2015年11月

2015年11月21日

久原「覚王寺(廃寺)地蔵堂」(宗像市)

 前回「久原 六之神社 (六所御前社) 宗像市」からつづく。

1地蔵堂入口 (1)「(久原)六之神社」参道口(松本造園横:久原292)から北東方向に下り、宗像市立中央中学(久原244)の東側から川崎丘陵上の「メイトム宗像」(久原180)への坂道を上り、同第3駐車場の先の右急カーブの左側にある石段の下に「(久原川崎)地蔵堂」(久原205-3)がある。


 以前は、この急カーブの角に一際高く生えていたクロガネモチ(当時:高さ10m)が「地蔵堂」入口の目印となっていたが、最近見当たらない
 なお、この「クロガネモチ」のかつての画像は、以前記した「地蔵堂(宗像四国東部霊場25番)にて」(2010.9.19)に掲載している。

 (2) この地蔵堂は「(久原)覚王寺廃寺地蔵堂」ともいい、「宗像四国東部霊場第25番札所 久原覚王寺廃寺地蔵堂(本尊地蔵菩薩)」となっている。

 因みに、四国霊場第25番札所は「宝珠山真言院津照寺(真言宗豊山派)本尊地蔵菩薩(楫取地蔵)」(高知県室戸市室津2652-イ)である。

 (3) 再掲するが、「覚王寺」については、筑前國續風土記附録に久原村「覺王寺 ババシヤウシ 禅宗洞家佛堂二間二間半 金剛山と號す。室生寺に属せり。開基の年歴詳ならす。寺内に大日堂あり。秘佛といふ。」とある。 

 また、同拾遺には(久原村)「覺王寺 金剛山と云。禅宗洞家室生寺の末也。本尊ハ観音也。境内に大日堂木像長弍尺五寸古佛也。弘法大師の作と云。此寺に大宮司氏佐氏雄等夫人の牌を安置せし所なる由。今ハ是等の牌を安置せし所なる由。今ハ是等の牌当寺になし。」とある。

 なお、・宗像氏佐は、第72代大宮司(明応5(1496)年~明応7(1498)年在職)、及び第74代大宮司(明応9(1500)年~文亀3(1503)年在職)~甥の第71・73・75代大宮司宗像興氏との間で大宮司職を巡る争いがあった。 
 ・宗像氏雄(氏男)は第78代大宮司(天文16(1547)年~天文20(1551)年在職)=76代大宮司宗像氏続(永正2(1505)年在職)の子。氏雄(氏男)の夫人は菊姫。菊姫は山田事件(天文21(1552)年)で暗殺され、翌年、氏続(氏佐の子)は彦山で暗殺された。~※下記参照。
 覺王寺は、多分、中世末期、宗像大宮司家との係わりがあった寺院で、菊姫らの供養ができたのは、菊姫らを暗殺し第79代大宮司となった宗像氏貞の許しと庇護があったからではないかと思う。

 この史料により中世末期〜近世には、久原に曹洞宗室生寺(大穂)末の金剛山覺王寺(本尊観世音菩薩)と同大日堂があったことが分かる。

2地蔵堂 (4)上記「(久原)覚王寺廃寺地蔵堂」は、現・川崎神社境内(久原193)に接した崖下にあり、現況の狭い境内を見た限りでは、ここに覺王寺(以下「覚王寺」という)の寺院伽藍があったとは考えにくいが、地蔵堂を含む隣地一帯、若しくはその西の道路の対面地(久原242太陽光パネルあり)辺りにあったのかもしれない。

 (5) それはともかく、覚王寺廃寺といっても、古代寺院の廃寺ではなく、江戸時代までは存在していた中世寺院ではないかと思われ、確認はしていないが、明治維新の廃仏毀釈等のあおりを受けて廃寺となった寺院ではないかと思っている。

 地蔵堂内に安置してある本尊地蔵菩薩石像と弘法大師石像以外の仏像は、覚王寺寺本尊観世音菩薩像、同寺大日堂の木像だったかもしれず、それらの仏像を安置していることを以て当地蔵堂を「覚王寺廃寺地蔵堂」と称したのかもしれない。
   
