2017年09月

2017年09月26日

黒川の彦山と高木神社供創噌(九州王朝)終末期の王府16朝倉市

 前回「黒川の彦山と高木神社機創噌(九州王朝)終末期の王府15朝倉市」から続く。

  [筑紫君磐井逃亡地か]
 ・筑後国風土記逸文には、継体22年(528)、磐井の乱で敗れた筑紫君磐井(九州王朝・倭国王)が豊前国上膳県(築上郡南部)の山中に逃げたとしているが、その山中は、一般的には英彦山山系として語られることが多いが、筑紫君磐井が逃げ込んだのは豊前国ではなく、筑紫国領内の筑前黒川の彦山だったという話がある。
 ・このことは、朝倉地方に多い石井や石川等の石の付く姓が、磐井(石井)の系譜だと今に言われていることからも伺える。なお、朝倉市宮野には旧石井家住宅(福岡県指定有形文化財)のもある。

 ・一般的には、黒川の彦山は、豊前の英彦山を勧請し、岩屋権現は英彦山49窟の一つに組み込まれたとされているが、地元では誰もそうは思っていない。

 ・鎮西彦山縁起にいう継体天皇二十五年(531)、北魏の渡来僧・善正が英彦山の玉屋岩屋で修行中、猟師藤原恒雄(忍辱)と出会い英彦山を開山したという伝説は、黒川の彦山で、平安時代初頭に英彦山が開かれたとき、この事績が奪われたともいう。
 恒雄と熊の間に産まれた檀君が朝鮮民族の始祖となったという「壇君神話」があるが、531年、任那(伽耶の一部)を失うまでの倭国は、朝鮮半島南部を含む国であり、朝鮮と九州との行き来は自由だったと思う。

 ・黒川地区における縄文、弥生遺跡の有無について調べていないが、6世紀以前と思われる天神森古墳等があり、少なくとも6世紀以前には集落があったと考えることができ、磐井は、その頃、既にあった山岳信仰の聖地黒川に逃げ込んだのかもしれない。

 [倭国三府や朝倉王府等の官寺(廃寺)]
 ・再録するが、九州王朝・倭国に百済仏教が伝来したのは、5世紀頃で、5〜6世紀には倭国の政務を司っていた倭国三府に官寺(天武時代までに廃寺となる)が建立されていた。

 ・その三府と廃寺された官寺とは、太宰府[都督府]の旧観世音寺(当時の伽藍は奈良・法隆寺西院伽藍に移築、国宝釋迦三尊像は九州倭国王多利思北孤(たりしほこ・たりしひこ)記念像)、太保府[小郡市太保]の井上寺(廃寺跡遺跡、観音像あり、新羅式ともいう)、太傅府[飯塚市大分]の大分寺(廃寺跡に一部心礎石等残存、新羅式ともいう)。

 ・また、太宰府の塔原廃寺(心楚残存、廃寺後、伽藍の一部を般若寺=現存せず、に移築か)や、倭王多利思北孤時代の朝倉王府の長安寺=朝闇寺廃寺(朝倉王府市須川の朝闇神社付近)なども倭国の官寺であったと考えられる。
 この時代、黒川の彦山を中心とした山岳信仰に、仏教的要素が加わったと思われる。

 [天神森古墳と天満宮]
 ・7世紀前後頃、九州倭国王府は朝倉(橘広庭宮)にあり、仏教に深く帰依した倭王多利思北孤は、伝来した百済仏教に加え新羅仏教も取り入れ、これらの仏教は、山深い黒川における山岳信仰と結びつき、黒川は、黒川彦山を中心とした神仏習合の山岳仏教、修験道の走りが出来ていたと考えられる。

 ・既に6世紀以前に、黒川に集落が形成されていたと上記したが、そのことは、同時期と目さられる天神(森)前方後円墳(地元ではひょうたん塚という)や、孟宗尾根古墳(黒川院孟宗尾根墳塚ともいう)などが、その中心部にあることでも伺える。

 ・天神森古墳の墳丘に「天満宮」があり、彦山初代座主黒川院助有(1320−1361)を祀るという。

 ・一般的に天満宮の祭神は/原道真だが、黒川に限らず、朝倉地方の天満宮の場合は、必ずしもそうではなく、次の二つのいずれかに該当することが多い。
 渡来人の神を祀った天神社。…渡来人=天。渡来人の神=天神。
 G盛命(埴安神)を祭神とする田神社が天神社になった(もちろん田神社のままで祭られている社祠はある)
 これら三系統の神社のいずれも「天満宮」で、元は、◆↓のいずれかだったものが、いつのまにか,箸覆辰燭發里發△蝓△笋笋海靴ぁ

 ・天神森古墳鎮座の天満宮には、彦山初代座主黒川院助有(じょゆう)を祀っているというが、元は、渡来人の天神社だったもので、後世、そこに助有(※後述付記参照)を合祀したのだろう。

 [倭国、朝倉地区の渡来人]
 ・天神森古墳鎮座の天満宮は、渡来人の天神社だったと上記した。
 筑前國續風土記拾遺には、旧黒川村の天満宮は五祠(花鶴、北小路、百石、疣目口、元ノ目)、田神は一祠(百石)ありと記載してあるが、そのいずれもが上記渡来人の天神、E弔凌澄△里い困譴であったと想像する。

 ・特に天神の天は、渡来人を表し、天孫というと饒速日命(大歳命)を指すことも多い。その父須佐男命(素戔嗚命)は日本神話では天照大神の弟になっているが、出自は新羅であり、饒速日命を始祖とする物部氏の出自は新羅となる。
 三韓(新羅)征伐をしたという神功皇后もまた新羅渡来人の系譜につながる。

 ・では、黒川には渡来人がいたのかということになるが、黒川の地名、及び地区内の黒谷黒松などの集落名から推すと、当地は、秦の徐福(紀元前3世紀)につながる渡来人・秦氏、斉、呉、越人、或は物部氏の系譜が定着したところではないかと推測する。

 ・徐福を持ってくると気が遠くなるが、九州の倭国は、それより古い紀元前5世紀、呉の姫氏が倭人となり建国したとの説もあり、建国以来、渡来人を受け入れて来たと思われ、朝倉地区に点在する天満宮の多くは、渡来人の神・天神であった。
 ただし、当時は、上記したように倭国は南朝鮮まで含む国で、朝鮮と九州との行き来は自由だったと思われるので、朝鮮半島から渡って来た人たちを渡来人と呼ぶような考えはなかったと思う。

