2018年02月

2018年02月28日

江川岳の名称が誕生<江川ダム・江川高木神社の北山陵>

 ・毎日新聞 (2018.2.27)福岡地方版の「名無し山江川岳と命名 朝倉、嘉麻市境 古処連山/福岡」の記事に目が留まった。

 ・この山は、古処連山(古処山、屛山、馬見山)のうち、屛山と馬見山の間にある無名の山(標高860m)である。

 ・古処山の西陵を通る八丁峠(標高525m/国道322号線)の難所越えを緩和するために平成27年(2015)から八丁峠トンネル道工事(朝倉市野鳥〜嘉麻市大力)が施工され、昨年(2017)3月トンネル部分が貫通したが、このトンネル道が開通する前に、観光アピールの一環としてこの無名の山に名前を付けておくことになったようだ。

 ・民間応募では、この山がある朝倉市江川地区の名をとった「江川山・江川岳」の名称が多かったので、朝倉、嘉麻市民選考委員会が「江川岳」とすることを決め、いずれ国土地理院にもこの名称の登録申請もするらしい。

 ・したがって、今後、古処連山は、西から東に古処山、屛山、江川岳、馬見山の四山ということになる。高校生時代以降の若い頃にたびたび行った古処山登山では、必ず古処連山を縦走していたので、当時、この無名の山(江川岳)も越えていたのだろうが、まったく記憶にない。

 ・因みに、八丁峠の道筋(朝倉市秋月野鳥〜嘉麻市泉河内)は、歴史的には旧秋月街道の難所道として知られている。だが、本来の旧八丁峠、江戸時代秋月藩が作った新八丁峠、国道322号の現八丁峠を越える道があり、ややこしいが、いずれの道も難所越えの感じが強い。例えば、現八丁峠も急坂、急カーブが多く、積雪時は必ず通行止めになる。

 ・ところで、福岡市水源の一つでもある巨大な江川ダム(筑後川水系小石原川・上秋月湖・管理所:朝倉市江川1660-67)は、この江川岳の南麓にあり、この山麓にはその水源の一つにもなっている貯水池もある。

 ・また、この山麓には、江川ダム建設時(1967〜1972)にダム(上秋月湖)の湖底に沈んだ旧江川集落内(馬場の原)から遷された旧江川村産神「(江川)高木神社」(朝倉市江川1212-58)も鎮座している。

 ※次回→「江川高木神社(朝倉市)」。

keitokuchin at 19:45|PermalinkComments(0)

2018年02月24日

病窓から福岡タワーを観た

1福岡タワービル 画像1は、夜の福岡タワービルのネオン。

 この景色、見慣れている人たちにとっては特段珍しいものではないのだろうが、私は初めて観る光景でしばし見惚れていた。

 これは、ここ5日間入院していた福岡山王病院の病室の窓から、入院3日目の夜に眺めた風景である。

 実は、入院当日は緊張していたのか、まったくこの景色を気付いていなかった。


 2日目は、手術室から病室に戻りベッドの上で目が覚めたとき、両手、泌尿器は器具で繋がれ、局部麻酔された下半身は麻痺したままで、自分の力ではまったく身動きできない状態で苦しく、窓の外の景色など眼中になかった。
 麻酔が解け、すべての器具が取り外された翌日、病室の窓から、少し右寄りに、福岡タワーが観えることに初めて気づいたのだった。

