2017年11月

2017年11月29日

旅:富士山眺望、富士屋ホテル(箱根)ほか雑記

1冨士屋ホテル 先日、小田急富士屋ホテル本館(神奈川県足柄下郡箱根町宮ノ下)で、親族の結婚式・披露宴があり、久し振りに箱根に行ってきた。

 実に27年振りの箱根だったが、慌ただしく時が過ぎ、宿泊した小田急箱根ハイランドホテル(箱根町仙石原品の木)と式場の富士屋ホテル本館・菊華荘との間を往復しただけの2泊3日の旅だったが、かなり疲れた。


2富士山ひかり車窓から 初日、天気が良く、新幹線ひかりGの車窓から、澄み切った秋の空を背にして輝く美しい富士山の容姿を拝むことができた。

 富士山を見慣れていた若い頃は、感激もなくなっていたが、今回の久しぶりの遠出で観た富士山はまた格別だった。


 行く先が箱根の富士屋ホテルなので、富士山と縁があったのかもしれない。※画像は、新幹線車窓から撮った一枚。


3小田原城 小田原駅西口でレンタカーを借りる。

 小田原城(※画像)を左に見て、早川口から国道1号線を通り、宿泊地の小田急箱根ハイランドホテルに向かったが、途中、板橋、風祭から箱根湯本まではのろのろ運転、この混みようは何なのだろう。

 湯本を過ぎると山上り線の混雑はさほどでもなくなったが、対向路線(箱根帰りの人たち)の混雑がすごかった。
 箱根は、大湧谷の爆発的噴火の勢いが収束し、今、紅葉真っ盛りのシーズンで、天気の良い日を利用しての観光客で溢れているということなのだろうか。

4大涌谷 今回泊まった小田急箱根ハイランドホテルの左後方に大湧谷の噴煙が眺められるが、噴煙の量、勢いともに優勢のように思えた。
(※画像)

 大湧谷が、いつ爆発するかのは、誰にも分からないが、箱根の温泉と観光、保養地などは、この火山と共存共栄することで成り立っているので、噴火による入山規制が入ると、特に仙石原などは温泉供給が止まり尻つぼみするようだ。
 

5ハイランドホテル 宿泊した部屋(森のレジデンス)の窓の外に、大きな楓の木があり、居ながらにして、また部屋付の露天風呂(硫黄温泉)に浸かりながら、その木の紅葉を楽しむことができた。(※画像)

 このホテルは、人気の宿らしく、フランス料理も人気で、満室が続いていると聞いた。


6テディベア 翌日の午後、富士屋ホテル本館は、駐車スペースが少ないので、タクシーで下った。

 インフォメーションでは、富士屋ホテルの制服を着た「テディベア」がお出迎え(※画像)。
 この「テディベア」、本館内で3個見かけたが、何個置いてあるのだろう。


7富士屋ホテル それにしても、本館内は、人で溢れていたが、何なのだろう。

 3組の結婚式・控室等の案内標示を見かけたが、溢れている人たちは、その参加者だけではなく、見学・観光客(外国人観光客含む)、宿泊客等か。国有形文化財の本館は近々耐震工事で休館するらしい。(※画像)

 2時過ぎから待たされ、断続的に親族紹介、集合写真撮影(外庭での撮影は修学旅行を思い出すが、外の気温は低く体が冷える)などがあり、チャペルの式場に入ったのは5時だった。


8シャンパンツリー 待たされている時間、館内をうろついたが、迷路にハマりそうになった。

 ただ、売店の近くに飾ってあった「シャンパン等の瓶を重ねて作ったクリスマスツリー」には、思わず目を見張った。
(※画像)

 こんなXマスツリーを初めて見たが、瓶がライトに反射して光るさまは美しかった。

 ホテル本館を出て、数珠つなぎになっている車列(山下り路線混雑)の間をぬって国道(横断歩道)を横切り、結婚披露宴会場の「菊華荘」(富士屋ホテル別館)まで歩く。
 初めて入ったが、もう日が落ちて辺りは真っ暗、せっかくの庭は、何も見えなかった。玄関で靴を脱ぎ、畳の間へ、ここで6時から8時半まで披露宴があった。