 ・渡来人にとって、黒川の彦山は、祖霊(天神)が降臨する山として崇められた霊山で、ここに山岳信仰が生まれ、やがてそれが修験道という形になっていったとも考えられる。
 つまり、山岳信仰は、日本独自のものではなく、渡来人がもたらしたものだとも考えられる。故に黒川の山岳信仰の始まりは渡来人がもたらしたともいえる。
 さらに祖霊社として天神社を祀り、なかでも集落全体の産神として祀った社祠が、やがて彦山修験と結合し、平安期に彦山の祖神(親神)を祀る大行事社(権現社)となっていったとのかもしれない。

 ・朝倉で明らかに渡来人が定着したと分かる地区は、黒川以外でも、今回の九州北部豪雨の被害が大きかった赤谷川、乙石川沿いの杷木地区で、赤谷は「百済」、白木は「新羅」である。
 なお、松末(星丸含む)地区は倭国色が強く、特に星丸の星降城(星古城)は、九州倭国最後の王城となった。林田にある野津手八幡宮は、古宮が星丸に在り、野津手は、もとは乗手(のって)で、かつてこの一帯は乗手の郷と言われ、騎馬を乗り回した倭国王府軍が駐留していたのかもしれない。最後の倭王となった筑紫君薩野馬の名にも馬がある。

 ・星丸の赤谷川沿いには新羅式と言われる切り立った石垣があったが、豪雨でどうなったか分からない。倭国は、新羅とことのほか係わりが深く、新羅から当地に渡来する人々も多かったのかもしれない。

 ・また、杷木地区には、古代信仰を伝える霊山・阿蘇山三峰があり、泥打ち祭で知られる倭国系の阿蘇神社、また、新羅系とも目される おしろい祭で知られる大山祇神社などもある。
 杷木地区の住民は、明治維新後、すべて入れ替わったという話もあるが、伝統行事は絶えていない。

 ※付記

 [黒川院助有について]
 ・因みに、倭国の時代から遥かに下る事績、黒川院については、別記しているが、再度ここにまとめておく。

 ・初代彦山座主黒川院助有(1320−1361)は、持明院統の後伏見天皇(鎌倉〜南北朝時代)の第七皇子長助法親王。
 ・元弘3年(南朝年号1333)大覚寺統の後醍醐天皇に呼応して足利尊氏が挙兵し、持明院統の父や光厳天皇などが処分されるなか、身の危険を感じた長助法親王は、正室の父、豊前国城井城主宇都宮頼綱を頼って南下した。
 ・翌年、倭国の時代から続く山岳信仰の霊地黒川に入り、法名「助有」(じょゆう)を名乗り、黒川彦山(岩屋権現)の下方に御館(黒川御所・黒川院)を設け、一帯を神領・寺領とした。
 また朝倉地方における大行事社(高木神社/祭神は大歳神=饒速日命、或は高皇産霊尊)の中心であった黒川宮園の大行事社の祭祀を掌握し、彦山初代座主となった。そして黒川は、僧坊が建ち並ぶ彦山修験の一大拠点・神仏習合の宗教都市となった。

 ・その後黒川院は、浄有-有忠-有俊-有依-有厳-頼有-尭有-興有-有胤-有信-連有-連忠と世襲され、天正15年(1587)14代舜有の死後、豊臣秀吉に寺領を没収され、天正18年(1590)座主昌千代が豊前の彦山(英彦山)政所坊に移ったので、250年余で途絶えた。
 豊臣秀吉による寺領没収は、黒川に限らず、黒川院の傘下にあった朝倉の各地の大行事社を含んでいたが、同各社は、それぞれの地区の産社となっていたものもあり、それによって廃社となった社はなかった。 
 要は、このときまで彦山・彦山修験道の中心地は、黒川にあったということなのである。
 なお、現在の英彦山神宮宮司高千穂家は、この黒川院の後裔である。

 ・元和9年(1623)、黒川院跡地及び黒川彦山修験の残存勢力は、福岡藩2代藩主黒田忠之により徹底的に破壊されたので、かつての黒川の繁栄を物語る遺跡、遺物の多くは失われた。

 [黒川・彦山権現 (史料)]
 ・上座郡黒川村 「彦山権現」 イハヤマ 幷下宮 里民ハ岩屋権現といふ。村の艮(うしとら)五丁斗隔れり。祭る所伊弉諾尊・伊弉冉尊・天忍穂耳尊なり。高四間横三間斗の大岩也。その西に横二尺高一尺五寸入壹尺五寸餘の穴をうがち、其内に神体を勧請せり。神體霧に蒸されて朽敗せるゆへに、貞享四丁卯年十一月内祠を造りて其中に鎮座せり。又この地を下り、田圃を隔て二町餘西の方に下宮あり。祭る所の神ハ上宮におなし。古へ彦山座主、此村に住せし時祭れりといふ。高五間餘横八間斗の岩穴の中に神體あり。この石穴天工なり。社地に紫藤多し。花の頃ハ美観也と言。(筑前國續風土記附録)。

 ・黒川村 「彦山権現社幷下宮」 上宮は杉馬場の人家の上三町許岩山と云處に在り。里人は岩屋権現と云。祭る所伊弉諾尊・伊弉冉尊・忍穂耳尊也。社地に巨石十箇ばかり重り建り。第一二の岩ノ間を針ノ耳といふ。第三の岩根に小祠有て木像男女五神を安措す。社後の岩に横二尺高サ入各一尺五寸許の穴あり。昔ハこの裏に神体を置きしと云。今ハしからす。下宮は上宮の西二町許に在り。大岩二つさしかかれるの前に小祠あり。すへて此邊の岩の形奇なる者多し。(筑前國續風土記拾遺)

 ※つづく→「朝倉社・麻氐良布神社機創噌(九州王朝)終末期の王府17朝倉市」。

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2017年09月24日

黒川の彦山と高木神社機創噌(九州王朝)終末期の王府15朝倉市

 前回「役小角、日子山(英彦山)〜倭国(九州王朝)終末期の王府14朝倉市」から続く。

 (16) 筑前黒川の彦山と高木神社

黒川宮園高木神社風景1 前回、[黒川彦山]に若干触れた。

 また、「黒川高木神社」については、「黒川高木神社にて(朝倉市黒川宮園)」に別記しているが、今回、補足しておく。
 ※画像は、黒川宮園高木神社。



 [朝倉市黒川]

