2017年01月

2017年01月31日

水明荘(石橋家別邸)の前庭を歩く(高良山麓巡り28)

 前回「御井寺の「蝉丸塔」(高良山麓巡り27)」からつづく。

 御井寺参道口のお不動さんと新旧道分岐点の間に、ボランティアで親切に御井校区の歴史観光案内をされているA氏宅がある。
 そこで頂いた「御井校区歴史観光マップの概要」(コピー)に、「水明荘(すいめいそう)は、ブリジストンタイヤの石橋正二郎氏の別荘、庭園の植栽は自ら手がけられたと言われています。秋の紅葉は最高に映え、美しい景色を見せてくれます。」と書いてあった。

 (1) 「水明荘」(石橋家別荘)の前庭を歩く

1水明荘前庭P ・「水明荘」(福岡県久留米市御井町255)は非公開なので立ち入ることはできないが、同上A氏宅の横から祇園山古墳入口付近(観音堂・稲荷社、九州自動車道高架下・出目隧道などがあるところ)を結ぶ間(約180m)の私道(門外の前庭内)は通行できる。
(※画像1)。


 A氏宅横から直進すると、途中左側に水明荘の駐車場、北門(※画像2北口)があり、正面に正門(※画像3表門)がある。今回、私たちは、ここを歩いた。

2水明荘庭園道 ・特に秋の美しい紅葉を醸し出す楓は、門外の前庭にもあるが、主として北門内の丘陵斜面や正門内にあり、これらを合せて450本あるという。

 紅葉の時季には、ここからも邸内で映えるその美しい景色の一部を観賞することができる。


 今回、私たちが訪れたのは、まだその一部が色づき始めたくらいのときだったが、それなりに美しかった。

 ・今回の高良山麓巡りで歩いた放生池〜水明荘正門前の間(約380m)は、ずっと水明荘敷地の縁(東側崖下〜北側)を歩いていたような感じがし、それだけでも「水明荘」の敷地面積の広さを伺うことができるが、実際の敷地面積は、すっぽりと東京ドームが入る広さ(約44000)があるというから驚きだ。

3水明荘表門 ・そのほんの一部に過ぎない前庭内を歩いただけだが、前庭といっても優に大きなマンション1〜2棟建つくらいの広さはある。

 これが私邸のほんの一部だと思うと、何かしら異次元の世界に入ったような感覚になった。



 ・非公開の私邸とはいえ「水明荘」は、きっと高良山麓の広大な自然環境との調和という前提、目的、精神で作られたのではないかと思え、高良山の環境保全に係わる貢献度は高大だと思う。

 ・こんな広大な土地を所有し住むことなど絶対に出来そうもない私たちだったが、同行した人たちで、うらやましいといった感情をいだいた人は誰もいない。この静寂な前庭内を散策しただけで誰もが「雄大な気分になれた」と感動していた。ここだけでも、歩ける場所があるということは幸せなことだと思う。

 (2) 「水明荘」いろいろ

 水明荘について、御井町誌を読んで次のようなことが分かった。

  (幕末の頃だと思うが)当地には、久留米藩有馬氏第二家老馬渕与五郎の屋敷があり、御典医後藤氏、学者中野氏らが住んでいた。
  明治維新後、営林署が買い上げ、更に農作物品種改良に熱心だった厨氏が買い取って、みかん栽培を行っていた。
  昭和10年前後頃、石橋家が、その後の所有者の二人(村井氏と通称アメリカ帰りの「ニワトリ金ちゃん」)から当地を購入し、加えて高良大社の要望を受け、豊比弯声辧ε軅栂鄂声劼龍内地を購入した。
  昭和11年(1936)、東郷平八郎別邸を当地敷地内に移築し「水明荘」が完成した。

 (付記)
 上記に関して次のことを付記しておく。
  馬渕与五郎、後藤氏、中野氏などに関することは分からない。
  厨氏とは、明治期の御井町初代町長で、養蚕や農作物の品種改良等を推奨した厨八郎良秀のことである。
 ※別記→「厨家跡地碑〜故藤崎常蔵氏之碑(高良山麓巡り23)」参照。

  村井氏に関することは分からない。…直接関係はないが、久留米市で村井氏といえば、以前、知人4人が藤山町のムライケミカルパック株式会社(村井正麓卍)に務めていたことをふと思い出した(全員退職)。

 ・「ニワトリ金ちゃん」について、その血縁者等も一切分からないらしいが、もしこの人の姓が金であったら大陸系の人だったのかもしれない。

4水明荘裏門 ・水明荘東門の門柱と、その左横の崖面の石垣(※画像4)は、昭和5年前後頃、「ニワトリ金ちゃん」が、ここに住む予定で造ったものらしいが、これらを観ただけで相当の資産家だったのだろうと思える。
 しかし、当地での住居建築に取り掛かる間もなく石橋家に売却したようだ。

 ・この水明荘東門は、放生池の北西部、旧道(福岡県道750号)沿いに建つ「四町碑」の右横(東口)から白い砂利石が敷かれた私道に入り、すぐ右折したところにある。
 私道の両脇に2本の大きな立方体形の御影石の石柱が建っているが、これが「ニワトリ金ちゃん」が建てたという(現水明荘東門の)門柱で、現在、その間にある両開きフェンス扉は施錠、閉鎖されている。

 ・この旧道沿いの水明荘東口と四町碑の間に接して存在する石段が、水明荘建設時に水明荘敷地内に取り込まれた旧豊比弯声(明治維新前の新清水観音堂)、旧桃青霊神社の「旧参道口の石段」で、現在は片開きフェンス扉で施錠閉鎖されているので通行できない。
 参拝に便利な放生池の側にあった由緒ある神社は、現在、そこになく、今となっては惜しまれるところではある。

  水明荘東門から入る私道は、左カーブして丘陵上の紅葉の美しい邸内庭園を通り北門(正門前)に到るが、この間に、当初石橋正二郎=昭和51年(1976)満87歳没=別荘として建てられた「第一水明荘」、石橋幹一郎=平成9年(1997)満77歳没=私邸として建てられた「第二水明荘」があるらしい。

 ・現在の「第一水明荘」は、昭和30年(1955)に新築・建て替えられたもので、当時、「昭和31年(1956)の秩父宮妃殿下の久留米訪問時の宿泊地を第一水明荘とする」ことになり、対応する側としては、老朽化が進んでいた当時の「第一水明荘」に御泊めするわけには行かないということで建て替えたものらしい。

 ・なお御井町誌には、旧「第一水明荘」の建物は、昭和11年(1936)東郷平八郎別邸を移築したものとしているが、その別邸がどこにあったのかは記しておらず分からない。
 また、その建物は、当時の御井町公民館に移築し使用されたというが、現存の有無は未調。

 ・清水山内の(約900)の畔に「第一水明荘」が建てられたので、この別荘を「水明荘」(陰と陽を兼ね備えた別荘の意か)と名付けたのだろうか。ただし、この池は、自然と見合うような護岸工事をした上で、山水をここに引水して作ったものらしい。観たことがないのでこれ以上の説明はできない。

 ・御井町誌には、その名の由来は記していないが、「名付け親は海軍大将大角岑」だと記してある。 また、人生の大半を水明荘の管理人として過ごした故権藤麒麟太氏の家(久留米大学から高良山へ向かう道路角)に大角岑が書いた「至誠一貫」の揮毫額があるとも記されているが、権藤家が今もそこにあるのかは調べていない。
 なお、海軍大将「大角岑」とあるのは、「大角岑生」(おおすみみねお)の誤植ではないかと思うが、石橋正二郎と大角岑生は、存命中に親交があったのだろう。

 ※つづく→「観行院虚空蔵堂の参道通行不可 (高良山麓巡り29)」。

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2017年01月27日

御井寺の「蝉丸塔」縁切り伝承(高良山麓巡り28)

