2018年06月

2018年06月30日

河東の「久戸古墳群」ほか(宗像市ひかりケ丘)

(1) 久戸古墳群

 ・前回の「足形池」の南側・ひかりケ丘公民館(宗像市ひかりヶ丘6丁目1-1)の南方に、ひかりヶ丘7丁目がある。6.7丁目地区は、昭和61年(1986)にできた、ひかりケ丘のなかでは最後にできた住宅団地である。

 ・海の道むなかた館に置いてある「むなかた遺跡マップ」を見ていると、この辺りに「久戸古墳群」の名が記載されているが、同地に遺跡らしきものはないので、発掘調査後に消滅し、今は現存していない遺跡ではないかと思う。

 ・手持ちの「日本の古代遺跡(保育社)」には「河東字久戸(くど)の久戸古墳群は、四世紀末から七世紀後半にかけての古墳17基と横穴22基が発見された。内部構造は、縦穴系横口式石室、箱式石棺、割竹形木棺、特殊組合わせ木棺、木蓋土壙(もくがいどこう)、横穴式石室とさまざまである。なかに墳丘をもつ横穴もある。宗像地方では、遠賀川流域にくらべ、きわめて横穴は少ないが、この久戸古墳群は例外的なもの」とある。

 ・「久戸古墳群」は、昭和53〜54年(1978〜1979)の間に福岡県教育委員会が2回に分けて発掘調査を行ったというが、この地が当地周辺だったとしても、それは住宅団地が完成する以前のことで、その後の開発で地形が変わっているので、現在、当地を歩いても開発以前の地形を想起することはできない。
 なお、河東字久戸(くど)は、福崎久戸とも言われていたが、今は現存していない地名か。

 ・なお、久戸古墳群の発掘調査を担った人たちは、当時、「丘陵の斜面に直接横穴を掘って墓室を作る墓制は、遠賀郡の以西には存在しない」と思い込んでいたので、この横穴墓を発見したとき、かなり驚いたらしい。

 ・小生は、古代物部氏が割拠した遠賀川流域に発達した横穴墓が宗像大社の喉元である河東地区で発見されたということは、物部神・素戔嗚命の娘(宗像三女神)を祀る宗像社を守る物部氏の勢力が当地に浸透していた証かもしれないと思っている。
 河東地区には、物部氏と係わると思われる須賀神社、豊日神社(以上河東天満宮境内)や太神宮(大神宮)などもあり、赤間物部の所轄範囲だったのではないかとも思う。


 (2) 大日如来・山の神・こがね山の神の石碑(?)

 ・ひかりヶ丘7丁目内を散策しているうちに、最後に、その南西端部の高台(ひかり-ヶ丘7丁目3-46の上)にある「宗像市不燃物埋立処理場」(宗像市河東1776)の入口に行き着き、その入口付近に建っている「竣工碑」に目が留まった。

竣工碑 ・というのは、「竣工碑」と記されている基壇の上に三本の石碑が建っており、中央の少し大きな石碑には「大日如来」の文字、その左側の石碑には「こがね山の神」の文字、また右側の石碑には「山の神」の文字が、それぞれ金文字で刻しているのに気付いたからだった。これは何(?)。



 ・因みに筑前國續風土記附録の河東村に、「大日堂ムラナカ」の記載があるが、クド(久戸)にはない。なお、ムラナカとは、河東本村の村中ということなのだろうか。この大日如来像は、河東天満宮境内にある痛みの激しい坐像仏のことだろうか。
 また、同誌の河東村に「山の神」についての記載はない。(誰かが)この丘陵を山と考えて、ここに山神様を祭った、或はこの丘陵を削って住宅地を作ったので、山神様を祭り山神様の怒りを鎮めたとか。「こがね山の神」は「小金山神」或は「黄金山神」なのだろうか。等々、いろいろ勝手なことを考えてみたが、要するに分からない。

 ・この竣工碑が「宗像市不燃物埋立処理場」のものなのかも確認していないが、竣工碑がなぜこのような形に作られたのか、久戸古墳群と関係するものか、何か分からないまま、不思議な気持ちに包まれ、この石碑に合掌し、ここをあとににした。


 (3) 久戸(クド)の貴船社、薬師石室(?)

 ・追記すると、筑前國續風土記附録の河東村の項には「貴船社(クド)、薬師石室(クド)」の記載がある。
  この貴船社は、明治以降、旧河東村社天満宮(河東1538)に遷された貴船神社のことか。また、「薬師石室」は、「石室」とあるので、ひょっとしたら露出していた一古墳の石室に薬師如来が祀られていたということなのだろうか。専光寺大師堂の薬師如来とは関わりないのだろうか。

 ※つづく→「河東の不動堂(宗像市)」。

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2018年06月29日

足形池の伝説(宗像伝説風土記) 宗像市ひかりヶ丘

 前回「太神宮(大神宮)(4)〜神殿敷地内(宗像市河東)」。 

 先に「祟る柿の木(宗像市稲元)」を掲載したとき、稲元と隣接する福崎(河東)にある「足形池」と係わる宗像伝説風土記「運七殿(うんひつどん)の足形」があったことを思い出した。

 河東地区は、現在、河東区と福崎区に区分されてはいるが、昭和40年代以降、地区内で大型住宅団の開発が進み、昭和61年(1986)までにひかりヶ丘1〜7丁目が分離独立した。

1足形池か 今回取り上げる「足形池」は、現在のひかりヶ丘1丁目、2丁目、6丁目の境界付近に、住宅地に囲まれるようにして現存している溜池ではないかと思っている。

 この辺りの風景は、宅地開発前とはまったく変わっているが、久しぶりに行ってみようと思い立ち車で出かけた。

 まず、ひかりケ丘公民館(ひかりヶ丘6丁目1-1)を目指した。それは「足形池」が、ひかりケ丘公民館の裏側(東北)にある築堤の向こうにあるので、ここに駐車して歩こうと思っていたからだったが、同所に着いたとき集会があっていて、駐車できなかった。

 しかたなく歩いて行く予定だった「足形池のかかと部分」の近くにある駐車スペース(ひかりヶ丘2丁目2-2)に車を停め、同所の近くの築堤(池の縁に鉄条網が張られている)から池を眺め写真を撮った。(※画像)