 ・朝倉市黒川地区(旧高木村)は、かつて朝倉山と称された「麻底良山」の北部〜北東部に位置する集落で、黒川郵便局などがある黒川の中心地には、国道386線の比良松・須川(高速朝倉IC付近)から上須川地区を経由して上る県道79号線、同志波から上る県道588号線や山田から上る市道、また、佐田川に沿った県道509号線から79号線、588号線を下る谷あい道があるが、今回(2017.7.5~6)の九州北部豪雨でそのすべての道が土砂で埋まり、交通が完全に遮断され、集落は山中に孤立した。

 また、黒川中心部には佐田川の支流黒川が県道588号に沿って流れ入り、土砂崩れによる崩壊家屋や田畑流出、或は出産のために里帰りしていた若い妊婦さんとその子を含む人たちが死亡するという何とも痛ましい事故もあった。未だ現地に入ることはできず、本稿は、それ以前に訪れたときの記憶をたどりながら記す。

 ・筑前國續風土記…黒川村 佛谷の南にある村也。深山幽谷也。其谷水は佛谷に出つ。佐田とは別村なり。谷中長しといへとも、村より上の方には人家なし。岩山と云山あり。彦山権現勧請せし所にて、上宮、下宮なとあり。むかしは大社なりしや。座主坊の宅址とて、御館と云所あり。此村に川あり。是を黒川と云。故に村の名とす。懐中抄に、黒川と人は見るらんすすみ染の衣の袖にかかる泪を、とあるは、此黒川の事にや、佐田と黒川の間、平たけといふ山あり。

 [黒川は彦山修験の拠点]

 ・黒川地区は山中に在りながら、水が豊富で、盆地状の耕地もあり、古代(5世紀頃)に農耕を営む人たちが住み着き、当地の彦山・岩屋権現を中心とした山々を信仰の対象とする山岳信仰が芽生え、山岳修行の行者の修行の場となり、やがて神仏習合の黒川・彦山修験道の一大勢力が形成されて行った。

 ・特に、6世紀前後頃、時の九州・倭国王府朝倉宮に居て、仏教を奨励した倭王多利思北孤(たりしほこ・たりしひこ)の時代には、黒川の彦山を中心とする山岳修験の形が出来上がっていたとも考えられる。

 ・さらに中世、黒川・彦山修験の最盛期を迎えたが、天正15年(1587)に彦山第14代座主黒川院舜有の死亡、豊臣秀吉の黒川院寺領没収、そして、天正18年(1590)跡を継いだ座主昌千代が黒川から豊前(添田町)の彦山(英彦山)政所坊に移り、さらに元和9年(1623)第2代筑前黒福岡藩主黒田忠之が、旧黒川院に係わるすべてを尽く破壊したことにより、その意気の根を止められた。

 ・現在、黒川彦山上宮岩屋権現や、参道石段の下にある下宮、或は宮園に鎮座する高木神社(旧大行事社)などにその繁栄の名残りを見ることができる。
 ただ厳密にいえば、黒川、佐田(旧高木村)とその周辺各地にその信仰の跡を物語る遺跡、遺物、伝承は、かなり残っており、私は、これらを調べまとめたいと思っていたが、話を伺うことにしていた古老が次々に亡くなり、加えて今年の豪雨災害、今となってはどこまで辿ることができるか心もとなくなってしまった。

 [黒川の彦山が英彦山の本家か]

 ・前にも述べたことがあるが、英彦山信仰のもとは、黒川の彦山だったのではないかと思っている。
それを端的に物語るものとしては、「岩屋権現の針の耳は、英彦山の母神である」という伝説がある。つまり英彦山の元は黒川の彦山(上宮・岩屋権現)であったという意味にもとれる。

 [黒川ほかの高木神社(大行事社)]

 ・黒川宮園にある高木神社(旧大行事社)は、彦山の「彦=日子(日之子)=天忍骨命(英彦山神宮主神)」の親神である「高皇産霊神」を祀り、黒川彦山を中心とした朝倉における彦山大行事社(高木神社)の中心的存在ではなかったか。(※下記)

 ・因みに高木神社の社名は、明治になって、大行事社の祭神高皇産霊神(たかぎむすびのかみ)の「たかぎ」(日本神話では「高木神」の名で出てくる)を採って付けたもので、旧社名は大行事社だった。

 ・そして、朝倉市黒川・佐田地区の旧村名であった「高木村」の村名は、まさに高木神社・高木神の「高木」をそのまま付けたものであった。
 それは、同村内に高木神社が3社現存(実際はもっとあったと思う)し、その中心的存在である高木神社が黒川宮園1806にあったからである。
 現在も当地区には、今も高木の名を付けた公共施設、団体等も多く、宮園高木神社の祭礼には、旧村全地区の人々が参加するので、当社が当地区の中心社であったことが分かる。

 ・弘仁13年(822)神領七里四方48か所に、所謂英彦山四十八大行事社を設けたとの伝承があるが、現存資料には、48社のうち、高良山の高樹村を含めて30社しか記載されておらず、添田町の英彦山中には大行事社(高木神社)の記載はない。

 ・太宰管内志には、「上代、彦山に領じたり地には、其神社を建て限とす。是を七大行事ノ社と云。其今ものこれり。七大行事と云は、日田郡夜開(よあけ)郷林村の大行事、又鶴河内村の大行事、筑前国上座郡福井村の大行事、同郡小石原村の大行事、豊前国田川郡添田村の大行事、下毛郡山国郷守実村の大行事などなり。此社今も有て神官是を守れり」とある。

 ・朝倉地方では、この7社のなかに、朝倉郡東峰村宝珠山24番の高木神社同東峰村小石原655番(若しくは小石原鼓978-8)の高木神社が入っているが、概して七大行事社は、英彦山神領の外郭にあるので、この7社と他の各社は、それぞれ別系統の成立だったようにも思える。
 ただし、見方を変えれば、上記東峰村の3社は、逆に黒川宮園高木神社の東部外郭にあった神社だということもできる。

