2016年01月

2016年01月31日

山口八幡宮(5) 天岩戸・アメノウズメ絵馬図(宮若市山口)

 前回「山口八幡宮(4) 敵國降伏の扁額(宮若市山口)」からつづく。

 山口八幡宮(宮若市山口1580)の拝殿には数点の絵馬が掲げてあるが、拝殿内に入っていないのでその全容は分からない。
 拝殿のガラス窓に額を付けてなかを覗き込み、見える範囲の絵馬に目を注いだが、いずれも肉眼ではそれらの絵柄がよく分からなかった。それでも、気になった1枚の絵馬を手持ちのデジカメで写した。

1天岩戸図 (1) ガラス窓透しのデジカメ画像だから鮮明ではないものの、その絵馬は、昭和57年3月吉日奉納の「天岩戸開き図」(画題は明記されていない)だった。

 図絵の左下に筆者と奉納者名が書いてあるようだが、カメラの画質が悪くて読めない。

 しかるに、この画像を観ていて、この「天岩戸開き」の場面に精通されている画才の筆によりしっかり描かれたもので、観た人に神々しい日本神話の雰囲気を味あわせることができる素晴らしい絵だと思った。

 (2) 素戔嗚命(須佐之男命)の乱暴に驚いた太陽神・天照大神(大御神)が天の岩屋(窟屋)に籠ってその岩戸を閉めたので、高天原は日が射さず暗闇となってしまった。八百万の神々は天の安河辺に集まって、岩屋に籠った天照大神を引き出す算段をした。

 (3) 「天照大神…、乃(すなわち)入于天石窟(このあまのいわやに、はいり)、閉磐戸而幽居焉(いわとをとじて、こもります)。故(ゆえに)六合之内常闇(くにのうち、とこやみとなり)、而(しかして)不知昼夜之相代(ひるよるのあいかわるのも、しらず)。于時(このとき)八十万神(やおよろずのかみ)会合於天安河辺(あまのやすかわはらにつどい)、計其可禱之方(そのいのるべきのすべを、はかる)。…(日本書紀)」で始まる「天岩戸開き」の雰囲気がよく出ている。

 (4) このとき、天の安川の河辺で思兼神(思金神=高御産巣日神の子)が策を練って行ったことが、この絵馬の絵柄に詰め込まれている。…(記紀をミックスして下記する)

 たき火は、高天原が「常闇」の状態になっていることを表し、その前に、太陽神天照大神を呼び出すために鳴かせる長鳴する鶏を二羽(複数の意)描いている。夜明け(命の再生・転生)を告げる長鳴鶏は、天岩戸神話の重要部分の一つである。
 …「遂(ついに)常世之長鳴鳥を聚(あつめ)、互いに永鳴(ながなき)使(させ)」

 (5) 立てられている御幣(+榊+鏡)は、天照大神の岩屋退出を祈願するために作られたもので、勾玉が描かれていないようにも見えるが、その傍にいるのは天児屋命や布刀玉命だろうか。
 また下記の八咫鏡(一云、真経津鏡/まふつかがみ)という大きな青銅鏡は、内行花文鏡だったのだろうか。

 …「太玉命(玉祖命)が、天香久山で(根ごと)掘り(取ってきた)五百箇(いほつ)真坂樹(境木=榊)の、上枝に八坂瓊之五百箇御統(やさかにのいほつみすまる=八尺の勾玉)を懸け、中枝に八咫鏡(やたかがみ)を懸け(一云、真経津鏡)、下枝に青和幣(あおにきて=麻)・白和幣(木綿)を懸け、相与(あいとも)に其の祈禱(いのり)をする」

 (6) 「天岩戸開き」の主役は「天鈿女命」(天宇受賣命/アメノウズメノミコト)で、この絵馬でもその中央に描かれている。

 ◆日本書紀は「猨女君(さるめのきみ)遠祖天鈿女命、則手持茅纏(ちまき)之矟(ほこ)、立於天石窟戸(あまのいわと)之前、巧作俳優(わざおき)。亦以天香久山(あまのかぐやま)之真坂樹(まさかき)為鬘(かずら)、以蘿(ひかげ)為手繦(たすき)、而火処焼(ほところやき)、覆槽置(ふけふせ)顕神明之憑談(かみがかり)と記しているが、記紀を合すと次のようになる。

 ◆「天鈿女命」(天宇受賣命)は、笹の葉を手に持ち、天香久山の真榊の蔓(かずら)を髪飾りにして、日陰蔓(ひかけかずら)をたすきにかけ、天の岩戸の前に立ち、桶を伏せ、その上に乗って桶を踏み鳴らし、神かがりして、胸乳を顕わにし、裳の紐を陰部(ほど)まで垂らしてエロチックに乱舞した。

 ◆さすがに絵馬には、ストリップになった天鈿女命の姿は描かれないものの、襟元を開き胸板を見せて踊る姿を色っぽく描いてある。

 (※まったく関係はないが、襟元と云えば、山口八幡宮の入口を示す大燈籠の前に山口川にかかる襟橋がある)。

 (7) 因みに天香久山の真榊の蔓(かずら)を髪飾りにしたのは、髮は神であり、最も尊いものを頭に飾る必要があったからではないかと私は思っている。
 ※ 古代、大和で天香久山は尊い山とされたが、日本神話の舞台は大和ではなく、九州であり、朝倉市杷木の高山(香山)を天香久山とする説があり、朝倉郡・朝倉市方面には、天の安河(小石原川)や邪馬台国甘木朝倉説(安本美典)等もある。

 ※ 日陰蔓(蘿)は、かつて宗像市の蘿ヶ岳(城山)に自生し、山麓の石松一族の石松姓は日陰蔓の石松子からとったとの説もある。(※参照→「蘿神社〜ヒカゲノカズラ・石松など 宗像市陵厳寺」)

 ※ 天鈿女命は、猿田彦の妻とされるが、北部九州には猿田彦と並べて祭神される神社が極めて多く、当社にこの絵馬が掲げられているのを思うと、天鈿女命の故地も当地方にあったと誇示しているようにも思えた。

 ※ 宗像大社の祭神宗像三女神は素戔嗚命と天照大神の誓約で誕生した媛神であり、鞍手町六ヶ嶽に降臨伝承があるが、宗像、鞍手、朝倉を含む北部九州一帯には日本神話に登場する多くの神々の伝承があり、また、素戔嗚命の系譜物部氏などの古代氏族の痕跡も多く、九州王朝説もある。
 かつて日本神話の故地といわれる南九州を歩き回ったことがあったが、そこは明治維新で作られた舞台のようにも思え、神話の舞台は北部九州に求める方がよいと思うようになった。

