2018年07月

2018年07月31日

池浦村落の形成と池浦山王神社鎮座時期(宗像市池浦)

 前回「池浦古屋敷阯・薬師如来(宗像市池浦)」から続く

 (1) 池浦村の成立と産神山王神社

 ・宗像市池浦の前身は、明治8年(1975)「旧宗像郡多礼村」から分村して成立した「旧宗像郡池浦村」である。
 しかるに、この池浦村は、明治22年(1889)宗像郡河東村大字池浦となり、池浦村の名称はなくなった。この後、昭和29年(1954)宗像郡宗像町大字池浦、昭和56年(1981)宗像市大字池浦となった。

 ・因みに「江戸時代の池浦」については、筑前國續風土記、同附録、同拾遺に下記の記事が載っている。
  太禮村〜山王権現の社あり。枝村の内、池浦の産神也。」(筑前國續風土記) ◆多禮村〜日吉社フルヤシキ 池の浦にあり産神也。本編に山王とあり。」(同附録) 「多礼村〜山王神社 枝郷池浦の産神なり。」(同拾遺)

 ・上記により江戸時代の池浦は、一貫して「太禮村・多禮村・多礼村」の枝村(枝郷)であったことが分かる。この枝村(枝郷)が明治8年(1975)に分離(分村)して池浦村となったのである。

池浦山王宮鳥居 ・しかるに、同上の枝村であった池浦の産神として池浦「山王権現・日吉社・山王神社」の存在を掲げているので、枝村とはいえ産神を有する集落としてほぼ独立した村落(集落)形態をとっていたようにも思える。

 ※画像は、池浦山王神社の鳥居」(宗像市池浦632)


 ※別記参照→「池浦山王神社参拝(1)~標石」。

 (2) 池浦村落(集落)の形成と山王神社の鎮座の時期

池浦日吉山王社由来碑 ・先ず、池浦山王神社の鎮座時期について、山王神社境内に建立されている「池之浦日吉山王社之由来」碑は、次のように記している。

 ※画像は、池浦山王神社境内の池浦日吉山王社由来碑とその周辺(石燈籠、石段、拝殿、杜など)



 「康正二年筑前ノ國宗像郡多禮[村]池之浦郷氏戸四拾参戸相謀リ近江國滋賀郡比叡山ヨリ此村古屋敷ノ[内]ニ山王社ヲ勧請シテ産土神トセリ…近江國比叡山延暦寺ハ…天台宗総本山也而シテ山王権現ハ比叡山ノ守護神トシテ信仰セラル…池之浦日吉山王権現ハ…産土神ニテ宗形家ノ一族タル池之浦古屋敷宗形家ノ祖ガ此ノ地坤ノ方角百拾予間ノ処ニ天台宗円光寺ヲ創建セルニ始マル」。

 ※上記[ ]内の2字は、先に「池浦山王神社参拝(3)〜由来碑」を書いたときには読めなかった字だが、文脈から観て今回上記のように読んだ。
 ※別記参照→「池浦山王神社参拝(3)〜由来碑
      →「池浦山王神社参拝(5)〜由来碑続き

 ・つまり池之浦日吉山王社之由来は、池浦山王神社の鎮座時期は康正二年(1456)で、池之浦古屋敷宗形家ノ祖が、池之浦古屋敷に創建した天台宗円光寺に、近江國山王社・山王権現を勧請し池浦の産神としたとしている。

 ・だが、同上拾遺には、同社の鎮座時期について、「社家の説に康正二年近江國滋賀郡日吉社を勧請すといへ共、宗像社縁起に既に池浦山王と見えたれハ、猶其先久數時よりある社なるへし。」とある。

 ・康正二年(1456)は室町時代後半だが、この「宗像社縁起」は鎌倉時代末期に成立したと言われているので、遅くとも池浦の集落の成立、及び同集落の鎮守(産神)たる山王神社の鎮座は、鎌倉時代末期以前に遡ることができそうだ。


 (3) 古墳時代に池浦集落形成か

 ・私見を述べると、池浦山王神社は、近江國日吉社を勧請したようなものではなく、もともと当地(旧河東村)一帯に浸透した古代物部氏(赤間物部)が物部神の一として祭祀したものではないかと思っている。

 ・先に「稲元八幡宮(18)〜貴船神社、大歳神社、山王神社(宗像市)」にも記したように、山王神社の祭神「大山咋神」は、物部氏の祖神「饒速日命」と天知迦流美豆比売(アメノチカルミヅヒメ)の間の子だから、宗像に降臨し鞍手に王国を築いた古代物部氏が祭祀したと考えてもおかしくはない。

 ・山王神社の祭神「大山咋神」は、山王神・山王権現(日吉大社)、松ノ尾大神(松尾大社)とも称され、宗像三女神の一「市杵島姫神」(宗像大社辺津宮祭神)を妻神(松尾大社女神)としており、古代宗像(宗形)家との係わりは深い。

 ・池浦を含む周辺地区(旧宗像郡河東村内)には別記したように物部氏(赤間物部)に係わると思われる遺跡・古墳、神社等が数多く存在しており、特に池浦では、物部氏と、上記碑文にいう池浦宗形の祖よりも古い池浦宗形氏が深く係わったのではないかと想像する。
  ※別記参照→「鹽竈神社(考)その1〜概要・祭神(宗像市稲元)
  →「太神宮(大神宮)(1)〜概要 (宗像市河東)
  →「河東の久戸古墳群ほか(宗像市ひかりケ丘)
  →「河東天満宮(6)〜古墳と境内神社(宗像市)

 ・池浦には、確認されただけでも多くの古墳が存在しており、それらの古墳が宗形氏に係わるものか、物部氏に係わるものかは分からないが、既に古墳時代に池浦に集落が形成されていたことの証とはなるだろう。
 そして、この頃に池浦山王神社が鎮座、祭祀されたとも考えられるのではないかと思う。

