2016年12月

2016年12月30日

磐井川起点から旗崎・磐井の清水・応永地蔵(高良山麓巡り21)

前回「桃青霊神社〜旧跡地/移転(高良山麓巡り20)」からつづく。

 (1) 磐井川の水路(起点から旗崎池まで)

1磐井川起点 磐井川の起点放生池の北側にある放生池の流水口である。
(※画像1:久留米市御井町207)

 安永年間(1772~1780)に「放生池」(御手洗池)が現在の形のように整備される以前の起点は、放生池に取り込まれた水源「(高良山)御手洗の井(井戸)」(御手洗の清水)であったと考えられる。

 若しくは、放生池の上方の二つの谷あいにあったのかもしれないが、いずれにしろ、その頃の放生池は磐井川の一部だったことになる。


2磐井川起点付近 放生池の北端から流出した磐井川の川水は、先ずその前にある小道路(旧道⇔新道接続部分)の下に作られている小さな暗渠をくぐり抜け、民家と民家の隙間を溝のような形に作られているコンクリート整備の川幅の狭い水路を勢いよく流れている。(※画像2)

 磐井川は、ここから高良山北西山麓の裾を通って旗崎池までの約1km弱の距離を流れ下っているが、この流れに沿って歩くことはできない。



 なお、磐井川は、戦後しばらくまでは、日本一短い川と言われたこともあったらしいが、今は、もっと短い2級河川が数多くあるので、現在、何番目に短い川になっているかは分からない。

 見学したことのある磐井川の部分は、ゝ点付近、県道(旧道)沿いのお不動さんの辺り、新道バイパスを横切り高速道下に入る付近、と悵罎寮郷(井戸)付近、ゴ崎池などである。


3不動・磐井川水路 お不動さんは、御井寺参道口不動明王堂(※別記予定)に安置されている石像だが、起点から流れ来た磐井川は、そのお堂の左下を流れ(参道小橋あり・※画像3:久留米市御井町217)、ここからまた民家の間を通り抜けながら新道バイパスを横切り、その先から九州自動車道の下(暗渠)に入る。



4磐井川磐井清水付近上 次に眺められるのは、上記九州自動車道下の暗渠をくぐり抜けた川水が流れ出てくる磐井の清水付近(※下記)である。

 ここに架かる小橋から観る磐井川の上流側は、谷あいで、両岸を草木が覆い、川床に岩も見られる。
 磐井川の流域では、この部分のみが唯一自然形の谷川になっているといった観がある。
(※画像4:久留米市御井町619)




 旗崎池は、県道53号(筑後街道)旗崎交差点(信号機)から県道151号を南に入り、JR九大本線(旗崎踏切)を横切り、左折する県道53号と直進する県道86号(旧道)が接合する時点(旧道の東側)にある貯水池である。(久留米市御井町643)

 高い築堤があり、水神祠と思われる石祠もあるが、県道86号沿いに池を眺めることはできる。農業用水池となっているようで、時期によっては水抜きがされている。
 余水は、ここから北方にある九州自動車道久留米ICの東を通って筑後川に流入している。
 なお、往古は、この辺りは筑後川の縁で、旗崎池はその名残かもしれず、また、この辺りに久留米宿(府中宿場)に荷揚げする船着き場などがあったのではないかとも思っている。

 因みに、旗崎の地名は、味水御井神社に続く丘陵(かつての筑後川の御崎か)に御旗が立てられたことに由来するという。その御旗は、九州を制覇した景行天皇、或は武内宿禰(高良玉垂命か)が立てた女王神功皇后の御旗だともいうが、ひょっとしたら筑紫国磐井君の御旗だったかもしれない。
 また豊臣秀吉が九州征伐の砌、吉見岳城(旗崎池の南東にある山)に入ったときにも軍旗を立てたかもしれない。

 味水御井神社(朝妻の清水)は、上記旗崎🚥(県道)や旗崎踏切(JR線路)から西に600〜700m下ったところ(県道と線路の間)にあり、旗崎池から県道、線路などがある線上に沿って、かつての筑後川の岸があったのかもしれない。(下記)

 (2) 磐井川の由来

 磐井川の名前は、俗にいう527年(継体21年)の磐井の乱(反乱)で、当地(久留米市御井町)で奮戦した筑紫君磐井の伝承に由来している。
 当地では、戦いに敗れた磐井は英彦山に逃げ延びたのではなく、磐井の清水(井戸)付近で討ち死にし、ここで磐井の乱が終息したといい、ここを流れる川を磐井川、ここにある湧水井戸を磐井の清水というようになったという。

 磐井と言えば八女市の「岩戸山古墳」(磐井の墓)が有名だが、高良山はその北方にあり、磐井はこの山を北方の防衛の要とし、八女から見える高良山一之岳(明星岳)に磐井城を構え、守護神高牟礼神(高皇産霊神)を祀る二之岳(高良山)の北麓口に二つの出城(放生池西側の清水山と御井寺の裏山)を造った。

 当時、この間には急峻な瀬戸坂と険しい磐井川渓谷があったと考えれば、磐井はここを主戦場と考えて、実際ここでの戦いで雌雄が決したのではないか。まさに磐井川は、磐井の悲憤の想いが今も籠ってやまない川なのかもしれない。
 瀬戸坂とは、一の鳥居から高樹神社に到る新道のことだが、この新道が完成する以前は、かなり傾斜の厳しい坂道だったといい、瀬戸は磐井川の狭門(せと)だとも考えられる。

 なお、先に「高樹神社 (高良山麓巡り14)」に「(3) 筑紫君磐井の伝承」として記したが、磐井は、倭国の五王「武」の系譜を継ぐ筑紫・九州王朝の筑紫君磐井なので、日本書紀にいうヤマトに従属した筑紫国造ではない。
 また、新羅と組んで反乱を起こしヤマト軍の任那救援を妨害したという根拠もなく、磐井の乱(反乱)ではなく磐井戦争というべきではないかと思っている。実際のところ、磐井を鎮圧したという物部麁鹿火が本当にヤマト軍にいたという根拠も分からない。

 (3) 磐井の清水(井戸)

5磐井の清水 「磐井の清水」(井戸)は、上記したように、磐井の乱終息地となった場所にある涌水泉(井戸)だからその名が付いたと伝わるが、この「磐井の清水」は、現在も久留米市立御井小学校(薩摩・坊津街道の府中宿本陣跡)の裏門の外の谷あいに残っている。
 (画像5:久留米市御井町619)


 磐井の清水の場所は、御井小学校正門(県道750号沿い)の右方(※一の鳥居と高速高架下との間)にある道幅の小さな里道を130m進み、T字路(左側に御井小裏門あり)を右に下り、小橋(磐井川架橋)を渡ると右側(里道沿い)にある。なお、九州自動車道の側道を通って行くときは、直進道路の道幅が急に狭くなる(車の離合不可)場所にあるT字路を左折すること。

6岩井清水六地蔵 周りは鬱蒼とした林に囲まれ、その右に十三仏堂(十三石仏)があり、左後ろ上段に応永地蔵堂(※下記)があり、いかにも乱戦死者供養地という雰囲気がある。(画像6)