 (8) そして、天鈿女命の踊りに合わせて、手をたたき歓声をあげている八百万の神々がいて、その笑い声を耳にした天照大神が不思議に思って天岩戸の扉を少し開けたとろを、その側に立っていた手力雄神(天手力雄神)がすかさず岩戸に手をかけて開けようとしている姿も描かれている。

 ◆カメラの拡大画像を観ていて見惚れる図で、これまでこれほど素晴らしいと思った「天岩戸アメノウズメの絵図」を見たことがなく、山口八幡宮の誇れる絵馬といってもよいだろう。
 たまたま今回訪れたのが日暮れ時で、先を急いでいたので、拝殿を開けてもらう気持ちのゆとりがなかったが、後になって思えば残念ではあった。

 ◆この画像を眺めていて、ふと、学生時代、日本書紀解読の講義で、日本書紀のなかの個々の解釈を巡って、たびたび、担当教授とは違う見解を述べて疎んじられ、納得できない成績評価を下されたことを思い出したが、今はもう昔のこと。

 ※つづく→「山口八幡宮(6)合祀神・旧山口村の神々・五良七神社等 (宮若市山口)」。 

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2016年01月27日

山口八幡宮(4) 「敵國降伏」の扁額(宮若市山口)

 前回「山口八幡宮(3)「由緒」など(宮若市山口)」からつづく。

 (1) 山口八幡宮(宮若市山口1580)の施錠してある拝殿戸からガラス窓越しに拝殿内を覗き込むと、正面欄間に掲げてある「敵國降伏」の扁額が見える。(※画像)

1敵国降伏額 「敵國降伏」の文字は、漆が剥げて黒色になったのかと思われる文字盤(台板)の上に刻されているが、「敵國」の部分は、その金箔が剥げて文字を押しつぶしているようにも見える。
 また、フレームにも貼られていたと思える漆や金箔はほとんど剥げ落ちている。


 (2) これと同じ扁額を「須惠宝満宮」(糟屋郡須惠町)で見たことがある。

 須惠宝満宮には、文永11年(1274)10月(元寇: 文永の役)、元・高麗(蒙古襲来)軍が博多湾に上陸し「筥崎宮」(福岡市東区)が炎に包まれたとき、当時「須惠宝満宮」の祭祀をしていた宝満山修験者(山伏)が元軍と戦闘を交えながら筥崎宮の御神体を神輿に乗せ、「極楽寺」(糟屋郡宇美町)に避難させたという(宇美遷宮)伝承がある。

 こうしてみると、時期は分からないが、この扁額は、筥崎宮が、同筥崎宮楼門に掲げてある「敵國降伏」の扁額の複製品を同宮と係わりのあった「須惠宝満宮」に賜ったものだったとも考えられる。

 (3) このことは、八幡神(胎中天皇)行幸伝承のある「山口八幡宮」においてもしかりだったかもしれない。

 つまり、日本三大八幡宮の一として応神天皇を祀る「筥崎宮」境内には、神功皇后が、新羅遠征後に出産した誉田別命(応神天皇)の胞衣(えな)を箱に入れて納めたと伝わる筥松があり、「山口八幡宮」には、神功皇后が、新羅遠征前に胎中天皇(応神天皇)を抱えて見坂峠を越える前の休息地という伝承があるので、筥崎宮とのつながりはあり、「敵國降伏」の扁額の複製品を賜ったとしてもおかしくはない。

 (4) 史上初めて「筥崎宮楼門」に「敵國降伏」の扁額が掲げられたのは文禄年間(1592~1595)で、当時の筑前国領主小早川隆景が楼門を造営したときに、同宮に保管されていた「醍醐天皇(885~930)の御宸筆(しんぴつ)」のなかから「敵國降伏」選び臨写拡大し掲げたという。

 したがって、この複製品を作ったのであれば、上記時期以前には遡れないが、対國戦とのイメージから言えば、明治〜戦前の間ということになる。

 なお、現在、筥崎宮楼門に掲げられている「敵國降伏」の扁額は、朱色の台板と金箔文字が鮮やかで、確か平成10年前後頃だったか、新たに掲げられたものである。
 以前のものは、取り外された後、宝物館等に保管されているのかもしれない。

 (5) また、亀山上皇(1260〜1274)が、上記文永の役で炎上した筥崎宮社殿の再興を祈願して、同じく「敵國降伏」の文字を揮毫し、その御宸筆を筥崎宮に納めたという。
 多分、福岡市博多区東公園の「亀山上皇像」の基壇に埋め込まれているものが、臨写拡大した亀山上皇の御宸筆だと思うが、これにより「敵國降伏」は元寇と係わりの深い言葉となった。

 (6) 「敵國降伏」は、レ点を入れると「降伏スルハ敵國ナリ」となり、この読み方が正しいと思う。
 つまり、を以て治める我が国を侵略とようとする国には神威により神罰が下される、よって降伏するのは敵国である、という意味になるのではないかと思っている。それ故に元寇では神風が吹いた。

 (7) しかし、これを「敵國を降伏させる」と解釈するとおごり高ぶるスローガンとしてはよいが、神意を知らず自ら他国に戦いを挑むことになり、神徳のない戦いには神威は働かず、神風は吹かない。よって「我(自)國降伏」の道を歩む。

 (8) 戦前は、多くの神社に「敵國降伏」の扁額があったと思うが、その多くは、敗戦と同時に撤去、廃棄されたのではないかと思う。
 それは、まさに後者の「敵國を降伏させる」と解釈をした故に、敗戦により敵国占領軍に睨まれるのを恐れてのことだったのかもしれない。

 (9) このようななかにあって、当地にも帰還しない出征兵士もいたであろうが、今なおこうして堂々と山口八幡宮は拝殿の中央鴨居(神殿前)に「敵國降伏」の扁額を掲げている。
 これを見たとき、当地の人たちの産神(産土神)への変わらぬ崇敬心の高さを感じた。

 (10) 因みに、現在、「山口八幡宮」社頭の由緒書には「幸福厄除の神として御神徳顕著なり」と書いてあるが、もとより当社は「敵國降伏」に相応しい武神・八幡神(應神天皇)や神功皇后・武内大臣(宿禰)を祀る八幡神社(八幡宮)であり、戦前までは「武運の神として御神徳顕著なり」と書いてあったと思う。

 現代日本には、武神の神徳は不要のようにも思えるが、日本を取り巻く状況は厳しく、無謀な戦いを仕掛けてくる国がいたら神徳により「敵國降伏」(降伏スルハ敵國ナリ)となるように祈りたい。無論、必要最小限の防衛措置は必要。

