2016年08月

2016年08月27日

大原神社と波津の神々(2)〜付記 (岡垣町原・波津)

 前回「大原神社と波津の神々(岡垣町原)」からつづく。

 (1) 西方浄土を拝す想い
 大原神社の社殿は、参道の玅見宮石鳥居の後方(南西)の小丘陵(湯川山南東山稜の東端部)上に建っているが、今回訪れたとき、石鳥居(正面)の前に立って、後方の小丘陵を見上げたら、まぶしい夕陽が目に飛び込んできた。
 思わずここは、この丘陵の果てにある西方浄土(阿弥陀如来)を拝すようにもなっているのかと思ったが、この方向は真西ではなく西北西だった。

大原神社拝殿・銀杏・狛犬  (2) 社殿・参道の向きは真北ではない
 大原神社は、前述のとおり、北辰星(北斗七星)を主神とした旧妙見宮(妙見社・浜妙見)の鎮座地である。
 社殿(拝殿・神殿)・石鳥居(正面)の前方は波津海岸(響灘)なので、夜の星空を眺めるには絶好地である。
 だが、その方向は東北東で、なぜか真北向きにはなっていない。


 (3) 参道正面の海浜は神域
 大原神社の参道・石鳥居(正面)の先が海ということは、当社の祭神が海神、或は海を渡って来た神(天孫神)であったことを暗に示しているのだろう。
 現在、行われている例祭(10月12日)の内容は調べていないが、福岡縣神社誌(昭和19年)には「例祭日(9月27・28日)には海邊に頓宮所を設け、夜間點燈法樂神幸の行事を行ふ。」との記事があるので、この海浜は神域で、上記の暗示は当たっているのかもしれない。

 (4) 波津の地名由来(神武天皇・神功皇后伝承も)
 「波津」の地名は、もとは「」(初浦)だとして、前回その由来は「天地めて開けし時(天之御中主神・國常立命)」の「初」ではないのかとの想像を記したが、「ブログ邪馬台国下関」さんは「波津は神武天皇こと始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)であり、天照大神の高天原である。」と記している。
 いずれにしろ波津を高天原とみなしてあるが、この天照大神は、実際は女神天照大神(大日孁貴神)ではなく男神天照(天照御魂大神)、つまり天照国照彦天火明櫛玉饒速日命(物部氏祖神)であった可能性がある。なお、大日孁貴神は、卑弥呼で、武速須佐男神の妻か。

 また、遠賀郡誌は、次のような神功皇后伝承による地名由来を載せている。神功皇后が波津浦の海岸に旗を立てたので「旗の浦」の地名が生まれ、この旗(はた)が訛って波津(はつ)となったといい、小字の「大波津」と「小波津」は、その「大旗」と「小旗」を立てた場所だという。

 …この「大旗」と「小旗」の意味が分からないが、大原神社鎮座地(字原大松)の旧字は小波津だったとと思うので、この伝承によれば「小旗」が立てられた地となりそうだ。しかるに、大原神社の祭神のなかに神功皇后の名がないのはどうしてだろう。

4大年神社(波津) また、「大旗」が立てられた大波津(波津港)の「大年神社」の祭神のなかにも神功皇后の名はないが、同社の社伝には「神功皇后三韓より御帰朝の時、此所にて年越し給ひしに依て大歳の神を祭給ふとそ(筑前國續風土記附録)」の記載がある。神功皇后が三韓帰朝時というより出征前に訪れた可能性は考えられる。

 ただし、大年神社では、境内「大旗神社」祭神は「國常立尊」(大原神社主神)としている。 ※画像は大年神社(旧:大歳神社)。

 神功皇后の軍旗が波津浦で編まれたという伝説もあるが、疑問もある。
(※別記参照→「織幡神社へ(宗像市鐘崎)」。

 なお、福岡縣神社誌には、大年神社境内社「大旗神社」の祭神が「國常立尊」となっているので、起源としてはやはり「初の浦」(大初・小初)で、神功皇后の「旗の浦」(大旗・小旗)は後の付会だろう。
 また「國常立尊」は、大原神社の主神國常立命で、大歳神(饒速日命)と同神説がある。

 (5) 波津の古墳群
 波津・原地区に高天原があったと仮定したら、当然それを裏付ける古代遺跡の存在が必要になってくるけど、弥生遺跡については未確認である。
 だが、波津の丘陵上には4~5世紀築造と推定される古墳群が存在している。神功皇后の時代とも考えられるが、古墳としてはかなり古いもので、ヤマトの影響などは考えられない。なお、前方後円墳はヤマトの許可によって作られたという史観は、4~5世紀にヤマトに王朝が成立していたかどうかも分からず、あり得ない。

 岡垣町史によると、確認されている波津の古墳(磯辺古墳群)は、西から・^詈娑豺翳(全長60mの前方後円墳/4世紀後半/円筒埴輪出土)、磯辺二号墳、8鼻古墳(破損で墳形不明だが前方後円墳か)、け屋古墳(全長70mの前方後円墳/4世紀末〜5世紀前半/円筒埴輪出土)となっている。

 波津、原地、内浦地区は、嶋戸物部氏の本拠地であった可能性があり、波津丘陵の古墳は、その系譜につながる首長墓だと考え、以前、同地に出かけ夏草に阻まれたことを思い出したが、この地区には、縄文・弥生遺跡等も眠っているのではないかと思った。
 なお、近くの内浦には海藏寺古墳群36基(5世紀前半から7世紀前半の円墳)がある(湯川山麓、海藏寺の裏山)。