 住宅開発が進んだなかで、住宅地のなかに、池の水は、以前のように澄みきってはいないが、このような「伝説の池」が残っているのを目にすることができて何だか救われた感じがした。

 ・前置きが長くなったが、「宗像伝説風土記(上妻国雄著)」に掲載されている「運七殿の足形(福崎)」をここに転記させてもらう。※長くなるので、小生が勝手に省略した部分(…)もあるので御容赦。

 ・昔、神さま方がこの世に住んでいられたころ…。天竺悪い神さまがいて、この国に攻めてくるといううわさが立っていました。神さま方は…高天原で大評定をなさいました…。すると、ひとりの神さまが…「遠い西の国に大変軍(いくさ)の上手な神さまがいられます。そのお方に相談したら」と言われました。
 「…しかしそんな遠い国に使いを出しても、まにあいますまい」と年寄りの神さまが言いました。すると猿田彦命というかみさまが、「わたしのところに雲つくような大男がいます。名を運七殿(うんひつどん)といいますが、この男なら千里の道を行くにも、さほど暇はかからないでしょう」と申されました。
 …やかで神さまたちのお召しで運七がきました。…雲つく大男といいますが…運七の頭は雲の中にかくれて、小高い山や丘ぐらいは、ひとまたぎできそうです。…「こんな大男が使いに行ってくれたら、二、三日もかかるまい」などといって、神さまたちはたいそう安心なさいました。
 運七殿が…どこを通って行ったか判りませんが、いま宗像町福崎の村外れに、足形池というのがあります。
 池の長さが40m、横が20mほどあります。いつも澄みきった池の中に、蓮の葉が茂って、風が吹くと蓮の花びらが水面に散って、ゆらゆら揺れています。
 この池を山の中ほどの小径から見ると、西の方を向いた左足によく似ているので足形池と呼ぶのだそうでするそしてこれが、運七殿の足形だと申しています。そのときの左足の足形は。玄海町の田野にあったと伝えられています。(以上)


 上記で、福崎の足形も、田野の足形も「左足」となっているので、いずれかが「右足」なのだろう。足跡が西の方を向いているのであれば、北の方角にある田野の方が右足ということなるのだろうか。

 だが、小生が、今、ここが「足形池」だと言っている池の足形は、西の方ではなく東の方を向いているようにも見える。となると小生の勘違いとなってしまうが、現在、福崎区や旧福崎方面に、足形をしている池はこのほかにはない。
 つまり、これは、見方の違いで、西側の山方から見て、足首側が東の方で、足先が北だと考えれば、この足形は西の方を向いていることになる。

 ただ、悪い神さまがいる天竺は西にあり、この西の天竺から悪い神さまが攻めてきているその方向に向かって、西の国にいる軍上手の神さまに相談に行くことができるだろうか。伝説だから西だろうが東だろうが詮索する必要はないが、気になるところである。

 この伝説に高天原猿田彦命が登場しているが面白いが、高天原は宗像に在り、猿田彦命はその高天原にいた神であると暗に説いているのだろうか。
 宗像には、猿田峠(吉留)や、猿田彦を祭る白鬚神社(平等寺)や猿田彦神社(赤間)などもあり、猿田彦命が、高天原・朝鮮(新羅)から天降りしてきた軍上手の神さま饒速日命を迎えに行ったのは確かではないかと思う。
 もし、饒速日命が大歳神社が鎮座する上八(鐘崎)に上陸し、猿田峠を越えて剱岳に向かったとすれば、田野、平等寺、赤間はその途中にある。
 では、運七殿だが、七は運気の良い数字であり、それに殿を付けている運七殿とは、何を暗示しているのだろうか。

 ※つづく→「河東の久戸古墳群ほか(宗像市ひかりケ丘)」。

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2018年06月28日

「龍昌寺」散策(10)〜西国霊場観音堂(岡垣町)

 前回「龍昌寺散策(9)〜鐘堂、不動明王像、平和観音像(岡垣町)」から続く。

 「※観音堂」

   (遠賀)川西四国第五十二番札所・本尊聖観世音菩薩
   岡垣四国霊場・西国第十六番・本尊千手観世音菩薩


1龍昌寺観音堂口(鐘堂側) ・鐘堂の前、右下に「観音堂参道」と刻した小さな石碑がある。(※画像1)

 ・平和観音菩薩像道(参道)のなかに、このような「観音堂参道」と刻した石碑が建っていると紛らわしいが、この石碑の観音堂参道は、平和観音菩薩像の参道ではない。


2龍昌寺観音堂 ・観音堂参道は、鐘堂の方に突き出した尾根の南側を10mほど下る細くて急な叢道で、この下にある平らな敷地の奥に「観音堂」(木造瓦葺)が一棟建っている。
 周囲一面に孟宗竹等が茂り、ちょっと不安になりそうな暗い谷あいといった感じがある。
(※画像2)



3龍昌寺観音堂柱右左 この「観音堂」は、「(遠賀)川西四国第五十二番札所・本尊聖観世音菩薩」(※画像3)及び「岡垣四国霊場・西国第十六番・本尊千手観世音菩薩」となっている。
 つまり、龍昌寺境内の入口に建っている「八十八箇所参詣道碑」と係わる西国八十八箇所霊場(※岡垣四国・西国第三十番大師堂を含む)である。



4龍昌寺観音堂柱左 なお、前述した龍昌寺案内板1に記されている「遠賀川西国第五十三番札所」は、「遠賀川西国第五十二番札所」の誤記ではないかと思う。

 また、この観音堂の左側の柱に打ち付けてある「岡垣四国霊場」に係わる表示札は「西国第十九番」と書いてあるようにも見えるが、「西国第十六番」でよいと思う。(※画像4)


 因みに、四国八十八ヶ所霊場の第52番札所は、真言宗智山派「龍雲山護持院太山寺・十一面観世音菩薩」(愛媛県松山市太山寺町)である。
 また、同第16番札所は、高野山真言宗「光耀山千手院観音寺・本尊千手観世音菩薩」(徳島市国府町観音寺)である。


5龍昌寺観音堂石段碑 ・観音堂の正面に「参道石段改修小碑」(寄進高倉早川尚吾78歳)が建っている(※画像5)が、観音堂の正面敷地から下る「観音堂専用の参道石段」がある。
 この石段を下ると、高倉神社の西側を流れる汐入川沿いの里道(龍昌寺外参道口のすぐ南側)に出る。

