2015年12月

2015年12月31日

神舞峡「馬口の滝」に行く(宮若市山口)

 前回「円通院のあれこれ(宮若市)」からつづく。

 (1) 神舞峡碑と馬口キャンプ場

 前回「「神舞の峯とは、西山(鮎坂山)の北東の山裾、細川(貴船川)の谷川に沿って開けた谷あいに広がる山口畑区から見上げる峯を神舞の峯と称したのではないかと思う。今も細川の上流を神舞峡といい、神仏が舞い下りたと思われるような美しい馬口の滝がある。」と書いた。

1キャンプ場 県道92号(宗像笹栗線)沿いの筑前畑バス停前の山神橋(細川)を渡り、畑集落内の上り坂道(2車線舗装道路、途中右に円通院参道口ある)を上る。
 この里道は、1kmほど上ると、左側にある細川を挟んで、その左にある「馬口(ばこう)キャンプ場」付近で行き止まりとなる。


2神舞峡碑 このすぐ手前の急カーブの右側にある藪椿の林の縁に「神舞峡 若宮町」と刻された石碑が建っている。

 だが、車で馬口キャンプ場まで行くと、この「神舞峡」を示す道標には気付かずに通り過ぎる人が多い。



 若宮町(現宮若市)は、町の秘境として神舞峡を捉え、道路を拡張整備し、夏季に森林浴を楽しみながら青少年がふれあい学習をする場として、自然豊かなこの山峡に公営の「馬口キャンプ場」(宮若市山口3538-2)を建設(平成5年開設)したのだろう。

3キャンプ場入口 馬口キャンプ場入口は、行き止まり道路の左側にあり、クリート小橋の鉄柵に「←馬口キャンプ場」の表示板が取りつけてある。

 また、小橋を渡ったところの右側には「厚生年金・国民年金積立金還元融資施設 馬口キャンプ場」の看板がある。

 小橋の先は、道幅の狭い砂利道で、そのすぐ先で右折れするが、その右側の石段の上に馬口キャンプ場の各施設があり、左下に馬口キャンプ場駐車場(国旗掲揚ポールあり)がある。

 この周辺には、ここ以外に駐車場はなく、ここは夏季(7~9月)にキャンプ場が営業している以外の時期は解放されているので、神舞峡の馬口の滝に行くときは利用できる。
 なお、上記バス停からここまで歩いても、約20分足らずの距離である。

4馬口キャンプ場 因みに、馬口キャンプ場には講堂(多目的フロア)付宿泊棟(ベッド、和室)や野外炊飯場、温水シャワー棟、トイレ棟などの設備が充実している。

 子供たちの声が溢れている夏季営業期間中以外のキャンプ場は、閑静な空間となっている。


 馬口キャンプ場内から右横を流れる細川の川上を見上げると谷を塞ぐ人工ダムが見えるが、自然に溶け込んでおり、それもまた風情となっている。
 なお、施設の利用は宮若市中央公民館若宮分館(宮若市高野5720949-52-0859)に申し込むようになっている。

 (2) 神舞山馬口の滝「吉祥庵」へ

5窯元 馬口キャンプ場入口(小橋)の反対側(舗装道路の右側)に、2本の赤煉瓦の煙突が立っているが、ここは陶芸窯元なのだろうか。

 この上方から右に上る急坂があるが、この取りつき口が神舞峡(神舞山)の吉祥庵や馬口の滝に行く山道口である。
 

6竹林 この坂道には、生コン舗装がしてあり、小型車1車線分ほどの道幅がある。

 一見すると小型車でも上れそうに思えるが、急坂の山道を拡張し応急舗装しただけの参拝者道のようなので、車で上るのは勧められない。


 坂道は、すぐに左にカーブして、緑が美しい孟宗竹林の間を進むが、速足で上ると息切れそうになる。

 250mほど上る(徒歩約5分)と、谷あいに広場があり、左谷の柵に沿って背丈より少し高い赤色の「幟旗」が立ち並んでいる。

7吉祥庵と幟旗 赤地の幟旗には、「奉納 神舞山馬口の滝 十一面観世音菩薩 大日大聖不動明王 諸願成就 施主〇〇〇〇」の白抜き文字が記されている。

 「施主〇〇〇〇」部分には、各奉納者の名が書き込んである。


 各奉納者は、この広場の奥に建っている「吉祥庵」(木造瓦葺平屋建の御堂)に安置してある本尊十一面観世音菩薩、大日大聖不動明王等を信仰する人たちなのだろう。

 ここは、天台宗「日陽山毘沙門天普光寺」(宮若市磯光2530)の分院(修行道場)で、「神舞山馬口の滝吉祥庵」(住職池田智鏡)というが、なぜか堂前には弘法大師(真言宗開祖)の看板があり、堂前及び堂内にも弘法大師像が安置してある。

 吉祥庵(御堂)前には、このほか地蔵菩薩などの石仏が安置してあり、また堂内には十一面観世音菩薩、大日如来、薬師如来、地蔵菩薩、毘沙門天、釈迦如来、不動明王、弘法大師、神像(天神か)等が安置してあり、「南無離怖畏如来、廣博身如来、甘露王如来、妙色身如来、過去實勝如来」の垂れ幕がある。