9菊華荘残紋章 この菊華荘は、皇室の旧箱根御用邸だが、当時あった調度品はすべて宮内庁が持ち去ったという。

 そのため、御用邸の名残りは何もない筈だが、シャンデリアと飾りふすまの一部に施してある菊の紋章の装飾が、当時のまま残っている。

(※画像はシャンデリアの菊紋章)。

10富士山 3日目の朝、道路が混雑する前に宿泊地を出て、往路とほぼ同じ方法で帰路に就いた。
 帰りの新幹線の車窓からも富士山がきれいに見えた。(※画像)

 富士山と富士屋ホテル、富士ずくめの旅は終えたが、疲労感のみが残った今回の旅だった。

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2017年11月24日

倭王「筑紫君薩野馬」白村江の戦いへ(2)〜倭国(九州王朝)終末期の王府24 朝倉市

 前回「倭王「筑紫君薩野馬」白村江の戦いへ(1)〜倭国(九州王朝)終末期の王府23 朝倉市」から続く。

 ・「仁軌(じんき)、倭兵白江(はっこう)の口に遇し、四たび戦ひ捷(か)つ。其の舟四百艘を焚く。煙焔天に漲(みなぎ)り、海水皆赤し。賊衆大潰す。」
 これは、中国の史書「旧唐書劉仁軌伝に記載されている663年白村江の戦いに係わる有名な一節である。

 白村江の戦いについては、日本書紀は「ときのまに官軍敗れき」(あっという間に敗れた)と記すのみで詳細が分からないので、上記「旧唐書」劉仁軌伝の一節をもって語られることが多い。

 ・劉仁軌は、660年に百済を滅ぼし、百済王義慈王とその妻子を捕捉し長安に送った唐将だが、この後、663年、百済復興の名目で白村江(現、錦江河口付近)に入ってきた倭国水軍400艘(小舟)を、唐船170余艘(大型戦力装備船)で、統制のとれた集団戦法駆使して迎撃し、瞬く間に壊滅させたことでも知られている。

 ・多分、劉仁軌は、この白村江の戦いで、敗戦した倭軍の総指揮をとっていた筑紫君薩野馬(筑紫君薩夜)を捕虜とし長安に送ったと考えられる。

 ・ただし、筑紫君薩野馬の名が史書にて出てくるのは、天智10年(671)11月10日(日本書紀天智紀)で、このとき、捕虜となっていた彼が帰国したことにより、ヤマトはその名を伏せることができなくなったようだ。

 ・「對馬國司、遣使於筑紫大宰府、言「月生二日、沙門道久・筑紫君薩野馬・韓嶋勝娑婆・布師首磐四人、從唐來曰『唐國使人郭務悰等六百人・送使沙宅孫登等一千四百人、總合二千人乘船卌七隻、倶泊於比智嶋、相謂之曰、今吾輩人船數衆、忽然到彼、恐彼防人驚駭射戰。乃遣道久等預稍披陳來朝之意。」
 (対馬国司が大宰府に使いを遣わし言うには、今月2日、沙門道久・筑紫君薩野馬・韓嶋勝裟婆・布師首磐の4人が唐より来日し、唐国使人郭務悰等600人、韓人沙宅孫登等1400人、合計2000人が、47隻で、比知島に停泊し、今、吾らの人船は多数で、突然到彼すると、恐らく防人は驚いて弓矢を射ることになるので、道久等らに来朝する意向を示し申しますと言った。)

 ・筑紫君とは、筑紫君磐井(6世紀初頭)で知られるように筑紫(九州・倭国)の王(倭王)のことであり、筑紫君薩野馬が当時の倭王であったことは疑う余地なく、彼こそが白村江の戦いの倭軍総指揮であったことが伺える。

 ・白村江の戦いに到る(661〜)の百済復興軍の指揮官は、一派:安曇比羅夫、狭井檳榔、朴市秦造田来津、二派上毛野君稚子、巨勢神前臣譯語、阿倍比羅夫、三派:廬原君臣など(多くは白村江で戦死した)と伝わるが、なぜか663年の白村江の戦いにおいては名だたる指揮官の名がない。
 しかし、白村江の戦いにおいて軍船400艘、水軍4〜5万人の大軍を動員できる力があったのは、倭王筑紫君薩野馬以外には考えられず、彼が全軍の総指揮をとったのは間違いないのではないかと思っている。

