2018年04月

2018年04月24日

石川さゆりの蝶子(夫婦善哉)観た(博多座にて)

石川さゆり夫婦善哉 石川さゆり特別公演(博多座)を観てきた。今回の演目は「夫婦善哉」。
 石川さゆりの歌に「夫婦善哉」があるが、最近よく聴く歌は「夫婦善哉」ではなく、「夫婦人情」である。どうもこの「夫婦人情」が、今回の石川さゆり特別公演に沿ってにつくられた新曲らしい。


 「夫婦善哉」というと、未だに淡島千景の色香溢れる蝶子の美しい姿が、また、最近では尾野真千子の鋭い口調で迫力ある蝶子が印象に残っている。
 その蝶子を今回、石川さゆりがどのように演じるのか楽しみにでもあった。
 今回は、柳吉(西岡徳馬)と亡妻の娘みつ子(坂口理子)の母になりたいと願う蝶子と、それに激しく反発するみつ子という愛憎物語を強く打ち出した演出もあり、涙を誘うが、あまりにも優しい石川さゆりの蝶子だった。
 また、脇を固めた筆子(小林綾子)や金八(野村真美)らも舞台を引き立てた。
 石川さゆりは歌手だが、今や大衆芸能部門の文部科学大臣賞受賞者で、女優としても立派に通用するほど演技が上手だ。やはり歌手だから声が良い。

 第2部は、恒例の歌謡ショー、2部構成なので前回の「石川さゆり45周年歌謡ショー」とは違って、曲目は絞り込まれていたが、観客と一緒になって歌う昭和アニメロメドレーや、片手を振る「恋しゅうて」などがあったので、十分に楽しめた。なお、観客(ファン)は、石川さゆりと共に齢を重ねているようだ。杖をついている人たちも多かった。

 ※「夫婦善哉」の原作は、織田作之助で、描かれる複雑な人間模様のなかには、私の生い立ちとも重なるような部分もあって、あまり好きではないのだが、それでいてこれまで映画、テレビ、舞台などは、なぜかしら何となく観てしまう。もちろん法善寺横丁にも行った。もっとも今回は石川さゆりファンとしてだったが。

keitokuchin at 00:15|PermalinkComments(0)

2018年04月20日

木嶋真優さん〜題名のない音楽会でヴァイオリン独奏

14題名のない音楽[1] 2018.3.1と同2日の木嶋真優さんのTwitter(Mayu Kishima (@mayukishima) - Twitter)に、「題名のない音楽会に収録」との記事が載っていたので、気を付けていたら、4.14(テレビ朝日)と4.15(BS朝日)に放送された。



 当日の「題名のない音楽会」のテーマは、「クラシック界が注目する若き才能の音楽会」で、その若き才能は、藤田真央さん(ピアニスト)と木嶋真優さん(ヴァイオリニスト)だった。

 以前(2012.8.28)「情熱大陸:ヴァイオリニスト・木嶋真優さんに感激」を書いてから6年近く経っているが、今回のテレビ出演と演奏を観聴くことができて喜ばしかった。

14題名のない音楽[2] 司会の石丸幹二さんのある問いかけに対しての木嶋真優さんの答えは、「練習せずにうまくなろうということばっかり考えていたので一日一日自分の感覚を確かめながら練習する」。
 凄い、直観力、観察力の鋭さがそう言わせているのだろうか。
 

 藤岡幸夫さん指揮の東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団(オーケストラ)をバックにしての演奏だったが、演奏曲が旧ソ連の作曲家ショスタゴーヴィチの「ヴァイオリン協奏曲第1番」の第3楽章と第4楽章だったので、オーケストラをバックにしてはいるものの、事実上、まさに木嶋真優さんの技巧の限りを尽くしたヴァイオリン独奏(カデンツァ)だった。

 第3楽章の独奏中に流れたテロップに「決してキレイでない厳しい現実に立たされている状況をイメージして演奏しています」とあったので、それだけ自分の感覚、イメージを最大限に研ぎすことができる才能を磨き上げた演奏者であることが伺える。

14 第4章でオーケストラ演奏が始まると、「オーケストラの音を聴いている自分の音をこの後どう合わせるかイメージしています」、またヴァイオリン間奏時には「チェロとコントラバスの音を聴いて次の弾き出しをイメージしています」、また「難所でシロフォンの音を聴いて音のバランスを取っています」など。

 本当に「オーケストラの音をしっかり聴いてリズムを合わせる」という演奏姿勢と、「重厚感を残しながらも少し華やかな音を意識して弾く」という演奏がそのまま伝わってくる。

 演奏中は、彼女の美顔は目つきの鋭い厳しい顔に変わり、力強い腕の動きが、小柄の躰が一際大きく感じる。彼女の音楽に打ち込む心に甘い妥協は許さないという精神が伝わってくるようで、それだけにその演奏の凄さに惹き込まれて行く。