 磐井の清水は、「ホウルイの清水」とも呼ばれ、この水は、剃髪して高良山内のお寺に入るときに使われていた水だという。

 また、水温が15度あり、「湯薬師さん」とも呼ばれていたという。


7磐井川磐井清水前 磐井の清水の前方(磐井川岸)に、食料品ほかの洗濯場の跡があり、柱と屋根だけの覆い屋が今も残っている。(画像7)
 かつて磐井の清水の湧水量が多かった時代に、溢れる水を貯めて使っていた施設だが、今は、周辺の開発が進み、極端に湧水量が減り、溢れる水はなく、水を貯めることはできない。

 なお、当地「御井町」の地名は、当地に高良山の神聖な三つの湧水(水源)「高良三泉」(井戸)があったところから付いた(三井→御井)といい、この磐井の清水はその一つであるが、今はこの水を汲めるのか、飲めるのかなどは分からない。

 因みに、ほかの二泉は、朝妻(アサツマ)の清水徳間(トツコマ)の清水である。
 「朝妻の清水」は、JR久留米大学前駅の裏、高良大社摂社味水御井神社境内にある涌水池で、かつて寂源(1630〜1696)が選定した「高良山十景」の一に数えられた名勝地だった。現状は周辺の開発が進み風情は半減、涌水量も減っているらしい。飲料はいかがなものか。
 ※別記→「朝妻の清水・味水御井神社(1)(高良山麓巡り30)」。

 「徳間の清水」は、愛宕神社の天狗が独鈷で掘り当てたという伝説もあるらしいが、地表の水が竹筒から流れ出ている。以前は、飲料できたが、今はどうなのかな。場所は、県道800号「横馬場バス停」の交差点から山側に住宅地の間を200m進み、突当りのT字路を左折し、(左側の)按摩マッサージ甲原の前から細い砂利道を1分歩くと突当りの竹林の手前にある。(※後日別記予定)

 (4) 応永地蔵

 磐井の供養のために、応永11年(1404)(足利義満の時代)に建てられたという伝承もある応永地蔵は、磐井の清水の左後方の坂上に建っている地蔵堂内に安置してある。(画像8:久留米市御井町619)

8応永地蔵 三体の地蔵石仏(赤い前掛けがしてあり詳細不明)の中央に置いてあるのが応永地蔵で、その他、右端に置いてある板碑には「梵字南無観世音菩薩」と刻してある。

 応永地蔵は「岩井の応永地蔵菩薩彫像板碑」という名で、昭和53年(1978)に久留米市有形民俗文化財に指定されている。

 なお、今は「磐井」を「岩井」と表記する例が多々ある。

 平成13年3月久留米市教育委員会が建てた説明板の内容を転記しておく。
 「岩井の応永地蔵菩薩彫像板碑 応永十一年甲申二月三日(一四〇四年)、十五人の願主によって造立された彫像板碑で、扁平柱状の自然石を頭光、身光の形に彫りくぼめて、中に地蔵立像を半肉彫にしている。尊貌は、重厚で思索的であり、額に白毫(びゃくこう)を穿(うが)つ。納衣(のうえ)の線は流麗でほぼ左右対称である。」

 一般人にはなんとも分かりにくい説明文が並んでいるが、板碑に彫り込まれているはずの刻字の説明がなく、また、果たしてこういった前部半像浮彫形の石仏を板碑というのだろうか、疑問が残った。
 この説明では、15人の願主が何を祈願したものかが分からないので、磐井の供養のために造立したと断言できないが、かつて当地に、今は廃寺となった僧坊寺院があったのだろうか。

 ※つづく→「高良大社参道「町標」碑(高良山麓巡り22)」。

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2016年12月29日

今年の漢字は「金」だったが…(ひとりごと)

 いよいよ平成28年(2016)申年の年の瀬が迫って来た。
 そういえば今年の一字漢字は「」だった。
 「金」が選ばれた理由のひとつは、リオ五輪での大量「金」の取得だという。これは「金メダル」のことだが、過ぎさると何の種目で、何個の金を、誰が取ったのか、明確には思い出せない。

22 ただ私の印象に唯一残っているのは、「金」ではない三宅宏実選手の「銅」のみ、「金」に値するほど感動した。

 12/22の読売新聞で高木美帆選手全日本スピードスケート4種目制覇のニュースを伝えていたが、その記事の横に「バーべルありがとう」の見出しで、バーベルに抱つく三宅選手の大きな写真が載っていた。

 一瞬、この時期に「えっ、何!?」と思ったが、「この一瞬2016」として大野展誠記者が選んだ写真と記事だった。


 ああ、あの一瞬に感動したのは私だけではなくてよかったと、思わずあのときの感動が甦った。こんな感動が本当の「金」なのかもしれない。
 (※別記参照「リオ・メダリストパレード/三宅宏実選手を応援」)。

 要するに、スポーツでは、「金メダル」を採ることだけが「金」ではないということだろう。
 例えば、至近では、12/25のフィギュア全日本選手権での浅田真央選手12位。フリーでトリプルアクセルを始めしかけた技が悉く失敗。それでも果敢に挑戦し続けた彼女の前向きの姿は、見守るすべての人たちの心を引き付けた。この感動は、実際に「金」を取った人の存在を忘れさせるほどのものだった。

 12/25の全国高校駅伝女子の筑紫女学園。1区でエース花田咲絵選手が転倒しながらもあきらめずビリから追い上げ6位、最終区では4位フニッシュし2012年以来の入賞を果たした。感動した。

 話変わって東京五輪…これって「金(きん)」ではなく「金(かね)」。準備段階からもめ続け、今の時代、莫大な金(かね)をかけてする大義名分があるのかな。金(きん)が金(かね)になると醜いね。

 その他、いろいろ書くのはよすが「金運」が去る(申)年でもあった。
 来年は酉年、金運を運んできてくれる年になればいいと思う。
 ところが今、早々と鳥インフルを運んでくる渡り鳥がいて、感染鶏舎の全鶏が殺処分されている。「金」(きん・かね)が飛んで行く酉年にならないように祈りたいものだ。

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2016年12月26日

壁紙変更(遊井亮子さんの画像に)

遊井亮子[1]  PC購入以来、デスクトップの壁紙には、パク・ソルミさんの画像しか使ったことがなかったが、二児出産以後の彼女の情報を知ることもなくなり、今回思い切って変更した。

 今回使わせてもらったのは着物姿の遊井亮子さんで、時々観ている「遊井亮子 (@yuuiryoko0810) | Twitter」の画像をお借りした。


 遊井亮子さんは、もとから好きな女優で、出演ドラマは、割と観ている方だと思う。悪女役もかなり多いけど演技の上手な素敵な女優。


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2016年12月25日

長崎「諏訪神社」の福澤諭吉像・さざれ石・齋館諏訪荘など

  今回、長崎歴史文化博物館(長崎奉行所立山役所跡)で「没後150年坂本龍馬展」を見学した帰路、その後方丘陵にある諏訪神社 (祭神建御名方神・八坂刀売神/長崎市上西山町18-15) を参拝した。
 これまで何度か諏訪神社を訪れているが、今回の参拝で初めて目にした下記を覚えとして書きとめておく。

 (1) 福澤諭吉像(1998年建立)

1諏訪社・福沢諭吉 福澤諭吉像(羽織姿で両腕を組んで正面を向いている立像)は、参道(石段)の途中、左側に鎮座している祓戸神社(祓戸大神)の小さな境内に神殿と向き合うように建っている。

