2016年03月

2016年03月31日

殉維烈士「山崎羔三郎」墓参道碑など(宮若市山口)

 前回「岩鼻橋・西山四国52番 観音堂 (宮若市山口)」からつづく。

 (1)神功皇后伝承歩き:見坂峠(宮若市)」に、(県道30号線)原の前(JRバス停)四つ角に殉維烈士山崎羔三郎(やまさきこうざぶろう)君墓参道碑(左側)がある、と記した。

1原の前山崎羔三郎墓参道碑 この石碑は、原の前バス停前広場の片隅(市道道際)の雑草のなかに建っている。

 正面に「殉維烈士山崎羔三郎君墓参道」、左面に「是ヨリ南二千五百八十二米突」の文字が刻してある。(※画像1・2)



 ここに墓参道碑があるということは、かつて(多分、戦時中までのことだと思うが)、ここから円通院(山口3809)の「山崎羔三郎墓」まで歩いて墓参する人たちが多かったたということなのだろう。

 (2)「山崎羔三郎墓」は、先に「円通院のあれこれ(宮若市)」に記したように、畑集落内の円通院の裏山にあり、手持ち地図(昭文社版)にも「山崎羔三郎墓」の記載がある。

2原の前山崎羔三郎墓参道碑 しかるに現在「山崎羔三郎(やまさきこうざぶろう)」と言っても知る人は少なく、この墓参道碑に注目する人も少ないと思う。

 この「山崎羔三郎君墓参道」とは、原の前JRバス停から南方の谷あいを通る市道(旧県道92号か)を「山下橋」(山口3178)を経由して桐ノ木(県道92号合流点)に到り、ここを左折(ほぼ直進)して畑バス停右の「山神橋」を渡り畑集落内に入り、「第二山神橋」前を右折し曹洞宗聖音山「円通院」(※画像3)に到るコースのことだと思う。

 この間の距離は、約2.5km(徒歩35分)あるが、墓参道碑には、より詳細に「是ヨリ南二千五百八十二米突」(2582m)と標示してある。当時は、山下橋の先から第二山神橋の手前までは、上記ではなく、細川右岸側道(旧道)を通って畑集落に入っていたのかもしれない。

 (3)殉維烈士山崎羔三郎」というのは、日清戦争のとき漢口楽善堂出身の諜報員(スパイ)として清国(中国)内で活動中に金州で捕捉され斬首されたが、当時、国家(政治体制)のためにその身を犠牲にして国に殉じた愛国烈士であるとして讃えられた故のことである。

3園通院 時に明治27年(1894)10月31日31才。
 山崎家は当時若宮町(現宮若市)山口にあり「円通院」(※画像3)は、その菩提寺なのだろう。

 なお、日清戦争当時、清国で捕捉処刑された諜報員は、山崎羔三郎を含めて9人いる。


 この9人は「征清殉難九烈士」として崇められ、今も京都熊野若王子神社前に「征清殉難九烈士碑」がある。
 しかるに、今次大戦敗戦後は、この「征清殉難九烈士」が教科書に載ることもなく、歴史の彼方に埋もれている。

 (4) 山崎羔三郎の出身地である宮若市山口地区には、この「殉維烈士山崎羔三郎君墓参道碑」や「山崎羔三郎墓」以外にも、「奥の前橋」の前(県道30号線)「山口コミュニティセンター」(山口2551-3)の前庭に「殉維烈士山崎羔三郎君之碑」、及び「以特旨贈従五位故山崎羔三郎」と刻した同脇碑がある。(※画像4)

4山崎羔三郎之碑 「殉維烈士山崎羔三郎君之碑」は、土台を含め、見上げるほどの高さのある大きな顕彰碑である。

 この大きな「殉維烈士山崎羔三郎君之碑」は県道30号線に面して堂々と建っているので、同県道を車で通っても、すぐに目に入ってくる。


 裏面にその顕彰文が縦書きに刻してあるようだが、特に高さのある碑面の上半分の全面が黒ずんでいてどうしても読むことができなかった。こんなとき、碑文の内容を転記した案内板が建っていたら良いのにと思う。

 なお、この碑が建っている山口コミュニティセンターは、山口小学校の旧校地の跡で、ここに、これだけ大きな石碑が作られたこと見ても、郷土をあげて山崎羔三郎を誇りとし讃えていたことが伺え、また、現在もこの石碑が大事に保存されているので、今もその郷土の偉人として讃えられていることが分かる。

 ※つづく→「山下橋と近くのお堂(宮若市山口)」。

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2016年03月27日

清瀧寺の桜(古賀市薦野)

1門前桜 西山(鮎坂山)の北西山麓にある天台宗「清瀧寺」の桜を見学してきた。(古賀市薦野665)

 天気は良くても寒の戻りなどで肌寒く、福岡県下の桜は、全体的にまだ2〜3部咲くらい。
 清瀧川辺の桜並木も概してそうだったが、山麓にある清瀧寺の山門前の桜は満開で、花吹雪が舞っていた。

 また、山門内のしだれヤマザクラも満開に近く、このときに行き合わせ美しい花の景色を見せてもらえたことに感謝して本堂前で御礼申し上げた。

2清瀧寺門前桜


3薬師堂桜


4イスノキ





























 また、薬師堂前に生えているソメイヨシノやヤマザクラも満開に近く美しかった。
 生えている場所によって、開花の時期や咲き方が違い、今回、当地でその開花に、うまく行き合わせ、神仏の導きを頂いたように思えた。

 なお薬師堂参道にある「イスノキ」(昭和54年福岡県指定天然記念物、樹齢300年、樹高20mの巨木)は若葉が茂り、この一画には、樹気が満ちており、居るだけで、何かしら気持ちが落ち着いた。


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2016年03月25日

岩鼻橋・西山四国52番「観音堂」(宮若市山口)

 前回「小原 伊久志神社にて(宮若市山口)」からつづく。

 下記「別記1・2・3」に記した西山四国第52番「観音堂」(木造瓦葺小堂宇)について、改めて書きとめておく。(宮若市山口2893)

1岩鼻橋観音堂 別記1:「筑前畑から大谷を下る(宮若市山口)」〜「(山口八幡宮境外襟橋前)大燈籠前…山口川右岸を遡る→細川と山口川の合流点(原の前)から細川右岸を遡る[※なお、合流点の手前、岩鼻橋先に観音堂あり]→山下橋を左折→県道92号線合流点を左折→筑前畑バス停に戻る」。

