2018年05月

2018年05月31日

稲元八幡宮(13)〜旧拝殿跡と旧拝殿・絵馬等(宗像市)

 前回「稲元八幡宮(12)〜旧拝殿跡前の石燈籠、手水石、お潮井台、御神木等(宗像市)」から続く。

 (2) 中段の中央部分

1稲元拝殿跡上から観 …中段敷地面は、当初から稲元八幡宮の「拝殿」を立てるために稲元丘陵南端の急斜面(崖面)の中段を切り取って平らに整地した境内敷地だと思われる。(※画像1)

 現在、その敷地の中央部分に「旧拝殿の跡(枠石と礎石)」が残っている。


 また、その奧部(突当り部分)は、本殿下の崖面(下部に石垣、中央に本殿用石段あり)で遮られている。

 ・「旧拝殿跡地(礎石)」

2稲元拝殿跡と本殿 〜中央部に、長方形(横長)に囲む枠石があるが、この枠内にかつて稲元八幡宮の旧拝殿が建っていた。

 枠石の手前の外側に沿って敷き詰めてある瓦(瓦を重ねて横に並べ一部埋め込み固定)は、旧拝殿の廃瓦だと思う。(※画像2)


 〜この枠石の内側には、往時の拝殿の柱の礎石が残っているが、1列8個の礎石が奥(北)に向かって3列に並んでいるので、ここに「奥行(南北方向)二間×横(東西方向)七間」(横長)の拝殿が建っていたことが分かる。
 なお、筑前國續風土記附録には「社拝殿二間三間」とあるので、安政七年(1860)再建時に上記のように大きくなったということか。

 ・「旧拝殿の建築と撤去の年」

 〜この拝殿の建築と撤去年は、次のようである。(稲元八幡宮むすび会の記録による)。
  ^太七庚申年(1860) 拝殿再建。
  ∧神21年(2009) 渡殿倒壊撤去。
  J神26年(2014) 拝殿解体撤去。

 …拝殿解体撤去の遠因となったことは、上記△砲茲渡殿の倒壊、撤去であった。
 拝殿の中央後背部にあった「渡殿」を撤去したことで、建物の前面と背面との重量バランスが不均衡となり、建物全体が前面に大きく傾いた。
 梁より上部の不合はなかったので、建物外側の軒等につっかえ棒などを立て傾き防止等をしていたが、5年経過し倒壊危険度が高まり解体撤去された。この間、補修の検討がされていたが、最終的には補修経費の捻出ができず断念され、ここに築154年の拝殿が消滅した。

 ・「旧拝殿の形式と渡殿」

 〜因みに「拝殿の形式」は、切妻造桟瓦葺、割拝殿(奥行より正面の横巾が長い)だったという。
 
3稲元拝殿跡1本殿石段 「渡殿」は、本殿直下の石段の上り口の前にあり、幣を手向ける棚が設けられていたので、ここから石段の上方を見上げて本殿を礼拝する「幣殿」でもあった。

 ただし、この石段は、参拝者が上下するようなものではなかった。(※画像3)


 ※小生は、この拝殿が建っていた頃にも度々当社を訪れており、この横長の拝殿を見る度に、すごく威圧感を覚えていた。
 因みに横長の拝殿は、伊麻神社(宗像市吉田)で見たような記憶がある。

 ※平成22年(2010)6月15日の小生の日記に次のようなことを書いていた。
 …「城西ヶ丘入口🚥の先、山田川右岸の旧道に停車。歩いて稲元八幡宮に向かう途中、晴天の空が急に暗くなり慌てて引き返す。同時に雷鳴と大粒の雨、浄めの夕立か。小降りになるのを待ち、今度は車で神社下へ。
 急斜面の石段を上ると、その真上に建つ横長の拝殿が行く手を遮るように立ち塞がる。何度となく訪れているが、この拝殿にはいつも威圧感を覚える。この日、拝殿内に入れなかったが、建物自体がやや前のめりになっているようにも見えた。」(※当時の写真はないが、丁度、渡殿が撤去され、拝殿が傾きだした頃)。
 
 ・「絵馬」

 〜旧拝殿は「絵馬堂」を兼ねており、壁面の雨戸は常時閉められていた。
 建物内部の鴨居や梁に「八幡宮」の神額や数枚の「絵馬」等が掲げられていたことは記憶しているが、その詳細は覚えていない。

 …「稲元の歴史年表」を見ていたら、絵馬に関する次の記載があった。
  (言七年(1824)九月、八幡縁起絵馬一面を稲元の八幡神社へ寄進
  天保十一年(1840)七月、合戦図絵馬一面を稲元の八幡神社へ寄進
  0太五年(1858)三月、常盤御前図絵馬一面を稲元の八幡神社へ寄進
  に延元年(1860)二月、桜下武者図絵馬一面を稲元の八幡神社へ寄進

 〜旧拝殿が再建されたのが、安政七年(1860)だから、 銑の絵馬は、それより古い。

5桜下武者図 い痢桜下武者図絵馬」は、安政七年=万延元年(1860)なので、この年の拝殿再建を祝し寄進奉納されたものかもしれない。(※画像4)

 ※小生の余談〜この「桜下武者」が誰との説明はないが、桜+武者から思い浮かんだのは「義経千本桜」(人形浄瑠璃や歌舞伎の演目)の源義経である。ただし、逃避中の義経が吉野山で静御前と別れたのは文治元年(1185)暮れ、桜の開花時季ではないので、想像上の義経にしておきたい。 



6三十六歌仙源信明 〜絵馬堂があった当時に撮った絵馬の写真はないが、平成28年(2016)6月に訪れた海の道むなかた館の特別企画、「平成二十八年度春の特別展 稲元八幡宮と地域遺産」のチラシに載っていた2枚の絵馬の写真ををここに転写しておく。

 「桜下武者図絵馬」(上記)(※画像4)
 「三十六歌仙図(源信明/みなもとのさねあきら)」(寄進年不詳) (※画像5)


 ※つづく→「稲元八幡宮(14)〜旧拝殿跡後部の石段、鳥居、庚申塔(宗像市)」。

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2018年05月30日

稲元八幡宮(12)〜旧拝殿跡前の石燈籠、手水石、お潮井台、御神木等(宗像市)

前回「稲元八幡宮(11)〜八幡宮鳥居、由緒板、新拝殿等(宗像市)」から続く。
 前々回、境内を便宜的に三段に分けたが、前回の下段(踊場)部分に続き、今回は、中段(旧拝殿跡地)部分に配置されている個々についての覚えを書き留めておく。

