2017年08月

2017年08月30日

中大兄皇子×筑紫君薩野馬〜倭国(九州王朝)終末期の王府(10)朝倉市

 前回「恵蘇・朝倉の関・木の丸殿後蹟〜倭国(九州王朝)終末期の王府(9)」から続く。

 (12) 倭国王筑紫君薩野馬、中大兄皇子に屈服

 a. 御陵山東方で戦闘か

 中大兄皇子の対倭国との戦闘があったという明確な記録があるわけではないので、本稿の大部分は、地元伝承等を取り交ぜた私の推測である。

 ・前項で、中大兄皇子は、斉明天皇が崩御した7年(661) 7月20日の直後、恵蘇に進駐し(地元では今に「よそ者」(ヤマトの中大兄皇子)が進駐した地として「よそ」という)、朝倉関を抑え、いち早く御陵山の東麓に丸木の柵や小屋(指令本部)を設け、星丸の星降城(星古城)に居た筑紫君薩野馬(薩夜麻とも書く)の親衛隊(倭国軍の一部)との戦いに備えたと書いた。

 なお、「恵蘇」について、地元では「よそ者」(ヤマトの中大兄皇子)に進駐された地として今に「よそ」と言っている。
 また、御陵山(恵蘇八幡宮境内)一帯を「木丸殿」(このまるでん)というのは、中大兄皇子が、ここに戦闘防御壁ともいうべき丸木の柵や小屋(ログハウス的なもの)を建てたからではないかと思っている。それが後に故斉明天皇殯宮・木の丸殿後蹟と呼ばれるようになったのかもしれない。

 ・中大兄皇子と倭国王府軍(倭国の全軍ではなく、少数の筑紫君薩野馬の側近軍)との戦いは、中大兄皇子が朝倉に入ってすぐに起こり、当地がその主戦場となったが、倭国軍は、倭王多利思北孤の墓所がある御陵山に築かれたこの木柵を破ることができず敗北した。
 御陵山の東方で、当時のものと思われる鏃(矢尻)ほかの武具が大量に出土した。

 b. 中大兄皇子の要求

 ・直ちに戦後協議に入り、筑紫君薩野馬は、中大兄皇子の要求を飲み、倭国滅亡への道筋を突き進むことになる。
 中大兄皇子の要求は、ただ一つ、唐、新羅の連合軍に攻められて滅亡寸前にあった百済を救援するために、筑紫君薩野馬を総大将とする倭国軍の救援隊を白村江に派遣することだった。

 ・当時のヤマト(中大兄皇子)は、むしろ新羅と親交があったはずで、百済を救援する理由などまったくなかったはずなのに、百済救援を企図した背景には、ひとえに百済と親交のあった筑紫君薩野馬をその前線に送り出せば、強大な唐軍の力を借りて倭国を一気に滅亡に導くことができると踏んでいたからだった。

 ・中大兄皇子は遣唐使などを通じて唐の国力を熟知していたので、自らが戦う意思など毛頭なく、親交があった新羅と相謀り、事前に新羅、唐と内通し、白村江に唐軍が到着し、彼らの戦闘態勢が整ったこと確認し、待ち構えている唐軍のなかに倭国軍を突っ込ませたと考えられる。
 まさに、権力志向の強い中大兄皇子の冷酷非情さが顕著に伺える事例だと思う。

 c. 倭国と唐、百済、新羅親交

 ・倭国と百済の親交は、倭王多利思北孤の百済仏教系の寺院の建立などでも伺える。

 ・倭国は、唐、新羅とも親交関係はあったと考えられ、意に沿わない要求ではあったが、先に斉明天皇を死に到らせた代償は大きく、百済救援という大義名分のもとに唐、新羅連合軍との闘いに赴くという中大兄皇子の要求に従わざるを得なかった。

 ・唐とは、…倭国は、隋書の大業4年(608)「此の後遂に絶つ」で、倭国(俀国)とズ隋との交易が立たれたことが分かるが、旧唐書は、隋滅亡後の唐倭国の交易は貞観23年(648)年まで続いたとあり、倭国も唐の国力、唐の脅威を認識していたので、自ら進んで唐と戦うような意思はなかったはずである。
 
 ・新羅とは、倭国領の任那を新羅に奪われたとはいえ、磐井以来、新羅との親交は続いていたとも考えられ、星丸には新羅式と言われる垂直の石垣(※九州北部豪雨の後、訪れていないのでその残存有無は未確認)などが作られたことでも伺える。

 ・また、神籠石は、663年8月の白村江の戦い以後、天智天皇(中大兄皇子)が、唐・新羅連合軍の侵攻に備えて百済からの帰化人の指導によって築いた朝鮮式山城だとするのが通説となっているが、記紀に記載なく、事実は、隋〜唐の高句麗攻撃が我が国に及ぶ不安を覚えた倭国(九州王朝)が、時間をかけて築いた朝鮮式山城で、新羅式だという説もある。

 ・なお、朝倉では、杷木に神籠石が設けられたが、豊前・豊後方面からの敵の侵入を想定して築いたものだったのだろうか。因みに、同方面から朝倉橘広庭宮〜太宰府への進入防止地点は、阿蘇神社下宮丘陵、杷木神籠石、志波(宝満宮がある辺り)、御陵山・朝倉の関だったとも考えられるが、斉明天皇や中大兄皇子らの軍が逆方向の博多から難なく太宰府(倭国が築いた水城、大野城、基肄城もあったが)を通り朝倉に入ったとなると、その防御点は何の役にも立たなかったことになる。

 d. 朝倉は百済救援軍の大本営ではない

 ・中大兄皇子は、母斉明天皇を百済救援軍に筑紫君薩野馬に参加させるための交渉役として朝倉に向かわせた時点で、母の生命に危険が及ぶことは充分に予測していたはずで、その予測が的中し、いわば母を倭国への生贄に差し出すことで、その後の交渉を有利に運ぶ道筋を作っていたと考えられる。

 筑紫君薩野馬は、このように冷静沈着、冷酷非情冷酷非情な中大兄皇子の策略に乗せられ、なかば命令的に倭国から百済救援軍を出すことを承知させられ、その後の倭国滅亡への道を突き進むことになった。

 ・なお、倭王多利思北孤が眠る御陵山の墓地(古墳)で、本当に斉明天皇の御殯葬が行われたのであれば、倭王にとっては屈辱に耐えなかったのでないかと思われ、それが「朝倉の山の上に鬼が現れ…葬儀の模様を伺い見ていた」(日本書紀)という怨念的な記述につながるのではないかと伺える。
 しかるに、やがて倭国の滅亡により、この倭王の古墳は、斉明天皇(仮)陵墓に変わり、今日に至っている(※御陵山古墳上に「斉明帝藁葬地」の石碑あり)。
 (※御陵山古墳は、一般的には2つの小円墳=恵蘇八幡宮1・2号墳とされているが、地元では1つの前方後円墳で倭王墓だと伝えている)。

 ・日本書紀には、斉明天皇7年(661)年8月1日に斉明天皇の遺体を娜大津の磐瀬宮に移したととあるが、恵蘇八幡宮フレームには、8月1日~12日に当地で中大兄皇子による御殯葬が行われたとあり、その真偽はともかくとして、いずれにしろ8月1日には、既に筑紫君薩野馬は、中大兄皇子の前に屈服していたことになるのだろう。

 ・娜大津・磐瀬行宮は海に近く、唐・新羅軍が攻めて来たとき危険なので、大本営を海から遠い朝倉橘広庭宮に設けたという説があるが、近代の戦争でない限り、大本営が戦いの最前線の近くになかったら戦争はできない。

 ・中大兄皇子が朝倉に駐留した期間は、朝倉橘広庭宮で母斉明天皇が崩御した斉明天皇7年(661)年7月20日から数えても、僅か10日〜1か月足らず、また、その母子が駐留した期間は、斉明天皇が朝倉橘広庭宮に遷宮した5月9日から数えても、僅か3か月ほどのことで、その後、中大兄皇子が朝倉を訪れた形跡はなく、朝倉は、あくまで倭国・筑紫君薩野馬を百済救援に向かわせるための交渉基地であったに過ぎない。

 e. 筑紫君とは倭国王のこと

 ・日本書紀は、筑紫君を火君、宗像君、水沼君などと同じような次元でとらえているが、筑紫君薩野馬の「筑紫君」は、後から付けられた称号のような気もし、実際は「倭国王(倭王)」であった。

 ・筑紫君の名を取って「筑紫王朝」という人たちも多いが、「筑紫王朝」というと単に筑前・筑後国にあった王朝と捉えられそうになる。もともとの「筑紫」は「九州全土」を指す言葉、即ち「筑紫=九州」であり、「筑紫王朝」で問題はないが、どちらかというと古田武彦が称えた「九州王朝」の名称の方が分かりやすい。

