2016年11月

2016年11月29日

放生池・御手洗橋 (高良山麓巡り15)

 ※前回「高樹神社(高良山麓巡り14)」からつづく。

1放生池 高樹神社の前、県道を挟んで対面にある瓢箪形の池が「放生池」(ほうじょういけ)で、高樹神社前から化粧石段を数段下ったところにある石橋(太鼓橋)が県指定文化財の「御手洗橋」(みたらいばし)である。
(以下、便宜上御手洗橋より山側の池を南池、麓側を北池と書く)。


 ※放生池所在地:福岡県久留米市御井町260-1。

  (1) 放生とは

 「放生」とは「捕らえた生き物を逃がしてやること。仏教の善行の一。」(大辞林)で、仏教の「殺生戒」(戒律)と係わるもの。
 これを仏教行事として行うのが放生会だが、神仏習合の時代に神社にも取り入れられ、福岡県では筥崎宮の放生会が有名。

 当放生池で放生会が営まれたかは定かでないが、久留米藩がこの池を築造した安永年間(1772~1780)の高良山は神仏習合の霊場で、神仏の殺生禁断の霊地に相応しい池として「放生池」の名を選び、この谷あいから二の鳥居に向かう参拝者への戒めとし、合せて登山道に彩を添え憩いの場としたのかもしれない。

 (2) 高良神御手洗の井戸(泉)

2放生池玉垣・楓 「放生池」の元の姿は、高良神が御手を洗ったという謂れがある「高良神御手洗の井戸」(泉・清水)で、北池南岸にある玉垣がその名残りだという。(※画像)
 「御手洗橋」は、この謂れによる命名で、また放生池は、この井戸を源泉として築造されたので「御手洗池」と呼ぶこともある。


 前回の高樹神社の項にも記したが、高良神が手を洗ったのは、地主神の高牟礼神をだまして高良山上に駆け上ったときのことではないかと思う。
 ただ、当所は、高樹神社の真下にあるので、むしろ高牟礼神が手を洗う井戸であったと考えた方が分かりやすいようにも思える。 
 いずれにしろ、放生池ができる前は、高良山に上る人たちの手洗いの井戸であったことだろう。

 (3) 名勝地(池水、庭園)

 昔の放生池は、蛍が乱れ飛ぶほどに池の水が澄む清水の池だったといい、放生池に架かる御手洗橋には「みだれ橋」という呼称もある。
 放生池は、瓢箪形の池に架かる御手洗橋を通り抜ける庭園で、回遊式庭園ではないが、「高良山十景の一・御手洗の蛍」(※下記)として知られる名勝地だったという。

 蛍が乱れ飛んでいた夜のみだれ橋の様を詠んだ次の和歌が現地案内板に載せてある。作者の日野中納言(中紊言)弘資弘資(?〜1687)は、放生池築造前の人なので紛らわしいが、ここは高良山参拝道で、ここには放生池築造前から御手洗橋の前身である手洗小橋(みだれ橋)があったことが伺える。

  「くるゝ夜はすすしくかは風に
   みだれ橋てふ名もくちすして」(日野中納言弘資)  

 また、御井町誌には次の歌なども載っている。
  「千古霊神垂降日 渓流手洗小橋吊
   丹良今秉昏衢燭 分与山僧照夜行」(寂源)
  「暮るるより涼しくみだれ橋の 
   志た行く水にかげをうつして」(寂源)

 寂源(1630〜1696)は、「高良山十景を選定したことで知られる第五十世座主か。
 (※因みに「高良山十景」とは、ここでは詳細は記せないが、「竹楼の春望」「吉見の満花」「御手洗の蛍」「朝妻の清水」「青天の秋月」「中谷の紅葉」「上濡山の霙雨」「鷲尾の素雪」「高隆の晩鐘」「玉垂の古松」である)。

 いずれも放生池ができる前の歌だから、当時、既に手洗井戸(泉・池・渓流)がある谷あいの当所に「みだれ橋」ともいわれる「手洗小橋」があったことになる。どのような橋(土橋、木橋、竹組橋、吊り橋?)だったかは分からないが、これが後の放生池の「御手洗橋」(土橋→石橋)に変わるのだろう。

 或は、夏には子供たちのプールとしても利用されるほどに澄んでいた池の清水は、戦後になって徐々に濁っていったらしいが、別に水源が濁っているわけではないと思うので、高良山の車道建設など開発にともなう汚水が池の上方の谷あいから流れ込むようになり泥が溜まったのだろうか。

 しかるに、池の周囲を彩っている植木ほかの手入れは行き届いており、桜、つつじ、菖蒲、銀杏(黄葉)、楓(紅葉)等々、季節、季節の明媚な風景を醸しており、蛍はいないが今も名勝であることには違いない。

3放生池銀杏・廃屋 また、池のなかを悠々と泳いでいるの姿を目にすることができる。鯉のほかの魚もいると思うが、もちろん、ここは放生池、魚釣りは禁止である。

 私たちが訪れたとき、銀杏樹がある北庭の岸辺で池の鯉に餌やりをしている親子がいたが、餌はどこで買っているのだろう。

 以前は、この前にある茶屋店舗(今は廃屋となっている木造瓦葺2階建て家屋)で餌を売っていたような記憶もあるが、当地に立ち寄る客が激減し店じまいしたのだろうか。県道750号(通称旧道)の東側〜放生池の東側に車道(通称新道バイパス)ができて以降、ほとんどの観光・参拝客は、この新道を通って車で高良神社に直行するので、現在、放生池に立ち寄る客は少ない。
 また、北池の北西部の前(角地)にある金子商店(たばこ店)も閉まっていた。
 なお、廃屋は、このほか旧道沿いの故藤崎常蔵氏之碑の下方にもあった。またその並びには新しい家もあり新旧入れ替わりもあっているのかもしれない。

