2017年06月

2017年06月29日

高良内町の十一面観音堂 (高良山麓巡り41)

 ※前回「徳間の清水(3)〜名称・由来考 (高良山麓巡り40)」。

 ・徳間の清水入口(里道)の対面、右40m先(三軒目)に「高良内町十一面観音堂」が建っている。(所在地:久留米市高良内町348)。

1十一面観音堂 ・お堂の名を示す表札はないが、堂内の後方壁面に「十一面観世音御真言おんまかきゃろにきゃそわか」と墨書した板が貼りつけてあり、今のところ高良内町で十一面観世音菩薩像を祀るお堂を観ていないので、一応このお堂を「高良内町十一面観音堂(又は十一面観世音菩薩堂)」と記す。


 ・須弥壇に安置してある小石仏は、十一面観世音菩薩像ではなく、白衣の聖観世音菩薩立像(浮彫)である。

2観音 ただ、この石仏は比較的新しい感じがするので、以前、ここに安置されていた本尊十一面観世音菩薩像がなくなったので置き換えられたものか、或は、石仏の後ろの一段高い台座の上に、自然石(立石)が安置してあるので、案外、この自然石が本尊十一面観世音菩薩として祀られてきたご仏体なのかもしれない。

 ・由緒は分からないが、お堂内の後方壁に貼り付けある3枚の祈祷札の一枚に 大般若寶牘 梅林僧堂」と書いた紙札があるので、このお堂の本尊供養は、梅林僧堂(=臨済宗妙心寺派 梅林寺/久留米市京町209)で行っているのだろうか。
 因みに大般若寶牘(ほうとく)とは、大般若経の功徳を込めた祈祷札のことで、一年間の無病息災の功徳をいただけるという。

3十一面観音堂祈祷札 ・◆(梵字ユの種子=弥勒菩薩)奉修三井四国開創百周年記念祈攸」と書いた祈祷札(板札)があるので、このお堂(本尊十一面観世音菩薩)は、その何番札所になるのかは分からないが「三井四国(八十八か所霊場札所)」の一つになっているのかもしれない。
 この祷札(板面)の包紙(袴)の下に、百周年祈祷執行年の年号が書いてあると思ったが、その紙をめくってまで調べてはいない。

 ・「三井」(みい)は、明治29年(1896)に成立した旧三井郡(現久留米市高良内町、御井町を含む)のことなので、「三井四国(八十八か所霊場札所)」は、旧三井郡内にこの年以降に作られたものだと思う。
 同上祈祷札の板面は、その横にあるもう一枚の祈祷札「(ユの種子)奉修修行大師建立百周年記念祈攸(平成25年3月吉祥日法主敬白)」の板面より色褪せているので、三井四国開創百周年は、それ(平成25年)より少し前だと分かる。
 下記(a)により、仮にこの「三井四国」八十八か所霊場札所」の開設が明治43年(1910)だったとすれば、「三井四国開創百周年」は平成22年(2010)となる。

 ・(小生は)この「三井四国(八十八か所霊場札所)」の詳細を知らないが、現在も、毎年4月3~6日に白半纏をまとったお遍路の集団が「三井四国春季大参り」(団参)を行っているというので、現存しているのだろう。

 ・付記:(小生は)これまでの高良山麓巡りで、たまたま次の札所に巡り合せたので覚えとして付記しておく。
 (a) 八坂寺不動明王
  久留米市福岡県久留米市御井町2467-2(府中公民館の後方)
  堂前に「三井四国八十八ヶ所第四十八番八坂寺 明治四三年八月」の石碑があり、同年には「三井四国霊場札所」が成立していたことが分かる。
  ※別記→「高良山麓巡り(8)~八坂寺不動堂」。
 (b) 岩不動尊
  久留米市御井町297-1(愛宕神社の下方)
  ※別記→「高良山麓巡り(3)~岩不動・愛宕神社(その1)」。
 (c) 御井町薬師如来
  久留米市御井町235(御井寺県道沿い駐車場隅)
  ※別記→「御井寺駐車場内の小堂:薬師堂か(高良山麓巡り25)」。
 (d) 御井寺の裏山
  竹林のなかに札所があり、猪の危険があり現在入山禁止。
  ※別記→「御井寺参道口と願掛けお不動さん(高良山麓巡り24)」。

 ※つづく→「横馬場の地蔵菩薩彫像板碑(高良山麓巡り42)」。

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2017年06月28日

秩父子育て観音は親子の愛情をつなぐ

 最近、やたらと忙しく、観たいTVドラマは後日ビデオで、という習慣になっているが、そんななかで今日観た月曜名作劇場「はぐれ署長の殺人急行2〜秩父SL迷宮ダイヤ〜」(恵俊彰主演)のなかに2回、いずれも数秒間だけだったが、秩父三十四所観音霊場札所4番「金昌寺」の「子育て観音石像」が写っていた。(埼玉県秩父市山田1803)。

金昌寺子育観音  本ブログ「秩父観音巡りを思い出す」(2015年5月2日)に、この観音様のこと(※画像)を載せている。
 それからもう2年経ち、すっかり忘れていたが、また思い出した。

 この観音様は、ドラマのカットのなかに取り入れられるように、秩父観音札所のなかでも特に有名なのだろう。

 また、この観音様は、ドラマの、もう一つのテーマである親子の愛情の象徴ともされているようで、一度壊れた親子関係の復活や新しい親子関係を作る縁、家族を愛でつなぐ御利益があるのだろう。
 そういえば「秩父」は「乳(母)父」にもつながるから、ひょっとしたら秩父そのものが、観音様の懐に抱かれた家族愛あふれる街なのかもしれない。

 ドラマを観終わって、そんなことを考えていたら、もう昔のことだが、一度だけでも秩父観音札所を巡り、なかでも子育て観音を忘れずにお参りできたことが、今さらのように幸せに思えてきた。合掌。


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2017年06月22日

徳間の清水(3)〜名称・由来考 (高良山麓巡り40)

 ※前回「徳間の清水(2)〜湧水地 (高良山麓巡り39)」からつづく。

 3 徳間の清水の名称・由来考(推測)

