2017年04月

2017年04月25日

日吉神社の由緒記 (宮若市下)

 前回「日吉神社(旧吉川総鎮守) 宮若市下」からつづく。

 「日吉神社(山王宮)由緒板

1日吉社由緒板 前回、「(4)祭神」の項に記した「日吉神社(山王宮)由緒板」のなかにある「社説に述ぶる所次の如し」については次回掲載するとしていたので、今回、以下に記す。

 なお、文中の(※注)は、小生が付けたもので、その部分の付記を下欄に記す。


 「人皇第六十代、村上天皇の天暦三年(949)四月、滋賀県大津市坂本の日吉大社の分霊を勧請し奉る社なり(※注1)

 神霊は、日吉大社より御輿で浪速津(大阪)から船で宗像勝浦―笠松(比恵谷)―福丸坂本(本社鎮座地の名)を経て小伏(比恵崎)に鎮座さる。日吉はヒエとも読み、この神霊が通過した縁ある地名が今日まで残れり(※注2)

 当時の御神幸は乙野草場の大行事神社なり(※注3)

 その後およそ400年を経て、正平二十三年(1368)下村の地に宮所を移し、文明9年(1477)太宰少貮政尚の命に依り惣政所藤右京進安秀修復を行ふ。
 50年を経て、大内義興の下知にて守護杉豊後守平興長奉行となり、願主として大村日向守重継・同苗又四郎興景が新に再建し奉る。

 天正十三年(1585)に至りては、氏子内湯原村草場の城主松井越後守秀郷拝殿を建立し、同年願主秋月種長神殿の造営をなせり(※注4)
 下りて寛永十一年(1634)長崎某願主となり神殿の修復をなす。

 此地に鎮座ありて凡そ300年を経る寛文十一年(1671)神霊を当地東山の地に移し、前鎮座地を古宮と称す(※注5)
 国主より郡司を派遣し社地の検分を行はしめ造営料として銀子10枚の寄進あり。他の入財は産子中より寄進し大宮柱を建て奉祠す。
 元禄二年(1689)拝殿再建願主産子中なり。

1日吉社高宮 さらに文化三年(1806)に到り社殿の造営が行はれ、国主の命に依り郡奉行永田清十郎造営奉行として指揮し、山口觸16ヶ村の外、植木、龍徳等の觸中より造営料の寄進あり、現今の神殿は此時の建築なり
 文化十二年(1815)三月大風により幣殿破損せるを再建す、願主湯原村安永安治なり。
 同十四年(1817)拝殿の再建あり願主氏子中なり。

 当神社の由緒の詳細は貝原好古の縁起書、及び竹田定直の山王古實に明らかなり。また筑前国続風土記(※注6)・太宰管内志等に登載せる處にして、国主黒田家の崇敬殊の外篤く、光之・綱政・斉清三代の当社参詣あり(※注7)。故あって当社の家紋は黒田家同様の藤巴なり。
 尚、当社は吉川郷の惣社のみならず、分神霊を奉祠せる社郡内に数社あり(※注8)

 鎮座より一千年有余の悠久の時を刻む間、社の盛衰はありたれとも、主祭神大国主命の神明の威徳は不変にして、医の道を起し万病退除の神にして人民はいふに及ばす六書にいたるまで悪病災難のがれるべし、また子孫の繁栄を願はばなこの神に祈るべし、子孫綿々と長く栄えなん、この御神威誠に顕著なり。日吉神社氏子総代会」。

………………………………………………………………………………………………………

 [付記(注)]
 ※上記の(注1〜8)部分の記事に関して、付記しておく。

 (※注1)「第六十代村上天皇」とあるのは、「第六十二代村上天皇」の間違いである。なお、神社誌は「人皇第六十二代村上天皇の天暦三年四月、滋賀縣滋賀郡坂本村の官幣大社日吉神社(近江國日枝坂本大宮)の分靈を勧請」と記載している。

 (※注2) 戦前まで「日吉」は、「ヒエ」と読まれ、日枝・比恵・比叡と同じ読みであることを前回記した。そして、日吉大社の御分霊を載せた御輿が留まった宮若市内にその比恵の名が付けた「比恵谷」(笠松)、「比恵崎」(小伏)、及び大宮鎮座地の坂本の名を付けた「坂本」(福丸)などの地名(字名)が今も残っているという。筑前國續風土記附録には、小伏村「比恵崎社 ヒエザキ 吉川山王初の宮地なり」の記事がある。

 神霊(神輿・御輿)は「宗像勝浦→笠松(比恵谷)→福丸坂本→小伏(比恵崎)」を通過したと記されているが、笠松→福丸→小伏之コースはおおよその推定がつくものの、勝浦(福津市)→笠松(宮若市四郎丸)間はいかなるコースを辿ったのだろうか。
 当時の道筋をいろいろ考えた末、勝浦→名児山越(古代官道→)田島から釣川を遡り→赤間(古代街道→)赤木峠→笠松と推定したが、もとより合っているかどうかは分からない。
 なお、笠松は、神功皇后の笠かけ松の伝承地だが、神功皇后は笠松から赤間には抜けず、山口村(山口八幡宮鎮座)を経て見坂峠を越えた。

 (※注3)「当時の御神幸は乙野草場の大行事神社」とあるので、御神幸先(頓宮)がなぜ大行事神社なのかの説明はないが、日吉神社が小伏比恵崎に鎮座していた時代には、吉川郡乙野村草場地区に「大行事神社」が鎮座していたことが分かる。

 筑前國續風土記附録に鞍手郡黒丸村山王宮 ※キヨミツ 神殿方一間・社拝殿二間三間 祭禮九月十八日・奉祀清水寺 清水十六戸の産神也。昔ハ乙野村の内大行事といふ所に有りしか、いつの頃にか、此地に移せりといふ。」ある。(※キヨミツは、キヨミズ(清水)のこと)

 この黒丸村清水の「山王宮」が、かつて乙野村草場に鎮座していた「大行事神社」で、乙野村草場の集落名は「大行事」とも云っていたのだろう。

 なお、この黒丸村「山王宮」は、一般的には「大行事神社」(現「高木神社」)と言われ、「英彦山四十八大行事社の一」に数えられる「大行事神社」だったので、英彦山神宮・彦山修験道豊前坊・黒川院との係わりも考えられる。※別記参照→「佐田高木神社へ(4)菊紋石柱・英彦山四十八大行事社(朝倉市)」。

 因みに黒丸「山王宮(山王権現)・大行事神社(現高木神社)」の鎮座地(宮若市黒丸1572)は、西山連山の主峰「西山」(鮎坂山/標高664.6m)の南東中腹(清水寺の上方)で、時として雲海などが見られる絶景地である。なお、清水寺までは車で行けるが、石鳥居からは徒歩数分上る。

 「福岡縣神社誌(昭和19年)」の「日吉神社」の項に次の記事がある。
 「年々の祭禮も盛大に執行せられる特に三申祭は四月の申の日三日あれば中の申の日を撰び、二日あるときは後の申の日を定めて神靈を神輿と遷し頓宮迄御神幸あり、一日滞輿翌日歸輿あり、流鏑馬特殊神樂奉納して賑盛なり、現今に於ては隔年に執行す、神幸頓宮の處は當社の攝社にして清水の地に鎮座します大行事神社(高木神社)なり。古神領として數十町歩を有し現在に至る迄供田薦敷田火焼田流鏑田印鑑田等の地名田字殘れり。」

