2017年12月

2017年12月31日

平成29年(丁酉:ひのととり・ていゆう)大晦日

 今年を振り返り嬉しかった思い出はあまりない。
 悲しかったことは、九州北部豪雨。
 歩きなれた朝倉地方で多くの地形が全く変わってしまい、言葉もない。
 でも、人々のやさしい人情は変わらない。

2017九州場所番付け表 また、日馬富士の暴行事件、このようなことで横綱が土俵を去っていくのは、相撲ファンとしては残念というしかない。
 手持ちの来年の大相撲カレンダーには日馬富士の姿が載っているが、次の場所の番付表でもうそので名を見ることはないのだ。
 (※画像は、平成29年九州場所番付表の一部)

 このまま年を越すが、来年は平穏無事な年であることを願おう。


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2017年12月30日

宗像地方の「方墳」(新原・奴山古墳群/福津市)

  [新原・奴山古墳群の7号墳(方墳)]

1) 7号墳西側 世界遺産「宗像沖ノ島関連遺産群」の一つに認定された「新原・奴山古墳群」の西側にある「7号墳」(方墳)を見学した。

 この古墳は、旧入り海(津屋崎潟・勝浦潟/現在耕作地)の水際(現在、旧水際斜面部分は雑木に覆われている)に作られている。


 説明書には、この7号墳は、「5世紀に築かれた一辺24mの宗像地方では珍しい方墳です。墳丘上には玉砂利が敷かれ、コハクの原石や沖ノ島と共通する鉄斧が発見されています。」とある。

 「宗像地方では珍しい方墳」とあるが、宗像地方でこれ以外の「方墳」を観たことがないので、唯一の「方墳」ではないかと思う。

2)  7号墳北側 「新原・奴山古墳群」には5~6世紀にかけて築造されたという41基の古墳(前方後円墳5基、円墳35基、方墳1基)が集中しているが、「7号墳」は、もっとも古い時代に造られたもので、一応5世紀前半の築造と推定されてはいるが、発掘調査がされたわけでもなく、もっと古いとも考えられる。


 そうでないと、4世紀から始まったという沖ノ島の国家祭祀を執行したムナカタ族の人々が被葬されている場所として、「新原・奴山古墳群」が「宗像沖ノ島関連遺産」として認定されたはずなのに、ここに4世紀の古墳がないとなると辻褄が合わなくなってしまう。
 そもそも、関連遺産群としてこの「新原・奴山古墳群」を加えて申請した人たちは、そんなことまで考えていたのかと疑問に思える。

 同じ入り海(津屋崎潟)の水際に築造された古墳といえば、5世紀後半築造と想定されている「須多田ニタ塚古墳」(須多田12号墳/直径34mの大型円墳))があり、同地案内板には、「埋葬されているのは、その当時、宗像地域を治め海上交通を司っていたムナカタ一族の一人と考えられています。その頃は、古墳の近くまで海があり、行き交う船を見下ろせるように古墳が造られたと思われます」とある。
 ※別記→「須多田ニタ塚古墳は津屋崎潟水際に築造(福津市)

3)7号墳上から8号墳と旧入海を観る つまり、「7号墳」も、上記「須多田ニタ塚古墳」の説明と同じことが考えられ、古墳の規模から推定しても、海洋族であるムナカタ族の首長級の人が埋葬されていると考えるのが妥当である。

※画像1は7号墳西面。画像2は同東面。画像3は同墳上から8号墳と旧入り海跡を観る。

 世界遺産申請では、沖ノ島国家祭祀は、ヤマト王権と結びついたムナカタ族が行ったことになっているが、「新原・奴山古墳群」で最も古いと考えられる7号墳は、ヤマトでは見られない「方墳」であることをどのように捕えたらよいのだろうか。

 因みに、方墳は、出雲物部系ともいわれるが、倭王筑紫君磐井が本拠地とした高良山山麓にもある(「祇園山古墳」)ので、沖ノ島の国家祭祀の国家がヤマト王権だという主張は怪しくなる。

 また、4世紀ごろにヤマト王権が成立し、地方の古墳(特に前方後円墳)はヤマト王権の許可を得て築造されたとする学会の主流からみると、宗像地方に4世紀以前の古墳が数多く存在したのではつごうが悪くなるので、前々からあえて築造年の想定を5世紀以後にずらしてきたのではないかとの考えもある。
  
 (余談)

 上記高良山麓の「祇園山古墳」の祇園とは祇園神、つまり出雲・物部神とされる素戔嗚命のことで、高良大社下宮社に祭祀されている。
 宗像三女神は、姉弟とされる天照大神と素戔嗚命との誓約で生まれたとされ、三女神の一柱タキリビメ (沖ノ島の宗像大社沖津宮祭神・田心姫神)は出雲神の大国主命の妻神の一(縁結びの神)である。
 同じく一柱市杵島姫(宗像大社辺津宮祭神)は倭国姫氏松尾大神(同境内松尾神社祭神)の妻神である。
 天照大神は、大日孁貴で、もともと大和神ではなく、九州の倭国の前身邪馬臺国(邪馬壹国)の卑弥呼である。
 ヤマト(桜井市)の宗像神社の鎮座は、7世紀以降(天武天皇の後宮尼子娘=胸形徳善の娘が高市皇子を産んだ以後)である。
 これらの神々のことを勘案しても、4世紀にムナカタ族がヤマト王権と結託して沖ノ島でその王権のための国家祭祀をしたとは考えにくい。もともと4世紀に、ヤマトに統一国家といえる王朝などがあったのだろうか。

 [7号墳の近くにある古墳(8~12号墳)]

 ・7号墳の側には、陪塚かとも思える小円墳(8号墳)がある(※画像3)。

4) 14、12号墳 ・6世紀前期築造とされる前方後円墳の12号墳(全長43m、周囲に幅5mの基壇あり)と、その側に陪塚かとも思える小円墳が2基(13、14号墳)ある。
 (※画像4は12号墳と14号墳)。