 高良山三泉の一「徳間の清水」の名称・由来考を下記するが、大部分は、小生の個人的な推測である。

 (1) とくまのしみず(徳間の清水)〜物部氏

 ・「徳間の清水」(とくまのしみず)の「徳間」(とくま)の意味は、よく分からないが、当地の地名(旧字名)なのだろうか。

1徳間清水 ・「徳間姓」について〜姓氏には地名から採ったものも多い。徳間姓は全国で1000人に満たない珍しい姓らしいが、久留米など筑後地方では時々見かけられるので、「徳間の清水」がそのルーツだったのかもしれないと考えたこともある。
 ・ネットで徳間姓を開くと、徳間姓のルーツは筑後地方と長野県長野市徳間(旧:信濃国水内郡若槻庄徳間郷)で、近年徳間姓は、新潟県柏崎市に多数みられるという。


 ・長野市徳間の地名の由来も分からないが、同地には徳間池を水源とする徳間川があるらしく、或は、徳間は水と係わる名だったのかもしれない。

 ・そんなことを考えていたら、ふと「徳間の清水」の名称の由来について、こじ付け的ではあるが、次のような推測が浮かんだ。

 つまり、徳間の清水の由来は、霊山・高良山の山間(谷間)で湧き出す神徳(パワー)のある清水だったことから「徳間の清水」と称され、神聖な高良山三泉の一つに数えられた(小生の推測)。

 ・「徳間」という名は、小生は若い頃から、よく「徳間書店」発行の歴史図書を読んでいたので、馴染みのない名ではなかった。

2もののけ姫 そして、徳間書店の徳間康快社長(横須賀市出身)がアニメ映画「もののけ姫」(宮崎駿監督/スタジオジブリ、徳間書店など製作)の製作にあたって総指揮を執ったことを知ったとき、もののけ・物の怪(気)とは、古代物部氏のことだと思ったから、ひょっとしたら徳間氏は物部氏の系譜なのかもしれないと思ったことがあった。

 ※画像は、もののけ姫スチールをお借りしました。


 ・そこで改めて、「徳間の清水」がある高良内町に思いを馳せると、当地は、「赤星神社」(高良内天満宮境内)や富松神社等を氏神とする物部氏一族の居住地であり、地区内には高良大社(高良玉垂宮)の御神輿が下る「高良内八幡宮」も鎮座しており、当地の物部氏一族が高良神を奉斎した有力一族であったことが伺える。
 したがってこの地で湧出している「徳間の清水」が神聖化されたのは至極当然のことだっただろう。

 (2) とこまつのしみず(徳松の清水?)〜倭国九州王朝

 ・御井町誌に、「徳間の清水」に「とこまつのしみず」のルビを付けているので、地元では「とこまつのしみず」と呼称してきたのだと思う。
 そこで、この「とこまつ」に「徳松」(とこまつ)の文字をあててみた。

3徳間清水 ・高良山で「松」と云えば、高良大社(高良玉垂宮)の御神幸で神輿が下る高良下宮社本殿の神紋が「三階松」であり、この神紋を持つ神社は、倭国九州王朝と係わるとの説がある。

 ・以前、「高良山麓巡り(9)~高良下宮社」を掲載したときは、高良下宮社の本殿が改装工事中で近づけなかったので、あえて三階松の神紋には触れなかったが、次のような「倭国・九州王朝」との係わりについての推測は記していた。


 「 (高良大社・同下宮社の)祭神:高良玉垂命は大足彦(景行天皇)だという説がある。垂(たれ)=足(たらし)という説に基づくものだが、加えて彦(ひこ)から九州の霊山・(英)彦山を想起すると、大足彦(景行天皇)は、大和の天皇ではなく九州倭国の大王であった可能性がある、なお高良大社には九州倭国(九州王朝)の年号(記録)が残っていると聞いたことがある」。

 ・倭国(九州王朝)と「松」の係わりは、倭国(九州王朝)を建国した「姫氏」が、7世紀末に衰退したのを機に、ヤマト王朝からその氏姓を強制的に「松野連」に変えられたこととも係わる。

 因みに、「姫氏」(紀氏)とは、中国周王朝(姫氏姓)の血統をひく「呉王」(呉越同舟時代)につながる氏姓で、紀元前473年呉王夫差が日本列島に落ちのび倭人となり、後に魏志倭人伝(三国志時代)に出てくる「倭国」(九州王朝)を建国し、この系譜から藤・勝、倭の五王(讃・珍・済・興・武)、哲、満、牛慈、長堤、大野、津萬侶が出るが、7世紀末、倭国(九州王朝)は白村江の戦いに敗れ衰退し、ヤマトに吸収され、持統天皇の時代に姫氏(津萬侶のとき)の氏姓を抹消され、強制的に「松野連」に変えられた。現在、「松〇」や「〇松」など「松の付く姓」の多くは、この「松野連」(松ノ姓)に由来する。
 なお、本来の「倭国」の「倭の読み」は、姫氏(紀氏)の「(キ)イ」「(ゥ)イ」)であり、「ワ」と発音するようになったのは6世紀末のこと。したがって、8世紀以後、倭を「ワ」=大和(ヤマト)の和(ワ)とした倭国日本=大和王権とは別のものであったはずである。(参考:大宰府は日本の首都だった/内倉武久)
 ※別記参照→「酒多神社と倭国(九州王朝)姫氏 (福津市)」。

 ・話の脱線ついでに倭国(九州王朝)との係わりについて次の三点を付加しておく。
  宮地嶽神社奥の院の神紋は三階松
 勝浦・勝部氏が奉仕した「宮地嶽神社」(福津市宮司/近年「嵐」のCMで有名になった)は神功皇后や勝頼大神(別称:藤の勝頼)を祭祀するが、この勝頼大神(藤の勝頼)は、上記姫氏・倭国(九州王朝)系譜にある「」につながる。
 また、同社奥の院(宮地嶽大塚古墳)の神紋は「三階松」(高良下宮社と同じ)であり、古墳の被葬者「胸形(宗像)徳善」(※徳善の名には徳間の清水と同じ「徳」の字あり)である。
 なお、徳善の孫・高市皇子(徳善の娘・尼子娘の子)が父大海人皇子(宗像海人族か/天武天皇)について戦った壬申の乱は倭国九州王朝復権の戦いだったとの説もある。

