2018年01月

2018年01月28日

「干支(戌年)色紙 (南岳杲雲作画)」を頂いた

干支戌色紙 年賀で「干支(戌年)色紙掛け軸」を頂いた。(平成30年は戌年)

 この色紙は、南岳杲雲(なんがくこううん)師(高野山真言宗宗潮寺住職、讀賣書法会理事、日本書芸院評議員)作画。

 丸々とよく太った犬の種類は何、見たような見てないような??
 でも、いいか、丸々と太って福がいっぱいということで。



 この色紙の画題は「積善餘慶」(せきぜんよけい)。
 この画題について、作画者の解説を下記する。

 「積善餘慶とは、善いことを重ねた家は、その報いとして幸せが子孫にまで及ぶという意味です。
 [積善]は、善を積み重ねる。長い時間むかけて善行を積み重ねるという意味です。[餘慶]は、思いがけない慶事が子孫まで及ぶという意味です。
 積善が育ったればこその餘慶という意味合いが含まれています。
 善行を重ねているような人の家庭には自然にめでたいことが集まってくるものです。人知れず善いことを積み重ねていくよう努力することは決して無駄にはならないという事を念頭に置き、この一年を過ごして行きたいものですね。」

 神仏や先祖を供養し、奉仕、精進し、身近な人たちとも善い行いができるように努力する、このように心がけた生活を送っていると、いつかきっと将来の宝となる子孫に餘慶を残すことができるのかもしれない。
 いろいろ煩悩に惑わされる私たち、そうありたいものだと思う。

※昨年(平成29年)飾っていた「酉(福鶏)の干支色紙」の掛け軸は取り外した。

keitokuchin at 23:54|PermalinkComments(0)

2018年01月26日

鎮国寺奥の院岩窟・不動堂寸描(宗像市吉田)

 前回→「鎮国寺の梵字岩(宗像市吉田)」。

 「鎮国寺奥の院岩窟・不動堂」には何度となく足を運んでいるが、これまで奧の院について寸描したのは、別記「宗像大社・鎮国寺参拝〜黄エビネの開花」(2009.4.22)のみである。
 今回、改めて以前の記憶を交えて、「鎮国寺奥の院岩窟・不動堂」境内を寸描する。

 (1) 奥の院岩窟・不動堂

 ・鎮国寺発祥の地とされる「奥の院」は、屏風山の谷あいのどん詰まりにあり、その右側の崖壁に開いた「岩窟」と、その前に一体となって建っている「不動堂」、及びお籠り堂(通夜堂)ほかの関連施設で成り立っている。
 ・奥の院岩窟の入口を覆うように建っている「不動堂」の建物は、この岩窟を御神体(本尊)として拝む拝殿のような形になっている。
 ・この御堂を「不動堂」と云うのは、弘法大師(空海)がこの岩窟内で鎮護国家の修法中に秘仏・不動明王立像を彫ったという伝説によるのだろうか。

 (2) 身代り不動・波切不動尊

 ・毎年4月28日の鎮国寺柴灯大護摩供に合せて御開帳される鎮国寺護摩堂厨子安置の秘仏・不動明王立像(国指定重文)が、この伝説の不動明王像だという説がある。
 となると、これまで度重なる荒廃(中世戦乱、明治維新、戦後など)を繰り返してきた歴史を持つ鎮国寺においてよく今日まで保存されてきたものだと思う。

 ・この不動明王立像は、「身代り不動尊」とも通称されるが、「波切不動尊」(浪切不動尊)ともいう。
 ・宗像大社を総社とする宗像・福津地方では、宗像大社(宗像大神)とも係わる弘法大師の「波切不動霊験」により不動明王像を「波切不動尊」として祀っているところが多い。
 因みに、鎮国寺は、明治維新までは宗像大社の神宮寺だった。

 ・「波切不動霊験」とは、次のような話である。
 ・延暦23年(804)8月、弘法大師は、遣唐使船でが入唐の途次、大暴風雨に遭い、船が荒波に呑まれそうになっているとき、波伏せを海の守護神宗像大神と諸仏菩薩に祈ったら、示現した不動明王が荒波の上に立ち、右手に握りしめた般若利剣を振りおろし、荒波を切り大暴風雨を納めた。
 このおかげで、弘法大大師は、命を落とすことなく、乗船した船は、無事、福州長渓県赤岸鎮(福建省福寧湾付近)に漂着した。
 この波切不動霊験談により、身を挺して荒波を切り、弘法大師の命を救った不動明王を称して「波切(浪切)不動尊」、或は「身代り不動尊」とも称するようになった。

 ・なお、弘法大師が屏風山の奧の院岩窟で修法したのは、唐から帰国後、宗像大神にお礼詣りしたときのことだとされている(下記)。

 (3) 奥の院岩窟と霊気

 ・奧の院岩窟内には石造不動明王像(不詳)、及び弘長三年(1263)銘の釈迦如来・八大龍王線刻板碑が安置されているというが、岩窟内は立ち入り禁止なので、それを目にすることはできない。なお、弘長三年は、鎌倉時代中頃で、浄土真宗宗祖・親鸞が没した頃である。

 ・私が奥の院で修行していた頃、許可を得て一度だけ岩窟のなかに入ったことがある。そのとき、目を凝らして岩窟内を懸命に眺めたが、本当に真っ暗闇でまったく何も見えなかった。
 ・真暗な岩窟内で感じた霊気は恐ろしいほど強く怖く、その後、再び岩窟内に入ろうなどと思ったことは一度もない。
 ・強い霊気は、そのときの自分に、それを受け止めることができる修行による霊力が備わっていないと甚だ危険である。

