて書きとめておきたい。

 (1) 国道3号線「王丸交差点」(信号機)を南(許斐山王丸登山口)方向に曲がると、すぐ左側(ヤマダ電器の裏側)に「王丸温泉やまつばさ」があるが、直進して切り通し部分を抜けたところでT字路になる。
 右折(西進)すると許斐山王丸登山口に到るが、左折(東進)すると、70m先で新道(右)と旧道(左)の二股道に分かれる。

 新道の右側に王丸公民館(宗像コミュニティバス停)駐車場や善徳寺駐車場があるが、まず左側の道幅の狭い旧道(里道)に入り30mほど歩くと左(北)側に空き地がある。(※画像1)

王丸妙見神社1 空き地内には、井戸跡らしきものもあるが、剪定の行き届いた樹木が間隔を開けて植えてある。

 また、地面の雑草も定期的に刈られているようで、ここは、集落で管理しているくつろぎ庭園なのだろうか。(昔、社殿があったような気がするが記憶違いだろうか)。 


 空き地の後方は、樹木や孟宗竹等が茂る低丘陵で、その丘陵上に見えている建物(木造瓦葺吹き抜け壁)は、王丸「妙見神社」拝殿である。
 (妙見神社の所在地:宗像市王丸字尾中533)。

王丸妙見神社2鳥井石段 (2) 空き地と、その右にある民家との間に細い参道があり、その突当りに「妙見神社」の額束がある石鳥居がある。
 石鳥居は、昭和12年(1937)建立で「支那事変記念」の刻字がある。今は使われなくなった「支那」が見え、日中戦争の歴史学習を語る時には貴重な史料となる。

 ここからせり立っている丘陵の急斜面をまっすぐ上る石段(50段ほどの自然石の切石階段)が付いているが、石段の上部(大部分)から左方の土崖面にかけて大きなブルーシートがかけられている。(※画像2)

 そのため、この石段を上るときは、かなり足元注意が必要で、危険性もあるのであまり勧められない。

9) 最近(2015年9月)行った時は、左方の急斜面にかかっていたブルーシートがめくれ上がり、崖面の赤土が露出していた(※画像2)が、改めて、以前(2011年9月)撮った写真(※画像3)を見直したら、この急崖面全体にブルーシートがかかっていた。

 強風でめくりあげられ、そのままになっているのだろうと思うが、この崖面の土砂が崩落した後、今も放置されたままになっているので、改修補強工事に係わる資金の調達が未だできていないのかもしれない。


 脱線するが、概して日本の行政は、レットゾーンやグレーソーン等を指定して防災ハザードマップを作り住民に注意喚起を促すことはしても、防災工事への取り組みは大きな事故でもない限りしないようだ。そして民有地には手を下せないというのが落ちである。

 (3) この低丘陵を「妙見山」といい、妙見神社の山裾は、上記T字路から上記「王丸温泉やまつばさ」の広大な敷地一帯まで伸びている。
 丁度、妙見神社の後方(北側)の林のなかに「王丸八幡宮(八幡神社)」(次回記載)があり、その後方に「王丸温泉やまつばさ」の駐車場がある。

 (4) 妙見神社は、この王丸八幡宮(かつて「若宮八幡宮」ともいった)の末社である。
 「(若宮八幡宮)末社天児屋根命を祀る。河内國牧岡社より勧請すると云フ。本社の南半町斗森の中に小祠あり。」(筑前國續風土記拾遺)

 ただ、妙見神社の祭神を「天児屋根命」とすることには違和感がある。

 「妙見神社」の名は、北辰星=北極星や北斗七星を最も神聖な星として霊験を仰ぐ「妙見(北辰)信仰」に基づくものなので、この王丸「妙見神社」のもともとの祭神は、「妙見菩薩(北辰妙見大菩薩)」(北辰星=北極星や北斗七星を神格化した神仏習合神)、或はこの妙見菩薩と習合した「天御中主命」だったのではないかと思う。(道教・陰陽道では太上神仙鎮宅霊符神)。

王丸妙見神社4 王丸妙見神社の神殿は、妙見山丘陵の南面の丘陵上に、南向(北向き参拝形)に鎮座しており、今は、神殿の周りを、後背(北)を含め、繁った樹木等が覆っているので非常に分かりにくいが、創建当時、ここは北辰星を望むに絶好の丘であったと思う。
(画像4)


 妙見丘陵は、許斐山(熊野権現)の東山麓にあり、かつ妙見神は物部氏とも係わりの深い神でもあるので、当地一帯は、もとは物部氏の勢力範囲であったと考え、許斐山頂の「王子社(祭神:素戔嗚命)」の王子は、実は饒速日命のことで、許斐山東麓登山口にある王丸はその王子を囲む一族がいた地ではないかと考えたこともあった。
 なお、王子社の祭神という素戔嗚命(饒速日命の父神)は、王丸八幡宮の境内社「須賀神社」にも祀られている。また、熊野権現は「伊弉册尊、泉津事解男命、泉津速玉命」となっているが、「饒速日命」であると思う。

 したがって、この面からも、この地に鎮座する妙見神社の祭神が、藤原氏の祖先神(春日神)と称される「天児屋根命」だということには違和感があった。
 しかるに、このことは、多分、その後、当地に藤原氏の勢力が及んだ時代(右大臣藤原良房が太政大臣となった天安元年(857)許斐山熊野権現鎮座説あり、また筑前福岡藩主黒田家も藤原姓を名乗る)に「河内國牧岡社」(牧岡神社)から「天児屋根命」を勧請し祭神の入れ替えが行われたのかもしれない。

※つづく→「王丸八幡神社と黒尾明神社 (宗像市)」。 

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