 ・48社の中心は嘉麻市小野谷の高木神社であるという説もあるが、どの資料を見ても48社中、下記29〜30社の記載しかなく、曖昧である。
 ※(1) 朝倉市佐田2953。(2) 朝倉市佐田377。(3) 朝倉市黒川3328。(4)朝倉市黒川1806。(5) 朝倉市江川1201-1(→1212-58)。(6) 朝倉市杷木白木172。(7) 朝倉市杷木赤谷744。(8) 朝倉市杷木松末2784。(9) 朝倉市須川1683。(10) 朝倉郡東峰村小石原鼓978-8。(11) 朝倉郡東峰村宝珠山24。(12) 朝倉郡東峰村小石原655。(13) 筑紫野市大石字上ノ屋敷569。(14) 筑紫野市天山字山畑241。(15) 久留米市田主丸町豊城1088。(16) 嘉麻市熊ヶ畑1075。(17) 嘉麻市桑野2588。(18) 嘉麻市小野谷1580。(19) 嘉麻市桑野1399。(20) 嘉麻市平217。(21) 宮若市黒丸1572。(22) 田川郡添田町落合3583。(23) 田川郡添田町津野2227。(24) 田川郡大任町大行事118。(25) 田川郡大任町大行事2496-1。(26) 田川郡添田町大字津野6717-1。(27) 京都郡みやこ町犀川上伊良原字向田308。(28) 京都郡みやこ町犀川下伊良原字荒良鬼1594。(29) 築上郡築上町船迫字水上1133。(30) 久留米市御井町字神籠石121(高樹神社)

 ・この48社のうち、朝倉地方には12社の高木神社が掲げてあるが、このうち(3)は黒川疣目(いぼめ)で、黒川では荒田にもあったといい、今は地元で社名すら忘れ去られているが黒川呑吉山上にあったという話もある。
 (2)は佐田田代高木神社で現存しているが、佐田にはもう一社、大正13年に佐田高木神社に合祀された藪高木神社もあった。
 また、前述した朝倉市須川の朝闇神社は、旧大行事社であり、落ち着いて調べればもっとあるはずで、朝倉地方には、かなりの数の高木神社(旧大行事社)があり、宮園高木神社を取り巻くように点在していたことが分かる。


宮座案内板 ・黒川宮園の高木神社には、古代から伝わるとも称される伝統的宮座行事・黒川くんち(10月29日開催、福岡県無形民俗文化財)があり、同社は、黒川の山岳霊地・彦山と係わり、倭国ありし時代に鎮座し、朝倉地方における大行事社の中心的存在であったのではないかと思っている。


 なお、東峰村宝珠山では、同様の2古行事は同地の高木神社2社にはなく、福井神社(東峰村宝珠山福井925番1)に残っている。宝珠山はかつて筑前国上座郡福井村と言われていた。

 ・大行事社は、平安時代に、天台宗延暦寺の大行事社(日吉21社中の中7社の一)を勧請したものと言われており、朝倉における同各社もその時、その系列に組み込まれたと考えることができるが、同各社鎮座地には、その以前から九州王朝・倭国の神高皇産霊神、或は天照国照彦火明櫛玉饒速日命を祀る社があったと考えるべきだろう。

 ・彦山の彦は、「日子(日之子)」=「天子」で、天照大神の御子、天忍穂耳命であるとされ、英彦山神宮の主神となっているが、上記したように、日(天)は、高木神社の祭神高皇産霊神で、天忍穂耳命はその子であるとの説もある。
 私は、日(天)の天照大神は、実際は天照国照彦火明櫛玉饒速日命のことでないかと思い、したがって高木神社(大行事社)の主神は天孫である饒速日命ではないかと考えたことがあるが、事実、同様の説もあるようだ。
 なお、多利思北孤(たりしほこ)は、多利思比孤 (たりしひこ)の間違いで、彦山の「彦」は多利思比孤(彦)とのことだ考えることもできるのだろうか。

 [筑前國續風土記附録]
 黒川村 大行事社 ミヤゾノ 神殿三間・社拝殿三間二間・祭禮九月廿九日・石鳥居一基・奉祀熊懐能登 産神なり。祭る所伊弉諾尊・伊弉冉尊・高皇産靈也。相殿に五部神[天兒屋根命・大玉命・天鈿女命・石凝姥命・玉屋命]あり。祭禮の時、農夫十人會集し祭服を着るし、口に榊の葉を含ミ御餼・神酒及び種々の物を備へ、神前につかまつる事、恆例なりといふ。社内に祇園社あり。社前に川あり。是本編(※上記筑前國續風土記)に見えたる黒川也。 〇大行事二祀 イボメ ヤマカミ。
 
 ※つづく→「黒川の彦山と高木神社供創噌(九州王朝)終末期の王府16朝倉市」。

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2017年09月18日

役小角、日子山(英彦山)〜倭国(九州王朝)終末期の王府14朝倉市

 前回「斉明天皇崩御と朝倉山の鬼供創噌(九州王朝)終末期の王府13朝倉市」から続く。
今回は、前回、小説「役小角(黒須紀一郎)」に出ていた役小角と日子山(英彦山)について若干触れておく。

 [役小角]
 修験道の開祖は、役小角(役行者・役優婆塞・加茂役君・神変大菩薩)とされ、活躍した時代は、白鳳時代だという。
 白鳳時代とは飛鳥時代の後半で、広義には645年(大化の改新)から710年(平城京遷都)までの65年間をいい、この間、ヤマトでは皇極、孝徳、斉明、天智、弘文、天武、持統、文武、元明天皇が入れ替わったことになっている。

 修験道、役小角については、大峯山・金峯山寺(世界遺産)の採灯大護摩供の冒頭に次のような行者問答がある。
 「修験道とは」・「修とは苦修練行、験とは験徳の儀なり即ち深山幽谷に分け入り苦修練行の功徳を積みその験徳を顕す道にて候」。
 「修験道の開祖は」・「開祖は役行者神変大菩薩なり今を去る一千二百余年前舒明天皇第六年(634)元旦大和国葛城郡茅原郷に御誕生あらせられ幼にして英邁利発の誉高く当時の世相を慨嘆せられ終に日本全土の高山を苦修練行の後大峯山を御開山ここを修験根本道場とせられ過去現在未来の三世救済の本尊金剛蔵王大権現を御感得の実権の道を開創せられ御年68歳(701)にして天上せられると承り候畏(かしこく)も寛政11年(1799)光格天皇より神変大菩薩の諡号を給わる」。

 役小角の実在を示す史料「続日本紀」により、役君小角は、葛城山住の呪術者で、文武天皇3年(699)5月24日、その能力を妬んだ外従五位下の韓国広足の讒言により、伊豆大島に配流されことが分かる。