 この「九州王朝」が、本来の「倭国」であり、「筑紫君薩野馬」は、その「最後の倭国王」なので、その意味では、もとは「倭王薩野馬」と呼ばれていたのではないかとも思う。

 なお、「倭王・筑紫君薩野馬」の名は、白村江の戦いの総大将であったと考えられるが、日本書紀にその名が出てくるのは、ただ一か所、捕虜となっていた唐から解放されて帰国するときのみで、日本の歴史からはほぼ抹消されている。

 ・因みに宗像君は倭国に属していたと考えられるので、沖ノ島で4~7世紀に行われた国家祭祀は、ヤマトではなく倭国のものであり、倭国の滅亡とともに途絶えたのである。4世紀にヤマト国があったのかも疑わしい。
 因みに、旧唐書にヤマト(日本)が出てくるのは、663年の白村江の戦いより後の長安3年(703)年粟田真人の遣唐使入朝であり、言い換えればその年にヤマトは、唐に認められる「国家」になったことになる。

 (※参考資料:倭国ここにあり/吉留路樹)

※つづく→「斉明天皇御陵・木丸殿舊蹟〜倭国(九州王朝)終末期の王府(11)朝倉市

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2017年08月29日

恵蘇・朝倉の関・木の丸殿後蹟〜倭国(九州王朝)終末期の王府(9)朝倉市

 前回「娜大津・磐瀬行宮は何処〜倭国(九州王朝)終末期の王府(8)」からつづく。

 (12) 中大兄皇子、恵蘇に進駐

 a. 朝倉の関

 前回、斉明天皇7年(661)年7月20日母斉明天皇が朝倉橘広庭宮で崩御の報を受けて、娜大津の磐瀬行宮(名目:百済救援軍前線基地=大本営)に駐留していた中大兄皇子は、急遽ヤマト精鋭軍を引き連れて朝倉に向かったと書いた。

 斉明天皇の死は、「斉明天皇討ち死に〜倭国(九州王朝)終末期の王府(2)朝倉市」に前述したように、一般的に述べられているような高齢病死というようなことではなく、突然蜂起した一部の倭国(筑紫君薩野馬を盟主と仰ぐ九州王朝)軍との戦闘による戦死だったと考えている。

 この戦いは、同年5月9日斉明天皇軍が占拠した倭国王府朝倉橘広庭宮の奪還(だっかん)を図って、倭国軍の一部か蜂起したものとも考えられるが、「宮中に鬼火が見(あらわれ)る」とあるので、橘広庭宮は戦闘の最中に燃え尽きたのだろう。

 斉明天皇は、この宮居の東の守りとして山田地区の恵蘇の宿に「朝倉の関」を設けたといい、今に恵蘇八幡宮の参道の東側(右方)に、その守りをした「関守の墓」と言われる数基の石塔(銘のない自然石)が残っているが、ということは、その東に、橘広庭宮を守らねばならない敵がいたとうことになる。

 「朝倉の関」の場所の特定はできないが、現在、恵蘇八幡宮鳥居前の国道沿い(対面民家の前)に「史蹟 朝倉の関跡」の石碑が建っている。

 当地は、麻底良山の南西陵が筑後川に落ち込む位置にあり、筑後川右岸に沿った街道を抑えるには絶好の地であった。
 この東側は、主として山間部の集落の多い杷木地区だが、西側には、肥沃な朝倉平野が広がっており、東側から、橘広庭宮があったとされる西側に侵入する敵がいたら、絶対に守らなければならない最後の砦とでもいえるところでもあった。

 赤谷川上流地域の星丸(旧松末村星丸)に倭国終末期の王府となった星降(星古)城があったという地元伝承があるが、この地区は、まさに「朝倉の関」の東方になる。
 つまり、もし斉明天皇がここに「朝倉の関」を設けたのであれば、その東にいた敵、倭国王府軍に対する備えとして設けたことになる。

 であれば、倭国王府軍が斉明天皇遷宮居・朝倉橘広庭宮に攻め入ったとき、最初に「朝倉の関」を突き破ったと考えられるので、関守らはその最初の犠牲者になったことだろう。

 b. 中大兄皇子の恵蘇・木丸殿後蹟進駐

 朝倉に進軍した中大兄皇子は、それほどに重要な地を見逃すはずもなく、まず恵蘇地区に進出、当地に進駐し、合せて「朝倉の関」を抑え、後に恵蘇八幡宮が建立された御陵山の東面に、「丸木で作った防御柵」を並び立て、東方の備えとしたのではないかと思っている。

 地元の人たちは、「恵蘇」を「えそ」と呼ばず、「よそ」と呼んでいるが、それは、このとき、当地が「よそ者」(他国から来た者)のヤマト軍に抑えられ、進駐された地だったからで、怨念を込めてそう呼ばれていたからだろう。

 前に、608年(大業四年)、隨の煬帝の命で多利思北孤の倭国に来訪した斐世清が、随書に「この国に阿蘇山あり」と書き残したように、この地方には阿蘇山信仰があったので、恵蘇も元は阿蘇だったかもしれない、と書いたが、この地に「よそ者」が侵入し、阿蘇が「よそ」になり、のちに「恵蘇」の字に書き改めたが、呼び名はそのまま残ったのかもしれない。

 また、恵蘇八幡宮の参道に「朝倉木丸殿旧蹟」の石碑が建っているが、それは、中大兄皇子(後の天智天皇)が、急ぎ御陵山古墳を「斉明天皇藁葬(こうそう)地=御殯斂(ひんれん)地」とし、その下方に、木皮の付いた丸木で作った粗末な殯(もがり)宮を建て喪に服した地だからとされている。

 だが、こんな危険な前線地に建てたあばら屋の殯宮で、中大兄皇子が何もせずに黙って喪に服したとは考えにくく、もしそれが事実だったとしても、その小屋は、丸木の防御柵で守られた監視兼防御棟だったのではないかと思っている。
 なお、恵蘇八幡宮フレームには、木の丸殿(後蹟)で喪に服した期間は、8月1~12日としているが、日本書紀には、八月朔日(1日)皇太子は天皇の喪に従って磐瀬宮に到ったあり、ずれがある。

 また、その間、倭国軍が何もせずに黙って見過ごしていたとも考えにくく、その東方個所で古代の鏃(矢尻)などの武器が大量に発掘されているので、ここで戦いがあったことは確かだろう。

 なお、本来、朝倉木丸殿(このまるでん)とは、斉明天皇が遷宮した朝倉橘広庭宮のことをさすので、木の丸殿が二つあってはややこしくなるので、中大兄皇子が建てた殯宮を「木の丸殿後蹟」という言い方もあるらしい。

 ※つづく→「中大兄皇子×筑紫君薩野馬〜倭国(九州王朝)終末期の王府(10)朝倉市」。

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2017年08月24日

娜大津・磐瀬行宮は何処〜倭国(九州王朝)終末期の王府(8)朝倉市

 前回「綾鼓・桂の池跡(その2)〜倭国(九州王朝)終末期の王府(7)」から続く。
 本稿シリーズは、史料、史跡等に、かなり私の想像(仮説)を加えて書いていることを改めて断っておく。

 (11) 娜大津・磐瀬行宮・長津

 a. 中大兄皇子、娜大津の磐瀬行宮から朝倉へ発進

 斉明天皇7年(661)年7月20日に朝倉橘広庭で母斉明天皇が崩御したとの報を、娜大津の磐瀬行宮(下記)で聞いた中大兄皇子は、磐瀬行宮に駐留していたヤマト精鋭軍を引き連れて、急ぎ朝倉に向かった。

 このときの中大兄皇子の心情は、母斉明天皇の死を悼むとともに、母を死に追いやった九州倭国の王・筑紫君薩野馬にその責任を取らせ、筑紫君薩野馬とともに倭国軍を百済救援(白村江)に向かわせる口実ができたとほくそ笑んでいたことだろう。
 これが叶えば、倭国を滅亡に導くことができ、合せてヤマトの九州完全制覇・全国統一が実現できることでもあったからだ。

 もともと中大兄皇子は権力志向が強く中臣鎌足(藤原鎌足)と相謀り、皇極天皇4年(645)飛鳥大極殿で皇極天皇(後の斉明天皇)に謁見中の蘇我入鹿を誅殺した乙巳の変(いっしのへん、おっしのへん)の実行犯であり、権力掌握のためにはどんな謀もいとわない人物であった。

 b. 娜大津の磐瀬行宮の所在地は?