 お茶の間で素晴らしい感激の時間を過ごさせてもらった。
 なお、若き才能と言われる木嶋真優さんの年齢は30歳だったか、ますますのご発展を祈ります。

 ※画像1、2は「題名のない音楽会HP」からお借りしました。
 画像3は「木嶋真優Twitter」からお借りしました〜石丸乾二、木嶋真優、藤田真央、藤岡幸夫、松尾由美子さん。

keitokuchin at 01:07|PermalinkComments(0)

2018年04月16日

黒川山荘の笹栗さん「希望を失わない」(朝倉市)

 「西南学院同窓会報No.85」を観ていたら、2017.7.5九州北部豪雨で被災した蛍雪の里「黒川山荘」(朝倉市黒川)の笹栗さんの記事「希望を失わない」が載っていた。

 要約すると、周囲の杉山から流れ落ちる土石流が黒川山荘に流れ込み、さらに氾濫した山荘の前を流れる黒川が氾濫し道路を消し山荘の石垣を越える。浸水、孤立した山荘のなかにひとり取り残され、これで自分も終わりかと覚悟を決めた笹栗さんは、2日後の夕刻、自衛隊のヘリに救出された。

 実は、私は、この豪雨の前に友人ら3人と古民家を改造した趣のある「黒川山荘」を訪れ、ここで出される美味しい十割蕎麦を食べ、笹栗さんとも会話を交わし、笹栗さんがオーストラリアほかで料理の極意を極めたことは聞いていたが、西南学院大卒とは知らなかった。

 食事の後、黒川山荘の前を流れる黒川の縁に建つ地蔵堂の参拝もしていたので、あの日、氾濫した黒川の土石流が、この地区を襲ったと聞いたときは声が出なかった。

 前回書いた「朝倉再生へ取り組む・黒川山荘(2017.12.9)」のなかに、山荘の主人が黒川を含む朝倉の復興に取り組んでおられることを、伝え聞いた範囲で紹介していたが、現在、黒川山荘は、ボランティアの人たちの協力も得て、営業再開できる状態にまで至ってはいるらしいが、メインアクセスは未だ遮断されたままで、本当の復興の道のりは遠い。

 私は、黒川地区の知人からお誘いは受けているが、自分の身体状況が肉体的なボランティア活動を許さず、もどかしくもあり、気が引ける思いもあり、未だその後の黒川地区を訪れていない。

 笹栗さんは、黒川地区に限らず「風評被害もあり朝倉行きを自粛されていらっしゃる方もいるでしょうが、ぜひ積極的にお訪ねください。それが朝倉復興にもつながります。」と訴えておられる。

 唯一、今は寺内ダム上流から下る谷あいの山道が通れるというので、体調をみて気分が乗ったときをみはらかって、黒川地区に行けたら良いがとは思っている。

 ※現在、持病の頚椎症による痛みが再発しリハビリ中、4/10以降、PCを触れない状態が続いていたが、今日は、痛み止めがよく効き、キーボードに触れたので、その間に急ぎ本ブログを書き上げた。

keitokuchin at 00:32|PermalinkComments(0)

2018年04月09日

満開の八重桜観

八重桜・筑前町 8日、筑前町の観音堂に定期参拝で行ったとき、その近くにある1本の樹に満開の花をつけている「八重桜」を観た。

 ソメイヨシノなどの桜は、もう散ってしまっている。
 それより少し時を遅らせて咲く「八重桜」の開花時期に行き合わせたということで、タイミングが良かった。

 新宿御苑の八重桜の花見はともかく、「八重桜の花見」という言葉はあまり聞かないがが、今回はちょっと違っていた。


 それは、この「八重桜」を観て、すぐに前回アップした「鹽竈神社(考)その4〜絵馬、瀧口・滝口姓(宗像市稲元)」のなかに書いた「八重桜の絵馬」(滝口温子画)のことが思い浮かんだからだ。
 それまで「八重桜の絵馬」を観たことがなかったので印象に残っていた。
 きっとこの絵馬を描いた女性や奉納した女性も「八重桜」の美しさが好きだったのだろうと思う。
 ソメイヨシノのような派手さはないが、小粒の牡丹のような厚みのある八重桜の花にはある種の趣を感じる。

 6日の花散らしの雨、7日の寒の戻り、ヒョウも降った真冬のような気温の変化に震えたが、今日は、晴天で暖かく、そんななか、ひときわ高く青空に映えるように咲く八重桜の花々を見上げて、しばしその場に佇んでいた。

 こんなに八重桜の樹の下に佇んでその花を愛でたのは初めてだが、きっと絵馬を描き奉納した人たちのやさしい気持ちが伝わってきていたのかもしれない。

keitokuchin at 01:03|PermalinkComments(0)

2018年04月08日

「鹽竈神社」(考)その4〜絵馬と、瀧口・滝口姓 (宗像市稲元)