  磐井の清水〜筑紫君磐井の終焉地
 527年(継体21年)、高良山を拠点としてヤマト軍(実態は疑問)と戦ったとされる磐井の乱(磐井戦争)の首謀者「磐井」は「筑紫君磐井」(倭国九州王朝の王君)で、「磐井の清水」(高良山三泉の一)のある地が終焉地(乱終息地)とされる。また磐井の清水の脇を流れる川は、高樹神社下の御手洗の井(池)から湧出し磐井川と称しているが、ここも倭国九州王朝と係わる地。
 (※別記参照→「磐井川起点から旗崎・磐井の清水・応永地蔵(高良山麓巡り21)」。 →「高樹神社 (高良山麓巡り14)」)。

  朝妻の清水〜神功皇后発見伝説
 「朝妻の清水」(高良山三泉の一)には、神功皇后発見出伝説があり、神功皇后を倭国九州王朝の香椎の女王だったと考えることができれば、やはりこの清水も倭国九州王朝と係わることになる。
(※別記参照→「朝妻の清水・味水御井神社(2)〜神社創立・筑後国府など(高良山麓巡り31)」)。

 ・なお、徳間の清水がある高良内町には、高良大社の御神幸と係わる「高良内八幡宮」が鎮座しているが、その祭神「八幡大神(誉田皇子・応神天皇)」の母「息帯姫(神功皇后)」の「帯(たらし)」は、上記「高良玉垂命」の「垂(たれ)」と同じであるとし、「神功皇后」を「高良玉垂命」とする考えもある。
 高良下宮社相殿には、神功皇后の三韓征伐に従軍した武内宿彌と物部膽咋連命が、神功皇后・八幡大神が倭国九州王朝に係わると考えれば、上記「物部膽咋連命」などをして高良内町の物部氏との係わりも出てくる。
 「高良玉垂命」を物部氏祖神「素戔嗚命」や「饒速日命」とする説、竹内宿彌とする説、倭国九州王朝と係わる藤大臣とする説などもあるようだ。
 また、高良内町には、「松」の字が付き、「とこまつ」の発音にも類似する「富松神社」(弦田物部祖・天津赤星祭神)があるのは偶然か。

 ・かなり話が脱線したが、「徳間の清水」(とこまつのしみず)のもとがもし「徳松の清水」であったら、この清水は、倭国九州王朝と係わる高良山を象徴する湧水の一つで、かつ「高良山三泉」のすべてが倭国九州王朝と係わる清水だったことになる。

 (3) とっこしょのしみず(独鈷杵の清水?)〜愛宕山の天狗

 ・前に、高良山の湧水地のうち、「徳間の清水」が高良山三泉の一つに加えられた理由はよく分からないものの、「大学稲荷御神水・愛宕神社天狗の独鈷水などが考えられなくもない」との推測を記した。

 ・大学稲荷の御神水かと考えたのは、徳間の清水の入口前を通る里道が大学稲荷神社裏参道とつながっていることからの推測である。
 なお、この境内を通り抜けると神籠石〜遊歩道・歴代座主墓地入口前を通って高良大社に到る山道がある。

 ・「大学稲荷神社」は、高良大社の末社・筑後稲荷十社の第一社で、明和8年(1771)座主寂信が伏見稲荷から大学稲荷を勧請、礫(つぶて)山(久留米市御井字礫山297「愛宕神社」境内)に鎮座し「愛宕山稲荷社」と通称されていた。
 現在地「稲荷山」(久留米市御井2608-1)に遷宮したのは、明治8年(1875)で、古い話ではないが、もともと現在地稲荷山には高良内稲荷社とも別称された稲荷社:現大学稲荷下社三九郎稲荷神社等が鎮座していたので、上記は、この稲荷社とのつながりで考えたもの。

・「徳間の清水」には、「愛宕神社の天狗」(愛宕山栄術太郎坊天狗)が「独鈷杵」(とっこしょ)で掘り当てたという伝説があるので、それならもとは「とっこしょのしみず(独鈷杵の清水)」ではないのかと思い、小生の勝手な推測でこの中見出しを付けてみた次第である。
 なお、独鈷杵(通称独鈷)は、両端に尖った鈷をつけた密教法具で、精進勇猛、摧破(破砕)を表するといい、壇護摩供での祈祷修法等で用いることがある。
 (※別記参照→「御井寺の天狗像=愛宕山太郎坊(高良山麓巡り26)」)。

4徳間清水石祠と給水口桝形石 ・「徳間の清水」は、高良山内寺社で行う密教・修験秘法・神仏呪術秘法の修法・伝法等に際して用いられるお潮井閼伽水などにもなっていたようで、現状を見ただけでは想像がつかないが、それほどに神徳をいただける清浄な清水で、湧水量ももっと多かったと思われる。


 仮に「独鈷杵(とっこしょ)の清水」だったとしたら、独鈷松(とっこしょう)・独松(とくまつ)・徳松(とくまつ)・徳間(とくま)の清水と変化していったことになるが、裏付けるものはなく、これは、単なる小生の推測に過ぎない。
  因みに個人的には、小生の法名に「」の一字があり、高良山三泉のなかでも特に「徳間の清水」に興味があり、敢えていろいろ推測を巡らした次第。 

 ※つづく→「高良内町の十一面観音堂 (高良山麓巡り41)」。

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2017年06月17日

徳間の清水(2)〜湧水地 (高良山麓巡り39)

 ※前回「徳間の清水(1)高良三泉 (高良山麓巡り38)

1徳間清水境内 2 徳間の清水の湧水地

 ・徳間の清水の所在地
福岡県久留米市高良内町385-4。

 (※画像1:徳間の清水の境内〜水路口、水溜り、水神石祠、湧水口、竹林、藪椿ほかの雑木など)。



 (1) 徳間の清水への道順
 ・徳間の清水に行く道は多々あるが、ここでは次の二つの行路を掲げておく。
  大学稲荷神社裏参道を下る
 ・高良山登山自動車道を上る途中、高良大社二の鳥居前を通り過ぎ、愛宕神社裏参道口の少し先の二股道を右折したところに鎮座している「大学稲荷神社」(久留米市御井町2608)境内を通り抜け、裏参道の急な石段(100段以上あり)を下り直進すると里道T字路(久留米市御井町2601付近)に突き当たる。