 参道から観ると、手前(参道側)に生えているヤツデの蔭になってはいるが、台座の高さがあるので、上半身が見える。

 台座の化粧ブロック部分の正面に貼ってある石板には「福澤諭吉先生之像 慶應義塾塾長鳥居泰彦書」(金文字)と刻してあるので、それと分かる。

 同上の左側には「建立の碑 天は人の上に 人を造らず 人の下に 人を造らずと云えり 福澤諭吉「学問のすすめ」より 平成十年一月 長崎三田会」と刻(金文字)した石板が貼り付けてある。

 長崎の慶應義塾大学同窓会が建立したものだと思う。
 ここに建立した趣旨は分からないけど、福澤諭吉(旧姓「中村」)は、長崎とまったく係わりがないわけではない。豊前国中津藩(大分県中津市)下級武士の子だった諭吉は、幕末の安政元年(1854)〜同2年2月(約1年間)、砲術家山本物次郎(高島秋帆門下)のもとで砲術・蘭学を学ぶために長崎に遊学したことがある(当時19歳)。

 因みに、諭吉が当初寄寓した光永寺(長崎市桶屋町33)の山門横には「福澤先生留学之址 安政元年」と刻した石碑が建っている。
 また、その後、転居した出来大工町の山本物次郎宅跡の近くの市道(道路敷)には、諭吉が使ったという共同井戸(1m四方、深さ約6m/覆い屋あり)が残り、その前に「福澤先生使用之井 安政元年」(昭和12丁丑年5月長崎三田會建之 小泉信三撰並書慶應義塾長小泉信三筆)と刻した標石がある。

 この出来大工町から諏訪神社は近く、諭吉も長崎遊学中に諏訪神社を訪れおくんちを観ていたことだろう。

 (2) さざれ石(2015年設置)

2諏訪・さざれ石 「さざれ石」(台座あり)は、拝殿前の石段の上り口の右側に下に置いてある。
 無数の小さな石が無造作に固まったできた一塊の石の結晶だが、一目見れば「これが、さざれ石なのか」とよく分かる最高の教材でもある。
 台座に「鎮西大社諏訪神社御鎮座三百九十年祭記念 平成二十七年十月吉日」と刻してあるので、奉納、設置されてまだ間もない。

 その前に、「国歌君が代 君が代は千代に八千代にさざれ石り巌となりて苔のむすまで」を刻した石碑もある。

 「さざれ石」の説明板には「さざれ石は、国歌「君が代」に「さざれ石の巌となりて」と詠われ、細かい石が長い年月をかけて固結してできた霊石です。また、さざれ石は私たち国民一人ひとりをさしていて、一人の力は微力であるが、国民が力を合わせることで、大きな力(大きな巌)となることを表しています。」と記されている。

 考えられないが、国歌「君が代」を歌えない人たちがいる。過去、義務教育の間にきちんとその意味も含めて教えられなかったからだろう。意味をきちんと理解すれば、これが軍国主義復活につながる歌などとは思えないのだが…。今は、学校教育で教えられているのだろうか。

 (3) 齋館「諏訪荘」(1990年移築)

 齋館「諏訪荘」は、諏訪神社神殿の右方、諏訪神社幼稚園の前にある木造建築だが、内部の見学はできない。

3諏訪社齋館 「諏訪神社斎館 諏訪荘」の説明板によると次のようである。

 この建物は、長崎の豪商永見寛二氏が諏訪神社下の炉粕町に5年の歳月を懸け大正9年完成させた大正時代を代表する建築。材料は、無節の日本栂材を使用、柱は全て四面柾目材、大小の部屋のすべてに床の間が設けられている。

 時を経て所有者は替わり、昭和十一年から諏訪荘の屋号で日本の三指に数えられる和式旅館の一として営業され、皇族を始め内外の著名人により利用された。平成天皇・皇后両陛下も皇太子時代にご宿泊された。
 昭和五十九年諏訪荘は廃業し取り壊されることになったが、保存を望む長崎市民の熱意を入れて株式会社アービック(旧・株式会社加藤不動産商会)会長加藤敏夫氏の配慮により、平成二年四月諏訪神社境内に移築奉納された。

 (4) 太田蜀山人歌碑(1990年建碑)

4諏訪社齋館蜀山人碑 「太田蜀山人歌碑」は、上記「齋館 諏訪荘」の外塀の前に建っている。平成2年(1990) 諏訪荘が当地に移築されたのを記念に長崎の文人たちが発起してここに建立されたものらしい。
 碑文は、境内から眺めた彦山の月の愛でた狂歌だが、かなり読みにくい。…有名な歌らしい。夜ここから彦山の月が見えたのか。

 「彦山の上から出る月はよかこげん月はえつとなかばい」

 太田蜀山人(大田直次郎南畝)は、文化元年(1804)〜同2年10月の間、長崎奉行所の勘定役に勤務した。 

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2016年12月23日

坂本龍馬没後150年特別展覧会を見学

龍馬展


 (1) 長崎歴史文化博物館で「特別展覧会 没後150年坂本龍馬」が始まったので、JRで長崎市に出かけ、時間をかけてゆっくり見学してきた。

 展示会場は、[暁呂寮犬泙谿蕕辰浸代、土佐藩脱藩と海軍修行(勝海舟との出会い)、龍馬の手紙を読む龍馬の遺品、セ長同盟から大政奉還(そして龍馬の死後)、Υと如Χ啌┐らみた幕末、幕末の美術(近世絵画・刀・甲冑)の6コーナーに分かれていた。

 目玉展示品は、新発見の龍馬書簡「越行の記」の草稿(慶應3年11月)や、龍馬が近江屋(醤油商)で暗殺されたときの佩用(はいよう)刀〜吉行(よしゆき)銘があり直刀に近い刀(※上記チラシの画像)など。

 ただ、メインは、几帳面な龍馬の性格が分かる書簡の数々のようで、また、龍馬と直結しない展示品も多く、見学して感銘したというようなことはなかった。

(2) 展示会場内での説明にはなかったが、長崎における龍馬は、長崎奉行所立山役所の動きを見下ろせる川向こうの丘陵の中腹に貿易商社を名乗る「亀山社中」を設け、トーマス・ブレーク・グラバー(スコットランド出身の武器商人)の手先となって武器販売をしていたのだと思う。

 常に対立軸を設けて戦争をさせる西欧的な思想を持ち込んだグラバーに踊らされた龍馬は、武器を売り込むために薩長同盟を推進し反幕勢力を形作ったのではないか。
 そのために「亀山社中」を、徳川幕府直轄の長崎奉行所の動きを監視できる場所に、かつ長崎奉行所が簡単に踏み込めない寺社奉行所管地の上方に設けた意図も分かるような気がする。
 その龍馬を取り締まる側の長崎奉行所立山役所跡(現長崎歴史文化博物館)で、今、龍馬展が開催されているのだから、歴史の皮肉とでもいうのだろうか。
 さらに長崎を離れた後、大政奉還を画策し船中八策や新政府綱領八策をしたためた龍馬は、幕府側、反幕側双方で得体のしれない危険人物と目されるようになっていたはずで、いずれの手先に暗殺されてもおかしくはなかっただろう。
 そんなことを思い浮かべながら、展示会場を後にした。

