2017年10月

2017年10月15日

朝倉社・麻氐良布神社検創噌(九州王朝)終末期の王府20 朝倉市

 前回「朝倉社・麻氐良布神社掘創噌(九州王朝)終末期の王府19朝倉市」から続く。

 [麻氐良布(マテラ)神社の境内神社、末社]
 ・境内神社: 十九座神社、宗像神社、織幡神社、筥崎宮、住吉神社、志賀海神社、志登神社、筑紫神社、竈門神社、美奈宜神社、於保奈牟智神社。末社: 天満宮。(福岡縣神社誌)

 ・筑前國續風土記附録には「(麻氐良布神社)社前左の方低き所に石祠十宇あり。筑前十九神を祭れり。宮司普門院に麻氐良布下宮・巌嶋大明神の社あり。麻氐良の續きにミゾカミヤマといふあり。愛嶽山權現の石祠あり。」とある。
 また、同拾遺には「國中式内の神=箱崎 住吉 宗像 織幡 志登 宝満 筑紫 弥永 美奈宜 志賀=を祭れる石祠あり。/(普門院)境内に麻氐良布下宮及び巌島社、聖天堂あり。」とある。

 [筑前國式内の神11社]
 ・上記附録の「石祠十宇」は、上記拾遺の「國中式内の神」10社を祀る石祠のことだが、これを上記神社誌の「境内神社」11社のうち「十九座神社」を除いた10社と重ね合わせると次のようになる。

 “∈=筥崎宮、⊇撒=住吉神社、宗像=宗像神社、たト=織幡神社、セ崚=志登神社、κ満=竈門神社、筑紫=筑紫神社、弥永=於保奈牟智神社、美奈宜=美奈宜神社、志賀=志賀海神社。

 ・麻氐良布神社の境内鎮座の筑前「國中式内の神」(石祠十宇)は、高格式の古社「延喜式神名帳・筑前国式内社」11社のうちの10社であるが、同じ式内社の一「麻氐良布神社」神殿を含めると、麻氐良布神社境内には「筑前国式内社全11社」が揃っていることになり圧巻である。
 事実、麻氐良布神社に行くと、社殿の前に立ちはだかるように並ぶこの石祠群に圧倒され、これを見ただけでも麻氐良布神社が筑前国有数の神社であったことが伺える。

 ・(参考)「筑前国式内社11社
 …「神名帳の所在郡名・神社名・社格」=「比定社の神社名・所在地」を下記しておく。

 ‘甓儼粥嵌幡大菩薩筥埼宮」名神大=「筥崎宮」福岡市東区箱崎1丁目=(筑前国一宮)
 那珂郡「住吉神社三座」並名神大=「住吉神社」福岡市博多区住吉3丁目=筑前国一宮
 宗像郡「宗像神社 三座」並名神大=「宗像大社」辺津宮:宗像市田島、仲津宮:大島、沖津宮:沖ノ島
 そ〜郡「織幡神社」名神大=「織幡神社」宗像市鐘崎
 プ淌攘粥峪崚仗声辧彎=「志登神社」糸島市志登
 Ω羈涎粥帋淕膺声辧很梢逝=「竈門神社」(上宮:太宰府市北谷 宝満山頂、下宮:内山)
 Ц羈涎粥崔淹膺声辧很梢逝=「筑紫神社」筑紫野市原田
 夜須郡「於保奈牟智神社」小=「大己貴神社」朝倉郡筑前町弥永
 下座郡「美奈宜神社三座」並名神大=「美奈宜神社三座」(論)朝倉市荷原・(論)朝倉市林田
 糟屋郡「志加海神社三座」並名神大=「志賀海神社」福岡市東区志賀島
 上座郡「麻弓良布神社」小=「麻氐良布神社」朝倉市杷木志波

 [筑前国十九神の一]
 ・福岡縣神社誌の麻氐良布神社由緒に「當國十九神一也」とあり、上記附録には「筑前十九神を祭れり」とあるが、この十九神とは、「延喜式神名帳 西海道筑前國十九座」(筑前国十九神)のことである。
 つまり「當國十九神一也」とは、麻氐良布神社が「延喜式(式内社)筑前国十九神のうちの一社」ということで、「筑前十九神を祭れり」とは、麻氐良布神社には「神殿、境内神社を含めて同延喜式(式内社)筑前国の十九神のすべてを祭っている」ということである。

 ・この筑前国十九神とは、上記「筑前国式内社11社」を19社(十九神)と数えた場合のことを指している。
 つまり、11社のうちの「住吉、宗像、志加海、美奈宜神社」の4社には、それぞれ三神・座(三社)あるので、11+4×(3-1)=19神・座(十九社)で、「十九神」となる。(※内訳:大16、小3)