2徳間清水山麓 →ここを左折、約350m先の左側(田畑の切れ目)に、「徳間の清水入口」(※画像3:久留米市高良内町3422付近)がある。
 なお、車の場合、大学稲荷神社前に駐車して徒歩。
 又は、裏参道下近くにある印鑰神社境内に一時駐車させてもらって徒歩。

(※画像2:田畑の先の、左側の山麓に「徳間の清水」がある)。

  横馬場バス停(西鉄バス)から
 ・県道800号線「横馬場バス停」(久留米高良内郵便局近く)のある交差点を北(高良山南麓)方向に210m進むと里道T字路(久留米市高良内町418付近)に突き当たる(※正面右に「横馬場の地蔵菩薩彫像板碑」案内板あり)

3徳間清水入口 →ここを左折→約70m先の右側(左側に「あん摩マッサージ甲原」看板あり)に「徳間の清水入口」 がある。なお、近くまで車で行けるが、駐車場はない。

(※画像3:徳間の清水入口〜徳間の清水と横馬場の地蔵板碑標示板あり、右土道が徳間の清水参道)。



 (2) 徳間の清水の湧出口

4徳間清水参道横の畑 ・上記「徳間の清水入口」から北(高良山南麓)に向かって細い土道(右側には民家のブロック塀、左側には雑木、小水路、田畑=※画像4:猪等の動物除けの囲い柵あり)を約70m歩くと突当りに山麓の孟宗竹林、雑木林があり、その斜面の下にU字形に削られたような空間がある。



5徳間清水湧水口と水神石祠 ・ここが、徳間の清水境内で、手前に清水から流れ出た水溜りと小水路の出口(二股になっている)がある。

 ・境内の中央部に石祠(妙見社か水波能売命祭祀社か)があり、その後ろの地面に桝形刳り貫き石がある。(※画像5)


 ・この奥の斜面の下方にある樹の根の下の低い部分に湧出口があるのだが、この間には小岩がごろごろしており荒れた感じがする。
 ・平成26年(2014)の春に、土砂災害を被ったというので、その残禍なのかもしれないが、高良山では今も各所で開発工事等があっているのか。
 因みに徳間の清水の真上の山麓には鎮香丸稲荷神社や金龍寺、県道750号(高良山登山車道)などがある。 

6徳間清水湧水口 ・湧出口から大量の清水が湧き出している様子はなく、見た目にも湧出口はまったく分からない。(※画像6)
 ・一本の孟宗竹で作った竹筒(約3m、竹節内部を刳り貫いた筒)を湧出口に挿し込み、湧出水を桝形石の上まで引水し竹筒の先から流し出す形になっている。



7徳間清水湧水口と枡形石吸水口 ・ただし、竹筒は腐るので、よく管理していないとすぐに使用できなくなる。今回訪れたときは、腐りかけた竹筒が地面(丸石群のなか)を張り、水汲みしにくい状態になっていた。

 ・腐らないエスロンパイプにしたら情緒がないのかもしれないが、腐った竹筒も情緒がない。とはいえ、桝形石のなかに短いエスロンパイプの切れ端が転がっていたので、エスロンパイプを挿し込んでいたこともあったのか。(※画像7)



 (3) 徳間の清水の水質

 ・前回記したように、かつて清涼な聖水だった高良三泉(磐井・岩井の清水、朝妻の清水、徳間の清水)のうち、現在も飲料できるのは、唯一、徳間の清水のみである。ただし、飲料する場合は、一般細菌の個数が基準を超えているようなので、いったん沸騰すべきで、生水での飲料はできないようだ。

8徳間清水水質検査 ・当地に掲げてある水質検査表のコピーにも「この水は生水での飲料はしないでください」(高良内町第1町内会)と注意書きしてある。(※画像8)

 ・この水質検査表には、次の検査項目と結果、(基準)の記載あり。平成26年(2014)6月23日付。


 ・一般細菌1300個/㎖(100個/㎖以下)・大腸菌 不検出(不検出)・硝酸態窒素及び亜硝酸態窒素0.7/ℓ(10/ℓ以下)・亜硝酸態窒素不検出[0.004/ℓ未満]( 0.0410/ℓ以下)・塩化物イオン7.3/ℓ(200/ℓ以下)・有機物(全有機炭素:TOC)0.7/ℓ(3/ℓ以下)・pH値7.8[21°C](5.8以上)8.6以下・−(異常でないこと)・臭気異常なし(異常でないこと)・色度1度未満(5度以下)・濁度1度(2度以下)・鉄及びその化合物不検出[0.03/ℓ未満](0.3/ℓ以下)・カルシウム、マグネシウム等硬度78/ℓ(300/ℓ以下)。

 ※つづく→「徳間の清水(3)〜名称・由来考 (高良山麓巡り40)」。

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2017年06月11日

徳間の清水(1)〜高良三泉 (高良山麓巡り38)

※前回「朝妻の清水・味水御井神社(8)頓宮・御神幸祭(高良山麓巡り37)

 1 三井郡(御井郡)の郡名発祥を伝える高良三泉と御井三泉

 (1) 高良三泉

1徳間の清水の前 ・高良山麓には、現久留米市を含む三井郡(御井郡)の郡名の由来となったと言われる神聖な「高良三泉」のうち 嵌悵(岩井)の清水」、◆崢妻の清水」の探訪記を既述したので、今回は「徳間の清水」(※画像)の探訪記を書きとめておく。

 ・高良山の多々ある清水(湧水)のなかでこの三泉が特に神聖とされた理由は分からないが、かつて修祓、洗浄、飲料ができ人々に潤いと幸福をもたらす霊力ある冷水が止めどもなく湧き出す地として、今でいうパワースポットだったのかもしれない。