 ここは、西山四国第41番観自在寺本尊薬師如来にもなっているようだ。

8吉祥庵修行滝 また、御堂の左後方の谷川(細川)には修行の滝場が設けられている。

 谷川の水を堰き止めるように石を積み上げて作った人口の滝である。

 四筋の落水があり、同時に4人まで滝修行に入れる滝行場となっている。

 滝水に打たれるように滝壺の辺に置いてある仏像は、三面六臂の「阿修羅像」だろうか。

9人工滝 有名な興福寺の阿修羅像(国宝)とは少し形が違うが、本来は須弥山の帝釈天に戦いを挑んだ憤怒の鬼神だったので滝場にあってもおかしくはない。

 この少し上に人工ダムがあり、上部から溢れた川水が滝水のように落下する様子を見ることができる。


 ところで吉祥庵の本寺「日陽山毘沙門天普光寺」(宮若市磯光)には、故養母が生前、この寺の毘沙門天の信仰をしていたので、養母に連れられて何度も行ったことがある。幸袋町庄司本村(現飯塚市)でバスを降りて、およそ3kmの細い農道等を歩いて日陽山に上って行った。
 その後、近年になって、当時、ご住職が兼任されていた「養源寺」(飯塚市大分:大分八幡宮の横にあり、聖観世音菩薩像が有名)の本堂で、ご住職とお話しをした記憶もある。

 (3) 馬口の滝と奥の院・蔵王堂

10馬口滝口 馬口の滝は、さらにこの谷の上にあり、吉祥庵前広場の右から細い山道(急坂)を150mほぼ上ったところにある(徒歩約5分)。

 谷間の山裾に作られた細い山道で、全面コンクリート舗装(中央に石段状加工あり)してあるが、道幅が狭く危険性も伴う。


11杉道 そのためか、道脇に「◎危険◎落石注意 怪我されても責任はおえませんのでよろしくお願いします 狩野昌則 吉祥庵」等と書いた板標がある。
 
 孟宗竹林を過ぎ、杉林(右斜面にはシダ、ツワブキ、榊などが茂る)のなかを上る。

 すると、正面に大きな不動明王立像(石像)が立ちはだかる。

12不動明王・蔵王堂 この不動明王は、その後ろに建っている蔵王堂(蔵王権現石像)とともに平成22年10月に吉祥庵奥の院として建造、開眼された。

 蔵王権現は、役行者が感得した修験道のご本尊で、滝行場に最もふさわしい神仏習合神として安置されたものかもしれない。


13石仏と滝 堂内には、左から、ここにも弘法大師石像があり、十一面観世音菩薩、地蔵菩薩、大国主神(陶器)、不動明王、蔵王権現(中央)、阿弥陀如来、恵比須神(陶器)、獅子(陶器)、大国主、山の神碑、獅子(陶器)等の石像が安置してあり、蔵王権現、十一面観音、阿弥陀如来、不動明王の真言と光明真言、及び山の神(神舞山大権現)と弘法大師の御宝号記がある。

 蔵王堂の前(左側)には、苔むした59体の石仏が肩や背を寄せ合って並べてあり、これらの石仏越しに眺める馬口の滝は絶景である。


14妙端橋 馬口の滝の方に歩を進めると、右側(蔵王堂の左側)にも色とりどりの前掛けをした石仏が並んでいる。

 その後ろの岩に、「妙端橋建設」(昭和52年7月16日架橋)に係わる発起人2人、寄贈者5人(49,000円)、世話人9人を刻した銘板が針金で止めてある。

 世話人のトップに、上記「危険」板標に記されていた「狩野昌則」の名があったので、吉祥庵の信者さんとは思うが、こういった世話人さんたちの御奉仕で参道の清掃ほかの維持管理がなされているのだろうと思った。

 「妙端橋」は、この左にあり、馬口の滝の前の谷川を渡る鉄橋で、人一人が渡れるくらいの幅しかないので用心して渡らなければならないが、この橋は馬口の滝の左の岩面にある二つの石祠の参拝道となっている。

15馬口滝壺 石祠は、橋の手前(右側)の岩場にも一つあり、各石祠には不動明王や毘沙門天など天部神と思われる石仏が安置されている。
 滝壺には橋の手前から行け、ここでも滝行ができるようになっているが、滝の水量が多く勢いもある。なお、行者の更衣は、蔵王堂内でできるようになっているのかもしれない。

 馬口の滝は、一見しただけではそれと分からないが、2段の滝になっているようで、上段の滝の落差は10m、下段の滝(御滝という)は4mだという。

 なお、上段の滝の前には、岩肌が立ちはだかって、行く道はない。

 この滝を見ていると、ここに神々が舞い降りた神舞峡(神舞山)の雰囲気を感じることができる。「オンバサラクシャアランジャウンソワカ」。
 ここから西山(鮎坂山)に登る登山道はなく、上って来た道を引き返す(10分弱でキャンプ場入口に戻る)。

 ※つづく→「筑前畑から大谷を下る(宮若市山口)」。

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2015年12月26日

円通院のあれこれ (宮若市)

 前回「宗像騒動・千代松と母お弁の墓(宮若市山口)」からつづく。

(1) 聖音山「円通院(圓通院)」(宮若市山口3809)の建立年月は分からないが、前回、第79代宗像大宮司氏貞が、宗像千代松とその母お弁の霊、及びその父氏続(第76代大宮司)の霊の鎮魂のために円通院を建立したと書いた。

1園通院山門・鐘楼 氏貞の手の者によって千代松(3歳)とその母お弁が当山口村枝村畑村で殺害されたのは天文22年(1553年)3月24日で、氏続はその前年の天文21年 (1552)12月20日に彦山で殺害されている。

 その後、祟りを恐れた氏貞は、当地にお弁の追号(法名)円通院花屋貞顔禅定尼の院号を付けた曹洞宗・円通院 (宗像市大穂の宗生寺末寺)を建立し、聖観世音菩薩を本尊としたという。

 もしかしたら、お弁を聖観世音菩薩に見立てて、親子三人の鎮魂を図ろうとしたのかもしれない。

 (2) 筑前國續風土記附録には次の記載がある。

 「圓通院 洞家 佛堂五間七間 ホンバタケ 本編に詳也。開基の僧を蘭室といふ。聖音山と號す。此寺に氏男弟千代松及び氏續か妾辨か位牌有り。辨か追號を円通院華屋貞顔といふ。ゆへに寺號とす。千代松か追號を林昌院幻智性禅といふ。寺記に見へたり。」