 (1) 中段(旧拝殿跡)の前
  …表参道石段の上段・旧拝殿跡(礎石)の前庭部分(旧拝殿跡の前面と手前の崖との間、約3m巾)に、「石燈籠」一対、「手水石」各一基、「お潮井台」が配置、及び「御神木」がある。

 ・「表参道石段の(頭部)標石」

1稲元表参道石段標 〜下段(踊場・稲元八幡宮石鳥居)から上、急傾斜の「表参道石段(38段)」を上り詰めると、その石段の頭部(両脇)に「標石」がある。
 その刻字から、この石段が「大正十四年(1925)」に設置されたことが分かる。
(※画像1)


 ・「旧拝殿の前の石畳(踏み石)」

2稲元拝殿跡前灯篭 〜旧拝殿の中央部(旧拝殿入口があった部分)の前の地面に、上り詰めた表参道石段の上から旧拝殿入口まで続く石畳(敷き詰めた踏み石)がある。(※画像2)

 旧拝殿があった部分は、囲み石で横長の長方形に囲まれ、礎石が残っているが、これについては、下述(次回掲載)する。


3稲元中段右手水石燈籠 ・「石燈籠」

 〜表参道石段標石の両サイドにある。
 …「安永四未(1775)十二月寄進」。
(※画像2.3.5)

 ・「手水石」(右)

 〜同上標石の右側にある。楕円形のさざれ石(か?)の上部を、波型に刳り貫いたような形のもので珍しい。
 雨水、落ち葉が溜まっている。刻銘なし。
(※画像2.3)


4稲元旧拝殿跡前手水石左  ・「手水石」(左)

 〜同上標石の左側にある逆台形の手水石で、横に水道が施設されているので、現在も使用されており、水道水による手水ができる。
 …「天明八戌申(1788)寄進」。
(※画像4)


  ・「お潮井台」

5稲元中段左灯篭手水お潮井台神木 〜同上の左側にある。廃棄されたものと思われる「石燈籠の笠」の部分を逆さに置いたもので、上部に窪みがあり、ここにお潮井(神湊の浜砂など)を置く。
 また、この脚台の部分は、折損鳥居の柱の一部分(刻銘なし)を逆さに立てたものである(往古の祇園宮鳥居との説もある)。


 これら二つの廃材を活用して設えたもので珍しい。(※画像4.5)

 ※「お潮井取り」は、別記→「稲元八幡宮(9)〜稲元の川祭り神事(宗像市)」。

6稲元貴船石段上から見下ろす ・「御神木」

 〜同上、お潮井台の横に生えている背丈の高い樹木。注連縄が張られているので、この樹が御神木か(?)。(※画像5.6)

 このほか上段部分でも注連縄が張られている樹木を見たので、はっきりしたことは分からないが、一応、次の神木に関する記事を転記しておく。
 筑前國續風土記附録「境内に神木杉一株(二圍)あり」。
 同拾遺「社内に神木の杉有。二囲斗」。

※つづく→「稲元八幡宮(13)〜旧拝殿跡と旧拝殿・絵馬等(宗像市)」。

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2018年05月28日

稲元八幡宮(11)〜八幡宮鳥居、由緒板、新拝殿等 (宗像市)

前回「稲元八幡宮(10)〜参道、境内を段区分(宗像市)」から続く。

 前回、境内を三段に分けた。今回は、そのうちの「下段」踊場部分に配置されている個々についての覚えを書き留めておく。

 (1) 下段踊場の中央部分
   …表参道石段(10段+8段)の上の踊場(下段)の中央部分。

2-2稲元八幡宮鳥居・由緒板 ・「八幡宮石鳥居」

 〜明神鳥居、額束[八幡宮]刻、文化十年(1813)癸酉五月建立。

 …稲元八幡宮の「一の鳥居」ともいうが、八幡宮の額を掲げる鳥居は、このほかにはない。



 ただ、この先の石段(38段)の上(旧拝殿跡がある中段部分)の左・右に「貴船神社の石鳥居」と「祇園宮の石鳥居」があるので、これらを「二の鳥居」と称することはできる。

 (2) 下段踊場の左側部分
  …この場所(踊場の左側)は、表参道石段(8段)の左側に並んで設置してある石段(4段)の上にあるので、かつて境内社祠があったような雰囲気もある場所。

 ・「稲元八幡宮由緒板」

 〜「[御祭神] 應神天皇(おうじんてんのう) 比彗膺(ひめおおかみ・宗像三女神) 神功皇后(じんぐうこうごう)

2稲元八幡宮 [由緒] 古、豊前国(大分県宇佐市)宇佐神宮をこの地に勧請し、歳を経て天正十一年(一五八三)に宗像大宮司氏貞が社殿を造営した。
 現在の本殿は、元禄十年(一六九七)に再建したもので、「大工鐘崎蒲(宗像市鐘崎)五兵衛」と置札に記されている。

 小振りではあるが、彩色も鮮やかに紅を塗り上げた元禄期の手法を良く伝える神社建築である。三間社流造、銅板葺、建坪十六・六五平方メートル。
  [末社二宇] 右横 須賀神社、厳島神社、海住神社、合祀一社。
左横 貴船神社、大歳神社、山王神社、合祀一社。
  [社宝] 滑石製経筒(国指定重要文化財)『鎮西筑前国宗像宮内稲本村仁平四年(一一五四)九月二十三日』の銘が刻まれた平安時代末期の作で、総高四四センチ、筒身口径十一・四センチ、円柱形筒身・方形屋根形蓋珠附。明治三十五年(一九〇二)稲元八幡宮脇、表参道改修工事で発見された。
 平成二十三年七月吉日 稲元八幡宮むすび会」。


1稲元八幡宮鳥居周辺 「稲元八幡宮むすび会」について、関係者に聞いた。
 平成20年(2008)4月〜28年(2016)3月までの8年間、「地域の文化財は地域住民の手で守り伝える」をスローガンに活動を続け、稲元八幡宮の資料整理、環境整備、清掃、百手祭・川祭り・宮座等の祭事や各種イベント(竹の子堀、茅の輪くぐり、門松作り、どんど焼きほか)の実施などを行い、地域と神社のつながりを深めた功績は大きい。その間には、傾いた旧拝殿の保存か撤去かに係わる苦渋もあったと推察する。なお、旧拝殿は、平成26年(2014)撤去された。


3稲元参宮寄進碑 ・「伊勢参宮紀念・寄進碑」

 〜(正面)「寄進 八幡神社境内土地貮拾五坪・櫻樹参拾本寄進 瀧口惣右エ門 瀧口代右エ門 瀧口孫太郎 瀧口啓右エ門 瀧口大七◇ 瀧口弥◇◇ 瀧口恵◇◇ 吉田菊次郎 吉田均」
 〜(左横面)「明治二十八歳伊勢參宮同行紀念」