  磐井(岩井)の清水」(久留米市御井町619)は、筑紫国磐井君の発祥・終焉地だが、昭和48年(1973)九州自動車道が真上を走り、かつて溢れるほどあった湧水量はほとんどなくなり、飲料もできなくなった。
 ※別記参照→「磐井川起点から旗崎・磐井の清水・応永地蔵(高良山麓巡り21)」。
 ◆朝妻の清水」(久留米市御井朝妻1-8-1)は、高良大社の磐座の一つだが、昭和3年(1928)九大本線が同地上の崖(断層)を削って開通後、湧水量は徐々に減っていったらしく、戦後は周辺の都市開発等もあり飲料ができなくなった。
 ※別記参照→「朝妻の清水・味水御井神社(1)(高良山麓巡り30)」〜。
 「徳間の清水」(久留米市高良内町385-4)は、高良内(大学)稲荷の下方にあって、昭和36年(1961)高良山登山車道ができて以後、湧水量は減ったが、三泉のなかで唯一今も飲料できる(生水飲料は不可)。

 (2) 御井三泉

・上記とは別に「御井三泉」…「朝妻の井、御手洗の井、益影の井」…を三井郡(旧御井郡)の郡名由来だとする別説もあるが、ここには「徳田の井(清水)」は入っていない。

  朝妻の井」は、上記◆崢妻の清水」のことで、「井」とは水路のことをいう場合があるが、ここの場合、湧水を井戸として井と称したものか。
 ◆御手洗の井」(久留米市御井町260-1)は、高良神が御手を洗ったという謂れがある井戸だったが、安永年間(1772~1780)久留米藩が築造した名勝「放生池(御手洗池)」のなかに埋没した。今もこの池(磐井川水路)の水源の一つとなっているが、かつて澄み切っていた池の水は、昭和36年(1961)高良山登山車道開通以後に汚濁した。
 ※別記参照→「放生池・御手洗橋 (高良山麓巡り15)」。
 「益影の井」は、御井郡惣社として924年創建と伝わる延喜式式内社(名神大社)の論社「豊比弯声」に比定される「赤司八幡宮」(久留米市北野町大城1765)の祭神応神(誉田)天皇とその母神功皇后と係わる「蚊田の渟名井」(かだのぬない)といわれ、その南方約1kmにある「久留米市立大城小学校の運動場内」(久留米市北野町大城121-1)にあるが、現在湧水はない。(赤司八幡宮、益影の井探訪記は未稿)
 ※別記参照→「豊比弯声辧素兌/合祀(高良山麓巡り19)」。

 ※宇美八幡宮(糟屋郡宇美町)に、宝満山(太宰府市)の「益影の井」の湧水を「蚊田邑」(宇美町)の湯沸山で沸かし境内の「産湯の水」を混ぜて誉田別皇子(応神天皇)の産湯にしたという縁起があり、この別説だと考えられる。
 益影の井とは、この井戸に自分の影(姿)を写すとその姿が益々若い姿に見えるという意味なのか、よって産湯の井戸(湧水)ともなるのか。

 (付記) 高良三井
 因みに「井」は水路のことをいう場合があると上記したが「高良の三井」というと次の三水路を指すらしい。
 ‖膂羃(おおいご)、∨粍羃(きたいご)、西井河(にしいご)。

 ※つづく→「徳間の清水(2)〜湧水地 (高良山麓巡り39)」。

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2017年06月09日

朝妻の清水・味水御井神社(8)〜屯宮・御神幸祭(高良山麓巡り37)

※前回「朝妻の清水・味水御井神社(7) 高良山十景(高良山麓巡り36)」。

(1) 高良大社屯宮跡

 ・久留米大学駅前構内に「高良大社屯宮跡」碑があるが、構内は、もとは屯宮(頓宮)味水御井神社(朝妻の清水)境内で、「高良大社御神幸祭」で御神輿が下って来ていた。
 ・朝妻の清水は、高良大社の神・高良神が降り立つ磐座の一つと目されているほど高良大社にとっては古代から重要視されたところだった。
 よって高良神は、高良山頂の奥宮(水分神社)・別所の清水を含めても水神(水分の神)だったのではないかとの推測もある。
 ・現在も「高良大社御神幸祭」は斎行されており、上記「屯宮跡」ではない味水御井神社(朝妻の清水)境内地の隣接地(下記)で祭事が行われている。

 (2) 高良大社御神幸祭

 ・実際に高良大社御神幸祭を観たことがないので、 高良大社HP」及び◆福岡地域別探検よかとこBY、久留米高良大社御神幸祭2012」を見ながら、以下に書きとめておくことにする。

 ・平安絵巻の行列を思わせる「高良大社御神幸祭」が始った時期は、「高良記」の記録により、称徳天皇の神護景雲元年(767)で、勅使を迎え、千人超の大行列を以て斎行したという。以後、通常50年毎に斎行され、今日まで1200年の伝統を保っている。

 ・平成4年(1992)の「高良大社1600年御神期祭(御神幸祭)」で、以後は20年毎に行うことになり、合せて3日間の祭事を1日に短縮し、三基ある御神輿のうち動くのは一基のみとすることになった。
 ・その20年後、平成24年(2012)10月14日(8:00~16:45)、一基の御神輿は氏子地区である久留米市御井町、山川町、高良内町を御巡幸、各産神社(下記)で祭事が行われた。行列の全行程は約18km。
 ・次回斎行は、平成30年(2032)である。

 (3) 平成24年御神幸祭巡幸経路

 平成24年(2012)10月14日に斎行された御神幸祭で御神輿行列が巡幸した経路概要は次のとおり。(上記記事参考)

 ・8時頃、高良大社御神輿の「御発輦(れん)」を斎行し、御神輿を担ぎ出しトラックに積み込み、「高良大社一の鳥居」の前まで運搬し、手押しの車輛に積み替える。
 ・9時頃、御神輿と大行列(高良下宮社集合の250人)が「高良大社一の鳥居」前を出発(86号線新道バイパス、県道322号線を進む)。

 ・9:45頃、県道322号線沿いの結婚式場マリーゴールド久留米駐車場<御井朝妻1-5-18>に着き、神事を行う。
 ※ここは、結婚式場アンジェラフォンティーヌ<久留米市御井朝妻1-5-1>の東側の隣接地で、味水御井神社(朝妻の清水)の東側の杜の北側の隣接地。味水御井神社には神輿が乗った車輛が入れないので、今はここが屯宮の代替え地になっているのか。
 〜10:15頃出発(筑後街道を東へ、追分交差点を右折し山川町本村地区に入る)。