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2016年12月22日

長崎駅かもめ広場のクリスマス・ツリー

Xツリー長崎駅 JR長崎駅かもめ広場に飾ってあるイルミネーションのクリスマス・ツリーを観て来た。
(※画像1)
 時間によっては、ツリーのネオンが点灯し、主デザインのダイヤ形の模様を含めていろいろな色に変化するらしい。
 それは観られなかったが、それでも美しかった。


 長崎駅かもめ広場のクリスマス・ツリーと言えば、以前観た「加藤夏希さんのハート型Xマスツリー」を思い出した。
 あれは2010年の師走だったので、8年ぶりに、また同じ時期に長崎を訪れたことになる。

Xツリーニュー長崎2 毎年この時期には、長崎市のあちこちにクリスマス・ツリーが飾られるらしく、長崎のイベントの一つになっている。

 そういえば、今回宿泊したホテルニュー長崎のロビーにもクリスマス・ツリーが飾ってあった。(※画像2)

 考えてみれば、今、長崎市は、広域の、長崎の教会群と関連遺蹟のユネスコ世界遺産認定を目指しており、クリスチャンの多い都市なので、クリスマス・ツリーがあっても不思議ではなかった。


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2016年12月20日

桃青霊神社〜旧跡地/移転(高良山麓巡り20)

 前回「豊比弯声辧素兩/高良大社に合祀(高良山麓巡り19)」からつづく。

 (1) 桃青霊神社の旧跡地

 ・現在、高良山内の宮地嶽神社分霊社境内(※愛宕神社県道口前から対面の山道を入ったところ)にある「桃青霊神社(とうせいれいじんじゃ)」の古翁社(石祠)と副碑(円柱碑)は、もと(旧跡地)は、放生池(御手洗池)西岸の崖上(清水山の東端)にあった(福岡県久留米市御井神籠石清水山水明荘敷地内)。

 ・この桃青霊神社旧跡地は、昭和11年(1936)ブリジストン石橋家所有の水明荘敷地内に組み込まれるまでは、旧豊比弯声(明治維新前までは新清水観音堂)の境内だった。

 同年、豊比弯声劼倭宮し、残された旧社殿(山門含む)は管理する者がなく荒廃して行くが、その境内にあった桃青霊神社への参拝者は絶えなかったというので、境内が民有地となっても、桃青霊神社が退出するまでの間は、比較的自由に出入りができていたようだ、

 その参拝者の多くは、同社に祀られている俳聖松尾芭蕉(桃青霊神)を信奉していた当時の久留米及びその周辺地区にあった句会の人たちで、参道口(放生池北西部の四町碑が建っているところ)から参道石段を上って同社を訪れていたが、同社移転退出後は、参道口のフェンス扉は固く施錠され一般の出入りが禁止された。

 ・なお、桃青霊神社が上記宮地嶽神社境内に移設された時期は、御井町誌に「昭和三十五年頃のことだという」と記してあるが、昭和37年(1962)8月発行の「久留米路の旅情(田中幸夫)」に「清水堂境内の上段に赤松の林があり、中央岩盤の上に桃青霊神社の石祠が苔むしています。…自然を生かした名園水明荘はこの石碑のすぐ北に続いて、芭蕉ありせばの感を深うします。」との記述があるので、移築時期は、上記昭和37年(1962)頃より少し後の昭和40年(1965)前後頃ではなかったかと思う。

 ※上記に「清水堂境内」とあるが、桃青霊神社が同所に鎮座した寛政8年(1796)は、自得が新清水観音堂を建立した享和2年(1802)より前なので、当時同所は清水観音堂境内と言っていたと思われる。明治維新で新清水観音堂から変わった豊比弯声劼蓮⊂赦11年廃社されたので、著作当時まで残っていたのは桃青霊神社のみとなり、単に同社境内でもよかったのかもしれない。

 ・現在、特別の場合を除き水明荘が一般公開されることはないので、同荘敷地内にある桃青霊神社旧跡地の現状は分からないが、おそらく、かつて桃青霊神社の石祠が鎮座していた割と大きな岩盤(基台)が木立のなかに残っていると思う。

 ・この石祠は、その右壁面に「寛政三年辛年 天保二辛卯年十一月吉日」の刻があり、天保2年(1831)に再建されたものである。

 「寛政三年辛年」とあるのは、寛政3年(1791)は、同社の造営が祈願され、桃青霊神の神号を授かった年という意味であるが、最初に建造された社祠は木造瓦葺で、芭蕉百年忌に当たる寛政5年(1792)建立を目指したが、寛政8年(1796)に完成、神霊遷座、文政11年(1828)大風の為に大破したので、天保2年(1831)に石祠に変えて再建された。

 〜旧跡地に残っている岩盤(基台)の大きさから、この最初の社祠の大きさが推定できるが、見学はできない。

(2) 桃青霊神社の縁起

 桃青霊神社の石祠・御井町誌等により、次のようなことが伺える(※上記と重複部分及び私の推測を含む)。

・寛政3年(1791)、浮羽郡田主丸の俳人岡良山が、高良山内に松尾芭蕉百年忌に当たる寛政5年(1793)に芭蕉を神として祀る神社建立を祈念した。

・岡良山は、当時文芸にも造詣のあった高良山三井寺(御井寺) 第55代座主傳雄僧正に相談しその了解を得て、同年(寛政3年)上京し神祇伯資延王(神祇官の長官)に請願して芭蕉の俳号「桃青」を付けた「桃青霊神」の神号を授かった。
 ※下記石祠の発願施主のなか「十寸穂庵良山」とあるのが「岡良山」か。このときの良山の年齢は70歳を超えていたようだ。

・遡ること元禄11年(1698)、蕉門十哲の一人各務支考(かがみしこう)が、また、元禄15年(1702)に同、志太野坡(しだやば)が、当時、久留米藩有馬氏の奨励もあり筑後俳壇の中心地として知られていた久留米を訪れた。
このとき接触しその影響を受けた同俳壇の系譜に連なる竹野郡、倉富東義、石田残道、本田魯之、中田秋賀、太田文角、久保花遊など多くの俳人が桃青霊神社建立に賛同した。
 ※下記石祠の発願施主にその名の刻があるが、これは下記再建時の発願者ではなく当初の発願者だと思う。

 ・高良山清水山清水観音堂境内に建立することも決まり、初期の目的である上記寛政5年(1792)芭蕉百年忌の建立を目指していたが、寛政8年(1796)2月に木造瓦葺の社祠一宇が完成、座主傳雄主導により遷座式が執行され、ここに芭蕉の神霊を祀る全国希有の「桃青霊神社」ができた。

 ※桃青霊社を清水山の裾に選定した理由について、上述「久留米路の旅情」は「琵琶湖畔義仲寺に眠る俳聖芭蕉(桃青)の墓をしのんで、せめて四季折々の佳興にかなう御手洗池畔をえらんだのです」と推測している。

 ・同上社祠は、32年後の文政11年(1828)の大風で修理不可能なほどに大破した。
しかるに、当時の筑後俳壇の勢いは強く、すぐに再建の話が持ち上がり、天保2年(1831)11月に、風雨に強い「石祠」に変えて再建した。
 ※下記石祠の刻に、「再建 上琶舟/施主 冬井千鳶 桂窓慶五 雨中庵杜有/補助 田中忠吉 米屋庄兵衛」らの名がある。同刻にある発願者の名は、再建ではなく、当初の社祠建設の発願者だと思う。