 「娜大津磐瀬行宮」の所在地は、日本書紀の宣化天皇の詔勅文のなかにある「修造官家、那津之口」のことかと考え、つまり、官家=磐瀬行宮娜大津=那津(那の津)と考え、福岡市中央区那の津(博多港)辺りにあったと思っていた。

 斉明天皇6年(660)年3月に「御船還りて娜大津に到る。磐瀬行宮に居ます。天皇此れを改めて名をば長津と曰ふ」とあるので、娜大津に磐瀬行宮があったのだろうと思っていたが、これを「娜大津に到着後、磐瀬行宮に入る」と読むと、磐瀬行宮は、娜大津とは別の場所にあったことになる。

 だが、斉明天皇が、磐瀬行宮を百済救援軍の「前線基地」とし、暫しここに留まった後、その指揮を中大兄皇子に託し朝倉に向かったことになると、百済救援に出航する水軍の前線基地である以上、磐瀬行宮は港からほど遠くない場所にあったはずである。

 一般的には、娜大津は那津・那の津(博多港)と見られて、磐瀬行宮は、上記「官家」のことで、「官家」を「みやけ」と呼んで、福岡市南区三宅に比定されていたが、現在は同博多区博多駅南4丁目の比恵遺跡(周辺に官田、三宅田などの小字あり)が有力視されている。

 中大兄皇子は、斉明天皇7年(661)年7月20日朝倉橘広庭で崩御した母斉明天皇の遺体を朝倉御陵山で御殯葬した後、8月1日「磐瀬宮」に移動し、「冬十月癸亥の朔己巳(661年10月7日)に天皇の喪帰りて海に就く」(日本書紀)とあるので、この磐瀬行宮が比恵にあったのであれば、斉明天皇の遺体は、同所に約2か月ほど留まったことになるが。
 (なお、恵蘇八幡宮フレームは、8月1日〜12日の間、朝倉喪嬪宮で喪に服したとあるので、磐瀬宮への遺体の移動日はそれ以後となり、日本書紀とはずれがある)。

 娜大津、磐瀬行宮、長津等の場所は、未だ確定されておらず、各所の説が入り乱れ混沌としている。
 例えば、上記三宅、比恵のほかには、次の4個所が代表例としてある。
 那珂川町梶原の龍頭遺跡群(柱穴群)〜皇極・斉明天皇、天武天皇、持統天皇の行宮・長津宮の所在地伝承があるが、同遺跡群は現存していない。那珂川町安徳台、裂田神社説あり。
 ∧_市南区長丘・中央区小笹の鴻巣山(標高100m)の東陵(宮の尾)に鎮座している高宮八幡宮〜中大兄皇子「磐瀬行宮」滞在中に神功皇后を祭祀したとの縁起あり、大楠3丁目<高宮駅東>に磐瀬の名を付けた磐瀬公園あり。
 中間市磐瀬〜斉明天皇行宮の御館山伝承遺跡がある。
 四国中央市の村山神社〜「御船還至于娜大津。居于磐瀬行宮(日本書紀)」を根拠とし、斉明天皇が伊予熟田津の石湯(道後温泉)から東へ船を還し滞在したとの縁起あり。等々。

 c. 磐瀬行宮は鹿部田渕遺跡か(私説)

 私は、「磐瀬行宮」は、古賀市(旧糟屋郡古賀町)美明1-4-11ほかにまたがる「鹿部(ししぶ)田渕遺跡」(みあけ史跡公園)ではないかと考えたことがある。(※画像)

鹿部田渕遺跡 平成11年(1999)、鹿部田渕遺跡(6世紀中期〜7世紀初頭と見られる大型建物群)が発見されたとき、継体天皇22年(528)11月磐井戦争(磐井の乱)で敗れた磐井の息子葛子が献上した「糟屋の屯倉」の跡ではないかと騒がれた。




 私は、ここが「糟屋の屯倉」の跡だとは思っていないが、それはともあれ、「磐瀬行宮」ではないかと考えたのは、斉明天皇がヤマトから九州に下ったとき、ヤマトの直轄地の官衙に磐瀬行宮を設けたと考えた方が分かりやすいからだ。
 もし、娜大津を古賀の海岸と考えることができれば、このすぐ近くに玄界灘に面した大根川(青柳川)河口(花鶴浜)に良港が作られていたと思われるので、当地は、百済救援軍(船団)の前線基地となり得る条件が揃っていたと考えた。
 なお、今夏(2017.8.11)、離岸流による水難事故で親子ら4人が死亡した天神6丁目の海岸は、この河口の右横にある。

 こんな説を言う人は誰もいないが、私には、磐井の敗北以後の倭国は、衰えたとはいえ、潰えたのではなく、ヤマトが領有した糟屋郡(古賀市、福岡市東区箱崎含む)以外の地は、まだ倭国・筑紫君の支配地だったはずなので、そのような地に、ヤマトの斉明天皇が難なく行宮を構えることができたのか、という疑問があったからだ。

 d. 糟屋屯倉の地は長者原か(私説)

 ただ、私は、「鹿部田渕遺跡」は、磐井戦争以後にヤマトが入手して設けた地方官庁跡ではないかと思っているので、ここが葛子がヤマトに献上した「糟屋屯倉跡」だとは思っていない。

 多分、「糟屋の屯倉」は、糟屋郡粕屋町長者原にあったのではないかと思っている。それは、長者原には、縄文以降の駕輿丁(かよいちょう)遺跡を初めとする古代遺跡が多く、「駕輿丁廃寺(かよいちょうはいじ)跡」もあることからの推測である。

 「駕輿丁廃寺」は、奈良〜平安時代の寺跡とされているが、糟屋が倭国からヤマトに献上されて以後に、糟屋屯倉(若しくは官家)に属した官寺として創建されたものではないか思っている。

 また、「駕輿丁(かよちょう)」とは、古代、高貴な人が乗る駕輿(がよ)=鳳輦・輿を担ぐ輿丁(よてい・よちょう)、輿舁(こしかき)、社寺に属する力者と呼ばれる人たちのことで、奈良時代の下級官職と言われるが、その前身はもっと遡ると思われる。

 それを物語るように、駕輿丁遺跡群(駕輿丁池)のなかに「駕輿丁八幡宮」が鎮座し、三韓(新羅)から帰還した身重の神功皇后(応神天皇の母)が、ここで駕輿に乗って旅石(須惠町旅石八幡宮)経由で宇美(宇美町宇美八幡宮)に向かったという縁起がある。
 なお、神功皇后が阿恵(日守八幡宮/粕屋町阿恵に伝承地2か所あり)から宇美に向かったコース伝説には諸説ある。
 (※別記参照→「旅石八幡宮の由来 (須惠町)」・「方ヶ島八幡宮碑(志免町)」)。

 時代は下り、8世紀前後頃(奈良、藤原京時代)長者原に長者屋敷(長者原字敷縄 緑ヶ丘264付近)があったことが長者原の地名の由来となっているが、当地には代々駕輿に乗れる長者様住んでいたということであり、 この長者は糟屋屯倉の長官の末裔ではないかと考えることができる。
(※別記参照→「長者原の地名由来と馬頭観音堂(粕屋町)」・「粕屋長者娘:お古能姫の悲劇(野芥縁切地蔵尊由来)」)。

 あわせて、長者原は古代交通の要衝で、特に香椎(香椎宮)と宇美(宇美八幡宮)、太宰府を結ぶ主要道があり、かつ周辺に広い穀倉地帯を擁していたので、ここに「糟屋屯倉」があったとしてもおかしくないと思える。

 e. 官家と屯倉は別

 ところで、「官家」と「屯倉」は、同じものなのだろうか。同じく「みやけ」と発音したとしても、漢字を見た印象から、「官家」は官衙、皇宮などが連想され、穀物倉庫を思わせる「屯倉」と同じとは考えにくい。

 「九州古代王朝の謎/荒金卓也」によると、宣化天皇詔勅の「修造官家、那津之口」は、「那津之口に新たに官家を造った」ということで、官家とは官邸・皇居・朝廷と見るべきで、また、実在が疑問視されている宣化天皇が出したとされるこの詔勅は、「六世紀前半に筑紫に都していた天子の詔勅(原文)が、大和の日本書紀編纂室に取り込まれていた可能性がある」と記している。

 もし、この那津之口の官家が「倭国」の官邸で、娜大津(那の津)にほど近い比恵にあった磐瀬行宮がその官邸に該当することになれば、斉明天皇、中大兄皇子は、ここでも倭国の官邸を占拠したことになるのか。

 f. 筑紫君磐井の彦山逃亡異説

 話が脱線するが、継体天皇22年(528)11月、旧三井郡(久留米市御井)を主戦場とした磐井戦争(磐井の乱)で敗れた筑紫君磐井(岩井、石井とも書く)は、日本書紀には物部麁鹿火に斬り殺されたとなっているが、筑後国風土記逸文は、豊前の上膳県へ逃亡し、その山中で死んだとしている。