 前回「鹽竈神社(考)その3〜境内(宗像市稲元)」からつづく。

 [拝殿内の絵馬]

 ・鹽竈神社(宗像市稲元1-11-43)の拝殿内に9枚の絵馬が掲げてある。
 最も古いは、大正元年(1912)8月奉納のもので、以下順に大正8年(1919)5月、大正13年(1924)3月(2枚あり)、昭和11年(1936)2月、昭和15年(1940)3月9日、昭和27年(1952)5月、昭和28年(1953)2月、平成3年(1991)11月奉納のものである。

1鹽竈神社絵馬剥げ ・このうち、最も古い大正元年8月奉納の絵馬は、残念なことに、完全に絵具が剥げ落ちてしまっており、何が描かれていたのかが分からない。
 〜奉納 大正元年壬子八月吉祥日 世話人…氏名は剥がれて読めない。(※画像1)



 ・この1枚を除く残り8枚は、色褪せが少なく比較的鮮明である。
 多分、絵馬が掲げてある拝殿が、日当たりのよい西向きの丘陵上に建っており、しかも板壁、板戸、板雨戸が直射日光や風の吹きさらしを遮り、かつ氏子さんらが定期的に風入れを行ってきたなどの好条件がもたらした結果なのだろう。それにしても上記1枚の絵馬の絵具欠落の原因は分からない。

 ・いつも私の目を惹くのは武者絵だか、ここにも4枚の武者絵があった。

2鹽竈神社絵馬秀吉 1枚は、大正13年(1924)3月奉納の絵馬で、画題は書いてないが「朝鮮出兵船団を見守る秀吉公図」か。
 中央の武将が秀吉で、馬藺後立付兜(ばりんうしろだてつきかぶと)をかぶり、赤色陣羽織を付け、また、千成瓢箪の馬印なども描かれているので、それと分かった。


 〜奉納 大正拾三年三月吉日伊勢神参宮同行中 瀧口惣三母 瀧口友吉妻 片山熊十妻 赤田茂四郎妻。(※画像2)

3鹽竈神社絵馬川中島 ・同年奉納のもう一枚は、これも画題は書いてないが、「永禄4年(1561)の川中島合戦図」か。
 馬上から振り下ろす上杉謙信の太刀を軍配団扇で受け止める武田信玄、そして、馬上の謙信を背後から槍で突く原大隅守虎胤(はらおおすみのかみとらたね)など、迫力と躍動感が溢れる。


 〜奉納 大正拾三年三月吉日参宮同行 瀧口研 伊藤?吉 花田松?郎 瀧口新蔵 山本?三郎 小方七次郎 麻生?郎 伊藤?三 赤田茂四郎 瀧口茂三 瀧口建? 伊?大三 瀧口戌雄 瀧口益雄 瀧口??妻 山本?郎。(※画像3)

4鹽竈神社絵馬小牧武者 ・昭和11年2月奉納の武者絵は、画題が消えているが、「小牧長久手戦争図」か。
 馬上に乗った二人の武将(本多平八郎忠勝×加藤虎之助清正)が槍合わせで戦っている様子が描かれているが、この二将が実際に直接戦ったのかどうかについては知らない。


 〜奉納 昭和拾壹年弐月吉日 参宮記念 伊藤彰二 瀧口正 瀧口界 瀧口笑蔵 瀧口惣三 瀧口博 瀧口猶樹 瀧口猛 吉武伊平 伊藤信繁。(※画像4)

5鹽竈神社絵馬義経 ・もう一枚の昭和28年2月奉納の武者絵は、画題に「八嶋合戦源義経八艘飛圖」とある。

 「八嶋合戦」とあるが、普通は「屋島合戦」と書く。
 また「義経八艘飛」は屋島合戦ではなく、壇ノ浦合戦(壇の浦の戦い)ではないのか。


 そして、船上を飛んで逃げる義経を追っている平家の武将は、関門・壇ノ浦合戦における平教経だと思う。
 〜奉納 昭和二十八年二月吉日伊勢参宮記念 瀧口達平 伊藤正太郎 瀧口一雄 瀧口茂美 山本信二 庄山太郎。福岡市櫛田前町 吉村百耕画。(※画像5)


6鹽竈神社絵馬櫛田 ・昭和27年5月奉納の絵馬は、歌舞伎絵か。画題は、その蘭の文字が消えており、分からない。博多櫛田神社前 吉村百耕画(※上記義経八艘飛圖と同じ作者)。
 〜奉納 昭和二十七年五月吉日伊勢参宮記念 伊藤太三 麻生ウメ 伊藤ヤエ 瀧口滝野 瀧口トシ 瀧口静香 瀧口マツ 瀧口澤子 吉武ミヨ 瀧口壽世 伊藤幸子。(※画像6)