 (※注4) 草場城は、湯原町大地原(草場集落)の湯原山の一丘陵上にあり、本丸跡に城主松井越後守秀郷之墓がある。秀郷は、もと大内氏の家臣で、大内氏滅亡後、秋月種実の配下になり、天正13年(1585)に秋月種長とともに日吉神社(当時山王権現社古宮鎮座地)の社殿を造営したが、同年、宗像勢に攻められ討ち死にした。(福岡県の城参照)。

 (※注5) 古宮は、筑前國續風土記附録に「今の社より艮六町計」とあるので、現社殿より艮(うしとら・北東・鬼門)方向600mほどにある須賀神社鎮座地にあったではないか。(※一町・六十間・約108m×6=618m)。※次回掲載。
 
 筑前國續風土記附録「下村・山王権現社 ヒカシヤマ 神殿三間・社拝殿二間半三間・祭禮九月廿一日・石鳥居あり。奉祀國井但馬・堀出羽也。國井氏を大宮司と云。堀氏を神主といふ。吉川河内(下村・湯原・脇田・乙野・小伏・緑山の六村)の惣社なり。祭れる所の神ハ、日吉七座大明神・三島明神・沙川明神(一説に松尾明神)なり。初て祭りし地を比惠崎(小伏村にあり)といふ。其後今の社より艮六町計に移せり。又寛文十一年今の所に移せり。社内に鹿子馬社・祇園社・釘大明神あり。〇凡此社の事ハ本編及縁起(貝原篤信撰へり)に詳也。又神社古實と題せる一巻有り。竹田定直記せり。」

 (※注6)筑前国続風土記」(本編)の記事を下記に転記する。
 「山王権現社 下村にあり。吉川河内六社の總社也。いつの時勧請せしにや、年代詳ならす。初て鎮座の地を比叡崎と云。江洲の山王の地にかたとれる名也。九月二十一日祭あり。人多く集る。又三申の日祭あり。申の日二あれは、次の申を用ひ。三あれば中の申の日を用ゆ。※應安元年(1368)建立の棟札あり。文明九年(1477)に大内家の臣、宗掃部氶盛秀と云者、此邊を守護せし時、總政所藤右京進安房と云者、修覆を加ふ。其後頽破せしを、大永七年大村又四郎興景といふ者建立せり。又天正十三年(1585)松井越後守秀郷と云者建立す。寛文十一年(1671)に、吉川郷の産子とも寄つとひ、今の宮所に、新に神宮を建立して移し奉る。社地高き所にありて、石階をのほる。上には眺望をよろこはしめ、下には水洗いさきよし。」
 ※應安元年(1368)=上記正平23年(1368)

 (※注7) 国主黒田家の崇敬について「福岡縣神社誌」に次の記事がある。「國主黒田家の崇敬殊の外篤く、光之君綱政君齊清君三代の當社々参あり、其の他正月一日、五月五日、六月二十九日、九月一日、十二月二十九日を式日祭禮日と定め國主安泰祈願祭を行ひ、正月五月六月九月の四同必ず代参ありて荘厳に祭典を執行せしこと古文書等に明なり。」。

 (※注8)「福岡縣神社誌」は「當社の分霊を奉祠せる社郡内に数社あり」として、末尾に次の攝社と末社を掲げている。
 攝社: 黒水神社(伊弉册命、素戔嗚命)・天満神社(菅原神)・日原神社(大國主命、市杵島姫命、大山祗命)・高木神社(高皇産日命、日吉七社大神) 
 末社: 太良志神社(大邑倉命、大山祗命)・葛城神社(大山祗命、日吉七社大神)・須賀神社(素戔嗚命)・釘神社(日本武命)。

 ※上記8社の鎮座地は、黒水神社(脇田)・天満神社(乙野)・日原神社(脇田)・高木神社(黒丸)・太良志神社(→多良志神社/小伏)・葛城神社(三ヶ畑)・須賀神社(下)・釘神社(下)か。
 なお、このほかにも近隣には日吉神社の社名を有する神社がある。

 ※因みに上記「日吉七社大神」とは、「日吉七社権現」と云われる1 大山咋神(二宮小比叡 東本宮)、2 大己貴神=大国主命(大宮権現 西本宮)、3 田心姫神(聖真子 宇佐宮)、 4 鴨玉依姫神荒魂(三宮 三宮宮)、5 大山咋神荒魂(八王子 牛尾宮)、6 白山姫神(客人権現 白山宮)、7 鴨玉依姫神(十禅師 東本宮境内)である。
 若しくは、当地の場合、日吉神社祭神の1 大国主命、2 大山咋命、3 應神天皇、4 五男三女大神、5 二柱大神、6 邇々藝命、7 事代主命をいっているのか。

 ※つづく→「日吉神社古宮・須賀神社・釘神社 (宮若市下)」。

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2017年04月22日

日吉神社(旧吉川総鎮守) 宮若市下

 前回「東禅寺の山門(旧名島城裏門)ほか(宮若市湯原)」からつづく。

 (1) 日吉神社(山王宮)鎮座地

 ※日吉神社(山王宮)鎮座地:福岡県若宮市下(字高宮)1169。
            旧:鞍手郡吉川村大字下字高宮

1日吉社高宮 ※「日吉」は「ひよし」と読むが、戦前は「ひえ」だった。

 なお、「ひえ」は、日枝・比恵・比叡とも書けるので、日吉山=日枝山=比叡山となるが、神社名では、主として西日本は「日吉神社」、東日本は「日枝神社」の名で分布している。


 ※「山王」は、祭神大山咋命の別称で、それ故に日吉神社を「山王宮」ともいう。

 ・前回参拝した東禅寺(湯原)の参道口から北に90m進み宮若市道に出て右を向くと、この先170mに建つ日吉神社(山王宮)の「一の鳥居」(石造)が見える。
 ・市道に面した「一の鳥居」から参道を真っすぐ上った丘陵上に「日吉神社の神殿(高宮)」があるが、ここは、丁度、東禅寺の裏山にも当たるので、かつてこの両社寺の間には何かの係わりがあったのだろうか。ただし、由緒にそのことを示す記述はない。

 (2) 旧吉川郷(吉川河内)の惣社(総鎮守)

 ・この下(村)の「日吉神社」は、かつては「旧吉川郷の惣社(総鎮守)」と言われ、かつての主要道(現市道)沿いに鎮座し、市道に面して「吉川総鎮守 日吉神社」と刻した石碑や石灯篭、「一の鳥居」などが建ち、その威厳を保持している。

 ・「吉川(村)・吉川郷」とは、現在、そういった地名は聞かないが、吉川河(現:犬鳴川)の上流域にあたる旧「吉川河内の六か村=脇田、乙野、小伏、湯原、下村、縁(へり)山」(現在の宮若市脇田、乙野、小伏、湯原、下、縁山畑)のことである。

 ・日吉神社(山王宮)の大宮日吉大社(山王総本宮)」は、近江国(滋賀県大津市)日枝山(比叡山)の山麓・坂本に鎮座し、日枝山(比叡山)の「山ノ神(地主神)大山咋命」を祭るが、当下村「日吉神社(山王宮) 」は、天暦3年(949)4月その大本宮の御分霊を吉川郷に勧請し「吉川郷の惣社」としたものである。

 ・鎮座地の移動

 〜 天暦3年(949) 小伏の比惠崎(比叡崎)に当初鎮座。
   正平23年(南朝年号/1368) 下村(古宮)の地に移転。
   寛文11年(1671) 下村東山・高宮(現在地)に遷宮。