 ・なお、日本史では、白村江の戦いの総指揮官は、中大兄皇子(天智天皇)というが、彼にもこれだけの勢力を動員できる力はなかったと思われる。
 それどころか、中大兄皇子は、当時の大唐国の国力の大きさを承知しており、倭国水軍が唐に勝つ見込みのないことを知っていた節がある。また、百済のために戦う義理はなく、百済復興を真剣に考えていたとも思えず、新羅と内通していたような節もある。
 特に、白村江の戦いにおいては、倭軍が一瞬で大敗するように仕組んだのではないかと思われることがある。つまり、倭国水軍が白村江に向かうことを内通し、新羅の同盟軍・唐の水軍が白村江に到着し、倭国水軍に対する迎撃態勢が整うのを待ち、あえて10日遅れて倭軍を唐水軍が待ち構える白村江に向かわせ、壊滅させたのではないかということである。
 彼の脳裏にあったのは、唯々倭国の滅亡と、ヤマトによる倭国の併合であった。

 ・上記劉仁軌伝には、「倭兵」とあり、劉仁軌は唐・新羅と戦ったのは、「倭国」だと考えていた。
 「倭国」を後の「日本」(ヤマト)とするのは適当ではなく、中大兄皇子自身も当初から、新羅、唐と戦ったのは九州の「倭国」(倭王筑紫君薩野馬)であり、ヤマト(中大兄皇子)ではないと設定し、戦争の責任をすべて倭王に押し付け、戦い後、倭国を併合し、ヤマトによる戦後措置(新羅、唐との外交関係修復)まで計画していたようである。

 ・因みに、九州の「倭国」は、663年の白村江の戦いでの敗戦(倭王筑紫君薩野馬投降捕捉)で滅亡し、ヤマトに併合されたと考えられるが、唐が、日本列島を代表する国がヤマト(大和朝廷による「日本」)であると認めたのは、長安3年(703)粟田真人の第一回遣唐使を以てである。
 旧唐書は、この「倭国」と「日本」をはっきり別の国として区別しており、少なくとも唐は、703年までは、(その間に倭国は滅亡しているが)列島を代表する国は九州「倭国」であるという姿勢をとり続けていたように思える。

 ※つづく→「倭王「筑紫君薩野馬」白村江の戦いへ(3)〜倭国(九州王朝)終末期の王府25 朝倉市」。

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2017年11月23日

倭王「筑紫君薩野馬」白村江の戦いへ(1)〜倭国(九州王朝)終末期の王府23 朝倉市

 前回「恵蘇八幡宮の由緒2〜倭国(九州王朝)終末期の王府22 朝倉市」から続く。

 ・斉明天皇七年(661)、斉明天皇は、娜大津の「磐瀬行宮」に中大兄皇子を置いて、大舎人(おおとねり)以下の近侍(軍勢)を連れて、当時九州・倭国の王府(王城)があった「朝倉橘広庭宮」(址地不明)に入り討ち死にしたことは前述した。
 ※参照「斉明天皇討ち死に〜倭国(九州王朝)終末期の王府(2)朝倉市

 ・斉明天皇が中大兄皇子を磐瀬行宮(博多か)に留め、親衛隊を連れて、倭国の政庁があった太宰府を難なく通過し朝倉に入ったとのであれば、多分、このことについて、事前に倭王「筑紫君薩野馬」 (つくしのきみさちやま・さつやま/筑紫君薩夜麻とも書く)との間に話ができていたのだと思う。

 ・しかし、朝倉橘広庭宮に入った斉明天皇は、そこで倭王筑紫君薩野馬に対し、強力に新羅・唐と敵対する百済救援軍に加わることを要求したのではないかと思われ、これに反発し暴徒化した一部の倭王近臣兵により、斉明天皇及びその親衛隊(大舎人、近侍)など多くの衆が討たれたのではないかと思う。

 ・九州倭国は、筑紫国磐井(6世紀前半)以来、新羅との親交があり、朝倉には新羅系天神社や白木集落名が残るなど新羅から帰化人も多かったと思われ、新羅との戦いに倭王及び倭国軍を派遣することに反発したとも考えられる。

 ・日本書記は、斉明天皇らは病死としているが、一斉に多くの衆が病死するとは考えにくく、書紀に朝倉社の怒りによる「鬼火」の表記は、暗に戦闘があったことを示しているのだと思う。

 ・中大兄皇子は、斉明天皇崩御の報を受け、直に軍勢を率いて朝倉に入り山田恵蘇宿に陣を張り、母斉明天皇の犠牲と引き換えに筑紫君薩野馬を百済救援軍に引き入れることに成功した。

 ・中大兄皇子は、多分中臣(藤原)鎌足らと共謀し、全国制覇の願望達成のためには、母を命の保障などまったくできない危険極まりない当時倭国王府があった朝倉に送り込み、その死をも利用することのできる冷静沈着な謀略家であったと思われる。

