2016年07月

2016年07月24日

新松原「厳島神社」(岡垣町手野)

 以前「夏祭り前の東黒山厳島神社に行ってきた(岡垣町黒山)」を記したが、岡垣町内の「厳島神社」は、新松原(手野)や高倉神社境内(高倉)にもある。
 今回は、新松原「厳島神社」について書き留めておく。
 (鎮座地:福岡県遠賀郡岡垣町手野字新開55)。

(1) 新松原集落の位置
 新松原「厳島神社」が鎮座する集落:新松原は、新松原海岸(響灘)の海岸線に沿って広がっている松原の南側、汐入川河口の左岸(西側)に当たる場所にあるが、ここから新松原の海岸線は見えない。
 国道495号線が、この海岸線の南側の松原のなかを通っているので、現在、新松原集落内の里道を通る車は、同地居住者の車を除けば、「遠賀中間医師会おかがき病院(旧:県立遠賀病院)」(手野145)を訪れる車がたまに通るくらいである。なお、このおかがき病院は新松原集落の北西部にある。

(2) 厳島神社参道
 「厳島神社」は、新松原集落の中ほど(里道三叉路:水田配水管竣工記念碑あり)の北方、集落の奥部にあるが、駐車場がないので、車で行くときは里道沿いの「新松原公民館」(岡垣町手野80)に停めさせてもらい歩くこと。

  表参道:新松原公民館の右前方の路地(上記三叉路の手前)に入り、突当りを右折、すぐに左折する。

1新松原厳島鳥居前 住宅が途絶えた先に樹木や真竹林があり、その左手前、砂利・石段上に「石鳥居」が建っている。(※画像1)

 「明治三十一年 新松原區建立」の明神石鳥居で、「嚴島神社」の額束が上がっている。
(新松原公民館から約160m)


 ◆裏参道:新松原公民館から左前方の路地に入ると畑に突当るので、その手前の畦道を右折して、右回りに林のなかに入る。そのまま進むと上記石鳥居の横に出るが、その途中から右折して「厳島神社」境内広場に入ることができる。(新松原公民館から約180m)

(3) 厳島神社神殿

2新松原厳島鳥居と境内広場 「石鳥居」をくぐると、左方に開けた境内広場があり、その周りを真竹や樹木が取り囲み社叢をなしている。

 雑草の生えた広場の奥の中央部に建つ木造瓦葺の二棟の建物が、「市杵島姫命(神)」を祭神する新松原厳島神社の社殿(拝殿・神殿)である。
(※画像2・3)

 拝殿より神殿の建物の方が大きく感じるが、神輿倉等にもなっているのだろうか。
 施錠されていた拝殿の格子戸の格子の間から中を覗き込んで見たが、拝殿内には絵馬などはなかった。

3新松原厳嶋神殿 新松原「厳島神社」の旧格は無格社で、福岡縣神社誌や續風土記等に掲載なく詳細は不明だが、寶暦五年(1755)新松原集落が手野村から分割、松原村に加えられた後、手野村の産神高倉宮(高倉神社)境内社、或は宗像神社(宗像大社)から海浜集落守護神として女神「市杵島姫命」を勧請したものだろうか。

(4) いんな社(?)
 ただし、岡垣町史に「初めは東牟田の畑にあった。以前は、いんな社ともいった。」との記載があるので、ということは、当初、東牟田の畑(近くの畑の小字名か?)にあった「いんな社」の社祠を当地に遷した後、厳島神社となったことになる。
 なお、「牟田」のつく地名は各地で見かけるが、その意味は、もとは耕地に適さない湿地・泥地だったところだと聞いたことがある。
 しかるに、「いんな社」という名の神社を未だかつて聞いたことがない。

 いろいろ考えていて、勝手に「いんな」は「いんあな」だったかもしれないと思い「陰・蔭・淫・婬 (いん) 穴・孔(あな)」の文字をあててみて、道祖神・猿田彦大神・五穀神等を思い浮かべたが、もちろん「いんあな」としても、そのような名の神社は聞いたことがない。

 また、似たような名の神社としては、神功皇后の陪臣武内大臣(武内宿禰)の第3子「石川宿禰」を祀る「印鑰社(いんにゃくしゃ)」が思い浮かんだが、真偽は不明。

(5) 境内神社

4新松原厳嶋末社 本神殿の左側に、コンクリート参道や石燈籠二基を有する小社祠が一棟建っており、その参道入口(左側)には「猿田彦大神」碑も建っており、由緒のある社祠なのだとは思う。(※画像4)
 或はこれが上記「いんな社」だったのかとも思ってはみたが、社祠には神社名や祭神名等の記載がなく未調。