 ・明治維新(1868)後は、その勢いが陰り、明治末には、祭祀が絶えてしまっていたが、大正10年(1921)11月、その俳壇復活を目指した筑後史談会主唱による「桃青霊社創建百三十年記念祭典」が御井小学校で行なわれ、大正12年から毎年12月1日に例祭(句会)が盛大に行われるようになった。

 ・昭和11年(1936)、戦前の混迷の時代を迎え高良大社も困窮していたのか、桃青霊神社を含む豊比弯声(新清水観音堂)の境内をブリジストン石橋家に売却し、豊比弯声劼惑兌(高良大社に合祀)されたが、それでも同地に残っていた桃青霊神社を参拝する人たちは絶えなかったという。

 ・戦後の苦境時代を経て、昭和40年前後頃、桃青霊神社の石祠と副碑(円柱碑)は、民有地を離れ、現在地の宮地嶽神社分霊社境内に移転した。
 現在、参拝に訪れる人たちは希のようだが、久留米においては、今も俳諧の伝統を受け継ぐ俳句愛好者は少なくはないようだ。

 ※高良山麓を巡っているとき、袴着天神境内で「祇園山句碑」(昭和61年「御井句会」選定15句)や、高良下宮社末社粟島神社で「隠れ句碑」(十七句)を見かけ、久留米市は句会の盛んな地区だったののだろうと思ったが、久留米市には、かつて俳聖松尾芭蕉祀る希有の桃青霊神社を設けたは俳人らが伝えた俳諧の伝統が継承されているのだろう、と思うと何となく納得できた。

 (3) 石祠、副碑の金石文

 ・現在、清水山から宮地嶽神社分霊社境内に移転した桃青霊神社の再建石祠と副碑(円柱碑)に刻してある金石文を付記しておく。
 ・なお、石祠にある発願施主名は、当初(寛政3年発願・寛政8年建立遷座)の発願者だと思われ、天保2年再建当時は生存していなかったではないかと思う。
 ・再建に係わった「奉寄進」の各御連を含む連名者の多さや、副碑にある芭蕉を受け継ぐ意気込みとも思える句を見ていると、再建当時の当地区における俳壇・句会の賑わいが目に見えるようだ。

 [石祠]
 「奉寄進 御城内御連・京隈御連・九皐東鶴・拾問屋御連・庄嶋御連・米府 苧川 木屑 蕎酔 琴常 其月 石耳 桂窓連・高嶋 草月女 和戒 立梧・東林寺 花林・クラ内 一瓢 盤雨・一条 貫柳・高良山 林作・森 徐留・平 朝翠・本郷 田子・橋田 楽只・大村 皿州・若葉連・小松連・水道連・樋口連・千年連」
 「寛政三年辛年発願施主 倉富東義 石田残道 本田魯之 中田秋賀 十寸穂庵良山 太田文角 久保花遊 天保二辛卯年十一月吉日再建 上琶舟・施主 冬井千鳶 桂窓慶五 雨中庵杜有・補助 田中忠吉 米屋庄兵衛」

 「俳譜の大祖芭蕉翁は、あまね九世の人の知るところなり、その葉陰に遊べる好士のすさびとして、筑紫しりの国、ぬれせぬ山にたまちはふ神と祭らんことを、従二位資延伯にねぎて、桃青霊神とあらはし、玉垂宮と光を同じくしたまふは、寛政三年辛亥の年にぞあなる。諸人抑ぎ尊み賽の鈴の音絶えまなかりしが、思いきや去にし文政十一子の年の野分に御祠大破に及ぶ、このたび志を合せてむかしはもて御祠を営み、行末巽二の災をのがれんものと計るなり、ちはやぶる神の人をしてなさしめたまへるならんか掛巻も畏きいさをならずや。」

 [副碑]
 「歌は出雲八重垣 連歌は甲斐の酒折社 連歌は甲斐の酒折社 俳譜は筑紫高良山に桃青神ましまして永く風流の道を守護し給う 
 今よりはぬさともならん枯尾花
 江州栗津義仲寺重厚 良山花遊 東林寺花林 雨中庵杠有 天保二辛卯歳十一月造立之

 ※ぬさ=幣…はなむけ。
 ※芭蕉の句に「ともかくもならでや雪の枯尾花(雪の尾花) 」があり、「枯尾花 」は、弟子其角編の芭蕉追善集の題名にもなっており、俳諧で「枯尾花 」と言えば芭蕉を指すようもなっている。また、芭蕉の墓は、近江の義仲寺(ぎちゅうじ/滋賀県大津市馬場)にあり、義仲寺では今も芭蕉供養の句会が開かれていると聞く。

※つづく→「磐井川起点から旗崎・磐井の清水・応永地蔵 (高良山麓巡り
21)
」。

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2016年12月15日

豊比弯声辧素兌/合祀(高良山麓巡り19)

 前回「新清水観音堂〜明治維新で廃絶(高良山麓巡り18)」からつづく。

(1) 豊比弯声匍貔彙(清水山)

放生池西岸清水山 ・明治維新政府の神仏分離令により、放生池(=御手洗池・御手洗井戸・御手洗清水)西岸の崖上・清水山の東麓(※画像)に建っていた「新清水観音堂」が廃絶し、その跡に入れ替わって鎮座したのが、今はない「豊比弯声」(祭神豊比很/とよひめ)だった。 (福岡県久留米市御井町神籠石清水山)


 ・昭和19年(1944)の福岡縣神社誌にある「國幣大社高良神社攝社豊比弯声(豊玉姫命)」は、この清水山鎮座当時の当社である。
 同誌は、祭神名を「豊比很拭廚任呂覆「豊玉姫命」と記載しているが、当時、高良大社ではこの両神を同神とみなしていたのだろう(後述)。
 豊玉姫命は、海河泉など水を支配する神だともいわれるので、放生池隣接地に鎮座した豊比弯声劼虜弯世箸靴討蓮△△覦嫐A蟇しかったともいえそうだ。

 ・豊比弯声劼蓮⊂赦11年(1936)、ブリジストン石橋家が別荘「水明荘」を建築する際、隣接地の清水山一帯を(高良大社の要望に応えて)購入したときに廃社され、御祭神(神霊)は高良大社本殿に遷し合祀されたという。当時の高良大社にとって、当地を売却せざるを得ない何らかの事情があったのかもしれない。

・その後、当地に放置された社殿や山門(ともに木造瓦葺)等は荒れ果てたので、昭和40年(1965)前後頃に、石橋家が撤去したものと思われる。

 この荒廃状況については、前回にも記したが、手持ちの「久留米路の旅情[田中幸夫/昭和37年(1962)8月発行]に「御手洗池の岸にせまる断崖の上に、樹林の間から見え隠れする瓦の屋根が仰がれます。清水観音堂の山門であり舞台です。奥の本堂と共に荒れはてて化けものでも出そうなたたずまいです。」との記載がある。
 なお、この著にある「清水観音堂」とは、当時既に廃社されていた「豊比弯声劼亮凖」のことで、清水観音堂→新清水観音堂→豊比弯声劼畔僂錣辰親閏劼竜貽果召魑したまでのことだろう。

・放生池の北西部に参道入口(石段)が残っているが、ここにはフェンスがあり、そのなかに立ち入ることはできないので、旧跡地の現状を伺うことはできない。(※前々回述「(旧)新清水観音堂等の旧参道口」参照)
 ただ、新清水観音堂から継承した石燈籠3基(※前回参照)、及び境内社の旧:桃青霊神社(※次回掲載予定)の基台(岩盤)などは残っているかもしれない。