 ※本項トップ→「大原神社(玅見宮)の参道・境内にて 岡垣町原」。

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2016年08月26日

大原神社と波津の神々(岡垣町原・波津)

 前回「大原神社の國常立命は妙見神(北辰星・天御中主命) 岡垣町原」からつづく。
 大原神社(原695)の祭神は、前述したように「國常立命、武甕槌命、經津主命、武速須佐男神、市杵島姫命」である。

 (1) 市杵島姫命・武速須佐男神
1大原神社対海参道 大原神社の由緒に「武速須佐男神 市杵島姫命、(岡垣村)字大松より明治十五年一月二十八日合併」(福岡縣神社誌)とあるので、当社(浜妙見)の主神だった「北辰星」が「市杵島姫命」(宗像三女神の一)に入れ替わったと考えられなくもない。

 しかるに、当社(浜妙見)は、宗像七浦の一鐘崎浦に続く波津浦(波津海岸)にあり、参道は海(響灘)に向かっているので、海の神(水神)でもある「市杵島姫命」がもとから祀ってあったとしても不思議ではない。

 市杵島姫命は、祭神の一武速須佐男神(古事記では素戔嗚命)の子で、須佐男神は、海の向こうから現れた天神(天孫族)である。

 武速須佐男神は祇園神ともいい、前回記したが、筑前國續風土記附録には「妙見社…まつる所北辰星・祇園神也」、同拾遺には「祇園神も合祭る」の記事があり、浜妙見に北辰星と合わせて祇園神(武速須佐男神)が祭られていたことは確かである。

 (2) 市杵島姫命 (景石神社)
 なお、波津浦で「市杵島姫命」を祀っている神社は、ほかにも「景石神社」(奇石社)があり、同社は、海に面した湯川山北陵末端の峰の上に鎮座している(波津1078)。
 同社は、福足神社(宗像市須恵2-24-21)の神事とも関わり、岸壁には「福足神社祭神御上陸霊地」の神標(石碑)が建っている。
 ※参照→「景石神社(1) 福足神社の神霊上陸地と奇石宮」。

 (3) 龍神・太陽神 (波津城神社及び大原神社境内社)
 波津浦の海に面した波津城の岬に、龍神を祭神する「波津城神社」がある(波津925)。石祠一つの小さな神社だが、周りに太陽を遮るものもない岬の突端に鎮座している。

 龍神は、水神(海神・蛇神とも)だが、太陽神とも目され太陽神信仰を生み、修験者が祭祀することも多い。
 大原神社の主神「國常立命」が妙見神で、同社が夜空に輝く中心星北辰星信仰(妙見信仰)の霊地であれば、「波津城神社」は、それに対する昼空の太陽を仰ぐ太陽神信仰の霊地であったのかもしれない。

 因みに、大原神社境内社に「恵美須神社」があり、祭神は事代主神だが、高龗神、暗龗神を合祀している。この「高龗神」は、暗龗神(闇龗神)と同神で貴船神社(かつて波津の大歳神社境内にも貴船社があった)に祀られ、また「雷神」とも言われるが、龗(おがみ)は「龍」の古語で実態は「龍神」(太陽神)である。
 大原神社内に、夜の北辰星(妙見神)と昼の太陽神(龍神)が並存して祀られていたことにもなる。

 なお、大年神社境内「恵美須神社」の祭神も事代主神、高龗神、暗龗神である。龍神は、出雲・物部氏系で祀られる。

 また、龍体(龍の体が動く様)が女性のしなやかな体型にたとえられ、龍神は、女神として水神「市杵島姫命」(弁財天)と習合したこともあったのではないかと思う。

 蛇足すると、修験道のメッカ大峰山(奈良県)が女人禁制なのは、その峰が龍体であり、女性の体の上を女性が歩くのはさまにならないからだとも思える。そういえば小生も一時期、どっぷり龍神信仰に浸かっていたいたこともあった。

 (4) 大歳神・饒速日命 (大年神社)
 波津浦の大波津(波津791)にある「大年神社」(※明治以前は大歳神社)の参道は、大原神社と同じように海(響灘)に向かっている。

 以前、「波津港の大歳神社(大年神社)の本来の祭神は大歳神(饒速日命)で、妙見神社についても、天の川を治水の水分の神として崇拝した物部氏が、祖神饒速日命を妙見神として崇拝したという説もある。」と書いた。
 (※参照→「景石神社(8)牧神社の鳥居と祭神は?」)

 大年神社に「大歳神(大歳命)」を祀ったのは神功皇后だという伝説があるように、その鎮座は古く、同社は、大原神社(妙見宮)とともに古代物部氏との係わりがあったと思う。

 因みに「大歳神」(饒速日命:フル)は、古代物部氏の祖神で、異論はあるがその父が大原神社の祭神の一「武速須佐男神」(フツシ/祇園神)で、父に先駆けて天下ったともいい、また、同祭神の一「經津主命」(布都・フツ)は祖父である。(※下記)