 ・因みに、池浦地区の古墳について、「むなかた電子博物館紀要第2号むなかた地域遺跡分布図」には「池浦高田遺跡」の名がある。

 また、「遺跡ウォーカー」には、次の古墳名が載せてある。このうち池浦宮ノ脇遺跡、同古墳の所在地の地番・池浦657は池浦宗形家古屋敷と同じ地番である。(※各地番は、発見当時のものであり、各古墳群等の代表的な古墳の位置を示す)。
 「池浦イボリ古墳:池浦180、池浦高山遺跡:池浦236、池浦高山古墳:池浦239、池浦壱反庄古墳:池浦283、池浦壱反庄遺跡:池浦298、池浦高田遺跡:池浦356、池浦弥宣ノ給遺跡:池浦443、池浦トボシ古墳:池浦467、池浦トボシ古墳:池浦477、池浦トボシ古墳:池浦535、池浦鐘崎道古墳:池浦595、池浦椿古墳:池浦6-3、池浦椿古墳:池浦6-7、池浦鐘崎道遺跡:池浦615、池浦宮ノ脇遺跡:池浦657、池浦宮ノ脇古墳:池浦657、池浦宮ノ脇古墳:池浦671、池浦岩ノ原遺跡:池浦65、池浦岩ノ原古墳:池浦65、池浦牟田遺跡:池浦78、池浦丸牟田遺跡:池浦78」。


 (4) 縄文、石器時代

 ・しかるに、「池浦」の地名は、縄文期の釣川の入り海に由来するとの説もあり、その頃の時代に既に池浦の人々の生活の基盤ができていたことになるのだろうか。
 さらに、池浦には、後期旧石器時代の池浦トボシ遺跡もあり、池浦おける集落の誕生は、山王神社の鎮座時期を遥かに超えてもっと古くまで遡ることになりそうだ。(次回別記予定)。

 ※次回→「池浦の地名由来、池浦ドボシ遺跡(宗像市池浦)」。

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2018年07月27日

池浦古屋敷阯・薬師如来(宗像市池浦)

 前回「宗像四国東部霊場70番・池浦馬頭観音(宗像市池浦)」からつづく。

 「池浦古屋敷・薬師如来堂」(宗像市池浦657)を、最後に訪れたのは、平成27年(2015)6月19日だったので、本稿を書くにあたって再度訪れてとは思っていたが、闘病中でもあり予定がつかず、当時のメモを見ながらここに書きとめておく。

 (1) 池浦「古屋敷阯」

1古屋敷の杜 ・多礼ダム右岸沿いの道路の北端部付近から吉田ダム方面に抜けるT字路がある。
 その右側に杉や檜の林に囲まれた杜がある。

 ・ダム沿い道から、その杜を覗き込むと、その中ほどに長方体の石碑が建っているのが見える。



 ・これが池浦宗形家古屋敷址を示す「古屋敷阯碑」(大正四年九月佛日建立)である。

2古屋敷阯 ・その左の石段(6段)を上ると石柱門があり、この内側の一画が池浦宗形家古屋敷址である。

 ・現在、ここに次の史跡がある。「地主宗形六三郎氏家之墓
池浦高橋家祖高橋彦大夫奥津城」(彦大夫は高橋伊豆守妾子)
池浦古屋敷薬師如来堂」ほか。



 また、当地一帯に「池浦山王神社の原形である天台宗円光寺廃寺址」があったものと思われる。


 (2) 「史蹟 宗形君縁起碑」

 ・「史蹟 宗形君縁起碑」は、石柱門の左に建っており、次の縁起碑文が刻されている。

3古屋敷宗形君縁起碑 「大己貴命 先に胸形にまします奧都島之命田心姫命を娶りて一男一女を産み給う 御兄を味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと) 御妹を下照姫命也
 味耜高彦根命五世之孫吾田片隅命を祖先とする宗形君は玄界灘の沿岸に繁?した雑多な出来事を治めた海神にして一族は古屋敷太禮池之浦に?住す
 古屋敷宗形家の後裔の女筑紫の岩屋城主高橋招運の側室となり一女あり成長し筑前國主黒田家の船手奉行高橋伊豆守の妾となり二男あり 兄彦大夫 弟庄九郎なり
 宗形家 高橋家直系 高橋喜一郎 同高橋辰次郎 同高橋宗助 建立」

 ※文中の?(二文字)は、私が読めなかった字である。
 ※「太禮池之浦」とあるのは、かつて池浦(池之浦)が「太禮(多禮)村の枝村(枝郷)」であったことによる。
 ※この碑の建立者で、池浦宗形家系・池浦高橋家直系とされる上記3人のうち、高橋喜一郎さんと高橋辰次郎さんは、池浦山王神社境内に建つ「池之浦日吉山王社之由来碑(昭和52年8月建立)」の建立者でもある。

 ※別記参照→「池浦山王神社参拝(3)〜由来碑
  →「池浦山王神社参拝(5)〜由来碑続き


 (3) 宗形六三郎墓、高橋彦大夫奥津城など

4古屋敷高橋彦大夫之奥津城 高橋彦大夫之奥津城と寄墓

 「高橋彦大夫之奥津城」と刻した石碑の後ろに寄墓がある。
 この寄墓は、多分、個別に建っていた池浦高橋家代々の人たちの古墓石を何かの事情で分解して、ここにまとめ、寝かせて積み重ねたものだと思うが、一見すると無縁墓のようにも見えてしまう。


 これらの墓石の詳細は、ちょっと見ただけなので分からないが、ただ、このなかには、延享二年(1745)、享和元年(1801)、文化六年(1809)、文政六年(1823)などと読み取れるものもあり、それだけでも文化遺産的価値がありそうに思えた。


5古屋敷五重塔と小五輪塔 石造五重塔
 寄墓の右横に建っているが、詳細はメモしていない。

 地主宗形六三郎氏家之墓〜小五輪塔9基
 後背の林を背にして一列に並んで建つ池浦宗形家代々の墓だと思うが、詳細は調べていない。



 ※「高橋彦大夫」「宗形六三郎」について
 〜高橋彦大夫の名は、上記「史蹟 宗形君縁起碑」にも出ているが、別記「池浦山王神社参拝(4)〜高橋伊豆守(黒田長政公殉死者)子孫」に、池之浦日吉山王社之由来碑により、次のように記している。

 「江戸時代初期、池之浦古屋敷の地主宗形六三郎の娘と高橋伊豆守の間に男子彦太夫が誕生、彦太夫は、幼少より高橋伊豆守の屋敷で文武を学び、成長後、、母方宗形家に戻り高橋氏を名乗り池浦高橋家の祖となった。」

 また「池浦高橋家の祖先は、池浦に起居した宗形一族(池之浦古屋敷宗形家)で、池浦山王神社(日吉山王権現社)は、その古屋敷に建立されたという由緒を持ち、同山王神社の原型は、同先祖が天台宗円光寺(廃寺)を池浦寺屋敷に建立したことに始まる。」


 (4)池浦古屋敷「薬師如来堂」

6古屋敷薬師堂と珪化木 ・「宗像四国東部霊場第四十六番本尊薬師如来
 (池浦古屋敷薬師如来堂)