 ・11:05頃、高良御子神社(坂本神社・王子宮)<山川町王子山596-1>着、神事の後、11:40頃出発(県道151号線経由で、府中宿街道に入る)。
 ・12:20頃 、高良下宮社<御井町387>着、休憩、奉納神事(獅子舞、日舞、御井町風流、神輿潜りなど)の後、13:20頃出発(府中宿街道経由で、矢取から左折し県道800号線に入り長園バス停方面へ)。
 ・14:10頃、高良内八幡神社<高良内町大谷由876>着、神事の後、14:40頃出発(引き返す)。
 ・15:25頃、行列出発点の「高良大社一の鳥居」前に戻り、(大行列は高良下宮社内で解散)、神輿をトラックに積み替え高良大社に戻り、御着輦祭を斎行し、16:45頃御神幸祭終了。
 (※今回の「朝妻の清水・味水御井神社」の稿・終わり)

 ※今回のトップ→「朝妻の清水・味水御井神社(1))(高良山麓巡り30)」。
 ※高良山麓巡りのトップ→「高良山麓巡り(1)~府中宿場跡(その1)」。

 ※次回→「徳間の清水(1)〜高良三泉 (高良山麓巡り38)」。

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2017年06月08日

朝妻の清水・味水御井神社(7)〜高良山十景の一(高良山麓巡り36)

※前回「朝妻の清水・味水御井神社(6)石鳥居〜石祠(高良山麓巡り35)」。

 15 高良山十景の一

 (1) 先に「放生池・御手洗橋 (高良山麓巡り15)」に、高良山御井寺第五十世座主寂源(1630〜1696)が「高良山十景」(竹楼の春望、吉見の満花、御手洗の蛍、朝妻の清水、青天の秋月、中谷の紅葉、上濡山の霙雨、鷲尾の素雪、高隆の晩鐘、玉垂の古松)を選定した」と書いた。
 この十景のなかに「朝妻の清水」が入っているので、当時から当地は風光明媚な所として郷土の人々や文人墨客(ぶんじんぼっかく)に親しまれていたのだろう。
 また、当時(江戸時代)、筑後街道を旅する人たちも、街道の側にあるこの地に立ち寄り、湧出する清水で喉をうるおい、池と緑の明媚な風光を楽しみながら旅の疲れを癒していたことだろう。

 (2) 御井町誌によると、元和年中(1615〜1623)座主寂源は、高良山の景勝を世に知らしめるために、中国西湖の十景にならい高良山十景を選び、京都に赴き、詩歌に秀でた人たちに七言絶句と和歌を詠んでもらい、これに自ら詠んだ詩歌を加えて「高良山十景」として藩主頼元公に報告したことが分かる。
 このうち「朝妻の清水」には、次の詩歌が記載されている。

 「朝妻風景尽新奇 松緑杉青伴四時 湧出清泉林岳下 霊縦雄地総相宜 高辻中紊(納)言豊長」
 「汲みてしる心も清し神わざも代々にたえせぬ朝づまの水 園大紊言基福」

 「神功垂跡地尤奇 混々瑟泉無尽時 遊客忘帰三伏日 枕流漱石両相宜 寂源
 「朝づまの清き流れにすすぎてもにごる心はすむとしもなし 寂源」

 ※上記寂源の漢詩について、「久留米路の旅情(田中幸夫著)」は、次の読みを載せている。
 「神功垂跡(すいせき)ノ地尤(もっとも)奇ナリ。滾々(こんこん)たる瑟泉(しっせん)尽クル時無シ。遊客帰ルヲ忘ル三伏(さんぷく)ノ日。流レニ枕シ石ニ漱(すす)イデ両(ふたつ)ナガラ相宜(よろ)シ。(権僧正寂源)」

 ※「神功垂跡地尤奇」とは、昔、神功皇后が御井朝妻の地に湧き出た清水を飲んで「味(うまい)」と発せられ、これが味水(うましみず)御井神社の名となったという伝説を尤(もっとも)だと詠ったのだと思う。奇は今でいうパワースポットか。
 
 (3) 御井町誌には、「外に北村季吟の十景歌、第五十四世で俳句に秀でた忍章が寛政元年出版した『俳諧拾玉集』の中に、十景の俳句がのっている。」との記載もある。北村季吟」は江戸時代前期の歌人、国学者。
 同上各書にある朝妻の清水について歌、句は次のとおり。

 「夏とも知らでぞ掬(むす)ぶ朝妻や 岩ねの水の清き流れを 北村季吟」

 「むすびては夏わすれ井の神ごころ 大阪卜志」
 「かしく手の鍋にもさゆる清水哉 泥牛」
  「朝妻の砂明らけしわくいづみ 長崎其石」

 (4) 久留米の洋画家・青木繁の句も知られている。

 「夏草や 朝妻越えて 昼支度 青木繁」

 (5) 前回と重複するが、大正3年造の参道狛犬の台座に次の二首がある。

 「古廊有泉水声依 松籟清塵心為 一洗可以対神明 宮崎来城」
 「汲みてこそ 人母しるらめ六月の てる日も寒し 御井の真清水 船曳鉄門」

 (6) 風流の人たちは、「三井三名泉」と言われた朝妻の清水万法寺(現:安国寺)の金剛泉(久留米市山川町)、松崎宿の泉(小郡市松崎)の景勝地をよく訪れたといい、また、この三泉を以て三井郡の名の発祥とする説もあるらしいが、江戸時代には三井郡はなかったので、この三井三名泉とは明治時代の呼称か。
 このうち、江戸時代の松崎(宿)は、御原郡(現小郡市)で、御原郡は、明治29年(1896)、御井郡などと合併して三井郡となったので、その時点で松崎宿の泉を三井三名泉の中に入れることは問題ない。ただし、下記(明治時代以前の御井郡=明治以降の三井郡)の発祥伝説とは一線を画しておく必要がある。

 旧御井郡発祥伝説は「高良の三泉」(朝妻の清水、磐井の清水、徳間の清水)によるが、このほかにも、「御井の三泉」=朝妻の井(この場合「井」と称す)、前述した御手洗の井(久留米市御井町260-1)、益影の井(久留米市北野町大城121-1)とする説もあるらしい。いずれの説にも「朝妻の清水(井)」が入っているので、その凄さ、神泉さが伺える。
 (※別記参照→「徳間の清水(1)〜高良三泉 (高良山麓巡り38)」)。 