2戦車の影みたい それに、その日の夕方、その福岡タワービルの下方の窓に写っているまるで戦車のようなような模様を観ていた(画像2)。

 そのときは、なぜこんなデザインがここに施されているのかと思った。



3隣のマンション写り だが、翌朝、その模様が廃墟ビルのような形に変わっていた(画像3)。

 このとき初めて、この模様はデザインではなく、左方にあるタワマン(画像4)の外形が、福岡タワービルの下方の窓ガラスに反射して写っているのだと気付いた。


4博多湾 もちろん、このタワマンは、百道原海岸に面したネクサスももちレジデンシャルタワーマンションであり、廃墟などではない。

 窓ガラスの反射でゆがんで見えていただけのこと、こんなことも分からずまったくどうかしていた。


 その写り方が変わるのは、時間によるものか、その日の天候の具合によるものだろうか。なお、福岡タワービルの下に見えるビルはRKB(画像4)。

5博多湾 ついでに、窓の外のバルコニーに出て昼間の博多湾の風景(一部分)も撮っておいた(画像4、5)。

 ここから観る博多湾の風景は、海の中道や西戸崎・大嶽山などの遠景も望めて、美しい。
 なお、志賀島はタワマンの後ろに隠れて観えない。


 だが、再入院して、またこの風景を観たいとは思わない。
 本当に入院治療は良いものではなく、ここからまたこの風景を観ることのないようにしたいものだ。

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2018年02月17日

唐津街道の宮田橋(宗像市宮田)

 「宮田の由来と唐津街道宮田峠及び赤間辻田橋(宗像市)」から続く。

 (1) 宮田橋と第二宮田橋

1宮田橋 ・福岡県道503号(町川原赤間線)を宮田2丁目から野坂🚥(国道3号と交差)に向かうとすぐ「宮田橋」と「第二宮田橋」というコンクリート橋がある(画像1、2)。

 宮田橋は、現在、宮田2丁目内にあるが、第二宮田橋は、曲と野坂の境界上となるのか。


 なお、「宮田橋」「第二宮田橋」と重なる江戸時代(唐津街道)の図絵には、その名はなく、ともに「石橋」とのみ記されているようだ。

2第二宮田橋 ・県道503号線の赤間(宗像市)〜青柳(古賀市)間は、すべてではないが、概ね旧唐津街道(赤間宿〜青柳宿)の道のりを踏襲している。

 そのなかで交通量が多い区間は、片側1車線に拡幅されており、この2橋(宮田橋、第二宮田橋)の辺りも拡幅されている。



3宮田橋・県道503 ・「宮田橋」は釣川の支流「朝町川」に架橋されている。

 宮田橋の際(南西・野坂側)に「宮田橋🚥」があり、ここで朝町川左岸を走る県道401号線(宗像若宮線)が交差し交通の要所となっている(画像3)。




4第二宮田橋と市道 ・また、「第二宮田橋」は、朝町川の支流・綿打川に架橋されている。

 第二宮田橋の、宮田橋寄りの橋の際に三叉路があり、そこから綿打川右岸を遡る(南下する)道は、朝野団地や野坂等に到る宗像市道である(画像4)。



5朝町川・綿打川合流 ・朝町川は、靡山山系に源を発し、その流域にある朝町地区を潤しここに流れ、また、綿打川は、磯辺山に源を発し、その流域にある野坂地区を潤し、宮田橋のすぐ下方で朝町川と合流(画像5)、さらに宮田、曲地区を潤し、釣川に合流し、流域一帯を宗像地方有数の穀倉地帯にしている。


 ※別記参照→「朝町竹重遺跡 (宗像市朝町)」。
  →「野坂神社(2)〜野坂もやい隊・野坂三千石(宗像市野坂)」。
  →「棚原池・朝町川の起点(宗像市朝町)」。
  →「野坂神社(3)〜磯辺山と磯辺神社(曽部神社)・修験道(宗像市野坂)」。

 (2) 宮田橋と第二宮田橋の欄干

 ・最近、当地を訪れたとき、二つの橋に取り付けてある「鉄製パイプ式の欄干」を観て一瞬面食らった。私の脳裏には、両橋とも、こんな鉄製欄干ではなく、どこか風情を感じる「木製欄干」か残っていたからだった。

6宮田橋完成年月標示 ・2橋とも現欄干に「平成10年1月完成」の表示板が取りつけてあるが、このときに現在の鉄製に変わったのではない(画像6)。。
 
 数年前、この道を通ったときは、まだ木製の欄干で、その親柱に「平成10年1月完成」の文字があった。


 ・したがって「平成10年(1998)1月完成」とは、鉄製欄干が完成した年月でなく、橋脚、橋桁等が現在のコンクリート橋に変わった年月だと思う。

 ・木製欄干が鉄製に取り替えられた事情は調べていないが、その時期は、ここ数年以内のことで、少なくとも「高見神社(宗像市曲)に行く(9)〜宮田の貴船神社」をアップした平成22年(2010) 9月より後である。