 役小角がいつ修験道の開祖となったのかは分からないが、斉明天皇7年(661)朝倉宮で斉明天皇が崩御したとき、役小角は、満27歳だったことになる。
 上記小説における役小角は、この時点ではまだ金剛山で修行中の身であったが、当時、日子山(英彦山)には役小角の師と通じた山岳修行者がいたことになっている。

 [日子山(英彦山)]
 当時、日子山(英彦山)に行者がいたとしたことは、多分、継体天皇二十五年(531)魏(ぎ)国の僧善正が来日して彦山に入り、猟師藤原恒雄(忍辱)と出会い彦山を山岳仏教の聖地として開山したという「伝説」を下敷きにしているのではないかと思うが、これは伝説であり、小説はフィクションなので真偽のことは分からない。

 日子山(英彦山)は、豊前にあり、大峯山、羽黒山とともに日本三大修験霊山と云われているが、彦山を「英彦山」と表記するようになったのは享保14年(1729)のことである。
 また、英彦山修験道の始まり(伝説)は、弘仁10年(819)、齢100歳を越える法蓮が日子山を彦山に改め、最澄の天台宗と結びつき霊仙寺を建立したときからで、11世紀前後頃に修験道の組織化が図られた頃、役小角と結び付ける作業が行われたのではないかとされているので意外と遅い。

 英彦山豊前坊(高住神社)で採灯大護摩供を見たことはあるが、現在、系統的な英彦山修験道はなく、英彦山神宮が中心になって、明治維新の神仏分離、修験道廃止で途絶えた同修験道を復活する試みもなされているようだ。

 [筑前黒川の彦山]
 しかるに、不思議なのは、北朝正慶2年・南朝元弘3 年(1333)、彦山座主として南下した後伏見天皇第六皇子長助法親王が御館(黒川御所・黒川院)を構えた地が、豊前の彦山でなく、筑前の彦山(朝倉市黒川宮園)であったことだ。ということは、ここが本来の彦山だったのかもしれない。
 黒川から豊前の彦山に行くには、かなり険しい山越えをしなければならず、どうして座主御館を筑前黒川に設けたのかが不思議だったが、本来の彦山が筑前黒川の彦山だったからと考えると合点が行く。
 黒川の彦山には、上宮、下宮があり、山麓に日ノ子を祀る高木神社(旧:大行事社)も鎮座し、かつて僧坊が建ち並んだ朝倉地方における修験道の一大拠点があった。

 天正15年(1587) 豊臣秀吉が黒川院寺領を没収し、同18年(1590)15代座主昌千代を豊前の彦山に移し、元和9年(1623)福岡藩2代藩主黒田忠之が黒川院跡を破壊したことで、当地の修験道は途絶えた。このとき、彦山が筑前から豊前に遷ったような気もしている。

 つまり、古代に開かれた本来の彦山は黒川だったのかもしれないと考えてみた。
 小説の著者はそんなことは思っていないと思うが、同書にある7世紀中葉の日子山(英彦山)の行者とは、当時、既に開かれていた黒川の彦山の行者(山岳修行者)ではないかとイメージして読んでいた。

 ※つづく→「黒川の彦山と高木神社機創噌(九州王朝)終末期の王府15朝倉市」。

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2017年09月15日

斉明天皇崩御と朝倉山の鬼供創噌(九州王朝)終末期の王府13朝倉市

 前回「斉明天皇崩御と朝倉山の鬼機創噌(九州王朝)終末期の王府12朝倉市」から続く。

 (15) 小説「役小角」(黒須紀一郎)から

 ・かつて修験道の教祖役小角(役優婆塞・役行者・神変大菩薩)に係わる図書を読み漁ったことがあったが、そのなかに「朝倉山の鬼」について書いた小説「役小角~異界の人々(上巻)・続役小角~神の王国(下巻)/黒須紀一郎」があった。
 小説のことだから、とやかくいうことではないが、日本書紀を土台にして話を展開しており面白いので、ここに取り上げておきたい。

 ・ここでは、役小角の師で、大神(物部氏の祖神饒速日大王)の霊を呼び寄せ呪術を行う金剛山の行者「五鬼童」という人物と、降三世明王など五大明王の真言を口にする新羅の高僧(真言僧か)で「自覚」という人物の二人が登場する。
 暗に、修験道(開祖役小角)は、物部氏の祖神(饒速日大王)と新羅仏教(真言)が結合してできたものであると言っているようにも思える。
 先の時代に起きた物部氏と蘇我氏の抗争は崇神排仏×崇仏派の争いだとされているが、物部氏は排仏にあらず、崇神・崇仏であり、神仏習合・修験道の先駆けでもあった。

 ・上記二人は、斉明天皇が、一度滅亡した百済救援の名目で大唐、新羅同盟軍と戦う軍船を白村江に差し向けるという愚挙を阻止すべく筑紫に南下し、斉明天皇が定めた朝倉宮居の鬼門方向にある森の中に隠れ家を作り、日子山(英彦山)の行者の手助けも得て斉明帝呪殺の陣を敷いたが、韓国広足(少年)がその呪術を見破り中大兄皇子に直訴したことにより、二人は、皇子が差し向けた軍によってあっさりと殺害された。

 ・後に「鬼神を使役して人々を惑わしている」と文武天皇に讒言して役小角を陥れ、いみじくも役小角が実在したことを後世に知らしめることになった韓国広足(物部氏支族、典薬頭になる)が、ここに出てくるのも面白いが、上記二人の死から2か月後の斉明天皇7年(661)7月24日、ここにきて呪術が効いたのか斉明天皇は急死した。

 ・そして、上巻は、「八月愬日(1日)皇太子は、天皇の喪に従って、磐瀬宮に至った。この夜、朝倉山の上に鬼が現れ、大きな笠を着けて葬儀の模様をうかがい見ていた。人々はみな怪しんだ(日本書紀)。確かに人々は、朝倉山に鬼がいるのを見たのだ。しかも、その鬼は、斉明の死を確認するかのように、葬儀の様子を窺っていたという。」で結んでいる。

 ・下巻で、「朝倉山の鬼」は、「五鬼童」の霊魂であったとしているが、小説は、ヤマトを倭国と言い、倭国九州王朝のことなどまったく念頭にないので、このような展開にしたのだろう。
 それはともかく、二人が殺害された隠れ家があった場所は「朝倉山の山中」としている。この「朝倉山」は、一般的に「麻底良山」のことだとされている。

