2017年07月

2017年07月29日

俀國王多利思北孤〜倭国(九州王朝)終末期の王府(3)朝倉市

 前回「斉明天皇討ち死に〜倭国(九州王朝)終末期の王府(2)(朝倉市)」からつづく。

 (7)  俀國(倭国)王・多利思北孤の仏教信奉

 ・上記(2)(3)に、608年(大業四年)、隨の煬帝の命で斐世清(はいせいせい)が訪れた倭国(随書には「俀國」とあるが、ここでは「倭国」=九州王朝と記す)は、ヤマトではなく、多利思北孤(たりしほこ)の倭国で、その地は、随書の記述から朝倉であったと推定できることを述べた。
 そして、その推定地は、地元の伝承から星丸の星降城、或は朝倉橘広庭宮だと考えた。因みに朝倉橘広庭宮はもともと倭国宮居であった。後に斉明天皇が同宮に入り一部改造後、急死した。この死は病死ではなく討ち死にだと前述した。

 ・また、倭国に(百済から)仏教が伝来した時期は、地の利から考えても、ヤマトより九州の方が古く(少なくとも6世紀より以前)、倭国の政庁(三府及び地方府)の近くにはヤマトより早く仏教寺院が建てられ、朝倉では、橘広庭宮(跡地未確定)の近くに長安寺(朝闇寺)があったことなどを記した。

 ・倭国王の多利思北孤の仏教信奉については、「隨書」の次の記録でよく知られている。

 (a)「開皇二十年 俀王 姓阿毎 字多利思北孤 号阿輩雞彌 遣使詣闕…(中略)…天未明時出聴政 跏趺坐

 ※隋文帝の開皇二十年(600))、ときの俀王(倭王)[姓は阿毎(あめ)、字は多利思北孤(たりしほこ)、号は阿輩雞彌(あはけみ)]は、使を遣わして闕(けつ)に詣でる(この場合、隋の宮居に赴くという意味か)…(中略)…天が未だ明けぬときに時に出て政を聴き、跏趺坐(かふさ/結跏趺坐のこと)。
 ……夜が明けやらぬ時から政務を行うときは、仏教徒らしく結跏趺坐をしているという意味か。

 (b)「大業三年 其王多利思北孤遣使朝貢 使者曰「聞海西菩薩天子重興仏法 故遣朝拝 兼沙門数十人来学仏法 其国書曰日出処天子致書日没処天子無恙云々。帝覧之不悦 謂鴻臚卿曰 蛮夷書有無礼者 勿復以聞。明年 上遺文林郎斐清使於俀国

 ※隋煬帝の大業三年(607) その(俀国=倭国)王の多利思北孤が遣使朝貢する。使者曰く「聞くと海西の菩薩天子(隋の煬帝を立ててそう呼んだ)が仏法を重興(復興)した、故に遣朝拝し 兼ねて沙門(しゃもん/留学僧)数十人来て仏法を学ばせる」。その国書に曰く「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す恙(つつが)なしや」云々と。帝はこれを覧(み)て悦ばず、鴻臚卿に謂曰く「蛮夷(ばんい)の書、無礼である、復たと以聞(いぶん)する勿(なか)れ」。明年、上、文林郎斐清(はいせい)を俀国(倭国)に遺使する。

 ・上記により、倭国王の多利思北孤が仏教を信奉していたことが伺えるが、仏教寺院は、多利思北孤より前の時代から倭国(九州王朝)内に建てられている。
 謂わば、日本における先駆的ともいえる仏教寺院は、天武天皇時代に出された勅宣(680年)により、その後30年の間にすべてが廃寺となったことは前述した。

 ・白村江の戦いで、白村江に出兵した倭国を含む各地の国々の国力が衰退、或は滅亡し、ヤマトの全国制覇(中央集権化)が進むなかで犠牲となったといってもよい。
 現在、九州に限らず各地に残る由緒不詳の古代廃寺遺跡の建立時期は、7世紀後半以降とされているものが多いが、実際は、この通説はより、かなり古い。

 ・ところで、上記(b)により「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す恙(つつが)なしや」の文は、聖徳太子が遣隋使に持たせた国書に記されていたと教え込まれてきたが、完全に間違いであることが分かる。すると、今は、聖徳太子は、後世の称号で、いなかったという説が通説となり、これまで何という教育をしていたのか、分けが分からない。
 太子は天子ではないが、聖徳太子のモデルとなった人物は倭王多利思北孤ではないかとの説もある。

 ・隋の煬帝が、この国書に対して「蛮夷書有無礼者」と謂った理由については種々の説があるが、それはさておき、にもかかわらず翌大業四年(608)には、煬帝は、俀国(倭国)に使いを派遣している。このとき来訪したのが、前述したように随書に「この国に有阿蘇山」と表した斐世清(はいせいせい)である。

  ・この「有阿蘇山」の文を以て、斐世清は肥後に行ったという説があり、そこから、多利思北孤の倭国は肥後に遷り、その墓も肥後にあるという説が生まれた。確かに「倭国にはシンボルとなる阿蘇山がある」と聞いたのだと思うが、前述したように、斐世清は、朝倉市穂坂にある阿蘇山を観たとき、この話を聞いたのではないかと思っている。つまり、斐世清が行ったのは、朝倉である。まして、阿蘇山などないヤマトに行ったとは考えられない。