 ・7号墳と12号墳の間辺に小円墳(9、10、11号墳)があるが、整備されておらず行き辛い。

 この6基が、新原・奴山古墳群を横断して通る福岡県道495号線の西側(JAむなかた津屋崎CE:通称カントリーエレベーター敷地周辺)に残されている古墳群である。

 ※別記参照→「酒多神社と旧縫殿神社(新原・奴山22号墳)福津市」。

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2017年12月29日

木村長門守奮戦之図(福津市・波折神社の絵馬)

 前回「波折神社の御神輿を金刀比羅宮御旅所で参拝(福津市津屋崎)」から続く。

 波折神社の秋季大祭日(10月8日)、参道広場で地元の子供相撲大会があっていた。その横を通って社殿に向かったとき、目にあった見ず知らずの子供たちが次々に「こんにちは」と声を掛けた。慌ててこちらも「こんにちは」と返したが、こんな素朴な日常の挨拶ができなくなっている今日この頃、なんだかすがすがしい。

 この日は、再度、「神功皇后伝説の絵馬」を観たいと思っていたので、拝殿に上がって参拝した。
 だが、あいにくこの日は、目当てにしていたその絵馬は掲げてなかったので、改めて掲げてある他の絵馬を観てきた。

 [大阪落城 木村長門守奮戦之図]

 そのなかで正面左側に掲げてある「大阪落城木村長門守奮戦之図」の絵馬に目が留まったので、今回はこの絵馬について若干記しておきたい。

大阪城落城木村長門守奮戦図  勢いよく並走する二頭の各馬にまたがった二人の武者絵である。

 この二人は敵か、後方に描かれている鹿毛馬に乗った鎧兜武者が突き出した槍を、手前の白馬に乗った若武者が手綱を持った左手でつかみ、右手で刀を振りかざしている。


 この若武者が若干22歳で討ち死にしたと伝わる大阪(豊臣)方の將・木村長門守重成(以下「木村重成」と書く)なのだろう。
 木村重成も槍の名手だったと聞いているが。また、木村重成が白馬に乗っていたかどうかについては知らない。

 画題に「大阪落城」とあるので、慶長20年(1615)5月の「大坂夏の陣」を描いたものだろう。
 木村重成は、このとき、徳川方の井伊直孝軍と対峙した八尾・若江の戦いで戦死したと伝わるので、ひょっとしたら鹿毛馬の武者は、井伊家の家臣安藤重勝、又は庵原朝昌(いはらともまさ)を想定して描かれたものだろうか。
 なかなか迫力がある絵で、引き込まれそうになる。

 ※掲載した画像の右中央部分にある白い横長長方形は、拝殿天井の蛍光灯の反射が写りこんだものである。

 [作画者:津崎雲山]

 この「大阪落城木村長門守奮戦之図」の絵馬を描いたのは、その左下に「雲山画」と署名があるので、「雲山」という人(絵師)だと分かる。

 額縁に「奉納 昭和三十七年二月 七十一才津崎作右衛門 六十一才津崎六治」とあるが、この二人は「雲山」の関係者なのだろうか。

 ただ、絵馬の中央下欄に書いてある「雲山」の畧歴を読むと(その全部は読めなかったが)、「雲山こと津崎茂 津崎作右衛門 大正三年三月津屋崎校卒業 小学時代より絵筆を好み…」とあるので、「雲山」が当地津屋崎の人であり、本名が津崎茂だと分かるが、津崎作右衛門とも称したということなのだろうか。

 となると、この絵馬は、昭和37年2月、津崎作右衛門(雲山)71才の時に奉納されたことになるが、別紙解説(下記)を読んでいると、この絵馬は「雲山の死後に奉納」されたとあるので、雲山=津崎茂=津崎作右衛門だとすると、そのとき生存していたことになるが、それともこれは享年なのか、よく分からなくなった。
 (実は上記「雲山画」の横に小さな文字で作画年月が書いてあったのを見落としており、掲載画像ではその文字が読み取れないので、昭和37年2月が作画日なのか奉納日なのか不詳)。

 別紙解説は、絵馬の下に画鋲で貼り付けたプリントで、次のように書いてあるが、雲山の作画の年月、没年、奉納日、奉納者と雲山との関係などが記されていない。

 「津屋崎新町出身の絵師津崎雲山は明治34年生まれ。白水耕運の弟子で、動物画が得意で太平洋戦争後は全国10教団のサーカス専属絵師だった。雲山は、この絵を3万円で請け負ったが、値切られたため売るのをやめた。死後奉納したという。値段のはっきりした珍しい経緯が語られている。絵は、大阪夏の陣で豊臣方で奮戦し、22歳で死んだ木村長門守を描いている。」

 なお、雲山の師という白水耕運については知らないが、津崎雲山は、戦後全盛した見世物小屋の看板絵師で、志村静峯(1905~1971/北九州市)とともに、この二人は、全国的に知られたその道の二代巨頭だったという。(昔、興行師だった故人から二人の名を聞いたような記憶がある)。

 そこで描かれた絵は、一興行が終わると消されることが多いので、後世に残ることはあまりなく、それだけにこうして絵馬として残ったのは貴重であろう。津屋崎地区では、この絵馬を地元が産んだ看板絵師の絵として見学ツアーなども行っていると聞く。
  
  [余談:木村重成の子孫](飯塚市)

 木村重成といえば、随分以前(高校時代)、飯塚市勝盛公園近くの墓地(現存しているかどうかは未確認)で、木村重成と係わる由来を刻した一基の立派な墓碑を観たことを思い出した。

 何しろ昔のことなのでうろ覚えではあるが、それは小林家の墓地で、その碑には、大阪落城のとき、木村重成の子を宿した女子が丸亀の身寄りを頼り落ち延び、その後、飯塚に落ち延び生まれた子が小林家の先祖であるという。時の福岡藩は徳川家とは縁続きの黒田家であり、御難を恐れて、「木村」の姓を「小林」姓に変え代々当地に住み着いた。明治維新後、本来の「木村」に戻した。同家は、飯塚市本町の「木村文具店」だったか、そんな記憶もある。

