2016年09月

2016年09月28日

高野山真言宗大師教会梅里庵支部(宗像市野坂)

1野坂の梅里庵 前回の「持明山大聖寺」から県道92号線を下り、野坂神社分岐点(今院標識)を西福寺方向に左折してすぐ左側の民家と民家の間にある里道を進むと、右側のもたれ土留め壁上にある桜樹や竹林の前に「高野山真言宗大師教会梅里庵→」の看板があり、道端に赤地(白文字抜き)竿旗が立ち並んでいた。(宗像市野坂1104)。

 看板には「高野山真言宗大師教会」と記してあるが、多分「高野山大師教会」のことで、同教会は、高野山真言宗の布教等を行う高野山教化伝道本部の管轄下にある一布教団体で、その支部は個人立で寺院ではないという話を聞いたことがあるが、詳しいことは知らない。

 赤地の竿旗には、正一位稲荷大明神、奉納南無不動明王、奉納南無地蔵菩薩、奉納南無大師遍照金剛、奉納開運招福七福神などの文字が白抜きされている。奉納者名を書く欄があり、信者さんが奉納したものだろう。
 そういえば、これと同じような竿旗の列を神舞山馬口の滝吉祥庵(宮若市山口)で見たことがあった。
 なお、同所内には立ち入らず、道端で「南無大師遍照金剛」と言って引き返した。

※つづく→「野坂神社(1)〜鎮座地(宗像市野坂)」。


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2016年09月26日

天台宗「大聖寺」にて(宗像市野坂)

 前回「猫塚伝説の西福寺(宗像市野坂)」からつづく。

 ・猫塚公園(宮若市山口4401)から県道92号線を北へ約1.6km進むと、宗像市野坂に入って最初の小集落がある。
 ここは、磯辺峠(通称:猫峠)越えの山間を通り抜け、県道が大きく左カーブするところで、県道右の谷あいに田畑があり、こちら側にも民家はあるが、多くは左の丘陵側に建っている。

 ・県道沿いに「塚の元」と書いた道標が建っているが、当集落名か。「塚」の呼称から丘陵、飯盛、墓、古墳などが思い浮かんだ。野坂古墳群の所在はここではなかったと思うが、この辺りにも古墳があったのだろうか(未調)。

1野坂大聖寺 ・集落の南東部から道幅の狭い集落内里道を30m入ると右側に天台宗「持明山大聖寺」がある。
(宗像市野坂759)。

 大聖寺の堂宇は、敷地(400屬らいか)のいっぱいに建っており、駐車場がなく、車で行ったので近くの民家に頼んで一時駐車させてもらった。

 ・大聖寺玄関前の左側に不動堂小祠があり、その左横に祈願者奉納の小不動明王像(定型)安置所がある。

 ・本堂に上堂して、「このお寺は、前からここにあったのですか」と尋ねたら「30年前に道路改修でここに移転した」と言われた。
 この辺りの県道は、磯辺峠に上る旧道の一部を拡張したのだろうか、もとは、その旧道に面して不動堂が建っていたのか。

 ・また「当寺は、宗像市内では唯一の天台宗のお寺で、御本尊様は不動明王です」と言われた。
 
 ・天台宗のお寺で不動明王像を本尊とするは珍しいのではないかと思い、須弥壇の前に内護摩壇もあり、当地は、天台系宝満山修験道春峰ルートの磯辺山の北麓にあり、もとは天台系修験の祈祷所だったのかと思ったりもしたが、不動明王は大日如来の化身でもあるから本尊としてもおかしくはないなどと思ってみたりしながら心経1巻と不動明王真言をあげた。
 そんな雑念をしながら勤行してためか、突然、本堂内に飛び込んできた蜂に纏わりつかれた。何度も手で払い除け、ますます集中できなくなり、なんともみっともない有様で、まるで帰れと言われているように思えた。
 そのために、堂内には本尊のほかに聖観世音菩薩や三宝荒神などが安置してあったような記憶はあるが、よく観ることもなく早々に引き上げたので明確には覚えていない。
 ・因みに、福岡県下の天台宗寺院は、近隣の清瀧寺(古賀市薦野)など合わせて43か寺ある。