 その山は、「彦山」だといわれているが、朝倉地方では、この彦山は、豊前の英彦山ではなく、(2017九州北部豪雨で壊滅的被害を受けた)朝倉市黒川地区の彦山だと語り継ぎ、当地旧黒川(高木)小学校の校歌にも当地の彦山を仰ぐとあったようで、また朝倉地方(周辺の筑前町、浮羽町等を含む)で、例えば石井、石川など、「」がつく姓はその子孫系譜だとも言っている。

 ということは、生き残った筑紫君磐井の子孫が、もともと倭国の管轄下にあった朝倉地方で根を張り、当地に朝倉橘広庭宮、星振(星古)城など、終末期の倭国(筑紫・九州王朝)の王府を設けたという話にもつながっても行きそうだ。

 さて、斉明天皇、中大兄皇子らが百済救援(白村江の戦い)の前線基地とした「娜大津、磐瀬行宮」の所在地云々等についてこだわりすぎて、本稿が先に進めなくなっていたが、この辺で次回に進みたい。

※つづく→「恵蘇・朝倉の関・木の丸殿後蹟〜倭国(九州王朝)終末期の王府(9)朝倉市」。

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2017年08月14日

綾鼓・桂の池跡(その2)〜倭国(九州王朝)終末期の王府(7)朝倉市

前回「綾鼓・桂の池跡〜倭国(九州王朝)終末期の王府(6)朝倉市」から続く。

 e. 朝闇神社からみた桂の池跡地の位置

 ・筑前の国木の丸の皇居が(朝倉市須川・山田、宮野地区にあったとされる)朝倉橘広庭宮、(若しくは、山田恵蘇八幡宮にあったとされる木の丸殿)であったら、「桂の池跡」伝承地(朝倉市入地1440-5)は、同宮居から離れすぎているので、たとえ「桂の池」で打った鼓が鳴ったとしても、その音は絶対に同宮居には届かない。
 したがって、ひょっとしたら「木の丸の皇居」とは、朝倉橘広庭宮は桂の池跡が残る入地地区に在ったのではないか、或は、「木の丸の皇居」とは、(須川等にあったとされる)朝倉橘広庭宮の「別宮」だったのかもしれない、という私の推測による仮説を上述した。

 ・朝倉橘広庭宮址地が未だ発見されていないので、その宮居がどこにあったとの断定ができないが、その地を仮に朝闇神社(長安寺廃寺)辺りだと仮定して、同地から「桂の池跡」伝承地の位置を見ると、直線距離にして南西方向約3.5km強の位置(桂川右岸沿い)にある。

 ・朝闇神社(朝倉市須川字鐘突1269)からもっとも近い桂川の流れは、同社鳥居の正面から西に、ほぼまっすぐ450m伸びる里道の突き当たりにある(以下「A地点」という:朝倉市須川2953付近/道標が建っている)。

 ・なお、この左前方、対岸に見える甍は、「朝闇山」の山号を冠する「萬徳寺」(朝倉市須川3075)である。筑前國續風土記附録には「京都本願寺に属せり。開基ハ空心といふ。顕如上人の時、忠ありて懇遇せらる。筑前八個寺(下座郡屋永村専照寺・穂波郡飯塚市宿明正寺・嘉摩郡椎木村浄圓寺・同郡西ノ郷村善照寺・夜須郡甘木驛光照寺・福岡藥院町光専寺・博多祇園町萬行寺)の第一なりといふ。慶長十年九月寺號木佛を許さる。」との記載あり。

 ・「桂川」(筑後川支流1級河川)は、筑前國續風土記拾遺に「長嶋川に在。桂川ハ山ノ後δ出、平松川とも云て入地村に入、古江川に会し長田村にて千年川に入。長嶋川ハ合ノ坂δ出古毛村に入。」とある。

 ・このA地点から右(北)が桂川上流域で、少し遡ると桂川は大きく右(東)折し宮野地区に入る。宮野地区の中心部は、丁度朝闇神社(花園山)の北側に当たり、真言宗大覚寺派準別格本山南林寺(朝倉市宮野86)がある。この地区も今回の九州北部豪雨2017で大きく被災した。

 ・豪雨被害は、桂川の上流域地区だけでなく、A地点より下流側の比良松地区でも猛威(洪水)を振るった。

 ・比良松地区も、往古は、須川と同じく旧宮野村に属し「平松」と称し、この地区を流れる桂川を平松川とも称していた。
 筑前國續風土記附録や筑前名所図会に、旧街道の地表に大きく張り出した松の古木が描かれおり、よって平松の地名となったのだろうが、筑前國續風土記に「下比良松 恵比須石神、戎松のもとにあり」ともあるので、この恵比須の「」をとって「比良松」となったのか。その松は枯れて、今はないが、同所で植え継がれている。
 私は、ここに松を植えた人たちが、往古、「ここに滅亡した倭国があった」ことを示すべく、そのシンボルの松(三階松)を植えたのかもしれないと思ったことがある。

 筑前國續風土記拾遺によると、この地区の松は、この下比良松のみでなく、上比良松及び入地村の中村の戎社にもあると記している。また、同書の入地村の項には、「鬼天神社、鬼松に在。延久五年豊後國日田郡司鬼太夫建立し、松を植て標とす」の記事もある。

 ・A地点より左(南)が、比良松〜入地など経て筑後川に到る桂川の中流域で、「桂の池跡」は、ここから桂川を4~5kmほど下ったところ=桂川橋の右岸(西側)のたもと=にあり、現在、小公園として整備されている(県道589号線沿い)。

 f. 桂の池跡公園

 ・「桂の池跡公園」は、道路より若干低いかと思われるくらいの高さに埋め立て、平らに整地され、公園内には散策用の路石が敷かれ、新たに桜などの植樹もあり、また、以前からあった桂の池跡碑戀之木碑は移設整備され、道路に面して史跡案内碑やトイレなども作られている。
 近年、朝倉市(旧朝倉町)が、能楽「綾鼓」に係わる史跡公園として整備したのだろう。

 ・以前(2000年前後頃)、数度、当地を訪れたことがあったが、その頃、ここには雑草に覆われた小さな窪地(現公園内の広さ、今より低い)があり、その周りを雑木が囲み、その一画に桂の池跡碑や戀之木碑が建ち、案内碑もあったと思う。もちろん、窪地に池の水などはなく、こんなに小さな池だったのかと思っていた。

 ・往古の「桂の池」は、優雅な雰囲気が漂う広い御遊池だったのだろうが、現在の当地を観た限りでは池の跡だというような雰囲気はない。ただ、この地の周りには、集落や墓地、グランドなどはあるが、大きく景色を遮るようなものはないので、この地に立って「綾鼓」に係わる悠久の歴史に想いを馳せてみることはできそう。

 ・「戀之木(恋の木)」とは、能楽「綾鼓」の詞「かの池(桂の池)の邊の桂木の枝に鼓を掛け」と、この能の主役の庭掃き老人の女御にかけた「悲恋」とをかけ合わせて生まれた言葉で、この言葉が桂の池跡の小字となったのだと思う。

 ・当地では、前述したように庭掃き老人の名を「源太」と称してきたようで、その源太の霊を供養するという「陰陽地蔵堂(通称:源太地蔵堂/文化10 年[1813]建立)や、源太じいの墓(建立年不詳)が、入地集落のなか(桂の池跡の南西約500m、福成神社の西側/朝倉市入地字宮ノ本1674)にある。

 筑前國續風土記拾遺は、「源太地蔵堂:戀ノ木と云地に在」と記しているが、綾鼓の舞台となったこの辺り一帯を広く「恋の木」と称していたのかもしれない。

 ・なお、桂の池跡の案内板には、この地より桂川の下流300mにある女御呂木(ねごろぎ)という処には当時広庭宮の皇居に奉仕する女御の館があったと伝えられている、と記してあり、桂川に架かる女御呂木橋もあるが、筑前國續風土記には「田の中ネコロギという處に周り八間許の地あり。…川ありネコロギといふ。」とあるが、「松樹のもとに石一個建り。是いにしへ神幸の時、頓宮の地なりといふ。…祠人此川にて夏越の禊祭を修す。」と記し、なぜか女御の館があったという記載はない。神幸・頓宮云々は、入地の産神・福成神社=印鑰神社のことだろう。