 ・中大兄皇子が山田恵蘇山で行ったとされる斉明天皇の藁葬と磐瀬行宮へと向かう葬列を、朝倉山の上から眺めていた大笠をつけた鬼は、倭国滅亡への先行きの暗示する筑紫君薩野馬の姿を象徴的に物語っている記述なのかもしれない。
 そう考えると、後に朝倉山(麻氐良山)頂上の麻氐良布神社の相殿神の一としてつに加えられた「明日香皇子」は、筑紫君薩野馬であるという説があるが、この鬼と筑紫君薩野馬は、何となく符合するように思える。

 ・「明日香皇子」というと、ヤマトの明日香(飛鳥)の皇子(大友皇子、建皇子・川島皇子・志貴皇子など)を想像するが、これらの皇子を朝倉で祭祀する理由はない。

 ・もともとヤマトの明日香は九州にあった明日香を元にしているようで、その場所については諸説あるが、私は、朝倉市杷木久喜宮の「高山(こうやま)」の辺りにあったのではないかと思っている。
 つまり、この「高山(こうやま)」は、ヤマトの明日香の象徴・天の香久山(香具山/かぐやま)の元であると考える人たちは多く、近世までは「香山」と書き、「かぐやま」と称されていたようで、この久喜宮辺りに「明日香」(飛鳥)があり、倭王皇子時代の筑紫君薩野馬はこの辺りで生育し「明日香皇子」と言われていたのではないかと想像している。
 ※参照「朝倉社・麻氐良布神社機創噌(九州王朝)終末期の王府17朝倉市
 「朝倉社・麻氐良布神社掘創噌(九州王朝)終末期の王府19朝倉市

 ・中大兄皇子に屈服した倭国筑紫君薩野馬は、、中大兄皇子の謀略に載せられる形で、663年、心ならずも九州倭国水軍(玄海灘沿岸の遠賀、宗像、博多、糸島、唐津などの船を調達か)を招集し、筑紫、肥前の若者を中心とした倭国軍を引き連れて新羅同盟軍・唐の屈強水軍が待ち受ける百済・白村江(はくすきのえ)へと出陣し、倭国(筑紫・九州王朝)滅亡への道を突き進むことになる。
 しかるに、中大兄皇子にとっては、当初から勝つ見込みのまったくないこの戦いに筑紫君薩野馬を出陣させ、九州倭国軍が全滅することは計算済みのことで、この好機を狙い、まったく白村江の戦いに出陣しなかった無傷のヤマトの軍勢を以て九州・太宰府(倭国政庁)を抑え、ヤマトの全国支配を完成させたのである。

 なお、倭(ウィ・わ)には、ヤマトという読みはなく、古代「倭国」を大和朝廷の日本の古名だとする説は間違っている。つまり倭国は九州(九州王朝説もあり)にあり、ヤマトとは別の国で、663年白村江の戦いの敗戦に伴う倭国の滅亡により、倭国がヤマトに併合され、倭国の神話・歴史がヤマトに盗まれ、倭をヤマトと読ませ、また日本をヤマトと呼んで、倭国とヤマト・日本・大和朝廷は同じものとされたのだと思う。

 ※つづく→「倭王「筑紫君薩野馬」白村江の戦いへ(2)〜倭国(九州王朝)終末期の王府24 朝倉市」。

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2017年11月15日

恵蘇八幡宮の由緒2〜倭国(九州王朝)終末期の王府22 朝倉市

 前回「恵蘇八幡宮の由緒〜倭国(九州王朝)終末期の王府21 朝倉市」から続く。

 b.恵蘇八幡宮の祭神

 [祭神名]

 恵蘇八幡宮(朝倉市山田字恵蘇宿166)の祭神は、「天豐財重日足姫天皇譽田別天皇天命開別天皇」である。
 因みに、この各祭神は、順に「斉明天皇応神天皇天智天皇」の謚である。

 [天豊財重日足天皇(皇極・斉明天皇)]

 ・皇位は、舒明、皇極、孝徳、斉明、天智、天武、持統と続くが、このうち皇極・斉明は重祚で、その謚が「天豊財重日足天皇」(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)である。