 
 (※本稿「龍昌寺散策」おわり)

※本稿「龍昌寺散策」のトップ→「龍昌寺散策(1)〜外参道で美樹観賞(岡垣町)」。

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2018年06月27日

「龍昌寺」散策(9)〜鐘堂、不動明王像、平和観音像(岡垣町)

前回「龍昌寺散策(8)〜平和観音道入口、大師堂(岡垣町)」から続く。


 ※「鐘堂(鐘楼)」

1龍昌寺鐘楼 ・前回の大師堂から平和観音参道に戻り、右(西)に続く急坂(石段もあり)を上り詰めたところに、「鐘堂」(鐘楼)が建っている。
(※画像1)

 ・ここは龍昌寺谷の左(南)壁面の峰(尾根)が東に突き出たその突端部の高台になる。


 ・ここに「鐘堂」が作られているのは、ここで鳴らした鐘の音が、この東方眼下に広がる高倉地区によく響き渡る、そのような効果を考えてのことではないかとも思えた。


2龍昌寺鐘楼 ・この鐘堂の天井にも、先に仁王門の天井で観たと同じような十二支などを描いた「天井絵馬」(4×4=16枚)がはめ込まれている。(※画像2)

 ・これまでに行った寺院で鐘堂の天井絵馬を観た記憶がないので、珍しく、一見の価値はある。


 だが、何せ人けのない、樹木や叢の茂る静かな山の上、一人で行くと何か落ち着かず、じっくり眺め観賞するような気分にはなれない。


 ※「石燈籠群」

3龍昌寺不動前 ・坂道を上って突当りにある鐘堂から振り向くように、参道はV字に右折し、ここからはなだらかな坂道となるが、目の前の両側に「石燈籠群」がある。
(※画像3・4)

 (なお、鐘堂前から南に下る谷間にある観音堂は次回掲載する)。


 ・この東に突き出した幅の狭い尾根上の両側に密集して立ち並んでいる石燈籠群は壮観である。


4龍昌寺不動前 ・これらの石燈籠や石仏がそれぞれ何基あるものか、数えていないが、少なくとも33基はあったと思う。

 ・さらに、その後ろには、「小石仏」が並んでいる。これもその数は数えていない。
(※画像4)


 これらは、平和観音菩薩像の参道を彩るものとして設置されたものだろうか。


 ※「不動明王像」

5龍昌寺不動尊厄神堂 ・この石燈籠群の突当りの一段高い場所の左寄りに石造彩色の「不動明王立像」が立っている。(※画像5・5-2)

・平和観音菩薩像は、この前を通り右に回り込んだ後方に立っているので、丁度ここで平和観音像を訪れる人たちを見守っておられるようにもみえる。


 ※「厄神社」

5-2龍昌寺不動下 ・不動明王像の左側に建っている小社祠は「厄神社」。
(※画像5・5-2)

 ・「平成10年(1998)4月吉日厄神様改築記念」の棟札があるが、古くからここに鎮座していたのだったら、ここは厄神様の神域となる。



 ・社祠のなかには三個の丸石が置いてあるのみで、これらを厄神社の御神体としているのだと思うが、祭神は、多分、厄払いの神としても知られる「神速須佐之男命」か。
 因みに福岡では、若八幡宮を厄八幡として厄払いの神とするところがあるが、若八幡神とは、本来仁徳天皇で、応神天皇、神功皇后を併神とする場合がある。

 ・なお、上記棟札の厄神様改築者芳名は、一部消えかかっているが、鷲尾俊一(住職)ほか、山田氏4人、早川氏6人、小野氏、岡部氏、橋田氏、石松氏、中野氏、吉田氏、佃氏、杉本氏、山本氏、神村氏などの名が見える。


 「※平和観音菩薩像」

6龍昌寺平和観音 ・不動明王像の後ろから尾根が一段高くなっており、参道は、その前からその尾根の右則面を回り込むように付いているが、「平和観音菩薩像」(大きく立派な銅製立像/聖観世音菩薩の形になるのだろうか)は、この道を回りきった辺りに、尾根の緑をバックにして建っている。(※画像6)



7龍昌寺平和観音から本堂甍 ・この右側は、龍昌寺本堂の甍が真下に見える谷であり、「平和観音菩薩像」は、この間の狭い空間に作られていることになる。
(※画像7)
 なお、山道は、この観音像の先にも続いているが、行ったことはないので、どこに到る道かは分からない。



 ・「平和観音菩薩像建立の趣旨」(転記)。
 「去る太平洋戦争に於いて戦陣に散華し、或いは戦禍に斃れられた同胞に対しては、永遠に追悼の誠を捧げ、併せて戦争のない恒久的な世界平和確立を祈念するものである。
 時恰かも龍昌寺創立五百年に当り檀信徒各家の平安を祈願し、大戦に縁りの深い玄界の潮騒を聴くこの丘に慰霊と平和を祈念し、茲に平和観音菩薩像を建立するものである。龍昌寺二十四世鷲尾俊一」

 ※「玄界」とは、玄界灘(玄海灘とも書く)のこと。岡垣町が面している海は響灘だが、福岡県が面している北部(日本海)は、広く玄海というのか。
 ※父が南方海上で戦没したので、ことのほか平和を願う気持ちは強いが、英霊が命をかけて守り抜いた日本の現状は、いかがなものであろうか。
 ともあれ平和観音菩薩に世界平和を祈念した。

 ※つづく→「龍昌寺散策(10)〜西国霊場観音堂(岡垣町)」。

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2018年06月26日

「龍昌寺」散策(8)〜平和観音道入口、大師堂(岡垣町)

 前回「龍昌寺散策(7)〜井上周防・竹井伊豆守・瓜生長門守墓地(岡垣町)」から続く。

 [平和観音菩薩道(参道)]

 ・平和観音菩薩参道の入口は、前述したように本堂の左手前にあるが、ここに建っている石碑に「平和観音菩薩道・大師堂 鐘堂・不動明王像・観音堂」の刻があり、この参道に沿った場所に、これらの堂・像が建っている。