 また、ひょっとしたら恵蘇の地名ももとは阿蘇だったかもしれないと考え、恵蘇八幡宮の裏山にある御陵山古墳(二基)の一つが、多利思北孤の墓かもしれないと思っている。立派な小円墳2基のうちの一つは、その妻雞彌、若しくは別の倭王かもしれない。地元では2基の円墳ではなく、昔から前方後円墳1基と伝えられてきているので、倭王多利思北孤を埋葬した御陵(古墳)と見てよいのかもしれない。
 この古墳は、筑後川を見下ろす急斜面の丘陵の頂上部にあり、ここは、霊峰麻氐良布(まてら)山の山陵が筑後川に下る末端部で交通の要害地でもある。
 この古墳は、通説では斉明天皇の御殯葬・藁葬(こうそう)と係わる墓とされているが、であれば二つの墳墓は不要だし、仮葬で急遽古墳をつくる必要はない。
 因みに斉明天皇越智崗上陵陵(小市岡上陵)は、車木ケンノウ古墳」(奈良県高市郡高取町大字車木)とされているが、牽牛子塚(奈良県明日香村大字越)や、同隣接地の越塚御門古墳だとする説もある。

 (※本稿にかかる参考資料「九州古代王朝の謎/荒金卓也」)

※つづく→「御陵山古墳は倭国王墓〜倭国(九州王朝)終末期の王府(4)朝倉市」。

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2017年07月27日

斉明天皇討ち死に〜倭国(九州王朝)終末期の王府(2)朝倉市

 前回「倭国(九州王朝)終末期の王府(1)〜九州北部豪雨地(朝倉市)」からつづく。

 (5) 斉明天皇討ち死に〜朝倉橘広庭宮

 ・斉明天皇7年(661) 3月25日、ヤマトの斉明天皇中大兄皇子は、白村江への出兵準備のために娜大津(福岡市)に入り、さらに斉明天皇は、倭国王・筑紫君薩野馬に白村江への出兵を促すべく、当時の倭国(九州王朝)の宮居・朝倉橘広庭宮のある朝倉に進攻し、5月9日、橘広庭宮を占拠したが、7月20日、星丸の星降城に引いた倭国軍(筑紫君薩野馬)の反撃にあって討ち死にした。

 ・日本書紀(原文漢文)には、「五月乙未朔癸卯(5/9)、斉明天皇は朝倉橘廣庭宮に遷居。是時、朝倉社の木を斮除(切り払い)この宮を作った故に神が忿り殿(おおとの)を壊した。亦宮中に鬼火が見る(あらわれる)。故に大舎人(おおとねり)と諸々の近侍、病み死ぬ者衆(おお)かりき。秋七月甲午の朔丁巳日(7/20)、天皇朝倉の宮で崩御」と記しているが、そのすべてを額面通り解釈して「病み死ぬ」と受け止めるわけにはいかない。

 ・朝倉橘広庭宮は、白村江の戦いの大本営(前線基地)だったという説があるが、大本営は中大兄皇子がいた博多港に近い娜大津(長津、磐瀬?/特定できていない)にあったと思われるので、海港から遠い内陸部にある朝倉橘広庭宮は、大本営にはなり得ない
 ここは、あくまで当時、朝倉にあった九州倭国王府を抑え、彼らを白村江へ向かわせ(全滅させ)るために設けた仮宮だったに過ぎないと思う。

 ・上記したように朝倉橘広庭宮は、斉明天皇が新たに作った宮居ではなく、もとは倭国宮居であったと思われる。したがって、同所を手に入れた斉明天皇が、ここを新たな自分の宮居とするために、その改修や修繕等を行うために、朝倉社の木を切り払ったくらいのことはあったかもしれない。

 ・だが、そのために朝倉社の神の忿り(祟り)を受け、大舎人や諸々の近侍(近衛部隊長以下の近衛兵)らのく(※あえて総回向でいう衆生の衆を使っているので、死者に対する供養をこめたかなり多くの衆という意味か)が一気に落命するなど到底考えられない。
 仮に陣内で伝染病が発生したとしても一気に死ぬようなことはないので、これは、宮居を奪われた倭国軍の反撃にあい討ち死にしたのだと考える方が妥当である。
 「神の忿り」とした理由は、討ち死にしたことを隠ぺいするために後から付けたごまかしに過ぎない。
 現代でも、南スーダンに派遣された自衛隊の、現地で起きた激しい戦争を単なる武力衝突だとごまかしたように、権力側が作った歴史(作文)はどのようにも作為できる。

 ・「朝倉社」とは、一説には「麻氐良(まてら)山」(朝倉市杷木志波)の山頂に鎮座する「麻氐良布(まてら)神社」のことだとされているが、その「神が忿り殿を壊した。亦宮中に鬼火が見る(あらわれる)」というのは、恐らく倭国の反撃軍が朝倉社のある方向から襲い掛かり、鬼火(放火)を放ち、宮居を破壊(焼却)したということではないかと思う。
 
 因みに筑前國續風土記は、「朝倉社」について、「もし木丸殿の在し處、今土民の云傳ふる須川村の、大行事の社に近き平田ならは、齊明天皇行宮を作らせ給はんとて、朝倉の社の木を斮除玉ふとあるは、此社の事にや。九月十四日祭あり。土民は此邊の東北のひきき山をも朝倉山と云。又右にいひし左右良の神、是朝倉の社を彼山上にうつせしにや。いふかし。」と記している。
 なお、この「木丸殿」とは斉明天皇行宮地・朝倉橘広庭宮(木の丸の皇居ともいう)、「大行事の社」とは現在の朝闇神社、「ひきき山・朝倉山」とは低い山・麻氐良山、「左右良」とは麻氐良布神社のことである。