 (4) 中の島、厳島神社

4放生池・厳島神社 北池の「中の島」に鎮座している石祠は、水神の「厳島神社」(市杵島姫神)である。(※画像)

 この「中の島」は、今は「島」になっておらず、その後ろ(東側)は、(ガードレールで区切られてはいるが) 新道(車道)と地続きなっている。


 多分、新道ができたとき、この部分の池が埋め立てられたのではないのかと思う。現在、そこに「高樹神社前バス停」(ここを通るバスなどあるのだろうか?)があるが、対面の高樹神社の石段下にあった参道や社殿横の崖などもこの新道建設のときに削り取られたのではないかと思う。
 なお、南池にある「中の島」は原形のままで、こちらには石祠などはない。

 (5) 御手洗橋

5放生池御手洗橋欄干 「御手洗橋」は、もとは安永年間(1772~1780)久留米藩が放生池を築造したとき、その中央部に架けた橋で、もとは「土橋」だったという。

 その後、欄干の石柱に「享和三年癸亥九月吉祥」の線刻があるように、享和3年(1803)9月に現在の「石橋」に架け替えられた。

 なお、欄干の一部に剥げたが残っているので、本来は、朱塗りの欄干で、つど塗り替えられてきたのではないかとも思うが、今は塗ってない。(※画像)


6放生池御手洗橋欄干宝珠 ただ、御手洗橋の欄干柱の上に乗っている「擬宝珠」(ネギ花形の装飾)には、、「安永二癸巳年六月吉祥」(1773)」の線刻がある。(※画像)
 久留米藩御用鋳物師の植木家の作だというが、安永の年号から推して、これは、もとの「土橋」に取り付けてあったものだと思う。

 そして、土橋が石橋に架け替えられたとき、改めて「石橋」に付け替えたのだろう。
 なお、久留米藩御用鋳物師植木家の作品といわれるものに、福聚寺(久留米市合川町)の唐銅製燈籠(福岡県文化財)があるが、植木家の詳細は未調。

7放生池御手洗橋脚 御手洗橋は長さ11m、幅4.2m、5径間桁橋を有し、緩やかな半円形の太鼓橋(反り橋)で、福岡県指定文化財である。(※画像)

 御手洗橋の名称の由来は、上記(2)に記したのように、高良神がここにあった井戸(泉)で手を洗って山上に駆け上がったとという伝承に基づいて付けたものである。

 北池の南岸にある玉垣がその井戸の名残りだという。

8放生池御手洗橋みだれ橋 また、上記(3)に記したように、放生池ができる以前から、この谷あいにあった「手洗小橋」は「みだれ橋」とも呼ばれていたように、昔は、蛍の季節にここで乱れ飛ぶ蛍の様が美しく、また放生池築造後も、瓢箪形の池の中央に架かる「御手洗橋」で観る蛍の乱れ飛ぶさまが美しかったようだ。

 御手洗橋は、県道750号線(通称旧道)上にあるが、車での通行はできない(橋口に通行止めポールが建っている)。

 なお、旧道を車で通るときは、北池の北側の道を抜けることになるが、現在、旧道を通る車はほとんどない。
 私たちが旧道を一の鳥居方向に歩いているとき、若い人が運転する車が入ってきたが、池の北側の通り抜けが分からなかったようですぐに引き返していた。
 因みに、放生池の水は、この北池の北側の道の中ほどを横切って流出する(磐井川の起点)。この幅の狭い水路が「磐井川」で、旗崎の溜池に到る。
 (※別記参照→「磐井川起点から旗崎・磐井の清水・応永地蔵(高良山麓巡り21)」)

※つづく→「仙兒軾 (高良山麓巡り16)」。

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2016年11月24日

高樹神社 (高良山麓巡り14)

 前回「高良山放生池周辺を歩く(高良山麓巡り13)」からつづく。

(1) 高樹神社の鎮座地

 ・「高樹神社」は、高良大社一の鳥居から高良山(高良大社)に上る車道(福岡県道750号御井諏訪野線)に面した左側の崖上(丘陵斜面の末端部の一部を削って平らにした場所)に鎮座している。
 (※鎮座地:福岡県久留米市御井町神篭石121)。

1高樹社上・下鳥居拝殿 ・県道から、道路に面して左側に建っている「石段下の鳥居(「高樹神社」の額束あり)」に続く「石段」と「石段上の鳥居(額束は欠落)」及び「木造銅板葺拝殿」(木造、赤屋根)が見えるのですぐ分かる。(※画像)




 しかし、同鎮座地は、高良山(高良神社)の北西山稜の斜面の縁に当たる部分で、その境内は、かつて高良山全山を領有した由緒のある地主神の鎮座地とは思えないほど狭い。
 ※高良大社一の鳥居の先の二股から左のバイパス(通称新道)を通ると500m。右の本線(通称旧道)を通ると450mだが、車の場合は、御手洗橋(放生池)を車で通り抜けることはできないので、放生池の手前を左折すること。

2高樹社石段下県道 ・ただ、県道(車道)は、高樹神社鎮座地の右側にある崖下を右に回り込むようにして上っているので、多分、この部分(谷あい)に立ち塞がるように出っ張っていた丘陵の縁を削り取って県道(車道)を通したものではないかと思える。




