2017年03月

2017年03月28日

朝町竹重遺跡 (宗像市朝町)

 前回「雲乘寺(宗像市朝町)」からつづく。

 (1) 朝町竹重遺跡の概要

 ・所在地:福岡県宗像市朝町2464-2 [朝野中央公園の裏山]

1朝町竹重遺跡 ・宗像市指定史跡公園:平成6年(1994)整備、面積約1600屐
 ・朝野中央公園に接した標高40m前後の丘陵上や緩斜面に、〔鐇源代中期(約2000年前)を中心とした同前・後期の墳墓(下記)と、古墳時代後期の古墳(下記)等が分布する複合遺跡。
 ・発掘調査後、体験学習用の史跡公園として整備された。

 (2) 弥生・古墳時代の朝町竹重遺跡

  弥生時代中期(一部前期・後期)の墳墓

 ・「土壙墓」(どこうぼ)と「木棺墓」(組み合わせ式木棺)、甕棺など150基超の弥生墳墓が発見され、105基の墳墓の発掘調査がされたと聞いたことがあるが、調査後埋め戻され、又は消滅した。
 そのなかには、墓壙内(埋葬主体部)に割竹形の木蓋を架けたと考えられる特殊構造の木棺墓(SK28)もあった。
 
2-1朝町竹重弥生レプリカ ・史跡公園として整備されたとき、公園内の下段部に作られた体験学習広場内に学習教材用レプリカ(コンクリートで土壙墓、木棺墓の枠組みを作る)として、その一部の墳墓が復元された。
 したがって、このレプリカがある場所に、そのもとの墳墓が在ったということではない。


 ・副葬遺物は少なかったようだが、それでも数個の墳墓から細形銅戈(どうか)・細形銅矛(どうほこ)・小形鏡の仿製内行花文鏡(ぼうせいないきょうかもんきょう)・鉄製ヤリガンナ等が出土したという。(出土品の保管先は聞いていない)。

 ・なお、弥生遺跡から青銅器が出土する地区には、その時代に既に農業生産力のある豊かな集団が存在していたと推定されている。

2-2朝町竹重の東方 当地の東側の朝町地区は、靡山の山稜部・谷あいにあり、また西側の野坂地区は、磯辺山の山稜部・谷あいにあり、共に釣川に流入する水流があり、その流域に肥沃な平野が広がっており、有力集団が存在していたと考えてよい。
 そして副葬品が出土した墳墓の被葬者は、その集団の有力者であった可能性がある。

  古墳時代後期の古墳群

2-1朝町竹重遺跡群 ・史跡公園内の上段部分:野面積み保護壁で仕切られた丘陵内にあり、その中央にある石段を上った先に4基の円墳が現存している。
 その間に、目にできる復元弥生墳丘も混在している。

 この丘陵が朝町竹重遺跡発掘地である。


 ・古墳は、すべて古墳時代後期の円墳(=直径10〜15m前後、横穴式石室)で、調査時には10基(=稜線に4基、斜面に6基)あった。
 このうち、1次調査で丘陵上の3基を、2次調査で丘陵斜面の5基を発掘調査(調査後埋め戻し復元又は消滅)、残り2基(4号墳と5号墳)は未調査のまま整備保存。現在、それと確認できる円墳は4基である。
 上記4、5号墳以外の1、3号墳は、調査後復元したものか。

2-2古墳石室レプリカ ・横穴式石室については、いずれも入口が埋められているので確認できないが、公園下段(保護壁左角の前)に横穴式石室レプリカが作られている。現在、そのレプリカは、天井及び壁面部分がなくなって、下部枠部分のみになっているが、そこから小さな石室であったことが推測できる。


 ・石室内で出土した「副葬品」のなかには、鉄製の刀・刀子(とうし)・鏃(やじり)、ほかにガラス玉類などがあり、また、古墳の上部や裾部に置かれていた須恵器や土師器もあったという。(※副葬品の保管先は未確認)。

 (3) 朝町竹重遺跡は複合遺跡

1朝町竹重遺蹟の配置図 ・史跡公園内には、陶板の説明板(古墳・弥生時代の日本列島・宗像地域、古墳・弥生時代の朝町竹重遺跡、各個墳墓やレプリカ前の説明版)がある。ただ、そのなかにある、例えば古墳・弥生時代別の各朝町竹重遺跡遺構配置図(測量図)や石室測量図等を観て、その内容を理解できる人は少ないのではないかと思う。

 これらの測量図は、朝町竹重:宗像市朝町所在遺跡の発掘調査報告/宗像市文化財報告書第70集/2013.3宗像市教育委員会から転記したものか。

 ※なお、同上説明板については、古墳めぐりウォーキング in 福岡さんが高感度カメラで撮った鮮明画像を掲載されている→「朝町竹重遺跡」。

 ・この遺跡が「弥生墳墓の上に古墳が築かれた」、つまり「時代の違う遺跡が同じ場所に二重(二層)に重なり合った複合遺跡」であることを念頭に置いていないと、史跡公園内に整備されている数点の遺構を何度見学しても、また説明板をいくら読んでも、その構造を理解することは到底できない。

 ・古墳時代後期に、当地に在った弥生墳墓群(土壙墓や木棺墓など)の表土の上に盛り土した古墳群(円墳)が造成されていたので、これらの弥生墳墓群は、幸いにも古墳群の下で原形を残していた。また、それぞれの弥生墳墓の盛り土が重なりあう墳丘墓の形態も残していた。さらに、これらのて墳墓群は、各副葬品を持つ墳墓を中心として集中し、概して四グループに分かれていた。(参考:九州考古学散歩/小田富士雄編著)

3-2朝町竹重弥生墳丘墓 ・史跡公園(上段)内に、古墳と並んで重なり合った土饅頭の山があるが、これは、上記の弥生墳墓の盛り土が重なりあう墳丘墓の形態を復元したものである。
 同一遺跡内に異なる時代の墳丘が混在しているが、これは古墳の下に埋まっていた弥生墳丘を、学習用としてここに復元したものだと考えると分かりやすい。

 重層している複合遺跡を、目に見える形に復元することは、なかなか至難な試みだったと思う。

 (4) 朝町竹重遺跡見学付記

4朝町竹重叢 ・数回、朝町竹重遺跡を訪れているが、背丈の高い草が史跡公園内を覆い、叢をかき分けたこともあった。見学時期は、概して夏秋より、冬春が良いようだが、きれいに草刈がされているときに行き合わせると、公園内の様子がよく分かり、墳丘の上から東・西方向の景色を観ることもできる。


・なお、墳丘の丘から東側の朝町中村方向を眺めていたとき、ここは、朝町の産神・朝町八幡宮(竹重神社合社)の裏山(朝町中村遺跡・古墳等の存在を推定)に連なる低丘陵のすぐ北部分に当たるので、或はここも同八幡宮の祭祀(産神)の対象地区だったかもしれないなどと思ったこともあった。

 (5) 朝町竹重遺跡への道順

 (A) ウォーキングコース

5-1朝町中村坂道 ・朝町八幡宮の外参道入口(宗像市朝町2399朝町公民館・老人憩いの家・駐車場あり)前の里道を北西方に進む→(※前回の)雲乘寺参道口前経由、その先の三つ角を左折→突当りT字路を右折し、すぐ先の三つ角を左折→道なりに丘陵の坂道を170m上る→左に続くL字路に突き当たる(下記)瑤廊△)。この間450m、徒歩約7分。

  L字路の右側に路上駐車場(4枠)があり、この上の丘陵(ブロック谷積の保護壁+網フェンスの上)にある古墳の墳丘が見える。
 駐車場の先にある歩行者専用道(裏口)を上ると、朝町竹重遺跡史跡公園(下段)内に入れる。