 また、波津の湯川に鎮座する「牧神社」(現在景石神社に合祀)の祭神は、大己貴命となっているが、筑前國續風土記附録に「上世大己貴命、牧馬を得給ふこと舊事本紀に見ゆ」とあり、波津浦に大歳神社や妙見宮(大原神社)があることを合わせて考えると、騎乗馬に長けていた大物主命(饒速日命)であったと考えられる。(※参照→「景石神社(8)牧神社の鳥居と祭神は?」)。

 (5) 大山秖命
 「山妙見」について、筑前國續風土記附録に「(妙見社) まつる所天御中主命なり。或は大山秖命ともいふ」との記事(前述)があるが、湯川山嶺にある山妙見は、「山の神」と呼ばれていたので「大山秖命とも」と言われたのだとは思うが、この「大山秖命」は、大年神社の「大歳神(饒速日命)と同神」であったと考えられる。
 北辰星(妙見神)=天之御中主神(國常立命)=大山秖命=大歳神(饒速日命)。

 なお、山の神である「大山秖命」を祀る大山祇神社の総社は、瀬戸内海の大三島(愛媛県今治市)に鎮座しているので、海の神としての性格もある。

 (6) 國常立命
 大原神社で注目すべきは、前回述べたように天地開闢のとき最初に高天原に現れた神である「天御中主命」(國常立命)を主神としていることである。

 大原神社の主神「國常立命」(日本書紀の国之常立神)は、前回述べたように古事記にある 「天地初めて開けし時に成りませる神:天之御中主神」と同神である。

 「波津浦」は「初浦」と言われていたように、「波津」のもとは「」で、「天地初めて開けし時」の「初」で、高天原に「初めて」現れた神「天之御中主神」の霊地だったと考え、さらに天之御中主神と習合した北辰星信仰の霊地たる大原神社がある「」の地名が「高天原の原」であったと考えたら、当地一帯は、多々ある高天原地上存在説の一つとなる。
 因みに、天の安川は、さながら原地区を貫流し大原神社の参道口から波津の海(響灘)に注いでいる川のことになるのだろうか。

 さらに天之御中主神と習合した北辰星信仰があった妙見宮・妙見社(山妙見、浜妙見)を、明治維新後に「大原神社」と改称した背景には、地元でこの「高天原」(⇔大原)という意識が働いていたのかもしれない。
 そうしてみると、北辰星(妙見神)=天之御中主神=國常立命を主神とする大原神社の鎮座地は、天地開闢の霊地で、現代でいうパワースポットにもなりそうだ。(妙見神=大歳神・饒速日命)。

 なお、上記したように、天の川を治水の水分の神として崇拝した物部氏が、祖神「饒速日命」を妙見神として崇拝したともいわれるので、高天原に現れる神々は本来は物部氏につながる神々であったのだろう。

 (7) 武甕槌命・經津主命
 武甕槌命と經津主命(日本書紀)は、葦原中国平定で活躍した神として、武甕槌命(古事記では建御雷之男神)は鹿島神宮、經津主命は香取神宮で祀られている。ただし、經津主命は、建御雷之男神と同神のようでもある(古事記、旧事本紀)。

 經津主命は、「石上神宮略記」(物部氏祖神を記す)にある剣霊「布都御魂」と同神ではないかと思っている。
 以下「石上神宮略記」の内容とは異なるが、上記「武速須佐男神」(素戔嗚命=布都斯(フツシ)御魂)が八岐大蛇を切った「十握剣」の剣霊「布都(フツ)御魂大神」は、「經津主命」のことで、布都斯(フツシ)御魂(武速須佐男神)の父だと思っている。
 また、布都斯御魂(武速須佐男神)から物部王朝最高の神器「瑞宝(アマツシルシミツノタカラ)十種の神宝」を授かった「布留(フル)御魂大神」(十種の神宝の霊)が、物部氏祖神「饒速日命」(大歳命)であったと思う。

 (8) 事代主神 (大原神社境内社)
 大原神社境内の神社は「恵美須神社」で事代主神、高龗神、暗龗神を祭神している、また、同神を祀る「恵美須神社」は大年神社境内にも鎮座していたと上記した。

 うち事代主神(コトシロヌシ)は、日本神話では葦原中国平定のために武甕槌命(タケミカヅチ)が出雲に進軍したとき、海釣りをしていた美保ヶ崎で一番に恭順を示した出雲神で、大国主命の子(須佐男神の子孫)とされている。
 大原神社には、この二人の神が大原神社の本殿と境内社にそれぞれ鎮座していることになる。
 この事代主神が恵美須神社の主神となっているのは、事代主神が同じく海釣りの神とも言われる恵美須神(釣竿を持ち小脇に大鯛を抱えている姿が一般的)と同一化されたことによるのだろう。
 続風土記附録にある「夷社 コハツ」(小波津)がこの恵美須神社のことだと思うが、恵美須は「夷、戎、恵比須」などとも書く。

 なお、波津浦は、鐘崎浦に続く港町であり、探せば鐘崎港と同じように他にも漁業神とされる恵美須神が祀られているところがあるのかもしれないが調べてはいない。(※別記→「鐘崎の恵比須神社巡り(宗像市)」参照)。