7鹽竈神社絵馬宮中 ・大正8年5月奉納の絵馬は、画題は、書かれてなく分からない。
 〜奉納 大正八年五月吉祥日 伊勢参宮同行中 奉納者9人…このうち滝口?太郎妻、吉武重太郎妻、伊藤元吉妻、滝口金三妻、山本繁?郎妻の名のみが微かに読み取れるが、ほかの名は文字が消えている。(※画像7)


8鹽竈神社絵馬花 ・昭和15年3月奉納の絵馬は、画題は書いてないが、青空に映える美しい「八重桜」を描いたものではないかと思う、すごくよく描けている。
(滝口温子画)。

 〜奉納 昭和十五年三月九日 伊勢神宮参拝記念 滝口アイ、手島キク。(※画像8)

 (※別記参照→「満開の八重桜観」)




9鹽竈神社絵馬夫婦岩 ・最も新しい絵馬は、画題はないが、「伊勢二見ヶ浦の(二見興玉神社)夫婦岩に昇る朝陽」を描いたもので、朝陽の輝きや波立ちが際立っている。

 〜奉納 平成参年十一月吉日 伊勢神宮参拝祈念 瀧口邦明 伊藤郁夫 森内一重。(※画像9)


 ・なお、これらの絵馬は、そのすべてが「伊勢神宮参拝」を記念して作成奉納されたもののようで、当地・野添地区(現稲元1丁目)においては、大正時代以降、伝統的に地元有志で伊勢神宮団参の習慣が続いているのかもしれない。

 ・各絵馬の奉納者名、及び前回の寄附者碑や板札等の記銘から、野添地区居住の氏子(産子)さんに、瀧口・滝口、伊藤、花田、山本、小方、麻生、赤田、片山、吉武、庄山、手島(手嶋)、森内、秋月、徳永、吉田さんなどがおられることが分かる。

 「鹽竈神社(考)その1〜概要・祭神」に、素盞嗚神、大歳神(饒速日命)を祀る赤間物部氏の本拠地を抑えた藤原氏が鹽竈神社に春日神(天児屋根命)を祀ったのではないかと書いたが、上記姓氏で、藤原氏の流れかと思えるのは伊藤、麻生姓(藤原氏山鹿氏流か)か。

 [瀧口・滝口姓]

 ・上記姓氏のなかで圧倒的に多いのは「瀧口・滝口」姓で、蛇足すると、現在、野添を含む稲元地区全体で、「瀧口」と書く家と「滝口」と書く家の割合は半々くらいらしい。また、「滝口」姓は、分家筋という人もいるが、俄には判断できない。

 ・「瀧口・滝口」の発祥由来について、その字面からは「滝があるところ、滝道の出入口」などが思い浮かぶが、当地丘陵には滝はなく、ひょっとしたら釣川に川滝(段差或は井堰)があったのかと考えてみたが、どうもしっくりこない。
 因みに、宗像市内にある滝は、安ノ倉(吉留字妙見)の「妙見の滝」と、多禮の瀧口にある「津瀬の滝」の二滝が知られているが、いずれも当地からは離れている。(※別記参照→「猿田峠の西東(11)〜妙見の滝ほか(宗像市)」。→「多禮瀧の口瀑布[津瀬の滝](宗像市)」)。

 ・ふと、かなり以前の知人で、当時、銀行員〜IT企業所長をしていた滝口氏が「自分の先祖は、昔(9世紀末〜)、滝口の武士(滝口武者)で、後世稲元に移り滝口を名乗った。先祖伝来の刀もある。」と言っていたことを思い出した。真偽のことは分からないものの、さもありなんか。

 ※「鹽竈神社(考)」トップ→「鹽竈神社(考)その1〜概要・祭神(宗像市稲元)」。

 ※つづく→「稲元八幡宮(1)〜鎮座地…(付:鹽竈神社からの道順)宗像市」。

keitokuchin at 00:39|PermalinkComments(0)

2018年04月06日

「鹽竈神社」(考)その3〜境内 (宗像市稲元)

 前回「鹽竈神社(考)その2〜稲元本村と野添(宗像市稲元)」からつづく。

 [福岡県道527号線]

 ・「鹽竈神社」(宗像市稲元1-11-43)が鎮座している稲元1丁目の丘陵の下方の集落内を横切る「県道527号線」は、ゝ榲2丁目🚥(県道503号線と接続)⇔⊃榴橋(山田川左岸・県道69号線接続・宗像市須恵1-2-10)までの2.3kmをいう。

 ・、L酖沙虻杵バス停口(釣川右岸・稲元1-3)の間2kmは、2車線(片道1車線)道路に拡幅されているが、〜間の約300mは未整備で道路幅が狭く、特に車でJR鹿児島本線踏切(離合不可)を渡るときは注意がいる。

 ・,竜点は、宮田峠(県道503号線)の坂下(「宮田峠道路情報標識板」あり)にあり、ぬ酖唆(釣川架橋)までの間(1,9km)は、途中緩やかなカーブはあるが、ほぼ直線道路で、「鹽竈神社」は、い亮蠢(南)の右(東)側の小丘陵上にある。
 (※別記参照→「宮田の由来と唐津街道宮田峠及び赤間辻田橋(宗像市)」)。