 (付記1) 新松原集落の成立
現在、当地「新松原」の字は「手野」で、前回「元松原須賀神社(岡垣町吉木)」にも記したが、上記のように新松原は、寶暦五年(1755)に手野村の一部を割って松原村に加えて出来た集落だったので、現在は、旧村「手野」の字名に復したことになる。(下記史料を参照)

 「手野村…寶暦五年此村より割出せる地を新松原といふ。民家五軒あり。」(筑前國續風土記附録)
 「松原村…寶暦五年手野村の地を割て此村に加へたり。依て其所を新松原といふ。又俗に入地と云。」(筑前國續風土記拾遺)

 (付記2) 新松原集落への道順
 仝道288号線「新松原バス停」から北方向に田畑のなかを通る農道を進む。(新松原公民館まで約550m、徒歩では約6分)。
 国道495号線「おかがき病院」の看板横を南に入り、同病院内を通り抜ける。
 9馥495号線芹田交差点の北東350mから「ぶどうの樹岡垣森エリア」(手野183)前を通る里道を東方向に進む。(国道495号線「ぶどうの樹」看板横からも入れる)

※なお、下記から新松原に入ったこともあるが、あまり勧めたくない。
 す馥495号線「汐入橋」の西側から北(海側)に下り、ラブホ「かくれんぼ」の手前の鋭角を右折し、汐入川左岸に沿った径に入り、汐入橋の下をくぐり抜け、集落の東はずれから右に入る。この径は舗装されておらず、夏草が生え水溜りなどもあり荒れた感じも否めない。
 ス馥495号線、前回記した「元松原東🚥」の西にある「元松原西🚥」の西方270m先から左に入る里道(旧道)に入る。この道は道幅が狭く、通りつけていないと道のりが遠く感じて気持ちが不安になったりもする。途中、汁王堂の小橋付近で迷ったこともあった。

 (付記3) 汐入川(塩入川・吉木川)
 新松原集落の東のはずれ(上記の付記)から熊原川(汐入川合流点近く)に架かる橋(橋上に見通しが利かない壁が作られているが飛び込み防止塀なのだろうか)を渡ると、汐入川左岸沿いの築堤上の道(上記の付記イ弔覆る里道)に出るが、道の横は河川敷がなく直接川面である。
 汐入川の下流域で、川面は広く、流れも緩やか、川縁に作られた簡素な柵越しに緑色の川面を眺めていると、そのなかに引き込まれそうになる雰囲気もある。

 ひと気のないこの道を、ある晴れた日の昼下がりに車で通ったとき、160mほど続く柵の中ほどで、日傘の柄を柵に吊るして、じっと川面を眺めている御婦人の姿を見かけたことがあった。もの想いにふけっているようなその姿を車の窓越しに見ながら通り過ぎたが、後になって、何をされていたのか妙に気になった。そんな不安を覚えるような場所ではある。

 因みに、熊原川は、岡垣町三吉の南の山間に発する小川で、三吉地区の農地を潤しその北方の新松原集落の東方で汐入川に合流。
 汐入川(塩入川・吉木川)は、孔大寺山の東山麓に発し高倉神社前、吉木小学校裏、吉木地区の農地内を貫流し、新松原集落の東方で熊原川を合流した後、右(東方)に大きく湾曲して新松原海岸・三里松原海岸の間から響灘に流出している。

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2016年07月20日

元松原「須賀神社」(岡垣町吉木)

 前回「夏祭り前の東黒山厳島神社に行ってきた(岡垣町黒山)」のなかに、「近くの元松原祇園社(須賀神社)の縁起に、寶暦年中疫病流行せし時、芦屋より勧請すといふ(筑前國續風土記附録)とあるので、(東黒山)厳嶋神社に祇園神を勧請し山笠行事が始まった時期は、…寶暦年中(1751~1761)だったか」と記した。

 この元松原「祇園社」(以下「須賀神社」と書く)には、以前参拝したことがあったので覚えとして書き留めておく。

1元松原須賀神社入口 (1) 元松原「須賀神社」は、前回記した東黒山「厳島神社」から行くとすると、東黒山🚥から国道495号線を西に2km下る。
 「元松原東🚥」を北に曲がると50m先に、里道に面して右側に石段があり、その神殿は、この上の小丘陵上にある。