 前回「御井寺の蝉丸塔 ̄鐇擇蠹(高良山麓巡り27)」からつづく。

 (1)蝉丸塔を縁切り塔という理由

 御井寺の僧侶さんに伺った。清掃奉仕の途中、手を休めて、簡潔に次のお話しをしてくださった。ありがとうございました。

御井寺蝉丸塔と尊前燈籠 「京都で修行していた蝉丸という名の若い法師が、女性に慕われ、修行の邪魔になると京都を離れ、高良山にやって来た。改めてこちらで修行していたが、こちらでも女性に付きまとわれ京都に帰った。
 蝉丸が高良山内に建てたと伝わる供養塔を蝉丸塔といい、後に男女の縁を切る縁切り塔と言われるようになり、この塔を削って、その粉をお茶に混ぜて縁を切りたい人に飲ませると願いが叶うという縁切信仰を生んだ。」


 女性に慕われ付きまとわれる蝉丸は、好青年で親切な人だが、女に対して薄情、淡泊で逃げ上手だったとか、いろいろ想像は膨らむが、この蝉丸塔が、後に「縁切り塔」として信仰されるようになったのは、恨まれことなく立ち去ることができた人だったから、となるのだろうか(?)。

 この「蝉丸」は、前回記したように実在した人で、平安後期の盲目の琵琶法師(天台宗玄清法流か)、百人一首にも選歌がある一流の歌人でもあったというから驚きだ。
 もし「蝉丸塔」が、蝉丸が建てた、或は蝉丸が去ったとき既にあったものと考えると、前回記した蝉丸尊前碑の「寛政三年」の刻は、蝉丸塔の建立年ではないことになる。しかるに、この考えは、地輪に刻まれているという歌三首が、蝉丸が京都に帰った後に逢坂関で詠んだ歌であれば、矛盾がある。

 (2) 蝉丸塔についての昔話

 次に「高良山の昔話」に載っていた「蝉丸の塔=蝉丸塚(御井寺)」(意訳部分)をそのまま転記しておく。

 「昔、高良山にはお寺が20ほどあって、お宮よりお寺の方が有名だったそうだ。そのお寺の中に、盲僧琵琶の九州本山と言われるところがり、ここの坊さん達は手分けして一年中、九州内、琵琶を弾いて回って、正月の20日には必ず戻って来て、めくらの餅割りの行事をしていた。

 荒神琵琶も平家琵琶もそれは上手で、その中にも「今蝉丸」と言われる器量の良い琵琶法師さんがおった。男前で琵琶が上手だから、それはどこに行っても、若い女の子達にはもちろん、婆さん達にでも「蝉丸さん、蝉丸法師さん」と言ってもてていたそうだ。
 ある年の暮れ、都から使いが来て、御所に勤めよと言う命令を見せて、その上手な琵琶法師を連れて行ってしまったそうだ。

 彼が都に上ったその年の正月、餅割り行事も終わったある日のこと、そのお寺にヒョコッと女が、蝉丸さんを尋ねてきた・・・。
 他所を回っていた時に夫婦の約束をしたらしく「蝉丸さんに会わせてくれ、一緒にさせてくれ」と泣く。
 それは真剣で目の色も変わっていたので、和尚さんは困り果て、「都に行った」と本当のことを言えば、後を追って都迄でも行ったら琵琶法師の出世の妨げになる。

  さーどうしたものか、困った困ったと考えるうちに蝉丸塔を思い出して、「娘さん、よく聞きなさい。あの蝉丸は去年の暮、此処に帰って来たが風邪が元で死んでしまった。それであの塔を建てて供養している。もうこの世の者ではないから、あきらめて家に早く帰りなさい」と言ったそうだ。
 娘はそれを聞くと「ワーッ」と大声上げて泣き崩れ、いつまでも立ち上がれなかった。
 和尚さんも、盲法師達もいろいろ慰めたが、 娘は「家を飛び出してきたのだから、いまさら帰っても親に会わせる顔がない。ここにいて蝉丸さんの供養をしたい」と言って府中の女郎になり、死ぬ迄供養をしたという話。かわいそうな話だ。

 蝉丸塔は変形宝篋印塔の馬耳型を持つ三層塔で、蝉丸の歌3首が刻まれているそうです。俗に「縁切り石」といわれ、塔石を削って相手に飲ませれば浮気封じになるという俗信があり、昔はこの塔を削って持ち帰る人が多かったようで・・・中段あたりは非常に削られて・・・塔屋根部分が白く見えて・・・人の業の深さを感じます。」

 ※つづく→「水明荘(石橋家別邸)の前庭を歩く(高良山麓巡り28)」。

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2017年01月24日

御井寺の「蝉丸塔」 ̄鐇擇蠹(高良山麓巡り27)

 前回「御井寺の天狗像=愛宕山太郎坊(高良山麓巡り26)」からつづく。

 (1) 高良山の縁切り塔

1御井寺 高良山麓散策中に出会った人に「御井寺に縁切り塔があります」と言われた。「縁切り」といっても、特に今、何の縁を切るとか、思いつくことはなかったが、同行者に「行きたい」という人がいたので、見学(参拝?)に行った。
 (※御井寺所在地:福岡県久留米市御井町222)


 門前に天狗像のある「御井寺山門」を入ったが、その塔の場所を聞いていなかったので、とりあえず墓地の方にあるのかもしれないと思い、左側の本堂前広場へ歩を進めたら、左方の通用口付近で清掃をしておられた僧侶さんと視線があった。
 「こちらに縁切り塔があると聞いて伺ったのですが、どちらにありますか」と尋ねたら、「セミマルの供養塔のことですね、もとからここにあったものではないのですが…」と言われ、広場の隅に建っている小さなお堂を指さして教えてくれた。(※画像1)

2御井寺蝉丸塔 「セミマル…(?)」と首をかしげながら、広場の隅(墓地の前)の樹木の蔭に隠れるように建っている小さなお堂(三面ブロック基礎・木造格子吹き抜け壁・瓦葺)の前に行くと、堂内には、三つの笠(塔屋根)を持った三重の石塔(宝篋印塔の変形・馬耳型三層塔)が地面直に建っていた。(※画像2)



3御井寺蝉丸塔燈籠 堂前に建っている「御井寺蝉丸の塔」と書いた案内板(木柱)や、石灯篭(※火袋と受け部分が欠落)の柱に刻してある「蝉丸尊前」の文字を観て、やっとセミマル=蝉丸と気づき、「御井寺の縁切り塔」が、この「御井寺蝉丸の塔」(以下「蝉丸塔」と書く)だったのだと気づいた。(※画像3)
 迂闊な話だが、ここに着くまで、かつては知っていたはずなのに、「縁切り塔」と「蝉丸塔」がまったく結びついていなかった。


 (2) 蝉丸塔の旧跡地

 確かにこの塔は、僧侶さんが言われたように、もとからここにあったものではなく、いつ現在地に遷したのかを聞きもらしたが、もとあった旧跡地は清水山南東部の山裾…県道750号線は「高良大社二の鳥居」の先で大きく右カーブして上るが、カーブの上方の右下方辺り(左上の高良地蔵尊より手前)にあったような記憶がある。

 「縁切り塔」などは、用もないのに何度も行くところではないと思っていたが、気が付くとあれから長い年月が過ぎ齢を重ねている。Time slipでもない限り年月経過の縁を切ることはできない。

 高良山大社登拝ウォーキングでは、二の鳥居から石段参道を上るか、祇園山古墳・愛宕神社から山道を辿ることが多いので、もとよりこの場所は、死角になっていた。
 このようなところにかつて「蝉丸塔」があったのは、ここが蝉丸と、たとえばここに蝉丸が起居した寺か、庵があったとか、何らの係わりがあった地だったのか。