 [鹽竈神社境内]

1鹽竈神社参道 ・当地は、現県道と並行して集落に沿って旧道が残っている。

 「鹽竈神社」に行くときは、この旧道沿いの「稲元一丁目11」の標識板がある民家と、アパート・ブランドール赤間(稲元一丁目10-17)との間にある狭い路地に入り坂を上る。(※画像)


 なお、車で行く場合は、路地内に離合も駐車もできる場所はないので、上記旧道沿いに一時駐車して歩くしかない。

2鹽竈神社上り口 ・50m先の二股を左に10mほど上ると民家に突き当たる。

 参道口は、この民家の手前、右側にあり、ここから斜めに上る径(石段21段)があり、その正面上方に「鹽竈神社の拝殿」が見えているが、このまま直進することはできない。(※画像)



3鹽竈神社 ・道なりに右折、石段(4段)〜叢道を10mほど進み、左側の石段(7段)の上に「幟立石」(一対、無刻)、「石鳥居」が建っている。
(※画像)

 …石鳥居〜額束に「鹽竈神社」の刻、柱に「奉寄進 昭和十七年一月 赤星仁三建立」の刻。高さ3mほどの明神鳥居、礎石あり。


4鹽竈神社拝殿、手水鉢 ・その先の石段(9段)の上、正面に「拝殿」が建っている。
(※画像)

 …拝殿〜木造瓦葺(3間社)、外壁全面板張り、引き戸、雨戸、向拝・木鼻(獅子か)あり。



 

5鹽竈神社神額と天井 …拝殿内部〜梁や、手の込んだ割竹張りの天井などが見事である。

 そして、この天井と拝殿正面に掲げてある「鹽竈神社」の神額とのコントラストも良い。
(※画像)

 また、絵馬9枚が掲げてあり、1枚を除き8枚は色鮮やかである。(※次回画像掲載)




5-2鹽竈神社手水鉢左正面  ・「手水石鉢」〜拝殿の左手前に雨水が溜まった石造「手水鉢」が1個置いてある。(※画像)
 横に置いた鶏卵の上部を横に切り取ったような外形で、見るからになめらかな感じがして美しい。

 …「奉納 瀧口惣七 伊藤仙二 明治三十三年八月」の刻。



6鹽竈神社神殿 ・拝殿奧の引き戸の後ろは外で幣殿はなく、石垣、玉垣、石段(6段)あり、その上の石段(3段)の後ろに別棟の「神殿」(木造銅板葺、賽銭箱設置)がある。(※画像)

 ・社殿(神殿、拝殿)の各所に修理した跡が見られ、また拝殿内に木材が置いてあるので、まだ修理が続いているのだと思う。


 拝殿内に「鹽竈神社修復工事寄附者名 滝口邦明 秋月弘之 滝口欽一 滝口治則 徳永定 片山正行 手嶋幸俊 吉武正二 山本英明 花田勝代 滝口和久 平成十九年十一月吉日」と書いた真新しい板札が掲げてある。
 
7-1鹽竈神社寄附者碑拝殿左 現在の社殿は、宗像郡誌に「明治三十四年十月九日許可を受け同字内ニテ移転ス」とあるので、そのとき境内を整地し建てられたものではないかと思われる。既に100年を越えており、痛みも激しので修理されているのだろうが、過去にも修理の手が加えられてきたのではないかと思われる。


7鹽竈神社寄附者碑 そのことは、境内に建っている玉垣の寄附金額寄附者刻銘(大正十三年)や数基の寄付金額寄附者刻銘碑などからも伺える。(※画像)

・社殿は、西側に広がる稲元の水田を見下ろすような形で建っているが、現在地に移転前は、丘陵のもっと高い位置に鎮座していたと思う。
 

8鹽竈神社 ・因みに社殿の後方の丘陵は樫ほかの樹木に覆われ、ここから登ることは難しいが、当地の反対(後)側の集落(宗像市田久1丁目)から丘陵頂上部に上る道があり、途中に「田久薬師堂」(宗像四国東部霊場第40番)がある。
 ※別記参照→「田久の釈迦堂二宇と薬師堂(宗像市田久)=宗像四国東部霊場」。

 ・なお、この丘陵の右後方(南東部分)には東海大学福岡短期大学(※2018年3月閉校)、東海大学付属福岡高校、同幼保連携型認定こども園付属自由ヶ丘幼稚園などがある。

 ※つづく→「鹽竈神社(考)その4〜絵馬と、瀧口・滝口姓 (宗像市稲元)」。

keitokuchin at 02:09|PermalinkComments(0)

2018年04月03日

「鹽竈神社」(考)その2〜稲元本村と野添(宗像市稲元)