7宮田橋旧欄干 ・今にして思えば、木製欄干だったとき、写真を撮っていなかったことは悔やまれる。

 だが、幸いGoogieマップに当時の画像が残っていたので、そのうち宮田橋の旧木製欄干の一部と親柱の画像を転写した(画像7)。



  (3) 消滅した唐津街道の松並木

8第二宮田橋と県道503 ・現在、宮田橋、第二宮田橋がある県道503号線沿いには、アパートや飲食店、スーパーほかの各種商業施設等が立ち並び、あたりの風景を遮断しているが、もともとこの一帯は、上記したように肥沃な穀倉地帯で、辺りに遮るもののない農地が広がり、許斐山も望める風光明媚なところだった。


 ・そして、江戸時代には、宮田橋辺り〜原神社の間には防風林の役割も兼ね松の木々が植えられ、唐津街道の松並木の一として知られていた。
 明治以後いつの頃まで、この松並木の風景が観られたのかは分からないが、現在は完全に消滅している。

 ・なお、県道を宮田橋から原神社(原町宿)方向に進み、途中、国道3号線と交差する「野坂🚥」を渡ると直ぐ右に、ほぼ直角に近い形で急カーブするので、かなり不自然さを感じるが、それは、国道を通したときに、ここに交差点を設け、この部分の県道(唐津街道筋)を付け替えたことによるのだと思う。
 ※別記参照→「原神社(旧唐津街道原町宿)に行く(1)」。
  →「許斐山王丸登山口[許斐山2]」。

 ※本稿宮田地区トップ→「宮田観音堂 (宗像市宮田)」。

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2018年02月15日

宮田の由来と唐津街道「宮田峠」及び赤間「辻田橋」(宗像市)

  (1)宮田の由来

 ・前回の「宮田地区の古塔墓地〜五輪塔墓など(宗像市宮田)」がある宮田2丁目(上谷)一帯は、江戸時代の宗像郡曲村の本村だった。

1宮田住居表示案内板 ・本村内を通っていた道は今も宮田2丁目内の里道として残っている。墓地の北側(宮田公民館〜片山醤油店〜真武サッシ店前で曲がる)から墓地のすぐ東側を通り県道503号(旧唐津街道)に抜ける里道がそれで、今、この道を歩くと江戸時代を忍ぶ建物はないが、旧村の雰囲気はある。


 ・また、墓地より西方、現県道527号線沿いに、年貢を積みだす前の米を貯蔵する「村蔵」(くら)及び付属の「計屋」(はかりや)があったらしい。同地付近に元藁葺屋根だったと思われる家屋があるが、関係云々につていは確認していない。

 ・この県道527号線の宮田2〜1丁目部分は、曲村の産神「高見神社」(宗像社七十五末社の一/宗像市曲1298)を結ぶ往還と重なっていると思われ、その西方朝町川との間に広がる一帯の水田が、「宮田の地名の由来」ともなった、中世宗像社(宗像大社)の宮田だったところかもしれない。

 ・この曲村が、宗像社(宗像大社)の社領となったのは、寛喜三年(1231)の官宣旨によるといい、天正14年(1586)宗像氏貞死亡(宗像大宮司家滅亡)により秀吉に没収されされて以降の旧宗像社領の宮田水田は、「古田」と呼ばれるようになったのではないかと思う。

 ・なお、古田(宮田水田)に沿って当地を流れる朝町川は、下流で釣川と合流し、中・近世には、その流域にある宗像社辺津宮、或は釣川江口〜博多港などに船便で行き来が出来ていたので、米の運搬は容易にできたと思われる。