 ・一説に、高齢で病気がちだった斉明天皇が中大兄皇子に促されてしぶしぶ朝倉に向かい、同地で病が悪化して死んだという説があるが、迷うことなく朝倉への進軍を決断したのは斉明天皇自身であり、そんな天皇がその決断時に病気がちだったとは到底考えられない。

 ・斉明天皇(中大兄皇子母)は、その以前、皇極天皇であった時代の、皇極天皇4年(645)、飛鳥板蓋宮において中大兄皇子と中臣鎌足らが蘇我入鹿を暗殺した事件(乙巳の変)を目の前で平然と観ていたほどの冷酷な女帝である。
 恐らく天皇は、この事件が起きることを事前に知っていたはずで、このような冷静沈着な行動がとれる女帝が、病身を押してまで、わざわざヤマトから九州まで出兵するなどの思慮を欠く行動をとるだろうか。また、その子の中大兄皇子がいかに冷酷な人であったとしても、病身の母に出兵を促すようなことはしないだろう。
 私は、このように考えているが、冷酷な中大兄皇子が、倭国の滅亡とその完全吸収を企図し、百済と交流のあった倭王筑紫君薩野馬を百済救援(白村江)に向かわせるためのいけにえ、或は人質として母斉明天皇を倭国朝倉に送ったという説もある。
 しかるに、何よりも朝倉で死んだのは、天皇だけでなく天皇に付き従った多くの衆がほぼ同時に死んでいるのだから、天皇病身説はいただけない。

 (6) 朝倉橘広庭宮の推定地と長安寺廃寺

 ・朝倉橘広庭宮の推定地
については、多々あるが、未だ確定されていない。
 「橘廣庭宮之蹟碑」が建っている朝闇神社(須川)の南の丘(花園山)だとする説もあるが、筑前國續風土記には「宮のあと、圃の中にあり」とあり、確定地ではない。
 地名から宮野地区(須川ももとは宮野地区内)とする説もあるが、一時山田地区が最も有力視され、複数の候補地で発掘調査がなされたけど発見に至っていない。現在、杷木志波説などもあるが、未だ確定していない。
 ただ私は、誰も言う人はいないが、桂の池跡がある入地地区も候補に入れてもよいのではないかと思っている(後述別記)。

 なお、朝闇神社の前にある「花園山猿沢の池」は橘広庭宮のなかにあった池で、また、この宮に隣接した一画に、古代九州倭国の仏教寺院長安寺(朝闇寺・朝鞍寺)」があったという説がある。

 ・九州倭国における百済仏教の導入は、飛鳥における飛鳥寺(元興寺/588)より遥かに古く(少なくても5世紀以前)、倭国の王宮・政庁(太宰府太保府太傳府の三官、ほか地方府)等のある地の近くには必ず仏教寺院が建てられた。
 因みに太宰府は観世音寺前身の旧観世音寺や、塔原廃寺、太保府は井上廃寺、太傳府は大分廃寺等がそれである。
 したがって逆に朝倉橘広庭宮が、長安寺廃寺の境内、若しくは隣接地宮野や山田にあったと推定することは妥当か。

 なお、須川長安寺地区に行くと「橘の広庭公園」(標示石碑あり)駐車場内(トイレ前)に「長安寺廃寺跡」の石碑はあるが、その遺跡らしきものはない。残念な気持ちで集落内を歩いていたとき、「毘沙門堂」(仏像3体あり)に行き当たり、ほっとしたことがあった。
 毘沙門堂の由緒は分からないが、筑前國續風土記拾遺に「朝闇寺古址:(須川)村の東長安寺と云地に在。廿五戸有 今毘沙門堂ある処也。朝鞍寺長安寺杯とも書けり。太宰府天満宮領古への目録に上座郡朝鞍寺領云々と見えたり。即此寺の事成へし。」とある。なお、朝闇寺=長安寺=朝鞍寺である。

 ただし、朝倉橘広庭宮は、斉明天皇の死とともに焼け落ちた後、多分、中大兄皇子によって破壊されたので、その遺構が消滅したとも考えられる。
 さらに天武治世(680.4)の勅宣により、およそ8世紀初頭に至る迄の間に倭国に係わる多くの寺院が廃寺にされたが、長安寺も廃寺され、跡地は徹底的に破壊されたので、その境内若しくは隣接地に残っていた橘広庭宮の跡地も合せて破壊されたとも考えられなくもない。

朝闇神社前・猿沢池・長安寺廃寺内に残る朝闇神社は、朝倉の地名の発祥の一説となっている。
 朝闇神社は、もとの社名は長安寺(朝闇寺)大行事社といい、江戸時代に朝倉社と呼ばれていた形跡もある。

 明治時代の社名変更時に、もとの社名を詰めて「朝闇神社」としたものではないかと思うので、正しくは、長安寺(朝闇寺)が朝倉の地名の由来の一説となるのだろう。

 それはともかく、朝闇神社は、倭国(九州王朝)の古代舞である「筑紫舞」のルソン足を描いた絵馬(天保4年<1833>奉納)があることでも知られている。

 江戸時代奉納の絵馬ではあるが、倭国と係わりのある地の古社に、失われた倭国の舞の絵馬があったことで話題になったことがある。多分、当地には延々とその古代倭国の筑紫舞が伝えられてきたことを物語っているのかもしれない。(後述別記)

 当社前にある「猿沢の池」の側に「筑紫舞の小道」という小公園が作られている。同公園には、この絵馬の一部分~ルソン足で舞う(飛ぶ)坊主頭の男ら(僧か修験者か傀儡か)~を模写した陶板レリーフが設置してある。その他の陶板の図柄は、筑紫舞とはまったく関係ない。