 なお、小伏比惠崎(比叡崎)や下村古宮の場所について確認していないが、筑前國續風土記附録には、小伏村「比恵崎社ヒエザキ吉川山王初の宮地なり」の記事がある。また、古宮については、同書に「今の社より艮六町計」とあるので、現在、須賀神社が鎮座している所ではないか。(※艮=うしとら・北東・鬼門、一町=六十間=約108m、108×6=618m)。

 ・現本殿は、「高宮」と呼ばれ、湯原山の北陵上の高台にあり、「山ノ神・大山咋命」の鎮座地としては相応しい。
 しかるに、当初の奉斎地を「比恵崎(比叡崎)」というので、犬鳴川の崎が思い浮かび、また、現参道口(一の鳥居)の前面に犬鳴川流域・小金原(金原/コガネバル)の農耕地が広がっているので、「大山咋命」は、山ノ神であると同時に水ノ神(農耕神)であったことが伺える。

 ・因みに、「犬鳴川」は、脇田温泉郷の山手の「犬鳴山(583.7m) 」(現在、県道21号の新犬鳴隧道や、犬鳴ダムなどもある)に源(二流あり)を発し、湯原、小伏、下などを経て、宮若市内で黒丸川、山口川、有木川、八木山川等を合流し、直方市植木で遠賀川に流入して遠賀郡芦屋町から響灘に流出している。

 (3) 参道(一の鳥居〜二の鳥居)

 ・上記したように「日吉神社参道口」に、市道に面して「吉川総鎮守 日吉神社」と刻した石碑が建っている。この石碑を観ていると、現在も当社が、上記した「旧吉川郷の惣社(総鎮守)」として悠久の歴史を刻んできた伝統と威厳を保っているように伺える。

2日吉社参道1 ・石碑の後ろに「大石灯篭(一対)」と「一の鳥居」があり、ここから「二の鳥居」(石造)までの参道(約45m)の左側に神官宅がある。(※画像)
 当社の神官さんは、現在も旧吉川郷及びその周辺地域に鎮座する摂社ほかの奉祀を担っておられるのではないかと想像する。


 ・なお、車で参拝に行くときは、一の鳥居〜二の鳥居間の参道は歩行者専用なので、市道から一の鳥居に向かって右方にある脇道を入り、二の鳥居より上方、石段の左手前にある駐車場に車を止め、この先は徒歩。

 ・二の鳥居の左横に「日吉神社社務所」があるが、祭事等があるとき以外は閉まっている。

 (4) 祭神

 ・二の鳥居の後方に、「日吉神社(山王宮)由緒板」(日吉神社氏子総代会記・安河内忠蔵殿奉納建立)」が建っている。(※画像)

3日吉社由緒記部分・祭神等 「鎮座地 福岡県鞍手郡若宮町大字下字高宮一一六九番地」と記載されている。

 平成18年(2006)2月11日に、鞍手郡若宮町は、同宮田町と合併し現「宮若市」となっているので、これは、それより以前の地名である。


 「御祭神:大国主命 大山咋命 應神天皇 五男三女大神 二柱大神 邇々藝命 事代主命」
 「相殿:三島明神 氷川明神」。

 …※上記のうち「五男三女大神」とは、須佐之男命と女神天照大御神の誓約によって生まれた八王子=男神五柱(天之忍穂耳命、天之菩卑能命、天津日子根命、活津日子根命、熊野久須毘命)と宗像三柱大神(宗像三女神)の総称である。

 鞍手郡では宗像三女神(須佐之男命の子)は、六ヶ岳(鞍手町室木)に降臨した山神であったとの考えがあり、須佐之男命、大国主命(須佐之男命の娘婿)、大山咋命(須佐之男命の子大年神の子)、事代主命(大国主命の子)などが御祭神に揃えば、やはり当地が古代物部氏の地盤であったことが伺える。それ故に当社は日吉大社の神を勧請し、旧吉川郷のみならず、犬鳴川に沿う直方を含む鞍手郡全域、遠賀川流域にいたる地域まで信仰を集めていたとも考えられる。

 「二柱大神」とは、通常「イザナギ(伊弉諾・伊邪那岐・伊耶那岐)神」と「イザナミ(伊弉冉、伊邪那美、伊耶那美、伊弉弥)神」をいう。
 なお、当由緒板には、御祭神として福岡懸神社誌に載っている「伊弉諾册命」(イザナミ)が載っていないが、それは多分、「二柱大神」の一柱がイザナミ神なので、同じ神の重複記載を避けてのことなのだろう。

 「相殿の三島明神と氷川明神は、祭神勧請時に合せ祭ったと思われる。

 この次に「社説に述ぶる所次の如し」としてかなり長文の由緒が記されている。由緒の詳細が分かり有り難かったが、ふと、これだけの長文の由緒記(現代文ではない書き方もしてある)を、参拝に訪れたすべての人たちが読んでくれるのだろうかとも思った。
 ※この由緒記の社説云々部分の内容(転記)は、次回掲載する。

 (5) 参道(坂〜石段)

4日吉社参道2 ・ここから坂を上ると、左側に「手水舎」があり、正面突当りに参道「石段」がある。(※画像)
 石段の途中の踊場に、「石造狛犬(一対)」、石造「三の鳥居」がある。
 この急斜面の石段を上りながら、その段数を数えていたが、途中で息切れして忘れてしまった。


 石段を避けたい参拝者は、石段の左側の斜面を上る曲がりくねった道を歩いても良い。

 (6) 高宮の社殿

5日吉社 ・壇上(高宮)に上ると、左側に立派な「社殿」(拝殿・幣殿・神殿)が建っている。 (※画像)

 由緒によれば、当社は、筑前國黒田家三代(光之、綱政、齊清)の崇敬殊に篤く、社殿は、文化3年(1806)国主の命で造営奉行を置いて建築されたものだという。


 ただし、その後、度々一部倒壊や破損等があり、そのつど再建(改築、修復等)を繰り返し、今日に至ったもののようである。


6日吉社狛犬 ・拝殿の前の土間(ポーチ)に、「御百度石」が1本建っている。かつて、病気平癒の祈願のお百度参りが多かったともいう。

 両脇に「石造狛犬」(一対)がいる。(※画像)

 掲載画像の「石狛犬」は、天保八年丁酉(1837)十一月吉日奉納のユーモラスな表情をした阿形の狛犬像である。(※画像)



7日吉社絵馬 ・拝殿内には、数枚の「絵馬」が掲げてある。

 掲載した絵馬の画像は、「那須与一扇の的<元暦2年(1185)屋島の戦い>」安政四年丁巳(1857)九月吉日黒丸觸中奉納絵馬で、源平盛衰記を思い出させてくれるが、かなり着色が消えかかっている。


 なお、絵馬の一枚「神戸港之春景」(明治16年(1883)衣笠探筆)は、宮若市指定有形民族文化財だという。この絵馬も色落ちが進んでいる。

 ※つづく→「日吉神社の由緒記 (宮若市下)」。

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2017年04月18日

西郷川花園=菜の花、全開!! (福津市)

1西郷川花園菜の花 4/15夕方、たまたま「西郷川花園」(福津市津丸478-1)の上方の県道を車で通っているとき、広い花畑の全面を黄色一色に染めている「菜の花」が目に留まった。

 その様があまりにも美しかったので、車を停めて観てみたいと思った。


 雨が降っていたので、そのまま園内の「東屋」の前まで行き車を降り、「東屋」に駆け込み、そこから改めて周囲を見渡した。
 雨降る夕方、誰もいない、静かな花園、そこで改めて花畑を黄色一色に染めている菜の花群を観たら、壮観にも観えるが、しばし心が和やかになった。菜の花にもそんな力があるんだ。