 ・このとき、突然、暗闇恐怖症、閉所恐怖症といった感覚にも襲われた。
 そして、ひょっとしたら盲目の人たちの方が、私などよりは精神力が強く、霊気感受力も強いのかもしれないと、そんなことも思った。

 ・なお、奥の院における霊気は、岩窟内ではなく、不動堂の拝殿の内外、境内に佇んでいただけでも得ることができる。

 (4) 弘法大師の岩窟(洞窟)修法行

 ・この奥の院岩窟は、上記のように、弘法大師が唐から帰国した後、宗像大神にお礼詣りに行ったときに修法したところだとされている。
 ・大同元年(806)に弘法大師が唐から帰国し大宰府に入るとの記録があるので、その頃、宗像大社辺津宮にお礼詣りに行ったのだろう。
 このとき、弘法大師は、宗像大社前の釣川(当時は入海だったか)の対岸にある屏風山の上にかかっている瑞雲を観て、この山中にある岩窟に入り修法し、この霊地内に「鎮護国家の根本道場・屏風山鎮国寺(五仏堂)」を開創したという。

 ・このとき、弘法大師が岩窟内で彫った仏像が、上記の秘仏・不動明王立像で、また、五仏堂の本尊五仏(五躰の仏像)や梵字岩の種子(筆跡)もそうだという。※五仏と梵字岩については、前回→「鎮国寺の梵字岩(宗像市吉田)」参照照のこと。

 ・弘法大師が、屏風山の谷あいにある岩窟にたどり着いたのは、神仏の導きがあってのことで、地の人の道案内があったとしても、藪道をかき分け、岩窟下の谷あい道を上ってこの岩窟に達したのだろう。
 ・もちろん、弘法大師が岩窟で修法した頃には、不動堂の建物はなかったので、岩窟の内部は、一寸先も見えないような真っ暗な状態ではなかっただろう。

 ・弘法大師と岩窟(洞窟)は縁が深く、若い頃、土佐室戸岬の海蝕洞窟「御厨人窟」(御蔵洞/みくろど)で修行し、洞窟内から見える空と海の風景を見て、「空海」の法名を得たという。
 また、その横の同洞窟「明神窟」で夜間修行中に、夜空に輝く明星が口の中に飛び込んできたことで悟りが開けたという伝承もある。

 ・では、ここ、屏風山の奥の院岩窟内で弘法大師が見たものは何だったのだろう。

1鎮国寺岩窟不動堂上空の霊気 ・奥の院岩窟内から見える外の風景は、閉ざされた谷間の対面の崖壁と森のみだが、ここにかかる霧(雲)に神仏の霊気を感じ、この霊雲こそ鎮護国家の瑞雲(めでたい印しの雲)であると宣言したのか。

 ・今、谷あいのどん詰まりにある静寂幽すいな奥の院境内から、不動堂の上空を見上げると、神仏から見下ろされているように感じることがある。(※画像1)
 また、今も、時としてここに霧(雲)がかかることがあり、そのときに行き合わせた人は、きっと瑞雲の幸を頂くのかもしれない。

 ・なお、毎月27日、奥の院不動堂で、鎮国寺導師による内護摩供が行われるときは、護摩の煙を外に出すために横の戸が開くので堂内は比較的明るくなり、また、岩窟内に沢山ともされる蝋燭の灯りで岩窟内が見える。一般の人も入堂参列できる。

 (5) 奥の院不動堂での修行など

 ・奥の院不動堂の戸を開け、拝殿に上り、その入口付近で礼拝、勤行等を行うとき、かつてここで夜間修行をした時代を含めて、蝋燭に点灯した記憶がない。礼拝勤行時に座る場所は、昼間も薄暗いが、真っ暗な夜間修行では、手元燈(懐中電灯)を床に置いていたように記憶している。
 もちろん、不動堂内に電灯などの設備はなく、昼夜を問わず、ここで蝋燭(灯明)、懐中電灯を点しても奥の岩窟内は、暗くて何も見えない。

 ・拝殿での坐行では、無言瞑想、般若心経勤行、蔵王権現や不動明王御真言、御宝号称誦、たまに手持ちの手錫杖を振ることもあった。

 ・床や経台等に数個の木魚や手錫杖が置いてあるが、これらには使用者の強い念が入っているので、決して触ってはいけない。
 これを見ただけでも、不動堂が、修験者、修行者の修行道場でもあることが分かるが、病気平癒、諸願成就の祈願所であることは否めない。

2鎮国寺奥の院不動堂と水場 ・不動堂の横(手前)には、井戸・水場(閼伽水、行水、料飲兼)がある。(※画像2) 

 ・また、境内入口には、奥の院山門兼お籠り堂(通夜堂)があり、そこにお籠部屋が二間あり、別棟にトイレもある。



 ・お籠部屋を利用するときは、本坊に届け出で寝具等の準備も必要だと思うが、私は、夜間修行を行った時代を含めここで寝食したことはない。
 ・たまに修行中の人と声を掛け合ったことはあるが、お互いに素性を語ることはないので、その人たちの消息は知らない。

 ・すっかり陽が落ちてから奥の院に上るときは、手元燈を持つ。
 ただし、当時、奥の院参道には、直流コードに間をおいて吊るされた豆電球があったので、そのスイッチを入れ、その灯りを頼りにして上った。
 夜間修行では夜明け頃に下ることもある。