 ・長安寺の名は、倭国が当地に建立した仏教寺院に、中国(前漢、北周、隋など)の首都「長安」の名を付けたのが始まりだったのではないかと思う。
 長安寺(朝闇寺ともいう)は廃寺となったが、境内に設けた社祠に「朝闇神社」の名を残したということになるのか。
 「長(ちょう) 」は、「朝(ちょう/あさ)」となり、「安(あん)」は、「闇(あん/暗・くら)」=「倉(くら)」となるので、「長安(=朝闇)=朝倉(あさくら)」となったのだろう。

  長安寺の存在については、曖昧な記述ではあるが、日本書紀の「欽明紀二十三年条の「百済の計を用いて高麗を伐つ」の注に「鉄(かね)の屋(いえ)は長安寺にありこの寺、何(いずれ)の国にあるかを知らず」の文が、この名の寺があったことを書きとめている。

 「倭国ここに在り/吉留路樹」に、「紀」が、この年の八月、欽明帝が大伴連狭手彦を大将軍とした大軍を出し、高麗を伐ち、戦利品として持ち帰った一つ「鉄の屋は長安寺にあり」と書いていながら、「その寺がどこにあるのか判らないというのでは、あまりにも無責任だ。けれども紀の編集に携わった史官としては、これは筑紫の長安寺であるとは書けない。そこまで書くと、半島側に兵を出し、百済と組んで戦ったのが倭国であり、派遣された大伴連狭手彦も倭国の将軍であったことが分かってしまう。…実際に倭国と高句麗が戦ったのはそりより随分前のことだ。…長安寺は、旧倭国の要地朝倉にあった。」とある。
 まさに日本書紀は、随所で九州の倭国の歴史をヤマト日本国の歴史にすり替えて書いているので、そのまま読むと真実が見えてこなくなる。

 なお、朝闇神社は、もとは、麻氐良山(麻氐良布神社:麻氐良布=天照大神)や、彦山とも係わる大行事社(高皇産霊神/高木神社)であったが、これらの祭神の天照大神や高皇産霊神にしろ日本神話に登場する神々は、もとは九州の倭国の神々であり、日本神話は、ヤマトに盗まれた倭国の神話という説があるが、同意できる。

 (※本稿参考資料:「倭国ここにあり/吉留路樹」「大宰府は日本の首都だった/内倉武久」「よみがえる九州王朝幻の筑紫舞/古田武彦」)。

※つづく→「俀國王多利思北孤〜倭国(九州王朝)終末期の王府(3)朝倉市」。

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2017年07月25日

倭国(九州王朝)終末期の王府(1)〜九州北部豪雨地(朝倉市)

 7月5日九州北部豪雨による赤谷川(筑後川支流)の氾濫で土砂に埋まり破壊した県道52号線の通行ができず、その流域、杷木松末、星丸、林田間の様子が分からなかったが、2週間経った18日頃からやっとTVカメラが現地に入り、その被災状況の一部が映し出されるようになった。その映像により、土砂に埋まり、或は流出、破壊された家屋、そして一面を土砂や岩石、流木を覆っている惨状が分かり、もはや旧状を伺い知ることができない。
 この土石流に流されて、筑後川本流を下り有明海で発見された松末小学校(復旧不可・廃校決定)の門柱(木製)や人の遺体もあり、その凄しさが分かる。土石流に流された人たちの恐怖は計り知れず、想像しただけでも気が変になりそうだ。自衛隊などが懸命の捜索活動を続けていたが、この地区だけでもまだ発見されていない不明者が数名おられる。一日も早い発見と、尊い命を亡くされた方々のご冥福と被災地の復旧・復興を祈るのみである。

 (1) 上記「星丸」について、以前「野津手八幡宮∪唄欷典棧移転(朝倉市杷木林田)」のなかに次のように書いていた。

 「星丸には白村江の戦いの敗戦で消滅した終末期の倭国九州王朝の王府があったとの伝承があり、或は、焼失した縁記のなかにそれらに類するものがあったかもしれない。なお伝承では、星丸の古城(星古城)/星降城に王府があったという。その星丸にかつて鎮座していた「野津手八幡宮」は、その鎮座時期は分からないが、林田、穂坂、大山、星丸、松末、池田六か村の産土神・氏神であったことから推察すると、相当に古く、原初はこの六か村の人々が祀った王府の氏神であったかもしれないなどと考えた。ただし、これらを解くには、「隋書」を読み解く必要があると思う。」

 ・これに対して、豪雨災害が起きる少し前(6月下旬)に、事代主のブログ様から「星丸の倭の王府の伝承は、隨書の何処に書かれているでしょうか?」というコメントがきた。

 そこで、随書の「この国にあそ山あり」「にょいほうしゅあり」などの記事を掲げ、当該地区には阿蘇神社信仰が多く、宝珠山がある。星丸に新羅式と言われる垂直の石垣が現存し、多くの学者が研究のために訪れている。周辺にある黒川院(彦山座主遺跡)、神籠石、長安寺、朝倉橘広庭宮、斉明天皇中大兄皇子に係わる伝説等々からの推測などと曖昧な回答をし、改めて再考したいと返事した。そのすぐ後(7月5日)、これらの地区を豪雨・土石流が襲い茫然となった。

 現地には未だ近づけないが、上記に関することについて、これまで脳裏に残っていることを思い出して覚えとして書きとめておくことにする。

 (2)随書」とは、中国王朝正史(二十四史)の隋時代に係わる歴史書で、7世紀中頃に完成した。その「東夷伝」には、「俀國」(=以下「倭国」と記す)とその王多利思北孤について記した部分がある。この倭国は、ヤマト王権ではなく、当時九州北部にあった倭国(筑紫・九州王朝)のことだと思われる。