 [十九座神社と崇敬者区域]
 ・上記「境内神社」の一「十九座神社」については、何処にも説明がないが、上記の「筑前国十九神」とは、別の社であると思っている。
 つまり、私は、この「十九座神社」は、麻氐良布神社を崇敬者地域(旧上座郡、下記旧19村…麻氐良山の東方地区〜現朝倉市杷木、旧高木村、現東峰村地区)にある各産土神19社の御神霊をまとめた合祀社祠ではないかと思っているのである。
 ・因みに、麻氐良布神社は、旧郷社で崇敬者区域は旧上座郡全域に亘り広いが、産子・氏子を持たず、同郡各村の産土神の上に位置する惣社的性格を有していたものだと考えられる。

 ・「麻氐良布神社の崇敬者区域」について、福岡縣神社誌は、「志波村、高木村、久喜宮村、杷木村、松末村、宝珠山村、小石原村」の七村を記している。ただし、これは、昭和19年当時の朝倉郡内の村名であり、それより以前、合併等により七村に集約される以前の旧村は下記〇19村である。

 ・志波村 =〇崘搬(単独村)。
 ・高木村 =∈甘賃次↓9川村。
 ・久喜宮村=さ彜邉楝次↓ゼ禹埖次↓Ω轍貘次↓Т┸綢次
 ・杷木村 =池田村、白木村、林田村、穂坂村。
 ・松末村 =星丸村、大山村、松末村、赤谷村。
 ・宝珠山村=以珠山村、永^翅次
 ・小石原村=仮石原村、蓋歛次

 そして、「十九座神社」は、この19村の産土神…下記19社(旧村社14座、無格社5座)ではないかと思っている。(※ただし、これは、私の推測なので、もし間違いがあるときはご指摘頂きたい)。

  〇崘搬次嵎満宮」 
  ∈甘賃次高木神社
  9川村「高木神社
  さ彜邉楝次崙吉神社」
  ゼ禹埖次嵜棆貎声辧(無格社)
  Ω轍貘次嵳七鄂声辧(無格社)
  Т┸綢次崚桂宮」(無格社)
  池田村「杷木神社」
  白木村「高木神社
  林田村「野津手八幡宮」
  穂坂村「阿蘇神社」
  星丸村「正信天満宮」(無格社)
  大山村「大山祗神社」
  松末村「宮地嶽神社」(無格社)
  赤谷村「高木神社」。
  以珠山村「高木神社
  永^翅次嵎^羶声辧
  仮石原村「高木神社
  蓋歛次 高木神社

 以上を見ただけでも、高木神・高皇産霊神(天孫邇邇芸命の外祖父)を祀る「高木神社」が7社ある。朝倉地方全体を見ても「高木神社」の数は、ここに表れない無格社、合祀社、境内社等を含むと相当数あり、朝倉地方が日本発祥の高天原であったことが伺える。高木神社(高木神)の中心は、前述したように(豊前の英彦山ではなく)上記の黒川宮園の高木神社(ここのみ高木大神という)で、この黒川地区に彦山(岩屋権現)がある。
 因みに福岡県下で旧村社として神社誌に記録されている高木神社は、上記7社のほかに、(旧郡村・字名で表示→)[田川郡]津野村正護山、津野村津野宮床、彦山村落合宝流、[筑紫郡]御笠村天山山畑、御笠村大石上ノ屋敷、[嘉穂郡]宮野村桑野普門司、宮野村桑野神有、[京都郡]伊良原村上伊良原向田、伊良原村下伊良原荒良鬼山など9社ある。

 なお、ここには記していないが、各社の詳細を調べれば九州倭国を抑えた藤原氏の勢力図が見えてくるのではないかと思うが、省略する。

 ・この旧19村の名は、現在、朝倉市、及び朝倉郡東峰村の集落名(大字、小字)としてすべて残っている。なお、これらの地区の多くは、平成29年7月九州北部豪雨で打撃的な被害を受けた。

 ※つづく→「恵蘇八幡宮の由緒〜倭国(九州王朝)終末期の王府21 朝倉市」。

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2017年10月11日

「朝倉社・麻氐良布神社掘創噌(九州王朝)終末期の王府19朝倉市」

 前回「朝倉社・麻氐良布神社供創噌(九州王朝)終末期の王府18朝倉市」から続く。

 [祭神は2群あり]
 ・麻氐良布神社の祭神(相殿含む)を改めて見直すと、次の2群に分かれていることに気づく。
  a. 月讀尊(月神)、天照大神(日神)、伊弉諾尊、素戔嗚尊、蛭子尊、伊弉冊尊。
  b. 齊明天皇、天智天皇、明日香皇子
 以下、その詳細を記す。

 [天照大神(高天原女王)=卑弥呼(邪馬台国女王)]
 ・a.群の神々は、主神「天照大神」(日神)と係わる神々である。
 ・記紀により多少記述に違いはあるが、a.群の六神の関係は、^没佳尊と伊弉冊尊は夫婦神で、I隼丗此↓づ珪搬膺(日神)、シ鉤β(月神)、α狽罫紡困鮖困鵑澄