4稲元参宮碑・小絵馬飾り台 …この時代、伊勢神宮参拝は一生一度の一大信仰イベントだったようで、多くの神社で記念(紀念)碑建立や絵馬奉納等の習慣があったが、当社では、参宮に詣でた瀧口一族、吉田一族の人たち9人が土地と桜樹を寄進し境内整備を行いこの碑の建立したことが伺える。

 現在、境内で2、3本見られる桜の古樹は、このときのものなのだろうか。


 ・「小絵馬飾り吊り下げ台」
  …50枚ほどの小絵馬飾りが板面に吊り下げてある。一枚一枚に祈願文と氏名等が書き込んであるが、読まないことにしている。

 (3) 下段踊場の右側部分
   …すぐ右下に段差があり石垣が組まれ、隣地の萬福寺と境界が接しているので、上記(2)の左側部分ほどの広さはない。

5稲元新拝殿 ・「新(小)拝殿」
 〜本殿を遥拝する小さな堂、木造スレート葺、吹き抜け格子壁3面あり、前面開放、吊り鈴緒あり。古い「賽銭箱」設置あり。
 …平成26年(2014)6月、境内中段部分に建っていた(旧)拝殿が傾き撤去されたとき、同拝殿に替わるものとして、八幡宮鳥居の右柱の後方に新設されたもの。

新拝殿賽銭箱 新拝殿の床に、建物の大きさに似合わないほど大きな「古い賽銭箱」が置いてあるが、これは、取り壊された(旧)拝殿に置いてあったものを移したもので、前面に[奉献]の刻がある。
 このような話を聞くと、「よくぞ残った」と思えて、とても嬉しくなる。合掌。
 

 ※つづく→「稲元八幡宮(12)〜旧拝殿跡前の石燈籠、手水石、お潮井台、御神木等(宗像市)」。

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2018年05月27日

稲元八幡宮(10)〜参道、境内を段区分(宗像市)

 前回「稲元八幡宮(9)〜稲元の川祭り神事(宗像市)」から続く。

 [参道]

1参道口標示板 ・福岡県道69号線(宗像玄海線)の「稲元バス停(西鉄)」の西寄りにある「稲元橋」の北側、山田川右岸(宗像市稲元4-9-28付近)に「稲元公民館 秀光山萬福寺 八幡宮→」と書いた標示板が立っている。
(※画像1)。



2稲元参道石段上から広場を見る ・この稲元橋のたもと、山田川右岸からすぐ北に入る路地(里道)の入口(稲元八幡宮「表参道口」)からまっすぐ110m進む路地が稲元八幡宮「表参道」である。

 ・その突当りに「広場」(駐車可)があり、その広場の正面から、稲元八幡宮(宗像市稲元4-7-2)の境内の崖状斜面(急斜面)を上る「表参道石段」(八幡宮石鳥居あり)がある。
(※画像2)





 ・この最初の石段(10段)の上から、境内丘陵を左(西)に回って上る坂道(脇参道)の入口がある (※画像3)。

3稲元八幡一鳥居前、左西脇参道坂道 ・この坂道は、この坂口より上に続く「表参道石段(八幡宮石鳥居あり)」を上らずに、境内丘陵斜面の西端を上り、直接、境内上段の左側から本殿などに行くことができる、言わば「西側の脇参道(坂道)」である。




 ・なお、この坂道は、そのまま「裏山」の西端を通る「山道」に続いているが、この山道が、かつての「裏参道」だと思うが、現在は参道ではない。(※山道に入るとすぐ二股に分かれるが、右は孟宗竹林のなかで行き止まり、左を直進すると、竹林で通行止めとなる。また左右に下りる道は叢に埋もれている。)
 ただ、この孟宗竹林で、あまり枯竹を見かけなく、途中までは踏み跡がはっきりしているので、竹林管理の道となっているのかもしれない。

 ・境内上段より東方の丘陵の端(稲元4丁目10)から萬福寺の右側を通り上記「広場」に通じる山道があるが、この道はさしずめ「東側の脇参道」となるのか。
 ・以前、境内上段の須賀神社の右後方から裏山の孟宗竹林内に入れる道があったが、今は閉鎖されている。

 [境内区分]

4稲元1鳥居全景 ・稲元八幡宮の本殿は、稲元丘陵の南の縁(崖状斜面)の上段に鎮座しているので、上記のようにその縁を石段か坂道の参道を上らねばならないが、ここは、孔大寺山の南陵(やや西寄)から伸びたに丘陵の末端部になる。
(※画像4)。

 ・そして、当地は、今でも中谷中浦谷といった呼称でよばれることがあり、この崖状斜面が、もっと川幅の広かった山田川(釣川水系)によって削られた河岸段丘であった可能性も伺えなくもない。


 ・「参道石段」は、この崖状斜面に沿って、広場から10段(→西脇参道口)+8段…右別4段(→八幡宮石鳥居)+38段(→旧拝殿跡)+中央32段(→本殿)…この左31段(→貴船神社)、同右32段(→祇園宮・須賀神社)と上に行くほど急な石段となって続いている。

 ・上記の「八幡宮石鳥居」がある部分を「下段」として、「上段」部に向かって次のように便宜上、3区分して、次回以降、各所に在る個々のものについて気付いたことを書きとめておくことにする。

  下段〜八幡宮石鳥居、新(小)拝殿(本殿遥拝所)・賽銭箱、由緒板、参宮祈念寄進碑、小絵馬吊るし台などあり。
  中段〜旧拝殿跡(礎石)、庚申塔、貴舩神社石鳥居、祇園宮石鳥居、お潮井台、手水鉢、石燈籠、神木などあり。
  上段〜八幡宮本殿、貴船神社・大歳神社・山王神社の社殿、石祠、須賀神社・厳島神社・海住神社の社殿、狛犬、幟立石、石燈籠、手水鉢、滑石製経筒出土場所標識、西脇坂道〜裏山西端山道出入口などあり。
 ※なお、この後背部に、既述した裏山神域(雑木、孟宗竹林、西端山道など)がある。

 ※つづく→「稲元八幡宮(11)〜八幡宮鳥居、由緒板、新拝殿等 (宗像市)」。

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2018年05月23日

稲元八幡宮(9)〜稲元の川祭り神事(宗像市)

 前回「稲元八幡宮(8)〜滑石製経筒(その2)」から続く。

 [旧:川祭りは春夏]