1朝野中央児童公園  L字路の正面の左寄りの鉄柵のなかにブランコやシーソー、滑り台など設置の「朝野中央公園内児童公園」があり、このなかを通り抜け、石段を下りると「朝野中央公園グランド」があり、右後ろの保護壁(ブロック谷積)の先の石段(表口)を上って朝町竹重遺跡(下段)内に入ることもできる。


 なお、グランドの左(南)側にトイレがあるので、ウォーキングでは(遠回りにはなるが)、こちら側を利用する。

 ※帰路:朝野中央公園グランド下「朝町第二バス停」→赤間駅南口まで約3.5km 徒歩50分位(西鉄バスの運行は一日数本のみ)。

 (B) 車道・朝野(住宅)団地・朝野の地名

 ・朝野中央公園に接して南北方向に朝野住宅団地が長く伸びており、車で行くときは、県道401号線オートサービスグーニーズワン、又は国道3号線朝野団地入口🚥から団地内に入り、団地内の中央道路を上り、同中央公園の西下に立っている「朝野第二バス停」ポール板の先を左折し坂を上ると、突当りの左方に上記(A)のL字路(4台駐車可)に到る。

 ※因みに「朝野」の地名は、昭和55年(1980) 朝野住宅団地ができたとき、団地が(当時、宗像郡宗像町)「朝町」と「野坂」にまたがっていたので、その各字(地名)の一字、つまり朝町の「朝」と野坂の「野」を組み合わせて新たにできた地名である。

 ※つづく→「棚原池・朝町川の起点(宗像市朝町)」。

keitokuchin at 21:05|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2017年03月24日

雲乘寺(宗像市朝町)

 前回「朝町八幡宮(宗像市朝町)」からつづく。

 (1) 雲乘寺の所在地

1雲乗寺山門、参道、本堂 朝町八満宮の外参道口(朝町公民館・老人憩いの家/駐車場)前の里道(農道)を北(中村集落)方向に120m(徒歩1分)、道が少し左カーブしたところの左側に、「浄土真宗本願寺派・日晝山(にっせきざん)雲乘寺(うんじょうじ)」がある。
 ※雲乘寺(雲乗寺)所在地: 
  福岡県宗像市朝町2410
 (筺📠0940-32-2385)。

 なお、里道から右前方の農地の中にある駐車場(県道401号線沿い)は雲乘寺の駐車場である(要許可駐車)。

 (2) 山門・参道

 参道入口の右側に1本、山門石柱(「真宗雲乘寺」の刻字あり)が建ち、瓦が乗った白塗り塀に挟まれた参道の奥の左寄りに本堂が建っている(参道入口から本堂の右部分のみが見えている)。(※画像1)
 なお、本堂の左後方(納骨堂との間)に裏口(通用口)がある。
 
 (3) 倉田叡達先生碑

2雲乗寺倉田叡達記念碑 山門の右側(3段石段あり、塀のなか)に「倉田叡達先生碑」が建っている。

 「倉田叡達先生」と言っても俄に理解できなかったが、後で「雲乗寺HP」があることを知り、以下それを観ながら記述する。
(※画像2)


 倉田叡達先生とは、雲乘寺第十三世住職倉田叡達師のことで、同師は慶応以前から寺子屋式教育で多数の子供たちの教育を行った。この「倉田叡達先生の碑」は、その教育を受けた生徒たちが、後に、その報恩のために建てた記念碑である。旧私立九州高等女学校(→九州女子高校→福岡大学附属若葉高校/福岡市中央区荒戸三丁目)の創立者:釜瀬新平先生もその一人である。

 (4) 親鸞聖人立像と座論梅

3雲乗寺親鸞上人行脚像 参道奥の右側に庫裡があるが、その前庭に行脚姿の「親鸞聖人立像」が建っている。(※画像3)

 これは平成25年(2013)5月25・26日勤修の「親鸞聖人750回大遠忌法要、蓮如上人500回遠忌法要、雲乘寺第十八世住職継食奉告法要」を記念して建立されたものだという。 

 ここには、もと中国原生の「座論梅(八房梅・品字梅)」の大樹(推定200年の老木)が生えていたが、この元木が枯死する前に(70年ほど前か)接ぎ木をしていた三枝のうちの一枝が生き残り成長し、今も開花時期になると、親鸞聖人立像の足許で美しい花を咲かせており、観梅に訪れる人たちも多いという。

 (5) 雲乘寺(雲乗寺)の創立、歴史

 雲乗寺HPによると、雲乘寺の創立者は、初代住職釈円了僧(倉田経則)で、上記倉田叡達師が十三世、現住職は第十八世釈之英師だとが分かる。

 初代住職釈円了僧とは、相模国鎌倉郷倉田荘の公卿・参議正三位倉田正光五男倉田経則で、縁あって覚如上人の教化を受け、釈円了の法名を賜った後、諸国巡歴の末、宗像郡朝町村に到り、当地に精舎・日晝山雲乘寺を建立した。

 創立年代の記載がないが、鎌倉時代末期から戦国期にかけての頃ではなかったかと思われる。
 それは、上記に「相模国鎌倉郡倉田荘」とあり、倉田荘とは、多分「鎌倉郡山内荘倉田郷(蔵田とも書く)」のことで、「倉田郷」は、現「神奈川県横浜市戸塚区上倉田町〜下倉田町」の鎌倉〜戦国時代にかけての郷名なので、また、創立者釈円了僧が覚如上人(浄土真宗本願寺第三世)を師僧として得度受戒したのであれば、その時代は、鎌倉時代末期〜南北朝時代の頃となるからだ。

 どうして初代住職が当地朝町に精舎を構えたのかは分からないが、少なくとも上記時期に、当地には修行僧を受け入れる余地のある人たちが居住する村落があったことが分かる。なお、住職の倉田姓は、初代居住地倉田郷の地名と係わるものか。

 なお、筑前國續風土記拾遺には「雲乘寺 中村といふ所に在。真宗西本願寺に属す。開基を養頓と云。寛文二年に木佛寺号を許さる。」とある。
 釈円了僧とこの養頓は、同一人物なのだろうか。また、「寛文二年(1662)木佛寺号を許さる」とは、同年、本山法主が染筆で寺号を木佛(本尊)阿弥陀如来像に裏書をして雲乘寺に下付したということで、当寺は確かに江戸初期に在り由緒のある寺だったことが分かる。。

 (6) 山号額

4雲乗寺山号額 本堂の入口に金文字刻の「日晝山」の山号額が掲げてある。
(※画像4)

 「日晝山」(にっせきざん) とは、そのまま解釈すると晝(昼)間の陽当たりの良い寺ということになる。



 前回、「朝と昼と」と題して、朝町の「朝」から思い浮かんだのは朝陽(朝日)だった。朝町中村集落は低丘陵の東下にあり、集落の外れにある朝町八幡宮は、この低丘陵を背にして鎮座し、午前の陽当たりはよいが午後は暗い。逆に旧朝町村枝郷昼掛鎮座の「昼掛八幡宮(朝町八幡宮分霊社)」は午後の陽当たりがよく、朝・昼の地名のcontrastが面白い。などと書いた。

 しかるに雲乘寺は、朝町中村集落内にあって昼間の陽当たりが良いのであれば、前回の指摘は当たっていないことになる。ある意味、中村集落内でも「朝・昼などのcontrastが面白い」(冗談)ということになるが、「日晝山」の山号命名の経緯については聞いていない。
 
(※追記:御住職様から「日晝山」の山号についてコメントを頂きました。山号の「晝」は、朝町内の地名「昼掛」の旧字とのことです。)