 ・集落のある小丘陵の北西部の外れの県道沿いに「大聖寺の看板」が建っていた。「願掛け・厄除け不動尊 天台宗 持明山大聖寺 毎月二十八日護摩供養・荒神祭 納骨堂加入者募集中(宗派は問いません)」。
 気付かなかったが納骨堂もあったのか。

 ・なお、宗像市でほかにも大聖寺という名の寺院があったような気がしていたが、思い出したのは浄土宗鎮西派「西光山大聖院東照院」(池田1028)で、大聖寺ではなかった。

※つづく→「高野山真言宗大師教会梅里庵支部(宗像市野坂)」。

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2016年09月22日

箱崎遺跡発掘中の現場〜元寇防塁痕跡(推定)を見学(福岡市東区)

 昨日、久しぶりに九州大学(九大)箱崎キャンパスに行ってきた。まだ全学部の伊都キャンパス移転は済んでいないようで、移転していない個所の雰囲気は以前とさほど変わっていなかった。
 車で行ったので、まず小松門の守衛室で駐車料金300円を支払い(領収書なし?)、その後方の駐車場に駐車し、その横の里道を貝塚駅方向に歩き、右側の理系中門から再度大学構内に入る。

62北西側孔 九大埋蔵文化財調査室による箱崎遺跡発掘現場(元寇防塁推定遺跡)は、この先、構内道路の左側、中央図書館との間(福岡市東区箱崎6-10-1九大中央図書館前南地点)にあり、この直径20mほどの空き地(調査面積約120屬虜獣呂里覆)から石築(石積み)が発見されたのだ。


 現場内にはマンホールや排水管なども見えるので、過去、ここで建設工事がなされたときにも掘り返されていたことが伺えるが、よく石築遺構が残ったものだと思う。

66南東側孔 また、この石築の列に接続する部分に図書館や校舎、学内道路があるので、発掘部分は限定されているが、多分、それらの建設時に、元寇防塁遺跡の大部分が徹底的に破壊されたと思われる。
 そのようななかで、この空き地部分に石築遺構が残っていたことは偶然とも思えるほどの幸いであったと思う。

 この北東、鹿児島本線の向こう側(東側/松島けやき通りとの間)にある地蔵松原公園(東区筥松4-1・箱崎6-8)に『史蹟元寇防塁』(昭和六年)の石碑や、元寇防塁説明板が建っているが、同防塁の石築は埋め戻され、その痕跡を目で観ることはできない。

61北西側孔 今回発掘された石築遺跡は、もっと広範囲の発掘調査を行わないと、上記地蔵松原公園の元寇防塁遺跡に連なるものと断定できないものの、石築遺構の形態から観て元寇防塁であることはほぼ間違いないだろう。

 したがって、現在、東区内ではまったく目にすることのできない元寇防塁の痕跡の一部を、今回、目にすることができたことは実に幸運だった。


 この遺跡は、11月に発掘調査が終了したら、直ちに埋め戻されるらしいが、将来、構内のすべての建造物が撤去された後、構内敷地全体の発掘調査を行ってほしい、そして元寇防塁の築石遺構が残っている部分が発見されたときは、それらを含めて、国の指定史跡を受け、いつか人の目に見える形に整備して残してほしいものだと思う。

 特に箱崎地区には、元寇と関わる「敵國降伏」の扁額を有する筥崎宮が鎮座しており、筥崎宮とセットにしてこの地区に元寇防塁が残されることになったら大いに意義のあることだろう。
 ※別記参照→「山口八幡宮(4) 敵國降伏の扁額(宮若市山口)
 ※別記参照→「須惠宝満宮〜元寇で筥崎宮・極楽寺と係わり(須惠町)」。