 ・この参道は、龍昌寺谷の左(南)側面の壁面を、まず参道口から左(西)に続く急坂(石段もあり)を上り、尾根の東端の建つ鐘堂からV字に曲がりもなだらかな坂道を不動明王像、平和観音菩薩像に向かって上るコースである。なお、大師堂は参道口の上り坂の右方、観音堂は鐘堂の南下の谷間にある。

 ・ここでは、この平和観音菩薩道(参道)に沿って存在している堂宇・仏像等について、3回に分けて掲載する。


 ※「聖観世音菩薩立像」(平和観音参道入口)

1龍昌寺平和観音参道口の聖観音 ・平和観音参道口に建っている石造ご供養の「聖観世音菩薩立像」で、台座に次の和歌が刻された金文字揮毫板石がはめ込まれている。(※画像1)

 「忍れど 吾が袖濡らす 春の雨 亡き母上や我が子 想へば 小田章生」


 追善供養のために建立奉納されたものだろうか、人それそれに寿命があると言えど残された者の割り切れない気持ちを拭うのは難しい。特に我が子には胸が詰まる。南無観世音菩薩、合掌。


 ※「大師堂」
  (岡垣四国霊場第三十番・川西四国霊場奥の院)

2龍昌寺大師堂口 ・平和観音参道口のすぐ上、右側の壁面に並ぶ石仏がある場所から右に叢道を入ると広場があり、その突当りに「大師堂」(木造瓦葺)が建っている。(※画像2・3)

 ・堂内の須弥壇には、弘法大師坐像と薬師如来立像らしき仏像が安置されている。



3-1龍昌寺大師堂柱右 ・当龍昌寺の宗旨は曹洞宗で、その境内にある大師堂なので、本来は本尊「承陽大師」(道元禅師)となるのだろうが、ここは「川西四国霊場奥の院弘法大師」及び「岡垣四国霊場第三十番札所」となっているので、その本尊は「弘法大師」である。



 ・因みに四国霊場第三十番札所は、真言宗豊山派「百々山東明院善楽寺・本尊弘法大師」(高知市一宮しなね)である。

 ・岡垣四国霊場に限らず四国霊場は、宗旨宗派を超えて存在しているようなので、真言宗ではない寺院の境内であっても弘法大師が置かれていることになる。南無大師遍照金剛。


3龍昌寺大師堂 ・「川西四国霊場」とは、遠賀川西岸流域(福岡県遠賀郡芦屋町、岡垣町、遠賀町)に点在している霊場札所をつなぐ「遠賀川西四国(八十八ヶ所)霊場」のことで、ここは、その奥の院(本尊弘法大師)となっているが、その開設は明治36年(1903)だと伝わる。。



 ・また、「岡垣四国霊場」は、岡垣町内にある八十八ヶ所の札所をつなぐ霊場だと思うが、その詳細を知らず、いつの頃に開設されたものかは分からない。ただ、この「大師堂」は、文久元年(1861)以前から存在していたというので、それが事実であれば、既にそれ以前にこの霊場も開かれていたことになる。


4龍昌寺大師堂覚え ・だが、下記覚書に大師堂建立時期は「龍昌禅寺開山後信者の建立と思われる。約三百年前」と記してあることについては、そのとき、ここに岡垣四国霊場が開設されていない限り、わざわざ他宗開祖弘法大師を設置することはないと思われるので、霊場開設期が不明な限り俄には信じがたい。


 ・堂内に「大師堂覚書」が貼り付けてあるが、長文になるので、ここでは、小生の独断で、抜粋し要旨をまとさせてもらった。なお、昭和34年の年号は載ってなかったが、内容から押しての推定である。 

 「大師堂覚書」(抜粋) ・岡垣四国第三十番霊場
 建立年代不詳(龍昌禅寺開山後信者の建立と思われる。約三百年前)
 文久元年(1861)8月再建(十九世住職鍵栄師、棟梁吉木村吉田仙石)
 明治2年(1869)3月再建(大工大野寿作、田中治郎)
 明治29年(1896)俳句同好会80人の献詠記録あり。
 昭和34年(1959)(二十三世住職鷲尾秀全師)、高倉の小早川清定、妻クニエが故両親(猪太郎、イソ)供養のため改修(大工岩崎正雄)。

 昭和59年(1984)4月8日(二十四世住職鷲尾俊一)、上記小早川清定の子供、孫たちが下記落慶記念事業に浄財を寄進、同事業に併せて全面改修された。
 ※龍昌禅寺落慶記念事業…龍昌禅寺本堂大修築工事、庫裡、座禅堂、慈母観音堂新築、納骨堂移改築工事…請負施工者小早川徳定(蟒燦社長/当時35歳)は上記小早川清定の孫。(覚書/小早川隆=小早川清定次男)

 ※なお、蟒燦小早川徳定社長は、前述した仁王門の建築も担当しており、小早川隆さんは同世話人檀信徒総代にも名を連ねて居られる。
 ところで、小早川家は、毛利氏一族の小早川氏(小早川隆景など)につながる家系なのだろうか。

 ※つづく→「龍昌寺散策(9)〜鐘堂、不動明王像、平和観音像(岡垣町)」。 

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2018年06月25日

「龍昌寺」散策(7)〜井上周防・竹井伊豆守・瓜生長門守墓地(岡垣町)

 前回「龍昌寺散策(6)〜本堂と周辺(岡垣町)」から続く。

 ・本堂の左側に、龍昌寺中興の祖と言われる「井上周防道柏公略伝」案内板があり、ここが龍昌寺の裏山にある井上周防之房(道柏) 墓所への入口となっている。

  ・龍昌寺の裏山、というか谷あいにあるの龍昌寺の谷の奥まった場所で、檜の樹林が茂るになかに、次の墓所がある。
  井上周防之房(道柏)墓所」。
 ◆竹井伊豆守墓所」=平成に入って移葬されてきた戦国期手野村の豪族。
 「瓜生長門守源英墓所」=戦国期吉木村一円を治領した瓜生氏の祖。

1竹井・井上墓道 ・この墓地内にある墓は、この3所のみで、ほかの墓はない。谷あいの閑静な樹林のなかに、墓道を有した古墓が三か所佇み、異次元の世界に足を踏み入れたような感じがあり、部外者が度々訪れるところではないと思った。合掌。