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2017年12月28日

波折神社の御神輿を金刀比羅宮御旅所で参拝(福津市津屋崎)

1波折宮御輿 これは、今年(2017)10月8日のことである。

 波折神社の秋季大祭で御神輿神幸があるというので出かけた。

 午後、波折神社に着いたとき、既に御神輿が津屋崎の街中に出ていた。


 今、どこを通っているか分からなかったので、津屋崎千軒通りにある「金刀比羅神社御旅所」に行ってみた。

2波折宮御輿 それは、先にこの御旅所の前を歩いて波折神社に向かったとき、いつもは閉まっている御旅所の扉が開いていたので、ひょっとしたらここで御神輿が休憩するのではないかと思っていたからだった。

 すると丁度、この御旅所で休憩していた御神輿が出発するところだった。

 ベストタイミングに感謝し、御神輿に合掌した後、数枚の写真も撮らせてもらった。(※画像1、2)

3金刀比羅宮御旅所 津屋崎地区の人たちは、今も全世帯あげて産神・波折神社(瀬織津姫)の神事を行っている。

 また、同境内社の祇園社(素戔嗚命)の山笠、或は福津市在自の金刀比羅神社(大物主命)の祭事を盛り上げているので頼もしい限りである。


 この御旅所は、金刀比羅神社の秋季大祭のときに同社の御神輿が下る所だが、それだけでなく、波折神社の御神幸でもお下りされるところだと初めて知った。

4金刀比羅宮御旅所内 この前の通りは、度々歩いているが、これまで御旅所の扉が開いているのを観たことがなく、今回初めて見せてもらった。こ御旅所の写真も撮っておいた。(※画像3、4)

 ともかく、波折神社の御神輿の御神幸を拝むことができて満足だった。

 ※つづく→「木村長門守奮戦図(福津市・波折神社の絵馬)」。

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2017年12月27日

東洋館の鏝絵、陶柱、温泉由来など(武雄温泉)

 前回「宮本武蔵ゆかりの井戸と目達原の仇討考(武雄温泉:東洋館)」からつづく。

 前回記した「宮本武蔵ゆかりの井戸」は、「湯元荘東洋館」の館内にあるが、館外にも目を見張るものがある。

 (1) 鏝絵

1鏝絵 佐賀県道253号を通って武雄温泉街に入ると、正面のなかます旅館の玄関の頭越しに、大きな絵馬形の鏝絵(こてえ)が観える。

 この鏝絵は、「湯元荘東洋館」の南東側の外壁に施してある大きな「しだれ桜の鏝絵」である。



 実は、以前から気になっていたのだが、東洋館に泊まったついでに聞いてみた。
 まず、この鏝絵の「しだれ桜」のデザインだが、これは、有田焼赤絵でも知られる酒井田柿右衛門窯の伝統的な絵柄で、鏝絵製作にあたって、この絵柄を特別に提供してもらったものらしい。

2鏝絵 また、この鏝絵の製作を担当したのは、愛媛県喜多郡内子町の左官・市兼武志さんで、製作には20日間要したらしい。

 なお、内子町には、行ったことはないが、鏝絵の町としてよく知られているそうだ。



 私は、どこかに出かけたとき、鏝絵があると、すぐに気づくことが多いが、それは、以前から何かしら鏝絵の美しさに惹かれるものあったからだろう。多分、鏝絵に初めて興味を持ったのは、若い頃訪れた大分県宇佐市安心院町の鏝絵を観たときからだったと記憶している。

 (2) 陶柱

 東洋館の玄関ポーチの右脇に、有田焼の陶器で作られたひときわ大きな飾り柱が目に入る。
 東洋館かわら版によると、次のようなことが歩分かる。
 ・巨大陶柱の製作は難しく、佐賀県内では有田町の陶山神社の陶柱が知られている程度。

3陶器柱 ・平成7年、「湯元荘東洋館創業100年」を記念し有田の窯元に発注し、窯元で、何度も試作を重ねたうえで完成した。
 ・陶柱の大きさは、直径60cm、高さ2.5mである。
 ・陶柱は7分割で作られ、山葡萄が染付で描かれている。
 ・焼き物製の陶柱としては限界の大きさで、全国的にも珍しいもの。有田焼伝統の技である。


 そういえば、東洋館内に数点の有田焼の陶器が展示されていたような気がするので、東洋館は、有田焼の窯元とは特別なつながりがあるのかもしれない。

 (3) 沿革・温泉

 東洋館1階の浴場入口に掲示してある「東洋館の由来と温泉の起源」(墨字の木板)を読んで私なりに要約すると、次のようなことか。

4温泉由来書 ・ここは、江戸時代、塚崎宿の脇本陣「平戸屋」があったところで、維新後は「諸国屋」と称していた。

 ・明治29年1月30日、箱根富士屋ホテルで接客マナー等を学んだ先代ユウ子が、「諸国屋」を継承し「東洋館」と命名した。


 (多分、その命名は、外人客も多かった箱根富士屋ホテルで学んだ国際的な視野に基づくものがあったのかもしれない)。

5新湯噴出時の写真 ・昭和に入り、時代の要求もあり、自宅温泉の設置を思い立ったとき、ふと「平戸屋」の時代から繁栄をもたらすとされ代々守り継がれてきた庭の「欅(けやき)の木」に思いが至った。
 ・昭和11年3月10日、この欅の木がある処に「湯元」があると信じ、九大工学博士山根新次の指導により掘削にとりかかり、同年8月12日、念願の温泉(52゜C、1時間一石五斗)が湧出、これを機に、現在の「湯元荘東洋館」と称するようになった。


 ※現在、浴場は、1階と4階にあるが、私が落ち着くのは1階である。
 ※なお、江戸期の平戸屋から加えると創業400年になるといわれる老舗・湯元荘東洋館の現女将は、江口敬子さん。→「老舗旅館で育った女将・江口敬子/「湯元荘 東洋館」。