 ・小説では、「朝倉山(麻底良山)」が「朝倉宮居の鬼門(北東)方向にある」と記しているので、逆に、朝倉宮居(朝倉橘広庭宮)は、朝倉山の南西方向にあったことになる。
 つまり、著者は、朝倉宮居(朝倉橘広庭宮)は、一般的に言われている須川地区ではなく、斉明天皇の葬儀が行われたという御陵山(恵蘇八幡宮・木の丸殿跡)がある山田恵蘇地区にあったと想定しているのだと思う。
 斉明天皇が崩御した地区でその葬儀も行われたと考え、山田恵蘇地区を推定したのだと思うが、発掘調査では、いずれの地区でも宮居跡は発見されていない。

 ・さらに、本書で興味を覚えたのは、朝倉山における斉明天皇呪殺に日子山(英彦山)の行者が手助けしたとあることだ。
 物部神と新羅仏教(真言)とが結合集合して山岳仏教・修験道ができたとして、その開祖役小角がその呪術を世に広める前に、既に朝倉では、日子山の行者(山岳信仰行者・修験者)が活躍していたことになる。

 ・先に、既に九州には、倭国王多利思北孤(たりしほこ)在任以前(6世紀)に、百済式仏教寺院の官寺(朝倉では須川の長安寺・朝闇寺)があったと記したが、かといって倭国の外交は、百済寄りであったわけではなく、新羅との親交も深く、新羅伝来の仏教も取り入れていたと思われ、倭国には物部氏も加わっていたので、山岳仏教・修験道が発生する素地はあっただろう。

 ただ、ここにいう日子山(英彦山)は、豊前の彦山のことを指しているのだと思うが、英彦山が開かれたのは、平安時代初期で、開祖は役小角の4代後の寿元だと考えられている。
 では、小説に出てくる日子山(英彦山)の行者とは何か。小説だから、時代錯誤はあっても仕方ないが、もし筑前黒川(朝倉市)の彦山(英彦山とは書かない)であれば、当時既に行者がいた可能性がある。これについては次回以降に記す。

※つづく→「役小角、日子山(英彦山)〜倭国(九州王朝)終末期の王府14朝倉市」。

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2017年09月10日

斉明天皇崩御と朝倉山の鬼機創噌(九州王朝)終末期の王府12朝倉市

 前回「斉明天皇御陵・木丸殿舊蹟〜倭国(九州王朝)終末期の王府(11)朝倉市」から続く。

 (14) 神・鬼火・大笠の鬼

 斉明天皇崩御に係わる日本書紀(原文漢文)の記事を再掲する。
 「五月乙未朔癸卯(5/9)、斉明天皇は朝倉橘廣庭宮に遷居。是時、朝倉社の木を斮除(切り払い)この宮を作った故にが忿り殿(おおとの)を壊した。亦宮中に鬼火が見る(あらわれる)。故に大舎人(おおとねり)と諸々の近侍、病み死ぬ者衆(おお)かりき。秋七月甲午の朔丁巳日(7/20)、天皇朝倉の宮で崩御。八月甲子朔(さく)丁巳(8/1)、皇太子(ひつぎのみこ)、天皇の喪に奉従して還り、磐瀬宮に至る。この夕、朝倉山の上に大笠を著けた鬼あり、喪の儀を臨み視ていたので、衆の皆は嗟怪(あやし)しんだ。冬十月…」。

 ・これまで、ここに出てくる「神」と「鬼火」、「大笠の鬼」は、同一するものとみて、この記事に係わる神、鬼は、倭国(九州王朝)の人々の怒り、怨念を語っていると記してきた。
 つまり、斉明天皇は、倭国の宮居であった朝倉橘廣庭宮に入り、倭王・筑紫君薩野馬(さちやま)に百済救援軍の編成と出動を突きつけ、宮居を占拠し、急ぎ周辺の朝倉社の樹木切り払い、丸木(黒木)のままで、戦闘・防御用の木の丸殿(黒木御所)の建造に着手したので、倭国の民の怒りが爆発して(朝倉社の神が忿りと表現)、倭国軍の一部が武装蜂起し、宮居を襲い(鬼火が見ると表現)、斉明天皇及び天皇に付き従っていた大舎人(親衛隊長)以下の衆を殺害した(病死と偽装した)。

 ・なお、斉明天皇崩御後、磐瀬宮より急ぎ朝倉に入った中大兄皇子が恵蘇・御陵山に造ったとされる殯(もがり)宮も「木の丸殿(黒木御所)」としているので、近くに同名の遺跡が二つあって紛らわしいが、いずれの「木の丸殿」も、倭国にとっては目障りなものであった。この二つは同一の場所にあったと考えることも不可能ではないが、いずれもしろ発掘調査等による特定はない。

 ・御陵山の東方で中大兄皇子軍に敗れた倭王・筑紫君薩野馬は、否応なしに百済救援軍の編成と出撃を承諾させられ、やがて筑紫君薩野馬を総大将として出陣した倭国船団は、白村江で待ち構えていた唐の軍船により全滅、筑紫君薩野馬は捕虜となって唐に連行され、後に許されて帰国する(※このとき初めて書記に筑紫君薩野馬が出てきて、白村江の戦いの総大将であったことが伺えるが、その後、書紀にこの名が出てくることはない)が、この間に、倭国は滅亡し、ヤマト王権に吸収された。

 ときは前後するが、日本書紀は、白村江の戦いや倭国滅亡より後になって、ヤマトで編纂されたものだから、その編纂に加わった旧倭国の書記官が、当時ことを振り返り、自らを含む旧倭国の民の怒りの大きさを、その執筆時に、それと悟られないように「大笠を著けた鬼」と表現したのではないか。
 なお、日本書紀においてこのような形で鬼が出てくる斉明天皇崩御、喪儀に係わる部分の記述は特異なものだという。それだけに裏に隠されている歴史があることは確かである。

 ・私は、ここで「神=鬼」という捉え方をしたけど、これは、神=善、鬼=邪・(神×鬼)とした日本書紀の考え方からみると矛盾する。
 同上旧書記官は、そのこと(神×鬼)は承知のうえで、あえて、それ(神=鬼)と悟られないように注意して、この部分をこのように表現したのだと思う。
 だが、この部分は、読めば読むほど「神の怒り=鬼火見る=大笠の鬼」と思えてくる。