 (3) 野芥縁切地蔵尊と類比

 福岡市で縁切り地蔵としてよく知られている野芥縁切地蔵尊(福岡市早良区野芥4-21-34)に、以前(昭和60年10月の同地蔵堂全焼より前)行ったことがあった。
 一度は行って観ておきたいという衝動だけで行ったのだったが、お堂の壁一面に男女間の縁切り(縁談・夫婦・不倫ほか)祈願を書いた紙が貼りつけられているのを観て、また、原形をまったく留めていない地蔵尊石像の体(体の一部を少し削って、その粉を茶や汁に入れて絶縁したい相手に飲ませるという信仰)を観て、その凄まじさを覚えたことがあった。
 ※別記参照→「粕屋長者娘:お古能姫の悲劇(野芥縁切地蔵尊由来)」。

 旧跡地にあった頃の「蝉丸塔のお堂」の壁には、「野芥縁切地蔵堂」と同じような「縁切り祈願紙」が貼りつけてあったが、現在地の「蝉丸塔のお堂」は、御井寺の境内にあり、かつブロック基礎、吹き通し木造格子壁となっているので、さすがにそのような紙は貼りつけてない。
 だが、石塔の三つの笠石のうち、特に下二つの笠に削り取られた痕があり、ひょっとしたら今も密かに削り取って持ち帰る人たちがいるのかもしれない。

 改めて考えると、「縁切り信仰」は、当初、男女間の縁切り祈願だったが、徐々に人間関係、疾病、悪癖、ギャンブル、借金、果ては霊的な悪因縁、憑依除去等々の縁切りまでにも拡大していった、それだけ悪因縁を断ち切りたい多くの人たちによって、自らが生霊となる恐れもあるが、密かに続いる信仰なのだろう。

 (4) 蝉丸塔の建立

4御井寺蝉丸塔燈籠銘 上記「蝉丸尊前」と刻した柱石の側面に「寛政三辛亥歳八月吉祥日」の刻があるので、高良山に「蝉丸塔」が建立されたのは、江戸時代中期の寛政三年(1792)ということになるのか。(※画像4)
 もし「蝉丸塔」が、当時、文化人でもあった五十五代座主傳雄(伝雄)僧正により建立されたのであれば、平安時代後期の盲目琵琶法師(天台宗玄清法流か)歌人蝉丸(セミマル/セミマロ)が高良山に足跡を残していたことに鑑み、その供養塔を建てたことになる。

 この「蝉丸塔」が、どうして「縁切り塔」といわれるようになったのか、次回、その昔話等を載せるが、蝉丸は、女に薄情な僧だったのだろうか。
 ただし、その昔話の時代に、「蝉丸塔」を蝉丸が建てた、或は蝉丸が去ってすぐに建てられたものだとなれば、寛政三年は再建、若しくは単に「蝉丸尊前」と刻した石灯篭の建立年にすぎないということになる。
 しかるに、地輪に刻まれているという歌三首が、蝉丸が京都に去った後に逢坂関(下記)で詠んだ歌であれば、蝉丸が建てた、或は蝉丸が高良山にいたときに既に建っていたとは考えにくいが…。

 (5) 蝉丸は盲目歌人 (平安時代前期)

5蝉丸(百人一首) 「蝉丸」の実像は分からないが、百人一首ほかに和歌を残す歌人に蝉丸の名があり、同一人物であれば、平安時代前期(生没年不詳)の盲目の琵琶法師で、逢坂関(山城国と近江国の国境の関所)に庵をむすんでいだといわれる。(※画像5:百人一首の蝉丸)
 後にその霊は、逢坂関の近くに鎮座する関蝉丸神社上・下社(滋賀県大津市逢坂山)の相殿神として祀られ、音曲・芸能の神となったという。福井県越前町に伝蝉丸墓があるらしいが不詳。


 「久留米路の旅情(田中幸夫)」には、「古今集に有名な蝉丸の歌三首が地輪に刻まれている」とあり、
 「あふ坂の嵐の風はさむけれどゆくへしらねばいひつつぞ(寝)ぬる

の歌一首が載っていたが、地輪をよく観ておらず、分からないので、とりあえず「蝉丸の歌」として知られている「あふ坂(逢坂)の関」で詠んだ下記五首も参考までに載せておく。

 「逢坂の関の嵐のはげしきにしゐてぞゐたる夜を過ぎむとて」(続古今和歌集)
 「これやこのゆくもかへるも別れては知るも知らぬも逢坂(あふさか)の関」(百人一首)
 「秋風になびく浅茅の末ごとに置く白露のあはれ世の中」(新古今和歌集)
 「世の中はとてもかくても同じこと宮も藁屋も果てしなければ」(新古今和歌集)
 「これやこの行くも帰るも別れつつ知るも知らぬもあふさかの関」(後撰和歌集)

 ※つづく→「御井寺の蝉丸塔縁切り伝承(高良山麓巡り28)」。

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2017年01月20日

御井寺の天狗像=愛宕山太郎坊(高良山麓巡り26)

 前回「御井寺駐車場内の小堂:薬師堂か(高良山麓巡り25)」からつづく。

 (1) 御井寺天狗像と高良下宮社役行者像

1御井寺門前下 ・御井寺駐車場に面した新道の対面に御井寺の現参道口がある。
 その10mほど先、正面の石段の上に「天台宗高良山御井寺」の看板を(左柱に)掲げた「御井寺山門」がある。(※画像1)

 (御井寺所在地:福岡県久留米市御井町222)。


 ・その山門前の石段を上っているとき、突然、同行していた女性の一人が「怖い顔したものがあります!」と叫んだ。それは、山門前(石段上)の左側にあった。(※画像2)

2御井寺天狗 ・確かにいかめしい顔をした割と大きな石造僧形坐像だ。
 一寸観たとき、兜巾を付け、修験衣を着ていたので、高良山修験道に相応しい「役行者(役小角・役優婆塞)神変大菩薩像」か、と思ったが、「高鼻」(頭部が一部破損している)で、左手に「羽団扇」を持っているので、これは明らかに「天狗像」だ。

 ・もっとも修験道開祖「役行者」は、呪術を駆使し鬼神を使役し「別格大天狗(石鎚山法起坊)」とも称されたが、上記のように「羽団扇」を持つ形に作られた「役行者像」はない。

 ・因みに「役行者」は、生存中に「高良山を訪れた」との伝承があり、高良下宮社(久留米市御井町837)神殿の裏側に、製作時代は分からないが石造の「役行者像」が残っている。ただし、表面が削り取られており、原形を留めていない。この「役行者像」は、かつて高良山麓にあった高良山修験道の拠点寺院千住院極楽寺」(廃寺)にあったものだが、同寺は、明治5年(1872)の修験道禁止令で廃寺された。
 (※別記→「高良山麓巡り(10)~「役行者堂」(高良下宮社)」)。

 ・なお、修験者の信仰が深かった高良山内の愛宕神社本殿にも(愛宕修験の開祖でもある)「役行者像」があったというが、こちらは、明治維新政府の神仏分離令により廃仏毀釈されたのか。

 (2) 高良山天狗=愛宕神社天狗(愛宕山太郎坊)か

 ・御井寺内で、たまたま植木の根元の清掃をしておられた僧侶さんに、同山門前の石造天狗像について尋ねたら、「高良山の天狗です。明治より前の高良山は神仏習合の山で、山岳修行の象徴として天狗がいたと言われています。この像は、もと愛宕神社にあったものです」と言われた。

 ・当初、「高良山の天狗」と聞いたとき、一瞬、高良山には山麓に「高樹神社」があるので、高良山の天狗とは、英彦山高木神社の「彦山豊前坊天狗」のことかと思ったが、次に、この像が、「もと愛宕神社にあったもの」だと聞いて、高良山の天狗とは「愛宕神社の天狗」、つまり「愛宕山(岳)栄術太郎坊天狗(愛宕山太郎坊)」だったのかと思った。