 (9) 布都御魂・高倉下命 (高倉神社)
 なお、神武天皇東征時、熊野で全軍の士気が衰えていたときに、高倉下(たかくらじ)が献上した布都御魂の剣の御蔭で立ち直ったという日本神話がある。
高倉神社鳥居 「高倉下」とは高い倉の主(高倉下命)という意味らしく、日本神話は九州での出来事をヤマトの神話にすり替えていることが多く、高倉下は、高倉神社(岡垣町高倉1113)であった可能性がある。また、高倉下命は、饒速日命の子天香語山命の別名(先代旧事本紀)とされ、高倉神社の祭神大倉主命のことである可能性もある。

 なお、古代、遠賀(オンガ)郡は、大神(オンガ、オオカミ、オオミワ)=大歳神・饒速日命(物部氏)の支配下にあり、うち遠賀郡岡垣町は、「天物部等二十五部」(先代旧事本紀)の一「嶋戸物部」の地で、その本拠地は原、波津、内浦地区とみなされるが、原より南東の山手(高倉・高津峰)に鎮座する旧遠賀郡21村総社高倉神社の祭神大倉主命、菟夫羅媛命(つぶらひめのみこと)は物部氏だとみなされる。

 高倉神社にも神功皇后手植えの綾杉(神木)伝説が残っているが、神功皇后は物部氏の所轄地を巡っていることが多い。内浦から田野(宗像市)に抜ける垂見峠(孔大寺山と湯川山の間)の名は、神功皇后に随行した高倉神社神官の「依網吾彦男垂見」に係わるとの説もある(※別記「神功皇后鎧塚と西ノ山観音堂(田野生元薬師堂) 宗像市」参照)。

 以上大原神社と波津の神々(前回と重複あり)について私見を交えて漫然と記したが、海を渡って到来した天神(天孫族)・古代物部氏祖神饒速日命と係わる神々が多いことは分かる。

 ※つづく→「大原神社と波津の神々(2)〜付記 (岡垣町原・波津)」。

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2016年08月18日

大原神社の國常立命は妙見神(北辰星・天御中主命) (岡垣町原)

 前回「大原神社は、(旧)妙見宮二社 (岡垣町原)」からつづく。

 (1) 祭神名

0大原神社拝殿新築碑・銀杏 「大原神社の御由緒碑」には、祭神は「國常立命 武甕槌命 經津主命」と記しているが、福岡縣神社誌には加えて「武速須佐男神、市杵島姫命」を記している。

 このうち神社誌に「武速須佐男神市杵島姫命、(岡垣村)字大松より明治十五年一月二十八日合併」とあるので、旧「山妙見」(原妙見宮・妙見社)の祭神が「國常立命 武甕槌命 經津主命」で、旧「浜妙見」(波津妙見宮・妙見社)の祭神が「武速須佐男神、市杵島姫命」だったのか。


 (2) 妙見神 (北辰星・天御中主命)

 しかるに、山妙見、浜妙見ともに「妙見宮 (妙見社)」であるからは、主神はともに妙見神たる「北辰星」であったはずである。

 因みに、「妙見」とは、以前「王丸妙見神社(宗像市)」にも記したが、天の中央に位置する北辰星(北極星と北斗七星)を最も神聖な星として、その霊験を仰ぐ信仰をいう(妙見信仰・北辰信仰)。

 実際、浜妙見については、筑前國續風土記附録に「妙見社…まつる所北辰星・祇園神也」の記事がある。
 また筑前國續風土記拾遺の「祇園神も合祭る」は、「北辰星と合わせて祇園神(武速須佐男神)も祭る」という意味だと思われる。

 山妙見については、同上附録に「妙見社…まつる所天御中主命なり。或は大山秖命ともいふ」とあり、この「天御中主命」は「北辰星」(妙見神)に同じである。

 つまり、天空の中心星である「北辰星」(北極星と北斗七星)は、天上の中心神とされた「天御中主命」と習合し、その神格化名を「妙見菩薩北辰妙見大菩薩・北辰妙見尊星王」(道教・陰陽道では「太上神仙鎮宅霊符神」)等と呼ばれ、天御中主命と「北辰星」(妙見神)は同神とされた。

 したがって、山妙見、浜妙見(妙見宮二社)ともに主神として「妙見神」(北辰星・天御中主命)」を祭祀していたことは間違いない。

 (3) 「北斗の水くみ」を仰ぐ地だった

 上記したように、北辰星(北極星と北斗七星)は、天空の中央に位置するを最も神聖な星として、その霊験を仰ぐ妙見信仰・北辰信仰を生んだが、当地域(岡垣町原)に、その北辰星を仰ぐ妙見(北辰)信仰が生まれ、その星を祀る、妙見宮二社(山妙見・浜妙見→大原神社)が鎮座したことは、ひとえに当地から北辰星、特に「北斗の水くみ」(天のひしゃくが海水を汲んでいるようにような形に見える)現象がよく見えたからだ。
 
 昔の人たちは、例えば星を観て船出するとか、運勢などを観る「星読み」という天文学に精通し、その専門職もあったようだが、当地の人たちは、当地で観られる「北斗の水くみ」現象を神聖視し、当地が世界でも希な北辰星の聖地だと感じていたと思う。
 波津海岸は、その北側に広がる響灘の海に面し、北の空と海の間に視界を遮るものがなく、翌晴れた秋の夜空にその「北斗の水くみ」と言われる現象がよく見えるので、この海岸の中央に近いの山手と浜辺の地に山妙見と浜妙見の祠を置いて北辰星(北斗七星)を祭神したとも考えられる。