 ・書紀は、皇極天皇乙巳の変(645)の後、その責任をとるような形で弟・孝徳天皇(645〜654)に譲位したので、孝徳天皇の謚は、皇極天皇のそれとよく似た「天万豊天皇(あめよろづとよひのすめらみこと)」となっているが、この二人は本当は姉弟ではなく、また、実際には譲位などしておらず、皇極が天皇の座にあり続けたという説がある。
 つまり、皇極天皇と斉明天皇の間に、実際にはいなかった孝徳天皇を入れたので、皇極天皇が重祚して「斉明天皇」となったという創作が行われたというのである。

 ・ここで、このことを論ずるつもりはないが、要は、皇極・斉明天皇と、その子・中大兄皇子(天智天皇)が中臣(藤原)鎌足の助勢を得て権力を掌握し、ヤマトが倭国(九州王朝)の吸収を図る謀略を巡らしたことは確かだろう。
 以下は、前述したことと重複するが、斉明天皇七年(661)、その先鋭隊として、斉明天皇自らが、当時倭国王府があった朝倉橘広庭に進攻した。(斉明天皇は、一般に言われるような病身ではなかったと思う)。

 書記は「五月乙未朔癸卯(5/9)、(斉明)天皇遷居于朝倉橘廣庭宮。是時斮除朝倉社木而作此宮之故神忿壊殿亦見宮中鬼火、由是大舎人及諸近侍病死者衆」とある。

 これに係わる諸推定ついてのは、既に前述したので、ここでは重複を避けるが、恵蘇八幡宮境内の恵蘇山(御陵山)・木丸殿旧蹟伝承地は、斉明天皇の遷居・朝倉橘廣庭宮跡推定地の一つに数えられ、また、中大兄皇子(天智天皇)が同地で亡斉明天皇を弔ったという伝承もあるので、天武天皇の白鳳元年壬申(672)、故斉明天皇(天豐財重日足姫天皇)は、この地に鎮座した恵蘇八幡宮の主神・三柱大神の一として祭祀されたのだろう。

 ただ、恵蘇八幡宮由緒は、その元宮を須川降葉山の辺りに鎮座していた「朝倉社」としているが、もしそうであれば、朝倉社の木を伐採して神の怒りを受けて崩御した斉明天皇が、後にその神を祭る恵蘇八幡宮の祭神の一に鎮まったことは、皮肉としか言いようがない。

 [譽田別天皇(応神天皇)]

 ・応神天皇は、譽田別尊(ほむたわけのみこと)=神功皇后の胎中天皇と言われ、譽田別天皇・譽田天皇などと称されることがあり、八幡宮(八幡神社)では八幡大神として祭祀される。

 ・恵蘇八幡宮縁起には「齊明天皇當所朝倉橘廣庭宮に御遷幸の砌り皇太子中大兄皇子當所にて八幡大神を齊せ玉ひ朝倉山天振八幡と崇め玉ふ」とある。
 また、同由緒には「本社は…朝倉社と確信せらる、當社は須川村降葉山の邊に鎮座ありしを齊明天皇西狩の際該地に皇居を立給はんため恵蘇山の麓に遷し奉り朝倉山天降八幡と崇祀玉ふ」とあり、若干ニャンスの違いはみられるが、天武天皇の白鳳元年壬申(672)に鎮座する前の恵蘇八幡宮(恵蘇八幡三柱大神)には、八幡大神(応神天皇)のみを祭神する朝倉山天降八幡宮があったようにも見受けられる。

 ・ただ、八幡大神は、古今戦神とされているので、上記由緒のように斉明天皇が須川に皇居(朝倉橘廣庭宮御所)を作るために、須川降葉山の辺りに鎮座していたという戦神・八幡大神をわざわざ皇居の外(山田村恵蘇山)に遷す必要があったとは思いにくい。
 このことは、裏を返せば、戦神の八幡大神をわざわざ皇居の外に遷したので、戦神の加護をなくした斉明天皇以下の多くの衆が九州倭国軍との戦闘に敗れ戦没(病死とは思えない)したことになったのかもしれない。

 ・また、上記のように、須川降葉山にあった八幡大神を「朝倉社」とした場合、朝倉社の木を伐採し木丸殿皇居・朝倉橘広庭宮を建てたことにより神の怒を受け落命した斉明天皇が、後に、その「朝倉社」の祭神の一として八幡大神と並んだことになり、不思議としか言いようがない。