 〜入口は施錠され、堂内は見えない。

 〜薬師如来堂の前方に珪化木や手水石などが置いてある。




7古屋敷修行大師像 〜薬師如来堂の右横に石造「修行大師立像」がある。

 大師の右手に錫杖、左手にお布施入れを持つ修行中の弘法大師と思われる。
 この大師像は容貌が凛々しい。





 ※当地が天台宗円光寺廃寺跡だった故に、ここに同寺と係わる薬師如来堂があると考えてもよいのかもしれない。天台宗では薬師如来を祭ることは多い。
 ※池之浦日吉山王社之由来碑に「寺屋敷」という地名(呼称)が記されているが、ということは「寺屋敷」と「古屋敷」と同じところだったと考えて良いようだ。

 ※因みに四国八十八ヶ所霊場第46番は「医王山養珠院浄瑠璃寺(真言宗豊山派)本尊薬師如来/愛媛県松山市浄瑠璃町282」である。

 ※付記〜「池浦宮の脇古墳」が近く(古屋敷と同地番)にあったと聞いたが、未確認。なお、宮の脇の名は、池浦山王神社(山王宮)の脇にあるという意味かもしれない。

 ※次回→「池浦村落の形成と山王神社鎮座時期(宗像市池浦)」。

keitokuchin at 21:06|PermalinkComments(0)

2018年07月19日

宗像四国東部霊場70番・馬頭観音(宗像市池浦)

 前回「クロガネモチノキが突き破ったブロック塀(宗像市)」からつづく。

 「池浦馬頭観音堂(小堂宇)」

1池浦観音宗像四国東部霊場第七十番
 本尊 馬頭観世音菩薩

 (池浦 馬頭観音堂)

・所在地
 福岡県宗像市池浦328-9
 池浦納骨堂(霊光殿)敷地内
 納骨堂の右側
 ブロック造(高さ9段)小堂
(※画像)


 ・馬頭観音堂内の須弥壇(ブロック3段半上)に安置されている仏像は、向かって右から、弘法大師坐像2躰(石造)、本尊馬頭観世音菩薩(馬頭観音)坐像石仏、地蔵菩薩坐像石仏、木造阿弥陀如来像(風化が進んでいる)。

 …馬頭観音は、馬の守護仏と言われ、かつて農家では家畜として必要な馬が飼われ大事にされていたので、農業地帯で多く信仰された。

 ・因みに、四国八十八ヶ所霊場第70番札所は、七宝山持宝院本山寺・本尊馬頭観音/高野山真言宗(香川県三豊市豊中町本山甲1445)である。


 「馬頭観音堂前の門柱の刻」

1-2池浦観音門柱 ・馬頭観音堂の前に建っている2本の「門柱」(境界門)には、「慈眼視衆生」と「施聚海無量」の刻がある。
 ・「慈眼視衆生 福聚海無量」(じげんじしゅじょう ふくじゅかいむりょう)は、「観音経」(妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五)の偈文の一部である。


 …「具一切功徳 慈眼視衆生 福聚海無量 是故応頂礼」。

 ・馬頭観音は、馬頭明王(特に密教では)と言われるように忿怒の形相をしておられるが、六観音の一であり、特に馬、畜生類を救済する畜生道化益の観音といわれ、そのお経は、ほかの観音と同じ「観音経」である。

 ・上記部分を直訳すると「観(世)音菩薩は、一切の功徳を具して、慈眼で衆生を視られる。福聚の海は無量、是の故に応に頂礼すべし」となる。
 〜当修験道場の観音会(原則18日)では「観音経」を勤行しているが、この部分については、次のように解釈している。

 「観音菩薩は、いつも慈悲溢れる眼差し(仏像では半眼を以て表現することが多い)で人々を見つめて居られるので、観音菩薩と同じような心で生きる(菩薩行を行う)人には海のように広い観音菩薩の福徳が集まってくる」。

 ・なお、この観音菩薩の「福聚海無量」は、無量寿仏(阿弥陀如来仏)の功徳を説く「仏説観無量寿経」のなかの一文「仏眼如四大海」にも匹敵しているように思える。
 (※別記参照→「仏眼如四大海とうつみ宮土理さん」)


 「子育地蔵菩薩像(水子地蔵尊)」

 ・納骨堂の左前方の敷地内に御影石造の「子育地蔵菩薩像(水子地蔵尊)」がある。(※画像)

2池浦子育地蔵 〜台座正面に地蔵菩薩の梵字「カ」の刻あり。

 昭和60年[1985]4月
 愛媛県松山市 真言宗教本寺 阿闍梨僧正 中村明弘建立。
 愛媛県大洲市柚木 谷本石材工業部施工。
 (なぜ愛媛県…なのだろうか)。


 ※愛媛県大洲市と云えば、本年(平成30.7.7)、西日本豪雨で2800棟の住宅が浸水した。…肱川上流の鹿野川ダムの放流により、下流が氾濫した。


 「当地へのアクセス」
 ・前回「福崎区公民館」(宗像市河東1061)から県道97号(福間宗像玄海線)を北上、700m先に「河東西小学校入口🚥」がある。

3池浦納骨堂入口 仝道をさらに550m北上、三叉路(左側の住宅団地の切れ目)を左折、80m先(三叉路)の左側に「池浦納骨堂入口」あり(宗像市池浦328-16)。

 巡礼道は、「河東西小学校入口🚥」左折、50m先交差点を右折、600m先三叉路を右折、150m先右側に納骨堂入口あり。


4池浦公園と公民館 ・車の場合、上記,稜執堂入口前で、三叉路を右折、35m先右側の池浦公民館(宗像市池浦330-4)、又は70m先左側の公園(宗像市池浦336)に駐車場がある。

 ※宗像コミュニティバスの場合、上記公園前に、「池浦公民館バス停」がある。


 ※西鉄バスの場合、「池浦バス停」下車、県道97号線を福崎方向に160m南下、三つ角を右折、80m先左側に納骨堂入口あり。


 (付記)「池浦区内、その他の社堂

 ・「山王神社」(池浦632)
 ※別記(下記)参照 (2011年2月23日〜3月5日掲載)
 →「池浦山王神社参拝(1)~標石
 →「池浦山王神社参拝(2)~猿の石造、蓬莱竹など
 →「池浦山王神社参拝(3)~由来碑」(その1)
 →「池浦山王神社参拝(4)~高橋伊豆守(黒田長政公殉死者)子孫
 →「池浦山王神社参拝(5)〜由来碑続き」(その2)
 →「池浦山王神社参拝(6)~アラカシの杜