 本堂内に入って拝観しておらず、堂前で念仏合掌したが、本堂には木佛寺号阿弥陀如来像が安置してあるのだろうか。

 ※史料「雲乘寺 ナカムラ 眞宗西 佛堂四間五間 日晝山と號す。本願寺に属せり。寛文二年十二月木佛寺號を許さる。」(筑前國續風土記附録)
 木佛寺號については上記した。

 (7) 鐘楼・納骨堂

5雲乗寺天女画 本堂の左横に納骨堂(2階建)・鐘楼(屋上)が建っている。
 納骨の一般募集もしている。

 また、納骨堂の仏間には、美しい天女の壁画などが描かれている。
 (※画像5:雲乗寺HPからお借りした)。


 (8) 法要など

 雲乗寺HPによると、親鸞聖人命日法要(毎月16日)、十六日講(写経、経典学習)、永代供養法要(春夏)、花祭、盂蘭盆会、報恩講、除夜鐘、新年勤行、仏教婦人会、仏教壮年会活動等々の寺院行事があり、また、雲乘寺ブログもあり、積極的に仏教普及活動を行っている様子を伺える。

 ※つづく→「朝町竹重遺跡 (宗像市朝町)」。

keitokuchin at 20:57|PermalinkComments(2)TrackBack(0)

2017年03月20日

朝町八幡宮(宗像市朝町)

 ※前回「木香薔薇(宗像市朝町)」からつづく。

 「野坂神社(6)〜境内神社(宗像市野坂)」に、宗像市野坂地区に隣接する朝町地区に八幡宮(八幡神社)が二社(朝町と昼掛)あると書いたが、このうち朝町昼掛鎮座の「昼掛八幡宮」については前述したので、今回は朝町中村鎮座の「朝町八幡宮」について書き留めておく。

 (1) 朝町八幡宮の社名・鎮座地

 ・朝町八幡宮鎮座地:福岡県宗像市朝町2373。

1朝町八幡宮遠景 ・社名呼称: 朝町八幡宮(八幡神社)・中村八幡宮・本村八幡宮・村社八幡宮

 ※本来は、単に朝町に鎮座する「八幡宮」、戦後は「八幡神社」というだろうが、一般的には朝町の地名を冠して「朝町八幡宮(朝町八幡神社)」と言われている。


 ただ、当地の旧地名は、宗像郡朝町村大字中村(又は本村)→宗像郡南郷村大字朝町字中村だったので、当時は「中村八幡宮」又は「本村八幡宮」とも呼ばれ、また、明治5年(1872)11月3日の(朝町)村社被定以後は「村社八幡宮」とも呼ばれた。
 これらの呼称は現存しているが、本稿では「朝町八幡宮」と記す。

2村社八幡宮碑 ※上記「村社八幡宮」に係わる「村社八幡宮碑」(昭和11年10月建立)が、里道沿い石段上の「八幡宮本鳥居」の手前(左側)に現存している。(※画像)
 多分この碑を観てだろうと思うが、当社名を「村社八幡宮」と掲載しているmapがあるが、違和感はある。


 ※なお、昭和19年(1944)1月当時の氏子は「朝町區百二十四戸、境内坪数七百五十三坪」(福岡縣神社誌)。

 (2) 朝町大明神(宗像社末社)

 ・朝町大明神:宗像七十五末社(百八社)の一

6-1竹重宮鳥居  ※筑前國續風土記拾遺に「(朝町村八幡宮)…宗像社年中行事記に朝町大明神あり。此社をいふにや」とある。

 つまり、朝町八幡宮は、宗像社(宗像神社・現宗像大社)末社…宗像七十五末社(百八社)の一「朝町大明神」である。


 ※「(宗像)郡内総鎮守の宗像神社の氏子で、天保14年の略御祓御初穂神納帳(宗像家文書)では、御札61体を受けて初穂料を納めている。」(角川日本地名大辞典)
 ※なお、朝町八幡宮前方を流れる朝町川を(川岸に沿って)下れば、釣川岸の宗像大社辺津宮に到る。

 (3) 朝町八幡宮の祭神

 ・祭神:品陀和気命(ホンダワケノミコト)=応神天皇

 ※筑前國續風土記附録・同拾遺には「産神なり。祭る所應神天皇、神功皇后、武内大臣なり。」とあるが、福岡懸神社誌(昭和19年)には「祭神 仲哀天皇、譽田天皇、神功皇后」とあり、恐らく明治以降、武内大臣が消え仲哀天皇が現れ、主神が應神天皇(=譽田天皇)から仲哀天皇に入れ替わったのではないかとも思えるが、現在は品陀和気命(=譽田天皇=応神(應神)天皇=八幡大神)である。

 (4) 竹重神社合社・祭神合祀

4-1八幡宮竹重宮合社記念碑 ・昭和26年(1951)4月、朝町八幡宮に「竹重宮」合社、同神殿に竹重宮の祭神「住吉三神」が合祀された。
 ※「八幡宮・竹重宮合社記念碑」(昭和26年4月建立)が、境内入口の里道沿い石段上の八幡宮本鳥居の手前(右側)に現存している。(※画像)

 ※竹重宮旧跡の場所地を知らないが、古社のようで同地に古代遺跡が埋もれている可能性がある。


4-2竹重宮鳥居 ※「竹重宮」の銘があり、旧竹重宮から当社に移動したものと確認できるものは下記である。

  竹重宮の額束がある石鳥居」1基
 〜「皇太子殿下御降誕記念 昭和九年一月 再建産子中 石工石田百次郎」…(※画像/外参道二の鳥居)


4-3竹重宮寄付碑 ◆竹重宮本殿新築寄附連名碑」(建立日失念)…上記,硫(※画像/里道沿い)

 「竹重宮石灯篭」3基
 〜「寶暦二壬申年九月吉祥日」(1752)…(※画像/里道沿い石段上)…なお、境内にある破損石灯篭残骸も同宮ものか。
 ぁ崔歃典椰棲曄1枚…拝殿正面の鴨居に掲額(神殿前)
 

4-4石灯篭。手水八 ※史料「竹重宮 イノウエ 神殿方五尺・拝殿方二間・祭禮九月十九日・石鳥居一基・奉祀中津内膳 タケシゲ拾四戸の産神なり。祭る所住吉三神也。」(筑前國續風土記附録)
 「竹重(タケシゲ)ノ社 竹重と云所に在。此所の産神也。住吉三神を祭る。祭日九月十九日東郷村の中村氏奉祀す。」(同拾遺)

 ※資料「規模表記のある拝殿・地理全誌の規模 横二間入三間…朝町八幡宮に合祀」(江戸末期から近代にかけての神社拝殿の変化に関する研究 園田將人)
 ※旧竹重神社の鎮座地に「朝倉橘広庭宮」があったという説もある(下記(9)-)。

 (5) 朝町八幡宮の外参道

1外参道・老人の家・畑 ・県道401号線寄りの農地のなかに広い駐車場あり、その先の農道(前回記した「田畑の間の里道」)を横切ると外参道(約50m)がある。
 ・外参道口の右側には、農道に面して平屋建ての「老人憩いの家(朝町公民館)」があり、その後ろは一段高く、農地がある。


 ・同左側には、段差(三段)のある横長の広い農地(田畑)があり、また、外参道内には高樹木はなく、県道401号線のこちら側からの見通しはよい(外参道及び境内の本鳥居や社叢等も望める)。