 (2) 唐津街道の宮田峠

2宮田2丁目と自由ヶ丘6丁目遠景 ・宮田地区の東側には、かつて三つの山陵=南(右)から北(左)に御山、御証拠山、百姓預山(江戸時代はすべて福岡藩の領有地)があったが、昭和40年(1965)〜44年(1969)に行われた大型住宅団地開発事業により山が削られ、現在の高台にある住宅団地(宗像市自由ヶ丘6丁目)に変わった。


 ・なかでも江戸時代は、御山に福岡藩直轄の藩有林があったので、御山への入山は厳しく取り締まられていたというが、この山稜には唐津街道「宮田峠」越えの道あったので、この峠道の通行まで取り締まることはできなかっただろう。

 ・この宮田峠越えの道は、古代、官道として開かれたという説もあり、秀吉の時代には唐津・名護屋道となり、江戸時代には福岡藩、唐津藩の参勤交代が通る「唐津街道」となり、この峠は、上記中世「宮田」の由緒を採って「宮田峠」と呼ばれるようになったのかもしれない。

 ・「唐津街道」の宗像郡内の「宿場」は、「赤間宿」(宗像市)と「畦町宿」(福津市)の2か所で、「宮田峠」は、その間にある。
 赤間宿から畦町宿に向かうとすると、赤間宿の外れにある「辻田橋」(下記)を渡り、そこからほぼ直線に(現在の県道503号線に沿って)約1.7km進むと「宮田峠」に到り、さらに宮田峠から宮田橋〜原神社原町宿(止宿不可)〜大穂町を経て約5.5km進むと「畦町宿」に到る。

3宮田峠道 ・御山開削工事前の「宮田峠」は、今より高い位置にあったと思われるが、現在、宮田2丁目の(県道503号線と接続する)県道527号起点(🚥)から県道503号線上の「宮田峠」方面を見上げてみても、この道がかなりの急勾配であることが分かり、旅人にとっては難所のひとつであったかもしれない。


4宮田峠道路情報板 ・現在、この道路の最も高い位置に「宮田峠」という表示はないが、同上宮田2丁目🚥の角に「宮田峠の道路情報標識板」が設置してあるので、この峠が「宮田峠」であることが分かる。

 なお、この宮田峠越しの県道の東側を通る国道3号線は、御山の山陵を切り通した道である。

 ※別記参考→「鹽竈神社」(考)その3〜境内 (宗像市稲元)」。

 (付記) 赤間・辻田橋際の「唐津街道の道路標石」ほか

5辻田橋際の唐津街道道標石 ※なお、赤間宿の「辻田橋」のたもとの築堤(釣川右岸)には、現在、2本の「唐津街道の道路標石」が残り、次の刻がある。
  此方鞍手郡山口道・此方畦町道」「自是下田久鏻分之内迄八百六十一間・一番自下川巾五間半・自是冽口波打際迄長五千四百内・寛政三辛亥四月建」(1791)。


 また、すぐ近くに「虚空蔵菩薩堂」「唐津街道赤馬宿碑」(謹書瀧口凡夫・贈西暦二〇〇〇年堤芳実 みどり)や「節婦お政(阿政)の墓碑」等もある。
 ※別記参照→「赤間「虚空蔵(菩薩)堂」(宗像市)=宗像四国東部霊場24
  →「節婦お政(阿政)の墓(宗像市赤間1丁目)」…なお、以前このお政墓地の前にあったダイレックスは現在、跡形もない。

 ※つづく→「唐津街道の宮田橋(宗像市宮田)」。

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2018年02月12日

納得できなかった村田愛里咲選手の18位(平昌五輪)

村田愛里咲・平昌五輪 11日夜(なぜ夜開催なのだろう)、TV・LIVEで平昌五輪(ピョンチャンオリンピック)フリースタイルスキー女子モーグル決勝の初戦を観ていたが、もちろん目当ては村田愛里咲選手(27)だった。