 なお、第78代宗像大宮司氏男は、第76代大宮司氏續(氏続)の子で、千代松は、氏續が妾辨(お弁)に産ませた子なので、「氏男弟千代松」となる。

 「千代松と母お弁の墓」(前回)の説明板には、お弁(辨)と千代松の追號は、「お弁:円通院花屋貞顔禅定尼」「千代松:林昌院春幻智生禅童子」とあった。(上記附録とは若干違う)。

 お弁の法名に、お弁や千代松を殺害した氏貞の「」が入っているのは何とも解せないが、あえて氏貞がその名を贈ったのだろうか。
 また、千代松の法名を見ていると、春(旧暦3月)の幻のように未だ物事の是非、善悪の弁別(智)も分からない幼い命を不本意に散らされた幻の如き人生であったことを物語っているようで切ない。

 (3) 円通院本堂の裏山30mの所にもある「千代松、お弁の墓」は「まつり墓」といわれ、寺内で二人の菩提を弔う供養塔だという。

 前回記した「千代松、お弁の墓」は、平成13年(2001)12月に、その南50mから現在地に移設されたもので、旧地は千代松の「埋め墓」で「おちいどん」(お稚児殿の意か)と言われたが、土地改良で消滅した。

 また、お弁を埋めたのではとも思える「たちのわき」(太刀の脇と書くのか)は、その東にあったが、県道開削工事で県道地下に埋没した。

 宗像大宮司家の嫡流は、氏貞の代を以て跡継ぎが早世して廃絶、大宮司家が所領していた宗像郡及び鞍手郡西部(山口村含む)は、豊臣秀吉が没収。秀吉没後、黒田長政が筑前に入国し、当地は福岡藩の所領となる。

 (4) 黒田長政の筑前入国後の円通院は、長政の庇護を受けたようで、附録に次の記載がある。

 「長政公入國し給ふ後、大音六左衛門重成に此村を賜ひける。長政公に請ふて山林五千坪及圃地二反餘を此寺に寄附せり。」

 また、筑前國續風土記(本編)は、「長政公入國の後、此村をは大音六左衛門 法名宗閑 に給りける。 采地の内、田畠少々圓通院へ寄附して寺産とす。 又其寺のうしろの野山一萬坪を、長政公へ申て、此寺に付けり。 今も寺に属せり。 松、かへで、椎及雑木繁榮して、茂山となれり。栗、椎など山果多し。 冬は林中に紅葉多く、嵐にしたかひて、錦をひるかへせり。 今の住持普禪、高き所をならし、宅地を廣め、佛堂を改め作れり。 又観音堂を新に作る。 かゝる僻地の山中には、又たくひすくなき牡ん梵刹也。 大音氏代々の位牌も、此寺に安置せり。」と記載している。

 貝原益軒は、上記のように円通院の風景を詳しく述べているが、今も昔と変わらないのかもしれない。 
 なお、大音六左衛門重成は、近江国の出で、黒田光之の家老を務めたこともあり、子孫も当地に住したらしい。
 

 (5) 大音青山(おおおとせいざん)。

 円通院本堂の裏山には、幕末の福岡藩を勤王派に導いたといわれる「大音青山の墓」がある。

2大音青山 円通院門前の案内板(若宮町観光協会・若宮町文化財保存委員会設置…※若宮町は現・宮若市)に、「大音青山」(1817 – 1886)について次のように記している。
 「黒田藩の重臣、明治維新後、家族と共に若宮町山口に移住。当円通院裏山一帯を寄付さる。1886年、明治19年4月18日70才で死去。青山宗意居士。」

※画像2: 福岡藩勤王派家老大音青山(HP「ついっぷる」からお借りした)。

 大音青山は、文化14年(1817)生、幕末期の福岡藩で勤王派の家老として積極的に蘭学、西洋兵学等の導入を図ったが、佐幕、勤王で揺れ動く政情に藩が翻弄し、家老職の辞任、復職を繰り返した。薩長連合に尽力し、明治維新後は福岡藩大参事になった。

 「大音青山」は、上記「大音六左衛門重成」を初代とする子孫で、大音家は代々家老職の家系でもあった。また、円通院の裏山に大音青山の墓(仮墓との説もある)があるのは、晩年を当地山口村で送り、当地で没したということなのだろうか。いずれにしろ、有能な人物が当地にいたということ。
 (私の友人にも大音さんがいたが消息不明)。

 ※別記参照→「大音青山と大音屋敷跡(宮若市山口)」。

 (6) 山崎羔三郎(やまさきこうざぶろう)。

 円通院の裏山には、かつて征清殉難九烈士の一人として称賛された「山崎羔三郎の墓」もある。

3Yamasakikozaburo 同上案内板には、次の記載がある。

 「山崎羔三郎 日清戦争の時に諜報員として活躍。福岡市白水家に生まれ明治廃藩の際、若宮町山口に移り山崎家の養子となる。1894年、明治27年10月31日、中国にて囚われ処刑される。31才。英哲院忠山義勇居士。」

※画像3: 山崎羔三郎(ウィキペディア「征清殉難九烈士」からお借りしました)。

 京都熊野若王子神社前に「征清殉難九烈士碑」があるが、ウィキペディアには「征清殉難九烈士」とは「日清戦争当時、根津一によって召集された軍通訳官のうち、清国軍にスパイとして捕えられて処刑された漢口楽善堂出身者(3名)、日清貿易研究所卒業生(6名)を指す」とある。