 ・桂の池跡公園のトイレのすぐ右横(県道589号線上)を流れる小水路(明夜掟川というのか)に架かる小橋を「宮殿橋」(ぐうでんばし)といい、当地に「宮殿」があったことを伺わせるが、上記e.- Ν(この地区に橘広庭宮、または別宮があった)と同じような推測(仮説)をする人は、私のほかにはいないのだろうか。

 g. 能楽の源流は九州倭国の舞樂

 ・上記a.に「能楽などの日本の古典芸能の元は朝倉にあった・九州倭国王多利思北孤(たりしほこ)にあったという説を聞いたことがある。
 前に、この「綾鼓」の元は、斉明天皇の頃の話ではなく、倭国王多利思北孤の頃の話だと考えられる、と書いたが、「能楽に残された九州王朝の舞楽/正木裕」によると、次のようなことが分かる。

 能楽は、14世紀に観阿弥・世阿弥が古来の神楽や舞楽等々を集大成し生まれたものだが、世阿弥の風姿花伝等によると、能楽の祖とされる聖徳太子のモデルは、九州王朝の天子多利思北孤であり、能楽の源流は、王朝の芸能の一つである舞楽であった。

 ・やはり、筑紫舞や朝倉を舞台とする「綾鼓」の能楽を含む能楽の源流は、九州の倭国(九州王朝)が終末期に向かう時期、朝倉橘広庭宮に倭国の王府があった頃の倭国王多利思北孤にあったことは間違いなさそうだ。
 
 ・先に「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す恙(つつが)なしや」の国書は、聖徳太子が遣隋使に持たせたものではなく、倭国王多利思北孤の国書であり、聖徳太子の寓話は、倭王多利思北孤をモデルとして作り上げられたと記したが、聖徳太子は、芸能の世界でも多利思北孤をモデルにして作られた偶像だったのだ。
 これまで私は、ブログ各所で、かつて九州では聖徳太子信仰が盛んで、伝聖徳太子作とされる彫像も多いので、聖徳太子はヤマトではなく、九州にいた人だと書いていたが、聖徳太子の陰影=多利思北孤と考えればよかったのだ。

 ・なお、「能楽と九州王朝の関係」については、「謡曲のなかの九州王朝/新庄智恵子/新泉社2004年刊」があるという。(未読)。

 ・追記:金春流の能「恋重荷(こいのおもに)」や観世流の「恋重荷(こいのおもに)」ろうそく能は、宝生流・金剛流の能「綾鼓」を原作として作られた類曲で、また、三島由紀夫の近代能楽集「綾の鼓」−成就しない恋は、舞台を現代に置き換えた戯曲である。

 ※つづく→「娜大津・磐瀬行宮は何処〜倭国(九州王朝)終末期の王府(8)朝倉市)」。

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2017年08月11日

綾鼓・桂の池〜倭国(九州王朝)終末期の王府(6)朝倉市

 前回「筑紫舞の絵馬〜倭国(九州王朝)終末期の王府(5)朝倉市」から続く。
 
 (10) 綾鼓・桂の池跡

 a. 能楽・綾鼓(あやのつづみ)の物語

 ・前回、筑紫舞の舞台は、終末期の倭国(九州王朝)朝倉宮居だったと記したが、この他にも九州倭国・朝倉宮居を舞台としている芸能に、日本謡曲中の粋とも言われる宝生流の能楽綾鼓」(室町時代・世阿弥元清作/謡曲中の秘曲と言われ、江戸後期以降に上演される)や、これを基にして書かれた三島由紀夫作「綾の鼓」(昭和28年作)などがある。
 能楽などの日本の古典芸能の元は朝倉にあった・九州倭国王多利思北孤(たりしほこ)にあったという説を聞いたことがある。この「綾鼓」の元は、斉明天皇の頃のことでなく、その頃の物語だったと考えられる。

 ・能楽綾鼓」のワキ(従者)の詞
 …「これは筑前の国木の丸の皇居に仕へ奉る臣下にて候。さても此處に桂の池とて名池の候ふに。常は御遊の御座候。ここに御庭掃の老人の候ふが。女御の御姿を見参らせ。静心なき恋となりて候。此事を聞し召しおよばれ。恋には上下をわかぬ習なれば。不便に思し召さるゝ間。かの池の邊の桂木の枝にを掛け。老人に撃たせられ。彼の鼓の声皇居に聞えば。其時女御の御姿まみえ給はんとの御事にて候程に。かの老人を召して申し聞かせばやと存じ候。いかに誰かある。」(出典:綾鼓(あやのつづみ))

  ・「綾鼓のあらすじは、筑前国の木の丸の皇居に仕えている臣下の者が、女御に「御遊池である桂の池で庭掃きをしている老人が、女御の姿を見かけて静心なき恋をしています」と伝える。それを聞いた女御は、打っても鳴らない鼓を臣下に渡し「この鼓を池の桂の木に掛け、老人に打たせ、その音が皇居に届けば姿を見せよう」と言う。
 臣下から、このことを聞いた老人は、この鼓を打ち続けるが、当然、音は出ない。老人は、年齢もわきまえず心を乱す恋心を持ったことを悔いて、いろいろ迷った挙句、我が身を恨み、桂の池に身を投げて死んだ。
 このことを臣下から聞いた女御が池に行くと池の波の打つ音が鼓の音に聞こえ、鳴る筈のない鼓の音が聞こえてきた女御の心は尋常ではなくなり、果ては、池の中から怨霊となって表れた老人に呪わしく責めたてられる。

 ・老人の怨霊は、池のなかに沈み消えるが、何とも救いのない物語である。これを斉明天皇の時代の橘広庭宮と係わる物語とした場合は、女御が斉明天皇で、女御を恨んで怨霊となった老人が朝倉橘広庭を追われた倭国(九州王朝)の人々、そのように喩えた物語ようにも思えてくる。

 ・この物語は、筑前の国木の丸の皇居=斉明天皇の朝倉橘広庭宮居(伝承地:朝倉市須川、山田、宮野)として語られることが多いが、同宮居と桂の池伝承地(朝倉市入地1440-5)は離れすぎているので、たとえ鳴らない鼓が鳴ったとしても、その音が絶対にその宮居に届くことはないだろう。

 ・私は、この「木の丸の皇居」は、終末期の九州倭国(九州・筑紫王朝)の)朝倉橘広庭宮居の別宮だったのかもしれない(或は橘広庭宮居そのものが当地入地に在ったのかもしれない)と思っているが、それは後述するとして、一般論(下記b.c.)を先に述べる。

 b. 斉明天皇の朝倉木の丸宮

 ・一般論の一つは、木の丸の宮(木の丸殿)=斉明天皇の朝倉橘広庭宮であり、斉明天皇が朝倉橘広庭宮に滞在していたときの物語としているものである。

 上述したように、日本書紀は、「五月乙未朔癸卯(5/9)、斉明天皇朝倉橘廣庭宮に遷居…朝倉社の木を斮除(切り払い)この宮を作った…秋七月甲午の朔丁巳日(7/20)、天皇朝倉の宮で崩御」と記しているので、朝倉橘広庭宮は朝倉社の木を切り払って作った宮だから「木の丸の皇居」(木の丸殿)ということになるのだろうか。因みに、朝倉社とは、長安寺大行事社(現朝闇神社)、若しくは朝倉山(麻氐良山)の麻氐良布(まてら)神社だといわれている。

 しかし、斉明天皇が当地に滞在したのは、わずか2か月半で、白村江の戦いを控えた緊急時に戦支度で駐留した対倭国との前線基地(白村江の戦いの前線基地ではない)ともいうべき危険な地に風流な女御(女官)など連れてきたのだろうか。仮に連れてきたとしても、その間に、女御らが遊興な御遊などできたのだろうか、かという疑問はある。

 もし、斉明天皇に同行した女御がいたのであれば、斉明天皇に白村江への進軍を促された九州倭国軍(筑紫君薩野馬)の反撃にあい、斉明天皇や大舎人(司令長官)及び諸々の近侍(近衛兵・親衛隊)とともにこの地で落命したことになる。

 ・ただ、前述したように朝倉橘廣庭宮は、斉明天皇が慌てて作った仮宮ではなく、もとからあった倭国の宮居であり、そこに斉明天皇が入ったものだと思っているので、慌てて作った仮宮だから「木の丸の皇居」ということになるのだろう、という発想にはならない。つまり「木の丸殿」は、今でいう立派に作られたログハウスを想像した方が良いのかもしれない。

 c. 中大兄皇子の朝倉木の丸殿

 ・もう一つの一般論は、木の丸の宮=中大兄皇子の朝倉木の丸殿であり、惠蘇八幡宮(朝倉市山田166)の参道口近くに朝倉木丸殿舊蹟碑が建っているので、ここに「木の丸の皇居」があったとことになるのだろう。