※次回→「湯元荘東洋館泊・雑記(武雄温泉)」。

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2017年12月26日

宮本武蔵ゆかりの井戸と「目達原の仇討」考(武雄温泉:東洋館)

1武蔵ゆかりの井戸 ・先日、武雄温泉の湯元荘東洋館(佐賀県武雄市)に泊まった。

 フロント前のロビーの端、ガラス張りのなかに、箱庭のような形で「古井戸」をメインとした小庭がある。この古井戸が「宮本武蔵ゆかりの井戸」といわれるもののようだ。


 一時は荒れ果てていたとも聞いたが、今は、このような美しい小庭に整備されている。

2説明板  ・武雄市の「長崎街道案内」には、「脇本陣・宮本武蔵の井戸」とあり、この井戸について、次のような説明がある。
 「脇本陣は、…現東洋館の場所にあった。
 二刀流で有名な宮本武蔵は、寛永年中、平戸屋(東洋館)に宿泊し、今も武蔵が使ったと云う井戸が残っている。
 平戸屋に武蔵を訪ねて来た多久の百姓静馬が、父の仇を討ちたいから、ぜひ弟子になって武芸の修業をしたいと願い出た。武蔵は、静馬を熊本に連れて帰り武芸を教え、5年後に無事、神埼町目達原で仇討を果たしたと云う。」


3楼門 ・江戸時代、参勤交代で大名が泊まった塚崎宿(武雄温泉)の本陣は、武雄温泉のシンボル「楼門」の内側(殿様風呂など現存)にあった。

 そして、脇本陣の平戸屋(現東洋館の前身)はそのすぐ前にあったことになる。


 その当時から、平戸屋にあった「井戸」が現在に残り、かつて、ここに逗留した宮本武蔵がこの井戸を使ったということで、今日、「宮本武蔵ゆかりの井戸」と称されているのだろう。
 東洋館となっても、この井戸を潰すことなく保存したおかげで、昔の脇本陣の面影の一つを今に伝える郷土遺産となっていると思う。

 ・宮本武蔵の塚崎宿平戸屋(東洋館の前身)宿泊説については、〃陳17年(1612)4月の巌流島の決闘の後とか、寛永14年(1637)12月島原の乱で、中津藩主小笠原長次の後見として出陣したときとか、4憶17年(1640)熊本藩細川越中守五邦に仕えて以後、神経痛の湯治で逗留し、ここで「五輪書」の構想を練ったとき、というような話があるが、真偽のことは分からない。

 ・上記の「平戸屋に武蔵を訪ねて来た多久の百姓静馬」とは、一般的には、南多久(久保田村)の百姓で当時16歳の吉之助で、その5年後の寛永18(1641)年3月7日六ツ刻肥前目達原(めたばる)において父の仇蒲原右膳(佐賀藩士・指南役、浪人とも)を討った石井主馬(当時士分100石取りとなっていた)であるとされている。

また、そのとき石井主馬が、中条流免許皆伝の剣士蒲原右膳を切った三尺一寸の長刀は、武蔵から貰った栗田口国久であったというが、それはともかく、石井主馬が武蔵に師事したのが、この5年前であれば寛永13年(1636)となるので、平戸屋に武蔵が泊まったのは、島原の乱より前48歳のときとなる。

 ・ところが、神崎郡吉野ヶ里町立野(目達原・苔野祠)の「目達原の仇討ち」案内板には、仇討があったのは文禄元年(1592)8月16日とある。

 「肥前古書の中に「目達原の南端より、あぜ道を出て東に入ると雑木の間に、敵役蒲原右膳の墓が寂びしく立っている」とある。右膳塚と称して苔野の宿外れに残っていたこの墓を大東亜戦争中飛行場建設の際に放置され、その後桜館の庭に移されていたものである。この仇討ちは文禄元年(1592)八月十六日孝子吉之助が宮本武蔵の門下となり、五年の修行をつみ、腕を磨き、鍋島直茂・加藤清正両公の面前で父の仇を討取ると云う物語で、仇討ちのあった場所は、現在目達原自衛隊用地となっている(西門横望楼付近)。(佐賀県の歴史と文化に「物語に近い伝説」として記されてある) 三田川町教育委員会」

 ・『宮本氏正統記』には、宮本武蔵は、天正10年(1582)生、正保2年(1645)没・享年64歳とあるので、仇討ちが行われたとされる文禄元年(1592)の5年前は天正15年(1587)で、そのとき武蔵は僅か5歳であり、門下生などとれるはずがなく、この説では、武蔵と「目達原の仇討ち」を結びつけることはできない。
 さらに、鍋島直茂・加藤清正らは、文禄元年(1592)4月から始まった文禄の役で朝鮮に渡っていたと思われるので、同年8月に行われたという仇討に立ち会うことなどできるはずもない。

 ・となると、寛永18(1641)年3月の目達原の仇討の方が、信憑性があるのかと思いきや、不思議なことに、こちらの話(「仇討桜の目達原」新郷土)の方にも、肥後の加藤清正が立会人として出てくるので、途端に信憑性がなくなる。つまり、加藤清正は、慶長16年(1611)に没しているので、寛永18(1641)の仇討に立ち会うことなどできるはずがないからだ。

 ・どうしてこのような矛盾だらけの伝説が生まれ、よく検証もせずに今に伝えられているのかが分からず、また、武士に無礼打ちされた百姓の仇討が認められたのだろうか、真相は闇のなかである。

 ・二刀流(二天一流)の剣聖・宮本武蔵は、時代のヒーローだから、このような時代を超えた伝説が生まれたのかもしれない。

 ・にもかかわらず、温泉旅館のロビーに、少しでも昔の情緒を味わうことができる武蔵ゆかりの井戸が残り、それを眺めていると気が休まるものだ。また年明けにでも泊りたい。

 ※つづく→「東洋館の鏝絵、陶柱、温泉由来など(武雄温泉)」。

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2017年12月24日

印鑰神社・宗崎の観音・六地蔵幢(久留米市御井町宗崎) 高良山麓巡り45

 前回「印鑰神社◆Χ内散見(久留米市御井町宗崎) 高良山麓巡り44」から続く。

 ・印鑰神社社務所の左後方、道路を挟んで対面(御井町2597)に、右からヾ儔仔(大師堂)、∪仟ご兩げ司郢堂、O暫和幢堂がある。(※画像)