 ・先に「高良山巡り21」で、高良三泉(朝妻、磐井、徳間)の一「徳間の清水」について、「徳間の清水は、愛宕神社の天狗が独鈷で掘り当てたという伝説もあるらしい」と書いたが、その「愛宕神社の天狗」である。なお、徳間の清水は、愛宕神社の南東約700mの山麓にある(久留米市高良内町)。

 ・ただ、天台宗の山だった高良山にいた「高良山の天狗」を、真言宗系かとも目される「愛宕神社の天狗(栄術太郎坊)」と同じにして良いのかと、少し気にはなった(※下記)。
 だが、愛宕神社境内にある由緒記に、愛宕神社は、万治三年(1660)に四十九代高良山座主秀賀法印が「隈山」に勧請し、寛文十年(1670)五十代座主寂源僧正が現在地の「礫山」に遷座した、とあり、高良山座主が山城國(京都)から「愛宕神社」を勧請したのであれば、当然その祭神(※下記)の使徒(脇士)である天狗(愛宕山栄術太郎坊)も供に来るはずなので、その辺のことは気にする必要はないのだろう。

 なお、勧請された愛宕神社の当初の鎮座地「隈山」とはどこなのか。何気なく久留米大学御井学舎の辺りだったのかと考えてはみたが、かつて隈山と称されていた地区は広範囲(御井町〜国分町)で、近年その一帯の地形は、都市開発、バイパス工事などもあり原形を留めないほどに目まぐるしく変わってしまっており、よく分からない(未調)。

 (3) 愛宕神社付記 前ε羯蛎膰現(将軍地蔵菩薩)と脇士

 ・先に「高良山麓巡り(3)・(4)」に「愛宕神社」(久留米市御井町1)を掲載したとき「愛宕神社の天狗像」について書いていなかったの、今回若干付記しておきたい。(※別記→「高良山麓巡り(3)~岩不動・愛宕神社(その1)」。→「高良山麓巡り(4)~岩不動・愛宕神社(その2)」)。

 ・「愛宕神社」は、県道750号沿いの「高良玉垂宮(高良大社)二の鳥居」の前から、県道を少し上ったところの右側「礫山」(つぶてやま)に鎮座している。県道側にある参道口は裏参道口で、表参道口は、「愛宕神社一の鳥居」(石鳥居/大正6年建立)が建っている旧府中宿矢取(久留米市御井町441付近、近くに矢取公民館がある)にあった(※画像3)。

17愛宕神社鳥居と山 ・この「愛宕神社一の鳥居」から正面に愛宕神社が鎮座する「礫山」を望むことができる(※画像3)が、現在、この一の鳥居のすぐ先を九州自動車道が横断(参道を分断)しており、かつてここにあった愛宕神社表参道下部の石段道は消滅しており、直登できない。
 したがって、北側の九州自動車道高架下の出目隧道〜祇園山古墳、又は南側の十三隧道〜岩不動を迂回して、残存している表参道上部の石段道を上ることになる。


 ・愛宕神社は、明治維新前は「青天寺」とも称した神仏習合の社寺であり、当時、本殿(本堂)には祭神火加具土命(ほのかぐつちのみこと)」=(軻遇突智大神・加具土之神・愛宕大神/火盗災難除去の戦神)の本地仏である「将軍(勝軍)地蔵菩薩像」を安置していた。
 そして、将軍地蔵菩薩は、修験道では神仏習合の「愛宕山大権現」の名で呼ばれていた。

 なお、この本尊「将軍地蔵菩薩像」は、明治の廃仏毀釈の難を逃れ、臨済宗妙心寺派「福聚寺」(久留米市合川町2-1)の本尊として現存している。

 ・また、愛宕神社本殿に、愛宕山大権現の脇士(名代、使徒、警護)として安置されていた修験道開祖「役行者像」(石鎚山法起坊とも称した別格大天狗)は、上記したように廃仏毀釈の難にあったのではないか。

19愛宕神社岩不動 ・一般的には、愛宕山大権現の脇士として「不動明王」や「愛宕山栄術太郎坊天狗」を安置することが多いので、この愛宕神社の場合、「不動明王」は、当初、本殿ではないが、表参道南脇道の岩不動(三尊磨崖種子)境内にある不動明王石像がそれに該当するのかと思った。
 (※画像4は岩不動境内)。

 しかるに、石造の背面の岩肌に朱色の塗料を塗った磨崖種子(梵字)があり、その種子は、左:ベイシラマンダヤ(毘沙門天)、中央:イー(地蔵菩薩)、右:カンマン(不動明王)で、この「イー」が将軍地蔵菩薩(愛宕山大権現)を指しているのだったら、ここではカンマン(不動明王)の種子がそれで、また「毘沙門天(ベイシラマンダヤ)」を脇士に加えていることになる。

 (4) 愛宕神社付記◆前ε羯咳表兮析宰慧袈

27愛宕神社神馬石造 ・愛宕山大権現の脇士たる「愛宕山栄術太郎坊天狗像」(以下「太郎坊天狗」と書く)は、明治初年(1868)以前は、現愛宕神社境内で「馬の石造」(明治9年(1876)3月奉納)が置いてあるところに置かれていた。
 (※画像5は、もと天狗像が置かれていた場所にある馬の石造)。

 かつてここに置いてあった天狗像が上記「御井寺山門」前に遷され保存されている「御井寺の天狗像・高良山の天狗像」と通称されている「愛宕山太郎坊天狗像」(※画像2)である。
 愛宕神社表参道(石段)を上ったところ(愛宕神社社前)に鎮座して愛宕神社守護役(悪霊退散・諸難消滅)を担っていた太郎坊天狗は、今は御井寺山門前に遷って御井寺守護役を担っていることになるのか。

 ・先に「真言宗系の愛宕神社の天狗(栄術太郎坊)」と上記したのは、この太郎坊が真言宗開祖弘法大師(空海)の十大弟子(高僧真済、真雅、実恵、道雄、円明、真如、杲隣、泰範、智泉、忠延)のひとり「愛宕聖の真済上人」の異称とされるからだが、しかし、愛宕大権現を信奉した愛宕修験は、「大宝年間(701〜704)、役行者と泰澄が山城国(京都)愛宕山に登り愛宕山太郎坊天狗の神験に遭い朝日峰に神廟を設立した」ときに始まるというので、真済上人(800〜860)の時代より一世紀ほど古い。

 ・全国的には「四十八天狗」がよく知られているが、なかでも、「愛宕神社の天狗」は、「愛宕山太郎坊」と呼ばれた「大天狗」の一で、この「愛宕山太郎坊」を含む「比叡山次郎坊、飯綱三郎坊、鞍馬山僧正坊、大山伯耆坊、彦山豊前坊、白峰相模坊、大峰山前鬼坊」を「八大天狗」といい、このほかにも「日光山東光坊、羽黒山金光坊」などの大天狗がいた。
 このうち「愛宕山太郎坊」を一番に記すので、愛宕山太郎坊を「天下一の大天狗」と称しその眷属・使徒も最高に多いという。

 ・高良山には、「四十八天狗」に含まれる「筑後の天狗」という年寄格の天狗(実態不詳)がいたというので、ひょっとしたらこちらが「高良山の天狗」であった可能性もありそうだ。
 因みに、年寄格の格付けは分からないが、天狗には、別格大天狗(役行者石鎚山法起坊)や大天狗のほかに、小天狗、烏天狗、青天狗、木の葉天狗、巨大天狗、怨霊天狗等々といった格付(区分・名称)ものあったらしい。
 ※別記参考→「上秋月愛宕神社にて(1)~太郎坊天狗(朝倉市)」。
    →「愛宕神社へ(2)旧太郎坊社・太郎坊橋(宗像市冨士原)」。
    →「太郎坊神社跡から冨士原原口阿弥陀堂へ(宗像市)」。

