2017年05月

2017年05月31日

朝妻清水・味水御井神社(3)〜川渡祭(へこかき祭)禊池(高良山麓巡り32)

 ※前回「朝妻の清水・味水御井神社(2)〜神社創立・筑後国府など(高良山麓巡り31)」。

 8 高良大社川渡祭(へこかき祭)の禊池(禊の泉)

 ・上記(前回)5-について、多くの神社で6月1日に延命長寿、無病息災、所難消滅、厄除け等を祈願する「夏越し祭」(「茅の輪くぐり」など)の神事を行うが、高良大社の場合、この夏越し祭を「川渡祭」(別名:へこかき祭り)という。

 ・「川渡り」の意味には諸説あるが、本来の意味は「川浸る(かわひたる)」で、また「へこかき」は、「赤へこ(褌)を着ける」という意味らしい。

9朝妻清水・禊池(泉) 高良大社夏越し祭では、まず摂社味水御井神社境内で、厄除けを意味する赤へこ(褌)を腰に着け(締め込み褌ではない)、頭に赤手ぬぐいを絞めた裸の男らが、筑後川に見立てた朝妻清水の禊池(禊の泉)に浸り、禊をして高良大社に駆け上る神事があるので、ここから「川渡祭・へこかき祭り」の名が生まれたものだと思われる。

 ・高良山北麓を貫流する筑後川は、かつて筑紫次郎と称された暴れ川で、毎年、その流域に洪水や水害等よる被害を及ぼしていたので、高良山の水神様にお願いして、これらの水難を鎮めるという意味あいが高良大社の夏越し祭にはあったのだろう。

 ・この禊池(禊の泉)は、朝妻清水(源泉)のすぐ横(北側)にあり、源泉池から水路を通って合川に流出する水の一部を、いったんここに貯める構造になっている。(※画像)

 ・禊の神事は、当日午前5時頃から行われるが、その前日、禊池(泉)の周りに結界(御幣縄・紅白の垂幕)を張り、赤幟を立て、夜を通して篝火を焚き、神秘的な雰囲気が漂うなかで、まだ夜の明けきらない午前5時頃から(年によって参加人数が異なるが概して)50~100人前後の赤褌、赤手ぬぐいの男たち(還暦や厄年の人、数え七歳の子供ほか/要事前申込)が禊池(泉)に浸かった後、朝妻清水で汲んだ御神水(御神体)を乗せた桶神輿を中心にして掛け声勇ましく高良山に駆け上る。
 今年は、今夜から明朝にかけてだね。

※つづく→「朝妻の清水・味水御井神社(4)〜クロガネモチの巨木(高良山麓巡り33)」。

keitokuchin at 16:07|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2017年05月30日

朝妻の清水・味水御井神社(2)〜神社創立・筑後国府など(高良山麓巡り31)

※前回「朝妻の清水・味水御井神社(1) (高良山麓巡り30)」から続く。

6朝妻清水案内碑1 5 案内碑の要旨

 鯉が泳いでいる池の前に「味水御井神社と朝妻の清水」の案内碑(平成22年3月31日久留米市設置)がある。(※画像)

 案内碑の内容を要約すると下記のようになる。


  天慶7年(944)の筑後国神名帳に登場する古社。

7朝妻清水案内碑2  7世紀後半〜12世紀後半、高良山北麓一帯に営まれた筑後国府(筑後国統治の役所)の発掘調査で、国司館(国府長官の居館)から当社に向けて延びる道路跡や、当時の官人たちが朝妻清水から導水し「曲水の宴」を楽しんだと見られる玉石敷きの人工的な小川などが確認された。


  近年は、筑後一宮高良大社の川渡祭(へこかき祭り)の際の禊の泉としても知られる。
  県指定天然記念物のクロガネモチをはじめとした巨木に囲まれ、澄明(ちょうめい)な水をたたえる湧水を有する社叢は神さびて境内は今も神秘的な気配がただよう。この湧水が古来より崇敬を集め人々の生活に潤いと恵みをもたらす、「うましみず」の神社名を生んだ「朝妻清水」である。
 ※上記「県指定天然記念物のクロガネモチ」の巨木は現存していない。

 ※上記要旨を基にして、私見を交え、以下NO.6~10に補記しておく。

 6 味水御井神社の創立・神功皇后と朝妻清水湧出伝説など

 ・上記5-,砲茲蝓¬水御井神社は、実際の創立時期は分からないものの、天慶7年(944)以前に鎮座していたことになる。

8朝妻清水湧出地 ・「朝妻清水」は、前述したように地震でできた断層の崖の下から湧出している。

 当社が「朝妻清水」を御神体として創立された古社であれば、その創立時期は、朝妻清水湧出の時期とされる天武7年(679)「筑紫大地震」より以後のことになる。


 ・前回3に記した「高良大社(山中耕作/日本の神々1収録)」による、高良山内の三至聖の霊地(磐座)の一つ「下の磐座」が味水御井神社(朝妻の泉・池中に神体石あり・御井郡名起源の泉)で、高良大社の創起に係わる社であったとしたら、高良大社の創起は、朝妻清水が湧出したとされる筑紫大地震以後だったのだろうか。
 同書は三霊地(磐座)の一つに神籠石(馬蹄石)を挙げており、神籠石の設置を白村江の戦い(663)以後だとすれば、筑紫大地震と同じ頃になるが、これら時期をどこまで信じていいのかは分からない。
 つまり、高良大社の創立を7世紀後半より前だと考えることができたら、もう一つの磐座・奥宮水分神社=別所の清水の湧出を含めて、これら三霊地は、同時期以前にあったという可能性がでてくる。