 そういえば、ある年の秋、この花畑で乱舞している色とりどりの「コスモス」の花を観たことを思い出した。そのなかには珍しい「薄黄色のコスモスの花」もあった。調べてみたら4年半も前の2012年10月のことだった。
(※別記参照→「福津市コスモスロード見学」)

 「西郷川花園」は、20年くらい前から福津市が市民のために無料開放している癒しの花園で、春の菜の花、夏のひまわり、秋のコスモス、これらの群生する花を楽しめ、休日の天気の良い日中には家族連れで鑑賞に訪れる人たちも多いらしい。きっと市が地域農家に委託して、運営をしている花園だと思うが、とても粋な試みだと思う。

2西郷川花園菜の花 この道(県道531号内殿手光線)は、たまに通るが、ここで花と巡り合ったことはあまりなく、ひまわりは未だ見たことはない。

 実際、今回、ここで満開の「菜の花」を観たのも初めてことだったので、この巡り合せに感謝して帰路に就いた。ありがとう。

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2017年04月17日

東禅寺の山門(旧名島城裏門)ほか (宮若市湯原)

 前回「東禅寺の由緒記板(宮若市湯原)」からつづく。

 東禅寺の由緒記板に、東禅寺の文化財として、本尊釈迦如来座像、梵鐘(県重要文化財)、芭蕉句碑、大般若経六百巻、山門(名島城裏手門)、が記してあるが、今回は、これらについて記しておく。

 (1) 山門(名島城裏手門)

1山門 「東禅寺の山門」は、野面積みの高い石垣の中央に造られた参道石段を上った正面(本堂の前方)に建っている。(※画像)

 その傍らに、この山門の由来を記す「当山十二世石鏡梅重・旧名島城之裏門を移す・明治廿年四月十日」と刻した小碑が建っている。
 それ故、この山門が「旧名島城之裏門」であったことが分かる。



2山門 名島城(福岡市東区)は、小早川隆景、小早川秀秋の後を受けて慶長6年(1601)、黒田長政が筑前入府時に入城した城で、翌慶長7年(1602)に廃城され、その資材の多くは、慶長11年(1606)に完成した福岡城に移されたと理解していたので、ここで「旧名島城之裏門」の文字を観たときは意外だった。



3山門・鐘楼 旧名島城の遺構の一部である「6本柱の旧名島城之裏門」が東禅寺に移され現存し「山門」として使われていることなど、知っている人は少ないのではないかと思う。(※画像)
 この小石碑だけでは、その経緯が分からないものの、確かに貴重な文化財をここで観るなど驚きだった。

 このことだけでも東禅寺が格式の高い寺院だったのではないかと思えた。

4名島城碑と地蔵 なお、この「旧名島城之裏門を移す」と刻した小石碑の前、植え込みの中に、物静かに立っている小地蔵像(石仏)の姿も印象に残った。(※画像)

 きっと東禅寺参詣者を門前でお迎えしているのだろう。



 (2) 梵鐘・本堂・掲額ほか

5東禅寺梵鐘二つ 東禅寺には、2本の梵鐘=本堂前に建保三年(1215)鋳造の梵鐘(福岡県重要文化財)があり、鐘楼に平成2年鋳造の新しい梵鐘があるが、この「東禅寺の梵鐘」については別記している。
 また、鐘楼は、山門の左側、野面積みの高い石垣の上に造られており、ここからの眺めは抜群であることも別記した。

 ※別記→「正見行脚「東禅寺の梵鐘」(宮若市湯原)」。

6東禅寺額と梵鐘 本堂前部の軒下に立ってその軒下に釣り下げてある一回り小さい重文梵鐘と、その先にある鐘楼の大きな梵鐘を同時に観るコントラストはよい。(※画像)

 重文梵鐘の左横、本堂正面外鴨居に「東禅寺と墨書した木額が掲げてある。(※画像)

 なお、「黄龍山」の山号は書いてない。

 あいにくご住職不在のときに訪れ、本堂の戸が施錠されていたので堂内に入ることができなかったが、内陣には釈迦三尊像(本尊釈迦如来座像)が安置されているのではないかと思う。

7本堂 また、大般若経六百巻も本堂に保管されているのか。大般若経六百巻(大般若波羅蜜多経)とは、唐代の玄奘三蔵が大乗仏教の基礎的教義・般若経典類(仁王経と般若心経を除く)を集大成した膨大経典群である。目にすれば、思わず合掌したくなるようなもので、それだけでも御利益をいただけそう。


 (3) 芭蕉句碑ほか

8芭蕉句碑 本堂前の庭の片隅に、石碑が二つあったが、一つの石碑の横に「芭蕉句碑 寛政元年己酉建之」と刻した小石碑が建っていたので、この自然石の石碑が芭蕉句碑だと分かった。(※画像)

 それにしても建てられたのが寛政元年(1789)とは古い。


 この芭蕉句碑は、世間でその所在を知られていないのではないかと思う。それにしても、何という句なのか、彫られている刻字が読めず分からなかったが、ぜひとも説明が欲しいところだ。

9禅の心碑 もう一つの石碑は禅の心は冬薔薇(ふゆさうび・ふゆばら)と詠ったものだと思う。(※画像)
 誰の句でいつの建立なのか、多分、刻してあったのかとは思うがよく観ていなかった。
 南無釈迦牟尼仏。
(※東禅寺参拝記おわり)

 ※つづく→「日吉神社(旧吉川総鎮守) 宮若市下」。

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2017年04月15日

東禅寺の所在地・由緒記板(宮若市湯原)

 前回「東禅寺の梵鐘(宮若市湯原)」からつづく。

 1. 東禅寺の所在地

1東禅寺前景 福岡県宮若市湯原62
 黄龍山東禅寺 (曹洞宗)
 (旧:鞍手郡若宮町湯原字谷・鞍手郡湯原村谷) 
 湯原山(標高384.2m)の北北西に伸びる一山陵の山麓(標高71.1m)。
 脇田温泉郷の北東約2km。この辺りは東禅谷と通称される。


 県道21号福岡直方線の「総合運動公園入口交差点」(🚥あり)を南東方向(※西鞍の丘運動公園とは反対方向)に曲がり、犬鳴川を渡り突当りのT字路(市道)を左折、右前方に見える集落の丘の上にある(この間、約700m)。
 車の場合、市道の集落入口を右折(=市道が左カーブする地点をほぼ直進する狭い旧道)、さらに直ぐ右折して上った所に駐車場がある。

 2. 「黄龍山東禅寺」由緒記板

2東禅寺由緒記 ・参道(石段下の左側)に東禅寺の由緒記板が建っているが、かなりの文字が消えているので、あまり読めない。かろうじて読めた部分を次に転記するが、はっきり言って内容はよくは分からない。
 ※(注) …は消えていたりして読めない、[ ]内は消えているが推測で記入してみたもの。


「[黄]龍山 東禅寺(曹洞宗) [創建]は永正二年……………、[桂]芳和尚が堂宇建立……とひきつき、天文十二年[(一五四三)十二月]十五日に完成しました。……世に堂宇も荒れはて、湯[原]……志は黒丸城主安永但馬……天正五年[(一五七七)]六……戦死者の菩提を[弔]いま[した。そ]の後、五十年ほどし……地蔵山の城主(前の…前…)………時に…元………(…七)四月…八日のこと…。[主]要文化財 本尊釈迦如来座像 梵鐘(県重要文化財) 芭蕉句碑 大般若経六百[巻] 山門(名島城[裏]手門) 若宮町… 若宮町文化財…」。