 ・因みに、須川鐘突・花園山辺には、同じく「朝倉社」とされる「朝闇(ちょうあん)神社」(旧長安寺「大行事社」/祭神高木神・高皇産霊尊)があることは前述した。
 朝闇神社について付記すると、この社名は、恐らく明治維新以後、当社(大行事社)が、かつての倭国の官寺・長安寺(廃寺)境内に鎮座していることから、長安寺の「長安」(ちょうあん)に「朝闇」(ちょうあん)の字を当てて付けられたものかもしれない。
 ただ、この朝闇には、当地が、一般的には朝倉社とされる麻氐良布神社が鎮座する朝倉山(麻氐良山)の西に位置するので「朝闇」(あさくらい)という意味があるとされているが、この「朝」には朝廷、「闇」には黄泉国(崩御)が連想されるので、斉明天皇(朝)の崩御地(闇)という意味が込められていたようにも思える。

 [天命開別天皇(天智天皇・中大兄皇子)]

 ・天命開別天皇(あめみことひらかすわけのみこと/あまつみことさきわけのみこと)は、天智天皇(斉明天皇の子・中大兄皇子)の和風諡号とされる。

 ・645年(大化1)乙巳の変(いつしのへん)で蘇我氏を滅ぼした中大兄皇子は、ヤマトの全国制覇を目指し、当時、九州にあった倭国の征服をもくろんだ。

 ・上記由緒に「齊明天皇西狩の際」とあるが、もしこの「西狩」が、ヤマトの西(九州)にある倭国を征討するという意味であれば、齊明天皇は「西狩獲麟」(せいしゅかくりん)の喩えの如く、「西狩倭国」によって自らの命を落としたことになる。
 しかし、中大兄皇子にとって母・齊明天皇の死は、倭国征討の口実ができたことになり、母の犠牲の上に倭国王筑紫君薩野馬を従属させることに成功し、その後、筑紫君薩野馬が率いる倭国全軍を白村江の戦いに出征させ、倭国軍が白村江で全滅したことにより、難なく倭国政庁(都督府)太宰府を抑え倭国一国を手中に治めることができた。

 ・恵蘇八幡宮境内の恵蘇山(御陵山)は、中大兄皇子が筑紫君薩野馬に勝利した記念の地であり、また、亡母斉明天皇の藁葬(仮葬)を行ったところとされ、天武天皇の白鳳元年壬申(672)に恵蘇八幡宮が創建されたとき、中大兄皇子(天智天皇)は、母・天豐財重日足姫天皇(斉明天皇)と合わせて、三柱大神の一天命開別天皇として祭祀されたのだろう。

 ※つづく→「倭王「筑紫君薩野馬」白村江の戦いへ(1)〜倭国(九州王朝)終末期の王府23 朝倉市」。

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2017年11月08日

恵蘇八幡宮の由緒1〜倭国(九州王朝)終末期の王府21 朝倉市

 前回「朝倉社・麻氐良布神社検創噌(九州王朝)終末期の王府20朝倉市」から続く。

 (18) 恵蘇八幡宮の創立

 a.恵蘇八幡宮由緒・縁起

 ・恵蘇八幡宮(朝倉市山田字恵蘇宿166)は、前述「麻氐良布神社」と並ぶ旧朝倉郡=旧上座(かみあさくら)郡の郷社で、麻氐良布神社が鎮座する麻氐良山の南西山稜に位置し、ともに旧・朝倉(の)社とも云っている。
その創立に係わる由緒・縁起について福岡縣神社誌は、日本書紀(齊明天皇条)、太宰管内志(朝倉社條・橘廣庭宮條・上座郡)、海城録、筑前續風土記(朝倉橘廣庭宮條)、筑前續風土記拾遺、奥儀抄、一代要記(甲斐)、國史眼(第二十九章・三十章)、神社要録、朝倉神社公證等々に記載されている文を掲げており、広く知られた神社であったことが分かる。
 ここで、そのすべてを掲げるとややこしくなるので福岡縣神社誌冒頭の由緒と、当社縁起記のみを掲げて、若干感想を記しておきたいと思う。

 [由緒・縁起]

 ・由緒〜「創立年代不詳、一説に天智天皇御創立と云ふ然れとも古今識者の所論を綜合し本社は書紀齊明天皇七年の條にある朝倉社と確信せらる、當社は須川村降葉山の邊に鎮座ありしを齊明天皇西狩の際該地に皇居を立給はんため恵蘇山の麓に遷し奉り朝倉山天降八幡と崇祀玉ふ」。