 ・稲元八幡宮の「表参道口」は、福岡県道69号線「稲元橋」の北側…山田川右岸の川岸(宗像市稲元4-9-28付近)にある。
 ・「山田川」は、釣川の一支流で、この二流は稲本ではほぼ並行して流れ、下流(宗像市多禮の西方)で合流するが、その昔は、稲元八幡宮の辺りで合流し、川幅の広い流れを形成していたのかもしれない。

 ・釣川とその支流(山田川、高瀬川、朝町川など)域にある各農耕地域にあっては、かつては、川そのものを稲作・農耕にとって必要な水の恵みをもたらす「水神さま」として、川の辺に貴船神社等を祭祀し、春と夏に、食の生産を神に感謝する「川祭り」を行っていたようだ。

 ・稲元八幡宮が鎮座する稲元中谷(中浦谷)地区(現稲元4丁目)では、水の恵みをもたらす水神さま(貴船神)とその生産の向上をもたらす保食神(大歳神)に感謝の意を捧げる「川祭り」を、かつて春と夏に(…春の川祭りは、稲本八幡宮境内で、秋は、参道口にあたる山田川の辺りで)行っていたようだ。

1稲元貴船・大歳神社 ・貴船神と大歳神は、稲元八幡宮境内社の「貴船神社、大歳神社」(※画像1) に祭祀されている。

 うち、大歳神は、保食神とされ、田神 としても尊ばれる(※春、夏に孔大寺山などから下りてきて福をもたらす年神か)。



 だが、大歳神は、もとは、養老4年(720)に完成した日本書紀の編纂を指揮した藤原不比等(659〜720年)らによって日本の歴史からその名を抹消された物部氏祖神・饒速日命(大歳命)である。
 当地は、古代、赤間物部の所管地だったので、ひょっとしたら「大歳神社」は、当地で最も古くに鎮座した神社だったかもしれない。

 [旧お潮井取り]

 ・かつて春の川祭りでは、神湊に「お潮井取り」に行っていたと伝わる。

2お潮井台ほか稲元拝殿跡前部 ・稲元八幡宮の旧拝殿跡の左手前に「お潮井台」があるので、当時、神湊で採取した潔斎の浜砂をここに載せたのだろう。

 (※画像2:右端の若干窪みのある平らな石台が「お潮井台」…ただし、石燈籠の笠を逆さにした代用品、脚部は折損石鳥居の柱)


 ・お潮井とは、海岸で海水、浜砂、海塩などを採取し、お清めの神事(潔斎)を行うという習俗である。

3稲元須賀神社 ・「お潮井取り」というと博多櫛田神社祇園宮(須佐之男命)の山笠における箱崎浜のお潮井取りの神事が思い浮かぶが、稲元八幡宮境内にも:素戔嗚命=須佐之男命を祭神する祇園宮=「須賀神社」があり、このお潮井取りを伴う稲元の川祭りは、この「須賀神社」(※画像3)と大いに係わっていたとも考えられる。


 ・私は、海岸で行う「お潮井取り神事」は、その神が海(あま:天)から渡って来た天孫族であることを示していると思っているが、その神である天孫族の須佐之男命の上陸地が「神湊」だったので、この湊の浜で「お潮井取り」を行うという習俗が引き継がれてきていたのだろうと思っている。
  (なお、櫛田神社山笠の潮井取りは、神湊に代えて後世鎮座した箱崎宮前の箱崎浜で行うようになったものか)

 ・因みに、須佐之男命(素戔嗚命)は、新羅の第二代国王「朴南解次次雄(ススン又はスサン→スサノオ)」(※吉留路樹「史話日本と朝鮮」)で、その第二子五十猛(イソタケル)命(大屋彦命)の軍団とともに渡来、神湊〜勝浦港にかけて上陸した。
 ・また、それに先立ち渡来したのが、その第五子大歳命(饒速日命)で、鐘崎・上八辺りに上陸したのではないかと想像している。すべて物部氏の祖神となる神々である。
 ・もし当地区の「川祭り」に古い起源があるとしたら、当地を所管した古代物部氏(赤間物部も知られている)の祭祀に遡ることになるのだろうか。

 (※別記参照→「平等寺白鬚神社の神霊:追記5「二つの天孫降臨」(宗像市)」)。

 [川祭りの現況]

4山田川祭り神事地 ・かつて稲元中谷で行われていた春・夏の「川祭り」は、今は規模が縮小され、年1回(毎年10月9日)のみとなり、山田川架橋の「下(しも)の橋」(※上記表参道口から70m下る)の近くの川岸(稲元4丁目6-23付近)で神事を行っているという。
 (※画像4: 現在、川祭り神事が行われている山田川の川岸)。


 ・私は、この「川祭り」の様子を実際に観たことはないが、「平成28(2016)年度海の道むなかた館春の特別展」で観たパネルの記事と写真の一部を、以下に書いておく。

 ・「稲元の川祭りは、稲元の中谷地区の行事で、貴船神社・大歳神社の祭りとして、明治25年(1892)以降の記録が残されている。」
 ・「春は、神社で今年も田畑が台風などの風水害や害虫の被害を受けず豊作であることを祈る。また神湊までお潮井取りにも出かける。」

5川祭り神事祭壇 ・「秋、山田川のほとりで青竹(先端に葉を残した篠竹)を四方に立て、(結界として)注連縄を張って(紙垂[しで]や藁[わら]をたらし)、祭壇(供物をのせる棚)をつくり、(稲元ではテボ[籠]に入れた三角むすびとカケノイヲ[掛魚=鯛]の御供)と、お神酒、米、野菜、塩、水を供えて、稲作にかかわる神々を呼び出して、春からの農事が無事に終わり、豊作となったことを感謝する神事を行う。」

 (※画像5は、上記特別展に展示されていた稲元の川祭りの祭壇の見本)。



  [付記] 筑前國續風土記拾遺に「昔ハ神幸有。御輿居の石とて長四尺五寸横三尺三寸の石、本社の坤(※ひつじさる・南西)半町斗に有。其側に棟(ムナ)の大木有。」との記載があり、往古の川祭りと係わるものかもしてれないと思ったが、同所云々一切不詳。

 ※つづく→「稲元八幡宮(10)〜参道、境内を段区分(宗像市)」。 

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2018年05月18日

稲元八幡宮(8)〜滑石製経筒(その2)宗像市

 前回「稲元八幡宮(7)〜滑石製経筒(その1)」から続く。

 [滑石製経筒出土場所]

稲元石経筒発見地表示板 ・「(国指定重要文化財) 滑石製経筒出土場所」と書いた木柱の表示板が、稲元八幡宮(宗像市稲元4丁目7-2)境内の最上段(本殿敷地段)の左方(貴船神社の左方)に建っている。(※画像)
 厳密にいうと、滑石製経筒が実際に出土した場所(地点)はここではないらしい。