 ※画像1は、右が井上周防之房(道柏)墓所、左が竹井伊豆守墓所。
 ※画像2は、井上周防之房(道柏)墓所
 ※画像3は、瓜生長門守源英墓所。

 ・以下、 岼羮綣防道柏公略伝」、◆崔欅羂貌守の墓移葬の由来(平成3年)」、「瓜生長門守源英 (平成13年碑文)」を転記する。


 [井上周防道柏公略伝]

2井上周防墓 「道柏井上周防之房は天文十三年甲寅の年(1554)播州(現:兵庫県姫路市)に産まれ、童名弥太郎、後に九郎衛門周防(くろうえもんすおう)と称し、黒田職隆公、孝高公(如水)及び長政公に仕えた



 黒田二十四騎の要となる重臣であり、黒田藩の筑前入国に当たり、黒崎城の築城を命ぜられ、八幡、遠賀一円を預けられ、一万六千石を賜り、退休後は道柏と号す。
 寛永十一年甲戌(1634)十月二十二日卒、玉雲山龍昌寺に葬られ、本堂裏山の墓碑には庭樹院殿雪渓道柏居士の法諱が刻まれて居り、その傍らには弟河村越前之信とその子重信の墓が並んでいる。
 道柏公は武人ながら信仰心厚く、風雅の心も深く、龍昌寺を心から愛し、ここを菩提寺と定め、孝高公の肖像画と霊牌及び長政公の霊牌を奉じ、主君の菩提を弔うとともに参禅したり家臣たちと歌会を催すなどしばしばここを訪れ、このような道柏公の庇護のお蔭で一時衰えかけていた寺運も再び盛り返し、道柏公が龍昌寺再興の祖と崇められる所以である。
 道柏公歿後も次男庸名(もちな)の室の(黒田長政の)長女菊姫、後の林光院が道柏公の菩提を弔うために龍昌寺に毎年寄進され、また黒田藩も功臣道柏公の菩提寺である当寺に山林、田畑の寄進を行うとともに毎年藩主の名代が参拝する習わしなど龍昌禅寺に黒田藩の尊崇と庇護を受けて今日の礎が築かれたものである。 在神奈川県葉山 井上文秀撰文」。

 ※上記の( )内は、小生の加筆。
 ※井上周防之房(道柏)の歿年は、前述した筑前國續風土記拾遺には「之房ハ寛永十年(1633)十月廿二日没せり」とあったが、「寛永11年(1634)10月22日卒」(享年81)の方が正しいようだ。
 ※黒崎城(北九州市八幡西区屋敷一丁目9番城山緑地公園)は、筑前六端城(黒崎城、若松城<中島城>、大隈城、鷹取城、小石原城、左右良城)一つで、慶長6年(1601)頃築城開始、元和元年(1615)破却。


 [竹井伊豆守の墓移葬の由来]

 「竹井伊豆守重居は、手野の竹井一族の初代で、大織冠藤原鎌足家の夫孫藤原重基を祖父とする。
 藤原重基は、陸奥国温科郷の郷士で温科左衛門尉重基と称した。
 十六世紀の戦国時代、その子弥四郎重房は、当時、山陽・山陰・北九州に繁栄していた大内義隆の名声にひかれて一族と共に西下し、大内氏に仕えた。
 温科弥四郎重房の第二子は、竹井伊豆守重居と称し、大内氏???宗像氏に仕え、数々の戦功ににって、手野郷の奉行となった。
 竹井伊豆守は、文禄三年(1594)三月に没した。その墓は、玄界灘を望む手野山麓に建立され、一族が歴代これを守り継いだ。
 しかし、世代が移り変わり、一族が各地に進出するにつれて、手野山麓の墓所では管理が困難となって来た。この時に当たり龍昌寺鷲尾俊一大和尚より「竹井家之累代の菩提寺への移葬」について御厚意ある御提案があった。よってその御厚意をお受けし、平成三年三月一七日、一族が各地より参って、移葬竣工式を挙行した。竹井家十五代 竹井和夫 竹井久男」

 ※上記竹井伊豆守重居が仕えた宗像氏とは、黒川隆尚(宗像正氏)のことか。
 ※宗像氏貞の時代、竹井守重の活動などが分かる「竹井文書」(2通)が残っていることを「おかがき広報」で読んだことがある。
 ※本ブログに掲載したことはないが、岡垣町手野区鎮座の「大国主神社」に数回行ったことがあり、その境内神社の一「弥栄神社竹井家祖神(竹井伊豆守)を祭っている」ことを思い出した。


 [瓜生長門守源英碑]

3瓜生長門守墓碑 「瓜生長門守源英 元和五年七月十三日没(1619)。
 嵯峨天皇の第十八皇子源融より二十一孫に当たる。越前国杣山城(福井県南条郡南条町南越前町杣山山頂/国指定史跡)の城主瓜生源判官保(延元2年/1337没)を祖とする。


 瓜生保は、鎌倉時代の南北朝内乱の時、後醍醐天皇を奉ずる新田義貞の南朝方に味方し北朝方の足利の軍勢に敗れ弟の重等共々戦死した。(現在神霊として杣山神社金ヶ崎宮に祭られている)
 落城後、妻子は?達と共に袿掛(うちかけ)岩の断崖より身を投じたと思わせ金ヶ崎の南、氣比の漁村より、路山口の長門を経て九州へ遁れた。
 南朝再興の志を抱きながら追討を避けるため一族は身を隠した。
 時は変わり戦国割拠の時代、当、龍昌寺の親寺長門の大寧寺を菩提寺とする大内義隆に従い、北部九州の覇者大友宗麟の時に遠賀吉木村一園を治領した。
 南北朝より六六〇年、嵯峨天皇より実に一一九〇年の時が流れ静寂と歴史の古寺龍昌禅寺の裏山に樹々の擦れ合う音と夏は蜩(ひぐらし)の声に包まれ瓜生の祖霊達は戦国南北朝を偲んでんいる事と思う。
 杣山城主瓜生源判官保遠孫 瓜生金治朗(大阪在住)建立 平成十三年?月」

 ※上記「大友宗麟の時に遠賀吉木村一園を治領した」のは瓜生貞延だろう。
 ※前述した龍昌寺の案内板2に、「1490年(延徳2年)頃、龍昌寺を開基した麻生弘繁(岡城を築城した麻生家延<家信>の孫)の子麻生隆守は、天文15年(1546)大友の家臣瓜生貞延に攻められ、内浦の海蔵寺で自刃した。その後瓜生貞延が岡城に居住し支配したので、龍昌寺は衰退した。」とあった。