 ・縁起〜「齊明天皇當所朝倉橘廣庭宮に御遷幸の砌り皇太子中大兄皇子當所にて八幡大神を齊せ玉ひ朝倉山天振八幡と崇め玉ふ、其後後天武天皇の御宇白鳳元年壬申齊明天皇、天智天皇の二御神靈をも當所八幡宮に合祭すへき旨託言あり、依て奏問を經勅許により大宮柱太敷立恵蘇八幡三柱大神と稱し玉ふ云々」。

 ・上記縁起によると、恵蘇八幡宮は、斉明天皇が朝倉橘廣庭宮に御遷幸時、中大兄皇子(天智天皇)が、恵蘇山(現在地)に八幡大神を勧請し「朝倉山天降八幡」として崇めたという天智天皇創立説を伝えている。

 ・しかるに由緒には、恵蘇八幡宮は、齊明天皇七年(661)、齊明天皇が須川村に皇居を立てたとき、須川村降葉山の辺に鎮座していた「朝倉社」を現在地の恵蘇山の麓に遷し朝倉山天降八幡」と称し崇祀したものだとしている。

 ・その後、天武天皇の白鳳元年壬申(672)に、齊明天皇、天智天皇の神靈を合祭し、勅許により「恵蘇八幡三柱大神」と称したという。

 [朝倉社、朝倉山]

 ・朝倉社、朝倉山については、「朝倉社・麻氐良布神社機創噌(九州王朝)終末期の王府17朝倉市」に前述したように、朝倉社は麻氐良布神社(朝倉市杷木志波麻氐良山上)、朝倉山は麻氐良山(杷木志波)と考える説が一般的である。

 だが、筑前國續風土記に、「麻氐良山より北、恵蘇八幡宮の上の山、山田村の上の山、又菱野、須川の山をも、すべて朝倉山と云傳ふ」と漠然とした記事があり、朝倉山にあった神社が朝倉社だと考えれば、麻氐良山の南西陵・恵蘇山(御陵山)の麓に鎮座する恵蘇八幡宮も「朝倉社」に該当しなくもない。

 ・ただし、現在地恵蘇山麓の当社を、そのまま朝倉社と称するには、斉明天皇藁葬(こうそう)以前に当地に鎮座していたとすることはできない。
 つまり、斉明天皇が須川村に皇居(橘広庭宮)のを作るために朝倉社の木を伐採し、その神の怒りを受けたとされているので、その朝倉社は、現在地の恵蘇八幡宮ではなく、斉明天皇が恵蘇山麓に遷す前の神社=(旧)須川村降葉山の辺にあったとされる同社の元宮(説明上「元宮」と書く)ということになる。

 ・この遷宮云々由緒の真偽は分からないが、上記續風土記により「須川の山」も「朝倉山」と称したのであれば、須川村降葉山も朝倉山の一つで、同地に鎮座したという八幡宮の元宮を朝倉社と称してもおかしくはない。

 ただ、(旧)須川村には、花園山の麓に朝闇神社(旧須川村長安寺大行事社)が鎮座し、当社が「朝倉社」(朝闇=朝倉)であったという説があり、もし、このこの朝闇神社と八幡宮元宮が同一神社でなければ、須川村に「朝倉社」と称する神社が二社あったことになる。

 ・また、恵蘇八幡宮に「朝倉山天降八幡」の呼称があるところから、この名称は、現在地に同宮が現在地に建立されたときに付けられたもののようなので、現在地の恵蘇山(御陵山)とする説もある。

 だが、恵蘇山(御陵山)にある古墳が通説のように斉明天皇御陵=斉明天皇の御殯斂地(ごひんれんち)で、当地で、中大兄皇子(天智天皇)が木丸殿を設け斉明天皇の藁葬(こうそう)を行ったのであれば、ここで大笠を着けた鬼が、この藁葬の様子を眺めていたことになってしまうので、あり得ないだろう。

 ・なお、須川の降葉山(場所未調)、或は花園山を朝倉山とした場合、同地から恵蘇山(御陵山・木丸殿)で行われたという御藁葬を眺めることは不可能である。

 ・因みに、恵蘇山(御陵山)の御陵山古墳(恵蘇八幡宮1・2号墳)は、斉明天皇陵でなく、九州倭国王多利思北孤墓であると考えている人たちも多いので、或は、当山麓に恵蘇八幡宮が創設される以前、当社の前身ともなるべき倭王多利思北孤を祀る社祠があったかもしれない。

 [朝倉山天降八幡]