※つづく→「山口八幡宮(5) 天岩戸・アメノウズメ絵馬図(宮若市山口)」。

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2016年01月24日

山口八幡宮(3)「由緒」など(宮若市山口)

 前回「山口八幡宮(2) 宗像神社末社・山口御口代神社等(宮若市山口)」からつづく。

 前回「山口八幡宮」(宮若市山口1580)の由緒に「詳細なることは…筑前國續風土記拾遺附録に見えたり」とあると書いたが、「拾遺」のどこに書いてあるのかが分からず、今回は下記「附録」の記事により付記する。
 因みに筑前國續風土記附録は、江戸中期の天明4年(1784)藩命により編纂され、寛政10年(1798)頃に完成した当時の一級史料である。

 「山口村若八幡宮 神殿三間・社拝殿二間半・祭禮九月十九日・石鳥居有・奉祀小方左仲 産神也。祭る所の神三坐、應神天皇・神功皇后・武内大臣也。鎮座の年歴詳ならす。境内に地蔵堂あり。」

 (1)「神殿三間・社拝殿二間半」〜山口八幡宮の神殿・社拝殿は、近年、改修・再建されているが、その規模は往時とさほど変わっていないと思う。

1神楽殿額 なお、現在、拝殿の外(右)側に、旧「神楽殿」(墨書)の額(※画像)が掲げてあるが、附録に「神楽殿」の記載はなく、もともと拝殿が神楽殿を兼ねていたのか、別棟の神楽殿があったのか確認していないが、いずれにしろ当社は、境内で神楽が行えるほどの格式を持った神社であったことが伺える。

 由緒には「湯立神楽」の記事があり、その創始年代にずれがあるが、(永3年(1706)頃(社頭案内板)、又は、元文4年(1739)頃(神社誌)に、33人の宮座祭にて神幸、湯立神楽等が行われたとある(※下記)。

 (2)「祭禮九月十九日」〜江戸時代、旧暦9月19日に行われていた祭禮は、戦前は新暦10月17日、現在は10月7日に行われている「例祭」か。

 なお、福岡懸神社誌に「年中數度の祭事あり」とあり、社頭の案内板(山口八幡宮奉賛会)によると、現在行われている祭事(祭礼)は「1月元旦祭、2月11日紀元祭、4月上旬春祭、7月上旬夏祭、7月31日大祓式、10月7日例祭、11月15日七五三祭、11月23日新穀感謝祭、12月31日大祓式、12月31日除夜祭」とある。

 (3)「石鳥居有」〜この鳥居は「正徳二年」(1712)建立の「八幡宮」の神名額(額束)を持つ鳥居だと思われる。

 由緒に「昔より若八幡宮と申けるを正徳二年(1712)…鳥井神名額に八幡宮と記したるに付其後村人は八幡宮と申し奉る(神社誌)」とあり、この鳥居の神名額(額束)に「八幡宮」の社名が刻まれていたので、以後「(山口)八幡宮」と呼ばれるようになったと云われている。

 しかるに、正徳二年(1712)より後の寛政10年(1798)頃発刊の上記「附録」には、(山口村)「若八幡宮」と記載してあるので、「(山口)八幡宮」の呼称に統一されたのは、これより後の幕末か明治の頃かもしれない。
 (※参照→「山口八幡宮(1) 正徳二年の旧鳥居 (宮若市山口)」)。

 (4)「奉祀小方左仲」〜代々小方氏が宮司を務めてきたようで、由緒や社務所(宮司宅)前の石碑にも小方氏の名が書き留められている。

 福岡懸神社誌の由緒から宮司小方氏の名前を拾うと次のようである。
・「延喜二年(902)九月九日始めて小方隼人と云える者、皇后の行幸の例に任せ八幡宮を建立す。今の宮所是なり」。

・「元文四己未年(1739)九月九日神殿造営の棟札あり、時の神主小方頼母正藤原光範代なり。其の頃より神幸湯立神樂等ありて三十三人の宮座祭あり。今日迄例祭日に執行す。三座共に本膳一式の神饌を供する例なり。」。

 ただし、社頭案内板には、
・「宝永三年丙戊年(西暦一七〇六年)四月二十八日神殿造営の棟札あり。時の神主小方左右ヱ門藤原光次代なり。その頃より、神幸、湯立神楽等ありて三十三人の宮座祭あり。今日迄、例祭日に執行す。三座共に本膳一式の神饌を供する例なり。」
 とあり、なぜか神社誌とは、棟札の年号日付と神主の名が違っており、したって神幸湯立神楽等の宮座祭の始まりの年代についてもずれがある。

・「昔より若八幡宮と申けるを正徳二年(1712)大宮司小方左右ヱ門藤原光次の代、鳥井神名額に八幡宮と記したるに付其後村人は八幡宮と申し奉る」。
 なお、今も宮司は小方氏で、社務所は社殿の右側の鳥居(明治23年建立)の下方、里公民館前の坂の上(脇参道)にある。

 (5)「産神也」〜若八幡宮(山口八幡宮)は、鞍手郡山口村の項にあり、山口村=現「宮若市山口」全体(全地区)の産神(産土神)ということである。

 山口村について「古へハ下山口村といふ。此村及び沼口・竹原・宮永・小伏・乙丸此六村を山口郷といふ。」と説明している。
 つまり、若八幡宮(山口八幡宮)は、山口郷六か村(山口・沼口・竹原・宮永・小伏・乙丸村)のなかの「山口村の産神」である。

 山口村は、現・宮若市山口のことで広範囲にわたり「里、柿木田、大谷、畑、桐ノ木、萩原、三軒屋、浅ヶ谷、猫塚、野中、原の前、岡田、片山、小原など」の字(集落)がある。

 そもそも山口の地名の由来は、西山(鮎坂山)の山口(麓)に当たるからと思っていたが、改めて地図を見直すと、西側の西山〜見坂峠の尾根筋は古賀市、福津市との境界線で、また、山口川の北側にある磯辺山の山稜が宗像市との境界線になっているので、これらの境界山稜全体の山口(麓)という意味だったのかもしれない。

 また旧「山口郷」は、この旧山口村を含む旧鞍手郡(現宮若市)の西側一帯をいい、現宗像市の南に位置し、戦国時代までは宗像氏(宗像大宮司)が領有し「奥宗像郡」とも云われていたようである。