 …仝道97号線・池浦バス停(西鉄バス)/渡辺酒店のある交差点(🚥はない)を北西に、池浦集落内を突き抜けて750m先、山間にある。
 …納骨堂(馬頭観音堂)入口から上記「池浦公民館バス停」ある公園の前の里道を200m直進すると上の池浦集落内を突き抜ける里道と合流、左折すると600m先。

 ・「池浦古屋敷・薬師如来」(池浦657)
 ※上記「山王神社」の創建に係った池之浦古屋敷宗形家の旧跡地と思われる。次回掲載。
 …〇害神社の北西400m/多礼ダムの北側道路沿いにある。
 …池浦納骨堂入口から西に集落内の旧道を上り抜けると1km先にある。
 …2賄貔松学校入口🚥から西に車道を上ると1.6km先にある。

 ※次回→「池浦古屋敷阯・薬師如来(宗像市池浦)」。

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2018年07月17日

クロガネモチノキが突き破ったブロック塀(宗像市)

 前回「保存された(旧)河東橋の親柱(宗像市河東)」からつづく。


1福崎モチノキ 福崎区公民館前の里道を集落のある方向に直進すると、その途中、アスファルトで敷かれた道幅の狭い里道の左側に高いブロック塀のある場所がある。

 基礎部分はブロックにしたら3段分の高さのあるコンクリート造だが、その上に2段、更に継ぎ足したと思われる4段のブロックが積まれた高い塀である。
 この上にもう1段ブロックが積まれていたと思われるが、この部分は撤去されている。



 この下部に根を張ったクロガネモチノキが大樹になり、根は塀の外側の里道にまで張り出し、幹は塀の基礎部分と下段2段のブロック塀を突き破り、塀の内側に伸び、さらに上部のブロック塀を押しだし亀裂を生じさせている。(※画像)

 その生命力の凄さを感じ活力をもらえそうに思え、また、観ていて絵になる風景で、ここを歩くとときは、いつも歩行を緩めていた。

 ところが、最近(2018.6.18朝)大阪北部・高槻市などで起きたの地震(震度6弱)で高いブロック塀が倒壊し、通学中の小学4年生の女児を巻き込んだ痛ましい事故のニュースを見て以降は、逆に不安に覚えるようにもなった。

 環境保全、風情も安全を念頭にして考えねばならない時代になったのだろう。次にここを通るときは速足になるかな。

 ※次回→「宗像四国東部霊場70番・馬頭観音(宗像市池浦)」。 

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2018年07月16日

保存された(旧)「河東橋」の親柱 (宗像市河東)

 前回「福崎大師堂〜弥勒・観音菩薩(宗像市河東) 」からつづく。

1旧河東橋親柱2本 ・宗像市河東地区の福崎集落内に「福崎区公民館」(宗像市河東1061/福岡県道97号線沿)があるが、その駐車場内の南東部の、角部分の地面に石製の「()河東橋の親柱」2本が移設保存されている。
(※画像)





 ・前述した「福崎大師堂」や、河東天満宮裏参道経由で「河東天満宮」に参拝に行くときには、「福崎区公民館」に駐車させてもらっているが、ここにこの「旧橋の親柱」が保存されていることに気づいたのは、最近だった。

 ・このとき、この2本の旧橋の親柱に「河東橋」と「昭和六年三月竣工」(1931)の刻銘があったことは見ていたが、あまり深く考えもせずにとりあえず写真だけ撮っていた。

 ・後日、改めてその写真を見直し、かつて当地(多分、河東地区福崎区)のどこかに、昭和6年(1931)という古い時期に、河東の地名を付けた「河東橋」が架けられた、その旧橋の親柱を移設保存したことにはそれなりの意味があってのことだったのではないのかと思った。

 ・当初は、多分、何かの事情により「新・河東橋」を架設することになり、廃棄された「旧・河東橋」の親柱を保存したのだ思っていたが、では、この「旧・河東橋」がどこにあったもので、同所に架け替えられた「新・河東橋」とは、どの橋なのだろうかと思ったとたん、行き詰まった。

 ・それは、河東地区内の河東区や福崎区にある橋の名を記していたメモにその名がなかったからだった。
 写真を撮ったとき、地元で聞けばよかったのだろうが、そのときは、そこまでは考えていなかった。しかるに、その後、当地を再訪していないので、このまま、ここに本稿を載せている。

 ・なお、この保存されている旧橋の親柱のすぐ後ろ、県道沿いの横山川に架かる小橋は、多分、福崎二号橋(銘板がなくなっているが)で、福崎区にある橋は、「福崎〇橋」と福崎を冠したものが多いが、「河東橋」はない。
 また、河東区を貫流する山田川釣川の架橋のなかにも「河東橋」はない。

 ・因みに、現在、旧福崎の地名(大字)は、すべて河東となっているが、公の施設、例えば福崎区公民館、福崎〇橋、福崎交差点(信号機)などに使用されている。

 ・考えられるのは、現在、山田川と横山川の二流をひとまたぎするように架けられている「山田川橋」(県道97号福間宗像玄海線/架橋時期未詳)である。
 この橋は、県道拡張により架け替えられた新橋で、その橋名はシンプルで新名称ではないかと思えるので、多分、それ以前のここには、山田川及び横山川のそれぞれに架かる別々の「旧橋」があったのではないかと思え、そのいずれかが「旧・河東橋」だったのかもしれない。

 ・このような結論を導き出したが、今は消滅した「旧・河東橋」が存在していたことを記憶(記録)するための地元の歴史遺産として、その一部である旧橋の親柱2本をここに移設し保管されたものかもしれない。
 再訪できる機会があれば地元で尋ねて間違っていないかを確かめたい。

 ※(注)「橋の親柱とは、橋の欄干の端に付いている柱で、現在は、デザイン性のある御影石が多くなっている。
 また、橋名の刻については、旧橋の場合は、親柱に直接刻してあるものが多いが、新橋では、親柱の上部に鋳鉄製銘板を貼りつけてあるものが多い。
 なかには、ガードレール欄干橋など、親柱のない橋では、欄干の端付近に鋳鉄製銘板を貼りつけてあるものも多々見かける。
 なお、通常、漢字名の刻(又は銘板)は、起点側の右側の親柱や欄干に付けるようになっているそうだ。ひらがな刻銘は終点側の右側、また、それ以外の各左側に、竣工年月銘(=元号年が多い)や河川名銘が記されていることが多いようだ。

 ※つづく→「クロガネモチノキが突き破ったブロック塀(宗像市河東)」。 

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2018年07月15日

福崎「大師堂」〜弥勒・観音菩薩(宗像市河東)