(2) 筑後国名神大社二座の一

 ・明治維新時に清水山に鎮座し、昭和11年(1936)廃社された豊比弯声劼慮羣弯澄嵋比很拭廚蓮△修慮紂高良大社本殿に合祀された。
 ・このとき、単立していた豊比弯声劼亮厂召肋辰┐燭、この豊比弯声劼料霑呂聾鼎、或は4世紀以前に遡ることができるのかもしれない。

 ・平安中期に編集された延喜式神名帳にも記載があり、当時、筑後国名神大社二座の一として高良山に鎮座し、正四位下の神階を有す大社であったことが分かる。

 ・当社が、この「名神大社豊比弯声」であることは、ほぼ間違いないが、豊姫神社(久留米市上津町本山天満神社境内社)、豊姫神社(久留米市北野町大城)、赤司八幡神社=旧豊比弯声(久留米市北野町赤司)等を比定社(=論社ともいう)とする説もあるらしい。
 なお、これら比定社の社名から、豊姫神社(祭神豊姫命)と豊比弯声(祭神豊比很)は同じ神社で、祭神豊姫命と豊比很燭脇運世任△襪海箸伺える。

 一般的に豊姫命は、神功皇后の妹といわれているが、高良大社では、豊比弯声劼虜弯惜比很燭神功皇后の妹としているので、その意味でも豊姫命と豊比很燭脇運世箸澆討發茲い里世蹐Α

 ・下記豊比弯声厖浬鏥に、中世以降「退転して事蹟詳かでない。明治維新の頃、現在の地に小社が設けられ…」とあるので、上記の比定社(論社)は、豊比弯声劼高良山を離れて転々としていた中近世時代の旧跡地だったとも考えられる。
 ・そして、流浪の末、運よく明治維新で空いた清水山の新清水観音堂跡に入居し、高良山内に戻って来たが、昭和11年廃社となり、高良大社に合祀されたということなのかもしれない。

 ・因みに、上記筑後国名神大社二社のうち、もう一つの大社は、「従一位高良玉垂命神社」で、同社は高良大社として現存している。

(3) 豊比弯声厖浬鏥(清水山鎮座時)

 「豊比弯声辧〆弯神功皇后の御妹豊比很、位置三井郡御井町字神籠石清水山、由緒草創は古く、延喜式所載の筑後国四座の一といわれ、文徳実録に天安元年(八五七)冬十月丁卯筑後国従五位下豊比廚凌世砲鷲戸位田を宛つとあり、同年五月甲戊豊比(八五九)弯世寮掬族个鮗困、位記皆焼搊した。また三代実録に貞観元年(八五九)正月二十七日授筑後国従四位下豊比弯声従四位上と載せ、さらに同六年六月二十七日正四位下、同十一年三月二十二日正四位上を授くとある。斯く幾多の史実を有しているが、その後退転して事蹟詳かでない。明治維新の頃、現在の地に小社が設けられ明治六年県社に列している。祭日十一月十一日」(御井町誌)。

 〜 「延喜式所載の筑後国四座の一」とあるのは、名神大社二座(豊比弯声辧高良玉垂神社)に名神小社二座=「伊勢御祖神社」(比定社は、高良大社境内末社伊勢御祖神社←元は御井小学校「伊勢の井」付近に鎮座していた)、又は久留米市大石町312伊勢天照御祖神社)と、「御勢大霊石神社」(小郡市大保)=を加えた四座である。
 (※別記参照→「御勢大霊石神社と神功皇后伝承(1)同2)」)

 〜 「天安元年(857)五月甲戊豊比八五九)弯世寮掬族个鮗困掘位記皆焼搊した」とあるが、このとき同時に高良大社の神殿も延焼したという記録もあるらしく、事実であれば当時、豊比弯声劼蝋睥病膽劼凌静其瓩に鎮座していたことになり、高良玉垂命と豊比弯戚辛徂慇發虜拠にもなっているらしいが、現在この二神は高良大社神殿内に同居している。
 なお、高良玉垂命と豊比弯戚燭隆屬砲郎別笋づ狙發發△襪蕕靴ぁ

 〜「正四位下の神階を有す名神大社」と上記したが、由緒によると、神階は「天安元年(857)十月時点従五位下、貞観元年(859)正月従四位下従四位上、貞観六年(864)六月正四位下、貞観十一年(869)三月正四位上」と昇進していっており、天安元年(857)五月正殿火失後も、上記当時は高良山内に神殿を有していたのではないかと伺えるが、その後、明治維新に到るまでの消息が分からない。
 そこから上記比定社(論社)とされるところを流転した後、明治維新により高良山に戻り新清水観音堂跡に鎮座したと想像した次第だが、昭和11年(1936)あえなく廃社、結果的に高良大社神殿に遷ったことになる。

(4) 祭神:豊比很(幻想)

 以下は、考えがまったくまとまっていない、とりとめのない幻想の羅列である。
 ・「祭神神功皇后の御妹豊比很」とあるが、高良山では、高良大社の主神高良玉垂命(高良神)の妻神とする説も一般的で、「」の名から、豊比很燭蓮豊の国(豊前・豊後)出自の神ではなかったとの考えもある。
 豊前には霊地英彦山があり、豊後には宇佐八幡宮があり、ともに高良山と同じく天台系の修験道の霊地である。
 特に英彦山は、磐井戦争で高良山を本拠地として戦い、敗れた磐井君が逃げ込んだ地としても知られる九州王朝の霊地である。
 高良山には英彦山詣の習慣も残っていたように、高良山と英彦山とのつながりは深く、それらが豊比很燭箸侶犬錣蠅僕獲茲垢襪發里任△辰燭箸盥佑┐蕕譴覆もない。

 ・神功皇后については、神功皇后が高良山を訪れたという伝承は見いだされないものの、高良大社相殿には神功皇后と係わる住吉大神、八幡大神を祀り、また本殿主神高良玉垂命を武内宿禰とする説もあり、高良山には神功皇后信仰が根強く残っている。
 神功皇后は、豊の国にも多くの足跡を残し、宇佐八幡宮を神功皇后の埋葬地と考える説もあり、宇佐八幡宮の祭神の一比売大神(宗像大社三女神説あり)を豊の国と係わる豊比很燭塙佑┐襪海箸呂任ないのだろうか。

 ・神功皇后は、4世紀頃の人ではないかとも思っているが、3世紀の邪馬台国の女王卑弥呼であるという友人がいる。
 この主張を聴いていて、神功皇后の妹という豊比很(豊姫)は、卑弥呼の宗女「台与」(トヨ、イヨ)だったかもしれないとも思った。

 ・なお、神功皇后の妹には、「豊姫(豊姫命)」「豊比売命」「虚空津姫」(そらつひめ)「玉妃命」という名もあるらしく、豊比很燭汎運世箸澆覆気譴襦
 また、上記福岡県神社誌に「高良神社攝社豊比弯声(豊玉姫命)」と記されているので、豊比很燭函豊玉姫命」も同神とみなされているようだ。

 ・記紀によると、豊玉姫命は、綿津見大神(海神)の子で、鵜茅不合葺命を生んだ神である。そして、鵜茅不合葺命は、豊玉姫命の妹玉依姫神との間に神倭伊波禮毘古命=神武天皇を生んだ。