5-5幟立石2 ・外参道内には、石鳥居2基など次の石造物が並んでいる。
 古い幟立石1基、八幡宮の石柱神門一対(※一の神門)、八幡宮の石鳥居(※一の鳥居)、古い幟立石1基(※画像)や、二の神門、上記旧竹重宮から移し再建した石鳥居(※上記二の鳥居)、竹重宮本殿新築寄附連名碑(※上記)、華表建築寄附連名碑(境内前の里道沿い)などがある。…これらのうち八幡宮のものか旧竹重宮のもの分からないものがある。


1神門、一・二鳥居 ※一の神門:「右三つ巴(神紋) 奉獻 御昇格記念 昭和十一年九月 正五位勲六等 農學士 井上陽之助」…(※画像/外参道口)

 〜昭和11年(1936)10月10日付け「神饌幣帛料供進指定」が決まったことを記念して事前に建立したものか。


 ※一の鳥居(※画像):「八幡宮」の額束、「奉獻 御即位禮記念 維持大正四年十一月」…大正4年(1915)11月10日京都御所紫宸殿で、大正天皇の即位の礼が行われたことを記念して建立されたものか。
※二の神門:「祭政一致 維神大義」

 (6) 朝町八幡宮の境内と本殿

6-2里道石垣 ・外参道と境内に入る石段(切石10段)の間に里道があり、里道に沿って(約30m)野面積みの石垣(上部コンクリ塀)がある。

・境内は、大きなケヤキを主体とした木々が形作る杜のなかにあり、入口石段を上ったところに内参道があり、この部分の段が前壇部である。

6-9境内前段 ・ここには、村社八幡宮碑(上記)、八幡宮竹重宮合社記念碑(上記)、手水石鉢1基(上記画像)、石灯篭5基(上記旧竹重宮から移設分含む)、※本鳥居1基、※幟立石2基、破損石灯篭残骸、井戸跡(?)等がある。
 右方にある空き地は、戦前に社務所が建っていた場所か。


6-3本鳥居 ※本鳥居:「八幡宮」の額束、「…産子中 寶暦八戌寅歳三月吉日」(1758)
…額束の左上部が欠け、文字上を苔(カビ)が覆って読みにくいが、間違いなく「八幡宮」である。
 この「本鳥居」が、筑前國續風土記附録記載の「石鳥居一基」である。


 ※幟立石(※画像):「奉献 明治四十五年壬子一月吉祥日 石田太郎」 
 〜なお、明治45年(1912)は、7月30日まで、同日が大正元年7月30日となる。

 (7) 朝町八幡宮の境内と本殿

7-4拝殿 ・内参道奥の石段(切石5段)を上ったところ(上壇部、切石石垣上に寄附者名入り玉垣、石造狛犬一対あり)に小丘陵の森を背にして八幡宮本殿(拝殿、渡殿、神殿/木造瓦葺)が建っている。





7-2狛犬 ※史料「八幡宮 ナカムラ 神殿方七尺・拝殿二間三間・祭禮九月十九日・石鳥居一基・奉祀中津内膳」(筑前國續風土記附録)。

 上記のうちの奉祀については、同拾遺には「奉祀ハ王丸村の中津氏なり」とある。



 …上記旧竹重宮と八幡宮の祭禮日と奉祀者は同じで、この周辺地区の神社は「王丸八幡宮」(宗像市王丸)との係わりが深かったと思われる。

 ※資料「規模表記のある拝殿…地理全誌の規模 横二間入三間、現拝殿の寸法(横9751×入5913)、建設年代 明治28年(1896) 」(江戸末期から近代にかけての神社拝殿の変化に関する研究 園田將人)

7-5神輿 ・拝殿(木造瓦葺)の入口戸は鎖・南京錠で施錠されており、中に入ることができないが、僅か10cmほど空いた隙間から中を覗いた。

 ・八幡宮と竹重宮の両神額、ほかに「絵馬」が多数掲げられていたがその枚数計や各画題等については分からない。
 ・床に古い神輿が置いてあるのも見えた。(※画像)


 (8) 境内遷宮社・朝町天満宮

 ・境内左側の別区に朝町「天満宮」が鎮座している。(※画像)

朝町7-1天満宮 ・その入口に一部風化の幟立石1対(奉寄進、下組中、?年六月建之)あり。
 石垣(ブロック積3段)・寄付者刻玉垣、切石石段(5段)上る。
 幟立石、天満宮石鳥居1基(文政二年八月竣立、昭和拾壱年拾月合社再建)あり。
 その奥に丘陵斜面を背にして前面に石垣・寄付者刻玉垣、石段(9段)あり。
 その上に立派な石祠がある。


 ・同上附録に「〇天満宮テンジンヤマ」の記載があり、この天満宮を昭和11年10月に天神山(未調)から朝町八幡宮境内に遷し再建したものか。福岡縣神社誌(昭和19年)には八幡宮に境内社の記載なし。

 (9) 朝町の地名(想像)

  朝と昼と
 ・まず朝町の「朝」から思い浮かんだのは「朝陽(朝日)」だった。
朝町八幡宮がある朝町中村集落は、南北に走る低丘陵(朝町中村古墳群あり:弥生〜古墳時代)の東下にあり、集落の南外れにある朝町八幡宮は、この低丘陵を背にしてほぼ北西方向を向いて鎮座している。季節にもよるが午前の陽当たりはよいが、午後訪れるといつも丘陵の蔭になって暗い感じがする。朝町の地名はこのことから付いた地名なのだろうか。
 ・なお、朝町八幡宮は、朝町中村古墳群の被葬者を祀るために建てられた神社であった可能性も考えられる。

 ・ところで、前述した「昼掛八幡宮(※朝町八幡宮の分霊社)」(宗像市朝町312)は、当地とは別の谷あいにある丘陵上に西向きに鎮座しており、逆に午後の陽当たりがよい。昼掛は、かつての旧朝町村の枝郷だが、朝・昼など地名のcontrastが面白い。


  朝町川の浅瀬
 ・次に、朝町の「朝」は、「浅瀬」を意味するものかと考えてみた。
 朝町川の名は、朝町内の棚原池に源を発し朝町内を貫流していることから付いた名称だと思う。この川は、東郷で釣川に合流し大河となって宗像大社の横を流れ江口から玄界灘に流出するが、上流の朝町地区では、まだ浅瀬であった、そんなことを考えてみたのである。

9参道逆 ・朝町八幡宮の外参道の先は、現在その途中を県道が横切ってはいるが、朝町川岸まで直線で伸びている。
 このことは、朝町八幡宮と朝町川が深く係わっていることを表しているのではなかろうか。
 つまり、朝町八幡宮の神は、釣川を遡り朝町川の浅瀬から当地に上陸し鎮座した。

 その意味では宗像神との係わりを考えられるが、その神を八幡神、神功皇后として祀ったのであれば、竹重宮の神は、八幡神、神功皇后と深く係わる海神・住吉三神であり、同様のことが考えられる。
 なお、隣接地の野坂(野坂村)の産神・野坂神社の祭神が一宮=住吉三神、二宮=八幡神なので、何らかの係わりがあるのか気になるところではある。

  朝は朝廷
 ・次の考えは、朝町の「朝」は、「朝廷」を意味するもの。

 ・先に掲載した「野坂神社(2)〜野坂もやい隊・野坂三千石(宗像市野坂)」の(4)太鞁田の古代田舞のなかに「野坂の開墾と集落が形成されたのは、記録上では平安期(和妙抄「乃佐加」)と言われるが、それ以前に遡ることができる。野坂の「太鞁田」に伝わる古代舞や「館原」とういう地名、隣接地「朝町」の地名(官ヶ作の小字もある)などから、野坂地域に遠の朝廷(とおのみやこ)があったと考えている人もいる。(参照:筑紫は宗像 邪馬台国は下関)」と記した。