 なお、 波津海水浴場内には、岡垣町観光協会が入る「岡垣町観光ステーション北斗七星」という名の施設がある。
 岡垣町HPには、北斗七星と大原神社との係わりには触れていないが、「世界でも珍しい北斗の水くみ…岡垣町の海岸は、北斗七星が海水をくむ姿を見ることができます。この光景は、北緯33度から34度に位置し、北に水平線がある風景の場所でしか見えないそうです。その条件を満たすのは世界広しと言えど、なんと北部九州の一部のみ!とか。 鑑賞におすすめの時期は9月から11月ごろです。」とあり、「北斗の水くみの見ごろの目安時間」が記してある。

 (4) 國常立命・国之常立神 (=妙見・北辰星・天御中主命)

 現在の大原神社(山妙見+浜妙見)の祭神に「北辰星」「天御中主命」の名がないが、それは、多分、明治維新政府による神仏分離や修験道廃止の施政に呼応して神仏習合色の濃い「妙見宮、妙見社、妙見神」等の名を捨てたこととの絡みがあったのかもしれない。

 そして、妙見宮(妙見社)二社が「大原神社」の名で再生したとき、「北辰星」「天御中主命」を「國常立命」の名に変えたのではないのだろうか。
 つまり、明治15年山妙見が浜妙見と合併し「大原神社」となったとき、同神である浜妙見の主神「北辰星」と山妙見の主神「天御中主命」を合併し「國常立命」としたのではないか。

 ただし、「天御中主命」は古事記、「國常立命(国之常立神)」は日本書紀に記される神名で、同神とされる。
 なお、妙見宮二社は、本来は一体のもので、山妙見は浜妙見(現大原神社鎮座地)の奥院だったと思う。

 ※つづく→「大原神社と波津の神々(岡垣町原)」。

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2016年08月10日

大原神社は、(旧)妙見宮二社 (岡垣町原)

 前回「大原神社の大銀杏と乳根 (岡垣町原)」からつづく。
 大原神社鎮座地:福岡県遠賀郡岡垣町原695 (旧岡垣村大字原大松)

 (1) 現社殿

大原神社拝殿と新築碑、銀杏 大銀杏と拝殿の間に昭和31年建立の「大原宮拝殿新築記念碑」が建っている。

 拝殿(木造瓦葺)は、横長の建物で、通常は格子戸と雨戸で密閉されている。
 施錠されていた格子戸の格子の間から拝殿内を覗き込むと、正面に「妙見宮」の木額が掲げてあった。

 神殿は、この後ろに別棟で建っているが、その前面を壁で塞ぐように拝殿が建っているので気付きにくい。

 (2) 妙見宮から大原神社へ

 上記のように大原神社の拝殿の額は「妙見宮」であり、また、鳥居の神額は「玅見宮」なので、これらを見た限りでは、「大原神社」は、現在も「妙見宮」(玅見宮)である。

 ・「大原神社の御由緒碑」は、大原神社は「國常立命 武甕槌命 經津主命をお祀りし明治十五年に再建した古い社で…明治以前は玅見宮と唱えていました」と記しているが、当初、この文から、明治十五年に「妙見宮」(玅見宮)が「大原神社」に変わったと捉えてよいものかの判断ができなかった。

 ・同由緒碑には、慶長年間に國主黒田長政が居城(福岡城)の鬼門鎮護の祈祷所として法印の胎蔵院を玅見宮に奉仕させたとの記述があるので、玅見宮は、徳川家縁故の黒田家と係わる法印胎蔵院(修験者か)によって代々奉仕されていたことが伺える。(※この記事は、当地…後述「浜妙見」のこと)。
 この由緒は、徳川家や修験道と敵対した明治維新政府からみれば甚だよろしくないので、明治維新後、早々に神社名を変える必要があったのかもしれない。
 特に「妙見宮」の社名は、修験道の神仏習合と関わる妙見菩薩(北辰妙見大菩薩)信仰に基づくものなので、神仏習合を否定した明治維新政府の方針に反するものだったと思う。

 ・福岡縣神社誌に「明治五年十一月三日(岡垣村原)村社に定められる」とあるので、このときに「大原神社」になったのではないかと思ったが、その文の後に続く「武速須佐男神市杵島姫命、(岡垣村)字大松より明治十五年一月二十八日合併。同十七年九月二十二日同村字大松に移轉許可」の記述を見て戸惑った。

 ・上記由緒碑の「明治十五年再建」の年は、上記武速須佐男神、市杵島姫命合併年と重なるが、なぜか同碑はこの二神の名を記しておらず、祭神は「國常立命 武甕槌命 經津主命を祀る」としている。

 ・上記「字大松」は、当地の旧字名であり、元々当地「字大松」にあった玅見宮を仮に「A社」とし、別の場所に「B社」があったとすると、神社誌の記述は、「明治15年(1882)B社がA社(二神)を合併した後、同17年(1884)A社の旧社地に移転した」と読める。

 ・岡垣町観光協会公式サイトに「山妙見と浜妙見が合祀して現在の大原神社となりました」との記事があり、この二つの妙見(各「妙見宮」)を上記年号記事に充てはめてみると次のようになる。
 この場合、当地は波津浜にあるので、当社が「浜妙見」だったと考えられ、別の場所(湯川山嶺)に「山妙見」があったことになる。
 (※山妙見は、浜妙見の後方、湯川山の山嶺にあったというが、行ったことはなく、その地の現況については知らない(下記史料参照)。