 前回「河東天満宮(7)〜裏参道(宗像市)」からつづく。

1福崎大師堂 [福崎大師堂]

 ・宗像四国東部霊場「第十四番本尊弥勒菩薩」(福崎)
 ・宗像四国東部霊場「番外第七拾九番本尊観世音菩薩」(福崎)

 ・「福崎大師堂」は、河東天満宮裏参道の左側の孟宗竹林を背にした私有地(安部家)の裏山に建っており、上記弥勒、観音両菩薩霊場のお堂とされている。(※画像)

 (宗像市河東1406安部様方)


 ※このお堂の堂名については、単に「大師堂」(お大師様)でよいのだが、河東地区には、もう一つ、前述した「専光寺大師堂」があるので、区別する意味で、ここでは「福崎大師堂」と書かせていいだく。

 ・上記二菩薩霊場とはいえ、お堂内の須弥壇に吊り下げてある「弘法大師像の掛け軸」の下に安置されている小仏像は、弘法大師坐像(一部破損)4躰と聖観世音菩薩坐像(一部破損)1躰のようで、弥勒菩薩像はない。


2福崎大師堂祠と杜 ・そのため、お堂の外の右後方、孟宗竹林の前にある「石祠」がそうかと思ってみたりもしたが分からない。(※画像)

 なお、この孟宗竹林は、河東天満宮裏参道(左側)の杜で、一度だけこのなかを歩いたことがあるが、二度と入ろうとは思わない。


 ・須弥壇には、この他、20人前後の法名を列記した一枚の位牌札が置いてあり、その詳細は分からないが、もし、これが安部家のご先祖様だとしたら、このお堂や石祠は、安部家の先祖供養とも係わるものかもしれない。

 ・この辺りは、福崎区(河東地区内)の集落の中心地で、昔ながらの風景が広がっているが、道が狭く、車でお参りに行ったときは、「福崎区公民館」(県道97号線沿い/宗像市河東1061)に駐車させてもらい歩いた。


3福崎大師堂藤棚石段 ・福崎区公民館前の里道を南西に進むと、その突当りに門構えの民家(安部様)がある。
 「福崎大師堂」は、その庭の奧、崖面の石段(昭和18年8月設置)の上、藤棚の下に建っているので、同家の庭を通らしてもらわないと行けない。

(※画像)


4福崎大師堂戦前修理板所 ・上記「石段設置年月」については、堂内の壁面に「昭和十八年八月大師堂修理及石段新設ニ付篤志者之寄附芳名ヲ記す」と題した板所(※画像)が貼り付けてあることにより伺えるが、貴重な史料である。
 それまでは、この急斜面を上る土留めの階段があったということなのかもしれない。


 ・ただ、現「福崎大師堂」は、見た目にも新しい木造の大きなお堂なので、このときに修理された大師堂ではないことが分かる。


5福崎大師堂債権者名簿 堂内の壁に掲げてある「大師堂建設協力者御芳名」(※画像)に「平成?年八月吉日」の墨書年号が見え、また、別に上記の昭和十八年修理の板書もあるので、多分、少なくとも戦前より古い時代からあったお堂が老朽化していたので、平成に入り、多くの賛同者の寄付を得て建て替えられたのだ思われる。



6福崎大師堂・ ・上記芳名簿によると、平成の建て替えに係る施主は、安部龍一郎、安部清子、世話人4人(伊規須、安部)、協力者:団体含め49人、棟梁:玉置廣人。墨書が読み辛くなっている個所あり。
 なお、現福崎大師堂の管理者は、安部龍一郎さんだと思う。



 ・なお、この辺りに、このお堂の場所を示す表示案内板等は一切なく、初めて行ったときは、まさか民家のなかを通り抜けるとは思わず、行き着かなかったことを思い出した。

 ・因みに、四国八十八ヶ所霊場第14番札所は、盛寿山延命院常楽寺(高野山真言宗)本尊弥勒菩薩(徳島市国府町延命606)。
 ・また、同上霊場に「番外第79番」はないが、第79番札所は、金華山高照院天皇寺(真言宗御室派)本尊十一面観世音菩薩(香川県坂出市西庄町天皇1713-2)。

 ・宗像四国東部霊場第79番は、鐘崎西町・本尊十一面観世音菩薩である。
 ※別記参照→「鐘崎西町観音堂(宗像市)」。

7福崎大師堂79番板所 ・しかるに、福崎大師堂内には、「宗像四国七十九番御詠歌板書」(※画像)が残されているので、宗像四国霊場が概して釣川を境に東部、西部に分離される以前は、ここが79番札所だったのかと思われる。当時、79番の本尊十一面観世音菩薩像が滅失し、番外とされたということなのか。


 ・因みに、同上板書に刻してある御詠歌は、変体仮名・草書体で書かれているので読みにくいが「志ゆらく(十楽)のうき世(浮世)のなかをたずねべし天皇さえもさすらいぞある」である。
 ・年号は、かなり読みにくいが、「慶應四年辰閏四月」(1867)か。
 ・また「施主(福間町)谷岡万吉 發記 福間 井原源右衛門 井原千右衛門 笠増平 林大四郎 大川徳十 今橋儀右衛門 廣渡利右衛門 廣渡和三郎 久保村 天野増右衛門」とあり、当時、奉斎されていたのは、福間町(現福津市)や久保村(現古賀市久保)の人たちだったことが分かる。

 ・この發記の氏名を見ていて、これと一部重複する人たちの板書が、「多礼中の阿弥陀堂」(宗像市多禮公民館後方)にあったことを思い出した。
 その板額には、「宗像四国七十一番 悪人と行きつれなんもいや谷寺たたかりそめも能友ぞよき 慶應四年辰閏四月 施主 松原 井原嘉吉 發記 福間 井原源右衛門 井原千右衛門 笠増平 林太四郎 大川徳十 今橋儀右衛門 責波利右衛門 廣沢和三郎 久保村 矢野増右衛門」と記されていた。
 …廣渡利右衛門と責波利右衛門廣渡和三郎と廣沢和三郎は、多分同一人物と思われ、どちらかで姓の字を読み間違えているようだ。


 追記:「向手観音堂(?)」 

 ・筑前國續風土記附録に「〇觀音堂ムクテ」、同拾遺に「〇観音堂ムクテ立像境内凡千坪程除地。弘法大師の石像有。」の記述がある。
 ムクテとは、旧河東本村のうちで、山田川と釣川の間(県道97号線沿い)にある「向手」集落のことであるが、観音堂については分からない。