 ※因みに、岡城(岡垣町指定史跡)は、岡垣町吉木の隆守院の裏山(標高40m)にあり、筑前岡城、宗像岡城、腰山城などと別称される。
 麻生隆守と瓜生貞延の戦闘での筑前岡城の近くを流れる川が、軍勢が垂れ流した血で染まったので、血垂川と呼ばれるようにもなったという伝承があるらしい。
 筑前岡城は、天正14年(1586)宗像氏貞の進攻により落城するが、瓜生貞延は、その後、宗像氏貞に仕え慶長16年(1611)に没した(86歳)。

 ※つづく→「龍昌寺散策(8)〜平和観音道入口、大師堂(岡垣町)」。

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2018年06月24日

「龍昌寺」散策(6)〜本堂と周辺(岡垣町)

前回「龍昌寺散策(5)〜由緒(岡垣町)」から続く。

 ・前述の龍昌寺表参道から山門をくぐって本堂敷地に入ると、右側に道元禅師碑がある(※画像2)。
 ・左側に平和観音菩薩道碑・石燈籠・聖観音石像等(※画像3)や、慈母観音堂(※画像4)、井上周防墓への道入口がある。
 ・正面〜右方に本堂(※画像5)及び寺務堂がある(※画像6)。


1龍昌寺本堂左後方高窓 ・本堂の左横から裏山の井上周防墓地に向かう途中、本堂左後方の高窓のガラスに描かれた仏画(裏側)が観える。
(※画像1・7)。

 ・本堂真後ろには白壁の堂宇がある。
(※画像8)。



 ※「道元禅師歌碑」

2龍昌寺道元碑 …「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬 雪冴えて 冷(すず)しかりけり

 石碑に金文字で刻してあるこの歌詞は、曹洞宗開祖・道元禅師が日本の四季を詠んだ和歌としてよく知られており、「日本仏教名言集」にも収録されている。


 宝治元年(1247)、北条時頼の求めに応じて、永平寺(曹洞宗大本山/福井県永平寺町)で詠んだこの歌を披露したもので、移り行く四季に動じることのない禅の境地を詠んだものともいう。


 ※「平和観音菩薩道碑」

3龍昌寺平和観音参道口 …この前で観えるのは、石段(15段)上下の石燈籠や、石段の上の石造「聖観音立像」のみである。

 ただ、石碑中央の刻「平和観音菩薩道」の両横に「大師堂 鐘堂・不動明王像 観音堂」の刻があるので、この先に、これらの像堂があることは分かる。


 ここからは観えないので分かりにくいが、「聖観音像」の前の左側に、「大師堂…」等に上る参道(坂道や石段)がある(※後述別記)。

  
 ※「井上周防墓道入口」
 …本堂の裏山の谷あいにある墓地への墓道口で、「井上周防略伝」案内板が建っている(※後述別記)。


 ※「慈母観音堂」

4龍昌寺慈母観音六角堂 …所謂「六角堂」で、堂内には、俗に「水子観音」とも称される「慈母観世音菩薩立像」が安置されている。

 また、その両横には、水子供養を祈願される人たちが奉納した「小形の慈母観世音菩薩立像」が立ち並んでいる。
 (昭和59年(1984)4月築)。


 ※「本堂」 

5龍昌寺本堂 …正面に、本堂から突き出た丸みのある瓦屋根と「龍昌禅寺」の額を掲げる向拝がある。

 「銅製燈籠」の間の石段を数段上ると、その両横に、参拝者を見守るように大きな「石狛犬」が鎮座している。



 …本堂入口前の階段の前面に、本堂内に入らないでも本尊釈迦牟尼如来を参拝できるように、灯明(蝋燭)立てや大きな香炉2個などが設置してある。

 無論、本堂に上檀して参拝することも可能である。(撮影不可)

 
6龍昌寺本堂横 …本堂の右手前に突き出すように建っているのは庫裡・寺務堂。
 今の季節(6月)、堂前の紫陽花が美しい。

 屋根越しに後方の樹林が迫って観えているが、この辺りは、両側の谷あいが迫っており、谷底的な感じが強くなっている。



 ※「本堂後方へ」 

7龍昌寺本堂脇 …本堂の左横から裏山の墓地に向かう途中、本堂左後方のガラス張りの高窓に描かれている彩色仏画(阿弥陀仏と鳳凰)が観えた。

 もちろん、ガラスの裏側から観ていることになるのだか、かなり美しく足を止めて鑑賞、合掌した。



8龍昌寺本堂の裏 …その先、本堂裏山の墓地に入る手前の右側
〜本堂の真後ろの庭の空ら池の上に、L字形に架かる渡り石橋から続いている石段の上の小高い場所〜
 に建っている白壁のお堂が観える。

 「お位牌堂」なのだろうか。


 樹花に囲まれ、深い谷に樹木を背負うように建っている白壁のお堂は、周囲の緑と相まって絵になりそう。この辺は、いよいよ両側の崖に挟まれた谷が迫ってきている感じが強い。

 ※つづく→「龍昌寺散策(7)〜井上周防・竹井伊豆守・瓜生長門守墓地(岡垣町)」。

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2018年06月23日

「龍昌寺」散策(5)〜由緒 (岡垣町)

 前回「龍昌寺散策(4)〜本堂下の表参道周辺(岡垣町)」から続く。

1龍昌寺案内板・黒田如水像 ・境内には「龍昌寺の由緒」を記した案内板が2枚ある。

 ・今回は、その内容を転記する。

 ・併せて、重複する部分も多々あるが、龍昌寺に係わる下記3史料の記事も転記しておく。

(※画像1: 紙本著色黒田如水像)