 ・次のような「朝妻清水の湧出」に係わる神功皇后伝説御井町誌に載っている。
 …神功皇后は、新羅遠征から帰国後、宇美で誉田別皇子(ほんだわけのみこ)が誕生し、高良山にそのお礼参拝に向かう途中、御井郡朝妻の地で渇きをおぼえ、お供の者に水を所望した。そこでお供の者が矢尻で葦の茂みを突き、湧き出した清水を皇后に差し出し、この水を口にした皇后は「これはうまい」と言われた。これが「味水(うましみず)神社」の社名の由来で、この清水が今の「朝妻清水」であるといわれている。

 ・直接的に味水御井神社の創立には触れていないが、味水御井神社=朝妻清水であり、この伝説を信じれば、神功皇后の時代(4世紀後半と推定)に既に「朝妻清水」があったことになるので、「朝妻清水」の噴出は、上記「筑紫大地震」(7世紀)より古いことになる。

 ・ただ、「豊比弯声辧素兌/合祀(高良山麓巡り19)」に別記したように、神功皇后は、高良山(高良大社)の祭神と係わりが深い…主神「高良玉垂命」は、神功皇后の従神「武内宿禰」との説があり、また同妻神「豊比很拭廚蓮⊃生皇后の御妹説がある、…が、新羅遠征の前でも後でも神功皇后自身が直接的に高良山に行ったとは考えにくい。

 ・なお、朝妻の清水の東方600〜700mにある「旗崎」の地名の諸説ある由来のうちの一つに、武内宿禰(高良玉垂命)が神功皇后の御旗を立てたことによるとの伝説もある。
 ※別記「磐井川起点から旗崎・磐井の清水・応永地蔵(高良山麓巡り21)」参照。

 7 筑後国府との係わり

 ・上記5-△療社と筑後国府国司館(久留米市合川町)を結ぶ道路は、参道(前回(2)-の径)の延長線…県道322号線(朝妻🚥のすぐ西、魚真前)を斜めに突っ切る里道…で、となるとこの道は生活水の運搬のために作られた道路だったのだろうか。或は「味水御井神社」が「筑後国総社」とされた時代があったというので、その参拝道だったのだろうか。

 ・また「当時の官人たちが朝妻清水から導水し曲水の宴を楽しんだと見られる玉石敷きの人工的な小川などが確認された」とある遺跡は、参道の(県道を挟んで)北側(朝妻🚥交差点を北に行き、すぐ右側)にあったとされる。
 この曲水の宴の遺跡は「鑓水遺構」ともいい、この遺構を曲水の宴の跡だと推定した根拠はよく分からないが、この遺構の発掘により朝妻清水と直接結ぶ導水路が本当に発掘されたのだろうか。

 ・前回「味水御井神社=朝妻七社とし、七社の一に「国長明神」があるので朝妻清水は筑後国司の屋敷内にあった」という説があると記したが、これも曲水の宴遺跡と朝妻清水を結び付けた類のものだったのかもしれない。

 ・ただ7世紀後半〜12世紀後半に営まれたという筑後国府(~鹸)や国司舘等跡が掘っ立て柱建物遺跡であることには違和感があり、この遺跡はヤマトの勢力が九州に及ぶ7世紀後半よりもっと古い時代の官衙だったのではないかとも考えられる。ひょっとしたら6世紀前半には筑紫君磐井が政務をとった遺跡も含まれているのかもしれない。

 ・ふと別記「小郡市の古墳・上岩田遺跡・小郡官衙遺跡と太保府」に、「天武・持統天皇時代(7世紀後半)に開かれた筑紫大郡・筑紫小郡のうちの筑紫小郡に該当する地方統治役所跡が小郡官衙遺跡(おごおりかんがいせき)であるとされているが、掘っ立て柱建物遺跡、及び周辺の古墳等の遺跡群との対比で考えると、その築造年代は、7世紀より前だったのではないか」と記していたことを思い出したが、筑後国府の築造年代もこれによく似たことが考えられる。

 ・そういえば、ここ朝妻清水の近くでも古代遺跡「横道箱式石棺」が発掘され、その案内碑及び一部移設復元された1・2号石棺がJR久留米大学前駅構内に「高良大社頓宮跡碑」と並んで設置されているが、これらと国府遺跡との関連付けた時代考察はなされているのだろうか。
 ※リンク→「横道の箱式石棺」。

※つづく→「朝妻清水・味水御井神社(3)〜川渡祭(へこかき祭)禊池(高良山麓巡り32)」。

keitokuchin at 00:55|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2017年05月27日

朝妻の清水・味水御井神社(1)(高良山麓巡り30)

 ※前回「観行院虚空蔵堂の参道通行不可(高良山麓巡り29)」。

1朝妻清水・ご神体石 ・先に別記した「磐井川起点から旗崎・磐井の清水・応永地蔵(高良山麓巡り21)」に、高良三泉と称さされる清水のうちの「磐井の清水」を記したので、今回は、同高良三泉の一「朝妻の清水」(以下「朝妻清水」と書く)探訪記を書きとめておく。
(※画像1)