宗崎観音・六地蔵堂  観音堂(大師堂)

 ・右側にあるお堂は、3棟のお堂のなかで最も大きいお堂で、ほかの二つが石造を安置するだけのお堂なのに対して、このお堂だけは、床に上って、須弥壇の前に数人座ってでも参拝できるようになっている。


 ・須弥壇の中央に(a).観音像1体(白衣聖観音立像)、左の木壁の内側に(b).石造弘法大師坐像1体、右の木壁の内側に(c).十六羅漢石像1体(注茶半託迦尊者座坐像)が安置してあるのが分かる。

 (a) 観音像は、左手に蓮花を持った白衣聖観音立像。もっとも白衣部分に誰かが空色の塗料が施したようで、青衣聖観音になってしまっていた。由緒は分からない。

 ・ただ、御井町誌によると、宗崎には、かつて「お観音講」という「講」があって、毎月17日に、前月のくじに当った人が講元になって講の世話をする「取った者回し」という習慣があったそうなので、ひょっとしたら、ここがその講を行う場所で、そのために参詣するお観音様だったかもしれない。ふとそんなことを思ったが、確認はしていない。

 (b) 左側に弘法大師坐像(石像)があるので、ふと、ここは久留米(三井)四国霊場の一つかもしれないと思ったが、それを示す番札などの表示はなく未確認。

 ・内壁に「弘法様前舗装 平成元年六月二日 工費四万七千四百円也 工事施工協力者名(順年長者)諸富勇 古賀キクヨ 岡芳松 池田智男 大渕八十二 渡辺國弘」と記した木札が貼ってあったので、この観音堂には、弘法大師堂という呼び方もあるのかもしれないと思い、勝手に本項の見出しに「(大師堂)」と書いた次第である。

 (c) 右側の板壁の後ろに置いてある羅漢像を斜めの角度から覗いたら、顔を思い切り上に向けた(天上を向いた)石像で、いつまでもこんな格好をしていたら、さぞ苦しかろうにと思ってしまった。このような形に造ったのには、作者の何らかの意図があってのことだろう。
 この像は、十六羅漢(仏法護持を誓った16人の仏弟子)の十六番目「注茶半託迦尊者」(ちゅ さはんだかそんじゃ)の坐像だというが、ここに安置されている由来は分からない。
 また、十六羅漢像が一体でいるのは珍しいが、ほかの15体はどうしたのだろう。

  石造観世音菩薩堂

 ・真ん中にある最も小さなお堂で、堂内に安置されている石造観世音菩薩坐像を参拝するときは、お堂の前でしゃがまないいけない。

 ・堂内に墨字(半分は消えている)で「観世音菩薩 宝暦庚辰戚七月十四日」と書いた小さな木片が置いてあったが、どうもお堂の上に釘付けしてあった表札のようだ。
 「宝暦庚辰」つまり江戸中期の宝暦10年(1760)に造られたものとなるので、かなり古く、それなりの由緒があるのだと思うが、調べてはいない。

  六地蔵幢堂

 ・二段重ねの石塔(幢)の上段部分を六角形に加工し、その各面に6体の地蔵像を浮き彫りにしたものだが、お堂内に安置してあるので、保存状態は良いが、後ろ面を観ることはできない。

 ・下段部分には「延享元甲子七月吉日 南無阿弥陀佛」の刻があり、延享元年(1744)の建立で、上記△寮仟ご兩げ司郢Г茲蠅眈し古い。
 
 ・お堂の中に少し身を乗り出して、下段の左右の面を見ると、(右面)「為先祖菩提」 、(左面)「當村中一蓮宅生 田中権助」の文字がよみとれるので、宗崎村一蓮宅生まれの田中権助が先祖の菩提を弔うために建立したことが分かるが、その「六地蔵幢」を今日に至るまで当地域の人たちが地域のお地蔵さまとしてご供養を続けて来たということのようだ。

 ・「六地蔵」というと、一般的には、六体の地蔵像を横一列に並べて安置してある場合が多く、「六地蔵幢」(ろくじぞうどう)は割と珍しい。私の脳裏には、熊本城内で見かけた六地蔵幢くらいしか残っていない。

 ・因みに、人は死後、六道を回るとされ(六道輪廻)、お地蔵さまがその六道の各辻に立って、苦しむ人々を救済し極楽に導いてくださるということから、六地蔵を作って敬う信仰が生まれたとされる。

 ・これらの清掃は、行き届いており、ここ宗崎地区は、昔から結束して氏神さま、お観音さま、お地蔵さま等を大事に守ってこられたことが推測できる。

※次回→「高良山公園の紅葉 (高良山麓巡り46)」。

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2017年12月23日

印鑰神社◆Χ内散見(久留米市御井町宗崎) 高良山麓巡り44

 前回「印鑰神社(久留米市御井町宗崎) 高良山麓巡り43」から続く。

 今回は、印鑰神社(久留米市御井町宗崎2598)境内238坪(約787)を散見する。

 ☆ 石鳥居

1印鑰神社石鳥居 …明神石鳥居1基、明治41年(1908)10月建立。石段下(前)の道路上に建っている。

 「印鑰神社」と書いた額束(神額)あり。
  (※下記「神紋」参照)。

 ・両柱の刻字は下記のとおりである。
 「奉寄進 世話人 高田藤平 倉富庄次郎 金子作太郎 大渕惣三郎 元田開子郎 鬼塚土長 高田喜平 青木茂吉 明治四十一年戊申十月吉祥日」

 