 甚だ不明個所の多いこの由緒記を見ながら、以下あくまでも小生が推測した由緒記を書きとめておく。ただし、訪問時にご住職に会ってなく、また宮若市教委等にも行っておらず、一切の確認を行っていないので、間違い個所があるかもしれない。

  創建年は永正二年か

 ・創建年は、永正二年(1505)
 筑前國續風土記附録に「開基の年歴詳ならす」と記されているが、当寺には開基(創建)の年歴を永正2年とする史料があるのだと思う。

 ・同拾遺には「天文十二年十二月十五日桂芳と云僧開基す」とあるが、上記の由緒板は、「桂芳和尚が東禅寺を引き継ぎ、天文12年(1543)に堂宇を建立した」と書いているように思える。ということは、創建当初の東禅寺は、或は「庵」だったのかもしれない。

 創建年とされる永正2年(1505)は、天文12年(1543)より38年前のことなので、或は、上記にその創建僧名が記されていたのかもしれない。
 いずれにしろ東禅寺の創建は、室町時代(1388〜1573)の後期=戦国時代のことだと分かる。

 しかるに、その後に「世に堂宇も荒れはて」の文があり、多分、桂芳和尚の没後、荒れ寺となっていたのであれば、後継者がいなかったのか。

  再興(黒丸城主安永但馬?)

 ・天正五年(1577)前後の文字の消えている部分の記述が分からないので、(これはあくまで小生の推測になってしまうが)、東禅寺のある若宮庄湯原村の有志らが相はかり、荒れ果ててしまっていた東禅寺の再興を黒丸城主(宗像氏の城代)安永但馬(安永越中か)に依頼し再興が叶い、同年、当寺で戦乱での戦死者の菩提供養を行ったということなのだろうか。
 ただし、天正5年(1577)に戦死者の供養を行ったのであれば、いつの戦いの戦死者なのだろうか。
 なお、黒丸城址は、宮若市黒丸の北斗宮の裏山にあり、こがむね城ともいう。

 ・当寺の鞍手郡若宮庄の状況は、天文11年(1542)4月、大友氏の鞍手侵入により、宗像氏の若宮庄の諸城(上記の黒丸城、及び湯原の地蔵山城含む)は尽く落城したらしく、この後、若宮庄は、大友氏の支配となったのか。
 元亀元年(1570)正月、宗像氏貞は、豊後大友氏の将戸次鑑連(後の立花道雪=立花氏)と和合し、盟友の河津掃部助隆家(西郷衆頭領)を暗殺しその領地だった西郷庄を立花氏に譲渡し、立花氏が領有していた若宮郷を返してもらい、西郷衆を強制的に若宮庄内の各地に移住させた。
 この時に、宗像氏の端城・宮永城(宮若市宮永)、及び周辺の諸城も宗像氏に復帰したのか。
 その後、暫く両氏の間は安穏だったが、天正9年(1581) 11月、突如若宮庄の旧西郷衆が蜂起し、若宮庄を通過していた立花勢を襲撃した。この戦い(小金原の戦い)に若宮庄の諸城も巻き込まれた。結果、旧西郷衆は全滅、宗像・立花勢双方に多くの戦死者が出た。

 ・「その後、五十年ほどし……地蔵山の城主…云々」については、もし天正5年(1577)から50年後だったら、寛永4年(1627)となり、既に当地は筑前黒田氏の時代となっているので、ここに何が書いてあったのか、まったく見当がつかない。
 いつか機会があったら、いろいろお話しを聞いてみたいとは思うが、今回は探究しない。

 ※史料
 ・「東禪寺 (湯原村) 洞家 佛堂三間四間 黄龍山と號す。宗像郡大穂宗生寺に属せり。開基の年歴詳ならす。寺内に秋葉社・釋迦堂-喜樂庵といふあり」(筑前國續風土記附録)
 ・「東禅寺 本村(湯原村)谷に在。黄龍山と号す。禅宗洞家宗像郡大穂宗生寺に属す。天文十二年十二月十五日桂芳と云僧開基す」(筑前國續風土記拾遺)

 ※つづく→「東禅寺の山門(旧名島城裏門)ほか (宮若市湯原)」。

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2017年04月14日

東禅寺の梵鐘(宮若市湯原)

 東禅寺の梵鐘(福岡県重要文化財)は、脇田温泉からほど近い宮若市湯原(ゆばる)62の曹洞宗東禅寺の本堂前で見学できる。

 1. 東禅寺の古い梵鐘

 (1)鎌倉時代の鋳造・福岡県重要文化財

1東禅寺建保梵鐘 この梵鐘は、「東禅寺梵鐘」と言われ、建保三年(1215)に 大工坂田家守が鋳造したものである。(※詳細は下記)
 鎌倉時代鋳造の梵鐘として、昭和32年8月13日福岡県重要文化財(福岡県指定有形文化財・工芸品・指定番号3)に指定されている。
(※画像)


 見た目にシンプルな形容は、鎌倉時代の特徴で、大きさは、やや小振り。その大きさは、ふくおかの文化財展5に「総高79.4cm、口径44.2cm」とあるので、実際は下記の「高さ約1m・口径約60cm」より少し小さかった。

 (2) 明治時代「朝町八幡宮」から移されたもの

2東禅寺建保梵鐘 ・先に別記した「朝町八幡宮(宗像市朝町)」に、朝町八幡宮の「釣鐘(梵鐘)の行方」として次のように書いた。
 「現在、東禅寺(宮若市湯原62)に現存している梵鐘(県重文、高さ約1m・口径約60cm)は、明治期に朝町八幡宮から移されたものだと言われている」。


 ・この梵鐘が、明治時代のいつ、どのような経緯で、元の所有者・朝町八幡宮(宗像市朝町2373)から東禅寺(宮若市湯原62)に移されたのかはまったく分からないが、明治政府の神仏分離に係わる廃仏毀釈の波を避けて移されたのではないかと推測されている。
 つまり、神仏分離の最中、朝町八幡宮内に仏教の梵鐘を置いていると壊されてしまう危険性があったので、それを避けたいという住民感情があったのではないかと思う。

 ・また、宗像郡から鞍手郡へ郡境を越えての移動となっているが、もとより宗像郡朝町村(宗像市朝町)は、鞍手郡若宮町(現宮若市)と隣接し、歴史的にも、婚姻などを通じても交流が深かったので、東禅寺との縁があったとしても不思議ではなく、多分贈呈されたのではないかとも思う。

 (3) 梵鐘の陽鋳(鋳造期日と制作者)

 ・この梵鐘が、もと朝町八幡宮に在ったものだという根拠は、梵鐘の表面(池の間)に陽鋳してある「建保三年乙亥三月五日大工坂田家守」の銘文である。
 つまり、この銘文が、筑前國續風土記拾遺(朝町八幡宮の項)にある「古鐘一口あり。元禄の比當處の延壽浦といふ所の圃中より堀出せり。銘に建保三年乙亥三月五日大工坂田家守と記せり」と一致しているからだ。

3東禅寺建保梵鐘銘文 ・なお、奉願・願主等を記した銘文は、何となく黙読はできるが、浅学菲才の小生は、その意味を理解できない。
 また、読めない文字もあり、ここにその全文を書けないので、梵鐘の銘文部分の画像を掲載しておく。(※画像の上でクリックすると拡大できる)


 ・この梵鐘が鋳造された「建保三年(1215)」は、鎌倉時代前期(将軍源実朝、執権北条義時の頃)で、元禄(1688〜1704年)の頃、朝町の延壽浦(朝町八幡宮の近く・朝町川沿いか、延壽寺の近くか)の田圃(土中)から堀出されたというので、同所に既に廃寺となっていた鎌倉時代創建の寺(或は、朝町八幡宮神宮寺)があったということなのだろうか。
 発掘調査などによりその場所が確定できれば新たな発見があるのかもしれないが、今は望むべきもない。