 こんなことを考えながら九大キャンパス元寇防塁発掘現場を離れた。
 なお、かつて古墳時代の遺跡発掘には度々参加したが、鎌倉時代の遺跡発掘に係わったような記憶がなく、今回、その発掘現場を見学でき、また、自分なりに箱崎地区における元寇防塁に関する学習もでき、また、この辺りに鎌倉時代の海岸線があったとの推測もできて、すごく気持ちは満足。

 ※過去の箱崎地区元寇防塁発掘等に係わる資料。
 九大埋蔵文化財調査室の配布資料により、次のようなことが分かった。
 ・元寇防塁は、文永11(1274)年の蒙古襲来(文永の役)の後、鎌倉幕府の指示で博多湾岸(今津〜香椎)に築造されたが、そのうち箱崎地区(石堂川〜多々良川河口)の築石は薩摩国が担当した。
 ・中山平次郎(旧九州帝国大学医科大学教授)は、九大周辺の石築地について、九大医学部構内(グランド横)〜箱崎網屋の墓地〜九大旧工学部〜農学部構内〜地蔵松原墓地に到る微高地の上に立地されたと推定した。
 ・大正9(1920)年、武谷水城 氏による地蔵松原地区(全長約8m)の発掘調査により、石列高60.6~106.1僉∪侘麌60.6~72.7僂寮价曚鯣掘、石材は大きいもので幅84.8僉高さ30.3僉厚さ45.5僂△辰拭(上記の地蔵松原公園の遺跡だと思う)。
 ・福岡市教育委員会による平成5年の九州大学農学部演習農場発掘調査(地蔵松原防塁)、及び平成12年のJR鹿児島本線軌道下(元寇防塁跡第9次調査)で、元寇防塁の一部と考えられる石材の散布が確認された。


69青磁器片 ※発掘現場の片隅に、今回の調査で発掘されたものと思われる景徳鎮などの青磁器の小さな破片や土師器の小片が置いてあった。
 詳細は聞いていないが、元寇のあった鎌倉時代のものと思われる。

参考→「九州大学キャンパスに眠る埋蔵文化財」。

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2016年09月15日

猫塚伝説の「西福寺」(宗像市野坂)

 「猫塚公園 (宮若市山口)」(2016.4.14)に、追い出し猫伝説地(猫塚公園)から移転した「西福寺」(浄土宗)は、宗像市野坂にあると書いた。
 この西福寺について、「野坂堂ヶ鼻薬師堂へ(宗像市)」(2014.9.29)に「余力があれば、野坂公民館から近い野坂神社や西福寺を訪れるのもよい」と書いていたが、その訪問記を載せていなかったので、先(2015.9〜11頃)に巡ったときのことを思い出して、今回、周辺寺社を含めて書きとめる。

 (1) 西福寺の所在地

 ・西福寺の所在地は、福岡県宗像市野坂1859番地。旧:宗像郡野坂村廣宗(ヒロムネ)で、現在、南郷地区に属する。

1野坂西福寺前景 ・西福寺は、野坂公民館(宗像市野坂2302)左横の旧道(里道)を(南に)進み、旧道を分断した県道92号線を横切り、旧道を直進するとすぐ二股に分かれるが、右に進み、緩やかな坂を上ると右側にある。(※野坂公民館前から西福寺参道門まで500m)。なお、二股を左に進む道は、同じく県道に分断された野坂神社参道道のひとつ。

 ・猫塚公園(宮若市山口4401)からは、その右横の県道92号線を北へ、途中磯辺峠(通称:猫峠)を越え2.4km進むと、左(西)側の山手方(農地の先、旧道沿い)に「西福寺」の伽藍が見える。なお、右(東)方(農地の先)の丘陵下に野坂神社(次回記載予定)の石鳥居が見えている。