 ・5~7世紀前期頃の倭国の都(政庁・都府楼)は太宰府にあって、大陸の使官を歓待する海の玄関口にあった「鴻臚館」(福岡市平和台球場跡地)との間には、直線的な官道(朱雀大道)が通っていた。なお、白村江の戦い(663年)で衰退した九州の倭国を、ヤマト王権が管轄下に治めた後の太宰府はヤマト王権支配下の大宰府(太→大)に、鴻臚館は「筑紫館」に変わった。
 太宰府政庁は、書紀に天智天皇6年(667)「筑紫都督府」の名が出てくるが、唐任命の都督がいた形跡はないので、倭五王時代(五王のうち済と武が都督の位を有した)からあった倭国の「都督府」の名称に単に筑紫を付けたものであったと思う。政庁跡に建っている石碑には「都督府」とあるが、要は太宰府がヤマト王権の管轄下にする以前からここに倭国の政庁があったということ。したがって、現在に続く太宰府圏内の遺跡発掘調査で、そのすべてが7世紀後半以降の遺跡だとする年号比定はでたらめだと思う。(※別記「太宰府・筑紫都督府と西鉄操車場跡地遺跡(大分八幡宮追記2)」参照)

 (3) また、倭国の基盤の一つは、太宰府に通ずる朝倉地方にもあって、杷木神籠石を筑後川上流からの防衛ラインとして圏内に倭国王君の宮居・朝倉橘広庭宮・長安寺(朝闇寺)、星丸に星降城等を設けていたと思われる。

 ・608年(大業四年)、隨の煬帝の命で倭国に来訪し、随書に「この国に有阿蘇山」と表した斐世清も、当時の鴻臚館を訪れ、朝倉で倭国王と会い、倭国のシンボルが阿蘇山だと記したのかもしれない。
 倭国のシンボルが阿蘇山だと記したことは、倭国が九州にあったことを物語っていることになる。つまり、斐世清が訪れたのは、ヤマトではなく、多利思北孤の倭国であった。
 (※日本書紀「推古記」聖徳太子、小野妹子等に関する記述は盗作か)。

  「有阿蘇山 其石無故火起接天者俗以爲異因行禱祭」(阿蘇山あり、その石は故なくして火起こり、天に接するは俗以て異となし、因って祈祷を行う)。
  「如意宝珠有。大鶏卵の如く、夜は則ち光有。魚の眼精なりと云う」

 ・当時の倭国の支配地であった肥後の「阿蘇山」に行ったと見る向きもあるが、朝倉市杷木穂坂に聳える阿蘇山三嶽を見て、肥後の阿蘇山のことを聞いたのではないかと思っている。
 当地方では、ことのほか盛んな阿蘇信仰が今に残っており、今に泥打ち祭り祈祷を伝える阿蘇神社(下宮)(朝倉市杷木穂坂396)は、阿蘇山一ノ嶽にある阿蘇大明神の分霊を祭ったものである。
 当地は、筑後川沿いの杷木神籠石より上流沿いの丘陵上(杷木神籠石の外側)にあるので、多分日田側の朝倉防衛の第一関門であった可能性も考えられるが、ヤマト軍は下流側から進攻した。
 因みに、泥打ち祭には、ヤマトに敗れた九州倭国の人々の怨念が籠っているようにも思える。

 なお、日本書紀により661年7月24日(秋七月の甲午の朔丁巳)に朝倉橘広庭宮で崩御した斉明天皇(68歳)の御遺骸を一時的に移し御殯葬した場所という恵蘇八幡宮恵蘇も、もとは阿蘇だったのではないかという気もしている。この恵蘇の読みについて、地元の人たちは今も「よそ」と発音しており、この言葉にも「よそ者」のヤマトに蹂躙された倭国の人々の怨念が籠っているようにも思える。

 ・「如意宝珠」については、朝倉郡東峰村に宝珠山があり、同地の岩屋神社(岩屋不動)には、547年に飛来したと伝えられている宝珠石(星の玉/権現岩)が如意宝珠の御神体として残っている。
 岩屋は、彦山山岳修行において行者が、この宝珠石を祈る第3窟(玉置宿)修行場で、当然、この地には、彦山とつなぐ路が開けているが、上記星丸にも松末〜岩屋、及び松末〜小石原を経由して英彦山に向かう路が開けていた。
 なお、星丸の「星降城」の名は、岩屋の宝珠石(星の玉)が降って来た伝承を得て付けたものだったのだろうか。

 ・斐世清は、多分、多利思北孤がいた朝倉地方を訪れ、この阿蘇山や如意宝珠のことを知らされ、倭国事情として書き留めたのではなかったのかと思う。随書に「倭国の宮居が星丸に在った」と明記してある分けではないが、この明文と、終末期の倭国九州王朝の王府が星丸あったという地元伝承とを合わせて、そのように推測した。

 (4) また、今回、最も被害の大きかった松末(ますえ:星丸の上手の集落)の集落名にある「」は九州王朝(倭国)のシンボルであり、また倭国王(筑紫君)の末裔が強制的に変えられた「松の連」の「松」であり、星丸は旧松末村星丸であり、故に、松末の地名は、多利思北孤に続く筑紫君薩野馬がいた倭国(筑紫・九州王朝)の終末地を物語っているように思えてならない。

 次回以降、ヤマト(斉明天皇・中大兄皇子)による倭国・朝倉進攻と白村江の戦いによる倭国(九州王朝)消滅について推測する。(参考資料:倭国ここにあり/吉留路樹)。

※つづく→「斉明天皇討ち死に〜倭国(九州王朝)終末期の王府(2)朝倉市」。

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2017年07月17日

妊娠即退学 待った!