 (6) 地蔵堂の前には元禄16(1693)年6月建立の「庚申之塔」や、古い地蔵菩薩供養塔(破片を含め5体/いずれも造立年等不詳)がある。

 (7) 同上附録に「石地蔵 アテノキ」の記載がある。
 アテノキ(當ノ木)の場所が分からないが、同上拾遺に「大穂の谷より流出て…東郷村へ流出る川の堤上に小森有。當ノ木と云。石仏在。…地蔵菩薩とあかめて祀り」とあり、当地蔵堂は、大穂の谷から流出するかつての高瀬川の川岸(川崎)にあり、小森あり、境内に石地蔵菩薩や地蔵菩薩供養塔(石仏)が祀られている。

 同上拾遺に載っている「石地蔵 アテノキ」の記事を次に転記する。
 「(久原)村の艮に川有。水源大穂の谷より流出て、光岡村を経て此村に入。東郷村へ流出る川の堤上に小森有當ノ木と云。石仏在。いつれの頃いかなる事にか有けむ。宗像家の婦人幼児を抱て難を避て、此所を落行けるを、追手跡より来れり。婦人子を抱なから此森の内に隠れぬ。追手是を見失ひて、其傍の田を耕し居たる農夫に、婦人の行ゑを問ひしかハ、農夫ものハ云ハすして指して此森の方を教へける。是に依て遂に此所にて母子共に殺害せられぬ。其後此村人に祟厖て止む事なし、依てかの母子を地蔵菩薩とあかめて祀りける由云傳フ。其母子を葬りし墓は曲村の内に有。此事鞍手郡山口村にて殺されし宗像氏続の幼児に似たる古事也。」

 因みに同拾遺には、「其母子を葬りし墓」について、「(曲村)善王寺址 昔ハ禅寺也。今ハ廃して小堂に観音地蔵像有。村民云。いつれの時にか有けむ。宗像大宮司の落胤の男子いかなる故にか有けむ。乳母抱きて白山城を出落行しを、追手来りて當郡久原村の當ノ木にて殺せり。其乳母と幼児とを此寺に埋む。堂の側に古墓二ッ有是也。其後霊魂祟をなせしかハ、乳母を観音に崇め幼児を地蔵をあかむ。堂内の仏像ハ是也。又石躰ノ地蔵有。里民セイダウ地蔵と云。昔此寺の西堂也し僧をあかむと云り。毎年三月にハ村民法會をなし。稲元村の巫女来りて霊を下し託言をのふる。」とある。

 ※宗像市曲を行脚中、桜公園の堂前で破損分解している古い小五輪塔を見かけたことがあるが、これが乳母子の古墓だったのだろうか。
 (※別記→「宮田大日堂・善王寺址の観音堂(宗像市曲)」)。

 …「いつれの時にか有けむ」とあるが、天文21年(1552)に起きた宗像家お家騒動・山田事件(※下記参照)に係わる伝承の一つだろう。
 山田事件は、宗像家中を揺るがし、白山城を出落行した家人は各地で討たれ、例えば赤子石(※→「宗像戦国悲話を伝える赤児石宗像市野坂」参照)や「夜泣き芝」(村山田光蓮寺)など多くの悲話を残した。
 
 ※なお、「鞍手郡山口村にて殺されし宗像氏続の幼児に似たる古事」とは、第79代宗像大宮司に幼児の千代松(第76代宗像氏続の子・第78代氏男の弟)を擁立しようとした山田局(第77代正氏の正室)と菊姫(第78代氏男正室:正氏と山田局の娘)が、鍋寿丸(正氏と第二夫人照葉の子:後の宗像氏貞)擁立派によって、天文21年(1552) 3月23日、白山城下・山田館で侍女4人とともに暗殺され(宗像騒動・山田事件)、そのとき逃亡した千代松とその母(氏続の側室お弁の方)が、1年後の天文22年(1553)3月24日、山口村(宮若市山口畑地区)の山里で殺害された事件のことである。…山口村の母子殺害地については別記する。
 ※別記→「宗像騒動・千代松と母お弁の墓(宮若市山口畑)」。