 ・西福寺は旧道の北側の小丘陵上にあり、その西の丘陵の下に、西福寺参拝者駐車場(小型車24台駐停車可)があり、その左方の入口に宗像市コミュニティバス(南郷地区)の「西福寺バス停」がある。

 ・参拝者駐車場の右側に、参道口を示す大きな石柱門(下記)が一対建っており、その左後ろにも5台分の駐車スペースがある。ここから右に上る坂は納骨堂と庫裡に行く道。
 石柱門から直進し右側にある石段を上り山門をくぐると石燈籠2対あり正面に本堂がある。周辺に鐘楼(梵鐘)、水子地蔵堂(水子地蔵尊)、親子地蔵尊、六地蔵尊、墓地に地蔵菩薩尊像や、相蓮社傅譽應山大徳上人像(下記)等がある。 
 ・なお、西福寺には、黒田如水書簡(後述)、隨波上人(後述)の書簡、仏陀涅槃図、善導大師坐像、籠などの寺宝が保管されているという。

 (2) 参道口の石柱門(御影石)

 ・参道口に御影石の大きな石柱門が一対(2基)建っている。
 ・右側の石柱門の表面には「井上山功徳院西福寺」とあり、裏面に「平成壱拾九年四月一日 年番御忌法要記念 二十六世誠誉代」の刻字がある。
 なお、西福寺は、浄土宗鎭西派妙圓寺末である(後述)。

2野坂西福寺門柱左 ・左側の石柱門の表面の刻字は、天下和順・日月清明・風雨以時・災勵不起・國豊民安・兵才無用・崇徳興仁・務修禮譲

 裏面には「平成壱拾九年四月一日 為先祖供養 施主田中庄六 千鶴代 宗像市上穴」、台石に「石工 宗像市(株)協和石材」とある。


 ・因みに「天下和順・日月清明…」は、「仏説無量寿経」にある御文である。 (災勵不起は災夘垉とも書く)。仏説無量寿経は、浄土宗や浄土真宗の根本経典である浄土三部経の一で、法蔵比丘(法蔵菩薩)が無量寿仏(阿弥陀如来)となるための48誓願を説いたお経である。

 ・私は、この一節を「徳、仁、礼節を弁えれば一切の災禍に巻き込まれることはない」と要約しているが、現代世界はどこかで戦禍があり、自然災害も続く、やはり徳などのない世界になってしまっているのだろうか。
 にもかかわらず、この経文を称える人は、きっと無量寿仏(阿弥陀如来)の御加護を賜ると思う。このときばかりは現世利益である。
 こんなことを考えながら修験道護摩供の護摩木に「天下泰平」と書くことがある。

 ・そういえば、以前、この冒頭の「天下和順」と「日月清明」の御文を草書体で刻した石柱門が浄土真宗本願寺派の藤原山浄蓮寺(宗像市冨士原)にあったことを思い出した。

 (3) 猫塚伝説と西福寺移転(?)

 ・ご住職がおられたので本堂に入れてもらい御本尊阿弥陀如来立像(金塗)を参拝した。
 ・ご住職に「このお寺は、猫塚伝説のお寺ですよね」と尋ねたら「はい」と答えられ、猫塚のお話はされなかったが、黒田如水(官兵衛)の書簡(下記)があることをお話しされた。突然の訪問に係わらず、親切に対応して頂いたご住職(二十六世誠誉師か)に感謝。

 ・「猫塚伝説」…上記「猫塚公園 (宮若市山口)」に記したことを要約する。
 「400年以上昔、当時山口村(猫塚伝説地)にあった西福寺の住職が、寺に住み着き乱暴する大ネズミの退治を飼い猫に頼み、猫は仲間の猫と共に大ネズミと戦い退治したが、自分たちも全身血まみれになって死んだので、憐れんだ和尚が寺内に猫塚を作った」ということ。
 なお、この大ネズミは、旅僧に化けて西福寺を訪れて同寺に住み着き乱暴狼藉を働いたという説もあるらしいが、いずれにしろ仏教寺院にとってこのような殺傷伝説はあまりよろしいものではなく疑わしい。