 したがって、それ以前の登山道は、高樹神社境内を通り抜けるようになっていたのではないかとも思え、高良山登山口を守護する神としての権威を保っていたのだろう。

(2) 高良山(高牟礼山)の地主神

3高樹社神殿 ・高樹神社の祭神(高樹神)「高皇産霊神(たかぎむすびのかみ)」は、古くは「高牟礼神(たかむれのかみ)」(高牟礼大明神・高牟礼権現) と称された。

 この高牟礼神がもと高良山上に鎮座していたので、「高良山」には「高牟礼山」の別名があった。


 この別名は、もともとの高良山(高牟礼山)の地主神が高牟礼神であったことを物語っている。

 ・この高牟礼神が山上から西山麓の当地に下ったことについて、高牟礼神は、天降りして来た高良神(高良玉垂命/高羅神か)に、一夜の宿として山上鎮座地を貸したら、高良神が山の中腹に神籠石(列石)を並べた結界を作ったので、山上に戻れなくなり、仕方なく現在地に鎮座したという、荒唐無稽とも思えるような壮大な伝説がある。

 親切が仇というのか、どうも高牟礼神はお人好しで最初から高良神に騙されていた、今でいう詐欺にあったということか。

 ・高良玉垂宮神秘書には次のようなことが記されている。
 高牟礼神は、瀬戸坂(※昔の高樹神社の前には急勾配の坂があった)で、天照大神の命令でこの山に登り筑紫国を統治すると言ってやって来た高良神に立ちふさがり、その命令が本当のことなら証拠を見せろと迫った。
 すると、高良神は「よく見とけ」というなり、神馬に一鞭入れて瞬く間に頂上に飛び上り占拠したため、高牟礼神は、山下の現在地に遷った。

 ・ここに「神籠石」は出てこないが、「日本の神々神社と聖地(白水社)」に次の文がある。
 高良記に「地主神高牟礼は、遷幸して来た本社祭神を嫌って、しばらく控えているようにとおおせられた。本社祭神は二つ返事で承知してみせられた。しかし、疑った高牟礼は、証文を取ろうとされる。それでは、と、本社祭神は、神籠石の上に神馬の蹄の跡型をつけて高牟礼に渡された。お人好しの高牟礼は疑いを晴らしたが、本社祭神はその夜のうちに八葉の石畳を四方に築き、高牟礼を外に出しておしまいになった。」とある。

 ・現在、高良大社二の鳥居の上方に伝説を裏付けるような「馬蹄石」なるものがあり、「高良の神が神馬に乗ってひと飛びした馬の後ろ足の蹄の跡と伝えられ、登山の時この石に足を入れると足が軽くなると言われています」との説明されている。
 なお、上記では、神籠石=馬蹄石となるが、一般的には八葉の石畳が神籠石とされている。

 ・因みに、高樹神社の前にある放生池の元の姿は、高良神が山上に駆け上るときに御手を洗ったといういわれのある井戸で、南の岸辺にある玉垣がその名残り。放生池に架かる石橋を御手洗橋というのはそのいわれに基づく命名という。(※次回別記)

(3) 筑紫君磐井の伝承

 ・地主神高牟礼神の遷宮伝説は、何らかの政変を暗示しているようにも思えるが、史料もなく、私は、勝手に次のような空想をしていた。

 ・古代政変のひとつに527年(継体21年)、新羅と組んだ筑紫国造磐井が、三井郡で百済支援のヤマト軍と戦って破れ、英彦山に逃亡し消息を絶ったという磐井の乱がある。
 この戦い以前に磐井は高良山を基幹城とすべく、山上鎮座の高牟礼神を北西山麓に遷し登山口の守護神とし、山上に武神として高羅玉足神(鉄器神)を祀り、山稜中腹に列石(神籠石)を張り巡らせる朝鮮式山城を設けた。(私の空想で根拠はない)。

 ・神籠石は、一般的には663年(天智2年) 8月の白村江の戦いでの敗戦後に、ヤマトが新羅の進攻に対する備えとして設けたと言われているが、記紀に記載がなく、それ以前に筑紫王朝(九州王朝)が設けたとも考えられる。

 ・磐井は、五王「武」の系譜を継ぐ筑紫君磐井(筑紫・九州王朝の君)であるとの説があり、決して筑紫国造ではなく、磐井の反乱というのは不適切で、また、新羅と組んだとの根拠も曖昧である。

 ・磐井が高良山と係わった証として、当地(御井町)には御井小学校(薩摩・坊津街道の府中宿本陣跡)の近くに「磐井の乱終息地」と伝わる伝承地がある。磐井が討ち死にしたとも殺害されたともいう磐井死亡伝承地で、磐井を供養する「磐井の応永地蔵」や「磐井清水(ホウルイの清水・井戸)」(高良三泉[三井]の一)がある。また、高樹神社前の放生池(いわれの泉)から流出する川を「磐井川」という。

 ・磐井の名から神籠石(磐)や磐井清水の井戸(井)が思い浮かぶが、それはともかく高樹神社の近くに上記磐井の名が残っていることを考えると、磐井がヤマト軍を迎えて戦ったのは、高樹神社に到る険しい旧瀬戸坂だったかもしれない。
 今も瀬戸坂を挟むように、高樹神社の西側(放生池の西、水明荘敷地内)や北東側に小丘陵(御井寺の裏山一帯)があるので、ここに磐井が出城を作っていたのかもしれない。現実に同地を磐井城跡とする伝承もあり、であれば高樹神社は、まさに磐井と高良山口の守護神であったことになる。。

 ・なお、磐井が英彦山に逃亡したというのは、英彦山が筑紫王朝の聖地であったからで、英彦山は、その後、長きにわたりヤマトに屈服しなかった。
 また、高良神社には、筑紫(九州)王朝の年号が分かる史料があると聞いたことがあり、高良山もまた筑紫王朝と係わりがあったことが伺える。