 ・それは多分に、新古今和歌集に選歌された天智天皇(中大兄皇子)の御製歌に「朝倉や木の丸殿に我居れば名乗りをしつつ行くは誰が子ぞ」があり、同宮の裏山の頂にある御陵山古墳(前述)を斉明天皇陵としたので、ここに中大兄皇子が12日間(661年8月1〜12日)、斉明天皇の喪に服すために大急ぎで木皮のついた丸木(黒木)で作った粗末な建物を建て、それを「木の丸殿」の皇居(黒木の御所)と称したという伝説が作り上げられたのだろう。

 ・以前「御陵山(斉明天皇御殯葬地)と木の丸殿(2)」に、藁葬(こうそう)地・御陵山の斜地に建てられている「中大兄皇子の粗末な木の丸殿の絵(陶板案内碑)」を掲げ、かつ、恵蘇八幡宮の社記「中大兄皇子は、…御陵山の山腹に、木皮のついたままの丸木の柱を立て、板を敷き、芦の簾を掛け、苫をふき、あばら屋に、塊を枕に、1日を1ヶ月に代えて12日間喪に服されたといわれ、この地は木の丸殿、黒木の御所と呼ばれるようになった」を掲げた。
 そして、「苫(とま)とか塊(かい)とか簾(すみ)とか、今では馴染みが薄くなりつつあるものもあるが、木の丸殿がいかに粗末なものだったかについてはおおよそ推測できた。この12日間は、夏(661年8月1〜12日)のことだから、粗末な建物であってもよかったのだろうとは言え、やはり暑く、害虫にも悩まされただろうに、またご遺体の腐敗臭は、と、また余計な想像まで巡らした。」と、何とも知れない疑念を持って書いていた。

 ・もし、この中大兄皇子の木の丸殿の話が事実だとすれば、「綾鼓」にある「木の丸の皇居」とは、かなり様相が違ってくる。
 まず、中大兄皇子が、わずか12間の喪に服すために、大急ぎで建てた粗末な仮宮居に「女御」を連れてくるだろうか、また、女御を連れて来たとしても、それは忌中の手伝いで忙しく、その間に「綾鼓」にあるような恋物語が生まれる暇もない。

 まして、中大兄皇子は、白村江への出陣を促して倭国朝倉軍(筑紫君薩野馬)に討たれた斉明天皇や大舎人、諸々の近侍等の遺体処理と、合せて斉明天皇を討って星丸の星降(星古)城に籠った倭国朝倉軍に相対するための屈強な軍勢を連れてきたはずであり、つまり、この12日間の間は、斉明天皇の遺体を藁葬にしたまま、対倭軍との対戦交渉に臨んでいたはずで、このような慌ただしい最中に、宮廷ロマンのような「綾鼓」伝説があったとは考えにくい。
 なお、九州倭国(筑紫君薩野馬)は、この間の交渉に負け、倭国の全軍を白村江への戦いに繰り出し、倭国(九州王朝)滅亡への道を突き進むことになる。

 ・多分、この「綾鼓」物語は、斉明天皇や中大兄皇子らが朝倉に進駐した時代のものではなく、それ以前の「終末期の倭国(九州王朝)の王府が朝倉にあった平和な時代・倭王多利思北孤の時代」の物語であったと思う。

 d. 桂の池のある入地に橘広庭宮の別宮があったのか

 ・朝倉橘広庭宮を九州王朝の宮居だと考える人たちも、その多くは、「(須川・山田・宮野地区にあった)朝倉橘広庭宮=木の丸の皇居」としている。しかし、これまで朝倉橘広庭宮址の有力候補地の各所で度々行われた発掘調査で、その址地を未だ発見するには至っておらず、私は、その朝倉橘広庭宮そのものが、ひょっとしたら入地にあったのかもしれないと仮説したことがある。

 もし、この仮説が突拍子のない発想であれば、綾鼓の「木の丸の皇居」は、その(須川などにあった)橘広庭宮の「入地別宮」だったのかもしれないと思っている。

 これらの仮説は、史料的根拠に基づくもではなく、綾鼓に「桂の池」とあるその跡地伝承地が、朝倉橘広庭宮の伝承地とされる朝倉市須川、山田、宮野とは距離的に少し離れた(約3km強)地区(朝倉市入地)にあり、また、当地に宮殿橋があり、宮ノ本の小字や、隣接地に大庭などの大字(地名)があるところからの単なる推測である。

 ・桂の池跡に建つ案内陶板には、「この地より桂川の下流300mにある女御呂木(ねごろぎ)という処には当時(朝倉橘)広庭宮(に移られた斉明天皇)の皇居に奉仕する女御の館があった処と伝えられている。また福成神社の西側には源太の墓と呼ばれる古びた石碑が建っている。」と記されている。

 桂川の下流に女御呂木橋がある。また、源太とは、当地で伝えられてきた老人の名なのだろうか。確かに福成神社前面玉垣の西外側に建立年不詳の「源太じいの墓」や、源太の霊を供養する「陰陽地蔵堂」(源太地蔵堂ともいい、文化10 年(1813)、源太じい1050年忌に作られた延命地蔵尊を祭るという)がある(朝倉市入地字宮ノ本1674)。
 筑前國續風土記拾遺は、源太地蔵堂「戀ノ木と云地に在。源太といふ者の霊を祭ると云。朝倉記に天智帝の時、下部源太といふ者の事績を載せたり。妄説にして取にたらず」と一笑しているが、地元では史跡となっており、綾鼓伝説に絡めて源太の名が伝えられてきたのだろう。
 福成神社(宗像三女神)は、朝倉では最も古くに鎮座したといわれる古社<印鑰(いんやく)神社>で鎮座地の小字が「宮ノ本」(入地字宮ノ本1673)である。桂の池跡がある入地地区が相当に古くに開けた処であることが伺える。

 ※つづく→「綾鼓・桂の池跡(その2)〜倭国(九州王朝)終末期の王府(7)朝倉市」。

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2017年08月06日

筑紫舞の絵馬〜倭国(九州王朝)終末期の王府(5)朝倉市

 前回「御陵山古墳は倭王墓〜倭国(九州王朝)終末期の王府(4)」から続く。

 (9) 筑紫舞の絵馬

 (a) 幻の筑紫舞復活

 ・上記「(6)朝倉橘広庭宮の推定地・長安寺廃寺」に、朝倉市須川の「長安寺廃寺内に残る朝闇神社の朝闇は、朝倉の地名の発祥由来とされており、倭国(九州王朝)の古代舞である「筑紫舞」のルソン足を描いた絵馬(天保4年<1833>奉納)があることでも知られている」と書いた。

故西山村光寿斉 ・毎年8月福岡県立大濠能楽堂で開催される筑紫舞公演で聞いた三隅治雄(公財)民族芸術交流財団理事長の話では、筑紫舞は、戦前までは密かに傀儡舞として伝えられていた「古代、筑紫国の舞」で、後に筑紫舞宗家となった故西山村光寿斉(※画像)が故菊村検校から継承し、武智鉄二の目に留まり世に出たという。

 ・この話のなかでは、「よみがえる九州王朝~幻の筑紫舞」(以下「上書」と書く)を著した古田武彦や九州王朝等の名が出なかったと記憶しているが、公の団体においては、国が認めていない九州王朝・筑紫王朝・九州倭国等の名や、九州王朝の名称を称えた古田武彦の名は能動的には語れないのかもしれない。

 ・にもかかわらず、上記「古代、筑紫国」とは、古代筑紫王朝(九州王朝・九州倭国=九州にあった「倭国」の意)のことだと考えられる。
 天智天皇2年(663)白村江の戦いでの敗戦で、古代筑紫国の王朝は解体し、ヤマトの中大兄皇子(天智天皇)による中央集権下に組み込まれ、それまでの筑紫国で舞われていた筑紫舞も歴史の彼方に埋もれて行った。しかるに、密かに幻の舞・傀儡舞として一部の傀儡師の間に伝えられてきた。

 ・このことが分かるものとして、江戸時代=天保4年(1833)、朝闇神社(長安寺廃寺境内/当時は大行事社)に奉納された筑紫舞の絵馬がある。
 この絵馬が、古代朝倉橘広庭址の候補地(九州王朝の中枢領域)に建つ朝闇神社に残っていたことから、筑紫舞は、当時、当地では普通に舞われていた、或は、当時、当地で普通に語り継がれていた古代筑紫国の筑紫舞の舞台を描いたものではないかと想像された。

 (b) 朝闇神社の筑紫舞絵馬

 ・この絵馬について、古田武彦は上書で「わたしたちには、この”絵解き”をする能力(ちから)がすでにない」と書いているが、かつて私は、同書の絵馬の構図解説を読み、現物を拝観し、次のような想像をしていた。
 以下、上書解説文を転記し、その後に私の想像(…以下の部分)を書き留めておく。