 (6) 屏風山頂上に登る

 ・一度だけ、奥の院参道の途中から藪道をかき分けながら屏風山頂上(奥の院裏山)に登ったことがある。
 現在、どうなっているか分からないが、当時、枯れ枝や雑草に覆われたなかに踏み跡を見つけて、手で藪をかき分け、かき分けしながら登って行ったというのが正解で、かなりあちこちに擦り傷を作った。

 ・頂上は平地で、若木が生え、ここで何も感じるものはなかったが、明るく、峰で連なる津瀬山丘陵が見える。
 ・頂上東側のすぐ横、一段下を通る山道は、釣川の右岸「多禮瀧の口瀑布」(津瀬の滝・多禮瀧ノ口観音堂)の脇から上る津瀬山丘陵内の農業用道路である。
 なお、津瀬山丘陵(津瀬山)には、戦国時代、宗像大宮司(宗像氏)の本拠地を護衛する東拠点「大障子城(津瀬城)」があったところで、屏風山は、この丘陵に接する西の峰であったことが分かる。

 ※別記参照→「多禮瀧の口瀑布[津瀬の滝](宗像市)
  ・「多禮瀧ノ口観音堂(宗像市)
  ・「大障子城(津瀬城)址(宗像市多禮)」。

 (7) 奥の院の石造・五重の塔

 ・鎮国寺奥の院境内の一画・崖面際に御影石で作られた高さ約3mの「石造:五重の塔」が立っている。(※画像3)

3鎮国寺奥の院石造五重塔 ・昭和51年(1976)1 1月に、21人の信者さんが建立奉納されたものである。
 (若松区9人=永山・吉田・久保・藤田・今村・渡辺ほか?、小倉南区4人=忽那・山口、小倉北区1人=江口、福岡市1人=?、長崎県1人=香川、那珂川町5人=本多)。

 ・ところが、建立から僅か40年余しか経っていないのに、台座のに刻してある奉納者名のほとんどの刻が見えにくくなっており、既に数人の氏名は完全に読めなくなってしまっている。


 いつも見慣れていた御影石の五重塔で、石の輝きも変わっていないと思っていたが、確実に時の経過とともにカビが生え風化も進んでいたのだ。

 ・ここに刻まれている人たちの消息は、今?。刻銘の消滅はその人の寿命か。ふと、そんなことが脳裏を過ぎったがが、生存されておられればご高齢、もうここに足を運ぶことはないだろうが、奉納された御心はここに残る。

 ・私たちも確実に歳はとり、かつて参拝修行したところにも足を運ぶことはできなくなるのかもしれない。
 それでも神仏を参拝し奉仕できる間は、自らの供養として行いたいものだ。 

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2018年01月21日

鎮国寺の「梵字岩」(宗像市吉田)

 前回「鎮国寺・師走の花(宗像市吉田)」。

鎮国寺の梵字岩 (1) 梵字岩の場所

 ・鎮国寺奥の院岩窟・不動堂への参道(189石段/八十八ヶ所石仏あり)の途中、左側の谷あいに「梵字岩」と称される2個の岩がある。

 岩の表面に合計4個の種子(しゅじ)が彫り込まれている。


 ・以前この場所は、注意して通っていないと見落とすがちな場所だったが、今は、参道から見えるように「梵字岩 弘法大師御作」と書いた立札が建っているのですぐに分かる。

 (2) 伝弘法大師御作の伝承

 ・「弘法大師御作」とあるのは、弘法大師(空海)が奥の院岩窟で修行中に彫った(或は弘法大師が書いた筆跡)という伝説と、「筑陽記」(宝永2年/1705)の「不動石 大石ノ面ニ不動の梵字アリ弘法大師ノ筆跡ト云伝」という記事を根拠にしているのだと思う。

 なお、この筑陽記にいう「不動石」とは、この「梵字岩」のことで、奥の院岩窟(不動堂・不動明王石造安置)のことではない。

 ・鎮国寺と弘法大師(空海)との伝承について、次のような縁起がある。
 弘法大師が入唐の途次、遣唐船が大暴風雨で荒波に呑まれそうになったとき、海の守護神宗像大神に祈ると、波間に立った不動明王が現れ右手に持った般若ノ利剣で荒波を切り払い大暴風雨を鎮めた(※波切不動霊験)。
 大同元年(806)唐から帰朝した弘法大師は、そのお礼のため宗像大社辺津宮を参拝したとき、釣川対岸の屏風山に瑞雲がかかっているのを観て、同山にある岩窟(奥の院岩窟)のなかに入って修法し、この地に屏風山鎮国寺を開創し「鎮護国家の根本道場(霊地)」としたという。

 ・これにより後世、「梵字岩」も弘法大師御作という伝説がが生まれたのではないかと思う。
 本当に弘法大師御作(筆跡)であれば、まさに国宝級のものとなる可能性もあるが、上記筑陽記の説を補足する(それ以前の)史料がなく、伝説の範囲から出ないのはある意味残念である。

 (3) 梵字彫刻の時代は不詳

 ・ここで分かることは、「梵字岩」は、「筑陽記」ができた宝永2年(1705)より以前、つまり江戸時代前期にはあったということで、その彫刻を弘法大師(空海)まで遡ることができなければ中世〜近世だろうか。