 山崎羔三郎は、処刑された漢口楽善堂出身者3名のうちの一人で、金州で捕捉、斬首されたという。

 祖国のために命がけで働き、若い命を捧げた有能な人物であつた山崎羔三郎は、刑死後「殉難九烈士」の一として讃えられたが、今の(平和な?)日本においては、負の歴史のなかに埋没し忘れられた存在となっている。
 時の流れとはいえ、当地は、かつて有能な国士を生んだところとして誇らしい。
 それにしても当地の出身者に、当地で敵に捕捉され殺害された千代松、お弁と同じように、敵に捕捉され殺害された人物がいたのだと思うと何とも痛々しい限りだ。合掌。

 ※別記参照→「殉維烈士「山崎羔三郎」墓参道碑など(宮若市山口)」。

 (7) 大梵鐘由来(保存してあるコンクリート製梵鐘)。

4園通院石鐘・薬師堂 円通院の山門(※画像1)は、鐘楼が併用しているが、昭和19年(1944)に旧梵鐘を供出した後、昭和50年(1975)に現梵鐘が出来るまでの間は、コンクリート製梵鐘(昭和17年製)が吊り下げていたらしい。

 そのコンクリート製梵鐘と思われるものが、境内の薬師堂(ヤマジタから移設したものか)の横に保存されているが、仏頭の螺髪(らはつ)を現すつぶつぶの乳まで精巧に作られたもので、「皇紀二千六百二年」の刻字が読み取れるので、昭和17年(1942)に製作後に旧梵鐘を供出したことが分かる。(※画像4:コンクリート製梵鐘)

 昭和13年(1938)、政府は鉄鋼配給規則を制定し、以後、武器製造に係わる金属資源不足を補填するために国民に金属類の供出を求め、梵鐘を供出した多くの寺院では、重量のアンバランスによる鐘楼の倒壊を防止する必要上、供出した梵鐘と同重量の代替梵鐘を石やコンクリートで作って吊り下げた。

 円通院に保存してある「コンクリート製梵鐘」を見たとき、今や忘れ去られようとしている大戦中の金属供出史の一端を教えてくれる貴重な遺産だと思った。大事に残してほしい。

 山門・鐘楼に「大梵鐘由来記」が掲示してあったので次に記す。

 「明治四十余年 山門にふさわしい大梵鐘が檀信徒より寄進され、その美事な音色は、神舞の峯にこだまし、人々に安らぎと祖先崇拝の念をいだかせておりましたが、不幸にして昭和十九年戦火いよいよ高まる中で、大梵鐘は供出される運命に遭遇いたしました。
 大梵鐘の供出後、宮田町の岩見蘭始氏の特志によりコンクリート製の梵鐘がさげられ今日にいたりました。
 このたび狩野惠雄、狩野源四郎両氏の発起に基づく、荒牧政雄氏をはじめとする檀信徒一同の寄進により 昭和五十年六月、端妙な大梵鐘の錘上げとなったのであります。十五世住職誌」

 ※コンクリート梵鐘:別記参照→「法蓮寺にて(宮若市沼口)」。

 上記に「神舞の峯」とあるが、西山(鮎坂山)の北東の山裾、細川の谷川に沿って開けた谷あいに広がる当地から見上げる山容を神舞の峯と称したのではないかと思う。
 今も細川の上流を神舞峡といい、神仏が舞い下りたと思われるような美しい馬口の滝もある(次回掲載)。

 (8) なお、円通院駐車場の先に鎮座する「三柱大神」については別記する。※別記→「三柱大神(宮若市山口 畑)」。

 (9)「円通院」(宮若市山口3809)への道順

 ・県道92号(宗像笹栗線)沿いの筑前畑バス停前の「山神橋」を渡る。
  (※なお、県道脇<山口川右岸>に空地<旧道跡か>が3か所ほどあり大型車の駐車も可能)
 →畑集落内の里道(2車線舗装道路)を150mほど上ると「第二山神橋」がある。

畑庚申塔「第二山神橋」の左手前(庚申塔あり)に「円通院→」の表示板がある(※画像5)。

 また、同右手前(橋際)に「円通院参道」の石碑があり、ここが「円通院参道口」となる。
 ここを右折し、舗装された細い参道を150mほど上る。

 谷あいに入って、すぐ右側にある円通院入口の坂を上ると山門下の駐車場がある(小型車駐車可)。

 ※別途・前回の「千代松と母お弁の墓」からは、その左の旧道・農道(舗装坂道)を上ると、上記「円通院参道口」の20m手前(小橋あり)に出る。
 ※筑前畑バス停(山神橋)から、若しくは「千代松・お弁墓」から「円通院」までともに徒歩5〜10分。

※つづく→「神舞峡 馬口の滝に行く(宮若市山口)」。

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2015年12月21日

水城プロジェクト「彫刻展大宰府2015」行

1彫刻展大宰府2015 以前(2013.3.16)「現代アート彫刻家のアトリエを訪ねた(篠栗町乙犬)」を掲載したが、その現代アート彫刻家西田吉春さんから水城プロジェクト企画「彫刻展大宰府2015」の案内チラシが届いた。

 西田さんとは、すっかりご無沙汰しているが、当時、どうして球形彫刻の球のなかに空孔が彫れ、さらにそのなかに水晶玉が入れられるのだろうかと思ったことが今も脳裏に残っている。

2顔 チラシの説明等によると「水城プロジェクトは大宰府の地で、歴史の風吹き抜ける彫刻のまちづくりを目標に活動を続けている団体」で、平成22年に誕生した。

 翌年から毎年、「水城の堤防に育った樟などの間伐材を利用して制作」した彫刻展を展示しているらしい。

 いうまでなく水城の堤防は、誰もが知る国の特別史跡で、堤防上には多くの樹木が茂り、一大景観を呈している。


 それらの樹木を間伐することは堤防を守る上では必要なことだが、その間伐材を使って彫刻することはまさに有効利用で、彫刻された間伐材は、また新たな命が吹き込まれ再生する。