4東禅寺建保梵鐘 ・梵鐘を鋳造した「大工坂田家守」については、この梵鐘以外に作品が残っておらず、詳細は分かっていない。だが、「首の部分でつながる双身の竜と、頂上の宝珠の間に半月形の隙間を設ける竜頭の形」が、南北朝・室町時代に多くの梵鐘を製作した小倉鋳物師(いもじ)の特徴と類似していることから、坂田家守は、鎌倉時代にいた小倉鋳物師の先駆者ではなかったと推測されている。
(※ふくおかの文化財展5/福岡市博物館参照)


 (4) 付記: 福岡県内の古い梵鐘

 ・因みに、幸いにも戦時中の金属類回収令を免れて、福岡県内で現存している「古い梵鐘のベスト3」は、次のとおりである。
  (最古)、天台宗「観世音寺の梵鐘」(国宝)=文武天皇二年(698)鋳造/太宰府市観世音寺5-6-1。
  次が、浄土真宗本願寺派「西光寺の梵鐘」(国宝)=承和三年(836)鋳造/福岡市早良区内野2-7-13 。
  その次が、この曹洞宗「東禅寺の梵鐘」(県重文)=建保三年(1215)鋳造/宮若市湯原62。

 ・また、東禅寺の梵鐘と同じ鎌倉時代に福岡県内で鋳造された梵鐘と確認できるものに、もと臨済宗妙心寺派・油山天福寺(平安後期創立)に在ったとされる焚鐘(→現在は、山口県防府市の防府天満宮が所蔵している「防府天満宮の梵鐘」山口県重文)=文応2年(1261)鋳工沙祢生蓮鋳造。がある。

 2. 東禅寺の新しい梵鐘

5東禅寺新しい梵鐘 ・東禅寺は、湯原山の北山麓の斜面、石垣を巡らした上にある。
 正面の参道石段を上ると、山門、本堂に到るが、山門の左に鐘楼がある。
 この鐘楼に釣り下げてある大きな梵鐘は、平成2年鋳造の新しいものである。
(※画像)


 ・石垣の上、高台に建つ鐘楼から眼下に広がる北側の田園風景の眺めはよく、その先、正面右方に見える横長の丘陵は、天正9年(1581)宗像勢と立花勢が戦い多くの戦死者を出した「小金原の戦い」の激戦地である。

 ※つづく→「東禅寺の所在地・由緒記板(宮若市湯原)」。

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2017年04月08日

昼掛いぼぬき地蔵尊(宗像市朝町)

 今回の宗像市朝町散策で「昼掛いぼぬき地蔵尊(さん)」のことを書き洩らしていたのでここに書きとめておく。

 (1)「昼掛いぼぬき地蔵尊」の所在地

1昼掛地蔵 ・今回の宗像市朝町地区行脚で当初「昼掛八幡宮」から「朝町(昼掛)観音堂」に向かうときに歩いた福岡県道75号(若宮玄海線)は、昼掛八幡宮前のすぐ先(下方)で左カーブし、荒堀川(小川)の小橋 (この小橋は道路と一体になっているので気付きにくい)を渡るが、この小橋の手前の左側(川沿い)に御堂が建っている。

 この御堂が「昼掛いぼぬき地蔵尊」を安置する「昼掛(いぼぬき)地蔵堂」(木造瓦葺小御堂)である。(※画像1)

 ※所在地:福岡県宗像市朝町397 西光設備ホーム詆瀉脇癲 

 (2)「いぼぬき地蔵さん」の御堂額、尊像など

2昼掛地蔵額 ・「昼掛地蔵堂」内の床上に、達筆で「いぼぬき地蔵さん」と墨書した横幅1mくらいの自然木の額が置いてある。(※画像2)

 ・表面にカビが生えて汚くなっている。また、一部が破損しているので、以前掲げていた御堂の鴨居から下ろしたのだとは思う。


 ・この額字により、ここに安置されている「石のお地蔵さん」(石造地蔵菩薩立像)が「昼掛いぼぬき地蔵尊」だと分かる。

 ・「昼掛いぼぬき地蔵尊」は、毛糸編みの赤帽子を被り、手縫いの大きく立派な前掛け(三重ね模様)をすっぽりと身に着けているので、この石のお地蔵さんの彫像は、温和な前顔以外は分からない。

 ・地蔵堂の壁には祈願時に称える地蔵菩薩の御真言「おんかかかびさまえいそわか」が貼り付けてある。また、須弥壇には生花(花立2個)、神仏供に最適な月桂冠の徳利形のワンカップ数本、水を入れたペットボトル数本等が供えられ、堂内の清掃も行き届き、きちんとお守りされている様子が伺える(香炉、蝋燭立は置いてない)。

 (3) 荒堀川での洗浄、霊験

3昼掛地蔵石段と小川 ・「昼掛地蔵堂(御堂)」の手前(右側)から小川(荒堀川)に下る数段の「石段」がある。

 この「御堂」と「小川」と「石段」は、現在、昼掛いぼぬき地蔵尊の信仰において一セットになっている。
(※画像3)


 ・昔は、この小川(荒堀川)に下りて小石を拾い(或は御堂に供えてある小石を分けてもらい、小川で洗い浄め)、地蔵尊に「イボ抜き」(=イボ取り・イボ落とし・うおのめ抜き)の祈願をして、その霊力が籠った小石で「イボ」をこする(持ち帰り家でもこする)。リュウマチの鎮痛などにも霊験があり、同様のことをして患部をこする。そして完治したら、その小石を地蔵尊に奉納(返納)する。このようなイホ抜き地蔵信仰があったらしい。

 ・荒堀川は、その名からかつては岩や石がごろごろしていた荒れ堀川だったとのイメージがあるが、現在は護岸や川底工事などの河川改良がなされているので川で拾える小石はあまりない。

 ・現代、イボ抜きは皮膚科医院に行けばよいし、また、地蔵堂にも小石は置いてないので、上記のような信仰はなくなったのではないかとも思われるが、それによってこの地蔵尊の霊験がなくなったわけではない。
 今もイボに限らず、各種の祈願に御利益を授けてくれる地蔵尊として地元や信徒により大切に守られ供養されている。

 ・そもそも地蔵尊は、六道能化延命地蔵菩薩ともいわれるように、六道世界(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道)すべての悩める衆生を救済する菩薩である。また、イボ抜き地蔵のほかにも身代わり地蔵、子安地蔵、水子地蔵、愛宕将軍地蔵や、村辻のお地蔵さん、交通安全地蔵、迷亡者供養の地蔵等々、様々な名で呼ばれるように、その霊力、御利益の広さは計り知れない。
 
 ・今でも各種祈願のために小石を持って訪れ、石段を下り、荒堀川で小石を洗い浄めて、お地蔵さんに祈願し持ち帰る人もいる。きっとその小石に、ものごとを清浄にする力が籠るからだ。

 ・そもそも荒堀川は、古代霊山として崇められた靡山の山麓を発し、朝町昼掛地区を流れ、朝町川→釣川と合流し宗像大社の神域を貫流するので、この川そのものに山神・水神の霊力がこもっている。しかも当所は昼掛八幡宮の前庭ともいえる地で、ここに坐す地蔵菩薩の霊力が加わり、川水はますます清浄となっていることだろう。
 