 (1) 龍昌寺の案内板1

 [禅曹洞宗龍昌寺]
 両大本山 永平寺・總持寺 
 本尊 釈迦如来
  準提観世音菩薩 慈母観世音菩薩 平和観音 身代り不動尊併祀
  遠賀川西国第五十三番札所(←※注「遠賀川西国第五十二番札所」の誤記ではないかと思う。)
  岡垣西国三十番札所
 開祖 延徳三年(1491)十月十九日筑前花尾城主麻生弘繁公
 開山 大寧寺(現山口県長門市湯元)八世足翁永満禅師
  開山後百三十年を経て建物大破
  永禄十一年(1568)二月廿八日 宗像の大宮司家より寺領田地七反寄進
 中興の開祖 元和三年(1617)三月廿八日 黒田藩重臣井上周防之房(道柏)公再建
  寛文五年(1665) 黒田藩三代藩主光之公より山林二丁五反寄進
  安永六年(1777) 黒田藩七代藩主治之公より熊手村(現八幡西区黒崎)六人浜の田地七反寄進
 寺宝 (福岡県指定文化財) 黒田如水像 井上周防像
    (岡垣町指定文化財) 紙本著色釈迦八相涅槃圖
 主な行事 千癪封じ大祭 (年三回)一月・五月・九月の一五日
      春季彼岸会法要 (三月下旬)
      山門施食会法要 (八月八日)
      秋季彼岸会法要 (九月下旬)
      成道会法要 (十一月下旬又は十二月上旬)
      除夜 (十二月三十一日夜)

 (2) 龍昌寺の案内板2 (岡垣町教育委員会設置)

2龍昌寺案内板・井上周防像 ※平成13年(2001)3月 岡垣町教育委員会設置の案内板の記事を転記する。

 なお、記事の両側に
 ・「紙本著色黒田如水像」の画像
 ・「紙本著色井上周防像」の画像
 を掲げている。

 (※画像1・2は、この画像を転写したもの) 



 [龍昌寺]
 玉雲山龍昌寺 所在地 岡垣町大字高倉1154
   宗派 曹洞宗
   本尊 釈迦牟尼仏

  岡城を築城したと伝えられる麻生家延の孫麻生弘繁の開基で、長門国深川の大寧寺八世足翁永満禅師が開山。1490年頃の創建と思われる。
  麻生弘繁の子麻生隆守は天文15年(1546)に大友の家臣瓜生貞延に攻められ、内浦の海蔵寺で自刃した。その後瓜生貞延が岡城に居住し支配したので、龍昌寺は衰退した。
  慶長5年(1600)に黒田長政公が筑前国に入り、守りを固めるため国内に六つの城を築き武将を配置した。
  そのうち井上九朗右衛門周防之房(すおうゆきふさ)=井上道柏(どうはく)・井上周防は、豊前方面に対する備えとして黒崎城を築き、八幡、遠賀一円を領地した。
  井上周防はもともと信心深く禅門に入っていたが、閑寂、幽邃の龍昌寺を愛し、ここを菩提寺に定め元和3年(1617)に再興した。

 [疝癪(せんじゃ)封じ]
   開運・安産・諸病平癒の祈祷をする秘法で、毎年1月、5月、9月の15日に行われる。

3龍昌寺案内板2 (県指定文化財)
  紙本著色黒田如水像
  紙本著色井上周防像
 (町指定文化財)
  紙本著色釈迦八相涅槃図
  井上周防の墓 (※後述)


 (3) 筑前國続風土記

 [龍昌寺 禅宗]
  玉雲山と號す。 高倉村にあり。 麻生彈正弘繁是を創立せり。 開山は足翁永満和尚と云。永正二年(1505)に寂せり。 然ば其前明應文龜の比、建立せしなるへし。 長門國深川泰寧寺(※大寧寺の誤記か)の末寺也。 中比廢亡に及ひしを、長政公の家臣 井上周防入道道柏再興して、如水公長政公両君の位牌を安置せり。 道栢没後此寺に葬る。 墓所あり。 亦 長政公の長女林光院寄進し玉ひし涅槃像あり。 其位牌もここに安置せり。 林光院は井上道栢の長子井上淡路室也。 淡路歿後尼となり、林光院と稱す。淡路は江戸直参の士と成る。

 (4) 筑前國續風土記附録

 [龍昌寺 洞家 佛堂]
  玉雲山と號す。長州深川泰寧寺(※大寧寺の誤記か)に属せり。此寺に井上周防位牌有。之房ハ寛永十年(1633)十月廿二日に卒せり。庭樹院殿雪渓道柏と號す。寺の後たかき所に墓あり。銘に曰(※長い漢文あり/省略)
  〇治之公、之房か功績を感稱し給ひ、安永六年(1777)の春、此寺に祭田を寄附し給ふ。恩恵いとありかたきことにこそ。寺後の山に櫻木多し。道柏自ら植置れしとそ。花の時、美観を極む。寛永八年(1631)の春、道柏家士數輩、僧侶をともなひ花を翫ひし和歌、村里にありしを茲に寫す。(※以下省略)

 (5) 筑前國續風土記拾遺

 [龍昌寺] 
  玉雲山と號す。禅宗洞家長州國深川大寧寺の末也。其始は麻生弘繁開基にして井上道伯(※「道柏」を「道伯」と書くこともある)これを再興す。開山は足翁永満/大寧寺八世永正二年乙丑(1505)寂/と云。道伯(道柏)此寺を修造して如水公の御肖像/賛辞ハ大徳寺の春屋也。慶長十年(1605)とあり。/ 興運公の御牌を安置して月に参拝有しといふ。其時林光殿より(長政公の御女菊姫君井上の息井上淡路庸名室) 両御尊牌の御齋料等年々寄附せらけしよし。又涅磐(槃)像をも一軸寄附せらる。今に在。道伯(道柏)没後此寺に葬る。庭樹院殿雪渓道伯(道柏)と號す。寛永十年(1633)十月廿二日没せり。墓背に銘あり。其文長ければここに略す。道伯の肖像もあり。道伯(道柏)の墓の側に弟河村越前之信及其子重信か假墓あり。後に當寺の住僧追福の為に建しと云。 寛文五年(1665)二月山林七千五百坪御寄附の有司の證文有。安永六年(1777)正月鳳陽公之房の功勲多くして子孫なきを憐ミ給ひて當郡熊手村の古開田の内七反の地を墳墓祭掃の料に此寺に寄附給へり。豊鐘善鳴録に豊前天寧寺繁林禅師諱瑞春當寺住せしよし記せり。此僧は永正十五年(1518)に没せり。

 ※つづく→「龍昌寺散策(6)〜本堂と周辺(岡垣町)」。

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2018年06月22日

「龍昌寺」散策(4)〜本堂下の表参道周辺(岡垣町)