4猫塚 ・宮若市(旧若宮町)は、この伝説を町起しに活用、「宮若(若宮)追い出し猫」(箒を持った陶器猫の置物)を製作販売、伝説地に改めて小円墳状の猫塚を築き猫塚公園としたが、同地に西福寺はない。後に同地から移転した寺が現在の西福寺だというが、その時期など詳細は何も分からない。

 ・西福寺に残っている黒田如水の如水筑前入国時の書簡(年号なし、慶長6年<1601>のことか)を以て、既にそのとき、西福寺が山口村から野坂村に移っていた、ともいえない。
 ただし、天明4年(1784)成立の筑前國續風土記附録の宗像郡野坂村に西福寺が載っているので、その頃には確実に野坂にあったことになるが、猫塚や移転等に係る記事は一切ない。

 ・檀家のなかには代々宮若市在住の人たちがいるようだが、それが、かつて西福寺が伝説地に建っていたことを語っていることになるのだろうか。同地にあった某寺が野坂西福寺創建時に吸収されたということか。
 現在の西福寺にも猫塚伝説を物語るようなものはなく、ご住職も語られず、かつて西福寺が本当にその伝説地に建っていたものかどうかも分からない。伝説は伝説であり、それを史実として探ろうとすれば甚だ至難。

 (4) 黒田如水の書簡

 ・ご住職から「慶長5年(1600)黒田長政が国主(藩主)として豊前國から筑前國に移るとき、黒田如水(官兵衛孝高)は、長政とは別のルートを採って筑前入りしたが、如水は唐津街道を通り当寺(西福寺)で一泊、このときのお礼として如水から賜った書簡が残っている」という話を聞いた。

 ・この辺りを通っていた唐津街道(官道)のルートは、(赤間〜)原町〜大穂町〜畦町(〜青柳)で、西福寺のある野坂は、大穂町より南方にあるので、正規の唐津街道のルートからは外れている。なぜ如水が近くの原町宿ではなく、当寺に宿泊したのかは分からないが、ここを通る旧道は唐津街道の脇道だったのだろうか。
 そして、如水は、ここから磯辺峠(猫峠)を越えた後、見坂峠へ、或は、脇田から八木山越えをしたのだろうか、だから当地に泊まったのか、などと考えてみたりもしたが、如水が辿った筑前名島入城のコースを知らないので定かでない。

 ・今回の西福寺訪問はアポなしだったので、如水書簡の賞翫はしていないが、筑前國續風土記附録や同拾遺にその文面が載っている (下記)。

 「為音信、串柿一連・梅干六十・しやうか一鉢被指越、祝着候也、卯月九日 御書判 西福寺へ 猶々竹を能はやし可申候

 ・音信(いんしん・おんしん)とは、便りだが、その後に被指越(さしこ)とあるので、ここでは「西福寺を訪れたとき、音信物(串柿一連・梅干六十・生姜一鉢)を差し入れ頂きありがたい」という意味か。
 御書判とは、多分如水の押印か花押のことで、これによりこの書簡が如水の御書として認められているのだろう。
 なお、当時の境内に竹が生えていたのか、「なお、竹を能はやし可申候」と追伸しているので、その竹が気に入っていたのかもしれない。なお、現在の境内に竹庭や竹林の類があったかは覚えていない。

 ・卯月は陰暦4月だが、ここには卯月九日とあるのみで、年号の記載がない
 もし如水が長政と同じように慶長5年(1600)12月に福岡(名島城)に入ったのであれば、この卯月(4月)九日の日付との整合性がとれない。
 しかるに、如水が筑前入りしたのが、長政より遅れての慶長6年(1601)4月だったのであれば、この書簡の「卯月9日」とは適合する。
 若しくは、この書簡は、如水が筑前入りのときに西福寺で受けたもてなしに対するお礼状として慶長6年(1601)卯月9日付けで送られたものという考えもできる。