 ・中近世の鎮国寺の繁栄、衰退と復興については、以前「鎮国寺お大師堂・薬師如来など(宗像市吉田)」に、次のように記した歴史がある。
  永禄10年(1567)10月宗像郡内に攻め込んだ大友勢の攻撃により、鎮国寺本堂(五仏堂)及び子院六區のうち、華藏院を除く實相院、妙勧院、園塔院、山之坊、般若院が焼失。
  さらに天正15年(1587)領主宗像氏貞死亡による宗像大宮司家の断絶により無住寺となったが、山伏(修験者)が住して、五仏(五仏堂焼失時、信徒が池に投げ込み残った)を守って護摩供養を続けていたという。
  慶安3年(1650)高野山廻向院の僧「昌傳」が下り、藩主黒田忠之に請願し、藩主が本堂(五仏堂)を再建し、今日に続く復興を遂げたという。

 ※因みに「五仏」とは、本尊「薬師如来坐像」(宗像大社辺津宮・市杵島姫神の本地仏)、「大日如来坐像」(宗像大社沖津宮・田心姫神本地仏)、「釈迦如来坐像」(宗像大社中津宮・湍津姫神本地仏)、「如意輪観世音菩薩坐像」(織幡明神本地仏)、「阿弥陀如来坐像」(許斐権現本地仏)である。

 ・中世の鎮国寺は、僧坊が建ち並んだ繁栄の時代、山伏(修験者)が住み着いた衰退の時代があるが、当地における弘法大師、五仏信仰は連綿として続いている。
 「梵字」(サンスクリット)は、弘法大師が始めた真言密教や修験道において仏の種子として信仰の対象とされてきたので、この時代に「梵字岩」が作られたと考えることはできる。

 ・或は、宝永2年(1705)の直前、慶安3年(1650)の黒田忠之による復興以後と考えることもできるが、いずれにしろ推定時代の設定が長く具体的に絞り込むことは難しい。

 ・二つの「梵字岩」の手前の少し低い位置にある比較的平らな岩(イスノキの根元)は、梵字岩の種子(仏)を祭祀供養する祭壇、護摩壇、お経台等として利用された形跡もあるようで、時代は分からないが、真言、天台系に係わらず修験者との係わりは考えられる。
 なお、この岩に置いてある小石仏は、いつ置かれたものか分からない。

 (4) 梵字岩の図絵

 ・手持ちしている筑前名所図会(奥村玉蘭/文政4年=1821年完成、出版は黒田藩不許可)復刻版に載っている鎮国寺の挿絵(白黒)には、梵字岩は描かれていない。

 ・筑前國續風土記附録(寛政10年=1798)の鎮国寺の挿絵(白黒)には、奥の院参道の途中、左側に3個のそれらしき岩が載っている。ちょっと視では分からないが、じっくり見直すと岩の中央に円形らしきものが見える。

 ・昨年(2017.6)発行の「鎮国寺梵字岩の調査報告書(宗像歴史観光ボランティアの会)」は、平岡家所蔵筑前國続風土記附録の鎮国寺の挿絵(彩色)とその梵字岩部分の拡大写真を掲載しており、拡大写真では、3個の岩にそれぞれ一つ、円形の外郭が描かれていることが分かる。種子の形は点で省略されている。
 ただし、ここには3つの岩に各1個の円形模様が描かれており、現状(2つの岩に4字)とは合致していない。

 ・なお、同上附録は、寛政10年(1798)刊であり、宝永2年(1705)の「筑陽記」よりも90年余り後の史料だが、この当時、梵字岩の存在が知られていたことは分かる。

 (5) 梵字岩の種子(しゅじ)

 [A]
 ・「梵字岩」と称される2つの岩には、合計4個の種子(それぞれ約30cm強の円形に彫りこまれた窪みのなかに各1個)が彫り込まれている。なお、4個の種子は、次の個所にある。
   手前のやや小さめの岩の下方に1個 (以下という)。
   後方の大きな岩の上部に1個 (以下という)。
   同岩下方の右に1個 (以下という)。
   同岩下方の左に1個 (以下という)。

 ・各種子の形は、かなり摩耗、剥げ落ち(い呂曚箸鵑蒜輙)が進んでおり、それぞれ肉眼で明確に読み取るのはかなり難しい。。

 [B]
 ・私が、奥の院で修行をしていた頃は、もう少しよく見えていたと思うが、当時の修行ノートを見直してみたら、これらの種子の発音と仏名(推測)を次のようにメモしていた。

 「 ア(毘盧遮那如来)、 アーク(胎蔵界大日如来)、 キリーク(阿弥陀如来・千手観音)、 バン又はバーンク(金剛界大日如来)か?。或は、カーン(不動明王)か? (文字消滅、推測)」

 ・当時、本山大学教師研修で梵字の学習をし、それでいて梵字の知識を習得できたわけでなかったが、多分、この岩に若干残っている浮彫の一部分の形を見て、推測したことを記したのだと思う。

 ・このうち、文字完全消滅のい髻屮丱鵝彈磴靴は「バーンク」(ともに金剛界大日如来)か、と推測したのは、△痢屮◆璽」(胎蔵界大日如来)に相対させただけのことだった。又は、「カーン」(不動明王)か、と推測したのは、密教、修験道等における護摩供を想像してのことだったのかもしれない。

 ・なお、その後の私は、この岩を「阿弥陀仏(如来)の梵字岩」と通称しているが、をメインと考えたのか、なぜか記憶していない。

 [C]
 ・今回、上記「鎮国寺梵字岩の調査報告書」を読むと、そこには、上記[B]の私の推測とは違う下記の発音が記されていたが、この判読にはかなり苦労したことだろうと推察した。
 「 アン、 アーンクの可能性、 アク、 判読不可」