 「龍昌寺散策(3)〜仁王門横の池を観賞(岡垣町)」から続く。

 [本堂下の広場]

 ・谷あいを緩やかに上る境内参道の突当りに、丁度本堂の下段に当たる広場がある。

1龍昌寺本堂前広場左トイレ棟 ・右側の崖下の、さつき等の植え込みがあるなかに「天聰地蔵尊」(※画像2)ほかの「石仏」や「石燈籠」、「龍昌寺由緒・案内板」(※次回2枚分掲載)、「長順法印供養堂」(※画像3)などがあり、左側には、本堂への表参道口(※画像4)や、普段は施錠されて使用できない「トイレ棟」(※画像1)などがある。


 ※「天聰地蔵尊」(石仏)

2龍昌寺天總聰地蔵 …「天聰地蔵尊」名は、初めて聞いたお名前である。

 実は、各地で聞きなれない地蔵尊名を見かけても、あまり深く考えることもなく見過ごしていることが多いが、ここでは何となく考えた。



 当初、漠然と曹洞宗の大本山總持寺(横浜市鶴見区)と係わる地蔵尊かと思っていたが、その後、「天聰」の「聰」は、總持寺の「總」ではなく、耳偏だと気付き訂正する破目に。
 結局、「天にまで届くほど耳がよく聞こえる賢いお地蔵様で、願いごとをお聞きいただける」、このような勝手な解釈をしたが、本当ことは聞いておらず分からない。


 ※「長順法印供養堂」

 …お堂の右下にある「長順法印縁起」によると次のようである。

3龍昌寺長順法印堂 …延宝年間(1660)神仏習合の時代、高倉神社の神宮寺「神伝院」の僧職に長順法印がいた。
 たまたま寺の法印家に家督争いが起こり、その結果、長順法印は無実でありながら捕えられ、当時の罪人処刑地であった「火宅堂」(現在の岡垣町吉木早崎地区)に於いて切腹させられた。


 長順法印の無実の憤死により、事件後、高倉村内には異変が續出したため、村人たちは恐れて龍昌寺に供養塔を建て、以て長順法印にゆかりのある人々により、「長順祭」(命日供養)を行うようになった。(現在は2月25日)
  ・法名 權大僧都隋安長順法印
  ・命日 寛文二年(1662)六月二十五日。


 [本堂下の表参道]

 ・「長順法印供養堂」の前(広場の右上方)から本堂に上る通用口の坂道(入口にアルミ引き戸あり)もあるが、正式の「本堂下の表参道口」は、広場の左手前にある。(※画像4)

4龍昌寺表参道 ・一対の「表参道」(朱色)と刻した「石燈籠」が建っている。

 ここが表参道口で、直進すると、その正面の崖下に石造「聖観世音菩薩立像」がある。

 表参道は、この前で、L字形に右に曲がる。



5龍昌寺表参道 ・さつき等の植え込みのあるなだらかな幅広の石段道の右側には「十六羅漢堂」(※画像5・6)、小堂宇(画像撮り忘れ)がある。

 左側には、かわいい「石地蔵群」(※画像5・6)、「石造五重塔」(※画像6)、「手水舎」(※画像撮り忘れ)などがある。


 ・この突当り、数段の石段の上に「山門」(※画像7)が建っており、その先、正面に本堂がある。


 ※「十六羅漢堂」

6龍昌寺表参道 …表参道L字右角にある木造銅板葺、小釣鐘のある堂宇で、前面格子ガラス張りの堂内には十六羅漢像が安置されている。

…「為小田 稗田家先祖代々諸霊位追善 十六羅漢堂修復 遠賀町遠賀川 小田久一 治行 ?佐子」の棟札が柱に打ち付けてある。



 [山門]

7龍昌寺表参道山門 …木造瓦葺のどっしりして美しい形をした両開き扉を有する本堂前の正門「龍昌寺山門」である。

 …前面の外袖漆喰塀の壁面に「山門大改修及袖漆喰塀 黒山 小野學 遠賀川 小野勝巳 昭和五十九年四月吉日 廿四世 鷲尾俊一代」と記されている。


 ※つづく→「龍昌寺散策(5)〜由緒 (岡垣町)」。

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2018年06月21日

「龍昌寺」散策(3)〜仁王門横の池を観賞(岡垣町)

 前回「龍昌寺散策(2)〜境内・仁王門へ(岡垣町)」から続く。

 [黄緑に染まった池]

1龍昌寺池 仁王門を通り抜けると、参道の両側に石造の新しい地蔵菩薩立像が立っておられる。

 その左側の地蔵菩薩立像の後ろに、築堤で山水を止めて作ったと思われる「溜池」がある。





2龍昌寺池 この池の名前は知らないが、龍昌寺を訪れたときは、必ずこの池の前で立ち止まり、しばし休憩し観賞する。

 池に藻が張っているのか、水の色が一面、黄緑(ライム)に染まっている。




3龍昌寺池 光線の具合によって、ティールグリーン(青緑)や黄色に観えるところもある。

 表面がこの色に染まって底の観えない池は、一見、不気味とも言えなくもないが、それでもとても美しい風景である。




4龍昌寺池 池の周りの樹木の緑と溶け合って、一面緑色の世界を形作っている。

 秋には、池の縁の楓の紅葉と合わさってまたそれなりに情緒がある。

 見方を変えれば、この緑の世界は、ひとつの癒しの空間かもしれない。



 仁王門から参道の小坂を急ぎ本堂に向かって上る人たちは、足を止めずに通り過ぎるところではあるが、私は、ここで、行き帰りともにいつも一息ついて深呼吸する。


 [横長の水盤]

 池の上方に、寺院の風景となじまないようなモダンな外観の家が、塀に囲まれて建っているが、境内にあるので、ご住職のお住まいかな。

5水盤など その前(谷あいの上り坂参道)を歩いていて、フェンス戸の間から、白石が敷かれた地面に置いてある「横長の水盤」(手水石か)と、蹲(つくばい)の水受け壺のような感じがする「絵柄入りの陶器鉢」が観えたので、一瞬立ち止まったことがあった。



 特に、このような横長形の水盤は、参拝者が多いときは便利だと思われるので、もとは、お寺で使用されていたものかもしれない。(※画像)

 ※つづく→「龍昌寺散策(4)〜本堂下の表参道周辺(岡垣町)」。

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