 ・また、或は、如水が筑前入りの後、旧宗像大宮司家が所領していた宗像郡を隠居領とし、宗像家の旧臣等の抑えとして江口村(宗像市江口)に本拠を構えたともいわれるので、その頃、野坂村の当寺を訪れたときに残した書簡ではないかと考えてみたりもしていた。

 どうもご住職からお話を伺った時点では、お話の内容を明確に把握しておらず、後で書簡内容を知り、このような戸惑いが生じてしまった。

 (5) 山号、開基など

 ・山号寺院名〜「井上山功徳院西福寺」(※上記の石柱門にその刻あり)。

3野坂西福寺門柱右 寺院名の命名由来は聞いていないが、山号の井上は、新羅系(物部系)を思わせる。院号の功徳(くどく)は、功徳善根ともいう仏教語で、善行(供養・布施等)を施すと如来の御利益(果報)を授かる、そのような想いがこもっているのかもしれない。また、西福は無量寿仏(阿弥陀如来)の西方浄土や福徳円満を思わせる。

 ・開基〜同上附録には「開基の年歴不詳」とあるが、宗像郡誌には、天正2年(1574)に近隣寺院を合併し移転建立したとある。

 ・また、同上拾遺には「天正の比接誉といふ僧開基す」とあり、その後に「接誉の弟子に隨波といふ僧有。後江戸に在て増上寺に住持たり。此人の書簡幷袈裟等を當寺に藏む。猶隨波上人の事績は緇徒傳に詳なれは爰に略す。」とある。
 緇徒傳(しとでん)とは、僧侶の伝記を記した書だと思うが、実際に観たことはない。しかるに、隨波上人とは、将軍徳川家ゆかりの浄土宗鎮西派大本山増上寺十八世の名僧定誉隨波(浪)上人のことだと思われる。言ってみれば、西福寺は、増上寺の名僧の師僧が開基した寺となるので、同宗派では全国で知られた存在だったと思う。

 ・墓地に、相蓮社傅譽應山大徳上人石像(宝暦5年<1755>9月10日寂)があるが、江戸中期の住職の墓所か。浄土宗の高僧には〇譽(誉)上人という尊称が多い。 

(6) 宗派、本寺・末寺など

 (a) 宗派、本寺(妙圓寺)等
 ・同上附録、拾遺に西福寺は「浄土宗鎮西派那珂郡住吉村妙圓寺に属す」とある。

 ・住吉村「妙圓寺」(現:福岡市博多区住吉2丁目17-17秋月山昌林院妙円寺)は、天文10年(1541)開基の浄土宗鎮西派寺院。元和4年(1618)歿の妙圓(黒田如水の妹)の菩提寺となって以後、妙圓寺(妙円寺)と称した。

 ・西福寺は、宗像大宮司氏貞時代の天正2年(1574)に妙圓寺(当時の寺名不詳)末として開創されたのだろうとは思うが、黒田長政の時世の元和4年(1618)、妙圓寺が妙圓(黒田如水の妹)の菩提寺となったので、妙圓寺をして藩主黒田家との縁がさらに深くなったと思われる。
 なお、慶長6年(1601)又は7年、妙圓(尾上安右衛門室/未亡人)は、その兄・如水の筑前入国に随行し、ともに西福寺に泊まったという話もあるようだ。