 ・このうち、伊弉冊尊が召された黄泉国に行き、穢れた躰で逃げ帰った伊邪那岐命(伊弉諾尊)が筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原で禊祓いをしたときに生まれた三神=天照大神(左目)、月讀尊(右目)、素盞嗚尊(鼻)を「三貴神」というが、高天原(筑紫・九州)の中心的存在は「天照大神」(日神)で、この後、天照大神は、高天原から一歩も外には出ておらず、後の神武天皇の東征先をヤマトとしない限り、ヤマトの祖神とはなり得なかったはずである。

 ・しかるに見方を変えてみると、b群の斉明天皇は、自らの祖神(ヤマト王権の祖神天照大神)が鎮座する朝倉社・麻氐良布神社の木を勝手に伐採したのだから、自ら、自らの神を冒涜したことになり、自らの神の忿りを受けたことになる。その怒りは万死に値したのだ。つまり麻氐良布神社のa群の神々は、ヤマトの王(天皇)より遥かに高位の神だったことになる。

 ・天照大神を天照大日孁貴尊(おおひるめむちのみこと)、九州邪馬台国の女王卑弥呼と同神と考える説があり、安本美典は、天照大神=卑弥呼天照大神の高天原=卑弥呼の邪馬台国=甘木朝倉地方と断定した。
 朝倉地方には、天の香山(かぐやま)や安の川原岩屋神社(天の岩戸)があり、天(あま)にも通じる甘木(あまぎ)もある。香山の西に大和の霊山・畝傍山に匹敵する麻氐良山があり、邪馬台(臺)国名に類似する山田や、馬田高田などがある。卑弥呼の墓は、馬田にあった旧大刀洗飛行場の建設時に失われたともいう、キリンビール工場近くに墓石蓋が残るリンリン石(馬田中原遺跡の一部)もある。また、古事記神話に度々見える高木神(高御産巣日神)を祀る高木神社が数多く鎮座している。仁鳥には卑弥呼を祀る神社もある。
 因みに、朝倉甘木地方には朝倉の古代文化の高さを忍ぶことができるおびただしい古代遺跡(縄文・弥生・古墳時代)が存在し、また4世紀頃と思われる神功皇后の伝説地も多く、古くに開けていたことは確かである。

 ・邪馬台国甘木朝倉説で交通網をみたとき、朝倉地方は、後の倭国三政庁(三府)=太宰府[都督府、太宰府市都府楼]、太保府[小郡市大保 小郡官衙遺跡]、太傅府[飯塚市大分 大分八幡、大分廃寺跡付近か]に通じる道の中心的位置にある。

 ・本稿「倭国(九州王朝)終末期の王府 朝倉市」は、その王府(王城)の一を倭王多利思北孤(たりしひこ)が居た朝倉宮(朝倉橘広庭宮)としているが、邪馬台国甘木朝倉説に則れば、既に2~3世紀頃に当地方に、何らかのその前身施設が設けられていたとも考えられ、それは、前述「西の迫遺跡」以上のものであった可能性がある。

 ・別に邪馬台国には、山門説や、邪馬壹国八女一国説もある。八女には後に倭王・筑紫君磐井=岩戸山古墳=が現れるのでうなずけなくもないが、安本美典は、当時の山門郡は、大部分海底で、ここに国を作るのは不可能に近く、また、卑弥呼=天照大神と考えた場合、山門、八女地方に天照大神を祭る延喜式神名帳による式内社がないことを難点としている。

 ・因みに朝倉地方には次の式内社三社があり、それぞれに「天照大神」が祭られている。
 ‐綺揃款社一座「麻氐良布神社」。
 下座郡並大社一座「美奈宜神社(国名神大社)」。
 L訖楫款社一座「於保奈牟智神社」(※大己貴神社)

 ・また、邪馬台国の候補地の一つに上げられている馬田に鎮座する旧村社「高天神社」と、明治末に同社に合祀された無格社「若天神社」の祭神は「天照大日孁貴尊」(天照大神)と、天照大神とともに高天原の治世に携わった高皇産靈命(高木神社祭神)である。
 なお、朝倉地方で天照大神を祭神している旧村社には、「三所神社」(三奈木)、「大神社」(夜須下高場)、「五社神社」(夜須赤坂)、「大神宮」(夜須長者町)、「大神宮」(三輪下高場)、杷木神社境内社「七老神社」(杷木池田)などがある。