 ※つづく→「朝妻の清水・味水御井神社(8)〜屯宮・御神幸祭(高良山麓巡り37)」。

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2017年06月07日

朝妻の清水・味水御井神社(6)石鳥居〜石祠(高良山麓巡り35)

※前回「朝妻の清水・味水御井神社(5)社叢・湧水池(高良山麓巡り34)」。

 11 社前の石鳥居と石燈籠

17朝妻清水と鳥居 ・上記10に、鯉池の横に「最近、建て直された石鳥居」があると書いた。いつの頃に倒壊したものか分からないが、長い間、分解状態で境内に放置してあった。

 この復元石鳥居は、側に建っている「鳥居一基建立碑」から、御井町朝妻の水野義雄ほか世話人64人により、明治29年(1896)8月25日建立・昭和2年(1927)11月に再建されたものだったことが分かる。

 ・石鳥居の後ろの「石燈籠」は、大正3年(1914)11月7日、御井町朝妻 萩野止吉・伊藤富治、瓦林惣吾の寄進による建立。

 12 狛犬(宮崎来城、船曳鉄門の詩歌)

 ・同様に再整備された「石造狛犬」一対は、大正3年(1914)10月16日久留米市呉朊町 末次四郎の寄進により建立されたもの。
 ・各台座に当時の神さびた朝妻清水の様子を伺える2首の詩歌の刻があるが、詩歌刻のある台座は、ほかで観たことがなく、珍しい。

  「古廊有 泉水 声依 松籟清 塵心為 一洗可 以対神明 宮崎来城

 ※宮崎来城(みやざきらいじょう)の略歴は、美術人名辞典によると「詩人。久留米生。名は繁吉、初号は柳渓。山下桃渓・江崎巽庵に師事した後、二六新聞に入り日露戦争で従軍記者となる。田岡領雲との共著「侠文章」があり、文芸雑誌「天鼓」の執筆に加わった。昭和8年(1933)歿63才。」

  「汲みてこそ 人母しるらめ 六月の てる日も寒し 御井の真清水 船曳鉄門

 ※船曳鉄門(ふなびきかねと)の略歴は、美術人名辞典によると「歌人。国学者。筑後大石の人。称鉄之助・環、号石主・花庵・揖山等。大枝の男・大滋の弟。江戸に出て橘守部の門に入る。久留米の碩学池尻葛覃に従い、漢学を修め藩主に請うて皇学を藩学に加う。安芸国嚴島神社宮司・筑前香椎・筑後高良神社権宮司を歴任する。明治28年(1895)歿72才。」

 13 社祠

 ・昔は、この狛犬のすぐ後ろ、石祠(七社権現祠)の前に、木造瓦葺の味水御井神社社殿が建っていたといい、その左にはクロガネモチの巨木もあったので、この辺りの風景は、現在とは、かなり異なっていたことになる。

18朝妻清水改築費寄附人名 ・その社殿は、境内に建つ「改築費寄附人名」碑の日付から大正3年(1914)11月7日改築、つまりこのときに建て直されたものだったのだろう。

 ・「改築費寄附人名」碑には、惣代3人(永富秀次郎、瓦林惣吾、田中喜市)と世話人10人を含む、浮羽郡柴刈村恵利神課中以下、三井郡山川町15人、三井郡御井町129人、三井郡宮ノ陣1人、三井郡合川村29人、三井郡善導寺村1人、久留米市4人の氏名刻があり、多くの氏子、賛助者がいたことが伺える。


19朝妻清水庶民子來来之處碑 ・また、同じく境内に建っている「庶民子來之處」碑の裏面の記事から昭和2年(1927)7月に拝殿改築があったことが伺える。

 ・「庶民子來之處」碑には、一金百参拾円柴刈村恵利旧神課中、一金六百円朝妻區中とあり、裏面に昭和二年七月拝殿改築為記念惣代世話人鹿子島拾蔵、中園大吉、永?啓次郎、瓦林惣吾、吉瀬龍造、萩野止吉、青柳喜蔵、立野喜平次、中野喜一郎、藤田春吉、角傳吉、永江林太郎の名が刻してある。

 ※「庶民子來」と、今は馴染みのない言葉だが、碑建立当時は、孟子の言葉が普通に理解され普通に使われていたのかもしれない。孟子の 庶民子來には、形容庶民加入營造行列的心情,如同子女為父母效勞般,急著趕工加速完成の注釈がある。

 ※上記両碑の寄付者のトップに「(浮羽郡)柴刈村恵利旧神課中」とあるので、このことから柴刈村恵利(旧:竹野郡恵利村・現:久留米市田主丸町恵利)神課中十四軒の人々がいかに朝妻の清水と深く係わっていたかが分かる。
 その係わりは、下記の七社権現石祠前にある一対の石造狛犬に、「文化三年(1806)竹野郡恵利村献紊」の刻があることからも伺える。
 御井町誌には「今でも8月7日、恵利八幡宮夏祭りの早朝、朝妻の清水でみそぎをし、お潮井を持ち帰る慣習がある。」と記している。
 因みに恵利八幡宮(八幡神社)の祭神は、應壇傾帖仲哀天皇、淡皇后、姫神で、鎮座地は、久留米市田主丸町恵利1173、境内の大楠の枝で作ったという獅子頭が知られる。

 ・いつの頃に、石祠の前にあった社殿(拝殿)がなくなったのかが分からないが、昭和60年(1985)刊「御井町誌」に社殿の写真が掲載されているので、少なくともその当時までは存在していたことが分かる。その後、再建されておらず、再建にはかなりの資金調達が伴うのでなかなか難しいのだろう。

 14 石祠

20朝妻清水・石祠 ・「石祠」(七社権現祠)は、文化三丙寅年(1806)七月 久留米御城下町中、安居野組村中、府中町中を願主として寄進、その前にいる「石造狛犬」一対は上記の竹野郡恵利村献紊である。
 当社は、天慶7年(944)筑後国神名帳登場の古社というが、この文化3年以前に社祠があったものかどうかは分からない。

 ・なお、境内には、このほかにも石燈籠、石碑など数基あるが省略する。

 ※つづく→「朝妻の清水・味水御井神社(7)〜高良山十景の一(高良山麓巡り36)」。

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2017年06月06日

朝妻の清水・味水御井神社(5)〜社叢・湧水池 (高良山麓巡り34)