 ※つづく→「川崎神社(追記)と久原遺跡(宗像市久原)」。

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2015年11月10日

久原「六之神社 (六所御前社)」(宗像市)

 前回「久原平清水阿弥陀堂(宗像市)」からつづく。

2 (1) 先に「王丸八幡神社と黒尾明神社 (宗像市)」のなかに、許斐山麓には、かつて許斐神社(熊野神社)主神許斐権現(熊野権現)及び同末社王子社(王子宮:主神素戔嗚命)の従神(眷属)として勧請された宗像三女神(田心姫命、湍津姫命、市杵島姫命)を祀る「許斐三御前社」があったことを記した。
 この許斐三御前(宗像三女神)祭祀社は、次の三社である。
 ゝ斐三御前社(現「(王丸)八幡神社」)
 許斐上津六御前(現「(王丸)六之神社(許斐山六の宮)」

 許斐下津六御前(現「(久原)六之神社=(六所御前社・六御前社)」である。

 (2) 今回は、このうち、これまで探訪記を掲載していなかった「(久原)六之神社」について記す。

 「(久原)六之神社」の鎮座地(久原字古崎278番)は、久原(古崎)集落内の民家の間の狭い路地の奥にあり、分かりにくいが、鬱蒼とした樹林を背景にして許斐山方向を向いて鎮座している(※下記ウォーキングコース参照)。
 ここの字は「古崎」で、近くに字「川崎」があり、この辺りは、かつて釣川支流の高瀬川に面した許斐山北陵の最北部に位置する崎(岬)であったと思う。

17 (3) 天安元年(857) 熊野権現(許斐権現)の許斐山鎮座説があり、そのとき許斐権現の従神として勧請された許斐三御前(宗像三女神)を含む六神(六御前)を祭祀した古社(許斐下津六御前=六所御前社=六御前社)が現(久原)六之神社で、宗像七十五社の一に数えられる。

 この古社の雰囲気を味わう気持ちで境内に入ると、真新しい御影石造(平成14年3月建立)の狛犬、幟立て石、鳥居(額束「六之神社」)、石燈籠、手水鉢等が参道に並んでいるので、若干気持ちとのずれを感じてしまう。

 小さな旧手水鉢も残されているが、新旧いずれの手水鉢にも手水舎や水道施設がないので、普段、手を洗うのには適しないと思う。
 なお、境内には小さいが藤棚もあり、また境内の清掃も行き届いており気持ちよい。

17 (4) 鳥居には「六之神社」の額束が掲げてあるが、拝殿内には「六柱大神廟」と記した神額(扁額)が掲げてある。

 「六之神社」とは、六柱の大神の神霊を祭神とする神社ということで、この六柱大神(祭神)の神霊とは、宗像三女神(田心姫命、湍津姫命、市杵嶋姫命)、彦火々出見尊、豊玉姫命、猿田彦命である。
 また、「六柱大神廟」とあるのは、この六柱の神霊が鎮まる所(鎮座地)という意味なのだろう。

 なお、この「六柱大神」は「六御前」ともいい、よって「六御前社」「六所御前社」等といわれた(後述)。

 (5) 「六之神社」の社名は、かつて「(許斐)下津六御前」「六御前社」「六所御前社」等の名で呼ばれていたが、福岡縣神社誌に「村社六所御前社明治四年故有て六之神社と改稱す」とあるので、明治4年(1871)から現「六之神社」の社名に変わったことが分かる。