 ・やはり、後に九州王朝・倭国の王府ができる朝倉地方に女王卑弥呼(天照大神)を擁する邪馬台国があったことになるのかもしれない。
 しかるに安本美典は、邪馬台国東遷説(朝倉を含む筑紫→大和及び周辺地区へ、同じ地名あり)を称えて、神武天皇(3世紀と推定)以来のヤマトの天皇の紀年論を展開し、朝倉から離れた。因みに神武天皇即位の推定年(書記の辛酉年)は、241年とされた。原田常治、大野七三らも同年説で、これより以前が神代となる。この功績は大きいが、この年がヤマト王権の成立であったかどうかは分からない。

 [明日香皇子は倭国の筑紫君薩野馬か]
 ・b群の神々は、斉明天皇7年(661)年7月〜、九州王朝・倭国の王府朝倉宮(朝倉橘広庭宮)攻防に係わった三者を後に神として合祀したものだと思う。

 ・斉明天皇は倭国朝倉宮に進攻し、倭国・筑紫君薩野馬(さちやま)の一軍に討たれ死亡、直後、天智天皇(中大兄皇子)は筑紫君薩野馬を打ち破り、筑紫君薩野馬と九州倭国軍を白村江の戦い(663)に向かわせ、九州倭国を滅亡に追い込む謀略に成功した。そのため、天智天皇は、ここで母斉明天皇が戦死したとは言えず、病死したことにしたと思われる。
 この斉明天皇と天智天皇が麻氐良布神社の祭神に加えられたのは、多分、滅亡した倭国ほかを完全吸収し統一国家ヤマト王権を完全掌握した天武天皇以降のことではないかと思う。

 ・では、「明日香皇子」とは…、筑前國續風土記は「天智の御子」と記しているが、天智天皇にそのような名の御子はいない。なお、天智の息女として明日香皇女(小説「明日香皇女/内田康夫」)という名を聞いたことがあるが、これは皇女で、その実在は不明。
 明日香皇子は、福岡県小郡市飛鳥で崇敬された皇子、九州王朝・倭王「筑紫君薩野馬」であるとする説もある(古田武彦説)。
 なお、九州の飛鳥については、このほか、福岡県京都郡犀川町・田川郡大任町(大芝説)、田川郡赤村(福永説)、佐賀県北茂安村(佃説)などがある。
 ※参照→「倭王「筑紫君薩野馬」白村江の戦いへ(1)〜倭国(九州王朝)終末期の王府23 朝倉市」。

 ・筑紫君薩野馬は、白村江の戦いの敗軍の将とはいえ、かつては九州倭国王であり、密かに名前を変えて倭国の霊地・麻氐良布神社に祭ったことは充分にうなずける。なお、筑紫君薩野馬の名に邪馬台国・邪馬壹国の「馬」があるのは偶然か。

 ・私は、かつて麻氐良山の南西陵・恵蘇山(御陵山)の御陵古墳に眠る倭王多利思北孤の霊を山稜上の麻氐良布神社に祭ったのではないかと考えていたが、皇子と言えば、大王の多利思北孤より、筑紫君薩野馬の方が相応しいのかもしれない。

 ・筑紫君薩野馬は、白村江の戦いで、唐軍の捕虜となり、天智10年(671)帰国したが、その後、消息を絶つ。抹殺説(吉留路樹)もあるが、壬申の乱(672)を起こした大海人皇子・天武天皇であるとか、或はその子とされる高市皇子説(古田武彦)もある。このことは、後で触れるが、私は、筑紫君薩野馬は、朝倉に戻り、かつて王城があった松末村星丸に引っ込み、持統天皇時代に松ノ連(むらじ)を名乗ったのではないかと思っていた。

 ※つづく→「朝倉社・麻氐良布神社検創噌(九州王朝)終末期の王府20 朝倉市」。

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2017年10月06日

朝倉社・麻氐良布神社供創噌(九州王朝)終末期の王府18朝倉市

 前回「朝倉社・麻氐良布神社機創噌(九州王朝)終末期の王府17朝倉市」から続く。

 [麻氐良布神社の祭神]
 ・月讀尊、天照大神、伊弉諾尊、素戔嗚尊、蛭子尊 (福岡縣神社誌)。
 ・伊弉諾尊。(相殿)日神、月神、素戔嗚尊、蛭兒。※一説〜伊弉冊尊。(相殿)伊弉諾尊、齊明天皇、天智天皇、明日香皇子=天智の御子 (筑前國續風土記)。
 ・素戔嗚尊、日神、月神、伊弉諾尊、蛭兒命 (筑前國續風土記附録)。
 ・伊弉諾尊、素戔嗚尊、日神、月神、蛭兒神。※一説〜伊弉冉尊。(相殿)伊弉諾尊、齊明天皇、天智天皇、明日香皇子 (筑前國續風土記拾遺)。
 ・伊弉諾尊、伊弉冉尊、斉明天皇、天智天皇、明日香皇子(太宰管内志筑前之二十神社志)