3年輪 何とか時間を作って会場(太宰府市いきいき情報センター2F)に足を運んだ。
 会場には西田さんなど11人の作品が展示してあった。(※画像1)

 西田さんには会えなかったが、彼のテーマは、やはり球・孔なのかなあ…。。(※画像2)

 作品を見ていて、子供の頃、悪ガキどもと真砂土の崖に穴を掘って隠れ家にして遊んでいて怒られたことなどを思い出した。今はそんな遊び場もない。

 それぞれに木の年輪を生かした作品が多く、木が生きていた証を見ることができ、その木の再生した生命力をこれらの彫刻から頂けそうにも思えた。

4榴 また、年輪や節孔など切り方によっては、人面相にもなる。(※画像2)

 会場中央に柘榴のように真ん中で断ち割れた作品が置いてあった。(※画像4)

 その割れたカーブが、角度を変えてみると違った形に見えるので、その周りを何度も回ってみた。

 結局、何なのか理解できなかったが、現代彫刻は、これは何なんだと考える時間が楽しい。

 網格子の棚のなかの一ヶ所にお尻を出してうつ伏せになっている人物を配したロッカーと題した作品にも目が止まった。(※画像5)

5ロッカー 勿論、人物の上半身はないが、どの棚にでも移動できるようになっている。

 これも何??
 …共同浴場のロッカーに入って考える人なのか、等々、
 いろいろ考えさせられる作品ばかりで、考えていて楽しいひと時だった。


 水城プロジェクト企画「彫刻展大宰府2015」〜12/14〜12/27、太宰府市五条3-1-1太宰府市いきいき情報センター2Fロビー。

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2015年12月18日

宗像騒動・千代松と母お弁の墓(宮若市山口畑)

 前回「久原覚王寺(廃寺)地蔵堂(宗像市)」に、「山口村の母子殺害地については別記」するとしていたので、今回記しておく。 

1千代松様墓 (1) 宗像千代松(3歳)とその母弁(辨)が殺害された旧鞍手郡山口村枝村畑(現宮若市山口畑区)は、県道92号(宗像笹栗線)沿いの谷あいにある閑静な山村だが、「宗像千代松とお弁の墓」は、その山村の入口(筑前畑バス停)より少し南の県道から見える位置にある。
(※画像1)

 五輪塔の墓石(砂岩質)は古めかしいが、墓域(敷地)を囲む御影石の外柵(羽目、腰石、親柱、5段の階段石)や板石、拝石、墓碑の土台石(御影石)、敷砂利等々は新しい。
 それは、平成13年(2001)12月に、この墓が、この南50mにあった旧墓地から移設、整備されたことによる。(旧若宮町文化財)

 (2) 現墓地の石段の右横の腰石に貼付してある「千代松さまとお弁さまのお墓」の説明板には、次のように記されている。

 「宗像お家騒動の際殺害された千代松さま・林昌院春幻智生禅童子と乳母お弁さま・円通院花屋貞顔禅定尼の埋め墓と伝えられている塚おちいどんは、ここより南の方角およそ五〇メートルにあったが、土地改良事業にともないこの地に移した。なお、まつり墓円通院本堂うらにあり、殺害の現場はここより東およそ三〇〇メートル「へんころし」と呼ばれるあたりと考えられる。また、ここから南二〇メートル付近の県道敷地下を「たちのわき」と呼んでいた。二〇〇一年十二月 円通院 若宮町教育委員会 若宮町山口土地改良区」。

 (3) 上記に「乳母お弁さま」とあるが、お弁さまは、千代松の母お弁の方(宗像氏続妾)なので「母お弁さま」でよいと思う。
 つまり、千代松は、第76代宗像大宮司氏続とその妾お弁の方(弁の前)の子であるとされているからだ。

 (4) 移転前の墓地(埋め墓・おちいどん)は、ここより里道を挟んで南側50m、現在、田畑となっているところにあったとようで、かつての墓地を囲んでいた樹木や墓石を撤去し田畑への土地改良がなされたのだろうか。

 「円通院 若宮町教育委員会 若宮町山口土地改良区」の文字があるので、多分、当地の土地改良にあたり、墓地を管理していた円通院(宮若市山口3809)と若宮町(現宮若市)教育委員会了解の上で墓地の移転が実行されたのだろうが、千代松とお弁の遺体の「埋め墓」との由緒がある墓をも移すなど随分と思い切った決定がなされたものだ。

 (5) 円通院の案内板には「千代松、お弁の方のお墓は、円通院本堂の裏山三十メートルの所にあります」と記されているが、上記によると、その墓は「まつり墓」、つまり寺院での慰霊墓(供養塔)のようだ。

 (6) 「(母子)殺害の現場はここより東およそ300m」とあり、同地は、県道を挟んで東の、今でも鬱蒼とした森に覆われている山中だと思われる。

 お弁は、沼口村(宮若市沼口)で我が子千代丸を刺殺する討手が来るのを知り、幼い千代松を抱き、背負って逃亡したが、逃げ込んだ山口村枝村畑の森(叢とも)で捕えられ、その場で二人とも殺害されたようだ。
 何だか、この森を眺めていると、その時のお弁の無念さが思い浮かんでくるようだ。

 (7) 円通院の案内板にはそのときの様子を次のように表現している。

 「やっとよちよち歩きを始めた千代松は母お弁の背中におんぶされて山奥のこの畑の谷に逃げ込んだのですが、疲れ切った母がころんだはずみに千代松が泣きだし、その泣声で追ってきた陶の家来に見つかり、親子抱き合ったまま殺されてしまったということです。跡継ぎとなった氏貞は祟りを恐れて千代松とお弁の二人をまつるために円通院を建てました。二人が殺されたのは1553年(天文22年)3月24日の事です。」