 ※つづく→「御井寺の「蝉丸塔」(高良山麓巡り27)」。

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2017年01月18日

酉(福鶏)の干支色紙を頂いた

干支色紙・酉 遅ればせながら今年(平成29年)も、「干支色紙」掛け軸を頂いた。

 今年は、年明けの天気が良く暖冬かと思っていたら、いきなりの寒波到来、その最中に法事、そして風邪をひき、気が付けば植木鉢の植物が枯れていた。

 今年の干支「」には「ちぢむ」という意味があるらしいが、寒さで心も体が縮んでしまった。


 ところが、「ちぢむ」には「果実(物事)が十分に熟した完熟状態」(それまで行って来た仕事や朝鮮の成果が実を結ぶ)という意味があるという。
 そう願いたいところだ。だが、何事にも波があるので油断は大敵だ。

 色紙の文字「福鶏」とは「福をもたらしてくれる鶏」という意味だが、今やその鶏も鳥インフルには悩まされている。
 この時期、私たちも、鳥インフルならぬ人感染のインフルエンザに注意しなければならない。

 それにしても、この色紙の「福鶏」、本当に生き生きして福をもたらしてくれそうだ。そんなことを考えながら、この色紙掛け軸を壁に掛け、安寧を願って拍手。

 作画者の南岳杲雲(なんがくこううん)師は、高野山真言宗宗潮寺住職、讀賣書法会理事、日本書芸院評議員。

 なお、昨年(申年)の干支色紙(南岳裕史作画)は仕舞った。

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2017年01月15日

御井寺駐車場内の小堂:薬師堂か(高良山麓巡り25)

 前回「御井寺参道口と願掛けお不動さん(高良山麓巡り24)」からつづく。

1御井寺P小堂 (1) 旧道(福岡県道750号線)沿いの御井寺参道口(旧参道口ともいう)・不動明王堂前から参道小橋(磐井川架橋)を渡ると、左側に御井寺駐車場がある。
 ・この駐車場は、その先で参道を横切る新道沿いまで広がっているが、その新道沿いの北隅に半畳ほどの小さなお堂(ブロック木造瓦葺の小祠)がある。
 (※画像1:久留米市御井町235付近)

 (2) お堂の右前柱に標識らしき板が貼りつけてあるが、そこに書いてあったと思われる文字は完全に消えており何と書いてあったかは分からない。
 ・堂内中央に安置してある小石仏(台座あり)には赤い前掛けが掛けてあったので、仏像の形がはっきりとは分からなかったが、薬師如来坐像ではないかと思う。
 …この小堂の名が分からないので、一応小生の覚えとしては「御井(高良山下)薬師堂」としておくことにする。
 ・その両脇に地蔵菩薩小立像と僧形小坐像(弘法大師坐像か)が置いてある。
 ・生花やお水などが供えられ、新道脇にあるけど、さほど中はほこりをかぶっていなかったので、日々ご奉仕をされている人たちがおられるのだと思う。

2御井寺P堂内 (3) 堂内壇上床に、同上小坐像を重石にして「四国八十八ヶ所霊場」の紙札が置いてあった。触っては見なかったが、どなたかが四国霊場参拝の証として置いたものか。(※画像2)。

 ・この紙札を観ていて、何とはなしにふと、この小堂は、ひょっとしたら明治の頃、四国八十八ヶ所霊場を模して当地御井(三井)に作られた四国八十八ヶ所霊場札所の一つだったのかと思った。


 ・当地(駐車場)を管理する御井寺は天台宗だが、天台宗寺院の管理地内に真言宗系の四国八十八ヶ所霊場札所があったとしても別におかしいことではない。
 そこで、この後、御井寺に行き、この小堂のことを尋ねたら、御井寺では管理していない、道祖神が祀ってあるのかもしれないといわれた。
 ということは、御井寺としては、当地が御井寺駐車場となる前からあったものなので触れないということなのか。

3御井寺P参道と裏山 ・上記標識板も消えており、ほかでは問合せしていないので、現時点で四国霊場と関係あるものかどうかは分からない。
 ただ。御井寺の裏山には、かつて高良山(三井)四国八十八ヶ所霊場札所があったというので、当小堂がその札所の一であったとしてもおかしくはないと思った。

 (※画像3は、御井寺参道、駐車場、小堂、山門、裏山など)。


2151不動堂石碑 (付記) これまで高良山麓で四国八十八ヶ所の標識を観たのは、高良下宮社の近く(府中公民館後ろの里道)の不動明王堂の前に建っている「三井四国八十八ヶ所 第四十八番八坂寺 明治四三年八月」と刻した石碑一つのみである。(※画像4/八坂寺不動堂/久留米市御井町2467-2)。
 ・この「三井」は、「旧三井郡」のことだと思うので、久留米市御井町は旧三井郡に含まれた時期がある。三井四国の実態については知らない。

 ※別記参照→「高良内町の十一面観音堂 (高良山麓巡り41)」。

 ※つづく→「御井寺の天狗像=愛宕山太郎坊(高良山麓巡り26)」。

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2017年01月13日

御井寺参道口と願掛けお不動さん(高良山麓巡り24)

 前回「厨家跡地〜故藤崎常蔵氏之碑(高良山麓巡り23)」からつづく。

 (1) 御井寺参道口にて

1不動・旧道 ・前回の「故藤崎常蔵氏之碑」から旧道(福岡県道750号線)を60m下ると、T字に右折する「御井寺参道」がある。

 この右角に、御井寺参道口の「不動明王堂(お不動さん)」(木造瓦葺)があり、正面は右折道(大鳥居から上ってくると左折道)の方を向いている。(※画像1)

 ・上記故藤崎常蔵氏之碑と不動明王堂の間の旧道沿い(旧道と磐井川に挟まれた幅の狭い敷地が続く)には、廃屋もあるが、2軒の新築家屋があったので、ここでも世代交代をあっているのだと思った。だが、「不動明王堂」の後ろ側(旧道沿い)にある小さな空き地に生い茂っている放置状態の雑木はいただけない。

 ・旧道は、「不動明王堂」の前で少し広くなっているので、明治年間ここにお不動さんが安置されて以降、高良山大鳥居(一の鳥居)から旧道を歩いた高良山登拝者は、必ずここで、ほぼ左正面にいる「お不動さん」に気付き参拝していたと思われる。

2不動・貮町碑 ・「不動明王堂」は、T字路の角にあり、ここが御井寺参道口(旧参道口ともいう)で、その対面の角地には「貮町碑」の標石ほかの石碑が建っている。
 「貮町碑」は、別記したように、もとは旧道の反対側にあったものだが、いずれにしろこれらの石碑は、お不動さんとは直接関係ない。(※画像2)


3不動・磐井川 ・「御井寺参道口」(T字路)から磐井川に架かる小橋(不動明王堂の左前方)を渡り「御井寺山門下」まで北東方向に一直線に伸びる55mの道が「御井寺」(明治11年(1878)復興/久留米市御井町222)の「表参道」である。
(※画像3・4)



 因みに御井寺は、明治2年(1869)廃止された高良山座主寺院(三井寺[御井寺]蓮台院)を、明治11年(1878)にその名跡を継ぐ形で、旧宝蔵院の址に復興された「高良山御井寺」である。

 ・なお、この参道の途中を高良山新道バイパス(昭和36年開通)が横切っており、現在は、同所沿いにある「御井寺駐車場」辺りを「参道口」と言い、不動明王堂前は「旧参道口」と言うことも多いようだ(本稿は「参道口」と書く)。