 (福岡県遠賀郡岡垣町吉木2460)。

 (2) 当地の地名は「吉木」だが、上記「元松原東🚥」(「元松原西🚥」もある)があるように、集落名は「元松原」である。それは、当地は、かつて遠賀郡松原村本村で、通称「元松原」と言われていたからで、「元松原」は、「新松原」(現在:手野)に対する集落名だったのだろう。
 なお、「松原村」は、慶安二年(1649)に遠賀郡吉木村から分村してできたといい、寶暦五年(1755)に手野村から分離した新松原を加えたというので、現在、元松原、新松原地区ともに、それぞれ分離前の旧村地区(吉木と手野)に復したことになるのか。

2元松原須賀神社神殿 (3) 石段を上り、「須賀社」の額束を掲げた石鳥居をくぐると、正面に「元松原公民館」がある。
 本来拝殿がある場所なので、拝殿を建て直すときに公民館として建て直したのだろう。なお石段の上り口前に、消防分団格納庫を併設した家屋があるが、ここが旧公民館だったのか。

 当須賀神社の木造「神殿」は、元松原公民館の真後ろにあり、公民館の玄関戸は普段施錠されているので、その右側から後方に回り、神殿を右横から参拝した。

 (4) 当須賀神社は、寶暦年中芦屋より勧請した「祇園社」だといい、多分この「芦屋」とは遠賀郡芦屋町の旧県社「岡湊神社」(旧「祇園社」)、或は芦屋山鹿「須賀神社」(旧「祇園宮」)のことではないかと思え、祭神は、「素戔嗚命(建速須佐男神)」だろう。(※下記)
 また、境内には新旧・大小計15社の石祠があるが、詳細は記録していない。

 (付記1) 芦屋「祇園社」
 縁起の「寶暦年中疫病流行せし時、芦屋より勧請す」の「芦屋」とは、上記したようにゝ豸社「岡湊神社」(旧「祇園大倉社・祇園宮寺・祇園社」遠賀郡芦屋町船頭町12-48)、或は芦屋山鹿「須賀神社」(旧「祇園宮」芦屋町山鹿19-16)のことではないかと思う。
 なお、ゝ豸社「岡湊神社」の祭神は、大倉主命・菟夫羅媛命(つぶらひめのみこと)だが、素戔嗚命(祇園社)、天照皇大神を配祀している。
 芦屋山鹿「須賀神社」の祭神は、建速須佐男神、奇稲田比賣神、猿田彦神だが、今は廃絶した旧嶋郷十八ヶ村惣社「狩尾神社」(祭神: 石清水地主神狩尾大明神・大国主神、豊受太神、天児屋根命、天手力雄命/旧鎮座地: 山鹿852番地・狩尾岬の丘陵上)を合祀している。なお、同社には、飾り山笠(芦屋地区2台、山鹿地区1台)を曳く「芦屋祇園山笠」の行事(7月中旬の土・日曜開催)が残っている。

 (付記2) 元松原「安楽院」
 芦屋町山鹿には、浄土真宗本願寺派の「安楽寺」(山鹿11-39)があるが、元松原にも宗派は違うが浄土宗鎭西派の「安楽院」(吉木2506)がある。
 「安楽院」は、元松原「須賀神社」前の里道を北に200mほど上ったところにあり、戦国期の兵火で焼失する前は、六僧坊、七堂大伽藍を有した大寺院だったようで、当地こそが宇佐「安楽院八幡宮」だったとする説もある。
 当地は、仲哀天皇、神功皇后とも係わる上記岡湊神社(芦屋町船頭町)と高倉神社(岡垣町高倉)の間にあるので、ここに「安楽院八幡宮」が鎮座していたと考えても不都合はないが、ここでは本題から外れるのでここまでとする。

※別記参照→「新松原厳島神社(岡垣町手野)」。

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2016年07月19日

古代エジプト世紀の大発見プロジェクト〜ツタンカーメンと伝説の王妃3300年の新事実

 表題の何とも長いタイトルは、7/18放送されたTBS・TVの番組名である。
 「王妃」とは、消された王朝時代にエジプト王にまで上り詰めた美女「ネフェルティティ」(アクナートン王の妃)である。
 その墓は、没後3300年経っても発見されていないが、英国の考古学者ニコラス・リーブスさんが3月に発表した論文に、その場所を特定する仮説が出された。
 それは、今や考古学の常識となっている「ツタンカーメンの黄金の仮面」に疑問を投げかけることから始まった。
 この「黄金の仮面」は、「ツタンカーメン」のために作られたものではなく、「ネフェルティティ」のためのものだったというのだ。
 そして、「ツタンカーメンの棺の部屋の北側の壁画(右半分)」の向こうに「ネフェルティティの墓」が作られているのではないかという仮説がが生まれた。