 前回「鹽竈神社(考)その1〜概要(宗像市稲元)」からつづく。

1鹽竈神社鳥居 [鹽竈神社鎮座地]

 ・ 福岡県宗像市稲元1丁目11-43(小丘陵の西山麓)

  (←旧宗像郡河東村大字稲元字野添)
  (←旧宗像郡稲元村野添)



 [旧稲元村の本村と野添]

 ・「稲元」と聞くとすぐに県道69号線沿い北側(宗像市稲元4丁目)一帯を思い浮かぶが、この一帯が旧稲元村の本村地区で、この地区に旧稲元村産神「稲元八幡宮」(※別記予定)が鎮座している。
 この「稲元八幡宮」の旧摂社「鹽竈神社」は、「稲元八幡宮」の南東方向約1kmにある(※釣川左岸側の小丘陵/野添地区内)。

 ・筑前國續風土記拾遺には「稲元村 民居二ヶ所本村野添にあり。川二流有。一ツを釣川と云。一流ハ山田村より流出、河東村下にて釣川に入。此村の名承久二年(1220)の文書に出たり。」とある。
 (※野添は、現稲元1丁目の集落地にほぼ該当する。承久二年(1220)は、鎌倉幕府執権・北条義時の時代、後鳥羽上皇の承久の乱は承久三年)。

 ・この稲元の二地区(旧本村と野添地区)の間は、福岡県道69号線、山田川(釣川支流)、JR鹿児島本線(線路)、釣川(本流)などが遮り、これらを横断する道は狭く、他者から観ると分かりにくく両地区は別地区というような観がある。

 ・しかるに、両地区の間には、今も稲元の地名の由来(下記)となった稲作水田が釣川を挟み、この水田は、その西側で朝町川、高瀬川が釣川に合流する辺りまで広がっている。
 そして、「稲元八幡宮」は、その南側に広がる水田地帯を、また「鹽竈神社」は、その西側に広がる水田地帯を守護するかのように見下ろせる日当たりのよい丘陵上に鎮座している。
 なお、もとの「鹽竈神社」は、現在地よりもっと高い場所に鎮座していたのではないかと思われる(明治34年9月以前)。

 [稲元、野添の地名]

 ・「稲元の地名」は、宗像地方における最初の稲作発祥地に由来するという説があり、それは上記釣川本支流が作り出す肥沃な耕地に裏付けられているが、前回記したように釣川の流れが、入海の名残であれば、当地、特に潮流を司る神「鹽竈神社」が鎮座する野添地区には稲作以前に砂浜、塩田があった可能性は高い。

 ・現在、「野添の地名」は存在していない(小字としては残っているかもしれない)が、河東コミュニティバス停の「野添三叉路」(稲元1丁目3・釣川右岸)や、釣川架橋の「野添橋」(福岡県道527号線)、「野添公民館」(稲元1丁目7・釣川左岸)などにその名が残っている。

 ・「野添の地名の由来」として字面から受ける印象は「野に添った地・緩やかな丘陵の斜面、縁」ということになり、野を農耕地(水田、畑など)「鹽竈神社」が鎮座する地区は、まさにこの印象に該当している。

 ・因みに、宗像市には、もう一か所、かつて「野添」といっていた地区がある。田熊橋(八並川架橋)から上釣橋(釣川架橋)に向かうバイパスの左(北)側(田熊北🚥あり)に位置する宗像市田熊6丁目である。
 現在、ここも「野添の地名」はなくなった(小字としては残っているかもしれない)が、「野添集会所」(田熊6-7-1・)や「野添公園」(田熊6-6-13)、宗像市営野添団地(田熊6-10-6)などにその名を残している。
 この田熊6丁目地区はその南側を流れる八並川に添った緩やかな丘陵の斜面、縁にあり、昔は八並川に添った地には一面に水田が広がっていたので、ここも上記印象に適合している。

 ・なお、耕地に面して日当たりがよく暖かく緩やかな斜面を意味するともいう朝鮮語の「ヌクソウ」に当てた日本語が「野添」であるという説もある。確かに、朝鮮半島に近く、古代、多くの渡来人が住み着いたと思われる宗像地方には、例えば「上八(こうじょう)」など朝鮮語に由来すると思われる地名もある。

 [貴船神社]

 ・釣川本支流に支えられ稲作が始まった稲元地区では、一早く農耕に欠かせない「貴船神社」…貴船大神・農水を司る祓いの水神(高龗神、闇龗神、水波之女命=水象女命)を祀ったものと思われる。

 ・宗像地方は、水神でもある宗像大神(宗像大社)の鎮座地なのに、敢えて貴船神社が数多く祀られた背景には、宗像三女神の一「湍津姫神」(多岐津姫神=瀬織津姫神)を貴船大神としたことがあったのではないかと思われる。
 (※別記参照→「波折神社を参拝(4)〜瀬織津姫大神」)