 豊玉姫命は、出雲神との説もあるが、福岡県、佐賀県などに広く分布しており、海神の子として九州の海や川を支配する神だったのかもしれない。
(※別記参照→「白・黒なまず様のいる神社(1)~豊玉姫神社(嬉野市)」)。
 出雲神=物部神であれば、鞍手郡に出雲王国(島根県ではない)を作り、筑後にも勢力を拡大し、九州王朝と協調していった古代物部氏の神だったことになるのか。
 また、豊玉姫命は、海や川を支配する「淀姫命」「與止日女神」と同神であるとの説もある。

 ・上記豊玉姫命の妹「玉依姫命」については、依岳神社(宗像市)の由緒に「玉依姫命は、日向の高千穂峰から竃門山を経て依岳山に移られた」とあるように、九州の神々の一であることには違いなく、巫女神であったとの説もある。
 玉依姫命は、竃門山(宝満山)に鎮座し宝満宮竈門神社に祀られ、かつて宝満山にあった宝満山修験道は、高良山修験道と同じ天台系修験道だった。宝満山修験者は、依岳山(湯川山)にも峰入りし、宗像大社にも参拝していた。(※別記「野坂神社(3)〜磯辺山と磯辺神社(曽部神社)・修験道(宗像市野坂)」参照)。
 なお、湯川山麓に鎮座している依岳神社の祭神の一に、よく分からない「玉津姫命」がいるが、ひょっとしたら豊玉姫命=豊比很燭世辰燭里もしれない。(※別記参照→「依岳神社へ(宗像市田野)」)。

 ・その他、豊比很燭豊受大神とする説や、このほかにも多くの説が存在するが、そのすべてをここで説明することができない。

 ・今、高良山に豊比弯声劼鰈牌覆気擦襪發里呂覆い、かつては筑後国有数の神社であったことには違いなく、そのことは、未だにその祭神豊比很燭僚仄に関する注目度が高いことをみても伺える。

 ・なかでも私は、邪馬台国ロマンがある上記台与説に興味をそそられている。
 豊比弯声匍貔彙(清水山)の北西山麓に、出雲系ともされる方墳「祇園山古墳」がある。この古墳は、甕棺墓等を持つ複合墳で、祇園山の名からスサノオ命の名が浮かんでくるが、卑弥呼の墓ともいわれ、邪馬台国を彷彿させるものがある。卑弥呼の宗女台与に豊比很燭鮟鼎郵腓擦襪函古代ロマンが生まれてきそうだ。(※別記参照→「高良山麓巡り(5)~祇園山古墳」)。

 ※つづく→「桃青霊神社〜旧跡地/移転(高良山麓巡り20)」。 

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2016年12月07日

新清水観音堂〜明治維新で廃絶(高良山麓巡り18)

 ※前回「(旧)新清水観音堂等の旧参道口(高良山麓巡り17)」からつづく。

(1) 新清水観音堂跡地
 ・新清水観音堂は、現存しておらず、当初の創立縁起も分からないが、高良山御手洗井戸(御手洗池→放生池)に隣接した西側の丘=清水山にあり、その参道口がこの池の北西口に残っているので、もとはこの御手洗井戸の清水と係わるお堂で、当初は清水観音堂と呼ばれていたのかもしれない。

 ・なお、手持ちの「久留米路の旅情(田中幸夫著/昭和37年(1962) 8月発行)に、「御手洗池の岸にせまる断崖の上に、樹林の間から見え隠れする瓦の屋根が仰がれます。清水観音堂の山門であり舞台です。奥の本堂と共に荒れはてて化けものでも出そうなたたずまいです。」との記載がある。

 これは、明治維新の神仏分離令、廃仏毀釈等により廃絶した新清水観音堂から変わった豊比弯声が、(昭和11年境内が石橋家所有地となり)廃社されていたので、執筆当時、荒廃していたその伽藍を指して(豊比弯声劼箸眇契郷經儔仔欧箸發榔召錣困)元の名である「清水観音堂」と記したのだと思う。

(2) 自得の登場と修復再建
 ・「新清水観音堂」の呼称は、寛政(1789-1800)の頃に堂守となった托鉢修行僧「自得」が、この観音堂を享和2年(1802)に修復再建し新たになったことによって付いた名だったのだろうか。(これは私の推測で根拠史料はない)。

 ・高良山の歴史上に、托鉢僧「自得」(俗名不詳)が登場するのは、高良山55代座主傳雄僧正 (寛政・享和・文化 [1789~1803]の頃か)の時代で、寛政の頃、傳雄が、高良山を訪れた東国なまりのある武士と思われる男に、清水観音堂の堂守を任せたときである。
 なお、自得の名は、自ら名乗った号か、或は傳雄を師として授かった得度名(法名)なのか、よく分からない。

 ・「自得」には、次のような伝承がある。
 自得が、当時、高良山中にあった高良山御井寺(三井寺)蓮台院を訪れたのは、佛にすがり自らが犯した殺人の罪過から逃れるためだった。
 座主傳雄は、男の話しぶりから東国武士ではないかと思ったが、男は自分の素性については一切明かさなかった。
 傳雄は、男が何らかの苦悩を抱えていると分かったうえで、清水観音堂の堂守にした。
 自得は、観音堂で悔恨懺悔の修行生活を送るなかで、その前科消滅のために当時荒廃していた観音堂の再建を思い立ち、日々托鉢を続けた。
 その熱意が徐々に近隣の人たちに認識されるようになり、久留米方原町 紅屋次吉(※下記常夜燈にその名がある)の後援を得たことで多くの賛同者が集まり、組織された観音講等からも寄付が集まり、享和2年(1802)木造瓦葺の新清水観音堂一宇の修復再建が叶った。
 さらに、境内に、自らが殺めた被害者の菩提を弔うための「小祠」(石祠)を、自らが願主となって文化元年(1804)造立し、日々欠かさず勤行を行った。
 その後、自得に殺害された亡父の遺子が、自得の居所を探しあて仇討をするために当地を訪れた。遺子は、日々真剣に小祠の前で亡父を弔うために念仏、勤行をしている自得の姿を目にして気持ちが変わり、仇討を思いとどまって立ち去ったという。

 ・仇討の殺意を翻す逸話は、菊池寛の「恩讐の彼方」に類似しており真偽は分からないが、真剣に御手洗池(御手洗井戸)の崖上に建つ「新清水観音堂」で懺悔行を行えば罪過が洗い流され、御手洗井戸の清水のような清浄心を得る、というような仏教的教示もあったのかもしれない。
 そう考えると、安永年間(1772~1780)に整備された御手洗池の名が「放生池」となったこともうなずけるような気がしてきた。

(3) 宮地嶽神社に移された石祠(自得祠)、修堂料碑、狛犬、石燈籠
 ・
「自得」は、実在の人物で、新清水観音堂跡の東方の山林のなかには「自得墓」(無縫塔)があり、高良山内の宮地嶽神社境内に「自得祠」(石祠)がある。