 (2) 御井寺の後ろの丘陵を眺める

4不動、御井寺参道 ・参道口T字路から参道を眺めると、すぐ左側に御井寺駐車場、正面に御井寺の山門御井寺の甍が見えるが、御井寺の全景は、その前方の建物が邪魔して見えない。
 また、御井寺の後方に、両横に伸びる丘陵が見え、またその丘陵一面を覆っている竹林(多分孟宗竹)の様子も見える。(※画像4)


 なお、この丘陵の左方は、九州自動車道が分断し、その左の山裾(谷あい)に「磐井の清水」(井戸)があり、磐井の乱の終息地とも言われているが、この丘陵上に筑紫君磐井が出城を築いたと想像している。

 そんなに遡らなくても、近年までこの丘陵を含む周辺に「高良山(御井・三井)四国八十八ヶ所霊場札所」があった。
 曖昧だけど、随分前に御井寺の本堂の後ろ辺りから丘陵に上ったような気もするが、現在は、何処も竹林は猪の絶好の棲み処となっているので、迂闊に踏み入ることは非常に危険。したがって今は、丘陵上にあった霊場札所は竹林のなかに埋もれ荒れ果てていると思う。

 (3) 御井町・御井寺参道口のお不動さん

5不動・座像 ・御井寺参道口の小堂宇「不動明王堂」に安置されている「石造不動明王坐像」(※画像5)は「御井町のお不動さん」「御井寺参道口のお不動さん」「高良山下のお不動さん」等々と呼ばれているが、当地では単に「お不動さん」と呼び、地元の人たちが日々お花やお水を供している。(以下「お不動さん」と書く)。

 毎年8月28日に地元で地蔵盆の供養祭をしていたらしいが、今は御井寺に祭事を委託しているのではないかと思う。
 また、お堂の前に腰掛が置いてあるので、老人らの歓談の場所にもなっているのかもしれない。

 [彩色]
 ・このお不動さんの肌には彩色がないが、左腕のブレスレットの一部に青色の彩色が残っているので、もとは肌全体に青黒色の彩色が施されていたと思う。なお、後背の火炎の朱色はかなり残っている。

 [鉄鎖(羂索)]
 ・このお不動さんは、左手に、躰の大きさと似合わない細い鉄鎖を持っており、左腕には同様の鉄鎖をアクセサリーのように巻き付けているが、この細い鉄鎖を以て不動の金縛りや衆生済度の羂索(けんさく)を想像するのは無理だと思った。
 ・ただ、このお不動さんが造立された当時に持っていた羂索は既に失われており、今持っている鉄鎖は、このお不動さんに願掛けをしてその願いが叶った人たちが奉納したもので、その大きさはあまり関係ないようだ。

 ・つまり、このお不動さんは「願掛け不動」であり、願いが叶った人たちが、そのお礼に鉄鎖を奉納する、という習俗があるようで、これにより奉納された鉄鎖なので鎖の大きさにこだわって上記のような想像をする必要はないということなのだ。
 改めて、堂内を観ると、このほかにも奉納された鎖が置いてあり、割と大き目の鉄鎖もあった。
 ただ、錆などで傷みかけた鉄鎖を観ていると、最近は、時代も変わりここに願掛けに訪れる人が少なくなっているのかとも思った。

 [大繰り数珠]
 ・お堂の前部に天井から割と大きめの木製繰り数珠 (念珠)が吊り下げてある。この数珠は、参拝者が祈願をするときに使う「お不動さんお願いの数珠」なのだろう。祈願者は、この数珠を手で繰りながら、お願いごとをいい、或は不動明王御真言をあげる。

 なお、大繰り数珠を観たのは久しぶりで、前回観たのは確か「上八元末観音堂(宗像市)」の「大日様お願いの数珠」だった。

 [旧安置地で廃仏毀釈]
 ・このお不動さんは、ここ御井寺参道口の不動明王堂に安置されているが、もとからここにあったものではない。

6不動・石碑 ・「不動明王堂」の右横(旧道上に建っている電柱の真後ろ)に小さな「由緒碑」(※下記)が建っている。(※画像6)
 この刻字(※下記)を読んで、当初、このお不動さんは、高良山に廃仏毀釈の波が吹き荒れる直前の慶応2年(1866)に当地で造立され廃仏毀釈をくぐり抜けてきたものと思っていた。
 しかし、後で「ふるさと御井」の不動金しばりを読んでいて、このお不動さんが、下記のように、当地で造立されたものではなく、また、廃仏毀釈の波をもろに被っていたことが分かった。

 ・もとは、玉垂宮(高良大社)本殿南坂の一軒茶屋に祀る石造不動明王坐像(願主高良山57代座主亮恩)として造立され、同所に安置されていたものだった。
 ・明治2年(1869)明治維新政府に迎合した久留米応変隊士らが勤王派と称し高良山に駆け上り山内の仏像仏具を徹底的に破壊したとき、この像は、下向坂(旧参道鳥居横に標識あり)の坂下から谷に突き落とされた。後に当地の人たちが引き上げて、現在地に遷しお堂を造り安置し祀ったものだと分かった。
 ・いつの世にも時代の波に翻弄され時代の変革者気取りで無分別なことをする、或はさせられる人たちは多いが、それによる精神文化、歴史伝統文化遺産等の破壊、消失は痛手である。

 ・しかるに、このお不動さんは、突き落とされた下向坂の下の谷から引き上げられたので、いってみれば、法難に遭っても立ち戻った、つまり回り道をしてここに納まった有り難く力強いお不動さんであり、このお不動さんに健康回復(病気平癒)、遺失物回帰、家出者回帰などの願掛けをしたらきっと回り道をしてでも叶えてくださると信じられたのだと思う。

 [由緒碑]
 ・上記の由緒碑(※画像6)は、当地に不動明王像を移した後に、改めて造立の由緒を残しておくために作ったものとも考えられなくもないが、下記にその金石文(一部読みづらい刻字(?部分)もある)を転記しておく。

 「奉造立不動明王一躯 為奉讀誦金剛般若経五(萬部?) 供養也願主僧正(亮恩?) 慶応二年龍集丙寅二月石工秦育蔵則重 同伸吉則勝」。

 このうち「慶応二年」以下の刻字は、石碑の左面にあり、その左側にあるお堂との間の隙間が小さく肉眼では観にくい。カメラで接写すると分かる。

 文中に「金剛般若経五萬部」とあり、この経典を不動明王の開眼供養で読誦することが分かる。金剛経ともいわれる比較的短い経典が選ばれたのかもしれないが、それにしても五萬部は多い。それだけの部数あげたことも、あげることもまずないと思うが、想像を絶する数である。それ相応の経典勤行力が入魂されている。

 ・なお、お堂内には「天保十一年庚子歳十一月吉日(捨資主沙門亮遠)」と、かなり古い年号=天保11年(1840)=を刻した花瓶や、「當院亮祐作」とのみ記したものもあるが、それぞれ後家になっているので、これらも谷から一緒に拾い上げられたものかもしれない。
 そして、奇しくもここに「亮遠」「亮祐」「亮恩」と「亮」の刻名があるものが集積され残ったことは偶然か。

 ・明治維新による神仏分離以前の高良山は、天台宗徒が治めた山であり、密教・修験系の不動明王(お不動さん)信仰は盛んであったと考えられ、山内の愛宕神社表参道下に残っている「岩不動」はよく知られている。
 また、高良下宮社の近く(府中公民館後ろの里道)に残っている「八坂寺不動堂(黒肌不動明王座像)」を拝観したこともある。
 ※別記参照→「高良山麓巡り(3)~岩不動・愛宕神社(その1)」。
      →「高良山麓巡り(8)~八坂寺不動堂」。