 なお、同三泉の一「徳間の清水」探訪記については別記(予定)。

 1「高良三泉」

 ・福岡県久留米市御井(旧三井郡=御井郡御井町)の「三井・御井」の地名は、高良山麓に「高良三泉」と称される磐井・岩井(イワイ)清水朝妻(アサツマ)清水徳間(トツコマ)清水という三つの神聖な湧水(=三井→御井)があったことから付いたという。

 ・高良山(耳納山魂)の湧水地は多々あるが、この三か所を特に神聖な清水とした理由はよく分からないものの、“悵(岩井)清水は古代筑紫君磐井(九州筑紫王朝王君)の終焉地。朝妻清水は高良玉垂神磐座の一・高良玉垂宮頓宮(摂社)味水御井神社(うましみずみいじんじゃ)御神体の泉。F全崟郷紊和膤悵隹抔羶誠紂Πε羶声凖袈蕕瞭噺攷紊覆匹陵由が考えられなくもない。

 2「朝妻清水の場所」
  …久留米市御井朝妻1丁目8-1

  「朝妻清水」は、高良大社一の鳥居(高良山本鳥居)から道沿い(北西方向)に800mほど下ったところ(JR久大本線・久留米大学前駅の裏側)にある。

 ・久留米大学前駅構内(バス停横)に「高良大社頓宮跡碑」があるが、それは、当地が、もと、その頓宮である摂社味水御井神社(朝妻清水)の境内だったからで、昭和3年(1928)久大(本)線が当地の崖(断層)の縁を通ったときに境内が分断され、平成12年(2000)3月当地に久留米大学前駅が開業した。

 ・現味水御井神社の境内は、久留米大学前駅舎(改札)の左側にある久大線跨橋(歩道橋)を渡り、駅側より段数の多い階段を下り、崖下に下りたところにあり、その右側に朝妻清水や小石祠がある。

2朝妻清水結婚式場  県道322号線(筑後街道)に面して数年前まで県道322号線に面して朝妻清水の水を引き入れた池がある和風情緒の漂う生そば店があったが、今は、洋風の結婚式場「アンジェラフォンティーヌ」(久留米市御井朝妻1丁目5-1)に変わっている。県道沿いの樹木は残っている。(※画像2)



3朝妻清水結婚式場脇道 この敷地の外、西側に県道側から境内に入る歩行者専用道もある。
(※画像3)

 なお、この道の横を流れている小川は、朝妻清水を源流として流れ出ている合川水路の上流である。



4朝妻清水参道  また、県道322号線「朝妻🚥」の北東角にある民家(久留米市御井朝妻1丁目3-11)の裏から、県道とJR久大線線路との間にある(参道)を通って境内に入ることもできる。(※画像4)
 上記´△箸海侶造里曚には道はなく、いずれも歩行者専用道で車の乗り入れはできない。


 ・なお、久大本線の線路は、この径より一段高い崖の縁を通っており、この段差は地震の地殻変動(陥没)を示す活断層か。なお、筑後地方を襲った大地震には、天武7年(679)の「筑紫大地震」が記録(日本書紀)されているが、この断層の下の割れ目から噴出した湧水が「朝妻清水」だという。

 3「味水御井神社」(朝妻社・朝妻清水)

 ・味水御井神社(旧:朝妻社)は、高良山の高良大社摂社(頓宮)で、高良山の北西山麓の末端部に鎮座し、ここで湧出している朝妻清水(泉)を御神体とする水神「水波能売命」を祭祀する。なお、泉のなかにぽつんと立っている立石(大きくはない)が御神体石(依代、磐座) か。(※画像1)

 ・また、古代、当地境内は神官以外の人々は禁足地であったといい、ということは、この朝妻清水そのものが社殿を持たない味水御井神社(朝妻社)であり、古代祭祀は、この清水の前に祭壇を設けて行っていたもので、社祠は後に創建されたものではないかと想像する。

 ・手持ちの図書「高良大社(山中耕作/日本の神々1収録)」に、高良山内には至聖の霊地(磐座)が三か所あり、第一(上の磐座)は水分神社(別所の清水・奥宮)、第二(中の磐座)は神籠石(馬蹄石)、第三(下の磐座)は味水御井神社(朝妻の泉・池中に神体石あり・御井郡名起源の泉)で、この三つの磐座を以て高良大社が創起したのではないかというような記述があり、味水御井神社は朝妻の泉(清水)であり、高良大社の創起と係わる水分神あったことが分かる。

 なお、朝妻清水は、かつて寂源(1630〜1696)が選定した「高良山十景」の一にも数えられた名勝地で、その湧出量は、今より遥かに多かったが、高良山と当社を結ぶ間の開発(高速道、学校、ビル、住宅、道路など)が進み、久大本線が開通後、急激に湧出量が減少しだしたという。また、現在、この水を飲料する人もいなくなっているようだ。

 4「七社権現」

5朝妻清水鳥居・神殿 ・朝妻清水の東側に大小二つの石囲い池(プール)があり、左側の小池(水がないが洗濯場跡か)と左側の少し大きめの池(鯉が泳いでいる)との間に石鳥居、石灯篭1対、狛犬1対が並び、その少し先の平地上に造られている四方囲いの石垣(石段あり)の上に、玉垣に囲まれて狛犬1対が守る小石祠がある。(※画像5)

 ・味水御井神社は、高良大社のなかでも、大社の創起とも係わる有力な摂社の一つだから大きな社殿があると想像して、この小石祠を観ると意外に思えてしまうが、以前は、この石祠の前に木造瓦葺の大きな社殿が建っていた。