(4) 英彦山高木神社との係わり

 ・その聖地・英彦山(田川郡添田町)にも、高皇産霊神を祀る「産霊(むすび)神社」、高木神社(豊前坊)がある。
 英彦山山頂の英彦山神宮の祭神は天忍骨尊だが、山頂直下鎮座の産霊神社の祭神高皇産霊神が本来の祭神だったとの説があり、ここでもなぜか高皇産霊神が山上本宮の地位を譲っている。

 ・なお、英彦山について、かつて彦山(英彦山)座主黒川御所(黒川院)があった宮園集落(朝倉市黒川)では、本来の英彦山は当地で、高皇産霊神を祀り、今に古式神事を伝えている黒川高木神社(朝倉市黒川宮園3328)が本宮であると言っている。
 黒川御所は、正慶2年(1333)彦山(英彦山)座主として九州に下向した後伏見天皇第六皇子長助(助有)法親王が黒川宮園の地に設け、代々の座主が居住し、黒川院とも呼ばれたが、元和9年(1623)、福岡藩二代黒田忠之に攻められて壊滅した。

 ・高木神社(高良山では高樹神社)の社名は、祭神「高皇産霊神」(たかぎむすびのかみ)の「たかぎ」に「高木(高樹)」(たかぎ)の文字を当てて付けたものだと思うが、明治政府による修験道廃止以前は大行事社と言い、かつての英彦山神領には英彦山四十八大行事社が存在していた。
 現在、30社の所在地が分かっているが、久留米市内では高樹神社のほかに田主丸高木神社(久留米市田主丸町豊城1088)がある。
 ※参照→「黒川高木神社にて(朝倉市黒川宮園)
 ※参照→「佐田高木神社へ(4)菊紋石柱・英彦山四十八大行事社(朝倉市)

 ・なお、上記筑紫王朝・筑紫君磐井、高木(高樹)神社(高良山での奉祀は倭国紀氏の系譜か)のほかにも、英彦山と高良山との間には、天台系修験道…英彦山修験道・高良山修験道の存在や、高良山の杉は英彦山の杉を移植したものという伝承などがある。ひょとして高樹神社の樹は英彦山杉か。
 明治維新によって神仏分離や修験道廃止がなされ、高良山中腹の座主寺院御井寺は破壊された。明治11年、高樹神社の下方に天台宗御井寺(※別記予定)が再建された。これも高良山における政変の一つか。

(5) 高樹神社の由緒案内板

・高樹神社境内に建っている由緒案内板の内容を下記に転記しておく。

4高樹社案内板位置 「高樹神社
 祭神は高皇産霊神(たかみむすびのかみ)(造化の三神の一)。
 古くは「高牟礼(たかむれ)権現」と称し、高良山の地主神と伝えられる。
 この神社はいわゆる国史現在社(正史=六国史に名の現れる神社)で、「三代実録」元慶二年(八七八)十一月十三日の条に「筑後国高樹神ニ従五位上ヲ授ク」とあり、やがて正五位下に進んだことが天慶七年(九四三)の「筑後国内神名帳」によって知られる。
 もと地主神として山上に鎮座していたが、高良の神に一夜の宿を貸したところ、高良の神が神籠石を築いて結界(区画を定め出入りを禁ずること)の地としたため山上にもどれず、ここに鎮座するに至ったという伝説が、高良大社の古縁起に見えている。高良山の別名を「高牟礼山」(たかむれやま)と称するのもこの神の名に因むものである。
 明治六年(一八七三)三月十四日郷社に列し、大正十一年(一九二二)十一月二十四日神饌幣帛料供進(しんせんへいはくりょうぐしん)神社に指定された。例祭日 十二月十三日」。

(6) 猿田彦碑

5高樹社猿田彦碑 ・道路に面して建っている鳥居の左手前(崖下)に建っている大きな自然石の石碑に「猿田彦」の刻字がかすかに見える。(※画像)
 この猿田彦碑の前で、かつて歯痛のある人が祈願礼拝すると歯痛が治まるという民間信仰があったらしい。今は、歯科医院へ直行した方がよいが。


(7) 鳥居・水盤など

6高樹社口 ・上記「猿田彦碑」の横に、「水盤」(手水鉢)、「旧鳥居の残骸」、ほかに自然石碑2本等がある。(※画像)
 県道に面して、石段下「鳥居」の前に猿田彦碑や水盤等が並んでいるのは、かつてこの鳥居の前に消滅した参道があったからではないのか。

 であれば、ここに置いてある旧鳥居の残骸は、かつてその参道口に建っていたと思われる旧「高樹神社一の鳥居」の残骸なのかもしれず、県道が開通したときに参道や旧鳥居が削り取られたのか(未確認)。

7高樹社石段下碑 石段下の鳥居の右前に安政6年の小碑(石畳寄進碑か)がある。(※画像)
 石段横(外側)に幟立石一対+1(残骸か)ある。
 石段の両側に沿って「玉垣」があり、石段の上にも鳥居が建っている。

 「水盤」(手水鉢)…安政六子年(1859)三月
 「石段下の鳥居」(高樹神社額束)…大正十四年(1925)十一月
 「小碑」(石畳寄進碑か)…天保十四癸卯歳(1843)
 「玉垣」(社殿修繕寄進者碑)…昭和三年(1928)七月
 「石段上の鳥居」(額束欠落)…文化十五戊寅年(1818)三月

(8) 狛犬(久留米市指定民俗文化財)

8高樹社狛犬 ・高樹神社拝殿の前に一対の小型石造狛犬がいる。

 この二つの狛犬は、享保9年(1724)、山北村(現御井町)の石工利平が刻したもので狛犬の祖型に近いとも言える珍しいものだという。
 (※画像)