 ・実際に、この滑石製経筒が出土した地点は、この場所の左後方の坂道(裏山の西側の脇道)らしいが、明治35年(1902)10月1日のことで、当時の正確な出土場所の記録はないと思う。
 ・この裏山の丘陵の西縁辺に山道を作る開削(改修ともいう)工事中に、地表面を1mほど掘り下げたとき、突然、直立状態で現れたといわれ、まさに偶然の発見であり、工事人が誰だったかは分からないが、当時、この出土地の正確な記録が必要だとは誰も思わなかったと思う。

 ・なお、この西裏の山道は、裏山(神域)の後方、及び後方左右等に居住する人たちに稲元八幡宮参拝の便を図るために作られた裏参道だったのかもしれないが、現在は、裏山の後方一帯の開発により地形が変わり、直進道の途中遮断や左右に下る脇道も叢に埋もれ、参拝道としての役割はなくなっている。また裏山を覆う孟宗竹が山道に張り出すなどもあり荒れている。

 [発見以後の経緯(保管、国重文指定など)]

 ・平成28(2016)年度海の道むなかた館春の特別展「稲元八幡宮と地域遺産」の展示パネル「国指定稲元の経筒」に、本項に係わる詳細な経緯が書かれていた。そのとき会場でパネルを見ながら書いたメモを以下転記する。
  明治35年(1902)10月、発見後の「滑石製経筒」は、地元稲元中谷区共有財産とされ、萬福寺本堂祭壇隣に置き保管。
  昭和7年(1932)、裏山の頂部に生えていた一本松(筆松)が落雷を受け枯れたため、その材木で経筒格納箱の製作と稲元八幡宮拝殿を増築。
  昭和13年(1938)頃、田中幸夫教諭(宗像高等女学校)が萬福寺で経筒の刻銘文を見て、その重要性を鑑み福岡県文化財保護委員会に連絡。
  昭和14年(1939)9月8日、同委員会の調査結果に基づき国指定文化財。
  昭和25年(1950)8月29日、戦後の文化財保護法により改めて「国指定重要文化財(考古資料)」となる。
  昭和32年(1957)、京都国立博物館出品。
  昭和33年(1958)、福岡スポーツセンター展示。
  昭和39年(1964)11月、宗像大社宝物館(開館)に寄託。
  昭和55年(1980)11月、宗像大社神宝館(開館)に継続寄託、現在至る。
 ・稲元経筒の記事:「筑前宗像郡稲元発見の経筒(田中幸夫)」考古学第9巻3号(1938)・「稲元の経筒について(滝口正)」宗像第14号掲載(1962)。

 ※つづく→「稲元八幡宮(9)〜稲元の川祭り神事(宗像市)」。

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2018年05月17日

稲元八幡宮(7)〜滑石製経筒(その1)宗像市

前回「稲元八幡宮〜稲元八幡宮(6)〜稲元丘陵の遺跡(宗像市)」から続く。

[滑石製経筒概要]

 ・別記「稲元八幡宮(2)〜稲元(稲本)由来(宗像市)」に「稲元」の地名の前身は「稲本(稻本)」で、「史料にみる稲本(稻本村)の初見は、明治35年、稲元八幡宮の西裏道で発見された仁平四年(1154/平安時代後期)の滑石製経筒(かっせきせいきょうづつ)の外面刻銘にある『宗像宮内稻本村』だという」と書いた。

 ・経筒の総高は44cm、筒身口径は11.4cmで、 ̄瀉豬(円筒形)の筒身、∧形の屋根形蓋、J珠の三部の組み合わせでできており、台座がないが、筒身の下端にほぞがあるので、もとは木製の台座があり、土中で腐れて消滅したのではないかと推測されている。

 ・発見当時、その周りに木炭が詰まっていたというが、その木炭を掘り出して保存しているという記録はないので断定はできないが、それは、土中で炭化した台座だったのか、それともほかに意味があったものだろうか。

稲本滑石製経筒イラスト ・この「滑石製経筒」(稲元区所有)は、平安時代後期作の貴重なもので、昭和14年9月8日国の重要文化財・考古資料に指定された。
 現在、「宗像大社神宝館」に保管、展示してあり見学できる。(※指定経過等は次回掲載)。

 ※画像は、稲元区の滑石製経筒の手書きイスラスト。〜宗像大社神宝館内は撮影禁止のため、「宗像遺産 文化遺産編」の掲載写真を見ながら描いてみました。


 ・稲元で発見されたので「稲元滑石経筒」ともいわれる。刻字を主体に言えば「稻本滑石経筒」となるが、単に「稲元石経筒・稲元石経筒」と呼ばれることもある。

 ・因みに【滑石】(かっせき)とは、三省堂大辞林によると「マグネシウムのケイ酸塩を主成分とし最も柔らかい鉱物の一。白色・淡緑色・灰色を呈し絹糸状の光沢がある。…」とある。

 [筒身の刻銘]

 ・滑石製経筒の外面(筒身)を巡るように次の銘文が針書きで刻してある。
 (※注)下記の段落は、読みやすくするために私が勝手に区切ったもの。

  白衣弟子綾清宗井紀氏敬白
  奉如法書写妙法蓮華経壹部八巻
  右善根之意趣者
  鎭西筑前之國宗像宮内稻本村居住綾清宗
  井紀氏現世安隱後世菩提供養如右
   仁平四年九月廿三日

 [時代背景]

 ・平安時代(794〜1185)後期の「仁平四年」(1154)に作られた経筒が、当時、宗像宮(=宗像大社・以下「宗像社」と書く)の根本神領(※下記参照)であった稻本村(稲元)の当地に埋納されたとすると、永承7年(1052)を末法元年として始まった末法思想が、その100年後の宗像地方にも広まっていたことが分かる。

 ・当時の宗像地方の状況は分からないが、頃は武士団が台頭し始める時代で、宗像地方でもその兆しがあったかもしれず、先行きの分からない時代となっていたと思う。
 確かに、この後、平安末期にかけて宗像社(宗像大社)の氏族の武士化もあり、台頭した平氏、或は源氏に付いたりして去就の定まらない不安定な時代を迎えることになるようだ。

 [経塚造営]

 ・この時代、仏教経典を入れた経筒を埋納するとき、その場所に塔や碑を建て経塚造営を行うことが一般的だったともいわれる。

 ・だが、この稲元の滑石製経筒は、明治35年(1902)10月1日、稲元八幡宮の西側の裏道の開削造営中に地下三尺(90cm)〜1mの土中で発見されたとき、単独で出土したとはあるが、地上に「経塚」があったとの記録はない。