 別記2:「鞍手郡西山新四国八十八個所第64番札所(宮若市山口)」〜「野中の岩鼻橋近くの川べり(右岸)に西山四国第52番札所太山寺十一面観音堂(山口2893)がある」。
 別記3:「神功皇后伝承歩き:見坂峠(宮若市)」〜「岩鼻橋の近く、山口川右岸に太山寺観音堂、左岸民家内に2体の石仏が見える」。


2岩鼻橋表示板 (1) 観音堂の柱に「第五十二番 西山四国 太山寺 (梵字キャ)本尊十一面観世音菩薩」の表示板(※画像2)が張り付けてあるので、ここも鞍手手郡西山(新)四国八十八ヶ所霊場の一つだと分かる。

 「太山寺」の表示については、四国52番霊場が龍雲山護持院太山寺(松山市)であり、この「太山寺」に合わせたもので、ここにかつて太山寺という寺院伽藍があったということではない。

 また、「本尊十一面観世音菩薩」についても、太山寺(松山市)の本尊に合せたものである。
 当堂には、小さな同観音立像+小弘法大師坐像が安置してあるが、昔からあったものではないような気がする。

 観音堂に向かって左上には九州自動車道の防護壁が伸し掛かるように続き、風景を遮断しているが、同所にあるガードをくぐるか、岩鼻橋(左岸)から同方向を見ると、西山四国信仰と係わる西山(鮎坂山)の峯を遠望できる(※画像1)。


3岩鼻橋 (2)岩鼻橋」(※画像3)は、JRバス・野中公民館前バス停(県道30号飯塚福間線)から原の前バス停方向350m先の左側にある山口川架橋で、観音堂は、橋を渡り右折したところに建っている。
 なお、巡拝者(ウォーキング)は、野中公民館前の橋を渡り右折、山口川左岸を350m遡り道なりに観音堂に行く。

 因みにこのすぐ先に細川(貴船川)と山口川の合流点があり、この観音堂前の細い左岸道を進むとそのまま細川左岸道に変わり、九州自動車道の高架下を通り山下橋(原の前バス停〜桐ノ木間)に抜けるので、この道を経由して「西山四国47番八坂寺阿弥陀堂」に向かうか巡拝者もいるかもしれない。

 なお、「岩鼻橋」の「岩鼻」を見ていて、ふと、かつての釣川の流れに突き出していた「岩ケ鼻」(宗像市多禮)の岩礁が思い浮かんだ。そうしてみると、今の山口川には護岸が整備され川に突き出した岩鼻はないが、かつては、この辺りに所謂岩鼻があったのかもしれない。

 (3) 観音堂の対岸(左岸)に立ち並んでいる数軒の家を見たとき、そのうちの一軒の庭に2体の笠を被った坐像石仏(合掌と定印)らしきものがあるのが見えた (※画像4)。

4岩鼻橋邸内仏 敷地内には入らなかったが、それぞれの台座に享保十天(1725) 釋尼…、享保十四天(1729)釋…の刻字があった。
 きっと、(明専寺信徒で)念仏信心の篤かった同家御先祖夫妻のお墓かもしれない。
 当地方の歴史を感じる。南無阿弥陀仏。

 なお、岩鼻橋から、この民家が並ぶ山口川左岸道を通り抜け、県道30号線を横切り、そのまま左岸に沿った旧道(農道)を遡ると「青山橋」の先にある「原の前:西山四国第57番栄福寺阿弥陀堂」に到る。

 ※つづく→「殉維烈士 山崎羔三郎墓参道碑など(宮若市山口)」。

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2016年03月20日

小原「伊久志神社」にて (宮若市山口)

 前回「水原天満宮にて(宮若市)」からつづく。

 (1) 県道側からの眺め

 福岡県道30号(飯塚福間線)の樋渡と小原橋バス停(宮若市)の間にある「いろは居酒やうどん」(宮若市山口75-1)で時々昼食することがあるが、そのときは、きまって県道に面した南の窓側の席に座る。
 
 ここから県道より一段低い位置にある農地(水田)のなかにある樫や銀杏等の樹木が茂る一握りの小さな杜(森)の風景を観ていると心が和らぐからだ。(画像1)

1伊久志神社 農地(水田)の風景といっても広い水田地帯ではなく、県道と茶臼山東麓の森(その手前に九州自動車道の防音防護壁がある)の間に挟まれた狭い地区だが、その中央にある小さな杜が、農地と同じ高さで、丁度、湖のなかにある小島を観ているような感じになる。



 因みに茶臼山は、かつて宗像氏の端城・茶臼山城があった小山で、その東麓には、昭和51年(1976) 10月開場のプリンスゴルフクラブ・ゴルフ場(宮若市山口148)があるが、そのコースのグリーンは、ここからは見えない。
 この麓面を横に遮る九州自動車道(昭和52年(1977)7月開通)の防護壁は味気ないが、見方を変え、その壁面を箱庭の縁のように思ったら、さほどの違和感がなくなる。

 この農地のなかにある一握りの杜は、「伊久志神社の杜」(宮若市山口92)だが、こちら(県道)側は、社殿の裏方で、ちょっと見では神社の杜だとは分からない。

 (2) 表参道入口からの眺め

 県道沿いの「樋渡バス停」横にある「九州自動車道のガード下」から山口地区「小原集落」に抜ける農道(ウォーキングではこの道を歩く)が「伊久志神社参道」となっている。

 「表参道」は、小原集落側にあり、参道の途中に一対の「幟立石」が建っているのでそれと分かる。
 いろは居酒やうどん店とコンビニ・ローソンの間から県道(歩行者専用信号機あり)を渡り、その少し右方から左折して農地の間を通る里道を直進すると、その表参道の入口(山口214)に到る。

2伊久志神社表参道幟立石 ここから「伊久志神社の杜」を眺めると、左後方に九州自動車道の県道ガードや若宮インター横に建つホテルルートイン若宮インターなどが見える。

 新旧風景が入り混じっているが、伊久志神社鎮座地の周りは、まだ古代の雰囲気を残している。(※画像2) 


 (3) 境内正面の眺め(里道)

 表参道の入口は、この道幅の狭い参道(左側)を含めると四辻となるが、参道(農道)を除くと三つ角(里道)である。
 三つ角を右折すると小原集会所前を経て(山口川を渡ると)県道山口交差点に出る。
 また、三つ角を左折して(小原集落はこの道の右側、九州自動車道との間に集中している)、九州自動車道の小ガード下をくぐり抜け(左折すると樋渡バス停、右折すると上記ゴルフ場に到るが)、そのまま直進すると沼口萩野・上小路の集落内を通り福礼橋(山口川架橋)に抜け、この先は、沼口都地観音堂前〜水原「若宮八幡宮」〜金丸に繋がる。
 この里道は、往古のメインストリート(旧道)で、今の県道30号とはルートを異にしている。