 この表題「妊娠即退学 待った! 」は、毎日新聞(7/15)の一記事の見出しである。
 ・昔から妊娠した高校生は中退するのが当たり前になっている…。
 ・妊娠した生徒が担任教諭に「高校を続けたい」と相談したら「他の生徒に悪影響が及ぶ。誰にも言わないから自主退学しなさい」と言われた…。
 ・内緒で中絶すれば(高校を)続けられ、産むと退学に追い込まれる…。

 この記事を読んでいて忘れていたことを思い出した。

 大学に勤務していた頃の入試合否判定会議でのことだが、合格点を取っている受験生のなかに産み月が近い女高生がいることが分かった。
 モラル的に問題ありとする意見もあったが、一教授の「合格させるべき」という主張が通った。それは、次のような主張だったと記憶している。

 ・高校側が妊娠していると分かっている生徒を受験生として送り込んだのだから、大学側にそれを拒否する権利はない。
 ・学則ほかにも入学を拒否する規定はなく、学生の出産が一概にモラルに反しているとはいえない。
 ・仮に入学後、すぐに出産したとして、学業と子育ての両立ができるのかの危惧については本人が決めることである。

 あれから何年経ったのか。
 上記の受験生については、何よりも、受験生のいる高校が自主退学などさせていなかったことが尊重された。
 過去の時代に、このような高校があったのだと思い、改めてこの記事を読み直したが、その内容は、時代と逆行しているのだろうか。難しい。
 高校生の妊娠を推奨しようなどとは決して思わないが、出来てしまったものは否定できない。

 一般社団法人インクルージョンネットの鈴木代表理事の「生まれてくる子のために高校を卒業しよう、と思わせる支援が必要…」という主張には賛同できるが、モラル的にも、周りに与える影響を考えると分からなくなる…。

 少子化のなか、国の将来を担う子供は貴重、子育てする親の教育レベルのアップも大事、教育を受ける権利は基本的人権、退学させたら国にとっても損失、妊娠した高校生を守るための教育現場の環境整備が必要。
 本人の意思を大切にしてあげたい時代になっている…。時代…、こういう問題を避けて通れないような時代、真剣に取り組むべき時代になっているのかもしれない。

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2017年07月16日

九州北部豪雨雑感

 前回「憂鬱雑記(朝倉地方豪雨災害)」からつづく。

 ・10日昼、朝倉市杷木古賀の溜池が決壊しそうだとして、周辺世帯に出された避難指示が、夕方解除されたと聞いたときはほっとしていたが、実際は、それでもって周辺の被害が免れたことではなかった。
 桜のシーズン、溜池に隣接する九州道の橋げたの下に駐車して、夕月神社の桜並木を見学したことがあったが、土石流は、ここに行く道も塞ぎ、特に溜池より山側にある家屋や果樹園、農地をほぼ全滅させた。今回の被災で、全滅した集落も多い。

 ・被災した朝倉市、東峰村の一部の惨状を目にしたが、その惨状はTVなどの報道で目にする以上だった。
 避難した人たちが、筑後川本流の水位にばかり気にとられ、まさか後方の山が崩れ、生木や岩石を一緒に運ぶ濁流(土石流)が、支流や谷あいの道路に溢れて、住宅、田畑、果樹園、人を押し流すとは思っていなかったと口にされていた。

 ・ここに限らず全国の山には、林業衰退により手入れされず荒れたままになっている樹林も多いというが、歴代の国交大臣はどのような施策を施してきたのだろうか。
 今回の九州北部豪雨被害に対して激震災害の発議すらしない国交大臣の現地訪問は、単なる帳面消しだったのかもしれない。官房長官や総理が激甚災害を口にしても国交大臣が動かないという噂を聞いた。
 善意のボランティアが続々と現地入りし、民間支援金募金活動等が始まっているなかで党利党略は不要である。
 このまま行政の援助なしで、土地建物、生産活動の復旧が難しい人たちが多いことまで気が及ばないのだろう。日本には、国民の窮状が分かる政治家はあまりいないのだろう。

 ・以前、黒川高木神社を訪れたとき、黒川地区には、正慶2年(1333)彦山座主として下向した後伏見天皇第六皇子長助(助有)法親王から元和9年(1623)まで続いた黒川院((黒川御所)があったことを知り、当地における彦山・大行事信仰に興味を覚え、その後、度々山深いこの地区の各所を訪れていたが、黒川地区内には崩壊、孤立した集落が多々あり、死亡者まで出たので何とも痛ましい。

 第2子出産のために黒川の実家に帰っていた妊婦さんが連れてきた1歳の幼児や実家の母親と共に土石流の犠牲になり、残された父は自殺をしようとしたと聞いた。事情は違っても、このままでは、今後の生活の目途がたたず途方に暮れている人たちのなかから、本当に自殺者が出るのではないかとも懸念する。

 ・避難所に避難できた人たちも、猛暑のなか、冷房設備のないなかでの生活は地獄、そのなかには、病を抱えている人たちや、避難所で病を発症する人たちもおり、避難者同士の各種トラブルも発生している。もし自分が当事者だったら、どうなるのだろうという思いが脳裏を走る。