 ・この種子に該当する仏名は記されていないが次のようになると思う。
 「.▲(普賢菩薩)、▲◆璽鵐(胎蔵界大日如来)、アク(不空成就如来)、ど毀澄

 ・こう見ると、上記筑陽記に「不動石」とある不動明王を表す「カーン」の種子がないことになるが、不動明王は大日如来の化身とも言い、大護摩供(法弓祓)では「中央大日大聖不動明王」と発するので、△痢屮◆璽鵐」胎蔵界大日如来を以て「不動石」としてもよいことになるのか。

 ・この△痢屮◆璽鵐」と[B]△傍した「アーン」は、種子の形が若干異なるが、ともに胎蔵界大日如来を表すものである。
 ただ、「アーンク」とした場合、上部の点の下にある筈の「ノ」の線が見えず、また、,髻屮▲鵝廚箸靴疹豺腓砲弔い討眛瑛佑里海箸言える。

 ・を「アク」にすると、あまりメジャーではない不空成就如来となるが、不空成就如来は、智慧を授ける仏で、不動明王とセットで語られることもあるので、ひょっとしたら、い糧銃鰭垈勅鏤劼蓮屮ーン」(不動明王)であったかもしれない。
 となると、[B]い凌簑の一つとも合致し、また筑陽記の「不動石」とも合致することになるのだが、今となっては確かめようがない。

(6) 奧の院修行時代

 ・私は、真言宗、真言系修験の阿闍梨ではないが、上記したように鎮国寺奥の院で単独又は複数人で修行した時代があった。

 ・その頃、夜間修行のときを除き、時々、手錫杖を持ち、梵字岩に立ち寄り御真言をあげたこともあった。
 当時のメモによると、唱えていた誦は、「光明真言、金剛蔵王権現、役優婆塞、不動明王、千手観音、阿弥陀如来、胎蔵・金剛界大日如来(オンアビラウンケンバザラダトバン)、諸天善神の御真言」と「南無大師遍照金剛の御宝号」で、このうちの一部の御真言は、上記(5)の[B]に記したメモに合せたものだった。

 ・当時、梵字岩の足許周辺は、今ほど踏み固められてはなく、ごつごつとした多くの小岩がもっとむき出しに転ろばり、雑草が繁り、落ち葉が積もっていた。ここに水は流れてはいないが、谷川に下りたような感じもしていた。

 ・梵字岩は、この上の奥の院辺りから転げ落ちてきたものだと聞いていたが、多分、梵字は、この場所に留まった後で彫られたものだと思う。
 もしかしたら、空海がこの地に足を踏み入れた時代には、ここを谷川が流れていたかもしれない。そんな想像もできる静寂な一帯である。

 ・岩に彫られた梵字の種子を判読するのは、かなりの労力を要し、その割には実がない。つまり、ここに彫られた意味の解明ができないことが多いので、あまり好きではないが、霊力を得ることが多々あるので、深く精査せずに合掌することは多い。
 なお、その後の私は、なぜかこの岩を上記のように「阿弥陀仏(如来)の梵字岩」と称し、この前を通るときは合掌念仏のみを誦している。

 次回→「鎮国寺奥の院岩窟・不動堂寸描(宗像市吉田)」。

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2018年01月14日

湯元荘東洋館泊・雑記(2) (武雄温泉)

 前回「湯元荘東洋館泊・雑記(武雄温泉)」から続く。

 (1) 武雄温泉街にて

 ・武雄温泉楼門の正面からまっすぐ武雄温泉入口まで伸びる温泉街があるが、このうちの、ごはんやの角から糸屋呉服店前まで(約92m)は、旧長崎街道に該当する部分である。
 この間に、まちなか案内所がばいやコーヒーショップ喜蔵、、丸ぼうろの山里屋老舗菓子店舗、さつき茶園、ファミマコンビニほかの店舗が並んでいるが、人通りは少ない。


・コーヒーショップ喜蔵

1コーヒー喜蔵 〜各種コーヒー豆を惹いてくれる。
 Hotは@250円、Takeoutほかは@300円、味は抜群に旨い。
 東洋館ほかの旅館にも卸しているのだろうか。



 ・まちなか案内所がばい

2まちなか案内所がばい 〜古民家風の建物で、観光案内パンフレットが置いてあり、また名産品等の販売も行っている。案内係員が常駐され、親切に対応してくれる。



 因みに陶器の絵付け体験をしたいとのだがと尋ねたら、車で行くのだったらと飛龍窯を教えてくれた。

 ・大豆〜武雄市は、佐賀大豆フクユタカ(武雄市観光協会認定)の生産、販売に力を入れている。
 この大豆には、生活習慣予防や、疲労回復・健康維持、長寿、精神安定・集中力向上、美肌・更年期障害等などに効果があるとして、今は「武雄の大豆はフクを呼ぶ」のキャッチで知られている。

3大豆菓子 武雄市内の食堂などでは、この大豆を使用したオリジナルメニューを提供しているところもある。
 また、大豆菓子(美人を作る大豆生活SOY美EAN)もあり、まちなか案内所がばいで購入した。