3伊久志神社 同上小ガードをくぐる手前から「伊久志神社の杜」を見ると、こちら側も境内や参道が農地とほぼ同高であることが分かる。

 また境内前景玉垣、石鳥居、拝殿と拝殿を囲む大銀杏や樫、貝塚、榊、椿など…が見渡せる。(※画像3)



 (4) 社殿後背の景色(靡山)

4伊久志神社 さらに、伊久志神社の後背には、神名備形の「靡山」の雄姿が間近に迫って見える。その左に見える小山は靡山の一峰である。

 伊久志神社社殿から遥拝できる後背の靡山や同峰は、かつて伊久志神社の神体山だったかもしれない。(※画像4)


 なお、「靡山」は、鞍手郡(宮若市含む)では剱岳、六ヶ岳と並ぶ霊山として知られており、その麓には靡神社(宮若市有木字谷)が鎮座し、また靡神社の神宮寺だった天徳山大行寺の本尊木造如来形仏像(阿弥陀如来だと思う)などが現存している。この本尊は、平安時代後期(11世紀頃)の作で、宇佐地方(大分県)の仏像に類似しているというが、宮若市には豊後地方とのつながりを思わせる仏教遺物も多いと聞く。

※参照→「靡神社と如来形坐像(1)(2)
→「沼口若八幡宮 都地(都市)八幡宮の石鳥居、経筒など(宮若市)

 靡山の南西下に位置する「伊久志神社」もまた、靡山の霊山信仰圏内に含まれていたと考えられなくもないが、祭神(下記)の由緒から辿れば「伊久志神社」の方が遥かに古く、ひょっとしたら、靡山もまた、もとは「饒速日命」の霊地だったのかもしれない。

 (5) 境内に行く

5伊久志神社 伊久志神社表参道の入口から鳥居までは160m。
 湾曲している道幅の狭い(車の離合不可)参道(農道)で、この道を歩くと、この道が、まさしく水田とほぼ同じ高さにあることを実感できる。(※画像5)
 丁度、田圃の畦道のような感じだが、かつてここは川岸だったと思える。


 この道のほぼ中間位の所の道の両側に建っている一対の石塔は「幟立石」で、祭祀のあるときは、ここに幟旗が立てられるのだろう。 
 境内敷地は道の左側にあり、道に面して「玉垣」が並び、その中央辺りに小ぶりの「石鳥居」が建っている。

6伊久志神社鳥居 「石鳥居」の額束には「伊久志神社」とある。

 また、両柱に「奉献 平成四年九月吉日 小原組氏子中 宮司小方隼人代」とあるので、小原集落の人たちは祭神の氏子であり、旧山口村社「山口八幡宮」の小方宮司が祭祀を執行していることが伺える。(※画像6)


 なお、かつて旧山口村の各地に鎮座していた神社の多くは、明治39年(1906)の神社合祀令に従って村社「山口八幡宮」に合祀され消滅したが、そのなかにあって、当時の小原地区の人たちは、政令に屈せず、八幡神よりも遥かに歴史の古い自らの氏神「伊久志神社」を守り抜いたことは称賛に値する。

 (6) 旧鳥居の額束

 この「石鳥居」は、平成4年(1992)再建のもので、多分、旧石鳥居が倒壊するなどして建て直されたものだと思う。

7伊久志神社額束 境内の一隅に破損石材をまとめて置いてある場所があったが、旧石鳥居の柱が分からず、旧石鳥居がいつ建立されていたのか等については分からなかった。

 「旧鳥居の額束」については「神殿石祠の右横」(正面に向かって)に保存されており、一部破損はしているが、はっきりと「伊久志社」の刻字が読める。(※画像7)

 「神殿石祠の右横」と書いたが、右横には「脇殿石祠」があるので、正しくは、この二つの石祠の間と云うべきか。


 (7) 祭神:伊伎志爾男命ほか

 筑前國續風土記附録には「伊久志明神社 ヲバラ」の記載しかないが、「伊久志神社の祭神」は、「伊伎志爾男命」(イキシニオノミコト)と保食神(ウケモチノカミ)と言われている。

8伊久志神社石祠 上記に「神殿石祠」と「脇殿石祠」と書いたが、祭神が上記二神であれば、拝殿の真後ろにある大きくて形状の立派な「神殿石祠に「伊伎志爾男命」が、それよりは小さめではあるが立派な「脇殿石祠」に「保食神」が祀られていることになるのだろう。(※画像8)

 ただし、「伊伎志爾男命」に「保食神」を咬ませて祀るのには違和感があり、多分、「饒速日命」を「保食神」に変えて祀ったのではないかと思う。




 物部氏の本拠地であった鞍手町にある「天照神社」は、今も「饒速日命」を主神としているが、平安時代以降、物部氏と係わる「饒速日命」を抹消し、保食神に変えたケースも多い。

 「伊伎志爾男命」は「天伊岐志邇保命」とも書き、先代旧事本紀によると、饒速日命の天降りに同伴した防衛32人の1人で、山城(山背)國造の祖という。

 山城(山背)國造の祖とは後世の人(同地に移った子孫か)が述べたことで、「饒速日命」が天孫降臨した地が剱岳(鞍手町中山)であったとすれば、この降臨に同伴した饒速日命の防衛を司る神々は、その周辺地に配されていると考えるのが普通である。

 即ち、そのために「伊伎志爾男命」が降り立った地が当地であり、その由緒を以て当地に「伊伎志爾男命」を祭神とする「伊久志神社」が鎮座したのであり、脇神として祭神する神は、当然、「饒速日命」以外にはあり得ないと思う。

 (8) 神の船着き場

 では、どうして農地(水田)のなかにある当地に降り立ったのかと云えば、当時の当地は旧山口川の川岸で、「伊伎志爾男命」が船から降り立った地、つまり当地に、神が降り立った旧山口川の船着き場があったからだと思う。(※画像9)

9伊久志神社裏面 大分以前のことになるが、古老から神武天皇神功皇后が沼口渡しから渡し船に乗り当地に降り立ったという話を聞いた記憶もあるので、かつて山口川は当地を流れていたのかもしれない。
 そうすれば、農地(水田)とほぼ同じ高さに境内や参道があるのも納得が行く。


 また、明治・大正期の小原の人たちは、高貴な氏神である(饒速日命の天孫降臨に係わる)「伊伎志爾男命」を、その鎮座由緒地を捨ててまで、自らの氏神よりも後世に現れる八幡神に合祀するのを潔しとしなかったのだと思う。