 その初戦、第一エアでかなり高難度のフルツイスト(伸身後方1回宙返り1回ひねり)、第2エアでもバックフリップ(後方宙返り)を見事に決めて30.51秒でゴールした。


 ゴールしたとき、本人も大きく両手を振りあげていたので、観ていた私も「やったーっ」と思っていた。しかるに、なぜか、結果は20人中18位で、あえなく敗退(?)。
 無難にヘリコプターなどでタイム稼ぎする選手の方が高得点で、果敢に挑んだ村田愛里咲選手の大技はまったく評価されていないように思えて、大いに納得できなかった。
 まさか反日的得点ではないだろうが、スポーツの祭典に馴染まない政治的ショーが目立つ今回の五輪を見ているとついそんなことも思ってしまう。
 でも、敗退したとはいえ、予選を含め村田愛里咲選手の勇敢な戦いを目にすることができたことは嬉しかった。健闘を祝します。

 ※画像は「#村田愛里咲 hashtag on Twitter」から借用しました。
 ※参考(別記)前回「雑記4 村田愛里咲選手負傷(ソチ五輪)

 (追記)2018.3.18村田愛里咲選手は、腰痛激化のため現役引退を表明した。よく頑張りましたね。快癒を祈ります。

keitokuchin at 22:47|PermalinkComments(0)

2018年02月10日

宮田地区の古塔墓地〜大五輪塔墓など (宗像市宮田)

 (1) 宮田共同納骨堂と古塔墓地

・前回記した「宮田観音堂(宗像市宮田)」の右後ろに「宮田共同納骨堂」が建っているので、当初は、かつて宮田地区にあった墓地は整理されて、この納骨堂にまとめられたのだと思った。

1宮田古塔墓地口  しかるに、これらの堂が建つ上谷丘陵(宮田2丁目)の後方(北側)裾(真武サッシ店真後ろの石垣の上)に、五輪塔9基ほかの古塔墓等が並ぶ古塔墓地が残っている。

 ・この墓地の入口は、東側の里道面にあり、同所の石垣の中央部分にある13段の石段を上って墓地内に入ることができる。

 ひょっとしたら、死者の菩提を弔うための追善供養の本尊「十三仏」を意識し、石段の数を13段としたのかもしれない。そんなことを考えたりもした。
 なお、当地で「十三仏」といえば、上記「宮田共同納骨堂」の前にある「宮田観音堂」で十三仏御真言と光明真言を称誦し先祖の追善供養をすることがあるといい、当地の人々の先祖崇敬の意識の高さが伺える。

1-1石柱門 ・石段の上の両側に建っている「石柱」(門柱)は、寺院等の入口でよく見られる門柱なので、当初、ここに寺院・堂宇があったのかと思ったが、改めて右側の石柱を見ると、「倶会一処」の刻があったので、当初からここは墓地で、この石柱は、その墓地の入口門として建てられたのだろう。


 「倶会一処」(くえいっしょ)は、供養会等で勤行する阿弥陀経のなかに出てくるが、ひたすら念仏を唱えた人は没後直ちに浄土に往生するという意で、浄土真宗では、この言葉を信徒墓碑に刻むことが多々ある。

 ・なお、左側の石柱にある「真如」(しんにょ)については、浄土真宗では、元禄13年(1700)東本願寺第十七代法主にこの名を頂いた真如上人がおられるが、一般的には「真理〜あるがままであること」と解釈されている。
 したがって、「真如」が直ちに墓地と結びつくものではないが、「あるがままに念仏に生きた人は死後成仏する」の意と考えれば「倶会一処」と変わらない。
 私は、これを「水の流れの如く自然に自分の身を任せる」と解釈して修行した時代があったが、未だ即身成仏にはなり得ない。

 ・墓地の広さは、巾約12m、奥行き約25~30mくらいあり、そのなかに大きな「大五輪塔墓」9基、「古塔墓」約20基、「薬師如来石像墓」1基(寛〇元年)と、新しい寄せ墓も5基ある。
 このうち、「大五輪塔墓」9基が立ち並ぶさまは、一般人の古い墓地内のこととはいえ、ついついその壮観さに驚き圧倒されてしまいそうになった。