 ・発見時、経筒の周りを充填する木炭があったといいい、もし、この木炭が、私が上記に推測したように木製台座の炭化物ではなかったとしたら、例えば木製の木箱に入れられていたとかの推測もできるが、無造作に埋納されたものではなく、当初は、地上に土盛りした「経塚」の形はあったのかもしれない。

 [埋納者・稲本村居住]

 ・「綾清宗…右善根之意趣者鎭西筑前之國宗像宮内稻本村居住」とあるので、善根之意を趣として当地に経筒を埋納した者は、鎭西(九州)筑前之國の宗像宮(宗像大社)神領内の稻本(稲元)村に居住している「綾清宗」なる人物である。

 ・もし冒頭の「白衣弟子」を神仏に仕えるものと解釈できたら、この人物は「宗像社」の神官か、当時、宗像社の番外社だった「稻本八幡宮」の神官だったとも考えられる。いずれにしろ稻本村の有力者だったことには違いないだろう。

 ・一般的には、綾氏は、 景行天皇の皇子日本武尊の孫爾彌麻命を祖とし、その後裔が讃州藤原氏となったとされる。因みに、九州には景行天皇や日本武尊の伝承地が多く、福岡県北部には、日本武尊を祭神する八釼神社も分布する。

 ・しかるに、「井紀氏敬白」「井紀氏現世安隱後世菩提供養如右」とあり (「井」ははっきりしないが)、埋納者綾清宗が「紀氏(きし)」であり、紀氏一族の現世利益と未来の安寧を願って埋納したのではないかと推察できる。

 ・例えば、宗像大社内にある松尾宮(松尾神社)を奉斎したのが「紀氏」であったとしたら、この埋納者綾清宗は、九州倭国(九州王朝)につながる「姫氏(きし)」であったかもしれない。
 ※別記参照→「酒多神社と倭国(九州王朝)姫氏 (福津市)」。

 ・天照大神が九州倭国につながる神であったら宗像三女神は、素戔嗚命(新羅王の系譜)を通して物部氏ともつながり、また松尾宮の三女神の一市杵島姫命(中津島姫命)は、大山咋神(物部神)とつながる。
 さらに稲元八幡宮の祭神の一神功皇后(新羅人の系譜)も九州倭国と係わる人物だったのではと思っている。稲元は、古代物部氏の一赤間物部が所管した地だったと思う。稲元八幡宮には、もとは物部氏の祖神饒速日命を祀ったのだと思われる大歳神社や同素戔嗚命を祀る須賀神社も鎮座している。

 [弥勒菩薩の神聖地・法華経]

 ・経筒に「稻本八幡宮」の文字がないので、当時既にここに中世宗像社の番外社だったといわれる八幡宮が鎮座していたのかは分からないものの、鎮座していたと推定した上で、少なくともこの境内の高所(崇高な孔大寺山陵の一稲元丘陵末端の崖上)に「経筒」が埋納されたということは、この地が世の末(末端)・末法の世を救う未来仏「弥勒菩薩」出現の聖地であると認識されていたことは確かであろう。

 ・先に「稲元八幡宮(4)〜霊地・神域、孔大寺山陵(宗像市)」に「孔大寺山(宗像五社の一・孔大寺神社鎮座)の南方西寄山稜の末端部にある稲元八幡宮の西側の山道で滑石製経筒(平安時代埋納/別記予定)が発見され、弥勒菩薩信仰があったことが伺える」と書いたのは、このことを意識してのことである。

 ・「奉如法書写妙法蓮華経壹部八巻」とあるので、経筒に納めたのは、法華経の一部書写であったことが分かるが、同書は土中で消滅したのか、経筒の中から同書が発見されたという記録はない。

 ・末法の時期あっても現世利益を説く法華経が納められるのは、「正像やや過ぎ終って末法甚だ近きにあり法華一乗の機、 今正しく是れその時なり何を以て知る事を得ん安楽行品 にいわく末法法滅の時なり」と説く『末法燈明記』によるものか。
 同書は天台宗の説法ともいうが、正に天台宗は、平安時代後期の二大仏教宗派の一で天台法華宗、単に法華宗とも呼ばれた。

 ・因みに稲元と直接関係はないと思うが、近隣で天台古寺の経筒出土といえば、糟屋郡須惠町(宗像市須恵と同じ須恵器窯による発祥か)にある佐谷建正寺(佐谷観音堂・木造十一面観音立像)がある。平安時代、唐から帰国した最澄(伝教大師)創建の天台宗古寺である。
※別記参照→「佐谷観音堂(建正寺)の経筒と板碑など〜須惠宝満宮(須惠町)」。

 [宗像荘稲本村・宗像社根本神領ほか]

 ・「鎭西筑前之國宗像宮内稻本村」とあるので、稲元(稲本村)が中世、宗像社の根本神領である「宗像荘」の一であったことは確かである。
 中世、宗像社の根本神領「宗像荘」に含まれたのは、稻本村(稲元村)のほか、土穴村、須恵村、曲村、及び東郷村を含む釣川中流域の穀倉地帯であった。

 ・「宗像神社史」によると、このほか根本神領「赤馬荘」があり、うち朝町村は第二宮、長日御供料所であった。ただし、野坂荘は「宇佐八幡宮神領」で、石丸村は「石清水八幡宮神領」だった。

 ・宗像社のその他の社領には、河東村、村山田村、山田村、光岡村(蛭田)、久原村、大穂村、平等寺(別符)、高向村、田野別符、池田村、上八村、河西村、在自村、宮地村、奴山村、本木村、内殿村などがあった。

 ※つづく→「稲元八幡宮(8)〜滑石製経筒(その2)宗像市」。

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2018年05月14日

稲元八幡宮(6)〜稲元丘陵の遺跡(宗像市)

 前回「稲元八幡宮(5)〜稲元丘陵の宅造開発地(宗像市)」から続く。

 ・昭和50年(1975)〜60年(1985)に行われた稲元丘陵の宅地開発(城西ヶ丘1〜6丁目、稲元5〜7丁目のタウン化)に伴う発掘調査により弥生の蔵穴、墳墓、古墳時代の古墳、横穴、窯跡、土穴、ほか近世に到る遺跡が現れた。
 調査後、それらの遺跡はすべて破壊され、宅造地の開発は急ピッチで進み周辺地形は変貌し、当時の原形をまったく留めておらず、今、その遺跡の所在地を点で探ることは不可能である。

 ・稲元丘陵で発掘された遺跡は、稲元古墳群、稲元久保遺跡、稲元日焼原遺跡、稲元黒巡遺跡ほかが知られているが、これらの発掘調査を実際に見分したわけではないので、これらの調査報告などを参考にしながら、その概要を以下覚えとして書きとめておく。
 なお、下欄の「久保、日焼原、黒巡、須恵の地名の由来」は私見である。