 なお、過日「東郷高塚古墳の東方にある矢房神社(宗像市)」に別記した「矢房神社」(宗像市日の里3-11)の境内にも「伊久志神社」があり、同社は伊弉諾命、伊弉冉命を祭神としているが、どこかで意図的に変えたものか、或は間違って伝わったのだと思う。

※参照→「山口八幡宮(6)合祀神・旧山口村の神々・五良七神社等 (宮若市山口)
→「神功皇后伝承歩き:沼口若八幡宮→伊久志神社→山口八幡宮(宮若市)
→「沼口若八幡宮 神功皇后伝承(宮若市)

 (9) 境内の庚申塔

 石鳥居の左側の玉垣のなかに、もとから境内にあったものではないと思うが、3本の「庚申塔」が立っている。(※画像10)

 /燭鹵罎砲△訛腓い庚申塔は、正面に「庚申祠建立」左右に「元禄十二天卯九月吉日」の刻字があり、かなり古い。(※元禄12年=1699年)。

10伊久志神社庚申 ∪佚磴両紊乏泙乗っている庚申尊天碑は、全体的に風化が進み、刻字面の一部がはげ落ちている。
 建立年月日で、かろうじて読めるのは、「…享二…天…月吉日」で、推察できるのは「貞享二年」(1685)、又は「延享二年」(1745)だが、正確なことは分からない。


 小さな庚申塔(建立年月不明)には「夜庚申」の刻字があり、非常に珍しい。
 確かに庚申祭は夜籠り行事で、このこ由来から考えると「夜庚申」は、ある意味最も相応しい命名である。
 しかるに、未だかつて「夜庚申」と記した庚申塔を見たことがなかったので感激した。

 ※つづく→「岩鼻橋・西山四国52番 観音堂 (宮若市山口)」。

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2016年03月14日

水原「天満宮」にて(宮若市)

 前回「沼口都地観音堂(宮若市)」からつづく。

1水原天満狛犬・燈籠・社殿・「水原天満宮」(宮若市水原字天神ノ上1131)は、沼口地区の東の境界の外側、水原側の丘陵上にある。

・「水原天満宮」は、前回記した「沼口都地観音堂」のすぐ右横の坂道(沼口・水原の境界線)を上って行くと右側(一段下方)にあるが、こちら側は、天満宮の裏側になる。

・なお、ここは、県道9号(室木下有木若宮線)に面した「グリーンコープ連合若宮物流センター」の裏手になる。



2水原天満石段・鳥居・水原天満宮の表参道は「沼口都地観音堂」のすぐ右横の更に右横の市道(福礼橋バス停の北東の五辻)を直進(二車線、この先で右カーブ)して260m先にある交差点の左側にある(水原933)。
 交差点といっても、この左側の道は路地的で狭い。

・両側に樹木の茂る坂道を160m上ると、左側の崖面にカーブを描くように積み上げられた石段があり、見上げるとその上に「天満宮の鳥居」が見える。



3水原天満猿田彦・石段を上ると、「天満宮の鳥居」や「猿田彦大神 明和四年丁亥天九月吉日」と刻した石塔が建っている。

・このほぼ真南1800mに「猿田彦大神」を祀る宮若市高野の「興玉神社」(剣塚前方後円墳)があり、その係わりも考えられる。

・また、宮若市は「猿田峠」(宗像市・鞍手町の境界)の南方にあり、天孫降臨とも係わる「猿田彦大神」の故地の一つであった可能性もある。



4水原天満鳥居・「天満宮の鳥居」をくぐると、右折して崖面を上るように作られた石段がある。

・この石段を上ると、左側に鎮座する「天満宮社殿」(コンクリート銅板葺)前の境内広場に出る。





5水原天満狛犬・石段の上には、「狛犬」1対(元治元年甲子三月吉日)のほか、石燈籠1本、石手水1個がある。

・筑前國續風土記に「天満宮 ワダ」とあるのが当「水原天満宮」のことではないかと思うが、その由緒については記載がない。



・宮若市内には「天満宮」(遷宮含む)が数多く鎮座しており「水原天満宮」もその一社である。

6水原天満宮 例えば覚えているだけでも水原周辺(宮若市内)には、四郎丸、原田、小伏、乙野、宮永、山口(2社)等に鎮座する「天満宮」(天満神社)に行った記憶がある。

・宮若市、鞍手町は、剱岳を中心とする古代物部王国内であり、物部氏流の菅原道真(官公)が訪れてもおかしくない地であり、菅原道真(菅原神)を祭神する天満宮があってもおかしくないが、当地に官公伝承が残っているものか、或は古代(太宰府)天満宮荘があったものか等については調べていない。


・「水原天満宮」の鎮座地は、水原地区の高台にあり、かつては四方の見晴らしの良いところだっと想像できる。

7水原天満狛犬2 しかるに今は、上記のように(社殿に向かって右側は)「グリーンコープ連合若宮物流センター」の建物の裏手になり、社殿の後ろ側を通る沼口との境界道(産業道路)は境内より一段高くなっており(靡山の遠望可)、また前側、左側(参道側)には樹木が茂り視界を遮っている。



・なお、左後方にある工場敷地は「沼口若八幡宮」の後ろの高台に続いており、以前「日本陶器」の工場があり、山口川沿いにJRバス「日本陶器前バス停」もあったが、今は「福礼橋バス停」になっており、現在、同地がどのようになっているのかは分からない。
 九州自動車道若宮ICの開設後、周辺地区に進出したトヨタ関連企業を始めとする企業工場のなかにも栄枯盛衰があるのだと思う。

※つづく→「小原「伊久志神社」にて (宮若市山口)」。

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2016年03月11日

沼口都地「観音堂」 (宮若市)

 前回「沼口若八幡宮Ω羶斥繊庚申塔ほか(宮若市)」からつづく。

 (1) 表題に「沼口都地観音堂」と記したが、このお堂の正式名称は知らない。

1沼口観音堂 「福礼橋バス停」(JRバス)で下車し沼口若八幡宮に向かうとき、バス停から北東約200m先にある辻(変則五差路のようにも見える)を左折(北西方向)するが、この正面(鋭角)の角に建っている小さなお堂(木造トタン葺)がそれである。
(宮若市沼口346-1)。


 なお、「沼口若八幡宮」(沼口324)は、この北西方向約400mにある。

 (2)沼口若八幡宮ざ内社祠・宝篋印塔など」に次のようなことを前述していた。
 「境内で「南無観世音菩薩」の刻字がある「石祠の残骸」を見かけ、筑前國續風土記附録を調べたら「観音堂二宇 シモシヤウジ イボリ」の記載はあるが、境内に観音堂があったとの記載はなかった。当社の南東並び(水原地区との境界近く)にあるお堂(観音堂か)に石仏・十一面観世音菩薩坐像等が安置されていたが当社との係わりはないのか」。