9高樹社狛犬 ・右側の阿形狛犬の方の台石に辛うじて刻年銘「享保九年龍次甲辰五月廿四日」が見え貴重。
 これにより、筑後地方に残存している狛犬のなかで最も古いものであることが分かり、久留米市指定民俗文化財となっているが、全体的に風化防止を施してほしいと思う。


 ・二つとも目線より下にある小さなもので、神社の狛犬を見下ろすように眺めるのも珍しいが、眺めていて、どことなくくつろいでおっとりした感じがして、話しかけているような表情は見飽きしない。

(9) 石灯篭(常夜燈)、寄付碑

10高樹社神殿横 ・狛犬の後ろに石灯篭が一対建っている(※(10)の画像)。 右側…文化十一甲戌年(1814)十月
    左側…文化十二亥年1815()十二月。

 ・神殿の両横にも一部破損のある石灯篭が一対ある(※左の画像は右横のもの)。…宝暦六丙子歳(1756)九月。


 ・拝殿の左前方(崖前)に建っている大きな自然石碑は「神殿屋根銅板石鳥居壱基・石玉垣弐拾弐間寄付碑」のようだが読めない。

(10) 社殿

11高樹社拝殿前部 ・高樹神社の社殿(拝殿、幣殿、神殿)は、木造銅板葺で、縦長型。
 ・神殿(※(2)の画像)の銅板葺き屋根は緑色に染まっているが、拝殿(※左の画像)の方はまだ赤いので近年葺き替えられたものだろうか。
 ・拝殿の扉は施錠してあったので、内部(絵馬、神額など)の様子は分からない。

 ・社殿は、左側は崖面で塞がれ、また、右側は崖の上(崖下は県道)で、この間にある狭い敷地内に、ぎりぎりに建っている。
 ・なお、社殿の右横を通り抜けると、県道(車道)に出るので、右側の崖となっている部分が削られて県道(車道)が開通する以前は、この境内を徒歩で通り抜け高良山上(高良大社)に向かっていたのだろうか。

(11) 社日神社碑

12高樹社社日神社碑 ・高樹神社拝殿の左側の崖面に付いている荒れた小さな坂道を左に上ると、林のなかに径を塞ぐように木造建物が建っている。この建物は壁面がふさがれており、何なのかは分からない。

 ・その左横を通り抜けると、建物の前に空き地があり、その一角に注連縄が巻かれた「社日神社」碑が建っている(※画像)。明治四十未年(1907)三月同志会再建。

 ・仏教でいう「彼岸の中日」を神道では「社日」といい、「社日神社」は、彼岸供養を行う神社であり、高良山における神仏習合の歴史と係わりのある神社だったのかもしれない。
 なお、現在「社日」は、それぞれ春分の日、秋分の日に最も近い戊の日とされているようだ。

 ※つづく→「放生池・御手洗橋(高良山麓巡り15)」。

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2016年11月18日

高良山放生池の周辺を散策(高良山麓巡り13)

放生池 久留米市で若干時間があったので、高良山麓の高樹神社、放生池(※画像)、御井寺、水明荘周辺を散策した(11/13のこと)。

 以前「高良山麓巡り(1) 〜〜
(12)」を記したので、本稿は、その続きということにして「高良山麓巡り(13)~」とした。


 ・出発点:前回は、西鉄・御井町バス停から歩いたが、今回は、高樹神社の手前の、琴平神社・吉見嶽入口三叉路の左手前の車道脇に駐車(※駐車スペースがあるが、駐車場ではないと思う)して、ゆっくり1時間半かけて周辺を散策した。なお、このあたりで駐車できる場所は、高良大社専用登拝者駐車場[常時開いていない]、御井寺駐車場、高良大社二の鳥居前道路脇などか。

 散策(見学)順路は、次のとおり。

 ・高樹神社(猿田彦碑、石鳥居2、狛犬、社日神社碑)
 →放生池(御手洗橋、厳島神社)仙涯詩碑
 →旧道(福岡県道750号線)…四町碑旧:新清水観音堂等の旧石段参道口(参道の通行不可)、水明荘裏門
 →厨家跡地碑(高良大社専用登拝者駐車場)→故藤崎常蔵之碑参町碑
 →貮町碑・御井寺参道口(不動明王石坐像、磐井川小橋)
  ⇔御井寺駐車場(一角に薬師如来小堂あり)
  ⇔天台宗御井寺(高良天狗石坐像蝉丸の石塔)
 →御井校区歴史観光ボランティア案内所
 →新・旧道合流点⇔高良大社大鳥居(一の鳥居)、大石燈籠、標石起点碑磐井の清水・応永地蔵
 →水明荘正門前庭(水明荘駐車場周辺)散策
 →放生池の北側(磐井川の起点あり)から新道に出て右折
 (※虚空蔵菩薩参道に入ったが、参道石段の途中で通行止めとなっていた)
 →上記出発点に戻る
 
 ※上記散策各所の見学記は、次回以降に別記する。

 (※追記) 福岡県道750号御井諏訪野線は、高良大社一の鳥居の先(九州自動車道ガード下の少し先)にある二股を右に進み(通称旧道、左は新道)、御手洗橋(放生池の太鼓橋)に到り、その先(高樹神社前)で新道と合流し高良山(高良神社)登山車道となる。車の場合、御手洗橋を通り抜けることはできないので、放生池の手前を左折し新道に合流することになるが、現在、この旧道を通る一般車両はあまりない。

 ※つづく→「高樹神社 (高良山麓巡り14)」。

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2016年11月04日

野坂神社(6)〜境内神社(宗像市野坂)