 ・だから、ここに小石がなくなっていても、ここで手足を浄めるだけでも良い。ただ、河川改良工事をした川は、時として水かさが増え、流れが速くなり、危険なことがある。多分、そのこともあり、このすぐ上に簡単なを作り、この部分の荒堀川の流速、水量(深さ)を調節し、石段の下段から川に下りることができるように配慮してある。
 ただし、強い雨降りの日や、その後など、水量が多く、流速が早いときは要用心。

 (4) 弘法大師(空海)修行の旅の記事
 
 ・この昼掛の地蔵堂のことは、手持ちの筑前國續風土記附録ほかに記載されておらず、いぼぬき地蔵の由緒が分からなかったが、たまたま最近リンクした記事「弘法大師(空海)修行の旅」のなかにこの昼掛地蔵のことが載っているのに気付き弘法大師(空海)信仰と何らかの形で係わっていることだけは分かった。

 ・因みにその記事は「雑学の世界・補考−娘への遺言」→僧侶の項・弘法大師(空海)修行の旅→「いぼとり神仏」…福岡県のなかに、「昼掛のいぼぬき地蔵 福岡県宗像市朝野昼掛 荒堀川の小石でイボをこする。お礼はその石を奉納する。」とただ一行だけ載っていた。
 なお「いぼとり神様・仏様の全国リスト(2)西日本」にも載っていたが、これは上記を転載したものだろう。

 ・「雑学の世界・補考」の調査には唯々敬服するばかりだが、「昼掛のいぼぬき地蔵」の所在地「朝野昼掛」は間違い。…昭和55年(1980)に新しくできた地名の「朝野」(朝野団地)には「昼掛」という字はなく、また荒堀川も流れていないので、正しくは「朝町昼掛」(現:朝町397)である。

 ・なお「昼掛」は「朝町」の字(集落)名で、かつては「昼掛村」(朝町村の枝村)と称し、昼掛村の産神として荒堀川右岸の丘陵に「昼掛八幡宮」(朝町八幡宮の分霊社)を祀った。

 ※今回の「宗像市朝町地区行脚」おわり。
  →トップ「昼掛八幡宮(宗像市朝町)」。

 ※前回は「七股つつみの伝説(宗像市朝町)」。

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2017年04月06日

石川さゆり45周年歌謡ショー、博多座で観てきた

4石川さゆり45周年 石川さゆり45周年コンサートが博多座で幕開け、ファンとしては見逃せない。強雨にも負けず、早々と博多座へ。会場内は、往年のファンで満席の盛況だった。
 演歌のさゆり、歌い続けて45年か(今、59歳だったか)。どどいつからタンゴまで巾広い。過去にはいろいろあったが、くぐり抜けてきた。ただただ素晴らしい、の一言。


 これまで出したレコードとCDは120曲もあるそうだが、そのうち約20曲を歌った。最近発売されたばかりの120曲目の「百年の抱擁」は、早々に第一幕で披露…本当にタンゴ調で踊れそう。
 なかには聴いた記憶のない曲があった。ヒットしなかったので覚えていないだけかもしれないが。もちろんヒット曲「滝の白糸」「風の盆恋歌」「波止場しぐれ」「夫婦善哉」は歌ってくれた。何度もカラオケで歌った曲だ。「ちゃんと言わなきゃ愛さない」(アニメ『ルパン三世』エンディングテーマ)や「一茶でがんばれ!」も。
 そしてトリは、やはり紅白定番曲「天城越え」。聞くたびその舞台となった情景が思い浮かぶ。そういえば一昨日(4/4)うたコンで、石川さゆりがイチロー選手入場曲として世界的ロックギタリストのマーティ・フリードマンと作った特別アレンジの天城越えを聴いたばかりだった。
 ※「石川さゆり45周年記念CDボックス(DVD付)定価10,000円。

 前回(2015年9月)、博多座であった石川さゆり公演は「はかた恋人形」の舞台と歌謡ショーのセットだったが(別記→「石川さゆり はかた恋人形観劇雑記」)、今回は歌謡ショーで歌いまくり、彼女のトークも飽きさせない。
 来年(2018年)4月にも博多座公演が企画されているらしいが、絶対に行きたい。石川さゆりの歌を聴いて歌って元気にしてなくちゃ。
 浮き浮き気分で、強雨のなかを帰った。


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2017年04月03日

七股つつみの伝説(宗像市朝町)

 前回「棚原池・朝町川の起点」からつづく。

 ・福岡国際カントリークラブ口コミ予約ゴルフ場ランキングに「七又コースは、七又池鶴ヶ谷池が絡む池越えショットなど池を取り入れたレイアウトが多くあり景観も楽しめる」とある。
※福岡国際カントリークラブむなかたゴルフ場所在:宗像市朝町1470-1。

1棚原池 このなかの「七又池」とは、宗像市朝町側にある「棚原池」のことで、前回「楢原池」だったかもしれないとも書いた。

 その岸が大きく七又(七股)に入り込んでいることから「七又池」又は「七股池」「七股つつみ(七股堤)」との別称もある。
 

 ・今回は、宗像伝説から、この七又池(棚原池)と係わる七股つつみ(七股堤)の伝説として語り継がれてきた下記二話を書きとめておく。

 ・因みに「鶴ヶ谷池」は宮若市山口側にある大きな溜池で、以前記した「宮若市立山口小学校(宮若市山口)」の北側にあるが、残念なことに同校は2017年3月18日閉校、4月から宮若西小に統合される。

  「七股つつみの大蛇」

 ・宗像伝説のひとつに「七股つつみ(七股堤)の大蛇」という伝説があるが、この「七股つつみ(七股堤)」は、上記したように七股堤=七又池=棚原池である。

2棚原池 ・この伝説については、「宗像伝説風土記(上)上妻国雄著」や「むなかた電子博物館-文化財」「宗像遺産 暮らし遺産編」等に、ほぼ同様の内容が載っている。

 ・ここでは「むなかた電子博物館-文化財」の掲載記事をそのまま転記する(下記)。


 「朝町から鞍手郡若宮町に抜ける峠には、周囲が4キロほどもある大きな堤があり、この池には竜神大蛇(おろち)がすんでいるという言い伝えがあります。ある年のこと、梅雨時だというのに途方もない日照りが続いていました。農民たちは、このままでは大切な田植えもできないとさんざん悩んだあげく、ついに池の栓を抜いて田んぼに使うことにしました。
  準備万端整い、若者たちが堤の栓を抜こうと池の中に飛び込みました。土手の上からは村人たちが固唾(かたず)をのんで見守っています。すると突然、空には黒雲が立ちこめ雷鳴とともに尾が大きく七つに分かれた大蛇が池の中から姿を現わしました。池の中にもぐっていた連中は命からがらはい上がり、村人たちは堤の栓を抜くのをあきらめ、一目散に逃げ出しました。
  しばらくして大蛇はまた池の中に姿を消し、この溜め池は大蛇の姿をうつして七つの股の形になりました。その後、人びとは七股堤というようになり、いまだに一度も干上がったことがないそうです。」。

  「七股つつみの精」

3棚原池(七又) ・七股つつみの伝説には、上記のほかにもうひとつ「七股つつみの精」という伝説があり、「宗像伝説風土記(上)上妻国雄著」に載っているが、かなり長い話なので下記のように短縮して記す。