 (3) お堂には、赤い前掛けをした次の小石仏、石像6体が安置されている。「地蔵菩薩立像・聖観世音菩薩立像・弘法大師坐像・薬師如来立像
 ・十一面観世音菩薩坐像・薬師如来坐像」。

 (4) 中央部の3体には台座があり、それぞれの台座には次の刻字がある。
  「八十七番 観世音菩薩 施主塩川ヨシ」
  「二十番 地蔵菩薩 大正七年五月 水原区」
  「六十七番 薬師如来 大正七年五月 水原区」
 ただし、中央の「二十番地蔵菩薩」の台座の上には「弘法大師坐像」が乗っていたので、多分、これは、お堂左端にある「地蔵菩薩立像」と入れ替わっている。

 (5) ところで「弘法大師坐像」と「番号が付いた台座」が3個あるので、このお堂が当地方の四国八十八ヵ所霊場の一つではないかと伺える。隣接地の宮若市山口地区内の「西山四国霊場札所」を3か所巡ったことがあり、ここが同じ霊場札所に属するのであれば次のようになる。

 「西山四国霊場第20番札所鶴林寺(地蔵堂)本尊地蔵菩薩」(大正七年五月奉納・水原区)
 「西山四国霊場第67番札所大興寺(薬師堂)本尊薬師如来」(大正七年五月奉納・水原区)
 「西山四国霊場第87番札所長尾寺(観音堂)本尊聖観世音菩薩」
 ただし、第20番と第67番は台座に「水原区」とあるので、もとは隣接地の水原区にあったものかもしれない、と考えると、ここは第87番「観音堂」となる。

 (6) つまり、当初、6体のうちの「十一面観世音菩薩坐像」を見てお堂の名を(観音堂か)と推察したが、さらに第87番「聖観世音菩薩立像」を加え、そこに当地の地名を付けて表題を「沼口都地観音堂」とした次第である。

 (7) お堂の前に無銘の「石塔」が2本建っている。
 2本とも石の表面が風化により刻銘が分からなくなったのだと思うが、お堂の右側の道路より右方は宮若市水原地区なので、水原から沼口(都地)地区に入る里道の入口に置いた「庚申塔」か「猿田彦大神」だったのかもしれない。
 もし「庚申塔」であれば、かつて沼口区内各所にあった「庚申塔」は若八幡宮境内に集められている(※前回参照)が、この2本は境内に遷されなかったことになる。
 しかるに、当地が、広い範囲で若八幡宮の境内であったと考えたら、敢えて遷す必要はなかったことにもなる。
 なお、誰かがこのお堂は、かつてこの裏山にあった奥宮の目印ではないかと話していたが、確認していない。

※つづく→「水原天満宮にて(宮若市)」。

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2016年03月08日

沼口若八幡宮 御神輿、庚申塔ほか(宮若市)

 前回「沼口若八幡宮 神殿・社拝殿、七百七拾年紀念碑(宮若市)」からつづく。

 (8) 拝殿内の御神輿、神前額など

 御神輿」が拝殿の板敷床(ゆか)の端に置いてあった(※画像1)。
 御神輿は、本来「御神輿蔵」に保管されるものだが、境内でその蔵を見かけなかった。

1沼口御神輿 多分、何かの理由で御神輿蔵がなくなり、止むなくここに置いてあるのかもしれない。
 しかるに、この「御神輿」は、既に鳳輦(ほうれん)が乗っておらず、屋根ほかの板が破れ、彩色も剥げ落ち、全体的に損傷が激しく、何とも痛ましく、もう御神幸には使えない。

 現在、御神幸は行われていないと思うが、御神幸があっていたときは、その渡御先となる御旅所(頓宮)や元宮(奥宮・古宮)等はどこにあったのだろうか。
 頓宮と云えば、前述附録に「古への頓宮地内に松一本あり。せん本松といふ。」との記載があり、また、神功皇后の「潮井掛松」伝承(都地汐井掛)の記事もある。なぜ一本松を「せん本松」というのかは疑問だが、もしかしたら「遷宮(元宮)松」という意味だったのかもしれない。

 南東にある森が奥宮だという誰かの話を聞いたことがあるが、また、何とはなしに、御神輿は、社殿〜参道〜宮前橋を御幸していたのかとも考えていたけど、いずれにしろ何も確かめていない。

 賽銭箱」が、上記御神輿の後ろに置いてあった(※画像1)。
 本来、賽銭箱を置く位置ではないので、つい、これも風化等で傷んでいるのだろうかと思った。地方の神社の維持管理はいろいろ手がかかることなのだろう。

 神前額」〜拝殿中央の鴨居には、「敬神」と刻した文字に金粉を施した神前額(表面ガラス張り)が掲げてあり、額縁に金文字で「奉獻 御大典記念 親友會一同」と彫り込んである(※画像2)。

2沼口額 年号も天皇名もないので、何天皇の即位を記念したものかは分からないが、「獻」や「會」の文字が旧字体で書かれているので、少なくとも平成天皇ではないと思う。
 もし昭和天皇であれば、昭和3年(1928)11月6日の即位の礼(御大典)を記念して奉納されたものとなる。

 奉献当時、当社には産神を信奉する人たちの「親友會」という組織があったことになるが、今はどんな組織になっているのだろう。。
 なお、額の上の天井に吊り下げてある半円形の鋼鉄具は何なのだろう。

  正面鴨居の右方に、今は現存しない「旧鳥居の写真」が掲示してあることは前述したが、ほかに絵馬等があったかどうかについては、まったく記憶していない。

 (9) 庚申塔(庚申尊天)

 ウォーキングで当社入口に集合したとき、道路に面して建つ「石燈籠」(文政五壬午歳九月吉日建立)2基の両側に、言わば放置状態に近い形で置いてある「庚申塔」(庚申尊天)を見かけた(※画像3)。しっかり数えていたわけではないが、その数、8〜9本だったと思う。

3沼口燈籠と庚申塔 これらは、かつて沼口の各集落で手厚く祀られていたものである。
 多分、明治、大正期に、政令に従い当社に遷されたものだと思うが、今はもう、これらの「庚申塔」が、昔、どこに鎮座地していたのか、そして、各集落単位で信仰していたことも忘れられていると思う。

 そのなかには、「元禄七甲戌卯月」(1694)、「元禄十三庚辰九月七日」(1700)、「享保二十一丙辰三月」(1736)、「明和六己丑年」(1769)など、かろうじて建立時期が読めるものもあるが、いずれ風化してしまうだろう。