 ☆ 社殿

2印鑰神社社殿 …現社殿(木造瓦葺入母屋平建)は、慶應3年(1867)創建のものだという。
 その後、数回の修理を経て現在に至っているようだ。

 ・正面庇部分の両柱に取り付けてある藁縄の「注連縄」は立派である。


 ・拝殿正面扉の上に「印鑰神社」の神額が掲げてある。
  (※下記「神紋」参照)。
 ・扉の左右に祭神名「武内宿禰」「菅原道真」と書いた板札の掲示あり。

 ・扉は施錠されていたので、社殿内に入ることはできなかったが、御井町誌によると、[祭神武内宿称、菅原道真の台座裏]に、次の天保2年(1831)の刻があるという。
 「天保二辛舛四月?日 三月二十九日 舟色 神主久富丹波政。久留米仏師 本村半兵衛勝元」

 ・上記により、天保2年には、「久富丹波政」なる神主(宮司)がいたことが分かる。
 御井町誌によると、この久富丹波政は、印鑰神社の右方、大学稲荷神社裏参道の石段の下にあった家屋を「寺子屋」にして、宗崎村の子供たちに読み書き算盤(そろばん)を教え、同地域の人々に深く尊敬されていたようで、亡くなったときは村民あげて「宗崎邑葬」で葬送されたらしい。
 墓は、教え子らの尽力もあり、かつて久留米信愛女学院の東側にあった旧墓地に建てられ、墓石には次の刻があったという。
 (表面)「久富丹波允管原家信墓 天保十年亥五月六日卒」、(裏面)「三潴郡江島村北島大□ 長男久富定文建立 文政四年十月一日」

 ☆ 案内板(祭神と由来)

3印鑰神社案内板 …平成13年9月宮原洋寄進による案内板(祭神・相殿祭神説明と由来)が参道に建てられた。下記に抜粋する。

 「祭神 武内宿禰(たけうちのすくね)…大和朝廷で活躍した歴史上の人物で、熊襲や朝鮮遠征などで朝廷を助けて功労があった」。


 「由来 印鑰神社は宗崎大宮司邸に祭られ、「印」は国印、「鑰」は穀倉の鍵を指すが、ここでは高良大社の宝と神殿の鍵の意。慶長6年(1602)宗崎村が神領から外され社地も宗崎分となり宗崎村の氏神となった。現社殿は慶應3年(1867)創建。」

 「相殿祭神 菅原道真(すがわらのみちざね)…平安朝の醍醐天皇(897年)の時、右大臣となり、藤原氏のおとしいれで大宰府へ流され僅か3年で亡(59歳)。文化8年(1811)5月宗崎住人宮原彦兵衛寄進合祀。」

 ☆ 福岡縣神社誌の由緒

 …「白鳳五子年(676)鎮座、明治6年(1873)3月14日村社。大正10年(1921)4月7日神饌幣帛料供進指定。例祭日12月18日。境内238坪(※約787)。戦時中の氏子数51戸」。

 ※上記の白鳳五子年」とは、麗気記私抄・天武天皇の白鳳五丙子」(676)のことだと思うので、二中歴・天智天皇元年から始まる白鳳年号で言えば「白鳳16年」(676)となる。

 この頃は、白村江の戦い(663)の敗戦で倭国(九州王朝)が滅亡し、かつての倭国王・筑紫君磐井の死亡(528?)後も続いた倭国の拠点の一つだった筑後国(筑後国府)もヤマト(大和朝廷)に吸収され、同国内の霊山・高良山もヤマト(日本)の支配下に治められていた。

 高良山麓には磐井の清水磐井川があり、高良山は筑紫君磐井が根城としたことでも知ら、もともと倭国(九州王朝)の霊山であった可能性が高い。そして、倭国を作った姫氏(紀氏)、或は倭国を支えた物部氏と係わっている。(菅原道真も物部氏の出である)。
 したがって、武内宿禰は、もし高良山大宮司家(祠官家)の祖神であれば、上記案内板にあるような大和朝廷で活躍した人ではなく、倭国(九州王朝)と係わる人物であったと考えるべきかもしれない。

 また、武内宿禰が生涯仕えた神功皇后の伝説は、北部九州に数え切れないほどあるが、ヤマトには全くなく、ヤマトに行った可能性も薄い。高良山麓の朝妻の清水にも神功皇后清水湧出伝説がある。
 なお、武内宿禰の昇天地は、織幡神社(宗像市鐘崎)にあり、その両親を祀る葛原神社も鐘崎にある。

 ☆ 棟札の神名
 
 …印鑰神社には、現社殿が創建された慶応3年(1867)9月奉納の「棟札」が残されているという。御井町誌にその全文(下記)が掲載されており、そこには次の神々の名も記されている。

 「国枝槌尊(※下記参照) 月弓之尊 伊弉諾尊 天御中主尊 罔象女神 思兼之神 手置屓神 天彦挾知神 天月一箇神 惶根尊 句句遒馳神 西足尊 大戸道尊 大宮辺尊 謹書印鑰宮
 天下泰平 国主安全 奉上棟御守護修敬白 御井郡宗崎村庄屋 末次新太郎 慶応三夘年九月大吉
 御井郡出目村木挽 池田鉄次 同高良内村 古賀久五郎 御井郡上津荒木村 後見宮崎廣七 藤原末組 御井郡府中町 大工棟梁 藤崎久右衛門□則正 御井郡上津荒木村 小工 津田仙吉右衛門 御井郡出目村 御井郡宗崎村横目 小挽池田伊平 小渕宇右衛門」

 ☆ 神紋

 …石鳥居の額束と拝殿鴨居の神額に次のような形で神紋が配されている。

4印鑰神社鳥居と神紋 ・「印鑰神社」の社名を囲む枠があり、その枠の上部に「五三の桐」があり、縦枠の中間付近(鑰と神の間付近)の両サイドに、外枠の後ろから顔を出すような形で「十六弁菊紋」右半分(右菊花弁8枚)と左半分(左菊花弁8枚)が配してある。「十六弁菊紋」1個を分割、又は2個あるということなのか。