 ・つまり、明治15年「山妙見」 (旧原村妙見宮=國常立命 武甕槌命 經津主命祭祀)が、字大松鎮座の「浜妙見」(旧波津村玅見宮=武速須佐男神、市杵島姫命祭祀)を合併して「大原神社」となり、同17年に「浜妙見の旧社地」(字大松/当地)に移転したということになる。

 ということは、上記「明治十五年に再建」とは、「山妙見」が浜妙見(二神)を合併して「大原神社」としたことことを「再建」と言ったことになるのか。

 ・また、上記神社誌の「明治五年十一月三日村社に定められる」は、岡垣村「原地区の村社」ということで、これは元から原地区に鎮座していた「山妙見」のことではないかと思う。
 このとき、山妙見が大原神社に変わっていた可能性もあり、この変更年に関する明確な記録が残っていないので、由緒碑は「明治以前は玅見宮と唱えていました」と記しているのかもしれない。。

 当時の「浜妙見」は、その鎮座地(当地)が「波津地区(旧波津村)」に属しており、波津の村社は「大年神社」とされたので、その時点では村社にはなり得なかったと思う。
 そして、同17年原地区の村社「大原神社」(山妙見)を当地に移転するまでの間に、当地の区割りが「波津」から「原」に変更されたのではないかと思う。

 (3) 山妙見と浜妙見(史料)

 上記「山妙見と浜妙見」(妙見宮)について、下記史料の「妙見社」の記事を追記する (妙見宮=妙見社) 。

 a)「山妙見」
 ・筑前國續風土記附録…「遠賀郡原村(産神ハ高倉宮也) 妙見社(産神と同しく祭れり。神殿方五尺・拝殿方二間 祭禮八月十三日・奉祀神傳院) まつる所天御中主命なり。或は大山秖命ともいふ。村の南三町計湯川山へ續ける山に有り。さかしき坂を登る。祠の上に嚴覆へり。社前に流水有り。幽邃の地也。里民ハ此祠をさして山妙見といひ、波津浦にあるを濱妙見といふ。」とある。

 ・筑前国續風土記拾遺…「遠賀郡原村…妙見社 村の西五町斗湯川山へ續ける山ノ腰にあり。人家を離れて幽邃の地なり。四隣樹木生茂りて物ふりたり。大岩の下に祠あり。社前ハ流水激湍して奇秀の地といふへし。祭日は八月十三日なり。」

 b)「浜妙見」
 ・同上附録…「遠賀郡波津村(此村のこと、本編に出たり。昔ハ初の字を書り。高倉宮の敷地なり。) 妙見社 小波津の産神也。民家の東南二町許原村の境地にあり。濱妙見と云。まつる所北辰星・祇園神也。むかしハ大社なりしにや。石鳥居あり。慶長十七年十一月十一日黒田長政公建立し給へり。然れとも社記のしるしとすへき物なく造立したまふゆくへを傳へさるハ本意なき事にこそ。」。

 ・同上拾遺…「遠賀郡波津浦… 妙見社 小波津の東に在。原村の境地なり。祇園神をも合祭る。石鳥居あり。銘に慶長十七年十一月十一日興雲公の建立し給へるよし彫たり。奉祀修験者。」

 「原村の境地なり」の意味がとりにくいが、「小波津」は、波津地区内で「大波津」(波津港・大年神社鎮座)に対して使われた字名だと思われる。
 現在、当地は、原(旧:原村)地区内になっており、波津(旧:波津村)地区にはなっていない。

 (4) 「大原神社」の社名

  上記二つの妙見社(山妙見・浜妙見)を一つにまとめ、合せて浜妙見の地が波津から分離して原地区に組み込まれることになり、大きくなった原地区の村社とということから「大原神社」の社名が付いたと考えられなくもないが、  波津はもとであり、高天原に初めて出現した神・天御中主命(國常立命と同神)の地であったが、原の地名は、高天原の地名の名残りで、合せて「山妙見」に天御中主命を祀っていたので、高天原=大原から「大原神社」となったと考えるべきかもしれない。
 概して日本神話の舞台は、北部九州に視点をおいて考えるべきだと思うことが多い。

※つづく→「大原神社の國常立命は妙見神(北辰星・天御中主命) 岡垣町原」。

keitokuchin at 16:41|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2016年08月05日

大原神社の大銀杏と乳根 (岡垣町原)

 前回「大原神社(玅見宮)の参道にて 岡垣町原」からつづく。
 
 (1) 大原神社の大銀杏(おおいちょう)

1大原神社銀杏と拝殿と石段 前回記した「玅見宮」の石鳥居が建つ大原神社の参道から、突当りの石段を上ったところに建つ拝殿を見上げると、その拝殿の右前に生えている銀杏の巨木が観える。
 この銀杏は、左方向 (石段の上方)に枝葉が大きく張り出しているが、幹の背丈はさほど高いようには観えない。(※画像1)

 この銀杏の巨木が、岡垣町指定文化財(天然記念物)の「大原神社の大銀杏」で、説明板に「樹高14.7m 根元周囲6.9m 樹齢約600年 平成12年3月岡垣町教育委員会」と記してある。