 ・現在残っているこの小石祠は、地元では「七社権現」(しっちゃらごんげんさん)と呼んでいるので、もとは味水御井神社とは別の神社だったのかもしれない。
 この「七社権現」は、かつて朝妻の各所(七か所)に別々に鎮座していた七社(朝妻七社)を合祀してここに建てた神社で、その七社(七柱)は、仲哀天皇、神功皇后、国長明神、古母、妙見、乙宮、西宮である。

 ・御井町誌に、「朝妻の七社権現は、別名、味清水御井神社とも呼ばれ」とあるが、七社権現の七柱のなかに水波能売命(味清水御井神社の祭神)の神名がない。もし「妙見」がそれだとしたら妙見神社になってしまうが、だとしても七柱のうちの一柱があることを以て七社権現の別名といえるのだろうか。

 また、「七社権現」について、寛延2年(1749)12月の「寛延記―久留米藩庄屋書上(御井郡府中町庄屋太兵衛)」に記録されている「往古は七社御座候由承伝候得共、何比より退転致候哉、今は一社も無之候」の記録を載せているので、七社は、もとから当所に在ったものではないことになる。

 ・上記「高良大社(山中耕作)」に、「高良記は、味水御井神社を特に朝妻七社といい、七社のうちに『国長(庁ヵ)明神』の名がある。この地はもと在国司の屋敷だった、と伝えられている」との記述がある。これによると、味水御井神社=朝妻七社とし、七社の一に「国長明神」があるので朝妻清水は筑後国司の屋敷内にあったと言っているようにとれるが、朝妻七社は、上記「寛延記」の記録で分かるように、もとから当所に在ったものではないので、この指摘は当たっていないと思う。

 ※つづく→「朝妻の清水・味水御井神社(2)〜神社創立・筑後国府など(高良山麓巡り31)」。

keitokuchin at 02:12|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2017年05月19日

千巌山から展望(上天草市)

 前回「島原城を観光」からつづく。

 先日、天草に行ってきた。と云っても車に同乗して目的のない旅で、道の駅有明リップルランド物産館(天草市有明町上津浦)や、一夜干しの天草潮屋(天草市有明町島子)などで魚の干物ほかを買ったりした記憶しか残っていなかった。

 (1) 千巌山からの展望

 今日改めてデジタルカメラをめくっていたら「千巌山(せんがんざん)」(上天草市松島町合津)で撮った写真があったので、そういえば千巌山の中腹にある登山口(大駐車場あり)まで車で上り、少し歩いたことを思い出した。

千巌山から天草松島

 千巌山頂上展望台(標高162m)は、この登山口から徒歩10分ほど上ったところにあるが、その途中の、北側の展望ができる場所まで上った。
 掲載画像は同所で撮ったもので、中央の海は、上天草市を分断する水道で、永浦島(天草松島のうち)や、三つの橋(天草五橋のうち)などが観える。頂上まで上っていれば、この絶景がより広く鮮明に観えたのかもしれない。

 (2) 千巌山案内板

 千巌山登山口に建っていた熊本県(観)設置の千巌山案内板によると次のようなことが分かる。
 ・江戸時代初期・寛永14年(1637)天草島原の乱の総大将天草四郎時貞が信徒を集め、島原出陣の祝酒を手酌子で酌み交わしたという伝承があり、手酌子山と呼ばれていた。
 ・後に、田村剛博士(日本国立公園生みの親)がこの山に登山したとき、あまりにも多い奇岩怪石に感嘆し千巌山と命名した。(※昭和8年のこと)
 ・千巌山の呼び名のとおり岩石が多く、その岩間には自然に整枝された姫小松が生育している。また、眼下には青い海に形よく点在する天草松島の島々と天草五橋が見渡される。

 (3) 付記

 ・初めて天草を訪れたのは、まだ天草五橋が架橋される前のことで、当時は水俣港から連絡船で牛深港に渡り、叔父が経営していた炭鉱の社宅に数日間泊まったことがあった。この間、海で溺れたが、奇跡的に助かった。
 ・天草五橋が架かった後、明確には覚えていないが、天草島原の乱の落ち武者をご先祖に持つ某氏(激しい頭痛で苦しんでおられた)の依頼を受けて、そのご先祖がかつて隠れて焼畑生活していたと思われる山中に入り、その霊魂に導かれ(このとき憑依されかなり苦しい思いをした)、その一統が眠る墓地(雑木の茂る山間傾斜地の墓らしき痕跡のない叢)に辿り着き、同所で護摩供養を行ったことがあった。本ブログにはオカルトと思われるようなことは極力書かないようにしているが、いつか機会があったら書きとめておくべきかとも思っている。

keitokuchin at 01:56|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2017年05月17日

安道里香さん復活ライヴの案内「太陽の花と月のしずく」

安道里香さんライブ 安道里香さんからライヴの案内が届いた。

 「長い沈黙を破り、安道里香 福岡9年ぶりのライヴです。」とある。

 本当に久しぶり、もう歌(Jazz,Pops)は止めたのかと思っていただけに、案内を頂いたとき、すぐにこれは復活ライヴだと思った。

 以前、安道里香さんに関する記事を書いたことがあったと思い検索したら、2008年に投稿した次の記事があった。


 「太陽の花と月のしずく」(2008年2月13日)google
 「太陽の花と月のしずく」(2008年2月13日)livedoor
  「太陽の花と月のしずくのタンポポ」(2008年3月13日)google