 神社誌は「當村を山口郷又は奥宗像とも申し奥宗像郷の産神にして大社なり武運の神として御神徳顕著なり」と、また、社頭案内板は「当村を山口郷又は奥宗像とも申し奥宗像郷の産神にして大社なり。幸福厄除の神として御神徳顕著なり。」と記している。
 山口八幡宮は、前回記したようにかつて宗像神社の境外末社であり、現宗像大社に境内末社「山口若宮神社」として祭神あり。

 (6)「祭る所の神三坐、應神天皇・神功皇后・武内大臣也」〜祭神の三坐(應神天皇・神功皇后・武内大臣)については、当社が「昔神功皇后異國退治の時此村を幸行ましましける折柄此處にて休ませ給ひ、夫より見坂越に赴き給ひ、遙に海原をながめさせ給ふ」(神社誌)との伝承(社説)により建立されたことによる。

 由緒的には、主神は武神たる神功皇后で、神功皇后の従臣竹内大臣(武内宿禰)を相神とした方が分かりやすいが、八幡宮では八幡神である應神天皇を主神とする。
 應神天皇は、このときは未だ神功皇后の胎内にいたので、その應神天皇を当社の主神とすることで(山口)「若宮」「若宮神社」「若八幡宮」等の社名で呼ばれ、後に現「山口八幡宮」になった。

 なお、神功皇后の夫「仲哀天皇」が祭神されていないのは、仲哀天皇が当地には来ていないからだ。
 仲哀天皇は、鞍手町古門の皇后崎(「神崎八幡宮」鎮座)までは神功皇后に同行していたかもしれないが、そこから、遠賀川を上って来た船団を連れて引き返し、海路で集合地香椎湊(香椎宮)に向かった、と考えている。
 (※なお、私の神功皇后伝承歩きや、ほかの祭神名等は別記予定)。

 (7)「鎮座の年歴詳ならす」〜各神社の鎮座年歴を不詳と記するのは崇敬上、常識的なことだが、当社の場合、上記したように真偽はともかく「延喜二年(902)九月九日始めて小方隼人と云える者、皇后の行幸の例に任せ八幡宮を建立す。今の宮所是なり」との由緒を伝えている。

 (8)「境内に地蔵堂あり」〜神仏習合により八幡信仰と地蔵菩薩信仰が結びつき、八幡神の本地を八幡大菩薩とし、僧形八幡神像が生まれたりもしているので、当社の境内に地蔵堂があってもおかしくはないが、地蔵堂は現存しない。
 社殿の右後方に社祠・堂宇跡地と思われる場所はあるが定かではなく、多分、明治維新の神仏分離令・廃仏毀釈等により廃堂廃棄されたのではないかと思う。先に記した「鞍手郡西山新四国八十八個所第64番札所(宮若市山口)」内に本尊が移されたのであれば幸いだが確認できない。
 返す返すも近代化の名目のもとに日本古来の伝統的信仰形態を徹底的に破壊した明治維新政府の政策は、徳川潰しとはいえ取り返しのつかない暴挙だったと思う。

※つづく→「山口八幡宮(4) 敵國降伏の扁額(宮若市山口)」。

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2016年01月22日

山口八幡宮(2) 宗像神社末社・山口御口代神社等(宮若市山口)

 前回「山口八幡宮(1) 新旧の石鳥居(宮若市山口)」からつづく。

 (1) 宗像神社の末社

1山口八幡宮 山口八幡宮(宮若市山口1580)社頭の由緒案内板に「詳細なることは宗像神社の末社記にあり。又筑前早鑑及び筑前国続風土記拾遺付録に見えたり」「当村を山口郷又は奥宗像とも申し奥宗像郷の産神にして大社なり」とある。

 筑前早鑑を読んだことはないが、上記から、当山口村・山口郷は、かつて宗像神社(現宗像大社)が治めた宗像神郡の一奥宗像郷であったと考えられ、その郷の産神が「山口八幡宮」であったとしたら、当社は当然「宗像神社の末社記」に載る末社でなければならない。


 因みに、山口村・山口郷については、附録に「(山口村は)古へハ下山口村といふ。此村及び沼口・竹原・宮永・小伏・乙丸此六村を山口郷といふ。」との記載あり。
 また、神社誌には「當村を山口郷又は奥宗像とも申し奥宗像郷の産神にして大社なり武運の神として御神徳顕著なり」となっているが、社頭案内板はこの「武運の神」を現代風に「幸福厄除の神」に改めている。

 (2) 山口若宮神社と山口御口代神社

 現在、宗像大社辺津宮社殿の周りにある23の社祠は、かつての宗像神郡(宗像郡全域及び、鞍手郡、遠賀郡、糟屋郡の一部)内に鎮座していた宗像七十五社(百八神)と言われる末社を延宝年間(1673~1680)に境内末社として整備したものだといい、そこには96の神社名が記されている。

 この辺津宮境内末社なかにある「山口若宮神社(山口若宮社)」と「山口御口代神社(山口御口代社)」が、現「山口八幡宮(八幡神社)」に比定されているようだ。

 また、宗像神社史にも、境外末社の67番目に「山口若宮(八幡神社)」、68番目に「山口御口代神社(八幡神社)」があり、ともに鎮座地「鞍手郡若宮町山口字山ノ下」(※鞍手郡若宮町は現宮若市)で、両社は同鎮座地に建つ「八幡神社」つまり現「山口八幡宮」を比定社としているようだ。

 (3) 山口若宮神社=山口若八幡宮=山口八幡宮

 前回、「山口(村)若八幡宮」は、正徳二年(1712)に「八幡宮」の神名額を掲げた鳥居が建立され、いつしか「山口八幡宮」と呼ばれるようになったと記したので、上記「山口若宮神社」及び「山口若宮」が「山口若八幡宮」=現「山口八幡宮」であることは容易に推測できる。

 主祭神については、若宮神社(若八幡宮)だから「仁徳天皇」だとする説もあるようだが、当社が神功皇后の行軍休憩地伝承に基づいて造営されたことから推測すれば、この若宮は伝承時には神功皇后の胎内天皇であった「應神天皇」でよいと思う。
 筑前國續風土記附録にも「祭る所の神三坐、應神天皇・神功皇后・武内大臣也」とあり、仁徳天皇の名はない。
 なお、最近、仁徳天皇と應神天皇は同一人物だとする説があり耳目を傾けるに値する。

 (4) 山口御口代神社と麓山祇命

 宗像神社史は、上記「山口御口代神社」(ミクチシロと読むのか)も「山口八幡宮」に比定していると思うが、山口八幡宮の由緒に類似する名の神社がない。

 私は、境内で社祠跡地らしき遺構や石祠を眺めながら、直接的な係わりはないが、往古、当地にあった社殿が荒廃した後、再建されないまま忘れられた、或は祀られていた石祠の放置等によりいつしか忘れられたなどと想像を巡らしていた。