 (6)  旧「(許斐)下津六御前」「六御前社」「六所御前社」の社名は、下記史料に記載がある。
 ・「六御前社…宗像祭紀記に、下津六御前と云るハ此社成へし。祭礼の次第上六御前に同し。許斐社の従神也。」(筑前國續風土記拾遺)。
 ・「正平年中、許斐権現の眷属のうちに、下津六御前一所と、同下津六御前神事の條や慶安神事次第、許斐踏歌事の條には、神事次第が述べられている」(宗像第528号:宗像大社)
 ・「鎮座地を東郷村大字久原字古ノ崎とし、社名を六所御前社(舊村社)とする。由緒として古来下津六之御前といふは是社なり。」(明細帳)。
 ・「村社六所御前社…由緒 宗像祭紀記に下津六御前といへるは此社也 許斐王子神社従神なり」(福岡縣神社誌)。
 ・「宗像七十五社の一…許斐下津六御前」(宗像神社史)。

 (7) 上記したように宗像三女神(三御前)は、許斐山に鎮座した許斐権現(熊野権現)の従神(眷属) 許斐三御前として祭祀され許斐山麓三か所(王丸古ノ谷、王丸許斐谷、久原古崎)に鎮座した。

 この三女神に三神(彦火々出見尊、豊玉姫命、猿田彦命)を加えた六神(六御前)が許斐山麓の上部・許斐谷の許斐川岸に鎮座したのが「許斐上津六御前」で、許斐山北稜山麓の下部(末端部)の久原古崎(高瀬川津)に鎮座したのが「許斐下津六御前」である。

 ただ、宗像三女神に彦火々出見尊、豊玉姫命、猿田彦命三神を加えて六御前としたのは、山神、出雲物部氏、熊野修験等の係わりも考えられるが、明確な理由は不詳。

 (8) 許斐下津六御前は、許斐山の北陵山麓先端部に位置し、当地の北東部を流れる高瀬川(釣川支流)は、かつて川幅も広く、朝町川とつながり入海の様をなし、当地はその入海に突き出した下津(船着き場)があったのではないかと思う。

 当地の字「古崎」は、「古ン崎」「古の崎」とも書き、「川崎」と並んだ地区に位置にあり、ともにかつて高瀬川の入海に突き出た岬(山稜が突き出た先端)だったことが伺える地名となっており、特に古崎は古い時代に埼(岬)があったことを示しているのだと思う。

 つまり、宗像三女神の神霊が、宗像神社(宗像大社辺津宮)から釣川、その支流高瀬川を遡り、許斐山に向かって上陸した地点に祭祀されたのが当社ではなかったのか。

 (9)  また、当地を「イバノモト・射場の本」(筑前國續風土記附録・同拾遺)ともいうようだ。

11 「射場」から流鏑馬の神事が思い浮かぶが、(私は)、射場の本は、宗像三女神等の御神霊が乗った川舟から川岸に向けて射た矢が落ちた所で、上陸地は後に古崎と呼ばれ、ここにこの矢を御神霊とした神廟(六柱大神廟)を建てたというSTORYを考えてみた。そんなロマンも誘う神社でもある。


 (10) 六御前社再建を語る史料とて「元亀4年9月の棟札」が現存しているらしい。
 この「棟札」については、筑前國續風土記附録、同拾遺、福岡縣神社誌等に「元龜四年九月宗像大宮司氏貞再建の棟札あり」とある。

 なお、この「棟札」に関して、論文「中世の宗像神社と鎮国寺(花田勝弘)」に「元亀4年(1573)に久原村の六之神社棟札銘に、「漉水、鎮国寺 実相院」とある。神社の改築に(津瀬村の)実相院の僧侶が漉水の役を務めている。」との記述がある。
(※参照→「多礼の石鎚神社・薬師堂:追記 宗像市多禮」)。

 (11) 江戸時代の社殿(拝殿・渡殿・神殿)、祭祀等については、同上附録に「久原村 六御前社 イバノモト 神殿方三尺・拝殿方二間・祭禮九月十九日・奉祀尾形出羽 産神也」、同拾遺に「(久原村)六御前社 射場ノ本と云處に在。産神也…祭礼の次第上六御前に同し…奉祀ハ内殿村尾形氏也」との記載がある。なお、内殿村とは現 福津市内殿のことか。