 [麻氐良布(まてら)=天照大神(あまてらす)]
 ・「天照大神」は、上記では神社誌以外に記載がないが、「日神」(にちじん・ひのかみ)とあるのが天照大神のことである。因みに「月神」は月読命(つくよみのみこと)である。麻氐良布神社は、麻氐良山上にあり、太陽(日)も月も八方によく見える。

 ・当社は、延喜式神名帳に載る上座郡麻氐良布神社小一座「眞天良布神」を祭る古社で、この主祭神「眞天良布(あまてらす)神は、「天照(あまてらす)大神」のことである。

 ・麻氐良布社が鎮座する「麻氐良山」には「」の文字がないが、「麻氐良」も「麻氐良布」も、ともに「まてら」と読む。
 「麻氐良布」は「まてらふ」ともいうが、或は「まてらす」だったとも考えられる。いずれにしろこの社名の読みからして主神は「天照大神」(あまてらすおおみかみ)だと見てよい。

 ・因みに、古代、「布」とは、(からむし)・葛・藤・楮(こうぞ)などの植物繊維で作られたものに限られていたが、いみじくもこのなかに麻氐良布の文字に含まれる「麻」や、「真麻」(まお)とも書く「苧」の文字があり、思わず当地方は、これらの布の生産地だったのかと思った。なお、修験者・山伏が着用する本来の鈴懸は、麻で作ったものである。
   
 ・当社は、朝倉に倭国王府(倭王宮居)があった時代に既に「天照大神」を祀る上座郡「朝倉社」として鎮座していたと考えれば、天照大神は、ヤマトの神ではなく、九州「倭国の神」であったことになる。

 ・時々思うことだが、だいたいヤマトの本来の神とはどなただったのだろう。
 神武天皇東遷を以て女神天照大神を祖神としているが、もし神武天皇の東遷が架空のものであったら、天照大神は九州から動かずで、また、ヤマトの名が付く大和神社(天理市)を参拝したことがあるが、同社の祭神は日本大國魂大神(饒速日尊/出雲物部神)だった。また、ヤマトの大神である大神神社の大物主神(饒速日尊)も同じである。
 つまり、本来のヤマトの神として思い浮かぶ神がなく、その多くは、九州倭国や出雲(物部氏)等の神々を盗用したもののように思える。

 ・また、天照大神は大日孁貴尊=九州邪馬台国の女王「卑弥呼」という邪馬台国甘木朝倉説(安本美典)から見れば、天照大神が上座・下座郡(神の座・あさくら)とも言われた朝倉に居たと考えてもおかしくない。
 ただ、この天照大神が、男神の「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」であったとしたら、九州倭国と物部氏(新羅系)が深い係わりを暗示していることにもなる。

 ・史料:「當社は往古の鎮座にして延喜式に載る所當國十九神一也陽成天皇元慶元年九月二十五日筑前國従五位下眞天良布神に従五位上に同三年九月七日正五位下に同四年六月三日正五位上に叙せられ旨三代實録に出たり其後天文四年太宰大貮大内伊豫介より寶幣を捧げし由舊記に見ゆ又西峯翁の説に據れば書紀に朝倉の神社とあるは此神社なるべし記録す。」(福岡縣神社誌)
 …※文中の「西峯翁」とは、麻氐良山の西峯、例えば山田、須川などに住する郷土史に精通した古老ということなのだろうか。筑前國續風土記に載っているので江戸時代前期元禄時代の人か。

 [(旧)上座郡・下座郡…高御座(たかみくら)]
 ・古代筑前国には15の郡(こおり)があったとされ、そのうち朝倉評(こおり)といわれた朝倉地方には、上座郡(和妙抄:上都安佐久良・かみつあさくら)・下座郡(下都安佐久良・しもつあさくら)・夜須郡(奈良時代以前は安)の3郡があった。

 ・元々この3郡は、朝倉評(こおり)としてまとまっていたものだが、7世紀末、九州倭国が滅亡した頃、3郡に分割されたという。
 この史実に基づき、明治29年4月1日、この三郡が合併したとき、古代「朝倉評」の評名を採って朝倉郡になったという。
 なお、旧・上座郡は、現在の朝倉市(甘木を除く)と朝倉郡東峰村で、旧・下座郡は、朝倉市甘木(旧甘木市)、旧・夜須郡は、朝倉郡筑前町に当たる。

 ・上座・下座の座(ざ)の意味は、「高御座」(たかみくら)の「」のことで、「高御座」とは、高貴な神や天皇などが座する「玉座(御座)」のことで、朝倉の「」は「」(みくら)である。

 ・この「高御座」に関することについて、以前、「猿田峠の西東(11)〜妙見の滝ほか(宗像市)」に、妙見ノ滝(宗像市吉留字妙見・安ノ倉清水滝)に鎮座する妙見神社は、正しくは「安座神社」といい、「安座」(あんのくら)とは、高御座(たかみくら)=天皇の玉座(御座)のことで、「安ノ倉」の地名は、この安座神社の「」が「」に転化して生まれたものらしい。この地に安座神社と、古代王朝を開いた饒速日命(=豊日別命)を祀る安ノ倉「豊日神社」が並んで鎮座していることは無関係ではない、と書いたことがある。 