 前回「野坂神社(5)〜一之宮[住吉]・二之宮[八幡](宗像市野坂)」からつづく。

 現在、野坂神社(宗像市野坂904)境内に鎮座している神社について、先に「野坂神社(4)〜野坂神社境内概要(宗像市野坂)」に掲載した内容と一部重複する部分もあるが、そのときに掲載した順にまとめて下記する。

18野坂神社 そのうち、天満神社(一部)、疫神社、小木神社については、明治の神社統合令によるものかもしれないが、既に戦前の「村社住吉神社」の境内神社として鎮座していた(福岡縣神社誌)。
 これ以外の境内神社は、戦後(昭和年26年前後頃か)、一宮住吉神社合祀の二宮八幡神社を含め野坂神社境内に遷されたものだと思う。

 (12) 幸神社(サヤノカミシャ)

19野坂・幸神社内額 ・幸神社の社祠(木造瓦葺拝殿神殿一体形の単独社殿)は、野坂神社参道石段の途中、二之宮鳥居(三の鳥居)の右方にある藤棚の右横に建っている。

 ・お籠堂とも思える小拝殿内(神殿前)に『幸神社』の神額が掲げてある(※画像)。

 ・当地遷宮前の鎮座地は、野坂字下後畑という。

20野坂・幸神社鳥居額  ・社殿の前には、「幸神社」の石額束(※画像)を掲げた石鳥居(明治三十六年癸卯五月建立)が建っている(※上の画像の右側の鳥居)。

 ・筑前國續風土記附録(以下附録という)にある「幸ノ社 サヤノハル」のことか。

 ・幸ノ社で祀る「幸ノ神(サヤノカミ)」は、「塞ノ神」のことで、辻の神として「庚申神」や「道祖神」などと同一視されることもある
 ・幸ノ神とされる当社祭神は、大己貴智神、鈿女神で、大己貴智神(大国主命)は国土の守護神で「塞ノ神」とされることもあり、また、鈿女神(天鈿女命:アメノウズメノミコト)は、夫の猿田彦神と合わせて村の守り神である「道祖神」とされることがある。

 ・宗像百八神(宗像大神の末社)の一「廻田道祖神」は、野坂にあったといい、この幸神社がそれに該当するのだろうか。廻田道祖神とは、田を廻り、田を守る道祖神なのだろう。

21野坂・幸神社鳥居年 ・幸神社社祠の右後方に2社、小さな「石祠」が置いてある(※画像)。

 このうちの一社は、附録にある「萩ノ社 サヤノハル」か。
 また一社は、附録にある「貴船社 エゲ」か、「若宮社 シンマチ」なのだろうか。

 なお、附録には、「吉田明神 ヲコヤ (吉田六郎太夫長利の霊を祭るといふ)」も載っている。

 (13) 磯邊神社(ソベジンジャ)

 ・磯邊神社(=曽部神社)の社祠は、参道石段の途中、石造手水鉢の左方、二個の自然石台石の上に設置してある「石祠」である。

22野坂・磯邊神社鳥居額 ・社祠の前には「磯邊神社」の額束を掲げた「石鳥居」(大正貮癸丑九月吉日 宗像郡南郷村野坂區民建之)が建っている。

 ・磯邊神社(以下「磯辺神社」という)は、「曽部神社」(ソベジンジャ)とも言われていたようで、当地遷宮前の鎮座地は、磯辺山(ソベヤマ)の頂上にあり、その跡地が叢のなかに今も残る。

 ・磯辺山(ソベヤマ)は、野坂神社の南方、磯辺峠(通称:猫峠)の西側にある標高286mの低山だが、宝満山修験春入峰と係わる霊山で、また、その北麓に広がる野坂にとっても農業に欠かせない水源を有する霊山で、頂上に慈雨をもたらす八大龍王を祀った。

 ・筑前國續風土記附録に「八大龍王 ソベヤマ 石祠 石鳥居一基」の記載があるが、この「八大龍王(社)」は「磯辺神社(曽部神社)」のことだろう。

 ・野坂でひとたび旱魃が起きたときは、村民らは磯辺山頂の石祠の前で八大龍王に祈願する雨乞い神事を催行し、修験者がその奉祀をしていたとも考えられる。明治維新による修験道廃止後も、戦時中(昭和19年)まで山頂での雨乞い神事が行われたと伝わるが、遷宮後は、その慣例はなくなった。

 ・なお、「曽部神社」を日向(ひむか)の襲とする説があるが、野坂に「遠の朝廷」があったとする考えもあり、九州王朝や鞍手郡物部王国との係わりが考えられなくもない。
 ※別記「野坂神社(3)〜磯辺山と磯辺神社(曽部神社)・修験道(宗像市野坂)」。

 (14) 一棟六神社祠

23野坂神社境内六社 ・野坂神社神殿の右方に次の六社が入る(謂わばアパート式)木造瓦葺社殿がある。
・これらは、野坂に一之宮・二之宮が勧請される以前に、野坂の各所に鎮座していたと思われるが、古代の野坂は、鞍手郡に属していたこともあり、鞍手郡(現宮若市含む)を本拠地とした古代物部氏と係わる思われる祭神も多い。

  「福智神社」(フクチジンジャ)
 ・祭神は、伊弉諾命、大己貴命、保食命か。福智山(直方市/旧鞍手郡)の福智神社三宮(福智権現社、鳥野神社)や福智山修験と係わるか。旧鎮座地不詳。