 (12) 上記に「産神也」とある件について、久原には、久原(本村)、川崎平清水の三地区あり、久原に六之神社(六御前社・六所御前社)、川崎に川崎神社(川崎社・川崎大明神)、平清水に貴船神社(貴船社・貴布祢社)が鎮座しているが、六之神社を三地区全体の産神とし、他の二社を当該地区の産靈としたようだ。
 これは、明治以降も引き継がれ、六之神社が「村社」となり、他の二社は「無格社」となった。

 (13) 因みに、宗像に限らず筑紫(福岡県)では、「」は「はる」と発音することが多いが、当地「久原」は「くばる」ではなく、「くばら」と発音する。この「久原(くばら)」は「百済(くだら)」が転訛したものだという説もあるようだ。筑紫では、「百済」に係わると思われる地名や姓氏も多い。

 (14) 福岡縣神社誌(昭和19年1月)には、「村社六所御前社(宗像郡東郷町大字久原字古の崎)…明治五年(1872)十一月三日村社被定 祭礼日十月十二日 主なる建造物 神殿、渡殿、拝殿 境内坪数二百十坪 氏子区域及戸数約八十五戸…」とある。

 「宗像第528号」(平成17年2月宗像大社)には、六之神社の現社殿について「西南面に覆屋付き小型の一間社流造、建立年代は安永六年(1777)、大工は、元木村作之丞と棟札に記されている。…三六四坪余りの境内」との記載がある。因みに「元木村」とは、現「福津市本木」か。

 昭和19年の境内坪数210坪(693)に対して、現364坪(1201)で、広くなっているが、これは、社殿の後背に広がる樹林敷地が神社の杜となったということなのだろうか。
 なお、現在、六之神社の前面には民家が建ち並び、そのなかの路地を這うようにして進み参道入口に到るが、当初は、この一帯すべてが境内だったのではないかとも思う。であれば流鏑馬も可能だった。

 拝殿には、上記「六柱大神廟」神額(扁額)のほか、「絵馬」も飾られているが、常に施錠してある拝殿に入殿したことがなく、絵馬の詳細未詳。

 (15) 境内神社は、社祠2棟、石祠2社ある。
 貴船神社(保食神):附録に唯一「社内に貴船社あり」との記載がある、須賀神社(素戔嗚尊):許斐権現(熊野神社)末社王子社の祭神を勧請したものか。石祠は八幡神社(應神天皇)、菅原神社(菅原道真)である。

17 (16)オガタマノキ(招霊の木)モクレン科」と題した紙が拝殿の外壁に貼り付けてあった。内容は、その分布、花、果実、葉、写真など「植物図鑑」の説明を書き写したものだが、「※境内の右奥の方にあります。神事によく使われる。その他庭木や家具材にも。」と書き加えてあった。


 同所で確認すると、ナンテンの手前に、高さ1mほどの小さなオガタマノキが1本あった。オガタマノキが突然自生するはずはないので、氏子の人が苗木を移植したものだと思う。

 オガタマノキは「小賀玉の木」とも書き、光沢のある深緑色の葉が美しく、花(2~4月)の香りが香ばしく「招霊の木」として、昔は、神事で神棚や祭壇等に供えられていたが、今は「本榊(サカキ)」(モッコク科サカキ属)にその座を譲っている。
 現在、六之神社境内に植えてある小さなオガタマノキを観ていて、将来、大木になったらどうするのだろう、などとまた余計な心配をした。

 なお、宗像地方行脚中、織幡神社(鐘崎)、年毛神社(福津市勝浦)、旧楯崎神社跡(福津市渡)などでオガタマノキを見かけたが、いずれも大木になっていた。 ※参照→「オガタマノキ楯崎神社・織幡神社でも汗をかいた(3)小賀玉の木」。→「旧楯崎神社のオガタマノキ [楯崎神社(1)]」。