 ・昼頃、避難所で取材していたB紙記者が黒川地区に行くと言って出かけたが、車道が寸断されていたからと言ってすぐに戻って来た。その後出かけたA紙記者は、車を置いてその道を歩いて現地に赴き、惨状を自分の目で確かめ、夕方、泥にまみれて戻って来た。報道とは、記者の取材姿勢や主観によってどのようにも編集されるのだと改めて思う。

 ・道と云えば、以前、朝倉、日田、彦山方面の各所を折に触れ回っていたので、割と細い里道も知っている方だが、それらの道も寸断、崩壊し、周りの地形も変わっているかもしれない。再びそれらの道を通る日がくるのだろうか…言いようのない焦燥感が漂う。

 ・因みに最近、黒川の某地で祭神した家があるが、同家の裏山が壊れその景色が一変してしまったものの、幸いなことに母屋と納屋の間を土砂が通り抜け被害が最小限にとどまった。現在、同家は、被災した2世帯を受け入れ、何とか水源は確保できたようで、水が溜まるまで時間はかかるが生活できているという。
 また最近、戦後、放置されたままになっていた石祠と山間の社祠・地蔵の祭祀を頼まれて、その供養法を伝えた某集落では、災害が比較的少なかったので、御蔭をいただいたと感謝された。
 国道を車で杷木に向かっていた知人が、豪雨のなか、前を走っていた車に引き寄せられるように右折し、筑後川架橋を渡った直後、国道に土石流が流れ込み死者も出た。間一髪命拾いしたと言っていた。
 運、不運は紙一重と云うが、世の中には理屈で解決できないようなことも多々ある。

 ・体力と時間的余裕のある若い人たちがボランティアに参加すること、また、多くの人たちが被災地に支援金を送ることは、神仏に捧げるお布施である。ただただ今は一日も早い復旧、そしてご一統の健康安全を祈るのみである。合掌。

 (追記)8月8日、政府は、九州北部豪雨被災地の福岡県朝倉市、東峰村、添田町、大分県日田市を自治体単位の局地的激甚災害に指定することを閣議決定した。

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2017年07月09日

憂鬱雑記(朝倉地方豪雨災害)

 本日、神の島・沖ノ島と関連遺産のユネスコ世界遺産登録が決まった。
 世界遺産登録で、今後はいつでも上陸できるようになるのか。無許可上陸、女人禁制、古代からの掟は守れるのか。観光船、遊船が周航すると、近辺の漁場が荒れないのか。かつての辺津宮下高宮は霊地だったが、今はパワースポットとして行列を作って観光する場所となり、完全に俗化した。新原奴山古墳群のうち、現国道開通時に失われた古墳の復元はなされるのか。22号墳上の旧縫殿神社の、参道を含む復元整備はされるのか。観光客の増加は一時のことでこれから永年に亘る遺産の現状維持管理費の捻出は大丈夫なのか。

 世界遺産登録はめでたいことではあるが、福岡県下で記録的豪雨災害が発生し多くの死者が出ているこのタイミングでは、とてもお祝いムードにはなれない。
 4日、台風3号が去りホッとした途端、福岡県下では特に筑後川水系流域の朝倉市・東峰村や彦山川水系流域の添田町を中心に、その落とし子ともいうべき線状降水帯が発生し、経験のない豪雨が降り続き、甚大な災害(洪水、流木、橋脚滅失、土砂崩れ、道路陥没、交通遮断、家屋倒壊、浸水、断水、果樹園・農耕地壊滅、死亡、行方不明、重軽傷者、孤立者等々)が、現在も続いている。

 現在、懸命に救援活動が行われているが、災害発生当初、その陣頭指揮を執るべき福岡県知事は、同上世界遺産化のためにポーランドに行って不在だった。県民の生命にかかわる事故が起きているときに知事がいないのかと思うと、かなりいらだった。台風直撃の予報が出ているときに万が一の災害発生を予見し、出発を取りやめるくらいの臨機応変もあってほしい。ただ世界遺産登録審査では知事の急遽帰国が効を奏したらしい。

 自衛隊の救援を依頼するも、防衛大臣は不在、総理も海外なので官房長官がその発動を指示したのか。憲法に「国家国民を守るために自衛隊を置く」というくらい条文は必要かとは思っていたけど、緊急時に即座に自衛隊を統括する防衛大臣の指示が得られないのだったら必要ない。
 そんななか消防庁の全地形対応型消防車(レットサラマンダー)が岡崎市から災害地(大分県日田市)に出動し、その他の地区からも救援隊が入るという有り難いニュースもあった。
 
 JR九州は、豪華列車七ツ星を造り、人員削減など経費削減したが、中古鉄橋があっさり橋桁ごと濁流に呑まれた。これじゃ豪華列車も走れない。
 災害(土砂崩れ、洪水、道路など)を受けた個所は、何年も前から危険性が指摘されていたところばかりで、国土交通省以下の行政が見て見ぬふりをしてきた結果なのだろうか。聞くところによると、オリンピックに資材や職人もとられ、入札に参加できる請負会社がいないからだとともいう。
 TVで被害報道を見ながら、そんなことをいろいろ考えていたら憂鬱になってきた。

 被災地は、先祖の故地であり、修行の場でもあった。
 近々、朝倉市黒川地区の人と東峰村岩屋地区に入る予定であったが、両地とも被災、近づくこともできず、何もできない無力感のただなかにいる。
 7日、大峯山蓮華奉献に合せて行っていた供養会を豪雨のため中止し、今回は一人で、死者の冥福、そして救援、復旧が迅速に進むことを祈った。かなり感情的になってしまったが、ご容赦。念仏・合掌。