 (2) 飛龍窯絵付け体験

・飛龍窯(武雄市武内町大字真手野24001-1)は世界一の登り窯として有名である。※別記「武雄の飛龍窯=世界一の登窯は上々」参照。

4飛龍陶器 その敷地内の一画に飛龍窯体験工房があり、ロクロ、手びねり、絵付け等の体験ができる。

 武雄の陶器は各種多様で、窯元の違いで形、色、模様もそれぞれにオリジナルがある。


 ここで絵付け体験をしたが、釉薬は二色(茶と紺)、出来上がる陶器は全体的に土色系のようだ。うまく描けなかった。焼き上がりは、約3週間。900~1300円+送料。


 (3) 甘味屋ヒダマリでケーキを買い

5ヒダマリ ・国道35号線沿い(武雄警察署前のビルの1階)にある甘味屋ヒダマリ(武雄市武雄町武雄5896-2)に立ち寄った。
 有名なケーキ店らしいが、道路から見えにくく、駐車場入口が狭く分かりにくかった。

 おやつとして食べるケーキを買い、湯元荘東洋館に戻った。

 ・湯元荘東洋館に戻り、女将さんにケーキを買って来たので客室で食べることを告げると、美味しいコーヒーに加えて板前さんが焼いてくれた美味しいクッキーを3Fの客室まで運んでくれた。

6湯元荘東洋館玄関ポーチ ・湯元荘東洋館内のお土産コーナーで、昔羊羹(小城羊羹)や楼門Coffee(ドリップバッグ入り)、煎餅(中崎街道花の陣・月の陣)ほかを買った。



 湯元荘東洋館は、家族的な雰囲気のある旅館で温泉も雰囲気も良いので、また宿泊したいと思っている。


 ※次回→「湯元荘東洋館中庭の「しだれ桜」(武雄温泉)」。

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2018年01月13日

湯元荘東洋館泊・雑記(武雄温泉)

 前回「東洋館の鏝絵、陶柱、温泉由来など(武雄温泉)」から続く。

 新年、前に泊まったことのある湯元荘東洋館(佐賀県武雄市武雄町武雄7408)に家族で連泊した。

1門松 1・門松〜玄関ポーチには、門松が置かれていた。この間を通って館内に入る私たちは神とともに招き入れられたのかもしれない。
そんな気持ちになって江口家家紋入りの垂れ幕が張られた玄関を入ると江口敬子女将さんの出迎え、ここは靴を脱いで上がる旅館である。

 フロント前の壁には、「旅館東洋館」と書いた自然木看板が掲げてある。(画像3)

2正月飾り 2・正月飾り
 〜館内の各所に正月風の生花ほかの飾り付け、3日までは鏡餅もあった。新春らしい心づかいが感じられた。

 特に1F陶器展示室横に飾ってある旬の果物・晩白柚(バンペイユ)は、シンプルではあるが、いかにも新春らしく、こんな飾り方があるのかと思わず目を見張った。



3耕運書屏風、後ろは東洋館看板 3・耕雲書屏風〜フロント前のロビーに置いてある。

 聞き忘れたが、武雄市の書道家・山口耕雲(日展委嘱書家)の書なのだろうか。

 何となく見惚れる味わいのある書風で、しばし見惚れていた。


4折れた武蔵井戸案内板4・武蔵ゆかり井戸(ロビーガラス張りの中庭)の横に立っていた案内板が倒れて割れていたので、腐っていたのですかと聞いたら、どうも虫食いらしい。小さな虫に剣豪武蔵破れたりかな。

 ※別記「宮本武蔵ゆかりの井戸と目達原の仇討考(武雄温泉:東洋館)」参照。


5唐子花瓶 5・香蘭社製「染錦二方割唐子図花瓶」一対〜陶器等展示室内に展示してある。

 亡親が好きだった唐子模様の有田焼を子供の頃から見つけていて自分も好きになっていたが、親はその一個も残してくれなかった。

 展示品と似た花瓶を購入し持っているので、特に興味深かった。



6壇ノ浦合戦図 6・壇ノ浦合戦図屏風
 ~売店の前のガラスウィドー内に展示してあるこの屏風は特に目を引く。

 安徳天皇の御座船はどれかなどと探したりして、楽しかった。




7中庭 7・中庭
 ~1F風呂と離れの部屋の間から見る小さな中庭の風景は気持ちがいい。

 井戸もある。
 右の太い幹はしだれ桜なのだろうか。




8浴室1F 8・浴室1F〜17時から朝まで入浴できる1F浴室(単純温泉:低張姓 弱アルカリ性 高温泉)で、今回は、窓の外に庭を時間差で歩いている数匹の猫を視た。

 大猫、中猫、小猫らを何度も見かけた。野良猫らの安全な遊び場となっているのだろうか。


9喫煙所 9・4F浴室の横に、清水料飲と喫煙所を兼ねた庭のある室外休憩スペースがある。

 入浴後、ここで水を汲んだが、冬場は寒く、一時としておられなかった。

 そこで、室内廊下に設置してあるマッサージ機をかかり、ガラス戸越しにこの庭を眺めながら飲んだ。


10図書室 10・図書室〜朝食後、コーヒーのサービスがあり、喫茶室の奥にある図書室に案内された。
 凄く呑みやすい美味しいコーヒーだったが、ここは少し寒かった。客室内に浴衣など一緒に丈夫で温かい足袋が置いてあったので、それを履いてくるべきだった。