 (17) [ウォーキングコース(平清水→久原六之神社)]
 久原六之神社の鎮座地は、今はGoogleマップで検索すれば分かることだが、一応ウォーキングコースを記しておく。
 (a) 通常は、王丸交差点→ユリックス西交差点(※変形四つ角を)直進(道幅狭い:車通行量多)→この先、集落の外れを左折→松本造園前右折→同横左折というコースを取る。
 (b) 今回は、前回の久原平清水阿弥陀堂下・平清水貴船神社前の里道を北方向に(貴船神社に向かって左に)歩く。
 里道を200m余進み、交差道路(ユリックス西〜日の里団地間)を横切り200m余直進すると四つ角(右手前角に久原公民館:久原495-3)がある。

 ゝ弩狂民館前を右折し東に100m坂道を上り(右側の丘陵は亀の甲)、三つ角を左折、左角地にある松本造園:久原292)の右横の狭い路地(参道口)に入るとその奥に久原六之神社正面参道がある。(※なお、車の場合、境内には駐車場できないが参道の前(民家の横)に1台は一時駐車できるかもしれない)。

 (付記) 以前、初めて(久原)六之神社を訪れたとき、久原公民館前をそのまま200m直進し、中央中学校校庭の手前を右折、中学校の外柵に沿って狭い道(通り抜け不可)を100mほど進み、右側の樹林(踏み跡あり)のなかを通り抜けたら右側に神社があった。要するに参道口が分からずに、(当時は、Googleマップなどという便利なものはなく)周辺を徘徊したあげく、たまたま行き着いただけのことではあるが、この樹林は久原六之神社の後背の杜だったのだろう。

 ※つづく→「久原「覚王寺(廃寺)地蔵堂」(宗像市)」。

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2015年11月06日

大相撲番付表は魔除け

 11月8日開幕する「平成27年大相撲九州場所番付表」を受け取った。
 勝負にかける力士名がぎっしりと書きこまれた番付表を壁に貼り付けていると「魔除け」になる。

九州場所 「魔除け」と言えば、神社の神前で行われる奉納相撲は、各力士に憑いた神々の力比べ、だから、神聖な土俵に悪い魔は近づけない。

 そして、土俵には発露する神々の気力が充満し、相撲の観客は、その気力の恩恵を授かる。

 番付表にも、きっとその神々の気力がいっぱいつまっている。だから「魔除け」になるのだ。

 ところで番付表を送ってくれたのは力士「大野城」(高田川部屋)の父親…、番付を上下しながら今場所、自己最高位・幕下東六十枚目に上った(かつてのわんぱく少年だった)息子の頑張りに励まされているという。活躍を祈る。

(追記)大野城:九州場所では負け越した。

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2015年11月05日

久原平清水「阿弥陀堂」東部57番(宗像市)

 前回「平清水貴船神社(宗像市久原)」からつづく。

(1) 平清水貴船神社(久原549)の左側から、その裏山(丘陵)に上る坂道があり、その坂道は、神社の裏にあたる辺から右折し、大きく左回りにカーブを描き、頂上に設けられている平清水集落納骨堂に到るが、この右折する場所の正面に、納骨堂正面に向かって急斜面を直登する長い石段がある。

1平清水阿弥陀堂 この石段を上り始めると、その途中に丘陵の段丘(踊場)があり、この左側の奥に木造瓦葺トタン張りのお堂が建っている(※画像1)。

 このお堂が、前回「(貴船)神社裏山(丘陵)の中腹にある阿弥陀堂の前にもハート形の手水鉢(蹲)がある」と記した「(久原平清水)阿弥陀堂」である。

 また、「宗像四国東部霊場第57番札所(久原平清水)本尊阿弥陀如来」となっている。

 阿彌陀堂の入口の格子戸は常時施錠されており、格子の間から堂内を覗き見た範囲では、阿弥陀如来像など5体の石仏が安置されているようだ。
 これらの石仏の詳細や由来等については分からないが、平清水貴船神社と係わる仏だったのかもしれない。
 しかるに、現在は、阿弥陀堂(阿弥陀如来)の上に納骨堂が建ち、当地は欣求浄土・御霊供養の霊地となっているのかもしれない。

2平清水阿弥陀堂 (2) 阿彌陀堂の境内参道となっているこの段丘上には雑草や樹木が繁り、ここからの眺望はあまり望めない。

 しかるに、そのなかには桜や藤棚もあり、桜や藤の花が開花する頃には、ここでの花見もできそうだ。(※画像2)