 「庚申塔」は、当初建てられた地にあってこそ、その意味が分かり信仰の対象となり得るもので、それを別の地に遷してしまえばまったく意味がなくなり、忘れ去られてしまうのは当然のことで虚しい。

 (10) 石燈籠、神門、狛犬、手水場、籏立石
 これまで記してきたもの以外の石造物について列記しておく。
 なお、これらの建立時期については、上記(9)に記した「石燈籠」以外は調べていない。

4沼口神門と石段・「石燈籠」〜参道口(宮前橋前)に2基、境内入口に2基、拝殿右横に2基(石祠前)、左横に1(社祠用) 
・「神門」〜石段の上(拝殿前)に2本(※画像4)
・「狛犬」〜参道口(宮前橋前)に2体、拝殿前に2体
・「手水場(手水鉢)」〜拝殿前に1基
・「旗立石」〜参道口(宮前橋前)に2本。…… [本項終わり]

 ※本項トップ→「沼口若八幡宮 神功皇后伝承(宮若市)」。
 ※参照→「神功皇后伝承歩き:沼口若八幡宮→伊久志神社→山口八幡宮(宮若市)」。

 ※つづく→「沼口都地観音堂 (宮若市)」。

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2016年03月07日

沼口若八幡宮 神殿・社拝殿、七百七拾年紀念碑(宮若市)

 前回「沼口若八幡宮 境内社祠・宝篋印塔など(宮若市)」からつづく。

 (6) 神殿・社拝殿

 筑前國續風土記附録は、次のような都地八幡宮(沼口若八幡宮旧称)社傳による神殿・社拝殿建立史を掲げている。

  (後白河院)保元2年(1157)9月24日清原貞之が神祠建立。
  永正の頃(1504~)兵火に罹り、神祠拝殿悉鳥となる。
  永正16年(1519)村民仙阿彌是秋が再興。
  その後また兵亂で頽破。
  貞享元年(1684)再建。

 ・上記◆岷弊気虜△諒鴫弌廚筬ぁ屬修慮紊諒斜で頽破」についての具体的なことはよく分からない。
 ただ、い痢屬修慮紊諒斜で頽破」については、天文11年(1542)大友勢13000が鞍手郡に進攻し、当時、宗像氏が領有していた若宮郷の中核「宮永城」とその出城(茶臼山城、尾園城、高丸城ほか)を尽く落としたとき、周辺の神社寺堂を焼き払ったというので、或はその時のことかもしれない。

 ・筑前國續風土記附録の記録は、江戸中期の天明4年(1784)〜寛政10年(1798)頃のものだが、当時の神殿、社拝殿は、上記ァ崢腟元年(1684)再建」のもので次のように記している。

 「神殿三間・社拝殿二間三間
 ・祭禮九月九日 石鳥居有・祭祀齋藤大隅・河野佐渡」。

 ・因みに、この「祭禮日九月九日」は、当時の山口八幡宮(山口若八幡宮)の祭禮日と同じである。
 ・上記石鳥居」は、礎石(台石)のみを残し現存していない(前述)。
 ・祭祀(神職)は、上記「齋藤大隅」に続く斎藤家代々の系譜が受け継いでいたのではないかと思う。

1沼口若八幡社殿 ・その後、現在に至るまでの間、神殿、社拜殿の改築、再建等が行われたと思うが、下記「若八幡宮七百七拾年紀念碑」にある「昭和13年(1938)神殿銅板葺き替え、中殿改築」以外については分からない。
 ただ、規模は、今日も上記と変わらず、堅固で立派である。

(※画像1:現神殿、社拝殿)。

 (7) 若八幡宮七百七拾年紀念碑

2沼口七百七十年碑 ・神殿に向かって右横の空き地に、およそ3m位の高さがある縦長の石碑が建っている(※画像2)。
 その正面に「若八幡宮七百七拾年紀念」の文字が刻してある。
 左横には「昭和十三年四月二十五日社掌齊藤重稔誌 ツヤサキ石工麻生市蔵」の刻字がある。


 ・裏面には、その事業の要旨が刻してある(※画像2)。
 この事業の要旨を記した文章は、1行約30字の文字の文列が句読点なしで縦長10行に刻してあるので、かなり読みづらい。なかには読めない字があったり、また、読み違いもあると思うが、御容赦を願い次に書きとめておく。

 「鞍手郡山口村沼口 鎮守村社若八幡宮 保元二年ノ御鎮座ニシテ以來今日迄七百七拾年ノ間御神徳日ニ新ニ氏子ヲ守護シ給ヘリ氏子一同此廣大無遍ナル御神徳ヲ敬迎シ紀念事業ヲ起シ神殿ヲ銅板ニ葺替中殿ヲ改築シ石垣石段玉垣ヲ新設シ境内ノ社装ヲ美麗ニシテ以テ御神徳ノ萬一ニ報セ奉ラム…氏子並ニ産子出身者ハ浄財六千餘圓ヲ挙出シ昨十二年之工事ヲ起シタシニ其工事等ニシテ偶支那事変勃発シ種々難関ニ遭遇セシモ氏子一同協力一致初期の目的ヲ…ス遂ニ此大事業ヲ達成シ昭和十三年四月廿四日ノ吉辰…七百七十年式年祭ヲ執行スルニ得タルハ實ニ氏子一同ノ歓幸…スル所ナリ…茲ニ友ニ草シ紀念ト為ス」

3沼口七百七十年碑裏 ・この「七百七拾年紀念事業」が完工したという昭和13年(1938)は、保元2年(1157)の鎮座から数えると781年になるので、この事業は、その770年に当たる昭和2年(1927)頃に発起されたが、氏子、産子、当地出身者に募った浄財が集まり、設計がまとまり、昭和12年(1937)に着工するまでに実に10年の歳月を要したということになるのだろうか。

 ・なお、支那事変の勃発(盧溝橋事件)は昭和12年7月だから、確かにこの工事はその勃発に重なるように始まり、その翌年に完工している。

 まさに大戦に向かって進み出した難儀な時代に工事が行われたことになるが、上記により、このとき次の工事が行われたことが分かるが、この工事の跡が今日見られる境内の状況なのだろう。
  神殿屋根の銅板葺替工事。
  中殿(幣殿のことか)の改築工事。
  石垣、石段、玉垣等の新設工事。
  境内社叢の整備。

※つづく→「沼口若八幡宮 御神輿、庚申塔ほか(宮若市)」。

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2016年03月04日

沼口若八幡宮 境内社祠・宝篋印塔など(宮若市)