 2008年から数えれば確かに9年、まだgoogleにも投稿していた時代で懐かしい。テーマの「太陽の花と月のしずく」は、2002年に安道里香さん(vo)と花田久美子さん(ピアノ)が出したCDのタイトルだが、当時、癒しの音楽として多くの人に支持された。

 安道里香さんの復活を祝い激励しようと思い電話を入れたら、すごく元気な声が返って来て、こちらの方が励まされた。
 やはり、ずっと歌うのを止めていたというので、やはり、復活だ。
 何ごとでもエネルギーのいる復活は、やはり嬉しい。

 こういう小生、まだまだやりたいことは多々あり、やろうという気持ちはあっても体力がついて行かない。でも復活できるという気持ちまで失ったらいけないな。

 Reversibleリバーシブル 2017.5.31(水)19:00 ¥3,000。
 Space Terraスペースララ:福岡市中央区警固2-19-9百田ビルB1 ☎092-732-3101。
 安道里香(vo) 日ノ下慶二(p) サリー佐藤(b) 盛迫浩(ds)。

keitokuchin at 16:25|PermalinkComments(2)TrackBack(0)

2017年05月15日

「天空院」見学 (大宰府メモリアルパーク)

 (1) 天空院納骨堂

 「天空院」…お寺の名かとも思わせるが納骨堂の名称である。
 先日、大宰府メモリアルパーク(太宰府市)に新しい納骨堂ができたと聞いて見学してきた。

1天空院 「天空」と云えば、空海が開いた高野山を「天空の聖地」ともいうので、当初、その名を頂いたのかとも思っていた。
 だが、2階のロビーで、総ガラス張りの窓から外景を眺めたとき、目の前に周りに遮るもののない眺望が広がっていたので、これが「天空」なのだと思った。
(※画像1)

 納骨室は、この奥に四室…納骨ケースに空、海、虹、山などの絵が描かれた部屋に分かれ、癒しの空間って感じになっていた。

 さながら空や紅は天上界、弥陀の浄土、海は補陀落渡海、山は浄土に近い菩提地等々、いろいろ想像はできるが、要は美しい世界に昇天するという願いなのだろう。

2天空院 この「天空院」の外観は、美術館とでもいおうか、見慣れた納骨堂のイメージと違っていたので、中に入るとき少し戸惑った。
(※画像2)

 室内ロビーの壁には絵画が並ぶギャラリ―、法事用の小部屋と控室も各2室あった。


 職員の案内で上記2階に上ったが、そういえば古い蓄音機やカメラなどが並ぶミュージックルームもあった。
 なお、永代納骨料などの支払い方法もあるらしく、これからは、いろんな工夫を施した納骨堂が現れてくるのだろう。

 (2) メモリアル渓流・万葉歌碑

3メモリアル渓流 天空院の横にメモリアル渓流庭園があり、傾斜のある庭園のなか作られた渓流で、岩々の間を流れるせせらぎの音がのどか。
(※画像3)

 その横に造られた遊歩道に「万葉歌碑」が数本建っている。
数えていないが、5本はあったか。


4万葉歌碑 因みに、画像は、秋の七草を押し並べた山上憶良の万葉歌碑である。
 「萩の花尾花葛花撫子の花女郎花また藤袴朝顔の花」。(※画像4)

 そういえば霊園の入口付近で、道際に建っている「万葉の郷」碑を見かけた。


 霊園内の各所に多数の万葉歌碑が建てられているらしく、万葉集愛好者にとっては墓地と融合した嬉しい散歩道になっているのだろう。後で16本あると聞いた、驚きだ。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ふと、こことは直接的な関係はないが、「名児山越えの万葉古道」(福津市・宗像市)を思い出した。なお、大伴坂上郎女が、大宰府から京に戻る途中、名児山越えで歌った万葉歌碑は、あんずの里ふれあい館(福津市)の丘の上に建っている。※名児山越え万葉古道・歌碑は、下記。
 →「万葉古道・名児山越は、大坂越(福津市・宗像市)
 →「万葉古道・名児山越(大坂越)を歩く(1) 福津市
 →「万葉古道・名児山越(大坂越)を歩く(2)福津・宗像市

keitokuchin at 20:16|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2017年05月07日

「宗像・沖ノ島」の世界遺産化は不要か

 昨日(2017.5.5)、「宗像・沖ノ島 ユネスコ世界遺産登録申請に関して、諮問機関の国際記念物遺跡会議(イコモス)は、このうち大島と九州本土の4件を除く沖ノ島付近の4件について世界遺産への登録を勧告した」との件を伝えていた。

遥拝所 世界遺産申請「辞退」の道もあるらしい。今回の申請で沖ノ島(天狗岩、御門柱、小屋島岩礁含む)や宗像大社(沖ノ島遥拝所・中津宮・辺津宮<宗像市>、新原奴山古墳群<福津市>等が世に広く知られた。その意味では既に同地区を世に知らしめる目的は達したことになるので、それでよいのではないかと思っている。

 なお、世界遺産登録に向けて行政・市民が一丸となって取り組んでいる姿勢には賛同はしていたが、今回の勧告直後に語られた多くの市民の意見を聞いているとどうも最初から一丸ではなかったようだ。
 なかでも、これまで守られてきた禁忌の神宿る島を国内外の男女観光客が勝手に上陸し踏み荒らすことになりかねないと恐れる人たちがことほか多かった。