1-2石垣寄附者碑 ・石段を上るときに見た「石垣建造寄附者人名碑」(昭和11年=1936年6月建立)に、「真武姓」の人たちの名が並んでいたので、ここは地元の真武家一族の墓地なのかと思ったが、墓地内の墓碑には井原ほかの姓のものもあったので思い違いか。なお、各墓碑銘の詳細は調べていない。


 ・古墓建立時期については、たまたま「寛延四年(1751)、明和(1764~1772)、安永(1772~1781)、文久二年(1862)」とメモしていたものがあり、この墓地は、江戸中期〜に造られたのではないかと思う。

 ・江戸時代の当地宮田(曲村本村)には年貢米・御囲米(おかこいまい)を貯蔵する「村蔵」があったことが知られているが、裏を返せば、宮田には、藩の許可を得たとしてでも、これだけの立派な墓を作れるだけの財力のある人たちが住んでいたということになるのだろう。

 ・これらの古い墓を見ただけでも、宮田地区は、近世地方史研究に興味が沸き起こる地で、もし集落内に各種の史料が残存していたら保存取集しておかれたいものだ。

 (2) 補記:古塔墓地の下(真武サッシ店敷地内)

  真武康太墓碑

2真武康太墓碑 ・上記古塔墓地の北側石垣の真下・真武サッシ店駐車場の奧に、「恩師真武康太先生墓」(表面)と刻した大きな自然石墓碑が建っているが、真武サッシ店の先々代と係わる人だったのだろうか。昭和9年(1934)3月建立。

 裏面に従七位片山泉の選・書による真武康太さんの法名、来歴、建立経緯等が刻してあるらしいが、明治〜昭和初期に教職(教師)に従事された人のようだ。当時の教師は、現在の感覚では測れないほど尊大であった。
 なお、選書者片山泉については不詳。

  三界萬霊地蔵菩薩

 ・上記,留手前に小さな地蔵堂があり、石造の地蔵菩薩立像が安置され、台座には「三界萬霊地蔵菩薩」と記されている。

3三界地蔵 ・三界萬霊地蔵菩薩とは、三界萬霊即ち無縁仏(餓鬼)を救済する地蔵菩薩だと思う。
 無縁仏のなかには浮遊霊となって墓地に寄ってくるものもいるというので、ついつい当地の土地柄を考えたとき、このお地蔵様に、その教化救済をしてもらうために建立されたものかと思う。


 なお、この右横にある径(舗装なし)の坂を上ると、宮田観音堂の上方、上谷丘陵の頂上部に出るので、ひょっとしたらこの一画には厭離穢土(えんりえど)・欣求浄土への霊道が開かれているのかもしれない。念仏合掌。

  ※つづく→「宮田の由来と唐津街道「宮田峠」及び赤間「辻田橋」(宗像市)」。

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2018年02月06日

宮田観音堂 (宗像市宮田)

 以前掲載した「高見神社(宗像市曲)に行く(9)〜宮田の貴船神社(2010年9月8日)」の近くに「宮田観音堂」がある。

1宮田観音堂 その後、訪れたとき、「宮田観音堂」の舛形格子戸(金網張り)が施錠されていたので、そのときは、日を改めて訪れようと考えていた。
 以後、そのままで、この調子ではいつのことになるのか分からないので、思い出しながら、ここに覚えとして書きとめておく。


 (1) 宮田観音堂

 ・「宮田観音堂」は、宗像市宮田2丁目集落内の丘上にあり、「宗像四国(東部霊場)第三十八番札所(本尊千手観世音菩薩)宮田上谷」となっている。

2木板1 ・宮田観音堂入口の外鴨居に「宗像四國三十八番 補陀落や ここはみさきの 船の棹 とるもすつるも 法の蹉跎山 明治四年二月 当村世話人 片山笹三 同茂平 梶野傳七 真武庄? 梶谷卯平 田中藤右衛門」と彫り込んだ古い木板も掲げてある。