 ・「自得祠」(石祠)は、上記の「小祠」だと思われる。文化元年(1804)9月願主自得で新清水観音堂境内に造立されたもので、多分、明治維新時の神仏分離令による廃仏毀釈等によって新清水観音堂が豊比弯声に変わったとき、同境内から宮地嶽神社境内に遷され、「自得祠」と称されるようになったものだと思う。
 その際、同上石祠とともに同観音堂境内にあった「修堂料碑」(一基)や「狛犬」(一対)、及び数基あった「石燈籠」のうちの一基も宮地嶽神社境内(※愛宕神社県道口の対面から山道に入る)に移された。

 ・「修堂料碑」に刻されている金石文(下記)により、享和2年(1802)12月に自得が新清水観音堂建立を祈願したとき、造立後の観音堂が後世修理されたときに掛かる修理費用までも心に懸けて、予めその修堂料として3か所の畑地を観音堂に寄付していたことが分かる。(※この修堂料がその後の修堂に役立ったのか、その畑が現在どのようになっているかは分からない)
 修堂料碑刻文〜「新清水修堂料畑 御神願内駄市 壹反壹畝弐拾歩 御井郡宗崎村内洲崎 五畝弐拾九歩 御神領内馬場崎 一反七畝 享和弐壬戊歳十二月 高良山 自得寄附之」。

 ・「自得祠」と改称された「石祠」に記された刻文(下記)により、文化元年(1804)9月に自得を願主として堂殿(この石祠のことか)・石像(本尊)が造立されたことが分かる。
 石祠刻文〜「奉造立石像宮殿 壹宇 文化元甲子歳九月吉祥日 願主自得 萬人講中 石工 泰幸市則」。

 ・「狛犬」と「石燈籠」は、その刻文(下記)から文化3年(1806)9月に願主を自得として奉納されたことが分かる。かつての仏堂境内に狛犬がいたのは、神仏習合の霊地だった故のことだろう。
 狛犬(一対)刻文〜「奉寄進 文化三丙寅年九月吉祥日 願主自得 萬人講中 石工 秦幸市則高」
 石燈籠刻文〜「奉寄進 願主自得 萬人講中 文化三丙寅年九月吉祥日」

(4) 旧跡地に残った石燈籠
 ・なお、現在も清水山の木立のなかに埋もれるように残っていると思われる新清水観音堂の石燈籠(常夜燈)3基について下記の記録がある(御井町誌)。
 常夜燈に多くの観音講や町役等の名が記されており、享和年中、多くの観音講が組織されるなど、自得がいかに多くの人たちに尊敬されていたかを伺える貴重な金石史料である。

 ・石燈籠(一基)刻文〜「奉寄進 筑前州家中 西原氏 隈澤氏 寛政四年壬歳二月吉祥日」
 ・常夜燈(一対)刻文〜「常夜燈 享和二壬戊年四月吉日 原古賀北観音講中 同南観音講中 大石陣内観音講中 鉄砲小路観音講中 北外町観音講中 紺屋町西観音講中 小郡町田中次郎兵衛 府中町栖原佐七 片原町紅屋次吉 唐津屋儀兵衛 高良河宇三郎 萬人講中 大願主自得

 ・これらは、明治維新の神仏分離令で「新清水観音堂」(廃絶)から変わった「豊比弯声辧廚飽き継がれたもので、昭和11年ブリジストン石橋家が同境内を購入後、祭祀が行われず荒廃した豊比弯声劼硫斥が、昭和30年後半〜40年代に撤去されて以後、その跡地に残ったものだ。

 ・なお、かつて新清水観音堂にあったと思われる仏像(聖観世音菩薩ほかの木仏、石仏か)の消息は分からないが、明治維新の神仏分離により起きた廃仏毀釈に遭ったのかもしれない。

 ※つづく→「豊比弯声辧素兌/合祀(高良山麓巡り19)」。

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2016年12月06日

(旧)新清水観音堂等の旧参道口(高良山麓巡り17)

 ※前回「仙兒軾(高良山麓巡り16)」からつづく。

(1) 旧参道口
 ・ 「放生池・御手洗橋案内板」に「後ろに見上げる丘の木立には、もと新清水観音堂(明治以降豊比弯声)と芭蕉を祀る桃青霊神社がありました」との一文がある。
 「後ろに見上げる丘」とは、放生池の西側(茶屋跡廃屋の後方〜南池の西側)の木立におおわれた丘のことで、「(新)清水山」ともいわれていた。
 この丘は、清水が湧き出る御手洗井戸(御手洗池)の畔に在り、またこの丘に新清水観音堂が建ったのでその名があったのかもしれない。

1四町碑・新清水旧参道石段 ・現在の清水山には、これらの新清水観音堂・豊比弯声辧ε軅栂鄂声劼聾渋犬靴討い覆い、その石段参道は残っている。

 その参道の入口は、放生池北西口の西側(旧道沿い)の石垣の前に建っている「四町」道標碑(大正3年[1914]10月久留米市呉朊町末次四郎寄進)の右横にある。

 この石段参道は、「四町碑」の後ろでL字カーブして丘陵の縁を左斜めに上っている。
 ただし、ここは、現在、ブリジストン石橋家所有地(非公開の水明荘敷地内)であり、この参道入口にある石段を跨ぐように背丈の高い金網フェンス(扉は常時施錠)が張られており、立ち入ることはできない。

 フェンスの間から、木立の中に消え入るように上る、今は用済みとなり関係者以外は誰も上られなくなった苔むした幅1mほどの石段を眺めていると、どことなくうら悲しくもなる。

(2) 清水山三社堂の廃絶概要
  これら清水山にあった新清水観音堂・豊比弯声辧ε軅栂鄂声凖の廃絶の概要は、次のようである。

 ・「新清水観音堂」は、明治維新の神仏分離・廃仏毀釈の波を受けて、いち早く姿を消し、豊比弯声劼箸覆蝓∧顕集鞠(1804)に堂守自得が造立した境内の「石祠」は、高良山内の「宮地嶽神社」(石祠)の境内に遷され、「自得祠」に変わった。

 ・「豊比弯声」は、明治維新の神仏分離・廃仏毀釈により新清水観音堂から変わったものである。
 しかるに、昭和11年(1936)、ブリジストン石橋家が、別荘「水明荘」を建築するために清水山北側の隣接地を購入したとき、高良大社の申し出により清水山一帯も合せて購入し、それ以後、「豊比弯声辧廚蓮高良大社の管理を外れ、護持祭祀のなくなった社殿(大きな木造瓦葺)は荒れ放題となって、昭和30年代後半〜40年代頃に撤去されたと思われる。

 ・「桃青霊神社」(石祠)は、新清水観音堂(豊比弯声辧剖内にあり、全国で初めて松尾芭蕉を神として祀った神社として知られるが、同地が石橋家所有となった後も久留米周辺の多くの俳諧人らの篤い信仰に支えられて、参拝者が絶えなかった。
 しかし、いつまでも民有地に置いたままにはできず、昭和40年(1965)前後頃に高良山内の宮地嶽神社分霊社(石祠)の境内に遷されたのではないかと思う。

 ※次回以降、「新清水観音堂・豊比弯声辧ε軅栂鄂声辧廚砲弔い董⊂綉内容を含めて知り得る範囲のことを付記する(下記)。

 ※つづく→「新清水観音堂〜明治維新で廃絶(高良山麓巡り18)」。
     →「豊比弯声辧素兌/合祀(高良山麓巡り19)」。
     →「桃青霊神社〜旧跡地/移転(高良山麓巡り20)」。

keitokuchin at 02:50|PermalinkComments(0)TrackBack(0)