 [下方中央]「樵夫か山伏のような恰好の男たち、そのなかで足をあげて舞う人物の軽妙な姿、それは例のルソン足であろう、印象的な形姿だった。」

 前向きから飛んで後ろ向きになるときに蹴りあげる足元をルソン足というらしく、この仕草は流暢な日本舞踊にはない筑紫舞独特のものらしい。
 舞っている坊主頭の男らが着用している服は、山伏が着る鈴懸か僧兵の着衣のようにも見える。僧兵は、古代筑紫国(九州倭国)があった時代より時代が下るので、本来の筑紫舞の舞手は、山伏(修験者)だったのかもしれない。

 もしこの絵馬の時代背景が倭王多利思北孤の時代で、舞手が山伏であったら、修験道の開祖役行者の時代より古いことになる。
 前述したように多利思北孤は、早くに百済仏教を取り入れ其の信奉者であったので、ひょっとしたら、九州には、ヤマト(吉野山、大峯山)に役行者が出現する以前に、修験道の走りがあったのかもしれない。
 朝倉周辺を見ただけでも、彦山(朝倉市黒川、田川郡添田町英彦山)、阿蘇山(同穂坂)、宝満山(太宰府市)、高良山(久留米市)、大平山(朝倉市、築上郡)、松尾山(築上郡)、求菩提山(豊前市)、脊振山(福岡市)ほか修験道の山々がひしめいているのは、そのような古い起源背景があったのかもしれない。

筑紫舞絵馬イラスト ※画像:筑紫舞の小道公園内の陶板の一部「ルソン足等で舞う男らの部分」を模写して描いたた小生のイラスト画。
 筑紫舞の小道公園は、朝闇神社鳥居前の猿沢の池の右後ろにあり、公園に設置してある陶板の一枚に「朝闇神社の筑紫舞絵馬の一部」(下方・右方中央部分)を模写したものがある。


 因みに「猿沢の池」については、上書に、筑紫舞宗家の言葉として「筑紫舞の大切な舞の一つ『早舟』の詞に『猿沢の池の…身の上は篠竹の越の竹の』という一節がある、この池には、この詞に合わせて舞うふりと同じ姿で、『竹や柳などの木の枝が横に伸びて垂れさがっていた』と目ざとく娘の光寿(当時若翠)が指摘した」という下りがある。それは、猿沢の池が整備される前に見た風景であった。つまり筑紫舞の舞台は、朝倉宮居であった。

[右方中央]「酒盃を傾けつつ、その舞を見ている”殿様”、そのまわりを数人の女官がとりまき、彼女等は美しい衣の姿だが、彼女等や団扇(うちわ)をもった従者(男)に囲まれた” 殿様”は、何と蓬髪(ほうはつ)、酒呑童子のような、ざんばら髪なのである。」

 この殿様の姿は、九州倭国王の多利思北孤(たりしほこ)をイメージして描かれたものではないか、また、筑紫舞は、倭王多利思北孤の宮廷舞・倭王に捧げる舞だったのではないかと思っている。なお、多利思北孤は、能など現在に伝わる日本の芸能の源流を作ったという説を聞いたことがある。

 ※[黒川院] 実は、この"殿様"について、時代は下るが、黒川院座主として(英)彦山の山伏(修験者)を束ねた長助(助有)法親王かと考えてみたことがあった。
 長助法親王は、後伏見天皇第六皇子で、(北朝)正慶2年[南朝:元弘3 年](1333)、南北朝騒乱の最中、豊前国城井城主宇都宮頼綱(頼綱娘が長助正室)を頼り九州に下向し彦山座主となり、黒川村宮園(朝倉市黒川)に御館(黒川御所)を設け黒川院座主助有(じょゆう)と名乗った。
 英彦山は豊前国にあるが、黒川院は筑前国(筑紫)にあり、黒川宮園地区には、かつて黒川の彦山(岩屋権現)、御館を本山とした神仏習合の寺院僧坊草庵等が建ち並んでいた。また、英彦山神領四十八大行事社(明治以降、英彦山神宮末社高木神社に社名変更)の一、黒川大行事社(黒川高木神社/祭神は大歳神、或は盥鳥採鄲)があり(※黒川地区には、この他にも高木神社がある)、朝倉地方における神仏習合・修験道(山伏)の一大拠点となっていた(※後述)。
 なお、黒川院は、天正15年(1587)14代座主舜有死亡により、豊臣秀吉がその寺領を没収し、天正18年(1590)座主昌千代が彦山の政所坊に移ったので、250年余で途絶えた。その後も黒川に残っていた修験勢力は、元和9年(1623)、福岡藩2代藩主黒田忠之により徹底的に破壊され消滅した。

 須川には大行事社(高木神社)が二社(チヤウアンジ・チヨダ)あったが、そのうちの一社が筑紫舞の絵馬がある朝闇神社で、もとは、「長安寺大行事社」と言われていた。現在、高木神社と称していないので分かりにくいが、英彦山神領四十八大行事社(高木神社)のうちの一つだったと考えられので、上記黒川大行事社(黒川高木神社)と係わりがあり、また、黒川院が彦山山伏を束ねていたことから、朝闇神社の絵馬にある殿様は黒川院かもしれない思った次第だった。
 しかし、改めて考えると、女官に取り巻かれ酒盃を傾けている姿は、「彦山・黒川院座主には相応しくない」ように思え、この考えは撤回した。

 ・ところで、黒川地区では、今回の九州北部豪雨2017による土石流で幼児を抱いた若い母親ら3人が死亡し痛ましい。黒松・真竹集落(14世帯25人)はすべての家屋が全倒壊し集落そのものの消滅する危機もある。通信手段及び交通手段(地区に入る4本の公道すべてが破壊)が絶たれ、救助活動が遅れ、救援活動が遅れ、今なお時間が止まった状態になっている。時々食事に立ち寄った黒川山荘もどうなっているのか分からず、再度黒川地区を訪れることできたときは、一帯の風景が変わってしまっているのかもしれない。

 [左上]「峨々(がが)たる岩山がそびえ、明らかに山伏姿の男たちが何人か出て來つつあり、女とおぼしき人物がそれを出迎えている。」

 この岩山は、彦山修験道と係わる彦山か、如意宝珠の岩屋を有する宝珠山か、黒川の岩屋権現か、地元では彦山という、或は阿蘇山信仰の中心地、穂坂の阿蘇山か。かつて女人入山禁制だった山岳修験道場の岩山であることは間違いないだろう。

 また、出迎えている女は、妻帯している山伏の妻か、僧坊で修験者の食事ほかの世話をしている女性だろうか。
 山伏の修行には、目に見えにくい下働き・下支のできる女性が必要なことが多い。
 例えば、私の場合、吉野・金峯山寺の大峯山蓮華奉献修行に参加したとき、南朝妙法院で午前2時起床し、鈴懸を着用し、午前3時東南院に行ったときたとき、下働きの女性が朝食を出し腰弁当を用意してくれていた。また、山上ヶ岳から帰坊すると風呂、食事の用意がされていた。午前4時前に蔵王堂前を発つ百日回峰や千日回峰修行の行者がいたときは、この状況が毎日続くのだから、このような陽の当たらない目に見えない女性の下働き・下支えがないと決してその修行は成就できない。

 [右下]「美少年、あるいは美少女とおぼしき人物が、威厳正しい紅衣と白袴姿で、”殿様”に長い柄杓(ひしゃく)で酒を注ごうとしている。」

 勝手な推測だが、百済(紅)や新羅(白)との交渉に長けていた当時王子だった筑紫君薩野馬を象徴的に描いたものだろうか。
 なお、筑紫君薩野馬は、朝倉で中大兄皇子に敗れ、白村江の戦いで総指揮を執らされたが敗れて、唐軍の捕虜となり唐に送られ、後に帰還したが、その間に倭国は中大兄皇子(天智天皇)の大和(日本)に併合され滅亡した(後述予定)。

 [右隅]「何人かの”坊主”がいて、「フン」と、これらの光景に対して露骨に”ソッポを向く”仕草が描かれている」

 何人かの僧は、倭国官寺・長安寺(朝闇寺)の僧で、そっぽを向いている僧は高僧か。舞手の優婆塞(山伏)らより身分の高い僧という形をこのような形で描いたのではないのか。或は、沙門を酒宴に招くとはけしからんとでも言っている姿なのだろうか。

 [右上方]洞窟もしくは岩屋の入口を示すごとき絵柄が描かれてあり、この舞は”洞窟の前”で舞われていることを示唆する風情だった」

 ・当初、古田武彦は、戦前、筑紫舞宗家西山村光寿斉が子供の頃、菊村検校に連れられて行った洞窟(ここで「翁」十三人立舞が行われた)について、朝倉の柿原古墳を想定していたが、後になって宮地嶽古墳(宮地嶽神社奥の院大塚古墳・岩屋不動)だと分かった。また、この「宮地嶽古墳の主(被葬者)は、九州王朝の主の一人だった」と記している。