 例えば、この島で観聴きしたことは安易に他人に話さないという掟があるが、今は、世界遺産申請と同時に、テレビカメラを引き連れてタレント、学者(?)、記者などが続々と島に渡り、映像を流し喋る、世界遺産は、神宿る島の掟・戒めを平然と破ることにもなりかねない。 

 私が、当初から違和感を持っていたのは、今回の申請書を書いたN氏の見識で、特に、沖ノ島をヤマトの国家祭祀遺跡とする決めつけには基本路線に相いれないものがあった。

 そのことは、これまで本ブログのなかで、ときどき断片的に触れていたが、例えば「海の道むなかた館と田熊石畑遺跡・東郷高塚古墳」なかでは、次のように書いていた。

 「田熊石畑遺跡(宗像市)は、倭国の女王卑弥呼の時代(3世紀前半)の百余国の一つだったのではないかとの話も聞いたが、倭国の一国であれば、ヤマトとは結び付いていないはずで、後に倭国の一員として白村江の戦い(663)に出陣するまで続いた当地の豪族であったと考えられる。
 何より宗像は、女神天照大神(大日孁貴女=卑弥呼/倭国の一邪馬台国女王)とスサノオ命(出雲王国)の間に誕生した宗像三女神を要する地であり、出雲との結びつきは考えられても、7世紀後半までヤマトに支配されたことはなかったと思う。
 よく「倭国日本」という言い方をするが、倭国は「倭の五王」などがいた国(九州王朝)であり、8世紀にヤマト王権が称した日本とは違うはずだ。したがって、沖ノ島における国家祭祀(4世紀末〜7世紀末)の国家は、ヤマトではなく倭国、或はムナカタ国であったと考えている。
 宗像市・福津市の遺跡群を何でもヤマト王権に結びつける幻から解き放ち、もっと宗像の独自性(倭国における海洋族ムナカタ国など)を打ち出した方がよいのではと思っている。」

 世界遺産は観光資源にほかならず、本来的には信仰と観光は別物である。また、神の世界を近代人間が作った世界遺産という地位にまで落としてよいのか。世界遺産にこだわらず、国家国民が大切にする遺産として存続する道を考えて行くべきではないかと思っている。安易に何でもかんでも世界遺産に申請する時代は終わったのではないか。

※参照・別記「沖津宮現地大祭参加は一度でも充分(神威) 」。

keitokuchin at 13:51|PermalinkComments(6)

2017年05月05日

「島原城」を観光

 GWを利用して4/29雲仙温泉東園一泊旅行に出かけた。その途中、久しぶりに「島原城」(長崎県島原市城内一丁目1183-1)を観光した。

 (1) 宇宙ツツジ

1島原宇宙ツツジ 車を止めた島原城内駐車場(駐車料金320円)の縁に小さな庭(島原城御馬見所前)があり、そこに植えてある「宇宙ツツジ」の花が満開少し過ぎだった。(※画像1) 

 「宇宙ツツジ」とあるけど、見た目は普通のツツジと何ら変わりない。


 実は「宇宙ツツジって何(?)」というのが最初の実感だった。
 案内板にあったのは「認定証」のコピーで、次のように書いてあった。

 「島原市長 古川隆三郎様 このツツジは、人類の夢を乗せたアジア初の女性宇宙士 向井千秋さんとともに宇宙を旅したツツジの種から育った宇宙ツツジであることを証明します―[商標登録証] 商標:宇宙ツツジ・登録:第4305632号 平成11年8月13日特許庁長官伊佐山健志、宇宙ツツジ認定番号[80] 平成25年3月25日館林市長安樂岡一雄(角印)」

 (2) 西望記念館

 島原城御馬見所の右方の隅(石段下・巽の櫓)に島原城「西望記念館」がある。この「西望」とは、彫刻家(故)北村西望のことである。
 西望の作品のなかでは、昭和30年(1955)8月8日長崎市被爆10周年を期して製作した長崎市平和公園の「平和祈念像」がよく知られており、記念館内にはその制作過程の雛形が展示してある。

 北村西望が没したのは、昭和62年3月4日(満102才)だが、島原城内に「西望記念館」が開館したのは、昭和47年(1972)のことで、島原が生んだ著名な彫刻家北村西望の米寿を祝ってのことだったらしい。

2島原北村西望・平和女神像 その作品の数々は、この記念館内や外庭、或は生誕地の西望記念館「西望生誕之家」(南島原市南有馬町丙393-1)等にも展示され、今なお多くの人に愛されている。

 ※画像2は、島原城西望記念館の館外庭園に設置されている「平和の女神」の彫像で、前向きの女性の力強さが漂う。


 (3) 島原鉄道「島原駅」を望む

3島原城から島原駅 「西望記念館」と「民具資料館」の間の歩行者専用の通路(島原城址東方)を歩いていると、その前に生えている数本の松樹の間から島原鉄道島原駅」と同駅前の大通りや、その先(熊本側)に広がる「島原湾の海原」を見下ろす絶景ポイントがある。
(※画像3)


 堀石垣の上に造られた桝形の白壁塀と、その壁に開けられた鉄砲を撃つための「三角形の穴」や弓矢を射るための「四角形の穴」の形容などを内側から観ることができ、海側から敵が攻めて来たときに迎撃する臨場感を味わうことができる。