 「山口御口代神社の祭神」は、大山祇命と並ぶ「麓山祇命」(ハヤマツミノミコト)らしく、麓山祇命であれば、或は、当地の「地主神」だったのかもしれないと思った。
 つまり、「麓山祇命」の「麓(ハ)」から山の麓(端)が連想され、この連想とマッチするように当地は、西山(標高644.6m:鮎坂山)丘陵の北東部の麓(端)にあり、当地の地主神として祭神するには相応しい。
 ひょっとしたら、当地は、「麓山祇命」の故地だったかもしれない。

 さらにこだわると、当地(山口郷)は、宗像神郡の南の境界にあり、「山口御口代神社」の「御口」と麓山祇命(ハヤマツミノミコト)の「」を合わせて連想すると、口と歯であり、悪いものが入ってくると口と歯で食いちぎる、そんな連想もできる宗像神郡の境界を守る武神(兼道祖神、庚申、猿田彦神等)としてこの神社がここに祀られていたとも考えられる。
 「庚申」と云えば、境内に「謹請庚申尊安鎮給」と刻した庚申塔がある。

 また、「ハ」の発音は海人族を連想する「波」にもつながる。
 このことは、戦国時代、当地(山口郷)に海人族を祖とする宗像氏の領有地の南境(境界)を守る拠点城・宮永城とその端城(山口八幡宮の後方にも尾園城があった)が設けられていたことからも伺える。

 また、「口代」と歯の組み合わせ及び麓山祇命が「手の神」(※下記)であることから農耕神的色彩も想像できる。

 (5) 麓山祇命(羽山津見神)の出自

  上記「麓山祇命」とは、日本神話では伊奘諾尊が斬った軒遇突智命の手から生まれた神である(日本書紀)。
  因みに、大山祇命は頭、中山祇命は胴体、正勝山祇命は腰、䨄山祇命(シギヤマツミノミコト)は脚から生まれ、合わせて5柱の山祇神となった。

 なお、古事記では、麓山祇命は「羽山津見神」と書くが、「羽山津見神」は斬られた迦具土神の右手から生まれた神となっている。
 因みに、正鹿山津見神(マサカヤマツミノカミ)はその頭、淤縢山津見神(オドヤマツミノカミ)は胸、奥山津見神は腹、闇山津見神(クラヤマツミノカミ)は陰、志芸山津見神(シギヤマツミノカミ)は左手、原山津見神は左足、戸山津見神は右足から生まれ、合わせて8柱の山津見神になったという。

 ※つづく→「山口八幡宮(3)由緒など(宮若市山口)」。 

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2016年01月17日

山口八幡宮(1) 正徳二年の旧鳥居 (宮若市山口)

 前回「鞍手郡西山新四国八十八個所第64番札所(宮若市山口)

 (1) 一の鳥居〜三の鳥居

 「山口八幡宮」(宮若市山口1580)は、西山(標高644.6m:鮎坂山)の北東丘陵の最末端部に位置する低丘陵上にある。

1一・二の鳥居 その最末端部(山口八幡宮の右側)の斜面に「山口八幡宮社務所」(宮司宅)がある。

 丁度「里公民館」(山口1722)の正面に「山口八幡宮社務所」入口の坂がある。
 また「里公民館」の左斜め前に山口八幡宮社頭「一の鳥居」がある。


 道路に面してその端に建っている「一の鳥居」(昭和3年11月吉祥山口村山口區産子中建立)は、大きな「石造明神鳥居」で、ここから境内の参道を見上げると、ほぼ一直線に上る石段と二つの「石造明神鳥居」が見える。

 「一の鳥居」のすぐ後ろに、小さな溝川に架かる小さな「石橋」(5枚の板石を並べたもので風情あり)があり、外柵(石垣と玉垣)の中央部分にある3段の石段を上ると踊場があり、この先からまっすぐ上る全61段の石段がある。
 「二の鳥居」(昭和9年正月吉祥建立)は、この石段の上り口に建っている。

2三の鳥居 「三の鳥居」(昭和11年8月吉祥建立)は、ここから53段上った石段の途中に建っている。

 表参道のこれら三つの石鳥居は、すべて昭和初期に建てられたものであることが分かる。


 さらにここから8段上ると、手水舎や社殿(拝殿、神殿)等が建つ丘陵上の境内広場がある。

 (2) 脇の鳥居

3脇の鳥居 境内広場(神殿)の右方に「脇参道の鳥居(脇の鳥居)」(明治廿有三季寅五月吉辰桐木區氏子中氏子建築)が建っている。即ち「明治23年庚寅5月吉日」に山口村桐木区の氏子が建立した石造神明鳥居である。

 脇参道は、上記「山口八幡宮社務所(宮司宅)」入口の坂を上り、社務所の左側の庭から左に進む参道だが、「脇の鳥居」の下にある13段の石段には、アルミの手すりが設置されているので、高齢者等が表参道の長い石段を上らなくても良いようにとの配慮なのだろう。

山口八幡宮社務所入口 なお、社務所(宮司宅)入口の坂は、里道に面した「里公民館」の正面に建っている2基の小方氏の石碑の左横にあり、同社務所は、この坂を上り、石碑の後方を右に上り、左に回ったところにある。  
 脇参道の石段は、同所の左後方にあり、庭を通り抜けるとき、飼い犬に吠えられる。


 (3) 正徳二年の旧鳥居の残骸

 上記、表参道の踊場の中央、つまり「二の鳥居」前には、倒壊した「旧石鳥居」の両柱の下部分が残っている。
 その左柱には建立者名の一部かと思える文字が読めるが、倒壊した上部柱の記銘を確認していないので、ここでは省略する。

4旧鳥居 この右柱には「月吉日」の刻字が見える。

 「旧石鳥居」がいつ倒壊したのか聞いてないが、下部柱以外の残骸は、「額束(八幡宮)」を含めて、右方の傍らに寄せて置いてあり、その半分は土に埋まり、またコケや雑草が覆っている。


 そのなかに、辛うじて読める「正徳二壬辰天四」の刻字を施した右柱の上部と思われるものがあり、上記下部柱の刻字「月吉日」と組み合わせると「正徳二壬辰天四月吉日」となる。

 この「正徳二年」(1712)建立鳥居は、その神名額(額束)を以て、神社名が「若八幡宮」から「八幡宮」に変わったとの由緒のあるものなので、文字の風化を食い止めてほしい(下記参照)。