 ・「五三の桐」は国紋で、現在は官公庁の紋章として使われることはあるが、一般ではあまり使われていないと思う。

 ・「十六弁菊」を含む「菊花紋章」は、「菊の御紋」(天皇家は十六八重表菊)と呼ばれ、基本的に皇室以外では使われていないが、ただ天台宗では、菊花紋が皇室紋となる以前から、十六菊の中央に三諦星(三台星)をあしらった三諦菊花紋を宗章としている。
 ・なお、高良山座主坊(現御井寺)は天台宗だったが、ここにある十六菊には三諦星のデザインはない。

 ・境内の当社案内板に、神紋に係わる記載はなく、その意味するところは分からないが、上記棟札には、国家と皇室の祖神てある国枝槌尊(「国之常立神」のことか)、月弓之尊(月読命)、伊弉諾尊天御中主尊など神々の名がるので、きっと当社には、五三の桐や十六弁菊の紋章を使える由緒があったのだろう。

 ☆ 桜の樹(染井吉野)

5印鑰神社境内桜樹 …境内に生えている染井吉野の桜樹は、昭和61年に植樹されたもので、開花時期には境内広場等で花見宴もできる。
 ・当時の植樹担当者は、(宗崎地区)町内会長池田智男、副会長大渕八十二、衛生組合長豊橋美喜雄、宮総代岡芳松(※社殿外壁貼付の木札による)。
 ※別記参照→「印鑰神社の桜(高良山麓巡り47)」。

 ☆ 社務所(公民館)

 …社務所(木造瓦葺平屋)は、社殿の左方に建っている。
 ・現社務所は、下記´△砲茲蠡臉10年(1921)4月7日に新築され、平成14年(2002)11月9~27日に改修竣工されたことが伺える。

6印鑰神社社務所・寄附碑・桜樹 \价幣紊砲△襦神饌所社務所新築費寄附者人名碑」、大正十年四月七日建立。

 新築委員青木茂吉、金子作太郎、諸富熊吉、高田万蔵、渡辺乙吉、青木友平、池田善蔵のほか、寄附者名簿・寄附金額一覧(※転記省略)が刻されている。


 ⊆厂浬蠅粒以匹膨イ衂佞韻討△襦(五三桐紋)印鑰神社社務所改修工事記録」の木札。「起工平成十四年十一月九日、竣工平成十四年十一月二十七日、宮総代古賀正三、青木保、松栄磐、世話人岡芳松、池田晴」。

 ・社務所と社殿の間に広場あり、広場の清掃は行き届いており、社殿横の庇の下に数本の松葉箒などがまとめて立てかけてあるので、氏子さんらが交代で清掃されているのだろう。戦前まで宗崎地区には「子供中」という組織があって、毎日曜の早朝に境内清掃という習慣があったようで、もし、その習慣が今日、氏子会に引き継がれているのだとしたら見習いたいものだ。
 なお、車で参拝に訪れたときには、広場で祭事等の行事があってなければ、一時駐車可と思う。

 ・御井町誌に「明治初期に宗崎の土地の大部分を所有していた地主は、柘植(柘植善吾)、吉村、草野、元田、平塚の五名であった」と記しているが、上記各世話人等の名簿に、その姓がないので在住されていないのだろうか。
 なお、柘植善吾(つげぜんご)については、デジタル版日本人名大辞典に「1842−1903 幕末-明治時代の武士,教育者。天保(てんぽう)13年7月19日生まれ。筑後久留米藩士。慶応3年藩最初の留学生として渡米。帰国後,宮本洋学校総轄(校長)となる。明治11年農商務省に入り、駒場農学校長心得、福井県下の郡長などをつとめた。明治36年8月1日死去。62歳。名は信鋭。号は木石。」とある。

 ・社務所の左横、道路側に、「手水石鉢」1個が置いてある。
 ・社務所の左横の後方、道路の対面に白衣聖観音堂(大師堂)、石造観世音菩薩堂、六地蔵石幢堂などがある(次回掲載)。
 ※次回→「印鑰神社・宗崎の観音・六地蔵幢(久留米市御井町宗崎) 高良山麓巡り45」。

keitokuchin at 23:00|PermalinkComments(0)

2017年12月22日

印鑰神社(久留米市御井町宗崎) 高良山麓巡り43

前回「横馬場の地蔵菩薩彫像板碑 (高良山麓巡り42)」から続く。

 [宗崎の印鑰神社の場所]

 ・高良山・高良大社(高良神社)の本殿裏にある大社末社「印鑰神社」(いんやく、又はいんにゃくじんじゃ)は、昭和6年(1875)高良山麓の宗崎鎮座の「印鑰神社」を勧請したものだが、この宗崎の「印鑰神社」は、久留米市御井町字宗崎2598にあり、白鳳五丙子年(676)鎮座という由緒を持ち、現在も宗崎地区の氏神(旧村社)として崇高されている。

1宗崎[印鑰神社]へ ・宗崎「印鑰神社」は、高良山西山麓にあり、位置的には「高良山稲荷会館」(大学稲荷神社境内)の西下方で、ここから印鑰神社に行くときは、大学稲荷神社裏参道(石段100段以上/下方崩壊、迂回路あり)を下り、前回の「横馬場地蔵堂」とつながる里道を右折し、その先の十字路を右折するとよい。

 因みに、バス、車の場合は、大学稲荷バス停から九州自動車道側道(東側)を北方向に約80m進み、三つ角を右折し250m直進する(徒歩約5分)。同社社務所前に一時駐車可。



 [物部氏と係わる祭神か]

2印鑰神社 ・この印鑰神社のある御井町宗崎は、高良内町と隣接し、里道沿いに高良内町に入ると徳間清水や横馬場地蔵堂、赤星神社(境内社天満宮)、高良内八幡宮、富松神社など弦田物部氏と係わる考えられる遺跡があり、印鑰神社も同じ物部氏との係わりで考えてもよいかもしれない。