 (b) 妙圓寺の末寺
 〜以前本ブログ(正見行脚)に載せた宗像市内の浄土宗鎮西派寺院のうち、妙圓寺末の寺院。
 ★江口の「清凉山浄光寺」(通称:ふじ寺)。…寛永元年(1624)開基。
 ★武丸の「護念山浄香院眞光寺」。…寛永7年(1630)僧専譽開基。
 (c) 西福寺の末寺
 〜以前本ブログ(正見行脚)に載せた宗像市内の浄土宗鎮西派寺院のうち、西福寺末の寺院。
 ★王丸の「育王山種積院善徳寺」は西福寺末。…正保三年(1646) 三譽再建開基。…三譽は当時の西福寺住職か。
 (d) 知恩院末
 〜以前本ブログ(正見行脚)に載せた宗像市内の浄土宗鎮西派総本山知恩院末の寺院。
 ★陵厳寺の「蘿岳山龍泉院正法寺」は、総本山知恩院末。天正年中(1573~1591)に中興した中興第一世の接誉上人西福寺の開基僧である。…なお附録、拾遺にある天文年中(1532~1554)中興との由緒は、天正年中の間違いだと思う。
 ★赤間の「受嶽山圓通院法然寺」は、総本山知恩院末。…天正5年(1577)慶春開基。
 ★池田の「西光山大聖院東照院」…池田垂水の畑石原の山中に「東照院開祖之地」があり、開基西光上人之墓がある。

 ・西福寺を出るとき、ご住職に、野坂には修験者も多いと言われた。具体的なことは聞いていなかったが、訪れた近くの僧坊は次回。

 ※つづく→「天台宗大聖寺にて(宗像市野坂)」。

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2016年09月07日

雑記〜化生の海・石橋杏奈・津屋崎人形

 (1) 石橋杏奈

 今夏(2016)訪れた遠賀郡岡垣町内の数か所のことをブログに書いていたとき、ふと女優・石橋杏奈さんが岡垣町出身だったことを思い出した。

石橋杏奈 石橋杏奈さんといえば、美しい容姿の水着写真集でも知られているが、小・中学生時代を、響灘(三里松原や新松原海岸・波津海岸などが続く)に面した岡垣町で過ごしたというので、きっと泳ぎも上手、だから水着姿も似合うだろう。

※画像:石橋杏奈さん(出典プリ画像)

 というよりは、石橋杏奈さんで思い出したのは、テレビドラマ浅見光彦シリーズ(沢村一樹主演)[化生の海](2011.9.19)のマドンナだった。
 当時の石橋杏奈さんの清楚な印象が残っている。

 たまたま先日(2016.9.5)、読売新聞(地域)「匠のチカラ」に載っていた「津尾崎人形(福津市)」の記事を観ていて、確かドラマ「化生の海」のキーポイントになっていたのが「津屋崎人形」だったことを思い出した。

 (2) 津屋崎人形

読売・津屋崎人形 ところで上記新聞掲載の匠は、筑前津屋崎人形巧房七代目原田誠さん(64)。
 この店の「モマ笛」(フクローをモチーフにした縁起物)は、全国バージョンの人気商品とか。

 以前、同店を訪れたとき、匠に「神功皇后の人形はありますか」と尋ねたら「土型はあると思うが現物はありません」と言われたことがあった。
 どこか(何か)で、津屋崎人形で作った神功皇后(古いもの)を観た記憶があり、当時、現物があれば欲しくて、口に出たのだと思う。

 土型とは土を固めて作った表裏2枚の形で、1000種類はあるというから、まさに重要文化財並で、そのなかから今も売れる作品を選ぶのは大変なことだろう。新しい作品は石膏型で作っているのだろうか。

津屋崎「潮の音」 因みに車で津屋崎を通り抜けるとき、国道495号沿い(新浜山児童公園前)に立っている彫刻「潮の音」が目に入るが、製作者の原田彪(たけし)さんは、もう一軒の津屋崎人形店「原田半蔵人形店」六代目で、日展入選の彫刻家でもあるという。

 なお、津屋崎「潮湯の里夕陽館」には時々行くが、最近、津屋崎人形店などがある津屋崎百軒散策からは遠ざかっている。また津屋崎の古民家再生など街並復興を企図されていた山口覚さんらとも一別以来会っていない。