 ※同資料には「朝倉橘広庭宮は朝町の竹重神社」ともある。
 これは、朝町の「朝」は、朝廷の存在を示し、旧竹重神社の鎮座地に「朝倉橘広庭宮」があったということか。旧竹重神社の鎮座地を確認していないが、少なくとも朝倉市の朝倉橘広庭宮跡に比定されている地域での発掘調査で未だにその遺跡が発見されていないので、一考に値する。当地には朝町竹重遺跡なる古代遺跡もある。
 (※別記参照→「御陵山(斉明天皇御殯葬地)と木の丸殿(1)」)

 ※七世紀新羅に進攻された百済救援のために白村江に向かった朝廷軍の集結地としては朝倉よりは宗像の方が相応しかったようにも思える。当朝町、野坂などの地区には山あいに広がる肥沃な地があり、ともに釣川につながる河川があり船を出すのにも相応しく、当地区に遠の朝廷があったとの想定は一考に値する。

  山の道
 ・「高天原は野坂で、倭王=野坂王 か。また、朝町の「朝」 の字は朝廷を表す。常世の思金神は常世村と称した名残の者で、天石屋は名残にあった。筑紫日向は牟田尻の小字「日南」(ひなた)。牟田尻の小字「桜京」 は木花之佐久夜比売で、笠紗の御前。
9-2福岡国際カントリ棚原池 かれここに、天の日子番の邇邇芸の命、天の石位を離れ、天の八重多那雲を押し分けて、稜威の道別き道別きて、天の浮橋に、浮きじまり、そりたたして、竺紫日向の高千穂の霊じふる峰に天降りましき。稜威(いつ)の道…伊都国。
 天の八重多那雲〜朝町「福岡国際カントリークラブむなかたゴルフ場」にある棚原池
→原始古代の宗像市には「海の道」だけでなく「山の道」もあった。万葉集3155悪木山 宮若市上有木の靡山(296.9m)」(参照:宗像市 丹後 日南 常世) という説もある。

 ※朝町、野坂などは、もとは鞍手郡に属していたので、靡山を霊山として崇めた新羅系物部氏・鞍手の物部王国と係わる。
 六ヶ嶽(鞍手町)に降臨した宗像三女神が宗像(百済系か)に進出したという伝承があり、原始古代の宗像に「山の道」もあったという考えは納得できる。
 朝町、野坂にも三女神(須佐男命の姫)を頂く鞍手の物部氏(須佐男命、饒速日命)が、三女神を頂き宗像に入った「山の道」の一つがあったと考えればよいのか。
 この場合の朝町の朝廷とは、物部王国なのか倭国(九州王朝)なのか、まとめきっていない。
 (※別記参照→「小原「伊久志神社」にて (宮若市山口」)

 (9) 釣鐘(梵鐘)の行方

 ・明治維新まで朝町八幡宮に釣鐘(梵鐘)があった。

 ※史料「(八幡宮)社内に古き釣鐘あり。賢保三年三月吉日大工坂田左馬と彫れり。いかなる人の寄附なるにや。(賢ハ誤れり。建保なり。建保ハ順徳帝の御宇なり。)」(附録)
 「古鐘一口あり。元禄の比當處の延壽浦といふ所の圃中より堀出せり。銘に建保三年乙亥三月五日大工坂田家守と記せり。其餘文字あれとも摩滅して詳ならず。建保ハ順徳院の年号、三年より文政四年まで六百七年になれり。」(拾遺)
 ※梵鐘が掘り出されたという延壽浦の圃中は、延壽寺の近くにあったのか。なぜ圃中に埋まっていたのか、その場所を特定し発掘調査ができれば何らかの痕跡が出る可能性もあるのだろうが。

10建保梵鐘 ※現在、東禅寺(宮若市湯川)に現存している「梵鐘」(県重文、高さ約1m・口径約60cm)が、明治期に朝町八幡宮から移されたものだと言われており、戦時中の金属類回収令を免れて保存されたことは幸いというべきか。(※画像)
 ※建保3年(1215)は、鎌倉時代の源実朝将軍、北条義時執権の頃で、同年銘の梵鐘は、福岡県では3番目に古いものだという。

 また、大工坂田家守は小倉の鋳物師であったと確認されているが、同氏が手がけた梵鐘はほかには残っていないという。
  (※別記参照→「東禅寺の梵鐘(宮若市湯原)」)。

 ※つづく→「雲乘寺(宗像市朝町)」。

keitokuchin at 23:59|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2017年03月14日

清水耕蔵 絵本館・ゑほんの藏(宗像市山田)

清水耕藏絵本 「清水耕蔵・絵本館(ゑほんの藏)」(福岡県宗像市山田250)の玄関戸を開けると、出迎えてくれたのは館長の清水比呂之さん(60)=清水耕蔵さんの長男。勿論ここを訪れたのは初めてで初対面だったが、親切に個々の展示作品についての説明をしてくれた。
 (訪問日:2017.3.11)


 ・展示作品は、時々入れ替えているそうだが、今回の目玉は、日本の原風景を躍動的に描いた「火祭り」や、海のイルカと人の係わりをやさしく、また力強く描いた「いるかのピー」の原画だった。
 ああ、それにここにある原画が唯一のものという「百人一首」の人物群、また「かぐや姫」、或はにらみを効かす「八方にらみねこ」の絵等々、趣の違う作品が並び幻想の世界に引き込まれる。絵本の原画など観る機会などなく、観るのは今回が初めてだったが、かなりの立体感がある。

 ・特に「かぐや姫」は…、例えば竹の中でキラキラ輝く光の世界など…大がかりな装置を使って編集されたことが分かった。そして、この制作過程を知ればたかが絵本などとは絶対に言えない、と実感した。

 ・比呂之さんが度々「これは父が(〇〇歳のときの作品)」などと口にされていたが、その父・清水耕蔵氏は、現在何と91歳、現在も横浜で精力的に制作活動を続けておられるという。
 ・清水耕蔵氏の脳裏に浮かぶ情景の発想力や、絵筆運び、体力等々は、90歳を超えた今も充実しておられるのだろう。ただただ感歎するしかない。

 ・本格的にこの仕事を始めて60年といい、自らの好きな道一筋に打ち込まれてきた歳月、こんなに幸せな人生…、
 その幸せの一部を享受したく、館内で販売していたポストカードを数枚、及び絵本「なんじゃじまものがたり(前・後編)」(在庫僅少、書店で入手しにくい)と、「はいくの絵本(正・続編)」を購入した。

 ・別室では、館長の奥様由美子さん(67)が作られたという雛飾りや花嫁人形なども置いてあった。昔、日本には娘の嫁入りに手作りの花嫁人形を持たせるという風習があったことを思い出した。奥様はそのような技術もおありなのだ。奥様は当地の人らしい。

 ・それに退館する前、喫茶室で奥様が入れてくれたコーヒーも美味しかった。これは入館料300円のなかに含まれているといい、そのサービスぶりも嬉しい。

 ・また、窓の外には、小庭園越しに「山田ホタルの里公園」上流(北東)部分周辺の風景が楽しめる。そして、公園の向こう側の集落の上手にある「山田畑大屋敷の延命地蔵堂」の森も見える。
 当地は、宗像氏の拠点城のひとつ白山城の山麓にある歴史的風土のある谷あいであり、大型住宅団地が造成されるなく自然を生かしたホタルの里の公園が整備がされたのはよかったのではないかと思う。