稲元八幡境内の貴船神社鳥居 ・稲元では、稲元八幡宮境内に「貴船神社が鎮座し、福岡縣神社誌にはこの外にも稲元八幡宮摂社となる「貴船神社」が載っているが、その鎮座地は、稲元3丁目か(別記予定)。
(※画像は、稲元八幡境内の貴船神社鳥居)


 「鹽竈神社」には貴船神社がないが、祭神の潮流を司る神・鹽竈大神は、水神でもあったのであえて水神の貴船大神を祀る必要はなかったのかもしれない。
 因みに、野添地区に隣接し、宗像大社の旧神田があり、米の集積庫や積み出し港があったという旧曲村(宗像市曲・宮田)には、別記したように高見神社境内や宮田地区に貴船神社が鎮座している。
 (※別記参照→「高見神社(宗像市曲)に行く(8)〜貴船神社」。
  →「高見神社(宗像市曲)に行く(9)〜宮田の貴船神社」。
  →「宮田の由来と唐津街道宮田峠及び赤間辻田橋(宗像市)」)。

 ※つづく→「鹽竈神社(考)その3〜境内 (宗像市稲元)」。

keitokuchin at 23:54|PermalinkComments(0)

2018年04月01日

「鹽竈神社」(考)その1〜概要・祭神(宗像市稲元)

1鹽竈神社 神社名:鹽竈神社・塩竈神社(しおがまじんじゃ)
 鎮座地:福岡県宗像市稲元1-11-43 (※画像1)
 祭神五柱:応神天皇、天児屋根命、素盞嗚神、猿田彦神、大歳神

 ※拝殿入口に貼ってあるプリントには次のように記してある。

 「塩竈(しおがま)神社〜河東村大字稲元字野添にあり。祭社:応神天皇(第十五代天皇)、見屋根命(文章の神)、素盞嗚神、猿田彦社(道案内の神)、大歳神。由緒不詳〜明治三十四年十月九日許可を受け同字内ニテ移転ス。祭日旧九月十三日(現十月十三日)。宗像郡誌より」。

 [神社名について]

2鹽竈神社額束  ・上記プリントには「塩竈神社」とあるが、境内の石鳥居の額束は「鹽竈神社」と刻しているので、本稿は鳥居の刻に合せて「鹽竈神社」(しおがまじんじゃ)と記す。(※画像2)

 ・なお、全国「鹽竈神社の総本宮」は、宮城県「塩竈市」にあり、「塩竈神社」と書くことも多いが、本来は、 幇迭社」で、時代とともに◆幇塔淇声辧廖↓「塩竈神社」と書かれ、さらにぁ岷釜神社」やァ岷釡神社」(誤用)となっている神社もある。


  [主神について(考)]

 ・上記祭神五柱のうち主神は「応神天皇」だと思われるが、本来「鹽竈神社」とは係わりのないと思われる応神天皇が主神となっている背景には、恐らく当社が旧宗像郡稲元村の産神・稲元八幡宮(主神:応神天皇)の摂社(※福岡縣神社誌に記載あり)であったことと係わっているのではないかとも思える。

 ・宗像地方にはことのほか、応神天皇を主神とする八幡神社が多く、応神天皇の出生地は宇美八幡宮(糟屋郡宇美町)とされ、その母神功皇后は香椎(福岡市東区)の女王とされ、宇佐八幡宮(大分県宇佐市)に葬られたと考えると、応神天皇は神功皇后とともに古代九州王朝(倭国)の系譜に属する大君で、当地を含む宗像地方は九州倭国に属した地区であったとも考えられる。因みに稲元八幡宮は、宇佐八幡宮から勧請したとの説もある。
 そう考えると古代宗像族がヤマト王権に従属しヤマト王権のために沖ノ島祭祀を行ったとする定説は疑問が多い。

 ・当社「鹽竈神社」の前方には、今も広い水田が広がっており、「稲元」の地名は、宗像地方で最も古く稲作が始まった地であることに由来するとも言われており、当地が歴史的に早くに開けた地区であることが伺える。

 ・当社「鹽竈神社」の本来の主神は、その社名からして、応神天皇ではなく、鹽竈神社総本宮の主神にして潮流を司る神(海洋神)「塩竈大明神・塩竈明神」だったと思う。
 宗像の地には海洋神・宗像大神がおられることも相まって、当地稲元にあった入海の海岸線や塩浜の後退(下記)とともに、この主神名が消えていったのだろう。

3鹽竈神社参道口 ・「塩竈大明神」とは、先代旧事本紀や日本書紀にある日本神話の神「塩土老翁」(しおつちのおじ)のことで、日本書紀では「塩筒老翁」とも書き、古事記では「塩椎神」(しおつちのかみ)と表記され、「事勝国勝長狭神」(ことかつくにかつながさ)の別名ともいう。