 「ナマクサンマンダバサラナンセンダマカロシャナソハタヤウンタラタカンマン」合掌。

 ※つづく→「御井寺駐車場内の小堂:薬師堂か(高良山麓巡り25)」。

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2017年01月06日

厨家跡地碑〜故藤崎常蔵氏之碑(高良山麓巡り23)

 前回「高良大社参道標碑・町標(高良山麓巡り22)」からつづく。

 (1) 厨家跡地

1御厨 放生池畔の「四町」碑(水明荘裏門前)から福岡県道750号線(通称旧道)を下ると、すぐ右側に空き地がある。

 ここは、現在、高良大社参拝者専用駐車場になっているが、普段はその入口が閉じられているようで、駐車している車の姿はない。

 その一角に「厨家跡地」(みくりやけあとち)と刻した高さ1mほどの御影石の石柱碑が建っている。以前この道を通ったときは気付かなかったので、最近建てられたものではないかと思う。

 明治初期、神仏分離で高良山座主寺院・三井寺蓮台院が廃止されるまで、高良山には座主坊の財務司、目代(もくだい) を担う(みくりや)職があったが、この石碑を観て、室町時代後期以降、その役を担ってきた厨家(みくりやけ)の住まいがここにあったことが分かった。
 なお、厨家代々の墓の一部は再興された御井寺にあり、直系子孫は東京在住か。

 (2) 厨家付記…厨亮俊ほか

  厨家に関して、御井町誌ほかの記事から次のようなことが伺える。

 ・厨彦右衛門良春…室町時代末期に近い頃、高良山第42代座主に良胤権僧正(天文10年[1541]年8月寂)がなったとき、その弟「良笄権律師」が厨役に就き、その後、その子孫が代々同役を引き継いだようで、良笄を初代として五代目の「良春」のとき、初めて同家の姓を「」とし、自らは厨彦右衛門と名乗った。正徳2年[1712]10月22日没。

 ※…厨山 聖光院 安養寺(浄土宗/久留米市御井町534)の縁起に、承元元年(1207)御井の地頭職 厨大弐守が大檀越となって堂字を建立したので厨山の山号を持つとあり、上記とこの厨大弐守との系譜が分からないが、厨氏が当時から高良山目代(厨)を務め厨姓を名乗っていたのであれば矛盾する。
 ただ、当時、天台宗高良山目代だった厨氏が、高良山麓に浄土宗寺院の堂宇を建立することは違和感があるが、相和があったのだろう。
 なお、前回記した末次四郎(町標碑建立者)の菩提寺か。

 ・厨亮俊…幕末の元治2年(1865)3月、当時、比叡山延暦寺観泉坊権大僧正だった「厨亮俊」(当時35歳)が「高良山59代座主」を兼務、慶應4年(1867)明治維新の神仏分離令により、高良山にも廃仏毀釈の波が押し寄せている最中の明治2年8月24日高良山に転住、三井寺蓮台院廃止により還俗し「高良山最後の座主」となった。
 明治7年(1874)旧三井寺蓮台院の名跡を継ぐ「御井寺」が高良山下に再興される動きあり僧籍復帰。(※御井寺再興は1878 (明治11))。
 明治9年(1876)阿蘇郡黒田村(阿蘇市黒川)坊中に再興された「法雲寺」(旧雲生山西巌殿寺、現阿蘇山西巌殿寺/天台宗最高位・阿蘇山修験道拠点寺院)の檀信徒に請われて同寺住職となり転住。
 翌明治10年(1877)西南戦争で、薩摩軍が阿蘇郡に進入したとき、同郡内でそれに反対する一揆が起きたので、その鎮静のために駆け回っているとき薩摩軍に捕縛され、西郷隆盛に批判的な説法を行い一揆を誘導したとして責めを負いその罪を一身にかぶり虐殺された(命日4月13日・行年44歳)。
 辞世句「こうしてこうさきやこうなるものは知りつつこう咲く山桜」…それはまさに山桜が咲いているときのことで、その無念さが伺えるが、修験道本尊蔵王権現の化身ともみなされる山桜(シロヤマザクラ)に包まれ、その事績は当地の人々の心に残り、毎年命日に西厳殿寺で行われていた招魂慰霊際は、後に人々の無病息災を祈願する「阿蘇山観音祭り」に発展した(天台修験作法に則る採灯大護摩供、火渡り等執行)。
 波乱の人生を終えた「厨亮俊の墓」は、西巌殿寺足手荒神堂の左にある。

 ・厨八郎良秀…明治期の自由民権運動家、高良山同志会(明治初期にできた男児や男性の結束組織で、躾・奉仕活動等を行う、一部現存)の創始者。御井町郵便局長、御井町初代町長、郡会議員〜養蚕や農作物品種改良等を推進。果樹園・種苗園創設〜現厨家跡地前の敷地(現水明荘所有地内)を購入して、みかん栽培を行ったこともあった。

 ・厨幾太郎良直…良秀(上記)の兄。千歳会(明治13年発足の筑後北部の自由民権運動団体)会員。大牟田高校初代校長、晩年に高良山の杉を売り金山経営に乗り出し倒産。歌人、書道家(高樹神社の玉垣、良秀の碑、藤崎氏の碑文を書いた)。

 (3) 故藤崎常蔵氏之碑

2藤崎常蔵碑 上記の厨幾太郎が書いたという「藤崎氏の碑文」とは、厨家跡地の下方・平屋の家屋(久留米市御井町214)の先隣(旧道沿い)にある「故藤崎常蔵氏之碑」(大正10年5月建立)と書かれた石碑の碑文のことだと思うが、達筆である。



 藤崎常蔵氏之氏之碑は、四方を石垣と石屛で囲まれた広い敷地の中央に、旧道を向いて建っているが、一見すると高い石垣状の四角い基台の上に乗っている御影石の墓石といった感じである。(※画像2)
 
 旧道に面して建つ2本の石柱門の間にある観音開きの錆びた鉄格子扉は、勝手には開けられないようになっていたので枠内には入らなかったが、石碑の裏面には大庭陸太撰、厨幾太郎書による藤崎常蔵の来歴と賛文が刻されているらしい。

 藤崎常蔵(安政元年[1854]4月生、大正7年[1918]10月16日没・65歳)は、御井町の人で、町会議員、郡会議員、明治21年(1888)織屋を営んでいたという。
 高良山本坂下の石碑の一つにその名が見え、また、高良山内の愛宕神社石鳥居左横石柱にも「一、金五円藤崎常蔵」の刻があり、当時地元では知られた人だったと思われる。

3参町碑 なお、江戸時代までは、この碑の前の旧道上に「明け六つ、暮れ六つ」に開閉された高良山の門(木戸)があったらしく、ここから山側が高良山の山内(境内)となっていたのかもしれない。

 (注)「明け六つ、暮れ六つ」…江戸時代まで、明け六つは、朝、薄明が始まったとき、暮れ六つは、夕方、薄明が終わったときとして、時刻の基準とした。

 ※画像3:参町碑から山側(厨家跡地、放生池方向)を観た旧道(県道750号線)でインターロッキングが敷き詰めてあり歩きやすい。右側は水明荘敷地、左側の電柱の後ろが故藤崎常蔵氏之碑の敷地。

 ※つづく→「御井寺参道口と願掛けお不動さん(高良山麓巡り24)」。

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2017年01月03日

高良大社参道「町標」碑(高良山麓巡り22)

 前回「磐井川起点から旗崎・磐井の清水・応永地蔵(高良山麓巡り21)」からつづく。

1四町碑 「(旧)新清水観音堂等の旧参道口(高良山麓巡り17)」に、かつて清水山にあった新清水観音堂・豊比弯声辧ε軅栂鄂声劼寮价併夏擦瞭口(放生池北西口の西側道沿い)の石垣の前に「四町」道標碑(大正3年[1914]10月久留米市呉朊町末次四郎寄進)に建っている、と記した。(※画像1は四町碑)