 ・なお、清水耕蔵氏は、この辺りの牧歌的風景が好きで、ここに来ると心休まると言われているそうだ。
 
(補記)
 ・宗像市から地蔵峠を越えて岡垣町に抜ける県道291号線は、乗用車で高倉神社参拝や料亭はつしろに食事に行くときによく利用している。
 ・この山越え道の麓辺り(県道の右側)に「山田ホタルの里公園」があり、「清水耕蔵絵本館・ゑほんの藏」は、その県道の左側、古い民家が建ち並ぶ一段高い里道沿いにある。
 ・ただ、絵本館といっても民家で、かつその玄関が里道から私道を少し上った奥まったところにあり、これまで気付かなかった。というより、迂闊にも先月(2.21)の讀賣新聞の記事を観るまでその存在すら知らなかった。
 ・「ゑほんの藏」の「藏」は、古民家の「藏」と耕蔵の「藏」を重ねて、「絵本蔵書所」(藏)として付けた名称なのだろうか。
 ・今回、乗用車で出かけ、里道沿いの「清水」の表札がある家(清水館長宅か)の前のスペースに停めた(縦列駐車可の表示あり…3台駐車できる)。
 ・開館は毎月第一週を除く金曜(13~16:30)、土曜日(10:30~16:30)。
 ※リンク:ゑほんの藏HP→「清水耕蔵・絵本館」。

keitokuchin at 00:54|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2017年03月09日

木香薔薇(宗像市朝町)

 ※前回「延壽寺・朝町薬師堂(観音堂)宗像市朝町」からつづく。

1延寿寺前道端の木香薔薇 延壽寺(宗像市朝町2342/曹洞宗)から朝町八幡宮(朝町2373)方向に向かうとき、延壽寺の前から北方向に、約100m先の左側にある納骨堂の前までの間、道幅の狭い里道を通り抜ける。

 (※本稿は、2014.4.12の参拝メモによる)。


 この狭い里道を歩いていて、その中ほどの右脇(崖の上部)に自生している「木香薔薇」に気付いた。

2朝町延寿寺道木香薔薇 この木香薔薇、大きく枝葉を広げ、道端のかなりの部分を独占して咲いていた。
 この場所の右(東)側は崖下、左(西)側は丘を上る段々畑となっており、四方に陽を遮るものもないということもあるのか。

(※画像1・2:道端の木香薔薇)


 丁度、新緑と花の季節、次々に木香薔薇の蕾が開花して、大きく伸びた枝葉の上に淡い黄色の八重花を咲かせているといった様子だった。

 驚いたのは、その枝の長さ、なかでも崖下に伸びた枝(薔薇とはいえ枝に棘がない)は、そこに建っている民家の玄関戸の前を覆っていたが、住人は、今はこの枝を切らずに、花を愛でておられたのかもしれない。

 (※なお、花の美しさに見とれて立ち止まり眺めていたが、ふと、自宅の庭に植えてみようと思い、1本の柔らかい新芽の先端部を10cmほど採って持ち帰り植えた。その2年後(2016.4)、何本にも枝分かれた各枝が3mほどの長さに伸びて、たくさんの花を咲かせた。散花後、さらに多くの新芽(枝)が伸びてきたので、1本を残して剪定した。しかし、3年後になる今年(2017.3)、その枝から分かれた各枝が3~4.5mの長さ伸びている。こんなはずではなかったが、びっくりするほどの成長力で、支柱(210cm)を9本立てた。狭い庭では荷が重く今後のことは検討中。)


3朝町八幡宮参道と杜 次に参拝した「朝町八幡宮」の社殿は、納骨堂から100m直進した左側にある。
 ウォーキングでは、納骨堂前を右折、突き当たる三つ角を左折、田畑の間の里道を歩き左側にある同宮一の鳥居前(※画像3)に出る。(※この間150m、徒歩2分)。
(※朝町八幡宮は、次回掲載予定)

 ※つづく→「朝町八幡宮(宗像市朝町)」。

keitokuchin at 00:30|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2017年03月07日

延壽寺「朝町薬師堂(観音堂)」(宗像市朝町)

前回「朝町山ノ口遺跡(宗像市朝町)」からつづく。

1延寿寺 (1) 朝町薬師堂の所在地

 ・宗像四国東部霊場35・86番
「朝町薬師堂(朝町井上観音堂)」は、「延壽寺」境内にある。

 ・所在地
 福岡県宗像市朝町2342番地 延壽寺(延寿寺)。


 ※前回「朝町山ノ口遺跡」からコース:青葉台西口🚥右折(県道401号・北西方向に350m)、四つ角(左手前にコンビニ、右側に「曹洞宗(禅宗)延寿寺←納骨堂加入者募集」の看板、🚥なし)左折、140m先・正面右側(「納骨堂加入者募集 禅宗(曹洞宗)延壽寺」の看板あり)。Pなし(車の場合はコンビニ又は朝町八幡宮前Pに駐車のこと)。
 ※ウォーキングでは県道を避け、青葉台西口🚥の手前を右折(丘陵裾、朝町川沿いの旧道・農家あり)350m先の変則四つ角左折、上記県道四つ角を渡り直進する。(トイレはコンビニを利用。朝町山ノ口遺跡から約950m、徒歩約10~20分)。 (※本稿は、2014.4.12、小生の参拝メモ・画像による)。

 (2) 薬師堂改築記

 「朝町字中村二四六〇番地に、主として下組が祀っていた薬師堂があり、宗像四国の(東部三十五番)札所であった。
 又、延寿寺境内に主として中組が祀っていた観音堂大師堂があり(東部八十六番)札所であったが、堂宇が老朽化したため、双方の信者相はかり、昭和四十七年に薬師堂をそのままこの地に移転して、堂宇内に薬師如来さま、十一面観音さま、弘法大師さまを合祀した。
 しかし時移り、その薬師堂も老朽化したため、平成四年に朝町実行組合の総会の決定に基づき改築したものである。平成四年十二月朝町実行組合」。

 (3) 宗像四国東部霊場
  第35番本尊厄除薬師如来(朝町薬師堂)
  第86番本尊十一面観世音菩薩(朝町井上観音堂)

 ・旧「朝町薬師堂」が延壽寺境内に移転する前の旧跡地、宗像市朝町字中村2460番地の場所が分からないが、字中村、及び下組の名があるので朝町八幡宮・雲乘寺などがある地区集落のどこかにあったのだろうか。
 ・筑前國續風土記附録には「〇薬師堂ドウヤシキ」、同拾遺には「〇薬師堂 堂屋敷」の記載があり、同地は「堂屋敷」といわれていたことが分かる。

 ・「観音堂」については、同上附録、及び同拾遺に「(延壽)寺内に観音堂あり」とあるので、もとから延壽寺内にあったことが分かるが、現在、寺内に観音堂はなく、上記改築記により、観音堂は現薬師堂(木造瓦葺)に統合されていることが分かる。
 ※第86番朝町井上観音堂は朝町薬師堂に合祀されているが、前述した「第86番番外を含む朝町(昼掛)観音堂」と区別するため、ここでは「朝町井上観音堂」と記した。
 ※なお「宗像四国霊場札所」は、釣川を挟んで東部・西部に区分されたと聞いているが、確かに朝町(昼掛)観音堂は、釣川上支流の朝町川の東側にあるが、朝町薬師堂(朝町井上観音堂)は西側にあるので、そのすべてがこの区分に当てはまることではないようだ。

 ・朝町薬師堂は、延壽寺境内に入って左方にあるので、住持に申し出て堂内に入り参拝した。小生参拝メモ(2014.4.12)には「薬師如来立像2体、聖観世音菩薩立像1体+同小立像2体、弘法大師石造坐像2体」と記しているが、はっきり思い出せない。堂内に十一面観世音菩薩像はなかったような気がする。