 討手は「陶の家来」とあるが、確かに暗殺の黒幕は陶隆房(晴賢)ではあったものの、既に宗像氏貞(鍋寿丸)が第79代大宮司職に就いていたので「氏貞の家来」でよいと思う。

 (8) 次の筑前國續風土記の描写も生々しい。

 「千代松が母は氏續が妾也。其名を辧と云。千代松をいだきて、鞍手郡沼口にかくれ居けるが、討手の来るよしをきゝて、落行けるを、山口村にて追付、千代松をわたすべきよし、しきりにいへども、 抱きてはなさず。 母子共に殺しける。母子のしかばれを此所に葬る。千代松の墓此所にあり。後年に、山田の後室の怨霊のたゝりをやめん為に、氏貞の内室の命にて、千代松が霊をも神にいはひ、今宮殿と號す。今も山口村の枝村畑と云所の、山の中に社あり。又山口村に寺を立、氏續千代松父子の菩提をとむらふ。 其寺を圓通院と號す。千代松の位牌此寺にあり。」

 (9) 宗像氏續(氏続)の妾辧(お弁)が千代松を抱いて、隠れ住んでいた鞍手郡沼口(宮若市沼口)から逃亡し、討手に追い付かれた山口村(畑)までの逃亡コースは書いてないが、山口八幡宮(宮若市山口1580)から畑区に抜ける大谷の谷あい道を通り抜けていたのではないか、そして畑集落の手前で討手に追い付かれそうになり、谷あいの森のなかに逃げ込んだのかもしれない。

 もし討手に捕まらなければ、山口村畑地区から西山(鮎坂山)を越え大友氏の立花領薦野に逃れようとしていたのではないかと想像している。
 西山越えは道なき道の山越えだっかもしれないが、例えば小金原の戦い(※下記参照)で宗像軍を討ち破った大友軍(立花山軍)は、清水寺(宮若市黒丸)から険しい西山越えを敢行し薦野に抜けたというので、当時の人々は現在の登山道にない抜け道(樵道など)を知っていたのだと思う。

 (10) しかるに、逃げ込んだ森で討手に見つかり、「千代松を渡せばよい」と言われても、渡せば殺害されると分かっている我が子を渡す母親などいるはずもなく、結果、無漸にも母子もろとも殺害された。

 最後まで我が子千代松を抱きかかえて渡そうとしなかった母親の心情と、その悲しい惨劇の情景が目に浮かぶようである。
 この地を「へんころし」(※「弁殺し」の意か)と言うらしい。

 なお、附録には「千代松を殺せし所、今圃となる。石塔三ッふり。ほのけをりうがミといふ。」とあるが、これは、もしかしたら埋め墓と混同しているのかもしれない。
 「ほのけをりうがミ」の意味が分からないが、氏貞は、千代丸の霊を神とする今宮殿(今宮社)を山口村畑の山深き林の中に祀ったというので、或は、「仏をいう神」ということなのだろうか(未確認)。 

 (11) そして、「へんころし」から母子の遺体を上記「埋め墓・おちいどん(※「お稚児殿」の意か)」(旧墓地)まで運び、同所に埋葬したのは当地の村人だったのだろうか。

 なお、実際に埋めた地は、現墓の南20m付近の、今は県道の敷地の下になっている「たちのわき(太刀の脇の意か)」で、その近く(上記旧「埋め墓」の地)に供養塔を建てたという説もある。そして、その供養塔が現在地に移転した千代松と母お弁の墓石だというのだ。

 (12) 多分、「たちのわき(太刀の脇)」とは、お弁が所持していた護身用の脇差(短刀)を埋めた所ではないかと想像しているが、遺体と一緒に太刀や脇差等を埋めることはよくあることだ。

 かつてここにお弁を埋葬した塚があったとしても、道路開削工事が行われたときに当地の科学的調査などはしていないと思うので、今となってはことの真偽を確かめる術もない。
 ここが遺体埋葬地だったとしたら、今日、その上を日々、車が往来していることになり、何ともやりきれない。
 
 (13) また、「おちいどん」(埋め墓)が「お稚児殿」であれば、この地は、千代松の埋め墓だったとも考えられなくもない。
 だが、その地は田畑となり、墓石のみ現在地に移転されたが、土地改良事業時に旧墓地の地質調査等はしていないと思うので、今となっては遺体の痕跡の有無を確かめることはできないだろう。

 (14) なお、千代松、お弁が殺害された天文22年(1553)3月24日(※以下月日は旧暦による)は、天文21年(1552)3月23日に山田御殿で山田局(千代松の伯母)、菊姫(千代松の従姉)と4人の侍女(小少将、三日月、小夜、花尾局)が暗殺された「山田事件」から1年後のことである。

 この山田事件から1年の間に、陶隆房(晴賢)の後ろ盾で宗像大宮司家の実権を掌握した氏貞は、後顧の憂いを絶つべく天文21年(1552)12月20日差し向けた家臣土橋氏康一党に氏続(千代松の父)を逃亡先の彦山で討たせ(氏続の墓は不明)、最後に幼児千代松を母お弁ともども殺害し宗像家のお家騒動を終結させた。

 (15) この惨劇(宗像家お家騒動)は、天文20年(1551)9月1日周防・大寧寺の変で陶隆房(後の晴賢)の下剋上により大内義隆が自害し、義隆に従っていた第78代宗像大宮司氏男(氏雄=黒川隆像)が殉死したが、氏男には正室菊姫(第77代正氏=黒川隆尚とその正室山田夫人の一人娘)との間に子がなかったことが発端だった。

 宗像家では、第79代宗像大宮司に千代松(第76代大宮司氏続と妾お弁の方の子)を押す派と、鍋寿丸(第77代正氏と妾照葉[陶隆房(晴賢)の姪]の子)を押す派に分かれたが、宗像を勢力下においた陶隆房(晴賢)が鍋寿丸を押したことにより、同年9月12日宗像に入った鍋寿丸が第79代宗像大宮司職に就き「宗像氏貞」と名乗った。