 ・「神」と「鬼」に関して、「聖徳太子と物部氏の正体/関裕二」…聖徳太子の物部守屋征伐は鬼退治?、聖徳太子の母は鬼の一族だった、に次の記事があったことを思い出したので付記しておく。
 「古来、は『モノ』と読まれ、物部氏の『モノ』もまた、鬼そのもの・物の怪のモノ、を意味している」。
 「日本古来の信仰は、神と鬼は同一であったが、日本書紀は、善の神、邪(あ)しき鬼(もの)を峻別してしまった」。

 ・「鬼」が物部氏を意味するものであれば、上記した「鬼は倭国の怒り」は、「鬼=倭国=物部氏」となってしまうが、もちろん私はそのような気持ちで本稿を書いたものではない。

 ・そう言えば、以前読んだ「古代史論文集『倭国』とは何か」収録の「二中歴の検証―九州年号と九州の政権主権者/兼川晋」に、「筑紫系物部の押坂彦人王(多利思比弧)」「筑紫君が筑紫系物部の主権者の別称ならば薩野馬は鏡王とも考えられる。すると白村江の戦いの主権者は鏡王だった可能性が最も強い」「天武は…筑紫系物部の鏡王の弟だった」「鏡王の倭国」「白雉元年壬子(652)~ 九年(660)鏡王?」などの記事があったことを思い出した。ただし、私は、この説について消化不足のままである。

 ・ただ、朝倉地方には、物部系と思われる 大己貴神社(朝倉郡筑前町=旧三輪町弥永)がある。
 地元では「大神(おんが)様」と言い、祭神の大神・大己貴神(おおなむちのかみ)は大国 主神とされているが、「古代日本正史/原田常治」によると、当社は、奈良県桜井市三輪の大神(おおみわ)神社の現形となる古社で、実際の祭神は大物主神、即ち物部氏の祖神天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊であるという。

 なお、大神を「おんが」というのは、鞍手郡鞍手町中山の剣岳(八剣神社)を本拠地とした物部氏が、犬鳴川(遠賀川支流)沿いの宮若市磯光に物部氏の祖神・饒速日命を祀り(天照神社)、遠賀川流域周辺に広く分布していたことと関係があるのかもしれないが、「おおみわ・おおかみ(大神)」の呼称が「おんが」に変化したとも考えられる。
 ともあれ、朝倉郡に神功皇后とも係わりの深いこの古社・大己貴神社が鎮座していることにより、朝倉における倭国終末期の王府と物部氏と係わりがあったことは否めない。

 ※つづ→「斉明天皇崩御と朝倉山の鬼供創噌(九州王朝)終末期の王府13朝倉市」。

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2017年09月04日

斉明天皇御陵・木丸殿舊蹟〜倭国(九州王朝)終末期の王府(11)朝倉市

前回「中大兄皇子×筑紫君薩野馬〜倭国(九州王朝)終末期の王府(10)朝倉市」から続く。

 (13) 斉明天皇御陵と朝倉木丸殿舊蹟(後蹟)

  a. 御陵山で斉明天皇藁葬か

 ・前回、倭王多利思北孤が眠る御陵山古墳(恵蘇八幡宮古墳)上で、ヤマトの中大兄皇子がその母斉明天皇の御殯葬を行ったのであれば、当時の倭王・筑紫君薩野馬にとっては屈辱だったと思われるが、やがて倭国(九州王朝)の滅亡により、この古墳そのものが斉明天皇(仮)陵墓に変わったと書いた。

 ・御陵山古墳上には「斉明帝藁葬地」の石碑が建っている。
 ・古墳下の山麓には、中大兄皇子が木の丸殿(このまるでん)と言われた殯宮(もがりのみや)で喪に服している図絵(恵蘇八幡宮宝物図絵写し)を載せた説明碑(フレーム)が建っている。(※下記)

IMG_0103 ・また、山稜の入口(恵蘇八幡宮参道)には「朝倉木丸殿舊蹟」の石碑が建っている。

 このように、当地は、恵蘇八幡宮の由緒板の内容を含め、斉明天皇と中大兄皇子(天智天皇)一色の聖地となっている。


 ・これについては、以前(2010.12.11〜16) 「斉明天皇孫娘の墓発見の記事を読んで」「 師走の紅葉・朝倉御陵山(斉明天皇御殯葬地)にて」「御陵山(斉明天皇御殯葬地)と木の丸殿(1)(2)(3)」に記したので、今回、重複するが、少し書きとめておく。

 ・恵蘇八幡宮由緒板には、「斉明天皇御藁葬地<ごこうそうち>(御殯斂地<ごひんれんち>)」と書いてあるが、その意味の説明がないので、多分、斉明天皇の御遺体を藁で包んで腐らした後、棺に納めて安置した、或は棺の中に藁にくるんだ御遺体を納めたという意味なのだろうかと考えた。
 いずれにしろ、当地から御遺体を娜大津の「磐瀬行宮」に移動するときは、棺に納めていたのではないかと思う。なお、由緒板には、移動先を磐瀬宮(磐瀬行宮のこと)と記してはいるが、その場所についての説明はない。

 ・恵蘇八幡宮の裏山を「御陵山」と云っているが、それは、斉明天皇の御殯葬(御藁葬地・御殯斂)を行った地にある古墳を「斉明天皇(仮)御陵」としたことによるものだと思われる。
 同古墳の正面の鉄格子扉越しに墳丘を見上げると、方2間(1.8m)の石柵の中に建っている「斉明帝藁葬地」と刻した石塔が見えるが、「斉明帝御陵」とは書いてない。

 ・日本書紀に「秋七月乙未の朔にして丁巳の日、天皇、朝倉の宮に崩ず。八月甲子の日、皇太子、天皇の喪に従い、還りて磐瀬の宮に至る」とあり、朝倉橘広庭宮で斉明天皇(68歳)が崩御されたのが661年7月24日(秋七月の甲午の朔丁巳)で、磐瀬行宮から駆け付けた中大兄皇子が、その遺体を磐瀬行宮に移動したのは、7日後の8月1日(八月甲子の朔)となっている。

 ・中大兄皇子に古墳造職が同行していたとは思えないので、こんな短期間に、現在見るような立派な古墳を作ることは不可能に近く、また、仮葬を行うのに、わざわざ古墳を作る必要もなく、この以前から同地にあった古墳上で斉明天皇の仮葬(御殯葬)をしたと考える方が分かりやすい。
 ただし、本当にここで斉明天皇の仮葬(御殯葬)が行われたのかについては分からない。