 ・上記の「補陀落や…」は、文字は変体仮名で彫り込んであり、薄くなって見えにくいが、「四国八十八ヶ所第三十八番札所 蹉跎山補陀洛院金剛福寺=真言宗豊山派・本尊三面千手観世音菩薩」(高知県土佐清水市足摺岬)の御詠歌である。
 この札所番号の本尊に合せて、宮田観音堂の本尊を、ここでは三面ではないが、「本尊千手観世音菩薩」としたものなので、当観音堂に同本尊が安置されているとは限らない。

3木板2 ・木板は、もう一枚あり、墨字は薄くなり殆ど読めなくなってはいるが、「郡中三十一番 御佛のたまをの…上谷中」等の文字が読めるので、かつて旧宗像郡内には三十三観音霊場があったことを示しているのだろうか(詳細未調)。


  ・本尊「千手観世音菩薩像」安置の有無については、宮田観音堂のなかに入っていないので分からないが、小さな格子の桝間から堂内を覗き込んで視た限りでは確認できなかった。
 多分、堂内安置仏(含石仏)は、合掌菩薩立像、聖観音菩薩立像、大日如来坐像、阿弥陀如来坐像、不動明王立像、地蔵菩薩立像、釈迦如来坐像、弘法大師坐像、天部神立像、虚空蔵菩薩坐像、小石仏等か。

 ・筑前國續風土記拾遺の「曲村善王寺址」の項のなかに「また辻と云処に観音堂有。佛像七躰あり。いつれも大也。」の記事があるが、これが「宮田観音堂」のことか。

 ・筑前國續風土記附録の曲村の項に「観音堂四宇:カミダニ虚空蔵・地蔵・阿彌陀もあり。シモダニ二宇。シモマガリ地蔵もあり。」の記事がある。
 後に、この観音堂四宇のうちの、上谷(カミダニ)一宇と下谷(シモダニ)二宇を、上谷一宇(※現「宮田観音堂」=旧曲村本村)にまとめたのか。
 なお、下曲(シモマガリ)の一宇は、多分、上記拾遺の「曲村善王寺址」にある観音堂で、曲の桜公園にある大日堂がそれだろうか。
 (※別記→「宮田大日堂・善王寺址の観音堂(宗像市曲)」)。

 (2) 宮田観音堂前の小堂

4宮田観音堂、左小堂、右納骨堂 ・宮田観音堂の左手前に小堂(前面開放)がある。

 ここに、石像3体が安置されている。右から「修行大師立像(千百年記念造立)、波切不動明王坐像、弘法大師坐像」と、その左に石碑1基=「庚申尊天碑」(風化が激しい)がある。


 ・「弘法大師坐像」 (作造年不詳) は、古いもののようにも思えるが、幕末〜明治頃、宮田観音堂が宗像四国霊場(当時は東部、西部に分離されていなかった)の一つとなったことと係わるものかもしれない。
 ・また、「修行大師立像(千百年記念造立)」は、やはり同上霊場と係わるもので、弘法大師千百年御遠忌が行われた昭和9年(1934)に造立されたものだろう。その頃は、宗像四国霊場巡りも盛んに行われていたのだろう。

 ・「波切不動明王」(波切不動尊)については、「鎮国寺奥の院岩窟・不動堂寸描(宗像市吉田)」のなかに記したが、宮田は、かつて宗像大社の宮田があった処なので、宗像大社の神宮寺・鎮国寺と係わる波切不動明王像(作造年不詳)が宮田地区にも置かれていたのかもしれない。

 ・「庚申尊天碑」(作造年不詳)は、中村嘉彦家所蔵の宗像郡曲村絵図=寛政六年(1794)五月冨永軍次郎様代御調子書上ヶ控に「卵塔」と書かれており、もとからこの付近にあったようだ。
 なお、同上絵図には、この「卵塔」の左上(北方)に、もう一つ「卵塔」の標示があるが、これは、現「宮田貴船神社」内に移された「猿田彦神石塔」のことだろうか。

 ※次回→「宮田地区の古塔墓地〜大五輪塔墓など (宗像市宮田)」。

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