 特に藤棚は、丘陵下の平清水池の上にもあるので、開花の頃には両方の藤花を愛でることもできそうで、その時期に、合せて雑草取りも実施されているのかもしれない。
 なお、眺望を望むときは、絶景とまでは行かないが、納骨堂のある丘陵頂上まで上るとよい。

3平清水阿弥陀堂手水鉢 (3) ♡(ハート)形に作られた手水鉢は、阿弥陀堂の前の叢に置いてあり、蹲(つくばい)のなかに落ち葉と雨水が溜まっていることが多い。(※画像3)

 もちろん、この濁った水で手を洗うことはできないが、この♡形を観ているとなぜか心が温まる。

 宗像地方の神社境内では、時々形手水鉢を見かけるが、恋愛スポットとなっているのかもしれない
 特に当地平清水では、この形がこの阿弥陀堂と貴船神社の境内にあるので、この二つがセットになっていると考えたら、二つ見付けて恋愛成就、家族円満ってことかな。合掌。

 ※つづく→「久原 六之神社 (六所御前社) 宗像市」。

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2015年11月03日

平清水「貴船神社」(宗像市久原)

 前回「関取許斐嶽の墓(宗像市王丸)」からつづく。

(1) 今回は、王丸交差点(国道3号)から北(宗像ユリックス)方向に新道を進む。二車線道路(両側歩道付)で、左側の歩道の横に「黒尾池」があり、その対岸辺にかつて「黒尾明神(社)」があった。(※→「王丸八幡神社と黒尾明神社(宗像市)」に記述)。
 黒尾池(四つ角)より先は、許斐山の北陵にあたる低丘陵を切通した新道で、400mほど進むと右側に「宗像ユリックスゆーゆープール」があり視界が開ける。

(2) プールへの入口は、この150mほど先にあるが、丁度その前、道路左側の歩道に直角に接続している道幅の狭い里道(※車進入不可)がある。
 この里道は、平清水(ひらしょうず)集落内の小道で、この里道を200m余り下ると、正面に農地(農地の先は日の里6丁目住宅団地)が広がる三叉路(道幅は広い)に出る。
 その左手前に「久原区老人憩いの家」(久原690-1)、右側に「(平清水)貴船神社」(久原549)がある。

 (※車の場合は、新道を直進しユリックス西交差点(信号機)を左折し(日の里団地方向に)緩やかな坂路を100m余り下り、農地のなかの四ツ路(信号機なし)を左折し、里道(左側:少し先から丘陵縁、右側:農地)を200m余り進む)。

(3) 「久原区老人憩いの家」には割と広い駐車場があるので、平清水地区外の人たちは車(送迎含む)でも来やすくなっている。
 なお、「久原区」とは、許斐山の北陵及びその山裾の小平野部(釣川の支流高瀬川中流左岸)にある久原(本村)、川崎、平清水地区(中・近世の久原村=旧東郷町大字久原=現宗像市大字久原)のことをいう。

(4) 「(平清水)貴船神社」鳥居の前には、里道面に「幟立て石(一対)」「藤棚」「水槽(湧水池)」「庚申塔(宝暦十一年(1761)建立)」「恩師吉田先生碑(詳細未調)」等がある。

0貴船神社(5) 藤棚の真下の中央部に参道があり、その両側にモルタルで四角く枠組みされた水槽(湧水池)があり、両水槽ともにさほど水深はない。

 当地を数度訪れているが、時として左の水槽には水が溜まっていないこともあった。


 右の水槽は、常に清水があり、青い水草が生え、魚(鮒か)も泳いでいるので、こちらが湧水池となっているのだと思う。

(6) 藤棚の左外側にも、大小二つの浅い水槽があるが、水が溜まっていないことが多い。
 多分、藤棚下の右の湧水池から溢れた水が、左へ左へと流入し、昔は、左端の水槽では収穫した野菜の水洗いなども行われていたのかもしれないが、右の池以外に溜まり水がないのは、季節による湧水量に斑があるのか。