 ・なお、向手は、県道の削平工事がなされた昭和41年(1966)以前は、「向手丘陵」と言われた微高地(標高10m)があったという。
 また、昭和8年(1933)に発掘された弥生時代(?)の竪穴住居跡(釣川遺跡)もあったらしい(東郷橋の下流約300mの釣川の川床)。

 ※つづく→「保存された(旧)河東橋の親柱(宗像市河東)」。

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2018年07月12日

河東天満宮(7)〜裏参道(宗像市)

 前回「河東天満宮(6)〜古墳と境内神社(宗像市)」からつづく。

 ・福崎集落内にある河東天満宮裏参道口から脇参道口(裏口)まで上って行く「裏参道」(車輛通行不可)は、現在は、その上部が「車道参道」と重なっており、その上の脇参道口には駐車場も完備している。
 小生は、平成22(2010)年7月31日以降、これまでに、福崎区公民館(県道97号線沿い)に駐車して、この裏参道を歩いて数往復しているので、本稿の最後に記しておく。

 [裏参道口]

1河東天満宮裏参道口鳥居 ・河東天満宮裏参道口は、社殿の真北の山裾、福崎集落内にあり、里道に面して15段の石段がある。
 その石段の上に石燈籠一対、明神石鳥居1基(明治40年9月/1864)が建っている。
(※画像)
(宗像市河東1328)。



 ・福崎集落内の里道は、道幅が狭く、路上駐車などできる場所はないが、裏参道口の道路際に、「寄贈 伊規須徳博 道路拡張幅用地 80.0平方米 平成2年10月」と刻した石碑があるので、それ以前のこの辺りの里道は、もっと狭かったのだろう。
 ・この寄贈碑を観ていて、里道に面した土地を、惜しげもなく寄贈された伊規須徳博さんは、きっと永代に亘る「神徳」をいただかれると思った。

 [裏参道]

 ・この石鳥居をくぐり裏参道に入ると、参道の両側に生えている樹木の枝葉が頭上を覆う、その下を通る砂利道で、道幅は広いが昼間も暗いイメージがある。
 そのため、割と平坦な道ではあるが、その距離がおよそ200m強あり、初めて歩いたときは、途中で多少不安になりそうだった。

 ・途中、2か所、この参道に合流してくる小路があるが、一つ目は、辻山の東山裾のから、二つ目は同西裾(車道参道口の近く)から入ってくる小路で、同所近くの人たちが参拝に便利なように作られたものだろうか。


2河東天満宮裏参道杜内 ・一度だけ、裏参道の途中から左側の森のなかに入ったことがあるが、深い孟宗竹林のなかに迷い込み、気付いたら14番彌勒・番外79番観音堂(次回別記)の裏(石祠あり)に行き着いた。もちろんこれはその参道などではない。同堂には改めて参拝することにして引き返した。


 ・薄暗い林のなかの参道を通り抜けると、明るいT字路に突き当たる(河東1521)。ここを左折、これから先は、舗装された車道参道の上り坂と重複し、この150m先に福崎側脇参道入口がある。

 ・なお、T字路の正面は墓山で、この墓山に沿って坂道を上ることになるが、その墓山の上の段の入口までの間、車道の左側には8本の桜の古木並木があり、桜の季節は美しい。
 ここから、残り50mほどある急坂の上方の両側に建っている寄進大石燈籠が見えており、その上の左側が河東天満宮福崎側脇参道口である。

 ※本稿「河東天満宮」おわり。
 ※本稿トップ→「河東天満宮(1)〜表参道(宗像市)」。

 ※次回→「福崎大師堂〜彌勒・観音菩薩(宗像市河東)」。


 (余談)
 本件とは関係ないが、入手していた土地に建物を建てようとしたとき、その土地に入る公道のうち、土地と接している部分のほんの数坪を個人が所有していることが分かり、購入を申し出たら、相場の数十倍の価格を提示された。このような土地を安く買い取り、時期がくるまでじっと持っておいて、高く売るのがその人の商売らしい。このような長期に亙る余裕のある謂わば賭けに近い商売があることなど、初めて知った。長い交渉期間を経た後、言い値の半額で購入できたが、それでも高い買い物だった。
 上記の伊規須さんが公共道に、土地を寄贈されたことを知り、ついこんなことを思い出した。
 なお、小生の住む団地では、過去に町内集会で協議の上、公道に面して私道を持っている人は、全員公道に寄贈した。

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2018年07月11日

河東天満宮(6)〜古墳と境内神社(宗像市)

 前回「河東天満宮(5)〜由緒考(宗像市)」からつづく。

 [河東天満宮古墳]

1河東天満宮拝殿と境内社と古墳 ・「神殿の裏山には、5~6世紀頃の古墳があり、地主の神として奉祀されている。
 また神殿の東側には、須賀神社と貴船神社がある。
 拝殿内には多くの絵馬、境内には多くの石造物が寄進され、古くからこの地の住人たちが崇敬してきている。」(由緒碑)



 ・拝殿の後ろに回ると、渡殿と別棟の神殿の周りは、厳重に金網が張られ保護されており、近づきがたい雰囲気が漂っているが、この神殿の真後ろに小丘陵のように盛り上がった古墳があり、その墳丘の縁には土砂の崩落等を防止する防護壁石垣が作られている。


2河東天満宮古墳神殿裏 ・この神殿(社殿)と古墳の立ち位置(配置)を見たとき、すぐにこ当社は、古墳の神を崇めるために作られていることが分かる。

 したがって、その事実上の御神体は、「地主の神」として奉祀されているこの古墳の神(被葬者)ではないのかと思われる。



 ・その神殿右横(東側)に「地主の神」、拝殿左横に「地神」と記した石碑もあり、これらはこの古墳の神の供養碑だと思われ、地元の人たちが古墳の神に畏敬の念を持っていることが伺える。
 

3河東天満宮古墳脇参道沿 ・墳丘の形は、周囲が削られているので明確には分からないが、径10mを超える「円墳」ではないかと思われる。

 しかるに、社殿の造営により社殿の方に伸びていた墳丘の前方部が削られたとも考えられるので、もとは「前方後円墳」であった可能性もある。


 ・この古墳は、辻山で最も見晴らしの良い東峰の頂部に作られており、被葬者は、5~6世紀頃の河東地区内の束ねた盟主だっただろう。

 ・当地から、まっすぐ南方に霊山・許斐山(熊野・許斐権現)の山容がはっきりと見え、許斐山を遥拝することができるので、熊野・許斐権現との係わりも思わせる。

 ・許斐山(熊野・許斐権現)は、古代から宗像地方の最も高い霊地霊山として崇められてきた「宗像五社の一」であるが、許斐権現(伊弉册尊、泉津事解男命、泉津速玉命)は、出雲熊野・物部神素戔嗚命」とも言われる。