 前回「沼口若八幡宮 祭神(宮若市)」からつづく。

 (5) 境内社祠、宝篋印塔など

 福岡縣神社誌には当社(沼口若八幡宮)の境内神社等についての記載がないが、筑前國續風土記附録は「(都地八幡宮)社内に住吉社・濱雄大明神社・香社(石神也。もと民家の後薗に有し故、此社内に移せりと云。) 大日石體・彌勒堂あり。」と記載している。(※都地八幡宮は沼口若八幡宮の旧称)。

1沼口若八幡境内社2 現在、境内にある社祠、宝篋印塔等は次のとおりである。

 拝殿に向かって右側(※画像1)に「石祠」1社、同左側(※画像2)に「木造社祠」2社、「石祠」1社、「破損石祠1祠の残骸」、「宝篋印塔」1本、「小石塔」3本等がある。

 ただ今回は、境内での滞在時間が少なく、各祠が上記のいずれかに該当するのかまでは調べていないが、とっさに写真だけは撮っておいたので、次に、一部確証のない小生の想像を交えながらこれらについて記しておく。

2沼口若八幡境内社1  崕撒伴辧(=「住吉神社」)について

 祭神は、住吉大神(底筒男命、中筒男命、表筒男命の三神)、即ち海の神(綿津見神)で、神功皇后の三韓征伐に際しては、神功皇后の御船の舳先に立つて新羅への渡航の先導したとの伝承がある。

 神功皇后は、住吉大神を信奉し、各地で住吉大神を祭祀したとの伝承も多く、神功皇后自身も住吉神社の祭神の一となっているケースもあるほどで、神功皇后伝承地に鎮座する当社の末社として祀るに相応しい神社といえる。

 ◆巛斥座臾誠声辧廚砲弔い
 「濱雄大明神社」とは、住吉社同様に神功皇后の三韓征伐と係わりの深い「浜男神社」のことで、同じく当社の末社としては相応しい。

 その元宮「浜男神社」(「香椎宮」境外末社)は、JR香椎駅から香椎宮参道(JR踏切)に行く途中、JR踏切の手前にあり、ここは、かつての香椎浜の海岸線に当たり、香椎浜の遥か沖の小座礁上に鎮座する「御島神社」(祭神住吉綿津見神)の遥拝宮にもなっているが、今は、ここから沖を望むことはできない。
 「浜男(=濱雄)」とは、神功皇后がこの「浜」で鎧兜を身に着け、これより男として三韓征伐に赴くことを宣言したとの由緒により付いた名称で、この由緒からみれば、神功皇后が祭神ということになりそうだが、祭神は、その時ここで神功皇后が戦勝祈願のために祭祀した「地神五代」の五坐(天照大神・天忍穂耳尊・瓊瓊杵尊・彦火火出見尊・草葺不合尊)となっている。

 「香社(石神也)」について
 よく分からないが、「もと民家の後薗に有し」とあるので、その民家の裏庭の所有者の先祖の墓石だったのかも知れず、お参りすると御利益()を頂けるので「香神(香社)」と言っていたものか。それが、所有者の代替わり、移転、変更等で、その由緒が忘れられたとか、祭るのが重荷になった、或は祭る理由がなくなっとかで当社に移したとか。小生が得度に導いた人に「香」の法名を授かった人がいるので、つい、こんな勝手な想像をしてしまった。桑原桑原。

 ぁ崑臚石體」について
 密教神・大日如来として祀った石塔(石碑)、若しくは石像があったと考えたらよいのか。石像と考えた場合は、境内をざっと見渡した限りでは見当たらなかったので、廃棄或はどこかに移されたされたものかもしれないが、ここでは一応、石塔(石碑)として考えてみることにして下記に続く。

 ァ峭癨社(石神也)」と「大日石體」を石塔(石碑)と考えた場合

3沼口若八幡石碑と牛 それに該当しそうな小石塔は、(境内の石祠内の石片を除き)3本ある。

 その一つは、木造社祠2社のうち左側の社祠内に置いてある1本の小石塔である(※画像3)。
 残りは、その右後方の土面に建っている2本(※画像4)だが、具体的なことは分からない。


 ・この木造社祠内の石塔の前に置いてある動物(神牛)の石像は、前回記した当社神殿に合祀された沼口(都地)の旧「天滿神社の神牛(角破損)だったのかもしれない(※画像3)。
 ・土面に建っている石塔のうち、左側の1本を固定して基台石は、「宝篋印塔」(下記)の一部「返花座」だったものではないかと思える(※画像4)。
 ・宝篋印塔の右側にある石塔については、その頭部に乗っている「六角形の笠石」が気になったが、もとは何だったのだろう(※画像4)。

 Α峅れた石祠の残骸」について(※画像4)
 上記木造社祠の後ろにあるが、その一部(扉部分か)に「南無観世音菩薩」の刻字があるので、石造観世音菩薩像を祀る石祠だったのかもしれない。
 なお、上記附録に「観音堂二宇 シモシヤウジ イボリ」の記載があるが、当社境内に観音堂があったとの記載はない。また、当社の南東(水原地区との境界近く)のお堂(観音堂か)で石仏・十一面観世音菩薩坐像等を見かけたが係わりはないのだろうか(※別記→「沼口都地観音堂」)。

4沼口若八幡宝篋印塔 А崟仟な篋印塔」について(※画像4)

 壊れた石祠残骸の右横に、小振りの「石造宝篋印塔」が1本建っている。
 一見して何かしらアンバランスに思えるが、宝篋印塔の基礎部分の一部が欠落しているのだろうか。

 なお、その右横に建っている小石塔(上記)の基台となっている台石は、この宝篋印塔の基礎部分の「返花座」のようにも思えるが、ひょっとしたら、倒壊していた宝篋印塔を復元した時に原形通りに復元できなかったということなのだろうか。

 因みに「山口八幡宮」に残っている宝篋印塔も歪な形になっていたが、そちらは、相輪部分の請花(上下)・九輪、及び基礎石等が亡失していた(前述)。ともに江戸中期頃のものか。 

 ─嶐署嫺押廚砲弔い 
 当社に「彌勒堂」があったことが上記附録に記されているが、かつて八幡宮の総本宮「宇佐八幡宮」の神宮寺に彌勒菩薩を本尊とする「彌勒寺」があったので、当社と豊前国東の「宇佐八幡宮」とのつながりを思わせる。
 
 因みに「八幡信仰」(応神天皇)と「弥勒菩薩」との係わりについては、「なぜ八幡神社が日本でいちばん多いのか(島田裕巳)」に、「八幡信仰研究の権威である中野幡能(はたよし)は、八幡神の本体が応神天皇であり、なおかつ弥勒菩薩であると宣言されたことで、神功皇后の子である応神天皇が弥勒菩薩として下生したという信仰が、八幡信の地位の向上に貢献したと述べている」。