 また、貴船神社の裏山は、許斐山北陵の低丘陵の一部で、この丘陵の中央部分には自動車道が開通し、その周辺でプールやゴルフ場ほかの開発も進み、多くの樹木が消失しており、これ以上の開発が進むと、平清水の湧水量が減少するのではないかと心配する。

(7) 貴船神社の左側の土留め用ブロック塀(4段積)に「お願い」と記した板が打ち付けてある。
 そこに、「この池は、平清水の地名の元となった貴船宮の清水です。祖先から受けついだこの池を私達は涼をとり、歓談し、社交の場所として毎週清掃し乍ら大切に守っています 犬を洗ったり 物を投げ入れないようにしてください 平清水地区住民一同」と記されている。

 郷土の人たちが大事に守り続けて来た歴史遺産であり、当然のこととして、訪れた人たちが公共の福祉に反するような行為をしてはならない。
 まして、この湧水は、(平清水)貴船神社の「平清水(ひらしょうず)」と称されたご神体で、この名が当地集落の地名にもなった由緒のある神池なので、なおさらである。
 道に面した平らな場所から清水がわき出す様を「平清水」と言い、その名がそのまま地名となったのだろうか。なお、平清水は水嶋ともいうが、昔は、どんな形の池だったのだろう。

(8) 貴船神社の石鳥居(弘化四年(1847)丁未二月建立)は、参道石段(7段)を上ったところに建っているが、その鳥居の脚柱(左)に、落下・破損した「額束」が立て掛けてある。多分、額束には「貴船宮」と刻されていたと思われるが、文字は剥げ落ちて読めない。

(9) さらに石段(4段)を上った所に、丘陵の最下部分を削って作った境内敷地があり、鎮守の杜に囲まれて木造瓦葺の社殿(拝殿、幣殿、神殿)が建っているが、境内神社(石祠4体=祇園社、水神社、天満宮、福地神社か)は、この右後方の急傾斜面に鎮座している。
 筑前國續風土記附録に「天満宮トウゲ」とあり、平清水の裏山の小字を「」(とうげ)というようだ。福地神社鎮座地は「ヲヲウラ」だった。 

(10) 境内の木の根元にハート形の手水鉢が置いてあるが、神社裏山(丘陵)の中腹にある阿弥陀堂(※次回記)の前にも同様のものがあるので、セットと思って探し当てると幸福が訪れるかも。ただし、蹲のなかには落ち葉と雨水がたまっていることが多く、この水で手を洗うことはできない。

(11) 当貴船神社の祭神は「闇龗神」ではあるが、本来の御神体は上記神池の平清水湧水(水神)だろう。
 なお、宗像には数え切れないほど多くの貴船神社が鎮座しているので、宗像大宮司家が貴船神社を保護したようにも思え、農水を司るその祭神「祓いの水神」(高龗神、闇龗神、水波之女命=水象女命)は、宗像三女神の一「湍津姫神」(多岐津姫神)=瀬織津姫神であったとも考えられる。

(12) 筑前國續風土記附録には、「(平清水)貴船神社」について、「貴船社 神殿方三尺・拝殿二間三間 祭禮九月九日・奉祀中村若狹 ヒラシヤウヅ(平清水)にあり。産靈也。祭る所闇龗命なり。社内に祇園社あり。神池あり。平清水と云。是によりて所の名とせるならん。」とある。
 また、同拾遺には「貴布祢社 (久原村)枝郷平清水の産神也。闇龗神を祀る。社の左右に小池あり。清泉涌流す。依て地名とす。慶安四年爰に勧請すと云。祭礼九月九日奉祀ハ同村ニ在中村氏也。境内に祇園社水神社あり。」とある。  ※リンク(画像あり)→「ゴトーチたまて箱 貴船宮」。

 ※つづく→「久原平清水 阿弥陀堂 東部57番(宗像市)」。

keitokuchin at 16:14|PermalinkComments(0)TrackBack(0)