 もし仮説のとおり、そこから「ネフェルティティの墓」が発見されたら「21世紀最大の発見」となる。
 このことは、考古学や歴史に携わる人たちが、学会の重鎮によって決定付けられた既成概念(通説)に捉われすぎていたら新事実の発見はないということを教えている。

18夏菜[ネフェルティティ]マイナビニュース ところで「ツタンカーメン再現ドラマ」のなかで、「ツタンカーメンの義母」にして、絶世の美女クレオパトラと並び称された上記の「ネフェルティティ」を夏菜さんが演じた。
 濃いメイクをしてエジプト王妃の衣服をまとう夏菜さんが画面上に現れたとき、思わず「この人は誰?」と目を疑ったほどに美しかった。


 4月第2週から「Covers」(BSプレミアム)のレギュラーアシスタントが仲里依紗さんに替わって以後、まったく夏菜さんが出演している番組にお目にかからず、どうしたんだろうと思っていた。
 そんなときに、この、絶対に日本的でないいでたちの、古代エジプトの王妃として登場した夏菜さんを見て、その見違えるような美しさに戸惑うことしきりだった。
 因みに、その他の配役は、ツタンカーメン=鈴木福、その父アクナートン=今野浩喜、母キヤ=コトウロレナ、義母ネフェルティティの父アイ=宍戸開など。

 ※画像は「マイナビニュース」からお借りしました。

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2016年07月16日

夏祭り前の東黒山「厳島神社」に行ってきた(岡垣町黒山)

黒山厳嶋神社1幟旗 今日(7/16)午后、用事で岡垣町に車で出かけた帰りに、東黒山「厳島神社」に立ちより、参拝してきた。(福岡県遠賀郡岡垣町黒山737)

 厳島神社の表参道入口(岡垣町黒山653)は、東黒山(小丘陵)東麓側の集落の里道の途中(民家の間)にあり、参道入口の道幅が狭いので分かりにくいが、この日は、その入口付近にある2本の幟立石に2本の幟旗が立っており、風にたなびいていたのですぐに分かった。



黒山厳嶋神社2石塔 幟旗が立っているのは、明日(7/17、PM7:00~深夜)、厳島神社合祀の祇園神の夏祭り「東黒山祇園山笠」が行われるからだ。

 参道(狭い砂利道)を進み、石段を上ると、天保八年(1837)奉納の石塔(一対)が建っている。

 この先の参道は少し坂になっているが、途中に「嚴嶋明神」及び「厳島神社」の額束がかかげてある石鳥居(計2本)があり、その先にある石段をさらに上ると境内広場がある。


黒山厳嶋神社3社殿 黒山厳嶋神社の社殿は、その奥に建っている。 

 社殿は、木造瓦葺の拝殿、渡殿、本神殿を有する立派なものである。
 なお、神殿の後方に建っている平屋建ての建物は東黒山地区(37世帯)公民館である。 


 この日、境内広場に数台の車が停まっており、拝殿の前辺りに数人の頑強な男性たちが腰を下ろしてお神酒を頂いておられた。


黒山厳嶋神社4山笠 丁度、明日の夏祭りで動く「東黒山祇園山笠 (曳山) 」の山笠台(1.6t)が完成して、その打ち上げを始められたところだった。

 その組み立てられた山笠は、拝殿の左外側に置いてあり、その山笠が雨露に濡れないようにビニールシートの屋根も作られていた。



黒山厳嶋神社5境内 「お参りさせてもらってよいですか」と言って、履物を脱いで拝殿に上がろうとした。
 すると、一人の方が「お参りされると賽銭箱が入りますね」と言って、拝殿の奥に移動してあった「賽銭箱」を両手で抱えて持って来られたので、結局、拝殿前で参拝した。


 また、別の人が「お参りされる前に、お神酒をどうぞ」と言われたが、「いえ、車ですから、それはいただけません」と答えた。

 すると、別の人が「ここまで車で上って来られたらよかったのに」と言われた。するとすかさずまた別の人が「イヤ、やはりお参りされるのだから、下から表参道を上って来ないとですね」と言われた。
 なかなか親切な人たちばかりだった。