11刺身膳 11・和食料理〜宿泊した部屋とは別の客室に食膳が準備されてあり、暖かい和室でゆっくり食事ができた。

 次々に仲居さんが運んでこられる和膳の数々は、見た目も美しく、美味しくて食指が動く。ついつい食べ過ぎた。


 ※つづく→「湯元荘東洋館泊・雑記(2) (武雄温泉)」。

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2018年01月12日

武雄市の松尾神社

 前回、「武雄 松尾神社 新年参拝」から続く。

1武雄松尾神社 ・鎮座地:佐賀県武雄市西川登町大字神六23309番(宮の原)。
 県道45号線沿い(高瀬地区)、西九州自動車道ガード下から450m北上し右側。
 ・祭神:大山咋神(松尾大神)。
市杵島姫命も祭神か。
 ・相殿合祀神:松尾小太郎(松尾弾正之助吉春)霊。


 ・神紋:五三桐(国紋)〜垂れ幕あり/画像。
 ・大棟神紋:十六弁菊紋(拝殿正面の大棟屋根に二つ配置あり/画像)。
 〜※高瀬の荒踊の踊り手の背中にはこの十六弁菊紋(皇族・武門紋)が使われている。

5旧常夜燈 なお、その踊り手の前垂れにある模様の浪に乗る鯉は、松尾大神の神使の鯉なのか。
 神域の東外枠に農業用水路(画像)が流れているが、かつては鯉、或は同じく松尾大神の神使の神亀が泳いでいてもおかしくないような雰囲気がある。
 田の神様の様子も伺える。



2神額 ・神額:松尾神社神額(拝殿内正面鴨居に掲額あり/画像)。

 ・鶴の浮彫彫刻の絵馬:佐世保市田栗松三奉納(拝殿内鴨居に掲額あり/画像)。




3奉納絵馬 ・酒の神:
 ー鬚凌脆(拝殿の左外にある/画像)。
 ⊆鯀帖神酒墫額:鹿島 恵雲作(拝殿入口鴨居に掲額あり/googleマップに画像あり)。
 〜※松尾大神は酒の神でもあり、当社も近郷の酒造家等の信仰も篤い。



4酒野神碑と改築費 ・松尾神社改築記念碑(拝殿の左外、酒の神碑の前辺りにある/画像)〜下記の松尾神社の改建造部分参照。

 ・大神宮碑:寛永十一年(1634)建立(拝殿の右外にあり/googleマップに画像あり)。〜※石碑全体をカビが覆いほとんど読めない。
 


6二の鳥居と社前広場 ・石造物:
 ^譴猟撒1基と常夜燈一対。
 二の鳥居1基と常夜燈一対(画像)。
 G凖汰阿慮羆得个旅犬一対と常夜燈一対。旧幟立石一対。
 さ貍鑢訶数基(拝殿の右外にある/画像)。



 ・境内案内板(※以下原文のまま)

案内板 「松尾神社は高瀬区の氏神様で農耕、酒造の神様として名高い京都の松尾大社の分霊を祀ったといわれています。また、黒髪山の大蛇退治でおとりとなった万寿姫の弟小太郎も合祀されています。秋の彼岸の中日には、国指定重要無形民俗文化財の高瀬の荒舞が高瀬区民によって奉納されます。

 荒踊りは戦国時代に戦勝祝いに足軽たちが即興的に踊ったのが始まりとされ、高瀬の荒舞は腰をきめる動作や曲げたり、前に振ったりする片足のさばきに美しさがみられ、素朴で力強く、武道の霊を思わせます。
 平成十年五月 創立四十周年記念・武雄ロータリークラブ」。 

 ・幣殿掲額・木板墨書(※昭和41年=1966年に書かれた長文で、以下原文のまま転記/画像)。

7由緒墨書板「・松尾神社とその由来
 〜今から千貮百年前當地高瀬は豪族蓮華院の御園として所有されて荘園なりし地にして京都の酒の神として信仰の高い(官幣大社)松尾大社の御神徳を仰ぎそれにあやからんと應保元年酉日(今から八百年前)分祀され祭神大山咋の神を祭る(京都松尾大社記録)


 亦今から七百五十年前傳説に名高い黒髪山大蛇退治に當時京都公卿の使人として當地に落人の身となった松尾彈正之介の再興に一身捧げんと志した孝女萬寿姫と弟小太郎の美徳功績に依り當時の藩主後藤高宗公より高瀬の領地を與えられた後領民は萬寿観音堂(現在の岩崎)を建立し姫を祭り弟小太郎は松尾神社に合祀す(その松尾家末えいは現在も武雄波佐見等の近郷に現存しあり)

 ・傳統を保つ主なる祭礼〜例祭は十二月十三日に行われ恒例として相撲が奉納され社頭は賑わいを呈する
 田祈祷祭は七月一日に行われ五穀豊を祈る
 願成就祭は九月二十日行われ豊作を祝ふ
 酒祭は五月二十日に行ふ
 恒例として荒踊、武者踊、綾踊、鐘浄立等が催される殊に荒踊の起源は今から四百年前より伝えられ近時郷土芸能の粋として昭和三十五年には文化財に指定される。昭和三十六年には天皇皇后両陛下嬉野町和多屋別荘に御宿泊の砌天覧に供し奉る栄に浴し又昭和四十年十一月に全国芸術祭に郷土民族民芸の代表として出場す

松尾社歌 ・神使は亀と鯉である〜古來有名な神社は各々神使が定められていた稲荷の狐、春日の鹿、日吉の猿、熊野の烏、八幡の鳩等で松尾社は亀と鯉である

 ・松尾社を詠める古人の歌〜(※京都松尾大社を詠じた歌三首が記載されていたが省略する/画像)。


 ・松尾神社の改建造〜當松尾神社建築は建坪二十余坪にて拝殿は二百年、神殿は約百年を経て今日ではその補修も困難であった為、氏子総員の協議に依り使用輪四十年七月改築に決議され同年九月より改築工事に着工、境内五百坪を千坪余に拡張し昭和四十一年五月総工費約壹阡萬圓に完成す
 昭和四十一年五月 責任者高瀬区長 建設委員長山口喜」(以上)