 ・この古墳の被葬者は、倭王多利思北孤だと考えている人たちは多く、かつての地元の人たちは、この古墳を斉明天皇陵とすることで「御陵山」と称することにしたが、実際は倭王多利思北孤が眠る「御陵山」だと分かって崇めていたのかもしれない。
 そして、天武天皇時代に「恵蘇八幡宮」が鎮座した後も、地元では、この神社が、本当は、この古墳・倭王多利思北孤を祀る神社だと意識していたのかもしれない。

 b. 中大兄皇子の木の丸殿(後蹟)

 ・ところで、上記により斉明天皇の遺骸は、中大兄皇子とともに8月1日(八月甲子朔)に磐瀬行宮に移動しているはずなのに、御陵山麓に建っている画碑(フレーム)の説明には、なぜか「661年8月1~12日の間、中大兄皇子(後の天智天皇)が、殯(もがり)宮「木の丸殿」で斉明天皇の喪に服しているときの様子を描いた絵(恵蘇八幡宮宝物図絵)」とある。

 ・恵蘇八幡宮由緒板の末尾に、天智天皇の御製歌「朝倉や木の丸殿に我居れば名乗りをしつつ行くは誰が子ぞ」(新古今和歌集選歌)が書いてある。
 多分、後世、この歌になかにある「朝倉・木の丸殿」を以て、御陵山が斉明天皇陵(御藁葬地)でその山麓に中大兄皇子(天智天皇)の木の丸殿(殯宮)があったと推測し、上記のような恵蘇八幡宮宝物図絵が描かれ、当地を「朝倉木丸殿舊蹟」としたのかもしれない。

御陵山木の丸殿の図 ・そして、この木の丸殿(殯宮)は、中大兄皇子が斉明天皇の喪に服すために緊急に建てた建物だったので、それは、木皮が付いたままの丸木柱の建物(藁葺仮設小屋?)だったとして、後にこのような絵が描かれたのかもしれない。朝倉市史跡とはいえ何かしら後付け付会の感じもする。


 ・恵蘇八幡宮社記には、「中大兄皇子は、…御陵山の山腹に、木皮のついたままの丸木の柱を立て、板を敷き、芦の簾(すだれ)を掛け、苫(とま)をふき、あばら屋に、塊(かい)を枕に、1日を1ヶ月に代えて12日間喪に服され、この地は木の丸殿、黒木の御所と呼ばれるようになった」。  

 ・「黒木の御所」の黒木は、木皮のついた丸木を黒木というので、木の丸(丸木)と黒木は同じ意味。
 真夏の12日間、粗末な建物でも暑く、害虫にも悩まされただろうと考えたが、改めて考えると旧暦8月1〜12日は、新暦の9月下旬のことだった。いずれにしろ事実とは思えない。
 また、ご遺体の腐敗臭は、と思ったが、当時の葬送方法が分からないので推測できない。

 ・本来「木の丸殿」とは、斉明天皇の「朝倉橘広庭宮」のことをいうので、多分、上記の御製歌にある「木の丸殿」も、斉明天皇の「朝倉橘広庭宮」のことではないかと思っている。
 朝倉橘広庭宮で亡くなったのは、一人斉明天皇だけではなく、付き従った多くの将兵や従者も一緒に死んでいるので、当所で合せて仮葬したとする方が分かりやすい。そのようななかでわざわざ斉明天皇の遺体のみを御陵山(倭王御陵)に運んで仮葬したのであれば、筑紫君薩野馬に対する見せつけ以外には考えられない。

 ・しかるに、この御製歌の「木の丸殿」を御陵山としたので、朝倉に「木の丸殿」が二つできてしまい、混乱が起き、朝倉橘広庭宮(木の丸殿)と区別するために御陵山の方を「中大兄皇子(天智天皇)の木の丸殿」といい、また「木の丸殿後蹟」という言葉もできた。

 ・私は、前回、この中大兄皇子の木の丸殿は、倭国王府(筑紫君薩野馬)軍と対峙するために緊急に作った戦闘・防御用の丸木の柵、丸木の小屋だったのではないかと想像した。
 このことは、恵蘇八幡宮由緒板にある「中大兄皇子は、御遺骸を一時山上に御殯葬され軍を進め、後に奈良県高市郡越知岡村へ移される」の「軍を進め」の文にも注目した。
 ただ、由緒板は、「軍を進め」の後にいきなり「後に奈良県…」とつなげているが、このとき、軍を進め倭国王府軍との戦闘があったはずで、この文は間が飛んでいると思う。

 ・日本書紀には、斉明天皇の遺骸を磐瀬行宮に移動するとき「「是夕於朝倉山上有鬼、著大笠臨喪儀、衆皆嗟怪」(この夕、朝倉の山の上に鬼あり大笠を着け喪の儀を臨み視る。衆皆な怪しむ。)と記しており、前にもこの鬼は、中大兄皇子の策略によって滅びの道を突き進む倭国の人々の怨念だったかもしれないと書いたが、このことは改めて後述(別記)する。

 c. 斉明天皇御陵(御遺骸、磐瀬行宮から飛鳥越知岡村へ)

 ・磐瀬行宮に移動した斉明天皇の御遺体は、日本書紀に「冬十月の癸亥の朔己巳に天皇の喪帰りて海に就く」とあるので、約2か月後の661年10月7日に船で飛鳥方面に運ばれたことになる。

 ・その移動先について、恵蘇八幡宮由緒板は「中大兄皇子は、御遺骸を一時山上に御殯葬され軍を進め後に奈良県高市郡越知岡村へ移されると記されています」と記している。

 ・「越知岡村」は、現在の奈良県高市郡明日香村大字越で、同地には、八角形墓「牽牛子塚古墳」(斉明天皇・間人皇女<中大兄皇子の妹>の合葬墓説あり)がある。(※なお、隣接の「越塚御門古墳」は斉明天皇の孫娘大田皇女墓との説がある)。
 ・ただし、明治時代に宮内庁が日本書紀の記述をもとに治定した斉明天皇陵(合葬墓)は、「車木ケンノウ古墳=斉明天皇越智崗上陵(おちのおかのうえのみささぎ)・間人皇女越智崗上陵」(奈良県高市郡高取町大字車木)である。(※なお、その南隣接地に大田皇女越智岡上墓もある)。
 いずれにしろ、「斉明天皇御陵」は、奈良県にある。

 ※つづく→「斉明天皇崩御と鬼〜倭国(九州王朝)終末期の王府12朝倉市」。

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