 ・「塩土(しおつち)」とは、「潮つ霊・潮つ路(潮流)」のことだとされているので、「塩土老翁 (しおつちのおじ)」とは「潮流を司る老翁神」=事勝国勝長狭神ということになるのか。


 ・因みに、宗像地方で「塩竈大明神」を祭る神社の一に「年毛(としも)神社」(福津市勝浦943)があるが、福岡縣神社誌は「鹽津智翁」の名を掲げている。
 年毛神社は旧勝浦村の産神であり、寛文6年(1666)頃に勝浦で塩田(約27ヘクタール)が開発されたとき、潮流を司る神(塩田・塩浜の守り神)として鹽竈神社総本宮(宮城県塩竈市)から「塩竈大明神」(鹽津智翁=塩土老翁)が勧請され、さらに明治44年(1911)に塩田が閉鎖された後も祭神の一として残ったのだと思う。

 ・ということは、「鹽竈神社」が鎮座する稲元1丁目(旧稲元村野添)は、現在、海岸線(玄界灘)からかなり離れたところにあるが、それは、かつて当地まで入り込んでいた入海(海岸線)が徐々に江口まで後退したことによるもので、ここには、塩浜、或は塩田(?)があったのかもしれない。現在、当地を貫流する釣川の本流が入海の名残だと考えられる。

 ・なお、上記年毛神社境内の案内板には、「塩竈大明神」を「猿田彦神」と記してあり、「鹽津智翁(塩土老翁)」の名が消えている。
 宗像地方は、海洋神「宗像大神」の鎮座地であり、塩田がなくなった勝浦においては、潮流を司る「塩竈大明神」の神名に「鹽津智翁(塩土老翁)」は不要とされたのだろうか。

 ・因みに、「猿田彦神」を主神とする「白鬚神社」においては、この「白鬚」と「老翁」を結び付けてか、その祭神名を「塩土老翁」としている例がある。
 これが「塩土老翁」と「猿田彦神」を同神と考えたことによるものであれば、逆に年毛神社においては、勝浦塩田閉鎖後、「塩竈大明神」の神名を「鹽津智翁(塩土老翁)」から「猿田彦神」に変えたのではないかとも考えられる。

 ・当稲元「鹽竈神社」の祭神五柱のなかにも「猿田彦神」の名があるので、年毛神社と同様に考えることもできなくはない。もしそうだったら当社の主神は「猿田彦神」ということになる。

 (※年毛神社については、別記参照→「旧勝浦塩田の製塩神・年毛神社(5)」〜「神功皇后と大海神、名児山、霊石等・年毛神社(4)」)。

 [四柱神について(考)]

 ・四柱神とは、上記「応神天皇」以外の祭神として掲げている「天児屋根命、素盞嗚神、猿田彦神、大歳神」の四柱である。

 ・上記プリントにある「見屋根命(文章の神)」については、これまで「見屋根命」という神名を聞いたことがないので、多分、「児屋根命」の「児」を「見」と見誤ったことによる誤記で、「天児屋根命」のことではないかと思う。
 また、同プリントには「見屋根命」に(文章の神)との注が付けてあり、「天児屋根命」は「文章の神」(言霊の神)としても崇敬されているので、この「見屋根命」が「天児屋根命」であることはほぼ間違いないだろう。

 ・「天児屋根命」は、「春日神」即ち古代藤原氏の始祖神とされているが、「素盞嗚神、大歳神(饒速日命)」は、古代物部氏の始祖神(天孫族神)であり、猿田彦神は、この天孫神を物部王国・剱岳(鞍手郡鞍手町八釼神社鎮座)に道案内した神として位置づけられる。
 (※別記参照→「平等寺白鬚神社の神霊:追記3「猿田彦大神の故地か」(宗像市)」。「平等寺白鬚神社の神霊:追記5「二つの天孫降臨」(宗像市)」)。

 ・当地方には、古代赤間物部などの物部氏の勢力があり、物部氏が当地を掌握し物部神が祭られていたが、平安時代に当地方に藤原氏の勢力が入り、物部氏を抑え、藤原氏の祖神「春日神・天児屋根命」が祭られるようになった。(なお、天児屋根命は、もとは大歳神・饒速日命の天孫降臨の従神)。
 かといって、物部神を始祖とした人々は、物部神を消すはずもなく今日に残った。この四柱神は、そのような歴史を語っているのかもしれない。

 因みに、宗像市王丸の妙見神社には、平安時代に「河内國牧岡社(牧岡神社)」から「天児屋根命」を勧請し主祭神の入れ替えを行ったような形跡がある。また、江戸時代の筑前福岡藩主黒田家も藤原姓を名乗っているので、この時代にも福岡藩内では春日神が入った例があると思う。
  (※別記参照→「王丸 妙見神社 (宗像市)」)。

 ※つづく→「「鹽竈神社」(考)その2〜稲元本村と野添(宗像市稲元)」。

keitokuchin at 00:17|PermalinkComments(1)