 一般的に大銀杏の巨木といえば、上に高くせり出している幹の様を想像しがちだが、この木は、上記のようにそんな様ではない。

2大原神社銀杏の幹枝葉 また、今回、訪れたのは夏場だったので、鬱蒼と茂る緑色の葉々が幹を覆いつくしていた。

 遠目では、その葉の形までは分からなかったが、近づいて観ると、間違いなく銀杏の葉であった。
(※画像2)


 この中途半端な高さに思える銀杏の巨木を観ていて、ふと落雷、台風、或は強い海風(冬の季節風)等を直接受けて上半分の幹を失ったのか(倒壊・枯渇)などと思ったが、確かなことは分からない。
 因みに、晩秋に境内の敷地を黄金色に染める落葉も、季節風が吹き飛ばしてくれるのだろうか。

 (2) 大銀杏の乳根(ちちね)

 石段の上に張り出した枝の下に立って幹を見上げると、その一部にまとまって垂れ下がっている数本の「乳根(ちちね)」(気根・膝根)が見える。(※画像3)

3大原神社銀杏の乳柱(気根) この乳根を指さして「これを垂乳根(たらちね)、または銀杏の乳(ちち)と呼んで、このような乳根のある銀杏(乳銀杏)に、妊娠した女性が、母乳が出るようにと祈ると御利益がある」と知ったか振りして言った。

 それは、以前、「下城の大銀杏」(国天然記念物/熊本県小国町)の乳根(同地では「チチコブさん」という)を観たとき、「乳の出の悪い母親が乳根の膨らみを触ると(或は、樹皮を煎じて妊婦が飲むと)、母乳の出が良くなる」という言い伝えのあったことを思い出してのことだった。

 するとAさんが「だったら良縁成就や安産にも、それに女性の乳の病(予防・回復)にも御利益があるのですか」と言った。……。

 さらにBさんが、ずばり「だってこれ、お婆さんのオッパイみたいに(長く)垂れ下がっているよ、本当にお乳が出るの(?)」と…。

 みな、乳根を見上げたまま、しばし沈黙した後、なぜか「…女性の長寿祈願にもご利益があるのかもしれない」という結論になったが、真夏の暑いさなか、冷や汗たらり。

 ただし、「大原神社の大銀杏」は、多分、雌木(女木)ではないかと思うが、銀杏の乳根(気根)は、雌木に限らず雄木(男木)にもできる。
 また、すべての大銀杏(巨木)に乳根ができる分けではない(念のため)。

 ※つづく→「大原神社は、(旧)妙見宮二社 (岡垣町原)」。

 ※別記参照→「依岳神社のいちょう(銀杏)と乳根(宗像市)
  →「黄金色に染まる靡神社境内(銀杏落葉)
  →「敷地を染める銀杏の落葉(朝倉市/松尾神社境内)

keitokuchin at 21:30|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2016年08月03日

大原神社(玅見宮)の参道・境内にて(岡垣町原)

 先日、波津海岸(響灘)の活魚料理店であった食事会に出席したとき、若干空き時間があったので、居合わせた仲間と近くに鎮座する「大原神社」(旧:玅見宮・妙見宮・妙見社・濱妙見)の参拝と、社前の大銀杏を見学した。

 (1) 鎮座地 (波津海岸)
 大原神社鎮座地:福岡県遠賀郡岡垣町原695 (旧岡垣村大字原大松)

 ・大原神社の「参道口」は、響灘に面した波津海岸の側面道路(県道300号線)沿い(南側)にある活魚料理臨海荘(岡垣町原670-34)の駐車場の左側、ふれあい宿泊施設若潮荘(原671-1)との間にあり、「大原神社」は、その50m先の小丘陵上に鎮座している。

1大原神社参道鳥居と海岸・参道口前の海岸の先に「消波ブロック」が見えるが、この海岸から右方に続く砂浜が「波津海水浴場」である。
 この左右一帯に続く響灘の海岸線を「波津海岸」と総称するが、ここから左方に続く小石浜の先、波津港などがある地区が「波津」で、右方の波津海水浴場がある地区は「」である。

 「大原神社」は、現在、原地区(旧:原村)にあるが、ここは波津地区との境界に近く、明治以前は波津地区(波津村・波津浦)に属していたようだ。(※別記)

 (2) 参道・石鳥居(玅見宮)など

 a) 石灯篭
 〜参道口の両脇に大きな石灯篭(一対)がある。
 ・火袋部分は少し新しく見えるので作り直したものかもしれないが、それ以外の部分は古く、なかでも請台や竿部分は、表面の風化が進んでいる。
 この石灯篭が、「大原神社の御由緒碑」(※下記)に「天明二年三月に浦奉行から石灯篭の寄進等があり」とある石灯篭なのだろうか。
 境内に「石灯篭」は、このほかにも、少し小さいが参道石段の横や石段の上にもあり、その建立年号を調べておらず現時点で断定はできないが。
 b) 幟立石
 〜石燈籠と石鳥居の間(臨海荘の建物横)に御影石の幟立石(一対)が建っているが、古いものではなく、例祭等(※下記「大原神社の御御由緒碑」参照)のときには、ここに海風を受けてはためく幟旗が立つのだろう。
 c) 石鳥居
 〜参道の中央(上記臨海荘の玄関前)に明神形石鳥居(一基)が建っている。