※つづく→「九州北部豪雨雑感」。

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2017年07月01日

横馬場の地蔵菩薩彫像板碑 (高良山麓巡り42)

※前回「高良内町の十一面観音堂 (高良山麓巡り41)」。

 前回の高良内町十一面観音堂に向かって左(東方向)に里道を約120m (※徳間の清水入口から約70m)進むと左側に「有形民俗文化財 横馬場の地蔵菩薩彫像板碑」と書いた案内板が建っている。(久留米市高良内町418)

1横馬場地蔵石段 まず、案内板の右横にある幅の狭いセメントの石段を上る。

 その上方にある民家の右手前に同家の駐車場があり、その右側にある石段(※画像)を上ると、五つの大小堂宇が建つ延命地蔵堂境内敷地の右端(崖上)に出る。



3横馬場地蔵 「有形民俗文化財 横馬場の地蔵菩薩彫像板碑」は、この左側の右奥の小堂のなかに、床のコンクリートに土台を埋め込み固定するような形で安置されている。
(※画像)

 所在地:久留米市高良内町字上ノ山392-2。


 ・上記案内板には次のように記されている。
 「久留米市高良内町三九二の二 昭和五三年六月二四日市指定
 高良内町で古くから知られた地蔵である。高さ約一メートル、幅六〇センチメートル、厚さ二五センチメートルの自然石(安山岩)に頭光・身光を彫りくぼめ、連座に立つ地蔵を半肉彫りで表わしている。
 両足を開いて立ち、左手に宝珠を持ち、右手は垂下して与願印を結ぶ。面立ちは広い額に白毫を穿ち、眉は円弧を描き、半眼に開いた目尻は長い。鼻は幅広く、唇はめくれがちで、庶民的な身近さを感じさせる。
 向かって右側に「奉造立地蔵菩薩読誦結衆敬白」、左に「応永十一年(1404)甲申十一月十五日」と刻まれる。彫法などから市指定文化財である山川町岩井荒木町白口の地蔵菩薩彫像板碑と同一の工人の手によると推測されている。久留米市教育委員会」。

2横馬場地蔵 「両足を開いて立ち、左手に宝珠を持ち、右手は垂下して与願印を結ぶ」とあるので、何度も目を近づけてみたが、風化が進んでいるのか、それとも私の視力が悪いのか、私の見た目では、そのいずれも確認できなかった。

 「面立ちは、広い額に白毫(びゃっこう)を穿ち、眉は円弧を描き、半眼に開いた目尻は長い。鼻は幅広く、唇はめくれがち」の部分は、風化によりそれらのくぼみがかなり平面的になりつつあるようにも思えるが、それなりに確認できる。



 ・因みに、所持している昭和57年(1982)3月31日発行「郷土の文化財」(久留米市教育委員会発行)に掲載されている写真と比べると、全体的に刻線が不鮮明になってきている観がある。
 その写真には、上記されていない衣の線刻までもが顕わに見えているのに、今は見えにくいので、35年の間に風化が進んでいるのだ。

 ・そんなことを考えていると、壁に掲げてある「有民第四号 久留米市文化財指定書 (横馬場の地蔵菩薩彫像板碑壱基)昭和53年(1978)6月24日」までが虚しく思えた。指定から既に39年、対策を検討すべき時期に来ているのではないかと懸念する。

 ・壁に貼ってある説明書に、上記同様の案内文のほかに「この板碑は現在地の西北宗崎への道路沿の北側池田のほとりにあったものを今から七、八十年前に移されたと言われている」との記述があるので、今からだと約110〜120年前、大学稲荷の下方の里道沿いにある池の辺から現在地(延命地蔵堂境内)に移設されたことになる。

 ・なお、既述した「岩井の応永地蔵菩薩彫像板碑」も、横馬場地蔵菩薩彫像板碑と同年の「応永十一年甲申」(1404)の刻があり、日付は「二月三日」だが、この二つの板碑は同一の工人の手によると推測されており、その関連性が伺える。(注)案内板の山川町岩井(50-1)は現久留米市御井町619。
 久留米市荒木町白口1167の地蔵菩薩彫像板碑にも応永十一年(1404)の銘がある。 
 上記「郷土の文化財」には、応永(應永)年間の地蔵菩薩彫像板碑として、このほか七木(ななき)地蔵板碑(長門石町本村)、日輪寺地蔵菩薩彫像板碑(京町279)、医王寺地蔵菩薩彫像板碑(寺町35)、称名院地蔵菩薩彫像板碑(大善寺町藤吉719-2)、中島無銘(大善寺)など市内数カ所に散見と掲げている。

4横馬場延命地蔵堂 ・延命地蔵堂は、上記石段を上ってすぐ左にある大きなお堂で、その左手前にある横馬場延命地蔵堂建設記念碑に、「昭和56年3月11日火災のため新築 昭和56年7月23日 第一町内会一同」とあり、堂内に同年の寄附者・世話人名簿板(平成元年7月追加寄付名簿あり)が打ち付けてある。


 名簿には古賀姓の人たちが多いが、物部氏系譜かと思われる弓削姓、広瀬姓などもある。
 また、境内には不動明王堂(三井四国霊場札所の一か)や十五仏堂ほかもあるが、詳細は調べていない。

 ・ここから細い里道沿いに続く高良内天満宮・赤星神社、高良内八幡宮、富松神社などについての訪問記は別の機会にしたい。
 ・大学稲荷裏参道の先にある「印鑰神社」については、次回掲載する。

 ※つづく→「印鑰神社(久留米市御井町宗崎) 高良山麓巡り43」。 

keitokuchin at 18:03|PermalinkComments(2)