  「三王神社」(サンノウジンジャ)
 ・祭神を大山咋神とする「山王神社」のことか。大山咋神は、山王権現の神仏習合神で、物部氏祖神饒速日命と同神の大物主神とも同神とされる。山王権現を奉祀する天台宗や天台系修験道(宝満山等)との係わりも伺える。附録に「山王権現 ナカヤマ」とある。旧鎮座地は字中山地区。

  「五穀神社」(ゴコクジンジャ)
・祭神は豊宇気比売神。旧鎮座地は字恵下。

  「熊野神社」(クマノジンジャ)
 ・祭神は、伊弉冊尊、事解男命、速玉男命。野坂の西方にある許斐山(271m)の熊野権現を信奉する熊野修験と係わりがあるのか。附録に「熊野社 イマイン」とある。旧鎮座地は字今院。

  「須賀神社」(スガジンジャ)
 ・祭神は須佐之男命・牛頭天王。附録に「祇園社 フクセン」とある。

 Α心吉神社」(ココロヨシジンジャ)
 ・祭神は、倭姫命、国常立命、宇賀魂神。倭姫命、国常立命は九州王朝とも係わる神か。かつて許斐山麓にあった心吉神社と同じく野坂村の中村氏(中村求馬)が奉祀した神社なのだろうか。心吉神社は所主神社(地主神)との説もある。附録に「心善社 ヒロム子」とある。旧鎮座地は字廣宗。
 ※別記「王丸の(旧)「心吉神社」について(宗像市)」参照。

 (15) 三扉境内神石祠(社)

 ・野坂神社神殿の右方に神社名のない三扉石祠があるが、多分、福岡縣神社誌にある次の村社住吉神社の境内神社三社ではないかと思って記す。

12野坂神社境内社・神輿藏  「天満神社」(テンマンジンジャ)
 ・祭神は菅公(菅原神・菅原道真)。附録に「天満宮四所 シンマチ センビキマル ヨシエバル ヲゝ井 石鳥居あり。」とある。このうちのいずれかが戦前の境内神社で、ここには戦後合祀された天満神社(天満宮)も含まれているのではないかと思う。

 ・「野坂神社」の額束を掲げる一の鳥居の両柱に「「奉納菅公一千廿五年祭 維持昭和三年四月」の刻がある。昭和3年(1928)当時の野坂神社の社名は、「一之宮住吉神社」なので不具合あり。この鳥居は、その刻字から某天満宮の鳥居を移築し額束を付け替えたものだと推察できる。
 上記附録の記事を「ヲゝ井 石鳥居あり」と読むと、昭和3年再建の大井天満宮鳥居となるが、天満宮四所にそれぞれ石鳥居があったのだったら、どの天満宮鳥居だったかは分からない。なお、拾遺には「大井社」と記載。

  「疫神社」(エキジンジャ)
 ・祭神は、蘇民将来〜厄気を祓う神。詳細不詳。

  「小木神社」(ヲギジンジャ)
 ・祭神は、小木大明神 (※小木阿蘇神社の場合は、阿蘇大神・健磐龍命、八幡大神・応神天皇、甲佐大神・八井耳玉命)。附録に「小木社 ヲギ」(小木)とある。。

 ・天文16年(1547)、宗像大宮司正氏が長門國豊浦郡の一宮(下関市の長門一宮)を勧請し野坂村一宮(現:野坂神社)を造営したときの棟札に「奉建立小木大明神拝殿一宇社家地頭重矩」とあり、しばらく「小木社」に鎮座していたので「小木大明神」と言われた。

 ※なお、附録に「一之宮社内に彌勒堂あり」とあるが、明治維新政府による神仏分離や修験道廃止により起きた廃仏毀釈で消滅したものか。野坂は、神仏信仰の篤い地域だったので彌勒菩薩像まで毀釈されたとは思えないのだが(未調)。

  (※本稿「野坂神社」終わり。…本稿トップ→「野坂神社(1)〜鎮座地(宗像市野坂)」)。

※追記:野坂地域の隣接地鎮座の八幡神社(八幡宮)
 〜野坂の二宮八幡神社は、野坂神社に合祀されて無くなったが、野坂地域(野坂から分離した原町を含む)の隣接地には八幡神社(八幡宮)が五社…宗像市王丸の王丸八幡神社、光岡の光岡八幡神社、朝町の朝町(本村・中村)八幡神社と昼掛八幡神社、及び宮若市山口地区の山口八幡神社…鎮座している。
 ・別記「王丸八幡神社と黒尾明神社 (宗像市)」。
 ・別記「光岡八幡宮と大樟のパワー(宗像市)」。
 ・別記「山口八幡宮(1) 正徳二年の旧鳥居 (宮若市山口)」〜。
 ・別記「昼掛八幡宮(宗像市朝町)」。
 ・別記「朝町八幡宮(宗像市朝町)」。

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2016年11月03日

野坂神社(5)〜一之宮[住吉]・二之宮[八幡](宗像市野坂)

 前回「野坂神社(4)〜野坂神社境内概要(宗像市野坂)」からつづく。

 筑前國續風土記に「野坂 此所に長門の一の宮・住吉二の宮・神功皇后を宗像大宮司勧請す。一の宮、此地にては小木(をぎ)大明神と云。」の記載がある。

14野坂神社社殿 現在、この野坂の「一宮」は「野坂神社」となり、「二宮」は同所に遷っている(合祀)。
 (鎮座地:宗像市野坂904)。

 今回は、手持ち史料(筑前國續風土記附録、同拾遺、福岡縣神社誌等)を見ながら野坂「一宮」と「二宮」について分かる範囲で下記する。

 (10) 旧「一宮」(一の宮・一之宮・一之宮住吉神社・村社住吉神社)