 (4) 八幡宮の神名額

 上記のように境内にある石鳥居は旧石鳥居の残骸を含め、つごう5個あるが、その鳥居の「額束」の神名はすべて「八幡宮」である。

  山口八幡宮の由緒に「昔より若八幡宮と申しけるを正徳二年(1712)大宮司小方丹波守光次(案内板には「小方左右ヱ門藤原光次」)の代鳥井神名額八幡宮と記したるに付其後村人は(山口)八幡宮と申し奉る」とあり、この「正徳二年」(1712)は、上記の倒壊した鳥居の建立年に該当する。

 つまり、この「正徳二年」建立の旧鳥居の「額束」は、由緒にある「鳥井神名額」となる。
 この額束の刻銘を以て、「若八幡宮」が「八幡宮」に変わったことになり、仮に後世の再建鳥居であったとしても、郷土の歴史を正確に伝える有形遺産となるので大切にしてほしいと思った。

 (5) 旧 若八幡宮

 しかるに天明4年(1784)の藩命により寛政10年(1798)頃に成立したという筑前國續風土記附録の「山口村」の項には依然として「若八幡宮」と記されているので、多分、明治維新に到るまでは必ずしも「八幡宮」の呼称に一本化されていなかったのかもしれない。

 同附録に記載されている「若八幡宮…石鳥居有」の「石鳥居」は、多分、正徳二年(1712)建立鳥居で、その鳥居の神名額が「八幡宮」であったとしても敢えて「若八幡宮」と記した背景には、当地は神功皇后伝承の意識が働いていたからか。つまり「神功皇后が見坂峠を越える前にここで休息した」という伝承の時代には、應神天皇はまだ皇后の胎内にいたので、主祭神を應神天皇とするのであれば「若八幡宮」だとか…(次回参照)。

 ※つづく→「山口八幡宮(2) 宗像神社末社・山口御口代神社等(宮若市山口)」。

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2016年01月10日

鞍手郡西山新四国八十八個所第64番札所(宮若市山口)

 前回「筑前畑から大谷を下る(宮若市山口)」からつづく。

 (1) 西山四国第64番の所在地

1入口 前回「柿木田集落の下方に旧道との分岐点があるが、そのまま直進すると、700m下で同旧道と合流する。
 その手前65m(徒歩1分)の低丘陵の杉林のなかに『西山四国第64番 前神寺 本尊阿弥陀如来』がある」と記した。


 言い換えると、この「西山四国第64番」(宮若市山口1793)は、逆に里集落内の「里公民館」(山口1722)や「山口八幡宮一の鳥居」(山口1581)の前辺りから、里道沿い南西約400m(徒歩約5分)の右側の低丘陵にある。
 丁度、右側にある里の一集落が途切れる(※左側に旧道が分岐する)場所のすぐ先である。

 (2) お堂の石段参道

 里道から低丘陵を見上げると杉林のなかにモルタル白壁(木造瓦葺)のお堂が見え、丘陵の斜面に生えている杉林の間を斜めに上る石段の参道がある。

2-1石段 石段のうち、加工石段は、一部欠損しているけど上方2段のみで古いものとは思われるが、その下はすべてブロックで、後に土留めを含め参拝の便を図って設置したものなのだろう。
 だが、表面が苔むしているブロックも多く、一見しただけではブロックとは思えなく、当地の風情に溶け込んでいる。

 (3)お堂の名称

 このお堂を『西山四国第64番 前神寺 本尊阿弥陀如来』と上記したのは、その正面の左壁面に「第六十四番 西山四国 (キリークの梵字) 本尊阿弥陀如来 前神寺」と墨書した木札が打ち付けてあったからだが、正しくは「鞍手郡西山新四国八十八個所霊場 第六十四番札所 前神寺 本尊阿弥陀如来(阿弥陀堂)」と言うべきなのだろう。

 (4) 西山新四国八十八個所とは

 「西山新四国八十八個所」(「西山四国八十八個所」ともいう)は、江戸中期〜後期頃に糟屋郡(古賀市)・鞍手郡(宮若市)の郡境にある標高644.6mの「西山」(鮎坂山)山稜の東側(現宮若市含む鞍手郡内)に、本場四国の「四国八十八個所霊場」に模して開かれた霊場のことである。

2石段 この霊場を巡拝することで本場・四国の霊場を巡ったと同じ御利益を授かるとして、かつては千日詣りという団参を含む霊場巡りが盛んに行われていたようだが、現況は分からない。
 鞍手郡(宮若市含む)には、この他にも六ヶ嶽周辺に開かれた「六ヶ嶽四国八十八個所」があり、鞍手地方を巡っていると、時々、これらの霊場札所に行き当たることがある。

 この「第六十四番 西山四国」札所は、「西山の北東山稜の末端部の近く」にあり、当然「西山新四国八十八個所霊場」に属する。


 (5)前神寺の名と本尊

 「第六十四番 西山四国」札所を「前神寺」(まえがみじ)と称しているのは、本場「四国国八十八個所霊場第64番札所・石鈇山金色院 前神寺」(愛媛県西条市)の寺名をそのまま拝借しているもので、また「本尊阿弥陀如来」についても、同上西条市の「前神寺」の「本尊阿弥陀如来」に合わせたものである。

 因みに、以前掲載した「宗像四国東部霊場第64番札所 池田木原 本尊阿弥陀如来」(宗像市池田)は、同地の東照院境内(阿弥陀堂)にあり「前神寺」の寺名は使っていない。
 また「宗像四国西部霊場第64番札所 本木 本尊阿弥陀如来」(福津市本木1106)も同地の納骨堂境内にあり「前神寺」の寺名は付いていない。

 (6)風化激しい仏像

 「第六十四番 西山四国」のお堂内には、かなり風化が進んだ本尊阿弥陀如来を含む5体の仏像、3体の小石仏(うち1体は頭部なし)、石造神像1体が安置してある。
 かつては熱い信仰によって支えられてきた仏像も、信者や篤志者の減少等に伴い十分な管理が行き届かなくなると、その風化を食い止めることができなくなるのだろう。「オンアミタテイゼイソワカ」合掌。

 (7) 旧五輪塔の一部

3三輪塔 お堂の前に、加工した丸めの石を三つ積み上げてセメント接着した「三輪の小塔」が置いてある。

 一瞬「これは何か」と思ったが、改めて見直していて、これは「五輪塔の一部」だと気付いた。
 つまり、上から「空輪・風輪・水輪」である。

 「五輪塔」であれば、この他に「火輪」と「地輪」がある筈だが、消失しているのだろうか。(※下記参照)