 ・因みに、古代の宗像五社とは、「宗像神社(宗像大社)・織幡神社・孔大寺神社・的原神社・王子神社(王子神社=王子宮は、許斐山熊野神社の奥宮で熊野権現・許斐権現と称す)」で、後に宗像五社とされたのは、「宗像社第第一宮・第二宮・第三宮、織幡明神、許斐権現」である。
 ※別記参照→「的原神社も宗像五社の一つ?」・「宗像神郡と宗像大社末社」。

 ・辻山に、このほかに古墳があるとは聞いておらず、車道参道を北西側に下った谷の対面丘陵に久戸古墳群(4世紀末から7世紀後半の群集墳)があったので、当古墳とこの古墳群との係わりも考察されるべきかと思う。
 ・特に、遠賀郡の以西では例外的とされる久戸古墳群における横穴墳墓は、鞍手、遠賀川流域を抑えた物部氏(祖神・饒速日命)による築造だったのではないかと考えたとき、当天満宮の古墳の前に物部神「須賀神社」(素戔嗚命)があり、また境内神社に、その子饒速日命を祀る「豊日神社」がが鎮座していることに注目した。

 ・当社の東の丘陵にも当社の摂社とされる太神宮(大神宮)が鎮座し、その事実上の祭神もまた、大物主命とされる饒速日命であれば、当地には古代物部氏の系譜に係わる人々が居住していたとも考えられ、当古墳が古代物部氏と係わる当地の盟主であったと考えられる。

 ・天満宮の祭神「菅(すが)原神」は、「須賀(すが)神社」の系譜につながる出雲物部菅原氏の神であることからして、当地には、まず天満宮の前身として、その古墳の神を祀る「須賀神社」が鎮座し、後世、その流れをくむ「天満宮」が勧請されたと考えられないだろうか。


4河東天満宮神木  [境内神社と境外摂社]

 ・神殿の右(東側)横(古墳の前)に祭祀されている神社等に、上記「地主の神」(古墳の神と思われる)や、「須賀神社」(素戔嗚命)、「貴船神社」(高龗神)、不詳石碑等がある。

 ・拝殿の左(前面に御神木あり)に、「地神」(古墳の神と思われる)、石祠一社がある。(※画像)



 ・前述河東天満宮(3)の「大日堂(大日如来像)」の並び(薬師石仏を挟んで)に、石祠◆∪倔、石祠の三社がある。(※画像)
 …上記石祠´↓い了夕劼、福岡県神社誌に「境内神社」として掲載してある次の各社(祭神名は小生記入)と思われるが、詳細不詳。

5河東天満宮薬師石仏や石祠等 …秋葉神社(火伏せの神秋葉大権現)。
 豊日神社(饒速日命)。
 巖島神社(市杵島姫神=宗像三女神の一)。
 貴船神社(高龗神)〜上記とは別の貴船神社一社であるが、これは、「久戸(クド)貴船社」を遷したものかもしれないと考えているが不詳。


 ・境外摂社〜野口の大神宮(現河東太神宮/天照国照彦火明櫛玉饒速日命)。

 ※つづく→「河東天満宮(7)〜裏参道(宗像市)」。

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2018年07月10日

河東天満宮(5)〜由緒考(宗像市)

前回「河東天満宮(4)〜社殿再建、本福鳥居再建(宗像市)」からつづく。


1−河東天満宮由緒碑  ・先ず、河東天満宮境内脇参道入口(車道参道)に建っている「河東天満宮御由緒碑」に刻してある由緒記をここに転記した後、この由緒記に基づく小生の感想を、今回と次回の2回に分けて述べることにする。
(※画像)



 [河東天満宮御由緒碑](由緒記)

 ・「河東天満宮御由緒碑 明治5年11月3日村社被定 祭神天満大自在天神菅原神 天満大自在天神は菅原道真公を祭祀し御神徳は高く御神格は文道の租神として広く崇められている。特に学問書道の守護神としての崇敬は大きく神学受験等の合格祈願等には霊験があるとされている。また天神さまとして広く親しく崇敬されている。
 河東天満宮の創建時期は不詳であるが、古老の伝聞によると、菅公が大宰府え配流の折に時化に遭い立ち寄って舟を繋いだ自然石があったことから天神信仰の先人が勧請したものと云われている。貝原篤信が元禄元年(1688)頃の資料にこの神社の鎮座を記しているので、その以前に創建されている。
 神殿の裏山には、5~6世紀頃の古墳があり「地主の神」として奉祀されている。また神殿の東側には、須賀神社と貴船神社がある。
 拝殿内には多くの絵馬、境内には多くの石造物が寄進され、古くからこの地の住人達が崇敬してきている。
 宮司 永島俊一 識 平成16年6月吉日建立 平成大造營建設委員会」。


 [天満宮の鎮座時期]

 ・手持ちの筑前國續風土記には、河東天満宮についての記載がないので、貝原篤信(益軒)の「元禄元年(1688)頃の資料」が何かは分からないものの、河東天満宮がそれ以前に鎮座したのは確かなのだろう。
 ただ、この資料だけしかないのであれば、その鎮座は江戸時代に入ってからだったと言えなくもない。

 ・前述した境内所在の大日如来像が、もし中世のもので、神宮寺の存在を示すものであったとしたら中世鎮座とも考えられなくもない。
 だが、それも単に鎮座以前にその前身となるべき仏堂があったことを示しているのかもしれず、やはり、河東天満宮の鎮座時期は不詳である。

 ・前身というと、境内神社に物部神を祭祀する「須賀神社」や「豊日神社」などが鎮座していることも気になるところで、これらが5~6世紀頃の古墳の主を祀る神社として、天満宮に先立ち鎮座していたとも考えられる。
いずれにしろ、当社が古墳の神を御神体としていることは間違いなさそうだ。


 [菅公の舟つなぎ石伝承]

 ・「菅公が太宰府配流の折に時化(しけ)に遭い、当地にあった自然石に舟をつないだ」との伝承については、別記「生家天満宮と天神杭(船つなぎ石)福津市」を思い出すが、無下にはできない。