 ・奈良時代初期:和銅6年(713)の好字令が公布される以前の朝倉郡筑前町夜須(旧夜須郡)の地名は、「」で、同地方には天照大神の「天の安の河原」などの高天原伝承もあり、この地にも「安ノ座・安ノ倉」(やすのくら・あんのくら・あさくら)があったかもしれない。
 …「ここに高御産巣日(たかみむすび)神(※朝倉に多い高木神社祭神「高皇産靈神」)と天照大神の命(みこと)もちて(※お言葉により)、天の安の河原に、八百万の神集(かむつど)へに集へて思金(おもいかね)神に思わせて詔りたまひしく、この葦原中国は、我が御子の知らす国と言依さしたきへし国なり(※私の子が治める国であると定めた国である)。…」(古事記上巻)

 「上座=麻氐良山…朝倉の地名の由来
 ・上座・下座郡の場合の座は、日神である天照大神(或は天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊)が坐ます麻氐良山、麻氐良布神社と考えてまず間違いないだろう。
 ・麻氐良山は、旧上座郡のほぼ中央に位置しており、杷木志波など杷木地区・東峰村は、その東に位置するが、朝闇神社がある朝倉市須川や山田などは西にある。
 ・このことから、斉明天皇の朝倉橘広庭宮があったとされる須川や山田は、東にある麻氐良山の連山上に朝陽が上がるまでの間は、蔭(朝闇→朝倉)になる(※前述「斉明天皇討ち死に〜倭国(九州王朝)終末期の王府(2)朝倉市」参照)、或は朝日が昇る麻氐良山を神の上座(朝座・朝倉:あさくら)として崇めたところから朝倉の地名が生まれたという説がある。
 故に、いずれの説をとっても「朝倉の山(朝倉山)、朝倉の社(朝倉社)」は、朝座(あさくら)として崇められた「麻氐良山、麻氐良布神社」と考えてよいと思う。

 ・朝倉宮(朝倉橘広庭宮)は、斉明天皇が造った木丸殿で、朝倉市須川、宮野、又は山田地区にあったとされているが、朝倉(上座)の地名は、斉明天皇より古く、朝座(あさくら)を崇める地に朝倉宮(麻氐良布神社)があったのであれば、その朝倉宮は、斉明天皇が朝倉に入る前に九州倭国が作っていた王府であったと考えるべきである。
 ・ただし、前回記したように杷木志波に朝倉橘広庭宮があったとする第三の説があり、この説によれば、志波は、上記二地区と違って、朝座(麻氐良山)を背にした集落なので、朝倉社(麻氐良布神社)そのものが朝日に向かって建っていることになる。つまり、麻氐良山の東側は朝日がよく当たり、その朝日が良く当たる方向に朝倉社(麻氐良布神社)を建てたということで、ここが朝座(あさくら)であることに違いない。

 ・なお、次回以降に、上記の祭神のうち分かりにくい「明日香皇子」(※天智の御子ではないと思う)や「當國十九神」、及び当社の「崇敬者区域」について記す。

 ※つづく→「朝倉社・麻氐良布神社掘創噌(九州王朝)終末期の王府19朝倉市」。

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2017年10月02日

朝倉社・麻氐良布神社機創噌(九州王朝)終末期の王府17朝倉市

 前回「黒川の彦山と高木神社供創噌(九州王朝)終末期の王府16朝倉市」から続く。

 (17) 朝倉社:麻氐良布神社、朝倉山:麻氐良山

 [朝倉社とは]
 ・書紀によると、斉明天皇7年(661)5月、斉明天皇は、朝倉宮・朝倉橘広庭を造営時、「朝倉の社」の木を伐採したので神の忿りを買って多くの付衆らとともに死亡したことになっている。
 ・この「朝倉の社」については、)氐良布神社(杷木志波麻氐良山上)、∋嚇跳蛋蛭幡宮の前身(麻氐良山南西陵の御陵か)、D闇神社(須川長安寺の旧大行事社)などの説があるが、一般的には,痢麻氐良布神社」(まてらじんじゃ、又は、まてらふじんじゃ/朝倉市杷木志波5458)と認識されることが多い。

 [朝倉山とは]
 ・また、同年8月、大笠をかつけた鬼が「朝倉の山」の上で故斉明天皇の喪儀を臨み視たとある。
 この「朝倉の山」についても、上記,鎮座する麻氐良山、△亮劼ある恵蘇山(御陵山)との説があるが、一般的には、標高295mの「麻氐良山」(まてらさん)と認識されている。
 因みに、筑前國續風土記には「麻氐良山より北、恵蘇八幡宮の上の山、山田村の上の山、又菱野、須川の山をも、すべて朝倉山と云傳ふ」とあり、漠然としている。
 とはいえ、△砲弔い討蓮伝説では中大兄皇子が同所に木丸殿を設け故斉明天皇の喪儀を行ったところとなっているので、その場所に鬼が現れて喪儀を臨視していたとは考えにくい。