 ・因みに四国霊場第35番札所は、醫王山鏡池院清滝寺(真言宗豊山派)本尊厄除薬師如来(高知県土佐市高岡町丁568-1)。
また四国霊場第86番札所は、補陀洛山志度寺(真言宗)本尊十一面観世音菩薩(香川県さぬき市志度1102)

 (4) 薬師堂の外側

2延寿寺宝塔 ・薬師堂の右前には、「経王塔」の刻字がある五輪塔がある。
 ・同左横に8体の石仏が並んでいる。
 ・同右横にある建物は、上記「曹洞宗 延壽寺(延寿寺)」の看板(2本)に「納骨堂加入者募集」とある、その納骨堂か。
 なお、寺前の里道沿い(北方)にある納骨堂は組合管理のものか。

 (5) 延壽寺記載史料

  延壽寺 イノウエ 禪宗洞家 佛堂五間三間 長禪山と號す。大穂村崇(宗)生寺に属せり。開基の僧を存異といふ。本尊阿彌陀佛は聖徳太子の作なりとそ。寺内に觀音堂あり。」(筑前國續風土記附録)
 ◆延壽寺 井上に在。長禅山と号す。禅宗洞家大穂村宗生寺に属す。宗像宮古文書中に弘安の比朝町村延壽寺見えたり。古刹なり。兵乱に断絶せしを、更山存異と云僧再興せり。是中興の開山也。存異は宗生寺三世中興の僧にて天正五年に寂せしよし寺記に見ゆ。本尊阿弥陀佛ハ聖徳太子の作也といふハいふかし。寺内に観音堂有。」(筑前國續風土記拾遺)

 ※史料に「聖徳太子」の名があるが、今年(2017)の中学校教科書から聖徳太子のことは、厩戸王(聖徳太子)と言わねばならぬらしい。九州には根強い聖徳太子信仰があったようで、いぶかしと言えど各地で聖徳太子の名を目にすることが多く、或は、九州王朝の系譜であったかもしれない聖徳太子の名が()書きになってしまうのは何とも忍び難い。※→(3/20追記)文科省は「分かりにくい」との国民の不評を受け入れ、元通り「聖徳太子」に戻すと発表した。そうだよね。

 ※つづく→「木香薔薇(宗像市朝町)」。

keitokuchin at 18:56|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2017年03月03日

朝町山ノ口遺跡(宗像市朝町)

 前回「朝町(昼掛)観音堂[宗像四国東部29・番外86](宗像市朝町)」からつづく。

 (1) 朝町山ノ口遺跡「案内板」の所在地

1朝町山ノ口遺跡公園北面 「朝町山ノ口遺跡」の「案内板」と「保存古墳(1基)」は、福岡県宗像市朝町2丁目24-6の芝生公園内にある。
 (旧:宗像市大字朝町字山ノ口)

 …「青葉台🚥」(団地内市道)―「青葉台西口🚥(県道401号)」間の南側(台地の西端)。


(注)
 ※前回「朝町(昼掛)観音堂」からウォーキングでは、同お堂前の市道(坂道上る)→「青葉台🚥」(四つ角)左折→(青葉台西口🚥方向に坂道下る)「朝町山ノ口遺跡←」標識板左折→右側にある。(※この間約630m、徒歩約10分)。
 なお、「青葉台🚥」手前の、「青葉台中央公園」手前又は先を左折してもよい。この辺り一帯で宅地造成前に朝町山ノ口遺跡が発掘された。

 (2) 同上「案内板」の内容

 「朝町山ノ口(あさまちやまのくち)遺跡
  所在地 宗像市大字朝町字山ノ口
  遺跡の時期  6世紀(今から1400年以上まえ)

2朝町山ノ口遺跡案内板 23基の古墳が発掘調査され、横穴式石室の中から大小の鉄鉗(かなはし)・金槌(かなづち)という鍛冶具(かじぐ)が出土しており、鉄器づくりをおもな仕事としていた人たちの墓地であったことがわかりました。公園内には円墳を1基保存しています。
  平成6年3月 宗像市教育委員会」。

(注)
 ※鉄鉗とは、鍛冶屋(鉄器製造工)が加工中の鉄材を挟むときに使う金箸(かなばし)のこと。
 ※古墳は、標高40m前後の低丘陵上にあった群集墳で、横穴式石室、又は竪穴式石室を有する小型円墳、6世紀後半〜7世紀の築造と推定されている。
 ※公園内に唯一現況保存されている円墳1基は、当初発掘された古墳(22基)の調査より後年に発見され、同遺跡に追加されたもので23号墳と称され、計23基となる(下記)。

 (3) 鍛冶工具と鍛冶集団

 当地(青葉台)は、宗像市でも宮若市との境界を接する内陸部の丘陵地にあるが、玄界灘に流出する釣川の上支流の一朝町川流域に位置しているので、古代は、川舟を通して海岸部との交通の便は良かったと思われる。

3朝町山ノ口23号墳南面 このような地に、6世紀後半から7世紀にかけて築造された古墳群(朝町山ノ口遺跡)から鍛冶工人が使う鉄鉗や金槌を始めとする大小の鍛冶工具が多数出土し、そのなかには国内級と目されるものもあったので、当時、当地に古墳を造成できるほどの力がある有力鉄器生産者(鍛冶工人)の集団がいたと推測される。

 宗像地方を含む北部九州は、大陸に近く、外来技術が入りやすい地の利があり、特に海洋族であった宗像氏は早く(弥生時代)から外来技術を取り入れ鉄器製造を行っていたと考えられ、その技術を引き継いできた鍛冶集団が6世紀に当地に定着し宗像族を支えていたのかもしれない。
 当地でどのような鉄器が製造されていたのかが分からないが、武器武具、馬具、農機具、或は祭祀儀礼用具などもあったかもしれない。

 なお、海洋族(海人)の宗像族は、宗像沿岸部や沖ノ島等で単独祭祀を行い宗像族(宗像王権があったとも考えられる)の繁栄を祈願していたと考える。
 因みに、宗像地方にヤマトの勢力が及んだのは、7世紀後半ではないかと思われるので、沖ノ島祭祀遺跡を大和朝廷の国家祭祀遺跡と考えるのは無理がある。
 7世紀後半、宗像地方がヤマトの勢力下に入ったことにより宗像族の沖ノ島祭祀も消滅し、それに合わせるように当地における鍛冶集団の足跡も消えたのではないかと思う。(以上は私見である)。

 (4) 最大級の鉄鉗と金槌

4鉄鉗と金槌 「宗像遺産文化遺産編」によると、最も大きな「鉄鉗」は、長さ47cm…6世紀後半造成と推定される朝町山ノ口遺跡5号墳の主体部から出土、また、同「金槌」は、長さ21.4×幅6.3×厚さ5.3cm・重さ3650g…同時期造成の同6号墳の主体部から出土したという。
 なお、この鉄鉗、金槌を含む出土品(鍛冶工具ほか)の数々は、九州国立博物館(福岡県小郡市)に保管されているという。

 (※画像は宗像遺産掲載の鉄鉗と金槌を転写)

 (5) 朝町山ノ口遺跡23号墳

 昭和57年(1982)~58年(1983)、大型住宅団地(現青葉台)の造成が始まる前、朝町山ノ口地区(現青葉台2丁目)で、朝町山ノ口遺跡の発掘(当時古墳22基…上記5、6号墳含む)が行われ、調査後、これら22基の古墳はすべて消滅した。