 その後、陶隆房(晴賢)は、千代松を大宮司に押した菊姫(氏男の正室)とその母山田局(正氏の正室山田夫人)や、千代松の父氏続(氏男の父。正氏の弟)と千代松の抹殺を命じ、氏貞の家臣らがそれを実行したことが宗像家お家騒動の顛末であるが、背景には、正氏の正室山田局と妾照葉との確執があったのではないかと推測される。

 宗像騒動に係わる宗像家の系譜が分かりにくいが、「氏貞」の手の者によって殺害された「氏続」を中心において次のようにまとめ直してみた。
 「千代松」の父「氏続」は第76代大宮司で、氏続の兄「正氏」が第77代大宮司、氏続の子「氏男」が第78代大宮司である。
 「氏貞(鍋寿丸)」は第77代正氏の庶子で、第79代大宮司となる。
 「山田局(夫人)」は第77代正氏の正室なので、正氏の弟「氏続」は義弟。
 「菊姫」は第77代正氏と山田局(夫人)の一人娘で、第78代氏男正室なので、氏男の父「氏続」は義父となる。
 「千代松」の母「」は氏続の妾である。
 「氏貞」の母「照葉」は正氏の妾なので、宗像騒動は妾照葉と正室山田局の不和との様相も伺えそう。

 (16) しかるに、氏貞は、殺害された人々の祟りを恐れ、その後、山田事件の舞台となった山田村(宗像市山田)に、その犠牲となった菊姫ら6人の霊供養をする山田六地蔵「増福院」(曹洞宗)を建立した。

2園通院入口 また、千代松、お弁らが犠牲となった山口村畑区内に、千代松、お弁と合わせて宗像氏続(千代松の父)の霊供養をするための寺院「円通院(圓通院)」(曹洞宗)を建立した。
 この「円通院」の名は、お弁の法名「円通院花屋貞顔禅定尼」の院名「円通院」をそのまま寺院名としたものである。

 (※画像2:現「円通院」宮若市山口3809)。
 (※注:前回記した、かつて菊姫の位牌を安置していた久原「覚王寺」(廃寺)も、円通院と同じく大穂の曹洞宗宗生寺の末寺である)。

 また、氏貞は、同様の理由で山田局、菊姫ら霊を神として氏八幡宮(宗像市田島)に合祀したので、千代松の霊を神として今宮殿(今宮社)を祀ったというのもその一環だったのだろう。
 ※別記参照→「三柱大神(宮若市山口 畑)」。

 (17) だが、このような見せかけの措置で、その祟りは治まることなく、殺害に加担した一族に降りかかり、特に殺害を命じた陶隆房(晴賢)の嫡流は滅亡し、氏貞は、跡継ぎ塩寿丸を幼少にとして亡くすなど、まさに因果応報ともいうべき悲運に見舞われ、やがて大宮司家断絶への道を突き進むことになる。

 (18) なお、氏貞は、この後も盟友河津掃部助隆家(西郷党の主領)を蘿ヶ嶽城下の妙湛寺でだまし討ちし、西郷衆(福津市)の一党を鞍手郡若宮村に強制移住させるなどの非道も行い、それが遠因となって小金原の戦いが暴発し、氏貞の命により戦いを止めさせに行った石松加賀守秀兼や吉田次郎左衛門貞辰などの有力家臣が、結果的に戦いに巻き込まれ討ち死にし、さらに戸次鑑連(立花道雪)に嫁がせていた妹おいろ姫(松尾殿色姫24歳)の自害の一因ともなった。
 この小金原の戦いの現場(稲光)は、畑地区からほど近い場所にある。

 (19) 宗像大神を奉斎する大宮司の地位にあるものが、いくら戦国時代の権力維持とはいえ、まさに雄略天皇や織田信長を思わせるように殺戮を繰り返し、これは祟りと言うよりは宗像大神の神罰だったようにも思えてならない。南無釈迦牟尼佛(合掌)。

 ※つづく→「円通院のあれこれ (宮若市山口)」。

(※参照:関連ブログ)
 →「炎天下に山田地蔵尊などを参拝
 →「尾降神社宗像氏貞不敬(宗像市三郎丸)
 →「田永宮と石松但馬守尚李碑〇嚇鳥件関連(宗像市陵厳寺)
 →「石松加賀守秀兼と小金原の戦い,いろ姫悲劇(宗像市・宮若市)
 →「最後の宗像大宮司「宗像氏貞の墓」(宗像市上八霊場巡り)
 →「白山(白山城)遠望と山田本村史跡図(宗像市山田)
 →「山田観音堂ほか(宗像市山田地蔵尊/増福院)
 →「宗像戦国悲話を伝える「赤児石」(宗像市野坂)

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2015年12月06日

川崎神社(追記)と久原遺跡(宗像市久原)

 前回「久原覚王寺(廃寺)地蔵堂(宗像市)」からつづく。

 「川崎神社」(宗像市久原字寺ノ辻193)については、以前(2010年9月)、下記を掲載したので、今回はその追記とする。
  ・「川崎神社にて(1)〜炎天下での清涼感」 
  ・「川崎神社にて(2)〜川崎の名
  ・「川崎神社にて(3)〜許斐山の北裾

(1) 「川崎神社」の境内は、前回の「久原覚王寺(廃寺)地蔵堂」の東(右)隣の石垣の上にあり、鎮座地の小字「寺ノ辻」は覚王寺の辻という意味だとは思うが、同地蔵堂(石段上の地蔵堂入口含む)から直接「川崎神社」に行く道はない。(今は、石垣に沿って裏参道に抜けることができる)