 [麻氐良神社の登拝口は杷木志波にある]
 ・麻氐良布神社登拝口(麻氐良山登山口)は、朝倉市杷木志波にある。
 ・杷木志波は、筑後川水系の北川下流域に開けた地区で、県道386号線(日田街道)から杷木志波集落内を通って、北川左岸沿いに前回の黒川地区に上る県道588号線があるが、九州北部豪雨2017では、土砂崩れや土石流による北川の氾濫等により各所で被害が出た。
 
 ・麻氐良布神社登拝口(麻氐良山登山口)は、北川の右岸側にあり、県道386号線から北川右岸沿いの市道を上るのが分かりやすいが、この地区には、下記の名刹、円清院普門院がある。

 ・かつて複数回、麻氐良山の麻氐良布神社(朝倉市杷木志波)に登拝したことがある。
 上記「普門院」から、石鳥居が建つ旧参道(叢)の横にある径を通り、遥拝所・下宮で参拝した後、山道を上り、林のなかにある石段を上ったところに、麻氐良布神社の上宮社殿がある。

 ・この社殿(拝殿・神殿)は、山上の樹木に囲まれて、見晴らしの効かない奥まったところにあり、その前面の、一面雑草に覆われたなかに神殿を守るかのように十数社の石祠が立ちふさがるように建ち並び、容易に本殿に近付けないような雰囲気があったような記憶がある。(※詳細は次回記す)。

 ・龍光山「円清院」(曹洞宗)〜栗山備後利安の菩提寺。
 栗山備後利安は、黒田二十四騎の一人として黒田如水(孝高)、長政に仕えた黒田家筆頭家老で、長政の筑前福岡入府後、朝倉郡1万5,000石の所領を得て、豊前国との国境近くに設けられた黒田六端城の一つで麻氐良山上にあった麻氐良城(もとは古処山城主秋月種実が対豊後大友氏の進攻に備えて築いた城)の城主となり、志波に住み、如水の死後、その菩提を弔うために円清寺を建立したという。なお、子に黒田騒動を起こした栗山大膳(利章)がいる。
 「龍光山円清寺」の山号寺院名は、如水の法号「龍光院殿如水円清大居士」からとったもので、円清院には、如水、長政、利安の位牌、栗山大膳追悼碑、長政寄贈の10世紀初頭・新羅末期頃の朝鮮鐘(国重文)などがある。(朝倉市杷木志波5276)。

 ・広大山神宮寺「普門院」(高野山真言宗)〜麻氐良布神社別当寺。
 天平19年(747)聖武天皇の勅願により行基が建立、空海も訪れた寺で、後に筑後河畔から当地(朝倉市杷木志波5376)に移転したという。
 鎌倉時代建造の「本堂」(国重文・屋根の四隅が反った宝形造総本瓦葺)は、福岡県内最古の仏堂建築物として知られるが、九州北部豪雨2017による土石流木で本堂が覆われるなど甚大な被害を受けた。本堂内の「木造十一面観音立像」(国重文・平安時代中後期作)は無事だったが、九州歴史資料館(小郡市)に移したという。
 相次ぐ筑後川の氾濫で筑後河畔から山手に移転した歴史を持つ同寺にとって、今回の山津波は予想外のことだっただろう。

  [杷木志波地区も朝倉橘広庭宮跡候補地の一つ]
 ・朝倉宮・朝倉橘広庭宮跡の有力候補地は、朝倉市須川、山田とされてきたが、これまで同地区内の候補地で行われた発掘調査では成果が得られず、第3の候補地として杷木志波が取りざたされている。(もっとも私は入地も考えているのだが…)。

 ・杷木志波地区は、麻氐良山の南麓にあって、南は筑後川に面し、三方(西〜南〜東)を山に囲まれ=西側の麻氐良山陵は、筑後川に落ち込む恵蘇山(御陵山)から北方の宮園高木神社がある黒川地区の山々に続く、東側の山陵は、筑後川に落ち込む「高山(こうやま)」(香山)から堂所、米山等の山々に続く=、また平野部には耕地もあるので、防衛拠点として宮居を造営するには好地ともいえる。