2大原神社参道2鳥居神額・この鳥居は、再建鳥居で古くはないが「玅見宮刻の神額(額束)だけ古いので、多分、旧鳥居(崩壊か)で唯一残った神額を掲げたのだろう。
 そのために、神額の刻銘が「大原神社」ではなく、旧社名の「玅見宮」となっているのだと思う。


 ・御由緒碑に、「慶長十七年十一月に鳥居を建立され、その後再建されました。」と記してあるので、この神額は、「慶長十七年」(1612)建立の旧鳥居にかかげてあったものだろう。
 この旧鳥居が消滅(倒壊か)したので現鳥居が再建されたのだろうが、柱の記銘を書き写していなかったので再建時期等を書けない。
 ・この「慶長十七年」については、同上附録に「…。石鳥居あり。慶長十七年十一月十一日黒田長政公建立し給へり。然れども社記のしるしとすへき物なく造立したまふゆくへを傳へさるハ本意なき事にこそ。」の記載があり、また、同上拾遺に「…。石鳥居あり。銘に慶長十七年十一月十一日興雲公の建立し給へるよし彫たり。」の記事もあるが、「石鳥居あり。」と「慶長十七年」の間に句読点「。」があるので、御由緒碑の上記記事を読むまでは、この年号が社殿の建立か石鳥居の建立を指しているのかの判断ができないでいた。
 ・しかるに「岡垣町観光協会公式サイト」には「慶長17年、黒田筑前守長政が建立した歴史情緒溢れる神社」とあるので、同年黒田長政が社殿を建立したときに、合せて石鳥居も建立したということかもしれない。

 d) 玅見宮 (妙見宮の異字体)
 ・石鳥居に「玅見宮」の神額(額束)が掲げてあり、また拝殿内には「妙見宮」の木製神額が掲げてあるが、御由緒碑」(下記)に、大原神社の旧称が明治以前は「玅見宮」だったと記されている。
 これにより大原神社の旧称が「玅見宮」(妙見宮)であったことが分かる。
 ・この鳥居の「玅見宮」の「玅」の文字は、「𡭹」「𢆷」「竗」などと同じ「妙」の異字体で、「妙」と同じだが、本稿では紛らわしくなるので、必要以外は「妙」の文字を使い「妙見宮・妙見社・濱妙見・山妙見」などと書くことにする。

 (3) 大原神社の御由緒碑

3大原神社参道3由緒碑 参道の突当り、石段下の左側に長方形の御影石で作られた「大原神社の御由緒碑」がある。
 由緒を刻した文字の墨がほとんど剥げ落ちているのでかなり読みにくい。
 (以下その全文を転記しおくが、上記の事情により転記間違いがあるときはご容赦)。


 「この神社は大原神社と申し 國常立命 武甕槌命 經津主命をお祀りし 明治十五年に再建した古い社であります 明治以前は玅見宮と唱えていました 慶長年間に國主 黒田長政公入國され居城を福岡に築かれ 当社はその城の丑寅の方位に当たるので國主 鬼門鎮護の祈祷所として信仰が篤く 法印の胎蔵院に 祭祀を奉仕させられました 慶長十七年十一月に鳥居を建立され その後再建されました 天明二年三月には 浦奉行から石灯篭の寄進等があり また例祭には 国主の 御代参等があって祭儀を盛大に行われていたのであります
4大原神社参道石段 殊に当社は 寿命の神 農漁業の神として 遠近の参拝がたえません

 御日待祭 一月二・三日
 祗 園 祭 七月十四日
 例   祭 十月十二日
 六   祭 十月二十三日」



 (4) 境内(石段上る)

大原神社狛犬 燈籠 上記したように「石灯篭」は、参道石段(※画像4)の両脇や石段の上(境内)にも各1対あり、境内石灯篭のそばに「石造狛犬」1対がある(※画像5)。その他、境内には、大銀杏(次回別記)、大原神社拝殿新築記念碑及び拝殿・神殿(別記)、境内神社1社「恵美須神社」(別記)、宝篋印塔1基(下記)等がある。

 
 ・変形「宝篋印塔」1基

大原神社宝篋印塔 ~神社誌に「九輪塔」とあるのは、これか。
 上から相輪・笠・塔身・花座・その下に、もう一つ塔身らしきものあって・反花座・基礎(台座4段)となり、全体の背丈がかなり高くなっているが、言って観れば「変形宝篋印塔」なのかもしれない。

 これが九輪塔であれば、相輪部分(宝珠・九輪・請花)の「九輪」を言ったものかとも考えたが、宝珠がなく、九輪部分は七輪しかない。宝珠と二輪が失われたのかもしれないが、結局九輪塔の意味は分からない。

 塔身及びもう一つの塔身(?)に刻してある文字は梵字かもしれないが、見慣れない字形で、よく分からない。
 その他の基礎部分に、胎蔵院や士分と思える連名があり、江戸時代(前・中期)頃の建立かとは思うが、メモをとっておらずその時期は覚えていない。
 (※画像6:宝篋印塔、右は境内社の一部)。

※つづく→「大原神社の大銀杏と乳根(岡垣町原)」 

keitokuchin at 14:23|PermalinkComments(0)TrackBack(0)