11川崎宮 メイトム宗像取り付き道路と川崎神社との間には、段差もあるが、道路に沿って張られた金網フェンスがあり、道路から直接入ることもできない。

 また、同フェンスに沿った植垣によって視界が遮られ、道路からは、そこに神社があることすら分からない。
(※画像1は、フェンス・植垣の隙間から覗き込んだ川崎神社境内)

 以前は、鳥居の右横にポプラの木のように高く天を突くように生えていた一本の樹木が川崎神社鎮座地の目印のようにはなっていたが、今は、その目印も見えない。

12川崎宮 因みに川崎神社表参道への入口は、メイトム宗像第4駐車場横(道路上側)の四つ角の斜め上対面側(フェンスの外側)にある。
(※画像2)。

 なお、ふれあいバス川崎停留所前の民家の路地が裏参道入口となっているようだ。


(2) 前掲「川崎神社(宗像市久原)にて(1)〜炎天下での清涼感」に「こんな所に、果たしてお神様がおられるのだろうかと思いながら、暫したたずんでいたら、突然、お神様の示現を感知した」と書いていた。

13川崎宮 「こんな所に、果たしてお神様がおられるのだろうかと思った」と書いたのは、川崎神社は無格社ではあったが、もとから久原三地区(久原本村平清水、川崎)の一川崎地区に鎮座した産靈社であったはずなのに、境内に古木がなく、鎮守の杜の雰囲気を感じなかったからだった。(※画像3)


 それでも、「暫したたずんでいたら、突然、お神様の示現を感知した」ので、そのときは、それ以上深く考えなかったが、最近になって「暫したたずんでいた」間、お神様はどこにおられたのだろうという思いがよぎった。

 そして、確認はしていないが、川崎神社には旧鎮座地があり、現在地はその旧鎮座地からの遷宮した地なのではないかと思った。ひょっとしたら、川崎神社は、現在地より南の(現在メイトム宗像が建つ)丘陵上のどこかにあったのではないか、そしてお神様は今も同地付近におられるのかもしれないと思った。

(3) この丘陵は、許斐山(宗像市王丸)の最北陵に位置し、高瀬川に接した(川崎の)段丘で、この丘陵上からは許斐山が視線のなか入り、許斐山に鎮座する熊野神社(熊野権現=許斐権現)が遥拝でき、かつ熊野権現が許斐山に降りたつ前に一時休息した地とも伝わる「高見神社」(宗像市曲)の杜も、高瀬川・朝町川を挟んで北東方向に臨むことができる。
 そして、メイトム宗像ができる前の丘陵上には、鎮守の杜にふさわしい樹林が覆っていたのではないかと想像する。

 因みに、筑前國續風土記拾遺に、川崎神社は、「(久原村)枝郷川崎の産神也。伊弉諾尊 伊弉冉尊を祀る」とあり、伊弉冉尊(伊弉冊尊)は、許斐山(熊野神社)及び高見神社の祭神:熊野三所権現(伊弉册尊、泉津事解男命、泉津速玉命)の一であり、この三社にはつながりがあったことが伺える。

(4) 平成7年2月〜11年5月、宗像市教育委員会が、この丘陵上に「メイトム宗像市民活動交流館」が建設されることに伴って実施した発掘調査で、古墳時代(4〜6世紀)から中世に到る大規模な集落遺跡が発見され、「久原瀧ヶ下遺跡(くばらたきがしたいせき)」と名付けられた。

 もしこの丘陵上に居住していた人たちが祀った産靈(産神)が川崎神社の始まりだったと考えたら、集落地より低い位置(現在地)に神を祀ったとは考えにくい。
 現在の川崎地区の集落地(大集落ではない)は、かつては高瀬川の川岸(川崎)ではなかったかと思われる低地にあり、近世、川幅の後退により、集落地が丘陵上から下に下ったことを示しているのかもしれない。

(5) また、メイトム宗像(久原瀧ヶ下遺跡)の裏側(南側)に「宗像ユリックス」があるが、昭和60〜61年、同地で宗像ユリックス建設に伴う発掘調査がなされ、弥生時代から鎌倉時代にかけての550基にも及ぶ墓地や集落跡が発掘されている(久原遺跡)。

 こうしてみると、川崎神社は、久原地区全体の祖霊を祀る祖霊社であったかのかもしれない。

14久原古墳群 (6) 久原遺跡のなかで、前方後円墳一基を含む古墳時代の古墳群は、「久原澤田古墳群(くばらさわだこふんぐん)」と称され、多くの須恵器が出土した。
 なお、消滅した古墳群の一部は、メイトム宗像及び宗像ユリックスの裏地に移設復元されている。(※画像4)
 

15久原前方後円墳 因みに、復元保存された前方後円墳(3号墳)は、説明板によるとその概要は次のとおり。(※画像5)

 6世紀中頃築造。
 墳丘の全長45m、前方部幅20m、くびれ部幅12m、後円部径26m。古墳の外周に溝と外堤が設けられていた。 


15久原遺跡埴輪  後円部に単室の横穴式石室(広さ約5畳、高さ2.7m、全長5.5m)があり、西側のくびれ部に向かって墓道があったが埋め戻されている。

 石室内で馬飾りや鉄の工具などが出土。

 墳丘上には円筒埴輪が並び、家型埴輪や人物埴輪の破片もあったという。 
(※画像6は、人物埴輪:現地の説明板写)。


※ウォーキング(帰路)では、.瓮ぅ肇狃〜又は宗像ユリックスからバス。
⊇〜ユリックス→ユリックス西信号機(左折)→王丸。
若しくは、宗像ユリックス→光岡八幡宮(裏側の農道)→王丸で、出発点の王丸公民館コミュニティバス停(若しくは、許斐山王丸登山口駐車場)に戻る。

※参照→「許斐山(1)〜(16)」。
※参照→「高見神社(宗像市曲)に行く(1)〜(10)」。

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