 ・それは、当社の祭神は、武内宿禰だが、本来の祭神は「高良山の印鑰」を所有していた高良神・物部保連(やすつら)だったのかもしれないからだ。

 また、文化8年(1811) 宗崎の住人宮原彦兵衛が祭祀していた「菅原道真」が相殿に合祀されており、この菅原神が高良内天満宮(赤星神社境内社)にも祭祀されていることからも伺えなくもない。
 因みに、「赤星神社」の祭神は、筑紫弦田物部氏の祖「天津赤星」であり、高良内地区には高良大社祭祀に深く係わった「物部氏の集団」がいたとされており、高良大社御神幸の御神輿は「高良内八幡宮」を御旅所としている。

 [高良山の印鑰]

 ・「印鑰」とは、印鑑と鍵(かぎ)のことだが、広辞苑には「ヾ碓と官庁の倉庫のかぎ。天台座主の職印と宝蔵を開くかぎ。ともに座主となった人が受けるもの。」とある。
 因みに、皇室では、印鑰…国印と宝蔵庫(かつては穀物倉庫なども)のかぎは、三種の神器とともに国の天子・天皇だけが持つことのできる権威あるものである。

3印鑰神社神額 ・かつての高良山は神仏混合の霊山で、高良山座主は高良大社大宮司であり、座主坊の三井寺(御井寺/旧高隆寺)は天台宗であった。

 したがって高良山座主・大宮司は、その職印と宝蔵(神殿、厨子、宝物・穀物倉庫等)を開くかぎを受け継いでいたと考えられる。


 ・慶長6年(1601)、宗崎(当時:宗崎村)は高良大社の神領から外されたが、それまでは、印鑰神社の社地内に大宮司宗崎邸があったというので、ここに高良大社の印鑰が保管されていたのだと推測する。

 [印鑰神社の祭神]

 ・また、当宗崎「印鑰神社」が高良大社の印鑰を保管した大宮司宗崎邸内にあったので、その祭神が大宮司家(祠官家)の祖神である「武内宿禰命」となっているのだろう。

 ・相殿の菅原道真は、上記したのように文化8年(1811) に合祀されたものである。

 ・ただ、当社に残っている棟札によると、祭られていた神はそれだけではなかったようにも思える。画像の神額の神紋についてと合わせて次回記載する。(※次回記事中の「棟札の神名」「神紋」の項参照)。
 
 [各地の印鑰神社の祭神]

 ・各地にある「印鑰神社」の祭神はバラバラである。それは、上記のように印鑰神社が、鎮座各地の長の職印や穀倉等のかぎを所有していた、例えば地方の国司等が、自らの祖神や土地と係わる神を祭祀する神社だったからだろう。

 例えば、次の印鑰神社の各祭神は、下記のようである。
 ・久留米市大橋町常持の印鑰神社=宇多大禰奈神。
 ・久留米市大善寺夜明の夜明神社(旧:印鑰神社)=道君首名(みちのきみのおびとな)…奈良時代初頭の初代筑後国国司。
 ・熊本県八代市の印鑰神社=蘇我石川宿禰…武内宿禰の第三子で蘇我氏の祖とされる、同地に戦死伝承あり。
 ・宮崎県西都市の印鑰神社=大己貴命。
 ・佐賀市大和町の印鑰神社=大己貴命。

 ・以前掲載した「王丸八幡神社と黒尾明神社(宗像市)」…(11)境内神社の文中…、許斐山「印鑰神社」の祭神は、石川宿禰(上記八代市の印鑰神社と同じ)。なお、石川宿禰は、武内宿禰の第三子だというので、その意味では、宗崎「印鑰神社」とも若干係わりがあったのかもしれない。

※つづく→「印鑰神社境内散見(久留米市御井町宗崎)高良山麓巡り44」。

keitokuchin at 21:29|PermalinkComments(0)

2017年12月19日

鎮国寺・師走の花(宗像市吉田)

1鎮国寺の紅葉 1 紅葉

 駐車場の縁、伊摩神社旧社地(伊麻神社元宮)の上辺りで、楓の紅葉が観られた。ことのほか寒気の厳しい今年(2017)の師走、紅葉狩りをするような気分でもないが、残り香のように美しい紅葉を目にすることができたのは幸せだった。



2鎮国寺の十月桜 2 十月桜

 車道口の一本の「十月桜」、もちろん今は師走で、とっくに満開は過ぎているが、寒気のなか、咲き残りの白い小花が、葉のない無数の小枝の上に小雪を散りばめたようにくっついていた。
 これもまた師走の風情か。



3鎮国寺三十三観音と白花藪椿 3 白花藪椿

 鎮国寺大師堂の後ろの池の対岸の山陵の縁に、一列並ぶ石造三十三観音像。その前に生えている「白花藪椿」樹に咲いている白い花が観られた。
 紅椿ほどの派手ではないが、いかにも寒々しく冬らしい。


 なお、三十三観音は、萬延元年庚申年(1860)に鎮西観音霊場勧請らしいが、詳細は聞いていない。その右横には禊の不動滝がある。


4鎮国寺池の三猿と錦鯉 4 池の錦鯉・紅鯉

 池のなかに鎮座している見ざる聞かざる言わざるの三猿の石像は、猿に見えないユーモラスな顔をしているが、その周りや、蓮の花壇の周りを泳ぎ回る錦鯉や紅鯉たち。
 



5鎮国寺池の紅鯉 いやいや池のなかを群れをなして我がもの顔に泳ぎ回る錦鯉や紅鯉たちの姿は、花ではないが、その鮮やかな色合いが美しい水中花のようだった。

 小雨交じりの寒さのなか、寒さを忘れるように、しばし池のなかを覗き込んでいた。



6鎮国寺参道 何度も訪れている鎮国寺を師走に訪れたのは初めて、花やかさはないが、お参りする人たちの姿は絶えず、寂しさはなかった。

 四季様々な花の香わ楽しむことができるのも鎮国寺ならではの風景だ。

 ※次回→「鎮国寺の「梵字岩」(宗像市吉田)」。

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