 [稲元古墳群]

・昭和50年(1975)発掘調査。
・稲元1350ほか(現:城西ヶ丘1〜2丁目)。
・5世紀後半〜6世紀中頃(古墳時代)の古墳(円墳)11個。
 …盗掘により出土品が少ないが、鉄製の甲片、鉄鏃、須恵器の杯(つき)、土師器の高坏(たかつき)などが出土。

 [稲元久保遺跡]

・昭和59年(1984)5月〜60年2月発掘調査。
・宗像市稲元字久保1304ほか。
 (現:城西ヶ丘5〜6丁目/河東中学校及びその周辺)。
・弥生〜古墳〜奈良〜平安時代、中世〜近世細分不明(複合遺跡)。
  弥生時代中期の袋状竪穴検出…穀物貯蔵穴、素掘り墓(丘陵頂部平坦面標高35m)…壺、甕出土。
  5世紀初頭の前方後円墳…鏡、玉副葬。当地域をまとめたリーダーの墳墓。
  5世紀前半〜6世紀前半の円墳14基(丘陵の尾根上)。…鉄刀、土師器の壺や高坏出土。
  6世紀後半〜7世紀の素掘り横穴墓72基…古墳時代の横穴墓は宗像独特のもので、当地を含め釣川中流域右岸に集中し、当地の谷あいなどに集落を形成した須恵器製工事人の墳墓との推定もあり。
 もっとも古いとされた最大の横穴墓(首長級の墓か)から武器、工具、馬具、装身具、須恵器、土師器、土馬(どば)頭部片(陶質、扁平形、轡の模様あり)、土製錘(おもり)など出土。
  中世地下式横穴墓。

 [稲元日焼原(ひやけばる)遺跡]

・稲元字日焼原140-3ほか(現:日焼原🚥[※画像1]〜稲元6丁目辺か)。
・昭和57年(1982)発掘調査。

1日焼原🚥・5世紀末〜6世紀(古墳時代)の須恵器の窯跡4基、竪穴(土坑)遺構
…宗像地方における最も古い須恵器の一大生産地で、当地に須恵器の製作技術を持った工人(朝鮮からの渡来人、物部氏系か)が移り住んだと推定される。




 須恵器は、朝鮮系のろくろ練、登り窯で焼いた硬い灰色の土器で、古墳副葬品、ほか生活、祭事用にも用いられたと推定される。

稲元日焼原遺跡出土の土馬 なお、竪穴土坑から出土した「土馬(どば)」(※画像2)は7世紀頃のものと推定され、同時期までは確実に当地に工人のムラがあったことが伺える。
 鬣(たてがみ)のある「土馬」は、渡来人の誇りか、信仰の対象だったのだろうか。



 ※報告書→「1989(平成元年)『稲元日焼原』調査報告 宗像市教委」。 

 [稲元黒巡遺跡]

・昭和57年(1982)発掘調査。
・稲元字黒巡1519-1ほか(現:稲元6・7丁目須恵西🚥付近)。
・6世紀後半の須恵器窯跡6基。

 ここは、日焼原の北側で、須恵地区にまたがっている。時代が下るごとに窯跡は、日焼原から黒巡、さらに孔大寺南陵に沿って北へと移動していったようだ。原料となる土や燃料となる材木の調達とも係わりがあったという説がある。

 [久保、日焼原、黒巡、須恵の地名の由来](私見)

 ・「久保の地名の由来」は、ここに稲元丘陵の尾根(頂部)があり、その側面の下に人々が集落を形成した窪地(谷)があったことにより、この窪を久保と表記し、できたものかもしれない。
 ・「日焼原の地名の由来」だが、日は日々とも思えるが、「日焼」のもとは「火焼」だったのではないかと考えると、須恵器を火で焼く登り窯が多数並ぶ丘陵台地()だったことではないかと推察できる。 
 ・須恵器は、土師器などと違って高温で焼かれるので、色が黒く(灰褐色)なるが、この黒く焼ける須恵器製造の登り窯がここにらすほどあった。これが案外、「黒巡の地名の由来」だったのかもしれない。
 ・須恵地区には須恵器生産のための登り窯が多数造られたので、これが「須恵の地名の由来」だ考えられる。 
 
 ※つづく→「稲元八幡宮(7)〜滑石製経筒(その1)宗像市」。

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2018年05月13日

稲元八幡宮(5)〜稲元丘陵の宅造開発(宗像市)

 前回「稲元八幡宮(4)〜霊地・神域、孔大寺山陵(宗像市)」から続く。

 [稲元丘陵の宅地開発]

 ・前回「稲元丘陵は、現在、そのほとんどが宅地造成により、住宅団地や諸施設建造地(タウン)に生まれ変わっているので、往時の形を想像することもできなくなっている」と記した。
 また、その一部の地名(住居表示)は、稲元から「城西ヶ丘1〜6丁目」に変わっているが、「稲元」の地名を残して「稲元5〜7丁目」となった地区もある。

 ・稲元丘陵の開発により、最初に地名が「稲元」(一部河東含む)から「城西ヶ丘」に変わった地区は、昭和50年(1975)にできた稲元の北西部の「城西ヶ丘(当初は西ヶ丘)1〜2丁目」である。
 ・続いて、昭和57年(1982)に「城西ヶ丘3〜5丁目」が発足した。
 ・最後に、昭和60年(1985)に「城西ヶ丘6丁目」が発足し、翌61年(1986)に同地に「宗像市立河東中学校」(下記)が開校した。

 ・併せてこの間、「稲元5〜7丁目」の造成も進み、昭和57年同5丁目に宗像市民体育館が開館した。
 また稲元3丁目の低地(農地)部分の一部でも埋め立て造成による商業施設等もできた。同2丁目の農地埋め立てによる住宅団地の造成は古い。
 なお、前回記したように「稲元八幡宮」(稲元4丁目7-2)のすぐ裏山(神域・神霊地)が、この開発の浪に呑まれなかったのは幸いに思う。

 ・これにより、町名が変わった上記「城西ヶ丘」地区を含め、稲元地区は、新旧住宅地が分離、混在する形に大きく変貌した。

 ・なお、これらの開発に伴う発掘調査で、稲元丘陵の各所で弥生時代から近世に到る各種遺跡(※次回掲載)が現れ、当丘陵の台地上で古代から人々の営みがあったことが分かった。
 かつて稲元丘陵に住まいした人々が、丘陵の下に本村の集落を形成し移ったのは近世になってという説があるが、ということは、近代になって再び人々の生活の中心が丘陵に還ったということになるのか。