 ※上記文中にある「荒踊」(荒舞ともいう)は、「高瀬の荒踊(松尾神社)」と言われ、「中野の荒踊(磐井八幡神社)」「宇土手の荒踊(正一位神社)」と合わせて「武雄の荒踊」と言われ、ともに毎年9月の彼岸中日に各神社に奉納されている。
 その起源については、一説には、享禄3年(1530)島原の有馬氏の軍勢が第18代武雄領主後藤純明が守る住吉城攻撃に迫ったときの戦いで、後藤軍が大勝利したので、これを祝って足軽(下級武士)たちが即興で踊ったのが起源だという。また、武士の踊り故に踊り手は帯刀しており、武道の型をも思わせるという。

 ※上記文中にある「萬寿観音堂」(万寿観音堂)は、当社のすぐ近く(南方)にあるらしいが、行ったことがない。
 ※当社は高瀬地区の氏神となっているが、旧村社ではなく、佐賀縣神社誌要に掲載されていない。なお、旧西川登村の村社は庭木神社(西川登町神六20592)である。

 ・謹国の英霊

8英霊額 高瀬地区から出征し、日露戦争で戦没した1人と支那事変及び大東亜戦争戦没した45人の英霊の氏名、戦没日、戦没地、享年(19、20〜30歳代が多い)を記した名札が拝殿内の鴨居に掲げてある。(平成9年11月掲額)。
 荒舞武道の地に育ち勇敢に戦い全身全霊を母国に捧げた英霊に敬礼合掌。

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2018年01月11日

武雄「松尾神社」新年参拝

新年(平成30年)、武雄・高瀬の荒踊で知られる松尾神社(佐賀県武雄市西川登町大字神六23309番)を参拝した。
 10年一昔というと、もう三昔、実に30年ぶりの参拝だった。

武雄松尾神社一、二の鳥居 当時は、先祖のルーツを探し歩いていた時代で、宗像方面から佐賀県下に入り、当社に行き着き、参拝を終えた後、次朝倉との御示をいただいた。
 言わば朝倉地方(筑前町、朝倉市)に向かう基点となった社だったが、これまで振り返ることはなかった。


 だが、その日のことは、今でもよく覚えている。
 佐賀県道45号線沿いに建つ同社一の鳥居の内側に車を停め、同行者一人と数段の石段を上って二の鳥居をくぐり社前広場に入ったとき、同所でゲートボールをしていた高齢男女の人たちが一斉に私たちの方を向いた。
 祭礼時でもない時期に、まったく見知らぬ私たちが境内に入って来たので、誰なのかという目で見られているのだと思った。
 だが、そのなかの世話人らしき一人の男性が何を思ってか「神官さんが来られた」と皆に告げ、私たちを拝殿に案内され、施錠されていた拝殿入口の引き戸を開けられたので、導かれるままに拝殿に上がった。気付くと、ゲートボールの手を休めた数人の人たちも拝殿内に入って座られた。
 この日は、祝詞をあげるとか、そんな気はなかったのだが、何かに促されるように急ぎ白衣を着て、大祓詞を供することになってしまった。
 上記御示感得はその後のことだが、後で考えると、このような事態となったのは、見えぬ御神と先祖の仕組みが働いていたのかもしれない。
 あれから三昔、あのとき境内に居た人たちは、きっと神仏に守護された人たちで、今、その多くは、浄刹に遷られておられることだろう。
 参拝後、そんなことを思い、誰もいないひっそりとした境内広場を眺めていたら、当時の感慨が思い出され、改めて年月の経過を思い知る。

 ※つづく→「武雄市の松尾神社」。

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2018年01月01日

松尾大社の新年巨大絵馬「戊戌」(平成30年元旦)

IMG_1520 平成30年(2018)年の新年祈祷をお願いした松尾大社(京都市西京区嵐山宮町)。

 今年、松尾大社の境内に掲げられている「巨大干支絵馬」には、「戊戌:つちのえいぬ・ぽじゅ」(犬)に因む絵柄が描かれている。



 中央に描かれた陶器の白犬の置物、その躰に縁起の良い松竹梅の絵、さらにその横に配された漆の寿酒盃、その酒盃に境内の清水「亀の井」を象徴する一匹の亀がよじ上ろうとしている。(※画像)
 これは、版画家の故井堂雅夫作の原画により描かれたもので、高さ3.2m、幅5.5m、厚さ15cmの巨大絵馬である。

 今年の干支「戊戌」について、生嶌經和宮司は、年頭挨拶で次のような意味があると言われている。
 「」(つちのえ)は、「斧のような刃のついた矛」の象形からできた文字といわれ、「茂」(しげる)とも同じ意味を持つ。即ち植物の成長の最盛期を表す。
 「」(いぬ)は、人間にとって最も馴染み深く親しみやすい動物の犬が当てられるが、万物が土の中に還っていくような状態をいう。
 よって、「戊戌」は、繁茂した草木が一旦地に還り、再び生まれ変わることを表すことだという。

 今年は、甦り、再生の年と捉えたらよいのかもしれない。
 たとえば、混乱は収拾され元に戻るとか、病気が回復し元の健康な体に戻るとか、そのように考えて精進することにしよう。


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