 これらの穴(復元前)は、寛永14年(1637)島原の乱で島原城下に侵入したキリシタン一揆軍が城下を焼き払ったとき、実際に使われたのだろうか。

 因みに、島原の乱といえば、その終盤、天草四郎時貞を首領とした島原・天草一揆軍37000人が籠城し全滅した原城址(長崎県南島原市南有馬町乙)を世界遺産に申請しようという動きがあり、それにつれてこれまであまり見向きされなかった原城址を訪れる観光客が増えているそうだが、心霊スポットには違いなく見学中に体調に変調をきたす人もいるという。
 ともあれ、もともと島原の乱の発端となったのは、島原城築城に係わる苛政にあったとされ、後に島原藩主松倉勝家はその責を負って幕府に斬首されたが、美しい島原城も、その出発点には、多くの人々の犠牲・悲劇の歴史を背負っていたのだ。

 なお、島原鉄道には、諫早駅と島原外港駅をつなぐローカル線だが、ここには明るい話題がある。それは、旅の途中でここを走る黄色い列車を観ると幸せになれるという。「幸福の黄色いハンカチ」を思い出す。そういう小生、今回の旅で数回見かけた。だが、より幸せ感を味わうには、乗車して沿線の眺めを楽しむことか。また、「愛の(野)駅〜吾妻駅」の切符は「愛しの吾妻」となるとして人気が出ているとか。

 (3) 本丸・天守閣

4島原城 現在の「島原城天守閣」(独立式層塔型五重5階建・鉄筋コンクリート造)は、昭和39年(1964)の再建だが、白塗りの壁が美しい。(※画像4)

 石垣の間の石段を上ると料金所があり、そこから本丸内の中央階段を上る(※天守閣・西望記念館共通入館料大人540円)。
 2~4階が展示コーナー(島原藩の歴史遺産やキリシタン史料など)、最上階の5階の天守からは、四方遮るものもない風景を眺望できる。


 (5) 天守から眉山を望む

5島原城から眉山 ※画像5は、天守から西側(雲仙方面)の眺め、正面は「眉山」。

 この眉山は、寛政4年(1792)島原大変肥後迷惑と云われた大地震で山体崩壊を起こした山で、甚大な被害は島原城周辺のみならず、島原湾対岸の肥後(熊本県)を津波が襲った。


 ところが、平成2年(1990)11月〜同8年(1996)6月の雲仙普賢岳平成噴火では、島原城周辺は、雲仙普賢岳の前にこの眉山が立ちはだかっていたので、噴火による火砕流や土石流等の被害は免れたのかもしれない。
 なお、平成3年(1991)6月3日水無川を襲った火砕流は、最大で43人の死者行方不明者を出した

 なお、雲仙温泉は、普賢岳噴火の直接的被害は少なかったが風評被害を蒙った。その後立ち直りつつあったところに、平成28年(2016)4月の熊本地震で再び風評被害を蒙り客足が減ったよう、今度は肥後大変雲仙迷惑ということか。
 因みに、今、雲仙温泉で行っている「夜間地獄めぐり」で、蒸気の噴音に交じって人のうめき声が聞こえるという人もいるらしい…。ここにもキリシタン弾圧のスポットがある。

 翌日は、口之津港からフェリーで天草に渡り松崎ICから高速道に入り帰宅、2日間通して車の混雑はあまりなかった。

keitokuchin at 15:07|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2017年05月03日

日吉神社古宮・須賀神社・釘神社 (宮若市下)

 前回「日吉神社の由緒記 (宮若市下)」からつづく。

 (1) 須賀神社

 日吉神社参道口(宮若市下1140)前の市道を北東方向に(400~500m)進むと市道に沿って左側に「須賀神社(祭神素戔嗚命)」(宮若市下1006)がある。(※画像)

1下の須賀神社 境内敷地の中ほど(市道と並行=北東向き)に「須賀神社」の額束を掲げる「石鳥居」(明治二十七年建立)と「社殿」(拝殿・幣殿・神殿)、及び社殿を取り囲むがあり、そのなかに文化年間刻のある「石灯篭」(一部消失)や石碑2基、「古石祠」2基等がある(詳細は調べていない)。


 当「須賀神社」は、もとは「日吉神社(旧山王権現社)」の境内社「祇園社」だったが、明治27年、当地(下村1006)にあった「日吉神社古宮社」に遷され、日吉神社末社「須賀神社」となったとも考えられる。

 また、社殿の前・後には境内の空き地(雑種地)があり、境内は広い。
 その広さは、ざっと見ただけでも、縦(市道に面した部分)の長さ100m×横巾32m=3200(単純計算)あるが、道路や農地に削り取られた部分があるのではないかと想像すると、もっと広かったようにも思える。

 日吉神社の末社としては境内が広すぎるように思えるが、ここがかつて吉川郷(村)惣社と言われた「日吉神社古宮跡地」だと考えれば納得いく。

 (2) 日吉神社古宮

2下の須賀神社 当地(須賀神社鎮座地)が「日吉神社古宮」(鎮座当時「山王権現社」)とする根拠は、筑前國續風土記附録に「今の社より艮六町計」と記してあり、まさに当地は、東山鎮座の日吉神社社殿よりみて艮(うしとら/北東)六町ばかり(約108m×6=618m)に位置しているからである。(※前回:注5参照)