 ※本掲載にあたり小生が文章表現を書き替えた部分もある為念。


 「通称七股つつみという宗像一大きな溜池がある。池の形が大木の七股に似ているのでこの名がある。
 池のほとりに住む作兵衛夫婦には、おしのという十五になる娘がいた。風がやんで蒸し暑い夏の夜、おしのは、七股つつみの土手で、ほのかなピンクの花が咲く合歓(ねむ)の木の下で人待ち顔。背丈ほどに伸んだ茅の間から野良着姿で現れた若者は、おしのの家の作男の久三郎。おしのは、鞍手の豪農から来ている縁談を袖にし、人目を避けてこの池端で久三郎と逢瀬を重ねていた。
4七股池山桜 天文三年(1534)、茜射す夕日で池の水が真っ赤に染まったとき、当時宗像氏と大友氏の戦禍で戦場に出ていた久三郎が討ち死したとの知らせが届いた。おしのの驚きと嘆きは激しく、桜の花が散り、ツツジの花が咲きだした頃から、夢遊病者のように七股つつみの土手を歩く日々が続いた。

 そして夏、七股つつみで合歓の木の花が咲いた頃、おしのは七股つつみの水際の崖の上に立っていた。

7山桜 陽の光を受けてすみれ色に澄んでいる水面に写る自分の顔が、久三郎の顔と重なって見えた。
 おしのは「久三郎さん」と帛(きぬ)を裂くような声をあげて、池のなかに身を躍らせ、そのまま浮かんでこなかった。
 還らぬ恋人の姿を探し求めるおしのの魂は、池の精となり、その精が七股つつみに住むになったと、村人たちは語り伝えた。
 今もときとして月光の冴えた夜の水面で、首をもたげる龍の姿が見られるという。」


・蛇足…福岡国際カントリークラブむなかたゴルフ場の桜花

5ゴルフ場桜並木 この「七股つつみの精」の伝説話によると、おしのの恋人久三郎は、桜が開花した頃に討ち死にしたと思える。
 そう思いながら、ゴルフ場内の池の縁に生えている1本の白山桜(上段駐車場端部)や、ゴルフ場入口から左側の通路に沿って植えられている古木(染井吉野)の桜並木(下段駐車場沿い)を観ていると、ここで開花した桜の花は、おしのと久三郎を慰霊しているようにも思えてきた。
 それほどに、この時節、この地で咲く桜花も美しい。

 ※つづく→「昼掛いぼぬき地蔵尊(宗像市朝町)」。

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2017年04月02日

棚原池・朝町川の起点(宗像市朝町)

 今回は、宗像市朝町散策の一環として「棚原池・朝町川の起点」について若干触れておく。

 (1) 棚原池の所在地

1棚原池 ・棚原池は、宮若市山口との境界、福岡県道401号線に接する福岡国際カントリークラブむなかたゴルフ場(宗像市朝町1470-1)内にある宗像市内一大きな溜め池(周囲4km)で、七又池(七股池)という別称もある。
 (※この別称については次回「七股つつみの伝説」に掲載)


 同ゴルフ場入口の左(駐車場の先)にある棚原池築堤(土手)に上り、池の右方の池の縁を眺めると、「福岡国際カントリークラブ」と書いた大きな看板が見える。(※画像1)

 ・先に掲載した「朝町八幡宮(宗像市朝町)」のなかに「天の八重多那雲は朝町福岡国際カントリークラブむなかたゴルフ場にある棚原池。→原始古代の宗像市には海の道だけでなく山の道もあった。万葉集3155悪木山靡は宮若市上有木の靡山(296.9m)。(参照:宗像市 丹後 日南 常世)」という説があると書いた。

 この靡山は、棚原池の南東方向にあり、棚原池は、その山稜上にあり、その山裾にある朝町中村地区を貫流し釣川に合流する朝町川の起点水源池となっている。(下記)

 ・なお、筑前國續風土記拾遺には「〇楢原といふ所に大堤有。水面五町七畝あり。」とあるので、棚原池は、或は「楢原池」だったのかもしれない。

 (2) 朝町川の起点

2棚原池起点  朝町川の起点は、棚原池の北側(ゴルフ場入口の左側駐車場の後ろ)の築堤(傾斜遮水ゾーン/堤の長さ約130m)の左端=県道401号線(宗像若宮線)と接する部分にある。
 同所には、棚原池の水が常時流出するのを止めるためにコンクリートで作られた越流堰がある。(※画像2)


3棚原池起点水流合流点 ・棚原池の水位が上がったとき、このコンクリ―ト越流堰の上から溢れた水が朝町川に流れ込むようになっているが、よく見るとこの越流堰の小さな亀裂から漏れた水がちょろちょろとこの下方に続く朝町川上流水路に流れ出ていた。

 ・ここからゴルフ場入口の右下まで、県道に沿って急傾斜の水路がコンクリートで作られている(ゴルフ場入口道路の真下は暗渠)。



 ・同入口の左下方に、下記調節弁を通ってきた池水の流出口があり、この水が、実際的には、朝町川の源流となっているのだと思う。(※画像3)

4棚原池止水弁フェンス  築堤の手前部分にあるゴルフ場の駐車場のなかに、網フェンスで四角に囲まれた場所がある。(※画像4)

 網フェンスのなかは、垂直に深く掘り下げられた縦穴になっているが、ここは、棚原池からの流水(取水)量を調節するゲートである。


5棚原池止水弁 縦穴の底部・流水量調節ゲートにはバルブが設置してある。(※画像5)

 多分、このバルブは、築堤の上の巻き上げハンドルの操作により、その底部に作られた取水孔が開閉し、築堤及び地下に埋設された底樋管を通って流出する水の量を調節するものである。

 ・ここで調節された水は、さらに駐車場の下に埋設された樋管を通ってゴルフ場入口の左下から、上記,留枸水路(朝町川)内に出る。(※画像3)

6棚原池 ・ゴルフ場入口の右下にも開閉バルブ(素人の小生には用途は分からない)がある。(※画像6)
 ここから、その少し先までは暗渠になっているが、朝町川は、起点からずっと、ほぼ県道401号線に沿って(県道の左右への移動はあるが)朝町中村に到る谷あいを下る。

 ・朝町川は、朝町中村周辺の農地を潤し、宗像市東郷で釣川に合流するが、朝町川領域には、以前記した「朝町山ノ口遺跡」や朝町八幡宮周辺の、前回掲載した「朝町竹重遺跡」などに代表される弥生〜古墳時代の遺跡も多く、古代から朝町川がもたらす沃土の恩恵が人々の生活を支えてきたことが伺える。

 ・筑前國續風土記拾遺には、朝町村に「〇小流二川有。一ツは東南鞍手郡山口村境より流出る。一ツは東方鞍手郡上有木村境より流出て、二流共に北の方曲村の境内に入る。」とあり、この前者が朝町川で、後者は朝町昼掛側を流れる荒堀川のことだが、いずれの川も「靡山」山系に端を発している。

 (付記)

7棚原池地蔵祠 ・上記築堤から左前方(県道沿いの池の縁)に、県道を向いて設置してある石祠(石地蔵菩薩安置)が見える。(※画像7)
 交通事故死者或は水死者の菩提を弔うために建てられたものか(未確認)。
 この県道は、九州自動車道若宮インターから宗像市の中心地東郷などに抜ける主要道なので交通量が多い。

 ここでスピード出しすぎなどの事故などが起きれば、車ごと棚原池のなかに飛び込む危険性はある。

 ・ゴルフ場入口から県道を750mほど下った左側の広場の奥(朝町川右岸)にバラック小屋があり、「山神の泉」と手書した看板が見えるが行ったことはない。以前、こんなものはなかったし新興宗教の行場か。その右横にある建設資材置き場(?)=高い塀があり内部が見えない=から入るのかとは思うが得体がしれない。

 ※つづく→「七股つつみの伝説(宗像市朝町)」。 

keitokuchin at 02:21|PermalinkComments(0)TrackBack(0)