別記参照
 →浅見光彦「化生の海」(TBS)に津屋崎人形が(2011.9.19)
 →津屋崎人形店を見学・かわいい「モマ笛」 (2009.8.31)
 →津屋崎ブランチ〜小冊子「津屋崎の四季」(2011.3.11)

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2016年09月03日

在自唐坊跡展示館(読売新聞記事を読んでいて)

 先日「読売新聞(地域)」に載っていた「在自唐坊(あらじとうぼう)跡展示館」の記事を読んでいて、以前、本ブログで「在自唐坊跡展示館」について書いていたことを思い出した。

 ※別記→「在自潟・万葉歌碑〜在自山(14)」(2011.9.29)のなかに記していた「在自唐坊跡展示館」。

 …「有千潟 荒司村の北、津屋崎の間、むかしはがたなり。是を有千潟(ありちがた)と云。近年田となる。其間にむかしは唐坊と云宿あり。また柳の宿とも云。荒司の枝村也。是むかし上方へ行大道也しと云。延寶元年唐坊の民家をことごとく除きて、荒司村に加ふ。今は宿なし。(筑前國續風土記)」…荒司村は現在の福津市在自。
 「唐坊は、もとは日宋貿易(12世紀頃)における中国人(宋人のことも唐人と称した)等の居住地(宿泊地を唐坊と称したものか)として作られた所で、当地には柳の木々が植えられていたのでか、柳の宿ともいい、柳宿村とも称した。金刀比羅神社に合祀された唐坊八幡宮も、もとは、この唐坊(柳の宿)地区にあったものだろう。現在、発掘された唐坊の一部が在自唐坊跡遺跡展示館(津屋崎小学校校舎内)に保存されている。(見学は平日、福津市津屋崎教育総務課文化財係に事前問合せ要)。」


 ※読売新聞(地域版/2016.9.1)に載っていた「在自唐坊跡展示館」は、「スクールMemory福津市立津屋崎小学校」の記事内に記されていたものだが、分かりやすいのでその一部を転記(下記)しておく。

1 「津屋崎小の南校舎1階にある在自唐坊跡展示館は、全国的にも珍しい小学校と一体化した文化施設だ。小学校がある場所は、平安時代から鎌倉時代にかけて、貿易に携わった中国人が居住した唐坊跡。展示館には、この一帯に広がる在自西ノ跡遺跡から出土した中国製陶磁器などが並ぶ。

 …開設のきっかけは、南校舎の建て替えに伴い、2002年から、当時の津屋崎町教委が敷地内で行った文化財調査だった。発掘で、溝や柱を立てた穴のほか、儀式などで使った器を捨てた土器だまり、井戸の跡などを確認。
 その後、遺跡は埋め戻されたが、町は貴重な遺跡をいつでも見学できるようにするために展示館の設置を決め、04年4月、南校舎の完成に合わせて開館した。
 展示館では、…調査時に現れた遺跡の地表面を再現したレプリカなどの備えており、古代の津屋崎古墳群や、製塩などで栄えた江戸時代以降の歴史も、史料や映像で知ることができる。…館内には、新原・奴山古墳群から出土した鉄製のこぎりなどもある。…」。


 ※そういえば、上記記事内にある製塩や津屋崎古墳群、新原・奴山古墳群等に関連することも書いたことがあった(下記など)が、考えてみると福津市探訪記は書き残しのままなっているものが多い。。
 →「旧勝浦塩田の製塩神 年毛神社(5)
 →「塩浜公民館前の庚申碑と札所(福津市勝浦塩浜)」(2009.10.25)
 →「旧勝浦塩田を仕切る塩浜口から大石下へ(福津市)」(2012.8.10)
 →「須多田古墳群など(福津市)」(2012.8.12)
 →「大石岡ノ谷古墳群〜椎ヶ元観音堂(福津市) 」(2012.9.25)
 →「酒多神社と旧縫殿神社(新原・奴山22号墳)福津市」(2012.5.31)

keitokuchin at 23:26|PermalinkComments(0)TrackBack(0)