 ・なお、宮地嶽古墳について、本ブログ「徳間の清水(3)〜名称・由来考 (高良山麓巡り40)」に次のようなことを記していた。
 勝浦・勝部氏が奉仕した「宮地嶽神社」(福津市宮司)の祭神の一勝頼大神(別称:藤の勝頼)は、姫氏(箕子)・倭国(九州王朝)系譜にある「藤」につながる。また、奥の院(宮地嶽古墳)の神紋は、九州王朝の神紋「三階松」であり、古墳の被葬者「胸形(宗像)徳善」は九州王朝と係わる人物である。なお、徳善の孫・高市皇子(徳善の娘・尼子娘の子)が父大海人皇子(宗像海人族か/天武天皇)とともに戦った壬申の乱は倭国九州王朝復権の戦いだったとの説もある。
 しかし、追記すると、天武天皇は、九州倭国の官寺をすべて廃寺とし、九州倭国が行っていた宗像沖ノ島の祭祀を復活した形跡もない。また、白村江の戦いで唐に囚われ、その後、帰還した筑紫君薩野馬をどのようにしたのかの記録がない。天武天皇死後は、再び天智系の天皇が実権を握り、やがて藤原氏が権勢を振るう。これを以て九州の倭国の神々や歴史は、すべてヤマトの神々や歴史にすり替えられ、消された。それが持統天皇の手になった日本書紀である。
 なお、宗像沖ノ島は世界遺産に登録されたが、その申請書にあるようなヤマトによる国家祭祀が沖ノ島で行われた形跡はなく、九州倭国軍が主体となって戦った白村江の戦いでの敗戦により、九州倭国が潰えたことでその祭祀が終わったのである。本当にヤマトの国家祭祀の場であれば、何も白村江の戦い以降その祭祀を止める必要はなかったはずである。

 ・話が脱線したが、洞窟を横穴式古墳の石室だと考えれば、当初の筑紫舞は、死者の慰霊のために舞われたものだったということなのだろうか。朝倉には高天原、安の川原、天岩戸伝承等もあり、各所に古墳以外の洞窟も在った。

 ・上書には、「七人立」のしめす「夷の翁」までふくむ形は、七世紀前半、例の「日出づる処の天子云々」で有名な多利思北孤(たりしほこ)―これも九州の王者だと思っていますが―のとき、「東西は五月行、南北は三月行」とされている時期のものと考えられます。との記述もある。

 ・いずれにしろ、筑紫舞は、倭国(九州王朝)終末期の王府があった朝倉宮居の舞だったが、中大兄皇子の謀略により九州倭国の全勢力が白村江の戦いで壊滅し、ヤマトが九州を勢力下に治めて以降は、その舞も衰退した。しかるに、完全消滅することなく、僅かに傀儡師の間で幻の舞、傀儡舞として伝承されてきたが、今日その舞が、故西山村光寿斉の一門によって、筑紫舞として復活した。
 筑紫舞が古代、朝倉で舞われた舞だったことは、朝倉橘広庭宮址と隣接する地にある朝闇神社に、江戸時代、筑紫舞絵馬が奉納されていることで伺い知ることができる。

 ※つづく→「綾鼓・桂の池〜倭国(九州王朝)終末期の王府(6)朝倉市」。

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2017年08月03日

御陵山古墳は倭国王墓〜倭国(九州王朝)終末期の王府(4)朝倉市

 前回「俀國王多利思北孤〜倭国(九州王朝)終末期の王府(3)」からつづく。

 (8) 御陵山古墳は朝倉宮崩御の倭王墓

 前項で、恵蘇八幡宮(朝倉市山田)の裏山にある御陵山古墳は、斉明天皇陵墓ではなく、九州王朝・倭国王多利思北孤(たりしほこ)墓かもしれないと述べた。
 これとよく似た仮説を「白村江戦前戦後事情/平野雅曠(古代の市民8)」で読んだことがある。それは「朝倉宮に崩じた天皇/丸山晋司(古代の市民4)」を纏めての所見だったが、そのなかで上記御陵山古墳は倭王の墳墓だと考えてあった。

 さらに、丸山説は、朝倉宮(朝倉広庭宮)に崩じたのは、斉明天皇陵ではなく、九州王朝(倭王)利歌弥多弗利(65~70歳)で、当時、太子薩夜麻は40歳代だったとしている。
 平野氏は、崩御したのは、もう一代後の「倭王(?)」と想定し、系図的には多利思北孤(50歳代崩御)-利歌弥多弗利(50歳代崩御)- 倭王(50歳代崩御)、そして、次の倭王が筑紫君薩夜麻で、薩夜麻が白村江に出陣したときの年齢は20歳代だったとしている。
 これは、「法隆寺本尊光背銘にある大王を多利思北孤と考え(古田武彦説)、死亡年を622年2月、50余才の年配とみなし、661年7月崩御の人物との差、39年を勘案した結果」だとしてある。

 浅学の小生には、これらについてよく理解できていないが、御陵山古墳が斉明天皇陵墓ではなく、倭国王の誰かの墳墓であるとの推測は、小生と同じである。
 なお、御陵山古墳は二つの小円墳(恵蘇八幡宮1号墳・2号墳)なので、前項では多利思北孤とその妻雞彌、若しくは別の倭国王かもしれないと書いた。
 倭国王の墳墓にしては、小さいのではという向きもあるが、任那(伽耶)を失って以後の倭国には大古墳を造るだけの余力はなかったとも考えられる。
 ただし、地元では、二つの円墳ではなく、一つの前方後円墳で、多利思北孤の墓だとみているので、もしそうだったら規模は大きい。
 いずれにしろ何よりも朝倉地方における筑後川沿いの交通要害地の高台に造られていることが倭王の権威の象徴である。

 ※因みに、御陵山(恵蘇八幡宮)の真下には筑後川の山田堰(江戸時代築造)があり、朝倉(菱野)三連水車のある堀川用水の取水口・水門もある。なお、同三連水車は、7/5の九州北部豪雨による奈良ヶ谷川に流れ込んだ土石流で決壊した山田SA近くの山の池溜池・鎌塚溜池から流出した流木や土砂が絡みつき停止したが、8/2管理者の山田堰土地改良区ほかによる障害物撤去作業が完了、閉められていた堀川用水の水門が開けられ28日ぶりに再開した。国道近く・通堂川沿いでは家屋流出による死亡者が3人も出ている。同所里道沿い橋際には地蔵石祠、石神などもあったと思うが。

 また、朝倉宮(朝倉広庭宮)が、斉明天皇宮居とする前から倭国の宮居であったと考えてあることについても、小生の推測と同じである。
 したがって、朝倉宮(朝倉広庭宮)で倭国王が崩御したと考えることは何ら問題はないが、朝倉に進駐したヤマトの斉明天皇がここで戦火にまみれ崩御したと考えることもできる。

 丸山説では、さらに、斉明天皇の崩御は、「斉明7年ではなく、5年後の称制5年(666)11月7日、飛鳥の川原の地で嬪(もがり)が行われ、翌6年2月27日小市岡上陵に埋葬されたのが現実的ではあるまいか。そして、その翌年正月に天智天皇の即位が行われる」としている。
 つまり、斉明天皇は飛鳥から一歩も離れていない、朝倉には行っていないというのであるが、現実的ではなく、ここでは、斉明天皇は進駐した朝倉宮(朝倉広庭宮)で崩御したと考える。

 なお、上記「法隆寺本尊」と倭国とのかかわりについては、「太宰府は日本の首都だった/内倉武久」に「法隆寺に化けた観世音寺」の章がある。
 詳細は省略するが、中大兄皇子が朝倉宮で亡くなった母・斉明天皇の菩提寺として建立を発願し、約80年後の746年に完成したとされている太宰府・観世音寺の地には、それ以前(5~6世紀)に建立された(倭国三府=太保府[小郡市太保]・太宰府[太宰府都府楼]・太傅府[飯塚市大分]=の一太宰府隣接の)古寺(旧観世音寺)があった。その伽藍は奈良・法隆寺西院伽藍に移築された。
 法隆寺本尊の国宝釋迦三尊像について、古田武彦は「この仏像は聖徳太子とは何の関係もない。九州王朝のタリシヒコを記念して作られ、大和に運ばれたものだ」という見解を打ち出した(「ここに古代王朝ありき/古田武彦」)という。

※つづく→「筑紫舞の絵馬〜倭国(九州王朝)終末期の王府(5)」。

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