 ・ところで、新興住宅タウンでは高齢化率が年々上昇するというが、現在、上記開発地区の高齢化率は宗像市全体で見て10%強程度だという。

 ※稲元八幡宮の場所は、下記地図画像の稲元4とある個所のすぐ上(地図をクリックして拡大可)。


 [河東(かとう)小学校、河東中学校]

0河東中周辺地図 ・「宗像市立河東小学校」は、宗像市稲元5丁目1-2にある。

 現在地が稲元5丁目となる以前…昭和47年(1972)に、東隣の「須恵」地区から移転してきた伝統のある小学校である。
 現在、既に創立100周年を越えている。



 「河東小学校」の校名に、現在の学区に含まれていない「河東」地区の名が付いているのは、明治23年(1890)に創立された当時の須恵地区は、「宗像郡河東村」大字須恵で、その「河東村」全体(下記地区)を学区とする小学校だったからである。

 ・明治22年(1889)4月の町村制の施行で、「宗像郡河東村」にまとめられたのは、 「須恵村」のほか、「稲元村、山田村、平等寺村、池浦村、河東村」で、それぞれの村名は、「河東村」の大字となり、その後、昭和29年(1954)4月に到り「宗像郡宗像町」の大字に、昭和56年(1981)4月「宗像市」の大字となり今日に至っている。

 ・しかるに、昭和61年(1986)に宗像市立中央中学校から分離して開校した「宗像市立河東中学校」(城西ヶ丘6丁目)の校名にも「河東」が付いたのは、すぐ近くにある河東小学校の「河東」に合せたこともあるとは思うが、実は、この河東中学校の学区には「河東地区」が含まれている。

 ・ところで「河東とは、「釣川の東側」にある地区という意味である。
 しかるに、この小中学校がある稲元地区は「釣川の北側」に位置しているので違和感があるが、釣川は河東地区の東側(多禮、田島)で山田川と合流し大きく右(北方向)に旋回し北に向きを変えて田島の宗像大社辺津宮の東横を貫流し江口で玄界灘に流出するので、北上する釣川から見れば河東地区は「釣川の東側」になる。

 ※つづく→「稲元八幡宮(6)〜稲元丘陵の遺跡(宗像市)」 

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2018年05月12日

稲元八幡宮(4)〜霊地・神域、孔大寺山陵(宗像市)

 前回「稲元八幡宮(3)〜稲元の神社(宗像市)」から続く。

 [霊地・神域]

 ・稲元八幡宮(宗像市稲元4丁目7-2)は、宗像地方のほぼ中央部にあり、北側に伸びる稲元丘陵を背にし、その丘陵の南端の崖上にある。
 また、前方(南方)に山田川(多禮で釣川に合流)と、宗像大社辺津宮の横を貫流する釣川本流がある。

稲元八幡宮前面の景色 ・稲元八幡宮神殿が建つ崖上から、この釣川中流域に広がる田園地帯の一部、さらに宗像大社と深く係わる「許斐山」(宗像五社の一「熊野神社及び同奥宮・王子宮」鎮座)や、信仰の山「磯辺山」(旧「曽部神社・磯辺神社・八大龍王祠」鎮座地)〜「靡山」(「靡神社」鎮座)などの連峰も遠望できる(※画像)。

 ・因みに「磯辺山〜靡山」は、宝満山修験の春峰奥駆ルートで、「むなかたの山岳信仰」によると、ルートの山々に次の如来配したことが分かる。
 西山(胎蔵界曼荼羅の中尊大日如来)、本木山(普賢菩薩)、磯辺山(宝幢如来、文殊菩薩)、靡山(開敷華王如来)、新立山(観自在菩薩、阿弥陀如来)、戸田山(弥勒菩薩)、城山(天鼓雷音如来)→到着点の孔大寺山(孔大寺権現・蔵王権現)。

 ・そして「孔大寺山」(宗像五社の一「孔大寺神社」鎮座)の南方山稜(やや西寄の稲元丘陵の末端部)にある稲元八幡宮の西側の山道で滑石製経筒(平安時代後期埋納)が発見され、弥勒菩薩信仰があったことが伺える(※別記)。

 ・このような場所に建つを稲元八幡宮を「霊地」と思い、孟宗竹林ほかの樹木が茂るその裏山を「神域」と考え、初めて訪れた昭和55年(1980)頃以降、たびたび訪れ、併せて変わりゆく稲元丘陵などの様子も傍観していた。

 [孔大寺山の南山陵]

 ・稲元八幡宮の裏山の西側にある山道を奧(北)に歩き、丘陵の尾根筋(頂部)に出たこともあった。かつて、この尾根(頂部)は、現在、河東中学校運動場となっている場所の西にあった。
 昭和60年(1985)頃、この頂部の低木が伐採されたとき、ここから北方の景観を眺め、絶景感を味わった。
 そして、このとき、ひょっとしたら稲元八幡宮は、北方の玄界灘に浮かぶ大島(宗像大社「中津宮」)、沖ノ島(同「沖津宮」)遥拝宮を兼ねていたのかもしれないと思った。

 ・併せて、目に入った「孔大寺山」を観て、実はこのとき初めて稲元丘陵が、上記「孔大寺山」南稜の末端部だと分かったのだった。
 つまり、稲元八幡宮は、「孔大寺山」の南方山稜が釣川流域(山田川)に落ち込む稲元丘陵末端部の崖に鎮座していることになる。

 ・また、頂部の右側斜面に数個の横穴があるのも観た。この横穴は、後に稲元久保遺跡の一と称された古墳時代の横穴墳墓だったのかもしれない(別記予定)。
 そして、位置関係から想像すると、ひょっとしたら、この横穴墓の最大のものが稲元八幡宮の御神体であったと考えることはできないか。私は、このとき、そこへ導かれたのかもしれない。

 ・現在、この山道は、ほとんど通る人もないのか、途中崩れている個所もあり、孟宗竹が張り出し、今はないかつての尾根筋(頂部)出る前で閉ざされている。
 また、閉ざされている個所の手前から右下の稲元4丁目10番集落(河東中学校運動場の南下)に下る坂道は叢に埋もれている。なお、同集落から稲元八幡宮に行くには、萬福寺の前に抜ける別の坂道がある。

 ・稲元丘陵は、現在、そのほとんどが開発造成により、住宅団地や諸施設建造地に生まれ変わっているので、往時の形を想像することもできなくなっているが、この間の稲元八幡宮の裏山(神域)には開発の手が及んでおらず、ここにも遺跡が眠っているかもしれないが、そのまま残ったことは幸いである。

 ※つづく→「稲元八幡宮(5)〜稲元丘陵の宅造開発(宗像市)」。

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