 時々、このような歪(いびつ)になっている石塔を目にして戸惑うことがあるが、この三輪小塔を見ていて、何とかして残存しているものを残そうと想う信者さん、或は地元の人たちの心情が伝わってくるようだった。
 だが、下記の「手水鉢の台座」を見たとき、違和感を覚えた。

 (8) 手水鉢と台座(旧五輪塔の一部)

4手水鉢 この三輪小塔の前方に生えている南天の前に、上面円形の形の良い「(小)手水鉢」(石造) 1個が、2段重ねの石の上に置いてある。

 この「上下2段重ねの石」のうち、上段は、加工された小さめの角石で、よく見ると上記の旧「五輪塔」で欠損している「地輪」のようだ。

 さらに、下段の大きめの石は、「五輪塔」の下に置く土台石だったのではないかと思った。
 「火輪」が見当たらないが、ひょっとしたら上記「三輪小塔」の土台石となって、半分地中に埋まっている石がそれだったのかもしれないと後で思った。
 バラバラに散在した石塔の石を積み上げて復元するときは、現況のような形に分離しないで少しでも本来の形に近い形に復元した方が良かったのではないかと思った。

 (付記)
 ・附録にある「比丘尼塚 ヤマジタ」は、この小五輪塔のことか。
 ・同「ヤマジタ」(山ノ下)在の「観音堂」「薬師堂」「地蔵堂」や若八幡宮境内「地蔵堂」などのうち当堂にまとめたものもあるのだろうか。

 ★野中の岩鼻橋近くの川べり(右岸)に「西山四国第52番札所太山寺十一面観音堂」(山口2893)がある。
 ★県道92号沿いの鳴水溜池の近く(南西)の三叉路に「鳴水:西山四国第47番札所八坂寺阿弥陀堂」がある。(山口4786付近)
 ・なお、野中の里道沿いにも、なぜか同番の「野中:西山四国第47番札所八坂寺阿弥陀堂」がある。
 ★原の前の青山橋西・山口川左岸沿いに「西山四国第57番栄福寺阿弥陀堂」がある。
 ・山下橋の近くにも仏堂(墓か)がある(山口4236)。 
 ★馬口の滝に「西山四国第41番観自在寺薬師如来」がある。
 ★山口交差点の南、山口橋の近くに「西山四国第49番浄土寺釈迦堂」がある。
 ★このほかにも西山四国霊場があると思うが、その全容は分からない。

 ※つづく→「山口八幡宮(1) 正徳二年の旧石鳥居 (宮若市山口)」。

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2016年01月09日

筑前畑から大谷を下る(宮若市山口)

 前回「神舞峡 馬口の滝に行く(宮若市山口)」からつづく。

 「宗像騒動・千代松と母お弁の墓(宮若市山口畑)」に、宗像氏続の妾お弁は、幼児千代松を抱いて、鞍手郡沼口(宮若市沼口)から逃亡したとき、山口八幡宮(宮若市山口1580)から畑区に抜ける大谷の谷あいを通り抜けていたのかもしれない、というようなことを書いた。

 お弁らがどのコースを通って畑集落へ向かっていたかは分からないが、西山(鮎坂山:標高644.4m)の北東の山裾に伸びる山峡の大谷を通ったと仮定して現在の大谷・柿木田道を歩いてみると、幼児千代松を抱いて必死で逃げるお弁の心情が伝わってくるようだ。

 (1) 今回は、畑集落入口の筑前畑バス停前(県道92号:宗像篠栗線)から山口八幡宮に向かって、2.8km (徒歩約35分)の距離を(お弁らとは逆に)歩行してみる。なお、車だと一部大回りがあり3.1km((約9分:小型車離合可)の走行距離となる。

 (2) 筑前畑バス停から県道92号を篠栗・脇田方向に、「千代松・お弁墓」の前を通り、 350m(徒歩5分)ほど進み、左側の舗装されていない農道(左側は林、右側に狭い農地あり)に入ると、右側に大池があり、その築堤を渡ると大谷の車道に出る。=この間約220m、徒歩約3分。

 ただし、車の場合は、この農道入口からさらに県道を350mほど進み、左側にある大池の縁を斜め鋭角に左折し、池の縁に沿って200m進むと上記築堤の端に到る。
 
 (3) この築堤の端から里公民館(山口1722)の斜め前に建つ山口八幡宮一の鳥居の前(山口1581)まで続く、なだらかな谷あい道(全舗装、約2.2km)をひたすら下る。

400-1大谷 築堤の先の右側は雁城山(333m)の西面で、杉林となっている。

 左側は、里道に沿って所々途絶えるところもあるが杉並木が続き、また、その下は、深い谷になっているが、里道から見下ろしても水流は見えない。
(※画像2)


 (4) くねくねと曲がって見通しの悪い杉林のなかを通る谷道をひたすら約300m (徒歩約5分)歩くと、左側に分枝する小道がある。
 道端の竹林の前に周囲の景色に溶け込まない「古鉄商 農機具(トラクターコウウンキ) 各種エンジン自動車部品販売 後藤商店」と書いた看板が設置してあるので、この商店の私道のようだ(山口2011)。

 先ほどまで左側にあった深い谷は既になく、道の傍まで左側の低丘陵が迫ってきている。
 また、道の両側は、雑木や竹林等が多くなり、左側にあった谷川は右端に移り、谷道に沿って小溝が続く。

 (5) 大谷集落

400-2大谷 さらに120m(徒歩2分)進むと、左側の低丘陵の斜面や右側に民家か現れる。
 (この辺りの大谷一帯はすべて山口2011)。

 右側の民家の横に深い谷があり、土留め擁護壁の下を流れる谷川がある。

 谷川の側面には自然石(丸石)を整然と積み上げて作った擁壁もあり、目を見張る景観である。
(※画像2)


400-3大谷  かつて雁城山にあった宗像氏の戦国城砦宮永城の要害を見るようでもあり、逆に対岸にあった高丸城に大友軍が進攻したとき、逆にこの要害が災いして救援軍を送れなかった状況も分かるようでもある。

 ここで二つの谷川が合流し、この川は、下流で山口川と合流する。この先、道は左側の丘陵の縁に沿った形となり、右側は、丘陵が徐々に後退し、その間の幅が徐々に広がり、小さな畑も見られるようになる。

 (6) 柿木田集落
 大谷集落から450m(徒歩6分)ほど進むと左側に民家(山口2214)が見えるが、この辺りの集落を柿木田といい、ガラスサッシ店もある。
 この先250m(徒歩4分)に、旧道(右)との分岐点(山口2237)があるが、谷川は大きく右方に離れ、その間の谷あいに農耕地が開けている。
 見晴らしも良いので、狭い谷あいを抜けた解放感わ味わうことができる。