 上記の仏教関連事項に関して、かつて境内「都市八幡宮経塚」から豊前の修験寺院との係わりを思わせる「都市八幡宮経筒」の蓋が出土した(※前回参照)ということも併せて、当社は宇佐八幡宮と係わる豊前地方の彦山、求菩提山、・国東半島等の天台系修験道とも係わる神仏習合の神社であったことが伺える。

 ※つづく→「沼口若八幡宮 神殿・社拝殿、七百七拾年紀念碑(宮若市)」。

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2016年03月02日

沼口若八幡宮 祭神 (宮若市)

 前回「沼口若八幡宮都地(都市)八幡宮の石鳥居、経筒など(宮若市)」からつづく。

 (3) 主祭神

1沼口若八幡社前 筑前國續風土記に「祭る所の神三坐、神功皇后、應神天皇、武内大臣也。社傳に後白河院保元二年九月廿四日清原貞之といふ人、初て神祠を建りとそ。」とある。

 当社は、保元二年(1157)九月、神功皇后行幸の伝承地に神祠を建てたのが始まりとされる。

 当初は「神功皇后」を祭る神祠だったとも考えられるが、「宇佐八幡宮」と係わり、神功皇后、應神天皇、武内大臣(宿禰)を祭神する「八幡宮」(都地八幡宮・都市八幡宮)として整備され、明治5年11月3日、神功皇后行幸時の「胎中天皇」とされる「應神天皇」を主神とする村社「若八幡宮」(沼口若八幡宮)になったのではないかと思われる。

 よって、上記附録は、主祭神三坐を「神功皇后、應神天皇、武内大臣也」として神功皇后をトップに記しているが、現在は「應神(応神)天皇、神功皇后、武内宿禰」の順としている。

 このうち、武内宿禰(武内大臣)は、神功皇后に終始付き従った陪臣であり、織幡神社(宗像市鐘崎)に主祭神武内大臣として祀られている。

 なお、八幡宮では「仲哀天皇」を祭神に加えることも多いが、当社には祭神されていない。それは、当地に神功皇后とともに仲哀天皇が行幸したという伝承がないからだ。仲哀天皇は、鞍手町古門の「西山八幡宮」(現古物神社)で神功皇后と別れた後、海路で香椎に向かったと思われる。

 (4) 相殿神(合祀五坐)

 福岡縣神社誌に「村社若八幡宮(鞍手郡山口村大字沼口字都知)」の祭神として、上記主祭神三坐に加えて「久那戸神、菅原神、須佐乃男命、高丘見神、倉丘見神、日本武尊」の五坐を記している。

 この五坐は、かつて大字沼口地区7か所(菅原神が3社重複)に鎮座していた神社の祭神で、明治39年(1906年)の神社合祀令に応えて合併(合祀)したものである。
 ※この五坐(7社)の各合併日、祭神名「神社名」旧所在地を次に記す。

・明治43年1月20日 久那戸神塞神」(明細帳脱漏神社編入)字汐井掛原
・明治43年2月7日 菅原神・無格社「天滿神社」字上小路 
・明治44年5月4日 須佐乃男命・無格社「須賀神社」字上小路 
・明治44年5月4日 高丘見神、倉丘見神・無格社「貴船神社」字萩野
・明治44年5月4日 菅原神・無格社「天滿神社」字沼口
・明治44年5月4日 菅原神・無格社「天滿神社」字四郎丸崎
・大正15年8月12日 日本武尊・無格社「萩野神社」字萩野

 天滿神社」(上小路・沼口・四郎丸崎)
 貴舟神社」(萩野)
 上記五坐のうち「天滿神社」三社、及び「貴船神社」のみ、上記附録に「天滿宮三祀 シモシヤウジ カミシヤウジ トチ」「貴舟社 ハギノ」と記載されている。

 ・「天滿宮三祀」のシモシヤウジ(下小路)は字四郎丸崎、カミシヤウジ(上小路)は字上小路、トチ(都地)は字沼口の各「天滿神社」だと思う。

 ・「貴舟社(貴船神社)」については、各地によって祭神名の違いはあるが、農耕地の水神として祭祀されることが多い。
 なお、宗像神領においては、貴船神を宗像三女神の一湍津姫神(多岐津姫神)=瀬織津姫神と同神し、神領内に祓いの水神として祭祀したケースが多いが、萩野(ハギノ)地区は神領内に入っていたように思う。

 塞神」(汐井掛原)
 同上附録に「塞神」の記載はないが、所在地「字汐井掛原」については、附録にある神功皇后と係わる「潮井掛松 トチバル」(都地原)の地に当たるのではないかと思う。(※参照→「沼口若八幡宮/生皇后伝承」)。
 なお、「塞神(久那戸神)」と同様にとられる「庚申塔」は、当社の社前に多数建っているが、これらは沼口地区各所に建てられていたもので、明治以降、当社に持ってきたのだと思う(※別記)。

 須賀神社」(上小路)
 当地は物部氏の九州出雲王国内であったのでスサノオノミコトを祭神する「須賀神社」が存在するのは自然のこと。
 饒速日命が降臨した物部王国の中心地「剣岳」(鞍手町中山)には「八剣(八釼・八劔)神社」があり、スサノオノミコトも祭神一坐となっているが、もともと剣岳にはスサノオノミコトを祭る「祇園社」が別にあった。
 「八剣」とは、スサノオノミコトが八岐大蛇を破ったとき、その尾から出て来た「天叢雲剣」、つまりもとは八岐大蛇が持っていた剣だから八剣というのだろう。
 後に日本武尊が、熱田神宮に祭られていたこの剣を借り受けて草を切り払い燃え盛る炎から身を守ったので草薙剣と言われる。現在、八剣神社の主祭神は「日本武尊」であり、剣岳の西麓には「熱田神社」も鎮座している。
 もっとも、私は、八剣とは八岐大蛇を切った布都御魂劒(十束劒)だったのではないかと思ってはいるが…。
 (※参照→「猿田峠の西東(3)〜剣岳(八劒神社)」 
   →「猿田峠の西東(7)〜剣岳の旧豊日別神社」)。

 萩野神社」(萩野)
 上記い傍した剣岳(鞍手郡鞍手町中山)は「日本武尊駐輦地」で、「日本武尊」を主祭神とする「八剣(八釼・八劔)神社」が鎮座しているので、「日本武尊」は同郡内にあった萩野を訪れたかもしれない。むしろ萩野が、日本武尊が草薙剣を振るった野だったなどと考えると興味がそそられる。
 ※つづく→「沼口若八幡宮 境内社祠・宝篋印塔など(宮若市)」。

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