 言ってみれば、古宮は、東山(高宮)に遷った吉川郷惣社日吉神社(山王権現社)神殿の鬼門除けの社として残されたのかもしれない。

 次に、約300年間「古宮」(現須賀神社)鎮座当時の「日吉神社(旧:山王権現社)由緒」を再度下記しておく。

 ・人皇第62代村上天皇の天暦3年(949)4月、日吉大社(滋賀県大津市坂本)の分霊を旧鞍手郡小伏村比恵崎に勧請、同所に約400年鎮座後、正平23年(1368)、同郡下村の地(現須賀神社鎮座地)に遷す
 ・文明9年(1477)、太宰少貮政尚の命で惣政所藤右京進安秀が修復。
 (※なお、筑前国続風土記には「文明九年に大内家の臣宗掃部氶盛秀と云者、此邊を守護せし時、總政所藤右京進安房と云者修覆を加ふ」とある)。
 ・50年を経て、大内義興の下知により守護杉豊後守平興長奉行となり、願主として大村日向守重継・同苗又四郎興景が新に再建。
 (※なお、筑前国続風土記には「其後頽破せしを、大永七年(1527)大村又四郎興景といふ者建立せり」とある)。
 ・天正13年(1585)、氏子内湯原村草場の城主松井越後守秀郷拝殿を建立し、同年願主秋月種長神殿を造営する。(※なお、筑前国続風土記には、単に「又天正十三年(1585)松井越後守秀郷と云者建立す」とある)。
 ・寛永11年(1634)、長崎某願主となり神殿の修復をなす。
 ・此地に鎮座して凡そ300年を経て、寛文11年(1671)神霊を東山(現宮若市下1169高宮)の地に移し、前鎮座地を「古宮」と称す。

 (3) 釘神社

 「釘神社」は、須賀神社境内(前庭空き地)の北東部(農地側縁部/宮若市下1005)に設置してある真新しい御影石の石祠がそれである。(※画像)

3釘神社 石祠の右側面に「釘神社 祭神日本武命」と刻してある。
 また、左側面には、次の再建要旨が刻してある。「コノ社ハ大字下六九三番(旧字図)に鎮座サレテイタガ県営吉川地区担い手育成基盤整備事業ニヨリコノ地ニ遷座スル 平成十二年五月吉日再建 宮司國井安彦 氏子中」。
 

 「釘神社」は、日吉神社末社で、もとは、日吉神社境内社「釘大明神」であり、宮若市下地区内を変遷して当地に遷ってきたものと思われる。

 「県営吉川地区担い手育成基盤整備事業」とは、多分、旧吉川郷(村)一帯の農業担い手の農地集約化率の向上を目的とした県営の広域農地整備事業のことではないかと推測するが、門外漢なので詳細は分からない。
 なお、旧「吉川郷(村)」とは、吉川河(現:犬鳴川)の上流域にあたる旧「吉川河内の六か村=脇田、乙野、小伏、湯原、下村、縁(へり)山」(現在の宮若市脇田、乙野、小伏、湯原、下、縁山畑)のことだと思うが、今はなくなった「吉川」の地名は、今もこんな形で残っているようだ。

4釘神社 因みに「釘神社の神社名」は、ほかで聞いたことがなく、言ってみれば当社唯一のオリジナル神社名と言っても過言ではない。

 なお、「釘」から呪術「丑の刻参り」が連想されるが、祭神を日本武命とする当釘神社とは係わりないと思われる。


 私は、多分、確証はないが、この「」は、釘神社祭神「日本武命(日本武尊)」のシンボルともいえる「草薙剣」の「」が「釘」に変わったものかもしれないと思っている。

 (4) 日本武命と素戔嗚尊

 釘神社祭神「日本武命(日本武尊)」は、当地方(鞍手郡や宮若市など)では馴染みの深い神で、特に鞍手町にある「剣岳」は「日本武尊駐輦地」と言われ、「日本武尊」を主祭神とする「八剣(八釼・八劔)神社」(鞍手町中山)や、「草薙剣」を保管したとされる「熱田神社」(鞍手町新北)が鎮座している。

 以前「沼口若八幡宮祭神(宮若市)」に記したが、沼口若八幡宮の相殿神の一「日本武命(日本武尊)」は、かつて宮若市沼口字萩野鎮座の無格社「萩野神社」に祭られていた神(大正15年8月12日沼口若八幡宮に合祀)で、日本武命が熱田神社に祭られていた「草薙剣」を借り受けて燃え盛る枯草を切り払った地が萩野だったかもしれないと考えたことがあった。

 この「草薙剣」は、須賀神社(祇園社)の祭神素戔嗚尊(須佐之男命)が布都御魂劒(十束劒)で切った八岐大蛇の尾から出てきた「天叢雲剣」なので、奇しくも素戔嗚尊を祭る当須賀神社境内に「釘神社」が遷ったことは、両神が引き合ったことになるのかもしれない。

 因みに、日吉神社主神の大山咋命は、素戔嗚尊の孫(=饒速日命の子。妻神は宗像三女神の一市杵島姫神)で、また、祭神大国主命は、素戔嗚尊の娘(須勢理毘売命)婿で、また、素戔嗚尊の娘宗像三女神の一田心姫を側とし縁結びの神と云われるなど、いずれも素戔嗚尊と係わる。

 なお、八剣神社では、素戔嗚尊(旧祇園社祭神)を合祀しているが、私は、この「八剣」とは、もとは素戔嗚尊が八岐大蛇を切った布都御魂劒(十束劒)だったのではないかと思っている。
 また、剣岳は、饒速日命(大年神)が降臨した物部王国の中心地であり、当地方では、饒速日命(ヤマト王朝に消された物部氏主神)や、その父素戔嗚尊を祭る神社が多く、当「須賀神社」もその一社と考えて良い。

keitokuchin at 13:30|PermalinkComments(0)TrackBack(0)