 ・「朝倉山天降八幡」の「天降」は、「あもりあふり、あぶり、あまふり、あまくだり、あめふり」と読むのだろうか。

 ・以前、「舎利蔵へ(8)~産神は天降天神社」(福津市)に、同社は、古賀市薦野の「天降(あもり)神社」(=天降天神社/主神は少彦名命、大己貴命、素盞嗚尊)の勧請社だが、神奈川県伊勢原市の「大山阿夫利(あふり)神社」は、「天降山天降神社(雨降神社)」のことで、その祭神は、大山祗大神、及び貴船神社と同じ高龗(おかみ)神、雷神、水神などを祀ると書いたことがある。
 ただし、八幡大神(応神天皇)を祀る八幡宮で「天降八幡」という呼称は、ほかで聞いた記憶がない。

 ・「朝倉山天降八幡」の呼称は、多分、「八幡大神が天降(あまくだっ)た朝倉山」という意味があるのではないかと思うが、上記のようにその朝倉山を須川村「降葉山」とすれば、降葉山は、当社の元宮があったとされる地なので、その「降」の字を使ったとも考えられる。

 ・また、現在地は、一般的に朝倉山とされる麻氐良山の南西山陵が筑後川に落ち込むところにあるので、「朝倉山陵の一(当地)に天降た八幡大神が鎮座した八幡宮」という意味にもとれる。
 ただ、「八幡大神が天降る」というような用語用例はあるのだろうか。
 因みに、麻氐良山の麻氐良布神社境内には、「八幡大菩薩筥埼宮」が祭祀されている。

 [天武天皇の白鳳元年創設]

 ・上記縁起に、「天武天皇の御宇白鳳元年壬申齊明天皇、天智天皇の二御神靈をも當所八幡宮に合祭…恵蘇八幡三柱大神と稱し玉ふ」とあり、このとき、祭神三神がそろったのであれば、恵蘇八幡宮は、この天武天皇の白鳳元年壬申(672年)に創立されたとみてもよいのかもしれない。

 由緒の「齊明天皇西狩の際」の「西狩」が気になるが、多分、九州倭国の王府を抑え、倭王筑紫君薩野馬に白村江出兵を促し九州倭国を滅亡に追い込むために当地に出兵した斉明天皇(戦死)と天智天皇(中大兄皇子)という意味にもとれ、この功績のある二天皇の名を当地に遺すために、ヤマトの全国制覇が叶った時期にヤマト主導で当社が建立されたのだろう。

 ただ、地元には、長く「恵蘇」の地名を「よそ」(よそ者の意)と呼び継がれてきた歴史があり、必ずしも歓迎されていたともいえない。
 現在、恵蘇八幡宮は、「筑紫舞」の後援者で、当社で筑紫舞の公演も行っており、暗に「倭国(筑紫・九州王朝)ここにあり」と言われているのかもしれない。

 ・因みに、白鳳元年には、天智天皇の白鳳元年(661)もあり、その年は斉明天皇が没した齊明天皇七年でもあるので、この年に天智天皇(中大兄皇子)が創設したとの説も生まれたのではないかと思うが、この年の干支は壬申ではなく、辛酉で、当時存命中の天智天皇を祭神に加えるはずはない。

 ※つづく→「恵蘇八幡宮の由緒2〜倭国(九州王朝)終末期の王府22 朝倉市」。


 [別記]〜小生のつぶやき]

  松居一代さんの労働奉仕
 …ここ3週間、激しい腰痛に悩まされ、椅子に腰かけることも、キーボードを触ることもできず、リハビリに励んでいたが、本日、やっと、少し治まったので上記記事をアップすることができた。
 改めて女優・松居一代さんが朝倉豪雨被害復旧ボランティア活動に参加され、労働奉仕に勤しまれた元気さに感銘し、自分の体力も考えずにボランティアなどと考える愚も思い知る。
 松居一代さんは、今、係争中ではあるが、松居一代さんが先日の国政選挙に有言実行の士として朝倉地区で出たらきっと多くの人たちが投票したのではないか、なんてことを考えたのは私だけだろうか。

  高島忠平先輩の讀賣記事
 …昨日(2017.11.7)から讀賣新聞福岡地域版「道あり」に吉野ヶ里遺跡の調査で知られる考古学者・高島忠平先輩に係わる連載記事が載り始めた。一時期、高島先輩とは遺跡発掘や史蹟探訪をともにしたことがあり、かつて先輩から歴史視点に係わる多くのことを学んだので楽しみにしている。

keitokuchin at 01:21|PermalinkComments(0)