 ※前回「朝妻の清水・味水御井神社(4)〜クロガネモチの巨木(高良山麓巡り33)」。

 10 味水御井神社(朝妻清水)社叢、湧水池

12朝妻清水・石段 ・案内碑の文を、上記に続き、「…巨木に囲まれ、澄明(ちょうめい)な水をたたえる湧水を有する社叢は神さびて境内は今も神秘的な気配がただよう。この湧水が古来より崇敬を集め人々の生活に潤いと恵みをもたらし、「うましみず」の神社名を生んだ「朝妻清水」である。」と要約した。


 ・現在、「久留米市民の森」となっている社叢(鎮守の杜)は、南側の地震断層と云われる崖の法面を削って走る九大本線に沿って、その下方約300m、細長く伸びている(石祠の後方の杜を含む)。
 このうち、この崖の法面や石祠の後方に伸びる杜は、むやみに踏み入ることのできない水源の森として大切に保存されている。

 ・当地は、東西に延びる耳納(みのう)山脈の西にある高良山の北西山稜の末端部にあるが、耳納山脈は、本来「水縄(みのう)山脈」と言われたように、日田盆地に続く豊富な水脈をもつ山魂であり、砂礫の地下をくぐって冷え切った伏流水が山麓の各所で湧出している。
 高良三泉の一「朝妻清水」もそのひとつで、現在の水温は17度と聞いた。

 ・昭和3年(1928)久大(本)線が境内地を分断するまでは、境内の杜はもっと広かったと言われており、朝妻清水の湧出量も今よりもっと多かったらしい。南部周辺地区の開発を加えて地下水脈の一部が遮断されたのかもしれない。それでも涸れることなく、今もこんこんと断層の下から湧き出し、その水は、合川を経て筑後川に流出している。

 ・朝妻清水には、大正14年(1925)4月造の玉垣と石段(※画像)があり、石段の側に水汲み用の貝杓子が置いてある。
 朝妻清水には、神功皇后料飲による「味水(うましみず)」命名伝説があり、古今きっと味の良い清涼水なのだとは思うが、当地と高良山を結ぶ地区の開発が進んだ現在、今もこの清水が飲料に適しているものかどうかは分からない。

 ・境内には、このほかにも湧水池がある。前述高良大社川渡祭(へこかき祭)の開始に際して禊が行われる「禊池」(禊の泉)は、朝妻清水の溢れ水の水路とつながっているが、この池も湧水池か。

13朝妻清水鯉池 ・また、最近、建て直された石鳥居の左側(案内碑の後ろ)にある石囲み四角形の「鯉池」(鯉が泳いでいる池)も湧水池のようだ。
(※画像)。
 湧水池のなかで鯉が泳いでいる様を観ていて、ふと宗像市「久原の平清水」(貴船神社境内)を思い出した。


 湧水流のある池では、鯉を飼っても池の水は汚染されないのだろう。
 だが、鯉が泳いでいる池の水は、確実に飲めない。

14朝妻清水・西池 ・禊池の西側に、境内を区切るような低木林があるが、その先の空き地の縁に、湿地池のような小池がある。
 この西側の小池も湧水池だと思う。

 以前は、この横の崖面からも湧出があっていたかと思うが、今は途絶えている。(※画像)


15朝妻清溝 ・また、北側の結婚式場アンジェラフォンティーヌとの間に小水路(溝)があるので、石祠後方の杜内にも湧水池があるのだろうか。(※画像)

 この結婚式場は、上記2-△砲盖したが、境内と県道322号線・筑後街道の間にある。


58朝妻清水結婚式場県道沿道 結婚式場アンジェラフォンティーヌは、前にも記したが、以前、湧水を蓄えた池のある和風の御井蕎麦停があったところで、現在も、車の往来の激しい県道322号線・筑後街道に沿って生えている樹木は当時の名残りか。
(※画像)


16朝妻清水出水口 ・なお、境内敷地内を小水路が横切っている。
 小水路には、各湧水池から流れ出る水が絶え間なく流れている。
 
 そして、この小水路の各所に小さな「単径間円弧石桁橋」が架けてある。
 境内を行き来するときは、必ずこれらの小橋を渡るようになっている。
(※画像)



 ※つづく→「朝妻の清水・味水御井神社(6) 石鳥居〜石祠 (高良山麓巡り35)」。

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2017年06月05日

朝妻の清水・味水御井神社(4)〜クロガネモチの巨木(高良山麓巡り33)

※前回「朝妻の清水・味水御井神社(3)〜川渡祭(へこかき祭)禊池(高良山麓巡り32)」。

 9 現存していないクロガネモチの巨木

 上記5-に、案内碑(平成22年[2010]3月31日久留米市設置)の要約として「県指定天然記念物のクロガネモチをはじめとした巨木に囲まれ…」と記した。

10朝妻清水(旧)クロガネモチ写真 この「クロガネモチの巨木」は、平成20年[2008]3月31日に「味水御井神社のクロガネモチ」として福岡県天然記念物に指定された。
 案内碑には「本樹は雄株で樹高19.71m、胸高周囲4.06mを計り、県内では最大級のクロガネモチです。…樹形の美しさに優れ、樹勢も旺盛であるとともに、神社境内に生育することから、地域とのつながりも深い巨木です。(写真入り)」とある。

(※画像は、案内碑に掲載されているクロガネモチの写真の転写)。

 以前、この巨木は、味水御井神社(七社権現社)石祠の(向かって)左前に生え、大きく枝葉を広げ、パワーのある「朝妻清水の御神木」として崇敬されていたが、残念ながら現存していない

 多分、平成24年(2012)7月北部九州豪雨の影響を受けて倒木したものかと思われるが、翌年中には撤去され、現在、その跡地は、その跡形も分からないように整地されている。

11朝妻清水樹皮 現在、石祠の左後方の竹藪の前に、立て掛けるような形で置いてある大きな樹表(部分)があるが、これは、ひょっとしたらこのクロガネモチの巨木の残骸なのかもしれない。
(※画像)

 ※つづく→「朝妻の清水・味水御井神社(5)〜社叢・湧水池(高良山麓巡り34)」。

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