 ・ただ、河東天満宮のこの菅公伝承から推して、御神体となってもおかしくない「舟つなぎ石」(舟をつないだ自然石)が残っていないのが残念である。

 ・菅公を乗せ玄界灘を博多港に向けて航行していた船が、どうしてわざわざ釣川を遡ったのかという疑問はあるが、時化を避けて江口から釣川に入ったとしてもおかしくはない。
 現在、河東天満宮の直下を並行貫流している釣川水系の山田川釣川本流は、当時、この辺りで合流していたとして、川幅が広く水深のあった釣川を当地まで遡ることは造作なかったと考えられる。

 ・以前、当地から東方一里先にある「松崎の天満神社」(宗像市陵厳寺1-2-5)の地は、かつて川幅の広かった釣川の右岸に接していたと想像して、菅公が船をつけた所だったかもしれないと記したことがあったが、それは、この河東天満宮の時化伝承をもとにしたものであった。

 ・なお、釣川をさらに上流に遡ると、権現山の山裾に永延2年(988)7月第4代宗像大宮司氏能(うじよし)建立の「平山天満宮」(宗像市吉留)があり、宗像地方ではかなり古くから菅原天神(天満)信仰があったようだ。


 [史料]

 「河東村 天満宮 ツジ 神殿方五尺・拝殿二間三間・祭禮九月十日 石鳥居一基・奉祀田嶋村命婦 産神なり。菅神を祭れり。鎮座の年歴詳ならす。社内に貴船社・藥師石佛あり。〇大神宮ノグチ。」(筑前國續風土記附録)
 「河東村 天満宮 辻山に在。産神也。勧請の年歴不詳。祭礼九月十日田嶋村の命婦奉祀す。社内に貴船社祇園社藥師石仏あり。〇大神宮 野口に在。宮山坪数千坪程除地也。」(筑前國續風土記拾遺)

 ※つづく→「河東天満宮(6)〜古墳と境内神社(宗像市)」。

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2018年07月09日

河東天満宮(4)〜社殿再建、本福鳥居再建 (宗像市)

前回「河東天満宮(3)〜大日如来、薬師石仏、辻山(宗像市)」からつづく。

 [平成大造營]

 ・「河東天満宮社殿」(宗像市河東1538)の右後方(※小生は「脇参道」と呼称)に建つ「平成大造營碑」によると次のことが分かる。

1河東天満宮本殿・水舎 ・現在の社殿(拝殿・渡殿・神殿)は、河東区、福崎区の氏子総集会の決定により、平成14年(2002)5月に設置された「平成大造營建設委員会」による再建計画(菅原神1100年神忌記念)により、平成15年(2003)7月11日起工、平成16年(2004)7月6日落成(再建)した。
(※画像1:拝殿前)


 ・当地に天満宮(天満大自在天神菅原神)が勧請されたのは、元禄元年(1688)以前にまでは遡れるらしいが、現社殿建築前に、老朽化激しく解体撤去された旧社殿は、文政13年(1830)再建のものだったらしい。

 ・なお、河東区、福崎区の氏子らが「河東福崎天満宮(本福天満宮)」と称し、代々守り続けて来た前社殿の文化遺産的価値を考えると、この再建は苦渋の選択でもあったことが伺える。

1-2河東天満宮平成大造営・平成大造營総工費は、社殿再建費1,867万円を含め3,931万円だったというが、社殿再建と合わせて、(寄進を含め)水舎、水盤、石燈籠、石狛犬、敷石の建設や、境内環境の整備も行われ、現代のような日当たりの良い明るい境内環境ができあがったようだ。


2河東天満宮古墳と脇参道 ・特に社殿の右後方(古墳の横)から「平成2年(1990)再建本福鳥居」を経て車道参道(福崎側入口)に到る「脇参道」(※小生の呼称)の整備は見事で、ここには敷石や細石が敷かれ「平成大造營碑」のほか「平和凱旋記念碑」「新旧・石燈籠」や「新・石狛犬」「新・水盤」等も並んでいる。(※画像)



3河東天満宮碑・裏口 ・また、車道に面して「大石燈籠」「河東天満宮表示碑」「河東天満宮御由緒碑」石段(22段)、植樹もある(※画像)。

 ・車道には、前述した無料駐車場、「河東天満宮トイレ棟」もあり、この福崎区側となる境内入口の方が表口かと見違える。

 ※なお、小生は、後述する福崎集落(石鳥居あり)から上って来て、途中から車道参道を上り、福崎側入口に到る参道を「裏参道」と称しているので、この入口から社殿に到る境内道を「脇参道」と呼称している。


 [本福鳥居再建]

4河東天満宮裏口 ・福崎側入口(脇参道)の石段の上に建っている上記「平成2年(1990)再建本福鳥居」(左柱裏面に「平成弍庚牛歳四月建之」の刻あり)には、「天満宮」と記した額束が上がっているが、右柱裏面には「本福氏子」の刻があり、地元では「本福鳥居」と呼んでいる。(※画像)



 ・また、表参道石段上の2本の石鳥居のうち、上の段のものも、同時に作られた再建本福鳥居である。

 ・社殿の左手前にある「本福鳥居再建碑」によると次のようなことが分かる。
 河東本村は、菅公(菅原道真)が、太宰府配流の途次、立ち寄り船掛けしたところで、後に福崎の山上に天満宮(天満大自在天神菅原神)を勧請(年月不詳)したとの由緒が記されているので、地元では、当社のことを長らく「本福天満宮(河東福崎天満宮)」と称し、当社の鳥居は「本福鳥居」と呼称され続けて来たのだろう。

 ・この「」は旧河東本村(現河東区)の「」、「」は旧福崎村(旧河東村の枝村/現河東地区内の福崎区)の「」のことである。
 つまり、官公が船掛けしたのは「河東本村」を貫流する釣川か山田川の岸で、後にその北側にある「福崎の山上」(当地/辻山の東峰)天満宮を勧請し、当社を河東本村と福崎村の氏神としたことから、「本福天満宮(河東福崎天満宮)」「本福鳥居」等の呼称が生まれたのだろう。

 ・現「本福鳥居」の再建により撤去された2本の旧鳥居について次の記述がある。
  (〆蠡δ撒(宝暦9年11月建立)、倒壊して久しい。
  河東側鳥居(安永7年4月建立)、倒壊寸前だった。
 ・社殿の左後方に「旧鳥居の額束2枚」が置いてあるが、これらは、同上旧鳥居のものかもしれない。

 ・なお、平成2年4月に、この本福鳥居を再建したのは、同年秋に「大嘗祭」(平成天皇が即位後初めて行う一世一度の新嘗祭)が行われることを記念してのことだったようだ。その平成天皇も今や30年、既に譲位を宣言されており、本福鳥居は次の時代に引き継がれていく。

※つづく→「河東天満宮(5)〜由緒考(宗像市)」。

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