5朝町山ノ口23号墳東面 その後、昭和61年(1986)、朝町字浦谷(現青葉台1丁目)で住宅団地拡張工事が始まる前、浦谷遺跡古墳群の支群の発掘が行われたとき、前回、山ノ口側で手を付けていなかった雑木など藪で覆われた丘陵西縁面(平和農産工業蟒衢地)で新たに古墳一基が発見された。


 この古墳が、上記「案内板」が建っている芝生公園内にある円墳で「朝町山ノ口遺跡23号墳」と命名された。この時点で朝町山ノ口遺跡内の古墳数は「23基」に訂正された。

4朝町山ノ口23号墳西面 なお、同公園は、同年以降に雑木藪を撤去し平地に整地し保護壁を作り、見通し(見晴らし)の良い団地丘陵縁の芝生公園に生まれ変わった。
 そして、同公園内に23号墳を現況保存、古墳の推定墳丘径は11〜13m、主体部には横穴式石室が埋まっている。


 なお、浦谷遺跡古墳群機Ν(青葉台1丁目の自由ヶ丘南小学校側)も発掘調査後消滅、このほか青葉台の周辺には、朝町百田遺跡、朝町山添遺跡、朝町町ノ坪遺跡等の古代遺跡や古墳群が集中しており肥沃な地帯であったことが伺える。(参考資料「浦谷古墳群仰敢妻鷙霆」)。

 ※つづく→「延壽寺・朝町薬師堂(観音堂)」(宗像市朝町)」。

keitokuchin at 16:23|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2017年03月02日

朝町(昼掛)観音堂[宗像四国東部29・番外86](宗像市朝町)

 前回「昼掛八幡宮◆素凖惰發粒馬(宗像市朝町)」からつづく。

 「朝町(昼掛)観音堂」(俗称)は、昼掛八幡宮前から福岡県道75号線を青葉台東口(🚥)方向に260m進み、(同🚥より手前にある)三叉路を左折して青葉台(住宅団地)中央方向に190m進むと、左側の歩道に沿ってブロック塀(坂道の上り口付近)があり、その内側の敷地内(境内)に建っている(この間、徒歩約5~10分)。所在地:宗像市朝町1287。
  (※本稿は、2014.4.12、小生の参拝メモ・画像による)。

 (1) 宗像四国東部霊場29番・番外86番

1朝町観音堂と藤棚 ・朝町(昼掛)観音堂は、「宗像四国東部霊場第二十九番昼掛村ノ入口(本尊千手観世音菩薩)」と「宗像四国東部霊場番外第八十六番須藤郷(本尊十一面観世音菩薩)」を祀るお堂(ブロック・木造瓦葺、須弥壇のみの造り、格子あり、一段高いモルタル外拝殿)で、春の千日詣り巡拝コース。


2朝町観音堂御詠歌木額 ・堂内に置いてある「木額」には、「宗像四国東部 二十九番靈場 本尊千手観世音 國を分けたからをつみて たつ寺の 末の世までの 利益のこせり」と墨書してある。
 (※注:四国霊場第29番御詠歌は「国を分け宝を積みて建つ寺の 末の世までの利益残せり」で漢字を入れると分かりやすい)。


 ・ただし、現在、堂内に安置されている本尊は、上記千手・十一面観世音菩薩像ではなく、聖観世音菩薩立像(金塗一体)ではないかと思う。
 ほかに小木仏(阿弥陀如来坐像か、両手消失)、琵琶を持った小弁財天像、小弘法大師像がある。

 (2) 十三仏堂+毘沙門信仰

0十三仏堂 ・また別棟の十三仏堂は「昭和八年(1933)十二月吉日建立」を一部改修したものか。当時の金額で「寄付金六拾円」世話人は「奥野安太郎 奥野冨吉 谷口政平 中野蔵 眦鎚浸 谷口勝三郎」。

 ・十三仏堂内には、石像15体=十三仏+多聞天(毘沙門天)+弘法大師坐像が一列に安置してある。

 ・因みに当地区は、毘沙門天信仰があった宮若市と接しており、昼掛八幡宮の境内仏堂にも多聞天(毘沙門天)像があったので、毘沙門天信仰があったのかもしれない。

 ・なお、昼掛八幡宮のお堂は、宗像四国東部霊場にはなっていないが、朝町昼掛観音堂から近く、ここから同所に足を運ぶ巡礼者もいるようだ。
 ・今回の道順で書き洩らしたが、昼掛八幡宮の下方、荒堀川の辺にある「昼掛いぼぬき地蔵堂」も巡拝される。(※別記→「昼掛いぼぬき地蔵尊(宗像市朝町)」。

 (3) 修行大師像2躰

0修行大師像 ・境内には、台座に乗った修行大師像が立っており、その前に手水鉢、石花立が置いてある。

 ・もう一体、その下方にある修行大師像は、左手がもげ托鉢椀がなく、右手に持っていた錫杖もない。その後ろには石碑の寄附者芳名碑がある。


 (4) 六十六部達成記念碑

 ・修行大師前に建っている縦長の石碑1基には、読みにくかったが「天下泰平 奉納大乘玅典六十六部日本四國現當両界 日月清明 文政三庚辰十二月吉日 豊前京都郡(?) 筑前宗像郡朝町村願主利市 こん」の刻がある。建立)。
 …文政三(1820)年、朝町村の利市、こん(夫妻か)が、鉦(かね)、鈴を鳴らし托鉢し日本四國の霊場を行脚し自ら書写した法華経の経典を1部ずつ巡礼した66個所の社寺に奉納してきた記念に建てた碑だと思う。豊前京都郡の後の字を読めなかったが石工の名が刻してあるのか。
 かつて朝町にはこのように人々の幸を祈念し修行行脚された奇特な人が居られたことが分かる。今はその修行の跡が人知れずここに残っているといった感じがした。

 (5) 孟宗竹林と竹の子

0お堂と竹林 ・また、お堂の後方には孟宗竹林があり、春には、境内で、所かまわず「竹の子」が頭をもたげる。
 放置すると、境内が竹林に覆われることになるが、境内清掃は行き届いており、お守りしている人たちが、竹の子採取の作業もされていると思う。


 なかには、子供連れでスコップ持参して「竹の子狩り」に訪れる人たちもいるが、これも仏前奉仕作業の一環となるのだろう。直に採って来た竹の子の調理は手がかかるが、観音様の竹の子だから、頂くと現世利益があるのかもしれない。
 
 (6) その他、山桜など

 ・その他、境内入口の門柱(奉寄進谷口光唯昭和四十八年三月吉日)や塀、叢に放置状態の古い角型手水鉢(刻なし)、十三仏堂横に丸型手水鉢(円形組み合わせ模様彫あり)などがある。

3朝町観音堂桜 ・藤棚も作られているが、放置状態で立派ではない。

 ・それに、ソメイヨシノに加えて、八重の山桜など、桜の樹もある。
 ・花が咲くと花が映えて美しく、ここで花見をする人たちもいるのだろう。


 (参考)
 ・因みに「四国霊場第29番札所」は、真言宗智山派「摩尼山宝蔵院国分寺」本尊千手観世音菩薩(高知県南国市国分546)である。
 ・「宗像四国東部霊場第八十六番」は、曹洞宗「延寿寺」境内の観音堂本尊十一面観世音菩薩(宗像市朝町2342)。
  (※別記→「延壽寺「朝町薬師堂(観音堂)宗像市朝町」)。
 ・「四国霊場第86番札所」は、真言宗「補陀洛山志度寺」本尊十一面観世音菩薩(香川県さぬき市志度1102)であるが、同86番霊場には番外はない。

 ※つづく→「朝町山ノ口遺跡(宗像市朝町)」。 

keitokuchin at 00:23|PermalinkComments(0)TrackBack(0)