 ・もし、杷木志波の何処かに朝倉宮(朝倉橘広庭宮)があったとしたら、確かに当地は朝倉山(麻氐良山)鎮座の朝倉社(麻氐良布神社)の社地であり、九州倭国王府朝倉宮に進攻入した斉明天皇が勝手に朝倉社の社地の木を切り倒したので、忿った朝倉社の神が殿を壊したという話は辻褄が合う。
 ・また、その際起きた鬼火や、宮中の衆の死については、九州倭国軍の一部の攻撃と付け火だと考えられるが、そのとき、斉明軍の主力が、もし杷木志波地区への進入口に当たる恵蘇山やと高山の下に設けた関に集中して、筑後川沿いの往還を抑えていたとしたら、倭国ゲリラ軍は、その道を避けて黒川地区から谷を下り、志波に攻め込んだのかもしれない。

 ・ただし、これは杷木志波に朝倉橘広庭宮があったと仮定して想像したまでのことだが、今回、山の木をなぎ倒して杷木志波を襲った土石流は、朝倉社の神の忿りか、そして、その朝倉橘広庭宮跡地の痕跡までも流し去ったのだろうか。

 [高山は香山(かぐやま)] (朝倉市杷木久喜宮)
 ・杷木志波の日田街道東口にある上記「高山」(こうやま)は、その昔は「香山」と書かれていた。以前、高山の中腹で「香山城址」と刻した石碑を見たような記憶がある。

 ・以前、長崎大分自動車道建設工事中に、「高山」の西方にある「西の迫遺跡」(朝倉市杷木池田字西の迫)の発掘現場を見学したとき、発掘調査員から、「香山は、カグヤマと読み、これがヤマトの天の香久山(かぐやま)の元となった」という話を聞いた、記憶がある。
 ・これは、安本美典の「邪馬台国・甘木朝倉説」の根拠の一つとしても語られており、当時、私は、同氏の邪馬台国東遷説に心酔していたが、徐々に同氏の論争相手だった古田武彦の邪馬壹国、九州王朝・倭国説にひきつけられて行った。
 ・多分、高天原神話に出てくる「香山」(かぐやま)は、九州倭国・朝倉王府時代の象徴的な山の一つで、ヤマトの「天の香久山」は、邪馬台国東遷によるものではなく、7世紀末、倭国滅亡後にヤマト王権がその名をヤマトに持って行き、さも昔より天の香久山がヤマトにあったかのような体裁をしたものではないかと思う。

 ・因みに「香山(かぐやま)」名は、先代旧事本紀巻第五天孫本紀にある「天香山命(あまのかぐやまのみこと)」と係わりがあるのだろうか。
 「神々の原像/大野七山」には、「天香山命はまたの名を手栗彦命(たぐりひこのみこと)あるいは高倉下命(たかくらじのみこと)と言う。神武天皇が東遷される以前、大和(当時トミ、あるいは秀眞国)を統治していた饒速日尊が対馬におられるとき、対馬の天道日女(てんどうひめ)を妃(みめ)として誕生された御子である。」とある。
 高倉下命は、遠賀郡岡垣町の高倉神社や遠賀町の岡湊神社の祭神高倉主命と同神と聞いたことがあるが、饒速日尊の子であれば、物部氏と係わることになる。

 [西の迫遺跡は倭国の見張り台](朝倉市杷木池田)
 ・上記の「西の迫遺跡」は、長崎大分自動車道建設工事中に発見された弥生後期後半の高地性環濠集落址であると言われているが、竪穴住居跡は三軒分で、見張り台・のろし台などの軍事的施設だったのではないかと推測され、既に当時、九州倭国政庁があった太宰府(都督府)を守るための重要な防衛監視基地が朝倉に設けられていたことが伺える。

 ・当地は、倭国王府が朝倉に移る以前の遺跡となるが、山稜の高台遺跡で、のろし台跡らしきものもあり、ここから筑後川を挟んで眼中に入る耳納連山から、のろしをつなぎ、高良山から筑後や太宰府にまで変事の通報ができるようになっていたのだろう。

 [白木は新羅] (朝倉市杷木白木)
 ・上記「西の迫」の北に隣接する地に「杷木白木」がある。
 前回記したように、白木は、かつて新羅の渡来人が居住していたと思われる集落である。
 なかには、白木と新羅を結び付けることはできないと否定する人もいるが、朝倉には渡来人が祭祀した天神社(現在天満宮と称す)が多く、近くの赤谷は百済で、明らかに多くの渡来人が居住した形跡があり、そのなかに特に九州倭国と係わりのある新羅の人々がいたことは否定できない。

 ・新羅系天神の社色は白で、白は新羅の象徴色で、百済は赤(紅)。時代が下っても新羅(物部)系の源氏は白旗、百済(藤原)系平氏は赤旗など、この紅白の戦いは、日本の歴史に見えない影響を及ぼし、今に運動会や紅白歌合戦などに受け継がれているが、白木の白が新羅を表していることは疑うまでもない。また、概して白木など白の付く地の遺跡では、新羅系土器等の発掘例が多い。

 ※つづく→「朝倉社・麻氐良布神社供創噌(九州王朝)終末期の王府18朝倉市」。

keitokuchin at 20:26|PermalinkComments(0)