15野坂神社一之宮鳥居左 [祭神]
 ・「住吉三神」(表筒男命、中筒男命、底筒男命)。

 [産子(氏子)区域)]
 ・旧野坂村十所の産神(下記野坂の字・集落名)。
 「森吉(モリヨシ)、今院(イマイシ)、塚元(ツカノモト)、小木屋(ヲコヤ)、中山(ナカヤマ)、會下(エゲ)、次郎丸(ジロウマル)、大井(ヲゝイ)、千疋原(センビキバル)、ハザ」。


 [由緒(縁起)等]
 ・天文16年(1547)=室町時代後期、宗像大宮司正氏長門國豊浦郡の一宮を勧請。…代々宗像大宮司造営の棟札あり。
 ※「長門國一宮」は、延喜式神名帳の豊浦郡住吉荒魂神社。一宮村に在。日本紀の山田邑が此処(拾遺)。…下関市の長門一宮のこと。

 ※宗像大宮司正氏(第77代)は、周防國の大内義興、義隆親子に仕え、周防黒川郷を与えられ黒川隆尚と称したが、天文16年(1547)に宗像大宮司(第78代)を養子氏男(黒川隆像/第76代氏続の子)に譲った後、同年死去した。
 ということは、正氏が氏男に宗像大宮司職を譲る直前に、当時周防の大内氏が領有していた長門國から一宮(及び二宮)を野坂村に勧請したことになる。
 なお、天文20年(1551年)9月に氏男が死亡した後、宗像騒動(山田事件)が起きた。次の宗像大宮司(第79代)に氏貞(正氏の庶子)を擁立する派が、反対派の山田局(正氏の正妻)、菊姫(氏男の妻)や、氏続(氏男の父)、千代松(氏続と妾弁の子)らを尽く暗殺した事件。

 ・勧請時の棟札に「奉建立小木大明神拝殿一宇社家地頭重矩」とあり、一宮は、勧請後、暫く「小木社」に鎮座していたので「小木大明神」と言われた。
 ※当時、小木社(小木神社)は、野坂村小木:ヲギ(小木屋オコヤか)に鎮座していたと思われる。

 ・天正11年(1583)10月18日の棟札に「奉新造筑前國宗像野坂庄小木大明神神宝殿一宇本願許斐左馬大夫氏備…」とある。(拾遺)
 ※この頃には、現在地に遷っていたのか。…附録、拾遺等には、一之宮(一宮)の鎮座地は「宗像郡野坂村森吉(モリヨシ)に在」とある。

 ※江戸時代は、二宮と合わせて九月晦日に祭礼、ともに仲村氏奉祀(附録には仲村日向とある)。

 ・明治5年(1872)11月3日(野坂村)村社に指定。
 ※明治38年(1905)の幟旗立石一対が境内入口にある。
 ・大正4(1915)年11月10日神饌幣帛供進指定。
 ※大正8年(1919)11月建立の「一之宮(額束)鳥居」(二の鳥居)がある。

 ※境内入口に建っている神社名標碑は「一之宮住吉神社」と刻している。
 ※昭和19年1月発行の福岡縣神社誌には「村社住吉神社」とあり、鎮座地は宗像郡南郷村大字野坂字宮首と記している。

 ※「野坂神社(額束)鳥居」(一の鳥居)に「奉納菅公一千廿五年祭 維持昭和三年四月」の刻があるが、昭和3年(1928)当時の社名は、野坂神社ではなく「一之宮住吉神社」だったはずなので、この鳥居は不具合だ。

16野坂神社柱右・標柱 この鳥居の両脚柱に、野坂神社とは直接係わりのないと思われる「奉納菅公一千廿五年祭 維持」の刻字あるので、この鳥居は、もとからここにあったものではなかったと思う。

 多分、昭和3年4月の菅公1025年祭に再建奉納された菅公を祀る某天満宮の鳥居を、戦後、当地に移築し、新たに作った「野坂神社」の額束を掲げたものではないのだろうか。かつて野坂に4所あった天満宮のうち石鳥居を有していたと思われる大井天満宮のものか。(未確認)
 

 (11) 旧「二宮」(二の宮・二之宮・二宮八幡神社)

 [祭神]
 ・主神「神功皇后」。(いつの頃からか)仲哀天皇と應神天皇(八幡神)を併神。
 [産子(氏子)区域)]
 ・旧野坂村五所の産神(下記野坂の字・集落名)。
 「新町(シンマチ)、入免(イルメ)、松ヶ崎(マツガサキ)、廣宗(ヒロムネ)、原町(ハルマチ)」。

 [由緒(縁起)等]
 ・天文16年(1547)、上記宗像大宮司正氏が一の宮と合わせて、長門國豊浦郡の二宮を勧請。野坂村新町に造営。
 ※「長門國二の宮」は、延喜式神名帳の長門國豊浦郡忌宮神社。同國府中に在。日本紀の豊浦宮が是(拾遺)。…下関市の長門二宮(忌宮神社)のこと。

17野坂神社二之宮鳥居額 ※江戸時代は、一之宮と合わせて九月晦日に祭礼、仲村氏奉祀(附録には仲村日向とある)。
 ※無格社と思われ福岡縣神社誌に記載なし。
 ※二宮八幡神社(八幡宮)という呼称があった。

 ※野坂神社参道石段の途中に、明治12年(1879)再建の「二之宮(額束)鳥居」(三の鳥居)があるが、この鳥居は、戦後、「二宮」が野坂神社境内に遷った(※野坂神社に合祀というが、神殿右横の一棟六社の右横にある木造社殿がそれか?)とき、ここに移築されたものか。
 
 ※つづく→「野坂神社(6)〜境内神社(宗像市野坂)」。

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