 (7) 幼い千代松を連れたお弁は、この辺りから逆に谷あいに入ったのかもしれないが、そのまま狭い谷あいから抜け出すこともできないまま、暗い山中で氏貞の討手に捕捉され千代松ともども惨殺さる。

 当時、上述したように大谷の東側の雁城山(標高333m)に宗像氏の若宮支配の拠点「宮永城」があり、柿木田の西の高丸山(標高240m)には「高丸城」があり、また、麓には尾園城(山口八幡宮の裏山)、茶臼山城(山口八幡宮の前方)等があったので、この谷道は当時の主要道だったと考えられるが、道幅は今よりもっと狭く、凹凸のある薄暗い谷道だっただろうし、追われる身の恐怖を抱えて、この谷を抜けようと急ぐ二人の荒い息づきが伝わってくるようだった。お弁らは、宮永城の城兵に行く手を塞がれた可能性も考えられなくもない。

 (8) 旧道は右に鋭角に下るが、今回は、旧道を通らずこのまま直進すると、700m(徒歩9分)下で同旧道と合流する。
 その手前65m(徒歩1分)の低丘陵の杉林のなかに「西山四国第64番 前神寺 本尊阿弥陀如来」(※次回掲載)があり、また、この先450m(徒歩5分)に山口八幡宮一の鳥居(※次々回掲載)がある。

 (9) この先、帰路は、九州自動車道のガード下をくぐり大燈籠前を左折し、山口川右岸を遡る→細川と山口川の合流点(原の前)から細川右岸を遡る[※なお、合流点の手前、岩鼻橋先に観音堂あり]→山下橋を左折する(バス通り)→県道92号線合流点を左折する→筑前畑バス停に戻る。この間、約3.5km(徒歩約40分)。

 ※つづく→「鞍手郡西山新四国八十八個所第64番札所(宮若市山口)」。

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2016年01月08日

申年の干支色紙に「萬事如意」願う(南岳裕史作画)

干支申色紙 今年(平成28年)も年賀で頂いた蠡臠の畳紙(たとうがみ)付きの「干支之図 申年」の色紙を書斎掲げた (※画像)。

 「萬事如意」の揮毫がある「干支申年」の色紙は、昨年の「未年色紙」と同じく、高野山真言宗大僧正 弘教の南岳裕史(なんがくゆうし)師の作画。

 この干支色紙について次の説明文が添えられていた。
 「萬事如意」―萬事意の如し―全ての事が思い通りに成長する。

 「2016年の干支は丙申(ひのえさる)〜は明らかという意味があり、は呻く(うめく)の意を表す」
 「丙申は、(形が明らかになってくる)と(実が固まっていく)の年という事から、これまで頑張ってきた人の努力が形になって全ての事が思い通りに成就する年ともいえます。」

 「申年の方の性格は、快活で好奇心が強く、人生の取り組み方も積極的です。周囲を気にせず何事もマイペースでやり遂げる傾向がありますが、内面はデリケートで事物にこだわりを持つ人が多いようです。人に指図されることを嫌う一方で、相手の気持ちを汲み取る能力に優れているので出世も早く友人にも恵まれます。」

 本当に、丙申の今年は「萬事如意」のように物事が思い通りに進み、万事平和で成長・発展・成就する年であるように願いたい。


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2016年01月03日

初場所:大野城取的の挽回を期待

 平成28年大相撲初場所は1月10日初日。

H28初場所 先場所、初めて幕下に番付が上がった取的「大野城」を応援していたが、今場所は、後戻りして三段目西二十二枚目。

 高田川新聞(高田川部屋後援会発行)に、「先場所は自分の実力を実感した。今場所は勝って、すぐに幕下に戻れるように頑張りたい」と、大野城取的の談。

 次は勝って戻るという、負けても負けを引きづらない、その気合い、その意気が好きだ。今場所は、挽回の場所、大いに期待している。

 彼の父親が、初場所の番付表を送ってくれたので、すぐ玄関ドアの内側に貼った。番付け表は「魔除け」にもなるが、来客者が帰るときに必ず気付くので、帰り際に手短に話ができる。応援者が増えれば、その想いがきっと届くはず。楽しみだ。

※参照→「大相撲番付表は魔除け」。

※追記:大野城は、4勝3敗で勝ち越した。
 なお、幕内は琴奨菊(大関)優勝、10年ぶりの日本出身力士の優勝で沸いた。


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2016年01月01日

松尾大社巨大絵馬「丙申(猿)」に願う(平成28年元旦)

松尾丙申絵馬 松尾大社(京都市)・生嶌經和宮司の平成28年(2016)年頭挨拶で、今年の干支「丙申」(ひのえさる)について語られた部分を要約すると「」には「あきらか・さかん」、「」には「伸びる」という意味があり、神道でいう「生々発展」「修理個成」の言葉に通じるという。

 そして「申」の字には「稲妻」の意があり、「申」に「」偏を付けると「」となり、かつて自然を神と崇めた日本人は稲妻に神を感じていたという。

 「修理個成」(つくりかためなせ)といえば、八劒神社(福岡県鞍手郡鞍手町中山鎮座)の石段下に「修理固成」と刻した大きな自然石碑がある。
 そして「神々が日本をお造りになった一番大切な言葉で、物を創造する・種々のものを発明する、の意で神道の根本である」との説明がある。

 八劒神社元宮が鎮座する「剣岳」頂上は、「九州出雲王国」の中心地だったとも目される霊地で、この石碑を見ていて、ここで発祥した王国が生々発展し統一国家が形成されたのだ、と思い畏敬の念を抱いたものだった。
 ※参照→「猿田峠の西東(8)〜修理固成(八劒神社)」。

 地口で「申(サル)」に「去る」の字を充てたら「善・悪」のどちらにでも転んでしまうが、「申」は文字通り「神」なのだと思えば、神意に違わぬことをしていれば「辛苦は去り、歓喜が去ることはない」と思えばよいってことか。

 こんなことを思いながら、松尾大社拝殿に掲げられた「丙申の巨大絵馬」を観ていたら、ふと昨年の正月は変形性頚椎症肩関節周囲炎等による激痛に苦しんでいたことを思い出した。
 何をするにも、やはり健康が一番だ。
 そう思うと、今年は、松尾大神の霊気を頂き、自分を含め大神と御縁のあるすべての人たちが健康にして(申の如く)発展繁栄してほしいものだと思った。祈念、合掌。

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