 東黒山祇園山笠は、江戸時代から続く東黒山地区の伝統行事だが、現在、岡垣町山笠行事が残っているのは、この一件のみで、この伝統行事を絶やさないために岡垣町では祭りに職員を派遣して担ぎ手の補充をしたりもしているそうだ。
 多くの地区の山笠行事は、江戸時代(享保・寶暦期)に流行した疫病(伝染病)平癒を祈願するために、京都祇園(八坂神社)或はその勧請社から祗園神(牛頭天王:ごずてんおう=スサノオノミコト)を勧請し奉納する行事として始まったものが多いが、現在は、地区の世帯人口の減少による若い担ぎ手の確保(最低24人は必要)ができなくなり途絶えたところが多い。
 そのようななかで今日まで絶やすことなく伝統行事を守り続けていることは、とても貴重で尊敬に値する。
 
 なお、下記各史料には東黒山祇園祗園山笠についての記述がないが、江戸時代の筑前国一帯で疫病が流行した時期として、享保17年(1732)の飢饉が知られており、また、近くの元松原祇園社(須賀神社)の縁起に「寶暦年中疫病流行せし時、芦屋より勧請すといふ」(筑前國續風土記附録)とあるので、当厳嶋神社に祇園神を勧請し山笠行事が始まった時期は、享保年中か寶暦年中(1751~1761)だったかと思われる。

 東黒山地区公民館の後方にある里道を上ってくれば、車で境内広場まで行けるが、今回は、上記のように徒歩で表参道を上って行った。

黒山厳嶋神社6石段上から なお、表参道側の里道には、国道495号線「東黒山交差点(信号機)」を北折して車で入ったが、駐車できる場所がなかったので、近くの民家に停めさせてもらった。
 ウォーキングするときは、イオンスーパーセンター岡垣店(岡垣町黒山338-1)駐車場に停めさせてもらうことが無難(徒歩6~7分)。 


※追記(史料)
 「黒山村(高倉宮の敷地也) 嚴嶋明神社 マキザキ(蒔崎) 神殿方一間・拝殿一間半二間 祭禮九月廿八日・奉祀安高齋。 産神也。祭る所嚴嶋姫命也。天正十二年に鎮坐し給ふとそ。境内に蒔崎神・大原神・八幡宮・祇園社・天満宮・疱瘡神・六地蔵佛有。」筑前國續風土記附録。
 「嚴嶋社 蒔崎に在。産神也。天正十二年にここに祀るといふ。祭礼九月廿八日祝戸一家(安高氏)あり。」筑前國續風土記拾遺。
 「村社嚴嶋明神社 遠賀郡岡垣町大字黒山字松ヶ下 祭神市杵島姫命 由緒不詳、明治五年村社に列せられる。祭礼日十一月十一日、十二日 主なる建造物 神殿、拝殿、鳥居 主なる寶物 神鏡一 氏子區域及戸数大字黒山四十八戸 境内神社 貴船神社(豊斟渟命) 天満神社(菅原道真) 惠美須神社(事代主命)」S18.1福岡縣神社誌。

※別記参照→「元松原須賀神社(岡垣町吉木)」。
 →「新松原厳島神社(岡垣町手野)」。

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2016年07月12日

伊藤ユミさん訃報

1P 参院選の当落が判明した翌日の朝刊の片隅に伊藤ユミ(本名:月子)さん(75歳)が5月18日に亡くなっていたとの記事が載っていた。
 去る2012年6月15日に姉の伊藤エミさんが亡くなったことを知ったときと同じように何だかすごく悲しかった。

 これで「ザ・ピーナッツ」の双子の姉妹がとも亡くなったのだ。

 7/12NHKで放送された「うたコン」で、「恋のバカンス」(S38紅白)、「恋のフーガ」(S42紅白)、「ウナ・セラ・ディ東京」(S48紅白/カラー)を歌うザ・ピーナッツの映像が映し出された。

 ザ・ピーナッツのDVDは持っているが、上記「恋の…」の二曲(白黒映像)が流れたときは、特に懐かしかく思えた。
 「ウナ・セラ・ディ東京」は、確かザ・ピーナッツ引退公演のときラストに歌った涙の曲だったと思う。

 姉のエミさんの結婚が引退理由だったが、後に夫の不倫で離婚しているので何のための結婚引退だったのだろうと思ったことがあった。

 いずれにしても双子の歌手として一時代(S34~50)を作った二人の気の合ったハーモニイがとても美しく心に響く…、大好きな歌手だった。

 また、映画「モスラ」が公開されたときは、映画館に何度も足を運んだ。「モスラ」も大好きだった二人の小美人、今は極楽で出会いきっと若返ってまた歌を歌っていることだろう。

 強く思い出に残っている歌手の死は、やはり悲しい。
 ご冥福を祈ります。念仏合掌。


keitokuchin at 23:49|PermalinkComments(0)TrackBack(0)