 これは、高良大社大鳥居(一の鳥居)を起点として、高良大社本坂下までの表参道を十五町として、その間の道標として一町ごとに建てられた参道(道程)を示す高さ約1mの町標碑(石柱)の一つである。

 そのすべてに「大正三年十月久留米市呉朊町末次四郎」の刻がある。
 (※高良山の歴史年表に「1914(大正3)高良山参道に町標寄進(末次四郎)」の記載がある)。

 大鳥居の起点から放生池入口までが「四町」であれば、この間には「起点町標碑」を除き4本の町標碑が建っている計算になる。

2高速下・一の鳥居 しかし、一町を108mだとすると、大鳥居の上方の九州自動車道高架下(※画像2)辺にあったことになる「壹町」碑を確認できない。自動車道建設工事の際に失われたのだろうか。

 ※(注)「一町」とは、六十間のことで、約108mらしい。


 今回の高良山麓巡りで確認した3本とは、九州自動車道高架下より山側にある二股道(右側入口)と放生池を結ぶ、俗に旧道と通称している福岡県道750号線(御井諏訪野線)沿いに建っている「貮町」碑と「参町」碑、及び上記の「四町」碑である。

2貮町碑・「貮町」碑は、お不動さん(御井寺の元参道口)の前(磐井川岸)に建っている。(※画像3)

 この碑は、距離的にみると、もう少し下方の道路の反対側にあったと考えられ、何かの都合で移設したものではないか思う。
 なお、後ろの石碑2個は不詳。


3参町碑・「参町」碑は、「貮町」碑と「四町」碑との間辺り、坂上の民家(久留米市御井町265)の坂下入口付近(第二水明荘の石垣の下)に建っている。(※画像4)






・「四町」碑は、上記のとおり放生池北西口の西側、フェンスで閉じられた旧豊比弯声辧ε軅栂鄂声匯夏酸价覆瞭口の左横にある。(※画像1)
 なお、その右方には、石橋家水明荘の大きな裏門(施錠あり)がある。

 なお、「五町」碑は、放生池より上方の高樹神社〜二の鳥居の間にあったのではないかと思うが見当たらないので、昭和36年(1961)頃の道路拡張時に消滅したのかもしれない。これより上方の参道ある「六町」〜「拾五町」碑は、すべて残っている。

 [付記(1)]〜町標の起点碑
 ・高良大社大鳥居(一の鳥居)を玉垂神社(高良大社)参宮道の起点として示す「町標起点碑」は、久留米市立御井小学校正門前の左側(県道750号線沿い)の植え込みのなか(石燈籠の後ろ)にあり、次の刻がある。(※区切りはこちらで勝手に開けたもの)。

 「寄進 自此華表至玉垂神社本坂下路程十五町 毎町建路表以示町数 然随歳月変遷或毀蝕或転逸一々上可知之今也 当社格昇進諸般設備悉行修築改善之時遺棄之上顧者甚可惜矣 予以生子良岳之麓且祖先以來為氏子文縁新寄進路表欲以供参拝者之便 亦予敬神報徳之一微志而巳 大正三年十月 久留米市呉朊町 末次四郎」。

 ・この碑文によると、もともと高良山には大鳥居から玉垂神社(高良大社)本坂下までの路程十五町の間に町数を示す路表が一町毎ごとに建っていたが、歳月の経過のなかで忘れられ、それらは神社の社格が昇進し諸設備の修築改善等が行われたときに遺棄されたようだ。
 このことは、当山麓に産まれ、祖先来の氏子であった末次四郎としては甚だ口惜しきことで、改めて参拝者の便に供えるべく大正3年10月、新路表を寄進し、敬神報徳の一微の志としたことが伺える。

 [付記(2)]〜末次四郎(町標碑建立者)
 御井町誌によると、末次四郎に関して次のようなことが分かる。(末次家の現状は分からない)
 ・「久留米人物誌」に「長崎、朝鮮、満州で広く活躍した貿易商人」とある。
 ・朝妻の上隈山墓地(納骨堂の横に敷地あり)に建てた石碑や石塔に末次家先祖の詳細を記録している。
 ・菩提寺は、浄土宗安養寺(久留米市御井町534)である。
 ・末次家は、代々の府中の庄屋を務めた名家で、かつて福岡銀行御井町特別出張所辺り〜裏の大谷川側までの間に屋敷があった。
 ・駅制度廃止で府中の将来に蔭りが生じると、四郎は直ちに通町へ出て商才を発揮〜開港場・長崎で貿易を行い、次いで朝鮮、満州で敏腕を振るい海軍御用達業者になる。
 ・久留米運輸会社を買収し、久留米が軍都となるとその納入業者となる。
 ・大正3年(1914)10月高良山町標碑を寄進した翌年の大正4年(1915)5月13日没、享年51歳。
 ・なお、長崎時代に妻を娶り、その間に産まれた娘、末次シナ(明治25年5月4日生久留米市荒木町)が久留米運輸会社を相続し、当時、女社長として名を馳せた。筑後屈指の茶道師範だった。

 ※つづく→「厨家跡地碑〜故藤崎常蔵氏之碑(高良山麓巡り23)」。

keitokuchin at 10:20|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2017年01月01日

松尾大社巨大絵馬「丁酉」(鶏)に願う(平成29年元旦)

H29松尾大社絵馬 平成29年(2017)年の新年祈祷を松尾大社(京都市西京区)でお願いした。
 新年に際して松尾大社拝殿に掲げられる巨大干支絵馬は、今年は「丁酉:ひのととり・ていゆう」。
 中央に雄鶏(置物)が描かれ、周りに松竹梅、瓢箪が配されている。(※画像)


 生嶌經和宮司の年頭挨拶では、今年の干支「丁酉」には、それぞれ草木の生長を表す意味があると語られ、また、古来「酉」は動物の「」にあてられ、鶏には「鶏備五徳」(文武勇仁信)があるとして「韓詩外伝」の「頭に冠を戴くは文なり。足に距(けづめ)を持つは武なり。敵前に敢えて戦うは勇なり。食を見て相呼ぶは仁なり。夜を守って時を失わぬは信なり。」の言葉を挙げられた。

 この「韓詩外伝」の言葉、ちょっと聞いただけでは意を理解するのが難しいが、このうち「夜を守って時を失わぬは信なり」の言葉については、日本書紀神代篇の「遂聚常世之長鳴鳥使互長鳴」(遂に常世之長鳴鳥を聚め、互いに長鳴させ)という天岩戸の前で夜明けを告げる長鳴鶏のことを思い出した。
 この神話談により、鶏は縁起の良い鳥だと人に話しているが、これって鶏が教える信義だったんだ。
 (※別記参照→「山口八幡宮(5) 天岩戸・アメノウズメ絵馬図(宮若市山口)」。

 さらに宮司は、「酉」の字は酒器(壺)を表す承継文字で、そのものを表し、転じて醸造の意味にも用いられている、松尾大社で年2度行われる酒造祭のうち、秋の「上卯祭」に対して春は「中酉祭」 (ちゅうゆうさい)といい、4月の中の酉の日に行われると述べておられる。

 確かに「酉」に「氵」(サンズイ・水の意)を付けたら「酒」になるので、酒造神である松尾大社にとって「酉」は縁起が良い。ということは、今年、松尾大社と縁を結ぶと縁起がよいことになりそうだ。

 私ごとでは昨年、申(さる)年の「去る」にかけて養生し、何とか持病(変形性頚椎症肩関節周囲炎ほか)による激痛をしのいだが、今年は酉年の「取り(除く)」にかけることにしよう。

keitokuchin at 14:58|PermalinkComments(0)TrackBack(0)